「腐女子」の”やおい”の世界というのは、リアルゲイにとっては、現実離れした妄想のように思えることがあります。(最近、ハードでリアルなゲイの実態を描く傾向もあるようですが・・・)
しかし、一見すると「同性愛/ゲイ」という存在を差別なく受け入れているようでありながら、ストレート的な恋愛至上主義(男役、女役の明確な役割)が支配していて、潜在的なホモフォビアを感じさせることもあるのです。
「女性」は、部外者(絶対に当事者にも恋愛対象にはならない)という条件下での、メンタルな恋愛遊びということなのかもしれませんが・・・どこか自己否定だったり、自虐的なモノを感じたりもします。
ただ、ボク自身は、腐女子的な妄想は10代の頃から萩尾望都、竹宮恵子、山岸凉子らの漫画で免疫があるということもあってか、比較的すんなりと理解出来るところはあるのです。
最近、増殖中(?)のような気がするのが・・・「ホモ談義が大好物の中年おじさん」=「腐中年」(町山氏ご本人のツイッターからの引用)という存在です。
あえて、お名前を挙げさせてもらえば・・・町山智浩、水道橋博士、みうらじゅん、宇多丸、松尾スズキ、といったあたりでしょうか?(何故か、サブカル系のおじさんに多い)
「あいつになら、俺ケツ貸せるぜ!」とか・・・「ケツだけは勘弁してください!」とか・・・それは嬉しそうに言っている姿が目に浮かびます。
誰も「腐中年」のケツを掘りたいとか思ってもいないので、単なる”思い過ごし”でしか言いようがないのですが・・・まるでイケてない童貞少年が初体験に過大な夢を抱くように、未知なる「同性愛」の世界を妄想して、心ときめいているかのようです。
「アナルセックス」が、ゲイセックスのすべてのように思ってしまっているのは、リアルゲイからするとちょっと見当違いで・・・セックスに「入れる」「入れられる」という発想しかないのは、おそらく彼ら自身のセックス(女性との)が、「挿入」に尽きる!からなのかもしれません。
「腐中年」と、1990年代にニューヨークで話題になった「メトロセクシャル」(ストレートの女性を理解するために、あえてゲイ男性と交流を深めるストレート男性)は、根本的に違うように思います。
メトロセクシャルの男性の目的は、あくまでも「女性」をゲットすることであり、ストレート女性との仲介役としてゲイ男性をある意味利用しているに過ぎません。
アメリカほど「マッチョ文化」の浸透していない日本では、ストレート女性の興味のあることを、ゲイ男性からからわざわざストレートの男性が学ぶ必要もないのですから・・・。
今という時代は・・・硬派な男同士の絆というのは成り立ちにくくなっているような気がします。
セクハラ、ストーカー、DVに対しての社会の問題意識も高まったこともあって、日本では特に「女らしさ」や「男らしさ」の概念も大きく変化しています。
女性を「セックスの対象」としてしか見ない男同士の意気投合は、下手をするとセクハラ男の集団にしか思われなかったりするので、「ホモ談義」に盛り上がる方が社会的にも安心な男のアピールというところもあるのでしょうか?
そういっったホモソーシャル的とも言える「男同士の絆」を取り戻すために「ホモ談義をして萌える」というのは、非常に妙な気もしますが・・・それこそが「本物の男同士の絆」=「ホモ童貞同士の絆」ということかもしれません。
したまちコメディ映画祭の前夜祭として行われた「映画秘宝まつり」での水道橋博士の「水野晴郎ホモ疑惑」研究発表が「ゲイ差別か?」みたいな受け取られ方をして、賛否両論だったようです。
(水道橋博士の大量のRTで知りました・・・律儀というか、博士もマメであります)
本来のイベントは「KICK ASS/キック・アス」のジャパンプレミアだったのですが・・・「ASS/お尻」繋がりというシャレで、水野晴郎先生とぼんちゃんの「ホモ疑惑研究」の発表として、水道橋博士編集のVTR「FUCK ASS/ファック・アス」を上映して、町山智浩氏とのトークを繰り広げたわけであります。
「FUCK ASS/ファック・アス」は、浅草キッドがネタとして、水野晴郎とぼんちゃんの「ホモ疑惑」を検証をする、いくつかのテレビ番組(未公開のCS番組を含む)を編集したVTRでした。
「水野晴郎ホモ疑惑」のネタ元は浅草キッド(水道橋博士本人)だった・・・というプチ自慢(?)のようなオチだったのですが、博士自身は疑惑に関しての結論として「白」(水野晴郎先生とぼんちゃんはゲイでない)と思っているともツイッターでは発言していて・・・結局のところ水野晴郎ホモ疑惑というのは、博士の「ねつ造」だったということが「どんでん返し」でしたというのは、なんとも拍子抜け・・・。
事前に宣伝されていたような、水道橋博士による12年間に及ぶ水野晴郎とぼんちゃんの「愛の軌跡」の研究発表というような内容では全然ありませんでした。
水道橋博士のVTRからゲイへの差別というのは感じませんでしたが、いつのも博士らしい爽快な視点というわけでもなく・・・カミングアウトを「自白させる」かの如く追求する姿勢に、多少の不感感を感じずにはいられませんでした。
今回の博士の研究発表を、他のことに例えてみるとすると・・・
「カツラ疑惑」のある有名人に対して、執拗に疑惑を検証していくという感じでしょうか?
本人が「ハゲじゃない!」って言い張っているにも関わらず、実はハゲである・・・ということ前提で笑いものにしています(おそらく事実、ハゲではあるのですが・・・)
なんとか「ハゲ」だとバレないように言い訳しているのを、さらに笑いものにして・・・「弁解は許さないぞ〜白状しろ!」ってなもんです。
「爆笑!」というよりは「苦笑い」・・・どこか痛々しくもあり、ハゲの人にとっては不快感も感じることがあるかもしれません。
マジ怒らせてしまうかもしれない・・・でも「もっとやれ!やれ!」と、煽いたくなってしまうのは「電波少年」的なノリに近いでしょうか?
勿論、水道橋博士の「ハゲでも良いじゃん!」という100%愛情表現であることは十分に承知ですが・・・「ハゲ」をカミングアウトしたくない人を、しつこく疑惑を追求しているのに、それほどユーモアは感じらるわけではありません。
お笑い芸人が、自分の劣等感やコンプレックス自ら「笑い」に変えたり、「キャラ」にするというのは、ひとつの営業手段ではあり・・・するか、しないかは、本人の問題です。
理由はどうであれ、本人がカミングアウトしたくないことを、ネタにして「笑いもの」にしてしまうのは、やり方(見せ方)次第では、一種の”イジメ”のように感じてしまいます。
まぁ・・・いろんな人のボタンを押して茶化すのが、浅草キッド=水道橋博士の芸風であり、真骨頂なのかもしれませんが・・・。
かたや町山さんは、アメリカ生活が長いというのもあり「個人の意思」「立場の違う人の意向」をリスペクトするグローバルな対応が身に付いているようで、苦笑いをしながら水道橋博士にツッコミを入れるという感じでした。
同性愛者(ゲイ)に限らず、マイノリティーの当事者というのは、そのマイノリティー以外の人たちが持っているステレオタイプに対して反発する傾向というのはありがちのようで、当事者である自分自身に当てはまらないステレオタイプは、何が何でも受け入れないということがよくあります。
しかし、マイノリティーの中にも多様性があるのは当然のこと・・・逆に、ステレオタイプに当てはまらないことの方が多いかもしれません。
「センスが良い」「毒舌で頭がキレる」「女性の気持ちも分かる」・・・にまったく当てはまらないゲイの方が、実際には多く存在していたりします。
「腐女子」や「腐中年」が美化(妄想?)するゲイの世界が本当に存在するなら素晴らしいのかもしれませんが・・・残念ながら現実は、それほどではないのです。
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