2014/01/31

オーストリア不快映画の次なる刺客(!)ウルリヒ・ザイドル監督による「パラダイス」三部作/その1・・・主人公の自己矛盾を冷ややかに見つめる残酷な視点がエグいの!~「パラダイス:愛/Paradise : Love」~



突然、幸せな家族を襲う理不尽な犯罪を描いた「ファニーゲーム」を始め「ピアニスト」「白いリボン」など代表作の”不快映画”の巨匠(?)ミヒャエル・ハネケ監督、少年を監禁し性的虐待をする男の日常を描いた「ミヒャエル」のマルクス・シュラインツァー監督、娼婦の過酷な環境と信仰を追ったドキュメンタリー映画「Whores' Glory」などで知られるミヒャエル・グラウガー監督など・・・どういうわけかオーストリアには、淡々とした描写でありながら何とも言い表せない”不快感”を醸し出す映画作家が幾人もいるのですが、ウルリヒ・ザイドル監督も”そのひとり”であります。

ウルリヒ・ザイドル監督は1980年代からドキュメンタリー映像作家として活躍、2001年「ドッグ・デイズ」で劇映画デビュー、2007年「インポート/エクスポート」に続いて発表されたのが、本作「パラダイス:三部作」です。「ドッグ・デイズ」「インポート/エクスポート」では、淡々とした脈略もなさそうな描写の積み重ねで、複数の登場人物が平行に進行していく中、次第に物語を紡いでいくという構成でしたが、「パラダイス:三部作」は、ひとりの主人公を追っていくという構成となっています。カンヌ映画祭(パラダイス:愛)、ヴェネチア映画祭(パラダイス:神)、ベルリン映画祭(パラダイス:希望)に出品された「パラダイス:三部作」は、ウルリヒ・ザイドル監督の集大成といえるような作品で、淡々とした描写、広角レンズの固定カメラによるシンメトリーな構図などの”ザイドル調”は相変わらずで、3人の女性が”パラダイス”を求めて裏切られていく姿を描く”三部作”なっているのです。


第1作目の「パラダイス:愛/Paradise : Love」は、中年女性テレサがバケーションで訪れたパラダイスのようなケニアで、現地の男性たちに”愛”を求めながらも、自尊心を失っていくさまを残酷に追った物語。第2作目の「パラダイス:神/Paradise : God」は、第1作目の主人公であるテレサの姉・アンナが信仰によって築いた虚構のパラダイスが、下半身不随の夫と再び同居し始めることで崩れていき、懺悔の鞭が”神”への反逆となる滑稽な物語。第3作目の「パラダイス:希望/Paradise : Hope」は、テレサの娘・メラニーが肥満児を集めたダイエットのためのサマーキャンプで、ロリコンのおじさん指導員に恋をするも、冷たくフラれて”希望”を失うという切ない物語。どれも、主人の女性たちの生々しい欲望が”自己矛盾”や”自己崩壊”を招いていくという”皮肉”を感じさせる”不快映画”であります。特に、第1作目の「パラダイス:愛」から痛感させられた”虚無感”は、ボクの心を深く突き刺したのです。

テレサ(マルガレーテ・ティゼル)は、ダウン症の患者たちのケアをする仕事をしているらしい50歳(ゲゲゲ、同い年!)のシングルマザー・・・ティーンエージャーの娘・メラニーを姉のアンナに預けて、ケニアのビーチリゾートに長期のバケーションに旅立ちます。リゾートに滞在している女友達(インゲ・マックス)は「肌がココナッツの香り」「アソコがでっかい」と、現地の若い男性にメロメロ・・・ただ、バイクを買い与えるなど貢ぎながらも、彼らをバカにしているところもあるのです。現地の男性たちも、彼女のように男漁りに訪れている中年女性を”シュガー・ママ”と侮蔑的に呼んでいるという”どっちもどっち”利用し合う関係。金にモノを言わせて自分の性的な欲望を満たすというのは、日本人のオジサン達がやってきた東南アジアへの買春ツアーと同じこと・・・貨幣価値の格差によって自分の国では誰にも見向きもされない50代の太ったオバサンでも若い男性にチヤホヤされてカラダを求められるのですから、ある意味「パラダイス」なのです。それに・・・アフリカ系の男性には豊満な女性(ブヨブヨのデブの白人女性でも)に性的な魅力を感じる嗜好も、利害関係を作りやすくしているという”皮肉”かもしれません。

テレサがビーチを歩けば、大勢の若い男性が近寄ってきます。彼らの目的はアクセサリーや土産物を買ってもらうだけでなく、彼女に”シュガー・ママ”になってもらうこと・・・最初は断り続けていたテレサも、アクセサリーの売り子のガブリエル(ガブリエル・ムワルーア)の褒め言葉に根気負けしてしまいます。ダンスを教えてもらったり、現地の人しか知らない場所を案内してもらっているうちに親しくなり、早々にレンタルルーム(ラブホテルのようなところ)にしけこむことになるのです。しかし、テレサはセックスの途中で逃げ出してしまいます。年上の太った自分のような白人女性とセックスをしようなんて、貢いでもらうのが目的であることは明らか・・・「愛情のないセックスはしたくない」とテレサは自分のプライドを守るのです。ただ・・・これって、性的欲望に素直になれない自分への”いいわけ”と言えるかもしれません。守るべき”プライド”が、逆に物事の本質を見失わせてしまうこともあるのですから・・・。

リゾート仲間の女友達に、外見ではなく内面を知って愛して欲しいと語るテレサ・・・確かに「恋愛の正論」ではあり、女性として望むシチュエーションであるのですが、現実的に考えてテレサのような太ったオバサンの内面を知ろうとする男性というのは・・・(悲しいことですが)ほぼ”アリエナイ”存在です。自己認識をしないで「恋愛の正論」を求めてしまう・・・これこそが”矛盾”であり、結果的に”崩壊”へと繋がっていく根本的な原因。悲劇的な結果は自業自得としか言えないのであります。そんなテレサの前に現れたのが、強引な誘いをしてこない、ちょっとシャイなムンガ(ピーター・カズンク)という若者・・・”シュガー・ママ”を求めている男たちとムンガは違って、性的なサービスで金をせびることもなく、他人の目を気にせずに街中で手繋ぎデートをして、テレサはムンガに徐々に心を許していくのです。そして、「やる」ためのレンタルルームではなく、彼はテレサを自宅へと招くのあります。

「愛は永遠」と語る純粋なムンガは、女性を扱い方もよく分かっていない様子・・・テレサは、ここぞとばかりにラブメーキングの手ほどきをかってでます。「オバサンだから」という不安は、自分がリードするという優越感で埋め合わされていようです。あっという間に、テレサはムンガの若いカラダに夢中にあってしまいます。眠っている彼のカラダの匂いを嗅いでみたり、股間の写真を撮影してみたり・・・テレサにとっては自分がイニシアティブを持てるムンガは、理想の相手なのかもしれません。誰が見ても不釣り合いな二人の関係ですが・・・愛に飢える先進国(テレサ)と、金を求める後進国(ムンガ)の利害関係の如く、微妙なバランスで成立してしまうように見えます。

ここからネタバレを含みます。


しかし、現実はそんなに甘くはありません。ムンガはテレサを、彼の妹が住んでいるという家に連れて行きます。妹の赤ん坊は病気で治療代が必要なんだと訴えるムンガに、テレサは大金を手渡すしかありません。また、彼のいとこが教えている小学校に連れて行かれ、ここでも子供たちのためという名目で、残りの現金を手渡す羽目になってしまいます。”シュガー・ママ”として金を貢いでいるのではなく、あくまでも人助けなんだと思い込もうとするテレサですが・・・次第にムンガはテレサに対して冷たい態度を取るようになるのです。そして、そのうち連絡しても、ムンガとは会えなくなってしまいます。妹の家に行ってみても、金をせびられた上に、現地の言葉で罵倒されるような始末・・・「ムンガに騙されている」とガブリエルから忠告されても、テレサはムンガを信じることをやめられません。騙されていたことを認めるのは、信じていた自分を覆さなければならないこと・・・しかし、ムンガと妹と名乗っていた女性と赤ん坊が、仲睦まじく海辺で散歩している姿を見て、テレサは気付かされます。妹というのは実は彼の妻で、赤ん坊は彼らの子供だと。ムンガを罵倒して殴るしか、怒りを発散する手段しかありません。

これで、テレサが「もう現地の男は懲り懲り」となれば、映画は終わってしまうのですが・・・ひとり傷心でビーチを歩くテレサの前に、再び現地の若い男が現れます。逆立ちしてみたりしてアピールする姿に、目を細めてしまうテレサ・・・愛を信じて裏切られた彼女は、もう”愛”という幻想は求めていません。現地の男が彼女に何を求めて近寄って来ているかなんて承知のこと・・・「愛している」とか「美しい」とか”まやかしのような言葉”よりも、肉体的に満たされたい自分の欲望を認めることで、テレサは解放されたのです。「何人の白人女とやったの?」と尋ねる自虐的な行為は、もう騙されないという防御壁・・・”心”が傷つかないように自分を守れば守るほど、本当の「愛」からは離れてしまうという矛盾。それでも、ますます肉欲を求めてしまうのは、どうしようもない”淋しさ”故になのかもしれません。テレサの行動に身につまされる人は、決して少なくないと思います。

ケニアとの経済格差により自国(オーストリア)よりも安く若い男と遊べる・・・ということもありますが、自分(ヨーッロッパ白人)とは違う人種であることで、買春行為の後ろめたさも、性的に相手を支配しようとするエゴも感じなくて済むのです。テレサの誕生日には、女友達が現地の男性ストリッパーをプレゼントに用意しています。ストリッパーが彼女達を見ても反応しないことに苛立ち、裸になって必死に誘惑を試みる女友達・・・いつしか、そのなかに加わっていくテレサは、すでに躊躇する自意識さえも失っていっているのです。遂には、ホテルのバーテンダーを自分の部屋に連れ込むテレサ・・・現地の男に金を渡せば(肉体的には)彼女の思い通りになるという”侮蔑意識”が根底にはあります。テレサの言われたままシャワーを浴びるバーテンダーですが、正直嫌々連れ込まれたという感じ・・・「白人の女性にキスしたいでしょ?」「胸触りたいでしょ?」とテレサに誘導的されても、”シュガー・ママ”をビーチで探すような男とは違って、彼はどこにでもいる普通の純粋なケニア人の男性なのです。

ベットにドーンと仰向けで横たわったまま「足先にキスして!」と命令(!)するテレサに従うバーテンダー・・・「もっと上、もっと上」と指図しながら、テレサは自分でドレスをめくって下半身を露出して股間にキスをさせようとするのですが、彼から拒否されてしまいます。テレサの求めていたのは「する」だけの性的なサービスではなかったはずなのに、いつしか、欲望と行為が、すり替わってしまっていたのです。自己矛盾に直面したテレサはひとり嗚咽して涙を流すしかありません。ただ・・・翌朝になれば、ビーチには彼女のような”シュガー・ママ”を探している若いケニア人男性が、沢山待っているのです。

肉体だけの欲望を求め裏切られても、再び、求めて引きずり込まれてしまう・・・蟻地獄のような”パラダイス”なのかもしれません。ふと、考えてみると・・・テレサの痛々しさを上から目線で見下ろしているつもりでいて、いつしか自分自身とテレサを重ね合わせているボクがいるのです。


「パラダイス:愛」
原題/Paradise : Love
2012年/オーストリア
監督、脚本、製作:ウルリヒ・ザイドル
出演      :マルガレーテ・ティゼル、インゲ・マックス、ピーター・カズンク、ガブリエル・ムワルーア、カルロス・ムクターノ、マリア・ホフシュテッター、メラニー・レンツ

2013年10月25日第26回東京国際映画祭にて上映
2014年2月22日より日本劇場公開



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2014/01/22

ハリウッドでは”黒人迫害映画”が目白押しなの!・・・過酷な歴史と理不尽な差別を受ける現実を共感できないと政治的に正しくない?~「大統領の執事の涙/The Butler」「フルートベール駅で/Fruitvale Station」~




「それでも夜は明ける/12 Years a Slave」が、第71回ゴールデングローブ賞ドラマ部門の映画作品賞を受賞しました。ブラット・ピットがプロデューサートして名を連ねるこの作品は、南北戦争後(19世紀半ば)北部で自由黒人として暮らしていた男性が、奴隷として12年間も南部の農場で生きなければならなかったという伝記を原作とした映画・・・イギリス生まれの黒人監督スティーブ・マックィーンによる本作は、ゴールデングローブの監督賞を受賞し、アカデミー賞でも作品賞を初め、監督賞、主演男優賞、助演男優賞でも有力候補です。


ハリウッド映画では、(特に白人の黒人に対する)人種差別/人権迫害を描くことは長年避けられていたところがありましたが(例外として「マンディンゴ」や「ルーツ」ぐらい)・・・ここ数年、黒人迫害を描いた映画が数多く製作されています。過酷な運命に立ち向かっていく姿は、普遍的な感動のヒューマンドラマとして、人種を超えて強く訴えるところがあるのかもしれません。黒人家政婦たちが経験した厳しい現実を描いた「ザ・ヘルプ~心がつなぐストーリー~」、黒人初メジャーリーガーとなったジャッキー・ロビンソンの強い差別との戦いを描いた「42~世界を変えた男~」、クエンティン・タランティーノ監督の(歴史的事実には基づかない!)過剰演出による黒人の白人への復讐劇「ジャンゴ 繋がるざる者」など、意識の高いリベラルな白人の映画人にとってつくられた”黒人迫害映画”というのは・・・”政治的に正しい自らの”姿勢を公に訴えているかのようです。



「大統領の執事の涙/The Butler」は、1920年代からアメリカ初の黒人大統領が誕生するまでの現代までを描くという”エピックドラマ”・・・アメリカ現代史および黒人人権運動の歴史と歴代アメリカ大統領の知識がないと、次々と描かれる歴史的な背景を理解することは難しいかもしれません。ヒューマンドラマの”ぬるま湯”な描写に留まらず、悲惨な迫害を容赦なく描いているのは、本作の監督であるリー・ダニエルズ自身が黒人であることも無関係ではないと思えるところもあります。

1920年代にアメリカ南部のコットンプランテーションで生まれたセシル・ゲインズ(フォレスト・ウィスカー)・・・すでに奴隷制度はなくなっていた20世紀でありながら、過酷な労働と白人オーナーへの絶対服従をさせられています。セシルの母(マライア・キャリー)はオーナーの息子に乱暴に手篭めにされているのですが、それに対して一瞬不満な態度した父は、あっけなく射殺されてしまうのです。人種差別者ではありながらも、セシルを不憫に感じたオーナーの妻(ヴァネッサ・レッドグレーヴ)は、セシルを「ハウス・ニガー」=「家の中で働く黒人使用人」として給仕の仕事を教え込みます。その後ホテルのボーイとして働くようになったセシルは、ホワイトハウスの執事として抜擢されることになるのです。

ここからネタバレを含みます。


アイゼンハワー(ロビン・ウィリアムス)、ケネディ、ジョンソン、ニクソン(ジョン・キューザック)、フォード、カーター、レーガンまで7人の大統領の元、時代の裏舞台を傍観しつつ”執事”として仕えます。葛藤しながらも自我を出すことなく仕えるセシルを、妻グロリア(オプラ・ウィンフリー)は理解し支え続けるのですが、長男ルイス(デヴィット・オイェロウォ)は反抗的・・・白人に仕える父を恥と感じています。白人社会に従順に従うことで中産階級の生活を手に入れた父親、黒人としての誇りを持ち黒人人権運動へ身を投じていく息子の対比が交互に描かれるのは、なんとも皮肉に満ちています。

当時は、まだ公共の場所(レストラン、公衆トイレ、水飲み場、バス席など)は「人種隔離」されていて白人用(White)、黒人用(Coloerd)に分かれていました。ルイスら、若い黒人学生たちは、白人用のバス席やレストラン席に座るという抗議をするのですが、それに対する風当たりはとんでもないもので・・・顔につばを吐かれ、汚い言葉で侮辱されるという迫害の様子を、本作では真っ向から描いていきます。ボクの母は、この時代(1950年代半ば)にアメリカ留学をしていたのですが、このような肌の色による”区別”を当然する社会に衝撃をを受けながらも・・・白人用、黒人用のどちらを自分が使うべきか迷った挙げ句、清潔な白人用を使ったそうです。

レーガン政権時代、ナンシー・レーガン(ジェーン・フォンダ)は、セシルとグロリアをホワイトハウスのディナーに”ゲスト”として招待するのですが、セシルには、自分たち夫婦が”見世物”として招待されたことなど百も承知です。ただ、これこそ差別意識の変化の賜物・・・大統領夫人にとって黒人執事の夫婦をディナーに招待することが、政治的に正しいことになったのですから、意識が進歩したことは確かです。ただ、それがほんの数十年前(1980年代)であったということは、やはり驚くべきことかもしれません。セシルがホワイトハウスの執事の職を辞した後、人権活動家となったルイスの元を訪れてプロテストに参加するところは、親子の和解というだけでなく・・・生まれてからずっと白人社会に押し付けられてきた「黒人」という立場から、セシルが解き放たれたことのような気がしました。アメリカで「黒人」という存在でいることは、精神的にも社会的にも複雑なことであるかということに気付かされたのです。

オバマ大統領が黒人初の大統領として当選後、ホワイトハウスでセシルが大統領と面会するところで本作は終わります。黒人の大統領が誕生したということは、人種隔離の時代から50年で信じ難いほどの社会の進歩なのかも違いありません。アメリカ黒人が歩まされた厳しく長い道のりを考えると重い意味を持つエンディングで思わず胸が締め付けられますが・・・全体的に感傷的なところもあり、やや”黒人観客向け”に偏り過ぎた印象を感じます。オプラ・ウィンフリー(アメリカで最も影響力のあるテレビタレント)など大物黒人セレブたちに加えて、ロビン・ウィリアムス、ジョン・キューザック、ジェーン・フォンダと、リベラルで知られる白人の大御所までも勢揃いした本作でありましたが・・・アカデミー賞の有力候補という前評判が盛り上がっていたにも関わらず、ゴールデングローブ賞もアカデミー賞もノミネート落選になってしまいました。確かにアメリカの歴史を語る上で大切な物語ではありますが、黒人の受けた迫害と人権運動の葛藤というのは、まだまだ普遍的なアメリカの物語としては受け入れられていないということかもしれません。


「フルートベール駅で/Fruitvale Station」は、。警察の人種差別的なプロファイリングにより、射殺された黒人青年のオスカー・グラントの最後の1日(2008年12月31日)を描く、実際に起こった事件を元にした作品です。

このような(特に黒人に対する)警察による暴行、殺害は、アメリカでは驚くほど頻繁に起こっています。ボクがアメリカに住んでいた1990年にも、警察による黒人男性(ロドニー・キング)への不当な暴行事件があり、その報復として”ロスアンゼルス暴動”が起こりました。遠く離れたニューヨークでも暴動を恐れて、戒厳令が出されて外出禁止となったことを覚えています。その後も、似たような事件は繰り返し起こっていることからも「黒人=犯罪者」というプロファイリングは、今でも当然のように行なわれているのです。実際の事件に居合わせた人がスマホで撮影した動画から、本作「フルートベール駅で」は始まることからも分かるように、本作は警察を告発する強い意志によって制作された映画だと言えるでしょう。

ガールフレンド(メロニー・ディアス)と4歳の娘と暮らすオスカー(マイケル・B・ジョーダン)の人生最後の日となった2008年12月31日を、黒人青年として普通の1日として追っていきます。ちょうど1年前、彼は麻薬取引で逮捕されていて、歯母親(オクタヴィア・スペンサー)の訪問を受けています。相変わらず白人男の挑発にのって喧嘩を始める息子を尻目に、母親は胸を締め付けらる思いで、あえて強い言葉で叱咤するのです。家族のためにも地に足をつけてやり直そうとスーパーで働き始めたのですが、遅刻を理由にクビになってしまっていたのです。それでも、元の職場で困っている買い物客がいると、丁寧に手助けをするオスカーでしたが・・・仕事を取り戻すことはできませんでした。再びお金のために麻薬取引の誘惑に負けそうになりますが、改めて真面目に生きることを決心します。仕事を失ったことを正直にガールフレンドに話したところ、最初は彼を責めていた彼女ですが、最後にはオスカーを優しく理解するのです。大晦日はオスカーの母親の誕生日でもあり、家族揃って祝います。ニューイヤーの花火を見に友人達と出掛けるというオスカーに、母親は飲酒運転を心配して地下鉄で行くように諭すのです。

ここからネタバレを含みます。


地下鉄が途中で止まってしまったために、カウントダウンの花火は見逃してしまったオスカー達は、再び地下鉄で帰路に向かいます。そこで、偶然がいくつも重なって悲劇が起こるのです。混雑した地下鉄の中でガールフレンドと分かれて、どこか座れる席がないか離れるオスカーに、スーパーで手助けした買い物客が声をかけます。その呼びかけに反応したのは、1年前に刑務所でオスカーに喧嘩をふっかけてきた白人男・・・喧嘩騒ぎになってしまったために、その直後に停車した「フルートベール駅」で、警察官たちがやってきてしまいます。すぐさま、オスカーと彼の友人らを捕らえる警察官・・・それは、明らかに人種差別的なプロファイリングによるものです。口答えするオスカーに警察官は両手を後ろに回して手錠まで掛けて逮捕すると脅します。それでも、無実を訴え続けて抵抗するオスカーに、警官のひとりが背中から銃を撃ってしまうのです・・・。その後、病院に運ばれますが、オスカーは亡くなってしまいます。そして、彼を撃った警官は殺人罪で逮捕されるものの、判決よりもずっと短い刑期で出てきてしまったのです。

どう考えても理不尽な事件であり、納得のいかない結末であります。ただ、オスカーは、黒人コミュニティーでは”普通”の黒人青年なのかもしれませんが、ボク自身を含め、黒人コミュニティー外で生きている人にとって、共感しやすい自分に近い人物かというわけではありません。確かにオスカーは家族思いでチャーミングに描かれています。しかし、10代で父親になるも結婚せず、麻薬取引で逮捕歴があり、遅刻で仕事をクビなるほどだらしない・・・という人物ではあるのです。もし、地下鉄でオスカーと彼の友人らのグループと同じ車両に乗り合わせたら、ニューヨーク在住時代のボクは多少身構えていたことでしょう。もしくは、別な車両に移動していたかもしれません。これは、明らかに人種や服装によるステレオタイプのプロファイリングです。見た目が”イカツイ”黒人男性だからといって、強盗ではないことぐらい頭では分かっています。ただ、海外で生活する多くの人は、自己防衛のため無意識に行なってしまっていることでもあります。

「普通の青年が遭遇した警察官の差別行為」という制作者側の訴えを、ボクは手放しで受け入れられず・・・口では「人種差別なんてしない」と言いながら、人種によるプロファイリングを無意識にしてしまっているであろう自分って「政治的には正しくないのでは?」という思いに、居心地の悪さを感じてしまうのです。

追伸:「アフリカ系アメリカ人」というのが政治的には正しいとは思いますが・・・「白人」という言い回しが差別に当たらないというダブルスタンードを踏まえて「黒人」という表現に統一しました。


「大統領の執事の涙」
原題/The Butler
2013年/アメリカ
監督 : リー・ダニエルズ
出演 : フォレスト・ウィスカー、オプラ・ウィンフリー、ジョン・キューザック、ジェーン・フォンダ、マライア・キャリー、キューバ・グッディング・Jr、レニー・クラビッツ、ヴァネッサ・レッドグレーヴ、ロビン・ウィリアムス

2014年2月15日より日本劇場公開

「フルートベール駅で」
原題/Fruitvale Station
2013年/アメリカ
監督 : ライアン・クーグラー
制作 : フォレスト・ウィスカー
出演 : マイケル・B・ジョーダン、オクタヴィア・スペンサー、メロニー・ディアス、アーナ・オレイリー、ケヴィン・デュラド、チャド・マイケル・マーレイ、ジョーンズ・ケイン

2014年3月21日より日本劇場公開



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2014/01/13

半世紀ぶりに大島渚監督の幻のドキュメンタリーがテレビ放映・・・自虐的な差別意識が悲痛すぎる”元日本軍在日韓国人”という存在~NNNドキュメント'14「反骨のドキュメンタリスト 大島渚『忘れられた皇軍』という衝撃」~



銀座線が渋谷駅から出てくる高架下あたり・・・今では副都心線の入り口になっている一角に、1970年頃まで白いキモノを着た”傷痍軍人”さんが、募金を集めていたことを覚えているのは、ボク(1963年生まれ)の世代よりも上の人でしょう。

火傷を負っていたり、片腕がなかったり、片足だけだったり、両眼を失っていたり、なんらかの身体的な障害を持っていた人が多く・・・中には両足がなく台車に乗り地べたを這うように移動している人もいて、ボクにはトラウマの光景となっています。母は「気の毒だから見ちゃダメよ」と、同情的とも排除的とも受け取れる言葉をなげかけながら、幼かったボクの目を手のひらで覆ったものです。当時の日本人のどれだけの人が、彼らが元日本軍として戦った韓国人であったことを知っていたかは分かりませんが、戦争が終わって年月が経つにつれて、経済成長を始めた都会の風景に彼らの姿は似つかわしくない”目障りな存在”になっていきました。

大島渚監督に関しての文献を読んだことのある人であるならば「忘れれた皇軍」というドキュメンタリー作品のことは知っているかもしれません。しかし1963年に放映されて以来、特別な上映会以外では一般公開されたこともないし、ビデオやDVDなどのメディア化もされていないので、大島渚監督の作品の中でも観ることが難しい作品のひとつであったのです。松竹を解雇された大島渚監督は「天草四郎時貞」の後、個人プロダクションで「悦楽」を撮るまでの数年間、映画界から干されてしまった不遇の時代がありましたが、その間も精力的にテレビドラマやテレビドキュメンタリーを撮り続けていました。”ドキュメンタリー・韓国三部作”第1作目の「忘れられた皇軍」は、その後の大島渚監督にとってのテーマのひとつとなる”在日韓国人”を扱った重要な作品なのです。

大島渚監督が亡くなられてから、まもなく1年・・・ほぼ半世紀ぶりに「忘れられた皇軍」が、日本テレビにて放映されました。韓国の反日感情はますます強くなり、日本のナショナリズムが再び強まっている印象のある今・・・「日本人たちよ、これで良いのだろうか?」という問いは、常に反政府的な立場で怒りを訴え続けてきた大島渚監督らしく「加害者としての日本」を突きつけてきます。東日本大震災からの復興と、二度目の東京オリンピック開催を控えている日本は、本作が制作された時代背景と重なることがあるかもしれません。東京オリンピック開催を翌年に控えていた1963年・・・まだまだ安保闘争の政治的な活動が盛んでした。今は「反原発」「秘密保護法」などのデモ活動が頻繁に行なわれるように、国民の声と政府の路線が離れ始めているような気がするのです。「日本人たちよ、これで良いのだろうか?」と再び問われるような時勢に、「忘れれた皇軍」を再放映する意味を感じます。

わずか25分ほどの本編に記録されている映像は、衝撃的であり不快の連続です。渋谷駅ハチ公前と思われる街頭で、日本軍として戦った在日韓国人の傷痍軍人らが集まり、日本からも韓国からも、何も補償を与えられていないことを訴えます。しかし、彼らの声に足を止める日本人は多くはありません。日本政府や韓国領事館に陳情しても、それぞれの国が彼らの責任を押し付け合って、救済の糸口さえ見出せないのです。当時、日本は第二次世界大戦から、韓国は朝鮮戦争からの復興を目指していた時代・・・二つの戦争の狭間に取り残されたような彼らの存在は、どちらの国にとっても”厄介者”だったのかもしれません。

街頭演説の後、なけなしの財布をはたいて仲間たちと宴会を始めるのですが・・・いつものように口論となってしまいます。何故、彼らが喧嘩を始めたのかは、はっきりと聞き取れないのですが、カメラは一人の男をクローズアップにしていきます。彼は片手がなく、顔は火傷でただれ、歯も殆ど抜け落ち、両目の眼球もないという凄まじい形相の人物・・・本作では主役としてとらえられています。彼の眼球のない目から涙が流れる様までを、周到に撮影し続けるのです。このシーンは「忘れられた皇軍」の”語りぐさ”のようになっていて、おそらく多くの人の記憶に残るシーンであると思うのですが・・・・ボクは、この直後のシーンに最も衝撃を受けました。

宴会の後、彼は自宅に帰ります。彼には東京空襲で失明した日本人妻がいて、その妻の妹が目の見えない二人の面倒をみているというのです。彼ら夫婦の間に「昭和27年に女の子、昭和29年に男の子が生まれた」とナレーションでは語られるのですが、本作撮影当時10歳前後であろうはずの子供たちの姿はありません。街頭募金でしか生活費を稼ぐことのできない在日韓国人夫と全盲の日本人妻・・・彼らが無事に子供を育てられたのか疑問です。単に子供たちにはカメラを向けなかっただけなのかもしれませんが・・・「生後すぐに施設に預けたのかも、、亡くなってしまったのかも、何も分かりません。自分が生まれた時代に、これほど悲惨な家族が存在していたことに、頭がクラクラするほどボクはショックを受けてしまったのです。

多くの日本人にとっては無関係のように思える元日本軍在日韓国人の問題・・・大島渚監督が訴えるように「日本政府がすべて補償すべきだった」とはボクは思いませんが、韓国政府(韓国国民)と日本政府(日本国民)が、このような問題から目をそらしてしまった”ツケ”が、戦後50年~60年以上経って回ってきたような気もするのです。本作に出てきた人とは別人ですが・・・1992年に、元日本軍の在日韓国人二人が、日本からの補償年金を求めて裁判の申し立てをしたそうです。そして1994年に、彼らの訴えは棄却されて、結局、何も受け取ることはでなかったそうです。ただ、彼らの母国である韓国政府も、傷ついた自国民を日本に押し付け続けたのではないか・・・と感じてしまうところもあります。

本作について、大島渚監督の後日談を読んだことがあるのですが・・・公で語ることができないほど、もっとドス黒いものがあったそうです。ただ、撮影中に監督が彼らから、しばしば聞いた言葉というのが、ボクには本作の映像以上に心に突き刺さり忘れることができません。

「補償がもらえたら、こんな仲間と二度と会うもんか!」

最も悲惨な差別というのは、差別されている者同士がお互いを嫌悪して、差別し合うことではないでしょうか?そういう自虐的な差別は、自分に対しての「底なしの劣等感」と、他者に対しての「とめどない敵対意識」を生み出して、虚言癖や被害妄想など精神を腐らせてしまうように思えるのです。

「忘れられた皇軍」
1963年/日本
監督/脚本 : 大島渚
語り手   : 小松方正
1963年8月16日「ドキュメント劇場」にて放映
2014年1月13日「NNNドキュメント'14」にて放映

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2014/01/07

【悲報】ダリル・ハンナのさらなる劣化!・・・・・作品の質も”堕ち”てしまった元(?)ハリウッドスター女優の「どうでもいい映画」~「マザー/Mother(Social Nightmare)」~



1980年代に活躍したハリウッド若手女優の多くは、今では”脇役”かB級作品(またはテレビ映画)でしか、その姿を見ることもなくなってしまったことも少なくありません。

青春映画に出演した”ブラット・パック/Brat Pack”と呼ばれた若手ハリウッド俳優の中でも、最も成功したデミ・ムーア(1962年生まれ)・・・最近では、アシュトン.カッチャーとの離婚トラブルの報道での、痛々しく劣化した姿しか記憶にありません。”不思議ちゃん”系のウィノナ・ライダー(1971年生まれ)は、万引き騒動以来奇行ばかり報道されていましたが、久々の話題作「ブラック・スワン」では、嫉妬深い年増の元プリマドンナ役という、落ちぶれたキャリアとシンクロしてしまう脇役でありました。ただ、痛いネタでもゴシップ誌を騒がすのは”ハリウッドスター”という証拠・・・完全に表舞台から姿を消してしまったり、脇役どころか”ちょい役”のオバチャンでしか見かけなくなったり、ハリウッドスターであったことさえも忘れられるよりは”マシ”なのかもしれません。

1980年代に登場した女優の中でも、ダリル・ハンナ(1960年生まれ)は、ボクにとって印象強いひとりです。1984年に公開された「スプラッシュ」で演じた人魚役は、モデル体型でブロンドという圧倒的な美人女優でありながら、天然系の可愛らしい彼女の当り役・・・また「シラノ・ド・ベルジュラック」をベースにした1987年公開の「愛しのロクサーヌ」での、厭味のない美しさが際立っていました。J・F・ケネディ・ジュニアと結婚を1990年代初めに噂されていたけれど、母親のジャクリーン・オナシス・ケネディに猛反対されて(ケネディ元大統領が浮き名を流したマリリン・モンローを思い起こさせるブロンドが嫌だったとか)ゴールインすることはありませんでした。その後、彼女のキャリアも下降線・・・テレビ映画やB級作品ばかりになってしまいました。ただ、2003年公開のクエンティン・タランティーノ監督作品「キル・ビル Vol.1」でのエル・ドライバー役で第一線に復活(?)・・・ただ、微妙な老け具合には、少なからずショックを受けたものでした。シーシェパードの支援などの環境活動家としても知られていて、元ハリウッドスターにありがちな変な方向に向かってしまっている気もしてしまいます。

ここからネタバレを含ます。


先日アメリカのアマゾンでDVDを物色していた際に、久々にダリル・ハンナ主演作品を発見(?)したのですが、作品の質の低さは笑い話にならないほどの酷さでありました。元々、テレビ映画として製作された作品で、オリジナルのタイトルは「Social Nightmare/ソーシャル・ナイトメア」・・・何故か、DVD/Blu-layリリース時のタイトルは「Mother/マザー」と変更されています。「自分の子供を守るためにぶち切れる母親役?」などとサイコホラーを期待したら、そこまで吹っ切れておらず・・・マニアが好きそうな”ギミック”も、驚愕の”どんでん返し”もないという中途半端な作品でした。テレビ放映の宣伝ポスターは、いかにも”ティーン向け”テレビ映画という印象ですが、DVDリリースの宣伝ポスターでは恐ろしい形相のダリル・ハンナのドアップになっています。販売側の判断で、まだまだネームバリュー”だけ”はあるダリル・ハンナをメイン(主演?)として宣伝したかったのかもしれませんが・・・「マザー」というタイトルとポスターから安易に推測できるとおりのストレートなオチなのだから、ネタバレ確実の変更なのであります。


スーザン(ダリル・ハンナ)は郊外の高級住宅地に暮らすシングルマザー(特に仕事をしていないようなのに、お金持ちそう!)。娘のキャサリン(クリスティン・プラウト)は、奨学金で大学への進学を考えている成績優秀な女子高校生・・・友人も多く楽しい学校生活を送っていたのですが、最近インターネットでキャサリンの友人らの悪口や秘密が暴露されるということが起こり始めます。「誰かにハッキングされた」と訴えるキャサリンですが、周辺の友人たちは彼女を責めるのです。キャサリンと同じ大学の奨学金を希望している親友の女友達(クロエ・ブリッジス)、黒人のボーイフレンド(ブランドン・スミス)、ゲイを隠してきた仲の良かった男友達・・・すべての友人の信用を失いつつも、キャサリンを信じて支え続けるのは母親のスーザンだけであります。しかし考えてみれば、自宅のパソコンにアクセス出来るのは一緒に暮らす母親のスーザンしかいないわけで、第三者を疑う方が不自然だと思うのですが・・・当事者のキャサリンは、プロのハッカーを雇って犯人を見つけようとしたり、疑惑を周辺に向けることで、ますます孤立していってしまうのであります。


キャサリンの行きたい大学に進学するためには家を出るしかありません。しかし、母親のスーザンはキャサリンが地元で進学することを望んでいます。娘が家から離れてしまうことを阻止するために、母親のスーザンがインターネットの書き込みや投稿をしていたことが判明するのですが・・・母親の娘に対する異常な独占欲というものをキチンと描いていないので、モチベーションのネタばらしとしては説得力がありません。母親スーザンが犯人だと分かったキャサリンの元を訪ねてきた親友の女の友達に襲いかかる母親スーザン・・・こっからが修羅場と思ったら、気が抜けるほどあっさり警察がやってきて逮捕されてしまいます。もっとぶっ飛んだサイコな展開であったならば、もっとダリル・ハンナが往年のベティ・デイヴィスのような捨て身の怪演をしていたなら・・・「母親と娘の確執もの」として、ボクのような偏った嗜好のファンには受けたかもしれません。インパクトがあったのはDVDリリースの宣伝ポスターだけで、マニアックに面白がるようなギミックも一切なく「おキャンプ映画」にさえなりきれていない・・・本当に「どうでもいい映画」でありました。


ボトックス注射のやり過ぎなのか、ヒアルロン酸注入し過ぎなのか、アンチエージング整形手術を繰り返した女性にありがちな妙に腫れぼったい顔と唇(!)のダリル・ハンナの”お顔”のインパクトだけは「大」・・・それも30年前に「スプラッシュ」でデビューした頃と変わらないヘアスタイルとイメージのままというところが、”劣化”度合いをさらに強調させてしまっているのです。女性も年齢と共に髪の毛が細く薄くなってしまうのに、何故かロングヘアの女性はヘアスタイルを変えません・・・ボリューム感の乏しいロングヘアほど、老化を感じさせてしまうのに!ある意味、体型が崩れて、ただの中年おばさんになってしまった方が、若いときの美貌とあっさり決別できたりするのかもしれません。そこそこの体型維持してしまうと、若作りが痛々しい年齢になっているのにも関わらず、いつまでも全盛期のイメージにしがみついてしまうようで(ハリウッド女優に限ったことではありませんが)・・・ハリウッド男優は「頭が禿げてもセクシー」「デブになっても主役」「若い女優さんと恋愛映画」であることを考えると、性差による差別は年齢を重ねるに連れて増していくということなのかもしれません。


「マザー」
原題/Mother
放映時タイトル/Social Nightmare
2013年/アメリカ
監督 : マーク・クォッド
出演 : ダリル・ハンナ、クリスティン・プラウト、クロエ・ブリッジス、ブランドン・スミス
日本劇場未公開


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