2009/11/30

「15分間の有名人」でさえなく「15秒のすれ違い」

1968年、アンディ・ウォーホルは「未来には、誰でも15分間は世界的な有名人になれるだろう」と予言のような言葉を残しています。

それは「テレビ時代」を見据えての発言だったのですが、その後の「インターネットの時代」までは、さすがのウォーホルさえも予見出来なかったのかもしれません。


テレビというメディアは、ウォーホルが語ったとおりに、いろんな人に15分間の名声を与えましたところはあるでしょう。

特にアメリカにはテレビ局自体の数が多くて、ケーブルテレビのパブリックアクセスまですると、テレビによってちょっとの間だけ有名になる人というのは、まさに星の数ほどいるのです。

それは素人出演の番組であったり、世の中を騒がすスキャンダルや事件だったりしたかもしれません。

ホームビデオの登場は、テレビに映る自分の姿ということ自体の意味も薄くしたかもしれませんが、ビデオ投稿で構成される番組というものもあるくらいですから・・・テレビに出演するという感覚の敷居を低くもしたでしょう。

ただ、放映されるテレビ番組に出ることは、仲間内やご近所の範囲に限ってであっても、様々なメディアが存在する現在でも15分ぐらいの名声は与えてくれるのかもしれません・・・。


インタ-ネットというメディアはテレビ放映のように一瞬にして消えてなくなるわけではないけどれど、個人のホームページやブログ、またはYouTubeの動画投稿などを、人が見るのは15分もないよう思います。

検索エンジンに引っ掛かったキーワードに導かれたり、どこかのリンクから訪れてくたとしても、誰かのパソコンの画面に目を走らせる時間なんて、もしかするとせいぜい15秒程度なのかもしれません。

個人的に知り合いでもなければ、その15秒さえも閲覧することなしに、他のコンテンツやバックボタンを押しているかもしれないのです。

「Twitter」など自分のつぶやきを瞬時に伝えられる手段が出てくると15秒どころか、1.5秒ぐらいしか耳を傾けてもらえていないのかもしれません。

そこまで細切れのコミュニケーションばかりが溢れていくことは、すでに個人の表現でも何かの主張でもなく、単に誰かと繋がっている・・・という、人間の根源的な「つるむ」という行為に戻っていっているだけのような気さえします。

誰からか分からなくても、誰からの何らか、すれ違うような僅かな反応を求めて・・・。


芸能人でもない、何かのカリスマでもない、ネットビジネスをやっているわけでもない、そんな人間がブログを書いたり、ホームページを公開したりする意味って・・・すれ違うような、ほんの僅かな瞬間をつくっているだけに過ぎないように感じてしまうのです。


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2009/11/26

みんな大好き「世界崩壊」・・・今回はハリウッド仕上げの全部入り!~「2012」~

アメリカとほぼ同時公開となった「2012」は、日本でも興業成績のトップに躍り出たそうですが、世界のどこに住んでいても「世界崩壊」は、みんな大好きなようです。
ローランド・エメリッヒ監督にとっては「インデペンデンス・デイ」「デイ・アフター・トゥモロー」に続く、三度目の「世界崩壊」になりますが、これが決定版ということでしょう。
太陽からのニュートリノが過剰に降り注ぐことで地殻異変が起こって大陸プレートが動き出す・・・という設定の今回は、大地震、火山大爆発、大型船転覆、大津波、大吹雪、大陸移動と、今回のは、まさに「全部入り」の豪華なてんこ盛りです。

「ノストラダムスの大予言」世代の僕らにとっては、お馴染の「世界崩壊」ではありますが、今回は「マヤ歴の予言」を持ち出してきたところが、”目新しい(?)”切り口なのかもしれません。
また、このマヤ歴の「2012」という数字に便乗して、人類は宇宙人の遺伝子から誕生したとか、選ばれた者は5次元へのテレポーション(アセンション)するなど・・・「ノストラダムス」以上に突拍子もないカルトな論理を繰り広げる人達も出てきています。
当った占いや予言は記憶に残るけれど、ハズれた占いや予言は忘れていく人間は、太古から自然の脅威に恐れて「世界崩壊」の不安を持ちながら、反省して過ちを繰り返し、これからも行き続けていくのでしょう。

映画「2012」は、とにもかくにも「世界崩壊」の大宴会状態なわけでありますが・・・政府高官や大金持ちが「ノアの箱船」によって自分たちだけ生き残ろうとする「エゴの愚かさ」と、一般市民(ジョン・キューザック演じる)がカタストロフィーの危機のなかで家族の絆が取り戻されていく「家族愛の素晴らしさ」という、ハリウッドお得意の定番要素が分かり易く盛り込まれています。
また、巨大空母が津波に流されてホワイトハウスを潰すというアメリカ国家の弱体化を皮肉りながら、ノアの箱船を制作しているのが「あの国だったのか〜!」という納得のサプライズ(?)も用意されているのです。
予告編で繰り返し放映されている地盤崩壊から逃げるシーンは、昔のジェームス・ボンド(007)の映画以上に、あり得ないコンマ1秒のタイミングで困難に次ぐ困難をものの見事に逃げきります。
これほど人類史上最も運の良い(?)主人公ですから、勿論、生き残ってハッピーエンドを迎えることになるわけですが・・・箱船を氷河との大衝突から救ったにも関わらず、特にヒーローとして描かれているわけでもありません。
人間ドラマを複雑に組み込みながらも、たいして誰も印象に残らない・・・「世界崩壊」こそが、この映画のテーマであり、真の主人公であるようです。

映画が終って冷静に振り返ってにみると、トンデモなくご都合主義のストーリーの映画ということに愕然します。
しかし、紋切り型の感動を盛り込みながら、お約束の世界崩壊は全部入れて、2時間半以上の長尺を飽きることなくアドレナリン出しっ放しで楽しましてくれるのは、さすがの「ハリウッド仕上げ」と言えるでしょう!


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2009/11/24

何故アメリカンヴォーグ誌は「スタイル」で君臨し続けるのか~「ファッションが教えてくれること」~


アメリカンヴォーグ誌の編集長のアナ・ウィンターを追ったドキュメンタリー映画「ファッションが教えてくれること」の日本語題名というのは、ちょっと的を外していているような気がします。
原題の「The September Issue」というのは・・・アメリカンヴォーグ誌が秋冬ファッション(春夏より重要なシーズンとされる)のトレンドを伝える一年で最も重要な「9月号」という意味です。
毎年のように「前年より増ページ!」というのが「9月号」の目標というのは、なんともアメリカ的な尺度ではないでしょうか・・・?
ページ数が増えるということは、簡単に言えば「広告ページ」が増えるということで、ずばりアメリカンヴォーグ誌を所有しているConde Nast社にとっての増益ということなのです。
年々電話帳並に分厚くなっていくアメリカンヴォーグ誌の9月号というのは、アメリカ出版界の季節の風物のようになりつつのかもしれません。

アメリカの主要ファッション誌の編集長やディレクター/エディターの多数がイギリス出身のアングロサクソン系の女性という事実は、アメリカのファッションに於いて大英帝国の名残のヒエラルキーが生き残っていることを、否応なしに感じさせられます。
アメリカンヴォーグ誌の編集長のアナ・ウィンター女史も勿論イギリス人ですし、伝統的にアメリカ人のアシスタントにしてもWASP系のお金持ちのお嬢さんが雇われやすい環境という噂です。
(勿論、近年は人種的に例外もありますが・・・あくまでもアシスタントレベルではあるようです)
映画の中でのインタビューで認めているように、アナ自身の強みは冷酷なまでの編集者としての「決断力」であり、ファッションセンスに突出しているというわけではありません。
エディトリアルの誌面は、アナと同時期にアメリカンヴォーグ編集部に加わったグレイス・コディトンというウェールズ出身の元モデルのファンションディレクターによって”創造”されているのです。
グレイスは、時代の空気を感じてテーマを決め、服をモデルという被写体に着せて、スタイルに合ったカメラマンに撮影させていくのですが、彼女独自の世界を構築していきます。
それは、画家が絵の具で、彫刻家が石で作品を制作するように、ファッションをミディアムに「スタイル」という”ナマモノ”のファンタジーを表現をしているかのようです。
グレイスが具現化する誌面には、日本のファッション誌のような商品の「カタログ」化でもなければ、商品をマクロに捉えた「テイスト」感とは次元の違う、ファッションに対しての「夢」と「リスペクト」を感じさせます。
「テイスト」や「カタログ」でファッション誌を構成する日本という国は、まだ文化としてのファッションに関しては”極東の島国”でしかないと認識させられる思いがしました。

アメリカンヴォーグ誌が強大な影響力を維持し続ける秘訣は、アナの編集者としての先見の目と素早い決断力だけでなく、グレイスのファッションに対する愛情と想像力によるものだったのです。
この映画の中では常にコンフリクト(衝突)を繰り返す二人の女性ですが、アメリカンヴォーグ誌は両極端な個性を認め合うことによって生み出されていたことが、エンドロールのインタビューで明らかになります。
アナとグレイスの二人の成熟した緊張感のある人間関係にこそ「教えてくれること」があるのかもしれません。


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2009/11/21

「老眼ゲーマー」に朗報!大型化されて大画面になったNintendo DSi LLが発売!


任天堂がゲームボーイを開発していた数十年前に、誰が「老眼ゲーマー」を想定していたでしょう?

最近売り上げを伸ばしているソニーのPSP対策として、任天堂が今日(11月21日)から発売する「Nintendo DSi LL」は、既存の携帯ゲーム機を大型化するというゲーム機史上初(?)の”英断”であります。

プレイステーションのような据置ゲーム機にしても新型は小型化することが当たり前、携帯ゲーム機なら尚更小型化を目指すのが今までの常識でした。

ただ、ゲームボーイアドバンス機の最後のモデルはの「ゲームボーイアドバンスマクロ」は、ゲームプレイ可能な極限まで画面も本体も小型化しましたが、それほど売れなかったようです。

そんな失敗から、任天堂は学んだのかもしれません。


僕自身は「Nintendo DS」は初期モデルから、すべて発売日に購入しているというほど愛用しています。

ただ、ここ1年ほどは老眼がすすんで3.2インチの画面では、細かい文字が読めないというストレスが段々とは感じてくるようになっていました。

物語や設定を理解して遊びたいロールプレイングゲームは、正直もうキツイ・・・と投げ出してしまうことしばしばだったりします。

また、電車の移動中にプレイしたくなるDSなのですが、新聞を顔から遠ざけて読むように、ゲーム機を持った手を顔の前にズンと突っ張ってゲームをしている姿というのも・・・「老眼にまでなって、そんなにゲームしたいの?」と、冷たい目で見られるような気がしてしまうので、なんとも恥ずかしいのです。


さて「Nintendo DSi LL」の実機を手にした感想ですが、僕のような体の大きな人にはまったく違和感のないサイズといえるでしょう。

ふたつの大画面はかなりの迫力だし、スピーカーの位置が少し離れたことで、同じゲームをしていても絵と音の臨場感はなかなか良いです。

老眼のせいで今まで見えていなかった、ゲームのディテールまでよ〜く見えるので、よりゲームが楽しめる気がします。

今後はDSゲームはすべて「Nintendo DSi LL」で遊ぶことになりそうです。

唯一の気に入らないところは、カバー上部のフィニッシュが高級感を出すためか、ツルツル仕上げになっているので、指紋が付きやすいということぐらいでしょうか・・・。

全般的に「老眼ゲーマー」となった僕には大満足のDS本体ラインナップ拡大でした。


新機種発売後にありがちな、プレミア価格販売やオークションでの価格高騰もしていないようなので、任天堂の十分な供給と、意外に低い消費者の需要(?)というのが功を博しているのかもしれません。

欲しければ店頭ですぐ買えるという状況のようです・・・欲しい人はお店へ。


註:画像は歴代4台のNintendo DS。上段左から「DS」「DS Lite」下段左から「DSi」「DSi LL」



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2009/11/20

「空気感」よりも濃密な「呼吸感」を感じさせる静止画~Desiree Dolron~

25年ほど昔、アートスクールでペインティングなんて勉強していたものだから、芸術として写真をリスペクトできない時期がありました。

当時は「アーティストは自分の手で何かを創造することである!」と思い込んでいたので「すでに存在している被写体」を撮影するだけの写真は、ファインアート(絵画、彫刻はどの純粋芸術)の格下だと決めつけていたのでした。

写真の「記録」と「表現」という、ふたつの軸をクリエティブな作業として興味深く感じるようになったのは、自ら写真を撮るようになってからかもしれません。


デーシレー・ドルロン(Desiree Dolron)は「芸術写真」を発表するアムステルダムの写真家です。

残念ながら、彼女の実物の写真作品は見たことはありません。

しかし、彼女の作品集からだけでも、彼女の写真作品の持つ「密度」を感じられるほど完成されています。

ひとつのテーマを時間をかけて取り組むという姿勢のために、1991年から現在まで4つのシリーズしか発表していません。

「撮影」「デジタル加工」「紙の選択」「写真印刷」という行程の”クラフト”にこだわるために作品数が少ないようです。


1991年から1999年に制作された「EXALATION」は宗教と死の関係性を捉えたセピアの写真のシリーズには、宗教儀式に恍惚となっている猟奇的な時間が凝縮されています。

1996年から1998年に製作された「GAZE」はガーゼを透かしたようなソフトフォーカスの写真シリーズで、夢のような恍惚感に包まれています。

2002年から2003年に製作された「TE DI TODOS MIS SUENOS」は、キューバの社会主義のユートピアと実生活を対比させた政治的な写真シリーズですが、流れを止めてしまったような時間を感じさせます。

彼女の最高傑作と思われるのは、2001年から2005年に制作された「XTERIOS」でしょう。

中世絵画のような構図に特徴があり、ハーマンズホイの絵のような静かな空間とフェルメールのような光を思い起こさせます。


写真では「空気感」と言いますが、デーシレー・ドルロンの写真は見る者が息を止めてしまうほどの濃密な空気と時間を表現しています。

それは被写体の「呼吸感」を感じられるほどです。




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2009/11/19

アメリカ上流階級セレブの成れの果て・・・大竹しのぶ怪演ミュージカル!~グレイ・ガーデンズ/シアタークリエ~


元ケネディ大統領夫人、ジャクリーン・ケネディ・オナシスの姪と伯母にあたるイーディス・ブーヴィエ・ビールとリトル・エディ母娘の、イーストハンプトン(ニューヨーク郊外の高級避暑地)での生活を追ったドキュメンタリー映画「グレイ・ガーデンズ」が公開されたのは1975年のことでした。

上流階級の夫人でありながらショービジネスに憧れた結果、妻の座を追われたイーディスと、その娘リトル・エディは「グレイ・ガーデンズ」と呼ばれた大邸宅に信託基金を切り崩しながら、閉じられたふたりの世界で生きていたのです。
バサバサの髪をしていても、ボロ布をスカートとして身に付けていても、上流階級独特のアクセント、詩的な言い回し、上品な身振りを備えた母娘から、ハイソサエティの気品が滲み出ていたことは奇妙な感銘を与えました。
また「過去と現在」「現実と幻想」を揺れ動く母娘の意識は、狂気というよりも落ちぶれても上流階級らしさを持ち続ける強ささえ感じさせました。

ゲイの間で「グレイ・ガーデンズ」はカルトフィルムとしてたいへん人気があり、カリスマ的な人気を博したブーヴィエ母娘(特にリトル・エディ)でしたが、ジャクリーンの一族の汚名を消そうとする努力もあり1990年代には忘れられた存在になっていきました。
ジャクリーン死後、2006年にブロードウェイミュージカルとして甦ったことをきっかけに、ドキュメンタリー映画の再編集版が公開されたり、ヴォーグ誌などでリトル・エディの着こなしを真似たボロルックを特集したり、HBOゲーブルテレビでドラマ化されたり・・・と、アメリカでは以前にも増して脚光を浴びることになったのです。

アメリカのようなブーヴィエ母娘の知名度がまったくない日本で、ミュージカル「グレイ・ガーデンズ」が日本人キャストで上演されることに最初驚きましたが、主演が大竹しのぶと知って見逃せない舞台であると確信しました。
舞台では1940年代の豊かな生活を一幕目で、その後の1970年代に落ちぶれた姿を二幕目で描きます。
日本人が演じるというバタ臭いミュージカル独特の不自然さに、開演数十分は戸惑いは感じましたが、段々と慣れました。
大竹しのぶは一幕目で母、二幕目では娘という難しい二役を怪演していたのですが、庶民的な雰囲気を払拭することは出来ず、ビーヴィエ母娘の”気品”を感じさせるには至っていなかった気がします。
二幕目で母を演じた草笛光子は、ボロボロの衣装とヘアでも”気品”を感じさせていたのは、さすがでした。

ミュージカル版は変わり者の母と母に依存し続ける娘との葛藤の物語として、分かり易く描き過ぎている印象はありましたが、実際に本人たちの言った言葉の引用がちりばめられていて、オリジナルのドキュメンタリー映画をこよなく愛する僕にとっても満足の出来のミュージカルでした。

シアタークリエ/2009年11月7日~12月6日
「グレイ・ガーデンズ」宮本亜門演出、大竹しのぶ、草笛光子出演

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2009/11/17

「巨人のドシン」のWii版リメイクって、でないの?



任天堂には「スーパーマリオブラザース」に代表されるマリオシリーズを始め、ゼルダシリーズ、どうぶつの森シリーズなどゲーム機の世代を越えて、リメイクされ続けるゲームがあります。

スーパーファミコンとニンテンドーWiiの狭間の任天堂停滞期に、”ニンテンドー64”と”ゲームキューブ”で発売された「巨人のドシン」は、僕がやり込んだ数少ないゲームのひとつです。

ただ残念なことに、Wii版のリメイクの企画はいまだに発表されておらず、このまま世の中の記憶から消えてしまうのではないかと悲しく思っています。


「アクアノートの日」「太陽のしっぽ」のゲームクリエーター(飯田和敏氏)によって制作された自由度の高いゲームのひとつで、”巨人のドシン”となって南国に暮らす住民のために、土地を上げたり下げたり、災害の被害を最低限に抑えたり、木を移動させたり住民を運んだりを繰り返しながら、モニュメントを完成させるというのが一応の目的のゲームです。

住民から感謝されるともらえる”ハート”を集めると、巨人は大きく成長して移動速度や出来ることが増えます。

住民を踏み殺してしまったり、住民の嫌がることをすると”ドクロ”が出てくるのですが、これを集めることでも巨人が成長出来るというのが、このゲームのミソです。

神となるか、悪魔となるかは、プレイヤー次第というわけなのですから・・・。


最初に発売された「巨人のドシン1」は、ニンテンドー64本体以上に普及しなかった「ニンテンドー64DD」専用だったことが、第一の不幸でした。

「巨人のドシン解放戦線チビッコチッコ大集合」という拡張ディスクも発売されるのですが、自由度を縛るプレイ感が数少ないファンに不評だったことが第二の不幸になりました。

この拡張ディスクは超レアゲームになっていますが、流通本数が極端に少なかった(数百本程度らしい)ことが原因のようです。

現在では、64DD本体自体もプレミア化してしまったので、64DD版の「巨人のドシン1」を遊ぶことさえも、殆ど不可能な状況になっています。

その後、満を持してゲームキューブ版「巨人のドシン」が発表されるのですが、期待されたほどのヒットにもなりませんでした。

メディアがROMカセットから光ディスクになったことで、読み込みや動作が遅くなってしまったこと、ゲーム容量が少なかったためにフィールドが狭くなったことなど、ある意味ゲーム的に後退してしまったことが第三の不幸になりました。

幸(安く買えて遊べる)か、不幸(不人気なソフトの汚名)か、ゲームキューブ版「巨人のドシン」は、中古ゲームショップで投げ売りされているソフトのひとつになってしまっています。


ふたつのプラットホームで成功しなかったゲームタイトルを、改めてWiiでリメイクというのは、厳しいのかもしれません。

ただ、Wiiのコントローラならば画面上のポインタを合わせるのも容易なので、土地の上げ下げや、木や住民の選択などが、とても直感的に出来そうです。

ゲームとしての操作感も読み込み速度も向上させた”決定打”となりえるWii版「巨人のドシン」の発売を拙に願っています。



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2009/11/13

少年時代の友情は打算的で、犬は心の内を見破っている~「犬はいつも足元にいて」/大森兄弟著~


「犬」タイトル小説好きの僕としては思わず手に取らずにいられなかった「犬はいつも足元にいて」は、大森兄弟というふたりの実兄弟による共作というのが話題にもなっています。

テレビの取材の様子を観たかぎり、30代の兄弟にしては(気持ち悪いほど?)仲が良くて、愛し合っている草食系な兄弟でした。

家庭的にもとても幸せに育ったという話をしていましたが、彼らのデビュー作は僕を冷ややかな気持ちにさせました。


主人公の中1の少年の両親は離婚していて、離婚したこと自体も母親から説明がないほど崩壊している家庭環境にあります。

学校には”サダ”という友人はいるのですが、その繋がりは給食時間に一人になりたくないという理由でしかありません。

お互いをひとりきりにしないために学校を休むことはありませんが、支え合う友情ではなく、お互いを束縛しているだけです。

少年期の友情には、どこか打算的な理由があったのかもしれない・・・という苦いような記憶が頭に浮かびました。


サダが朝の犬の散歩にまで現れるようになって、それを疎ましく感じる少年の気持ちを読み取ったように、犬がサダの足に噛みつく事件が起こります。

自分の飼い犬が怪我をさせたという負い目を煽って、友情で優位に立とうと計るサダの、自傷行為は少年期の屈折なのかもしれません。

また、サダの脅迫を利用して別れて暮らす父親から大金をくすねたり、母親を意図的に傷つける言葉を発したりする、少年の悪意にも歯止めが効かなくなっていきます。

しかし、最後にはサダとの打算の友情しか、主人公の居場所はなかったのかもしれません。


主人公の少年が犬の散歩で立ち寄る公園の穴から出てくる腐った肉片が、繰り返し象徴的に出現するのですが・・・それは、犬の臭覚でしか嗅ぎ分けられない人の心の内なのでしょうか?

”犬はいつも足元にいて”本質を見破っているようです。



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2009/11/11

「感性のリトマス試験紙」は、いつの間にか手元から減っていました

「はやり」「すたり」というモノは、どっぷりと”その世界”に浸っているよりも、多少は距離をおいた方が、冷静に判断出来るのではないかと思っていました。

しかし、ことファッションに関しては、その世界に日々身を置いていないと、「はやり」を見失ってしまったり、「はやり」自体に興味がなくなってしまったりするようです。

「はやり」の情報を集めるとか、「はやり」を買い物をするだけではなく・・・「はやり」「すたり」に身を委ねて、善し悪しに関わらず変化に一喜一憂することでしか「感性のリトマス紙」の手札を更新し続けることが出来ないような気がします。


むかしむかしは、海外から来る情報を、いち早く「知る」ことが「感性のリトマス試験紙」を持っていることででした。

それは、服のシルエットだったり、あるブランドだったり、人気デザイナーだったり、情報そのものが「感性のリトマス試験紙」という時代でした。

その手札の数も多くはなく、「はやり」自体も広く世の中を巻き込むような流れで、猫も杓子も”ミニスカート””パンタロン”という分かり易かったのです。

ただ”肩パッド”の「はやり」以降、世の中を制覇するほどの「はやり」は、出現していないのかもしれません。

ファッションの市場が成熟してくると”人それぞれ”の好みを尊重する傾向が高まってきました。

マーケット自体が分類分けされ、各パイの大きさも随分と小さくなってしまったように思います。そうして「感性のリトマス試験紙」の種類もジャンルも増えてきました。


日本の場合には「雑誌」でジャンル分けできるところもあるので、見ない雑誌の「感性のリトマス試験紙」には、ピーンと来なかったりします。海外ではデザイナーやセレクトショップでのジャンル分けが、主流かもしれません。

いずれにしても、それぞれのジャンルに「感性のリトマス試験紙」の手札が必要になるわけで、すべての手札を揃えていることなんて無理な話です。

嗜好がさらに細分化されえていくことや、価格帯が両極化するということは、僕がファッション大学に通っていた1980年代頃から予測されていました。

ただ、実際にそういう時代になった時に、自分の「感性のリトマス試験紙」の手札が、すっかり減ってしまっていたとは思ってもみませんでした。


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2009/11/09

不条理な「悪」は「悪」によって救われる~「掏摸(スリ)」/中村文則著~


犯罪者の心理には人一倍興味があるのですが、犯罪の現場を目にした経験は一度しかありません。

クッキー屋さんでアルバイトをしていた時、一緒に働いていた聾唖の女性が売り上げを小さな金庫から札束を盗んでいる様子を目撃したことがありました。

自分自身が盗みを働いているわけではないのに、口が渇いて、心臓がバクバクしてきて、足が震えたことを覚えています。


中村文則氏の「掏摸(スリ)」は、丹念に書かれた主人公の犯罪者心理に、不快感さえ感じる小説でした。

主人公には「スリ」としてのルールがあって、どうターゲットを決めて、どうアプローチするのか、どの指をどう使って盗むのか、盗んだ後どうするのか・・・という細かなディテールは、まるで「スリの教本」のようです。


犯罪者としては勿論のこと、人間的には好きになれない性格の主人公ではあるのですが、不幸な環境の”子供”(名前はない)を救おうとする姿勢が、唯一人間らしさを感じさる「救い」になっています。

この”子供”は、売春を生活の糧にしている母親からは万引きを強要され、客になる男たちからは暴力を受けているというトンデモナイ不幸な状況なのです。

しかし、お涙頂戴の子供らしい健気さを感じさせないほど、この”子供”は淡々と生きています。

主人公がどうしてそこまで、この”子供”を救おうとするのかは分かりません。上手に万引き(盗み)が出来ないならば「盗みはやめておけ」という”先輩犯罪者”としてのアドバイスもあったりします。

本能的にスリとして生きるしかない自分自身を潜在的には否定しているのかもしれません。


スリ仲間と強盗の手伝いをしたことをきっかけに、”悪の化身”のような男から、主人公は命がけの3つの仕事を依頼されます。

失敗すれば自分の、逃げれば”子供”の、命が奪われると脅迫されて、不可能と思われた仕事をやり遂げます。

しかし、不条理にも主人公は制裁を受けてしまうのです。そして、最後の最後に彼は「スリの本能」によって救われるのです。


この世には、どうしようもない悪があって、どうしようもない人生があって、僕の知っている正義なんて意味をなさない・・・「悪」は「悪」なりの理屈で救われるのかもしれません。



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2009/11/07

男おひとりさまなんて、こわくない・・・と言いたいけれど〜「男おひとりさま道」/上野千鶴子著〜


「おひとりさま」というと・・・視線を気にせずに自分ひとりの時間を楽しめる「女性」を指しますが、ひとりでいる男性を「おひとりさま」とは一般的には呼ばないようです。

それは、男は比較的ひとりで行動することが多いと思われているし(高級レストランに一人で行かないけど)、ひとりで行動している男性に対して世間が「寂しそう」と特に悲壮感を感じないからかもしれません。

しかし「男おひとりさま」というのは、人生においてはかなり多い存在のような気がします。


「おひとりさまの老後」を書いた著者が「男おひとりさま道」という本で「男おひとりさま」の老後問題にスポットライトを当ています。

随分と古い男性像をイメージをして書かれているという印象はありましたが、「男おひとりさま」という存在を社会問題として認識することは必要だと感じさせられました。

近い将来「5人にひとり」の男性が40代以上で未婚という時代が来るようだし、年上の女性と結婚する男性が増えれば死別によって夫の方が長生きすることも増えるでしょう。

離婚率が上がれば養育権を持つことの少ない男性が家族を失うことが多くなり、これからは「男おひとりさま」が急増すると予想されます。


「男おひとりさま」を老後を考えた場合、「おひとりさま」よりも悲壮感が漂っているのは、毎日の身の回りのことも自分でしなければならなくてお気の毒・・・という前世代的な理由だけではなく「おひとりさま」と同様に、経済不況による「雇用不安」「派遣切り」「年金未払い」などの経済問題や、親の介護問題があるということです。

また「ひきこもり」「家庭内暴力」「登校拒否」などの精神的な問題を生みだした40代のオタク世代が老後を迎えた時に、どのような老人社会を構築していくのか想像がつきません。

果たして、訪問介護や社会保障などの対策によって救れるのでしょうか?


「男おひとりさま」の抱える将来の不安と、最近話題になっている35歳の結婚詐欺女の連続殺人疑惑事件とは、無関係には思えません。

「男おひとりさま」なんて、こわくない・・・と言いたいけれど、僕自身も何十年後かに訪れる”漠然とした闇”を感じずにはいられないのです。



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2009/11/06

贅沢を求める欲望の行方~ラグジュアリー:ファッションの欲望~


ファッッションが、歴史的にラグジュアリー/贅沢の欲望を満たす道具のひとつであることは間違いないでしょう。

東京都現代美術館で開催されている「ラグジェアリー:ファッションの欲望」展は、17世紀からの宮廷貴族のドレスから現代までの贅沢と解釈される衣服の展示によって、価値観の変わりつつある「贅沢とは何か?」を問いただしているような気がします。


19世紀までのファッションの贅沢さは、手仕事の量や素材の希少性などが明らかで、非常に分かりやすい贅沢さです。

膨大な手仕事による刺繍、レースが施されているドレスは「デコレーション/装飾」=「ラグジュアリー/贅沢」であった価値観をハッキリと感じさせます。

しかし、20世紀に入ると「感性」という要素も加わって、一見するとシンプルなドレスが贅沢であるというレトリックが生まれました。

その後は、流行を創り出していくことや、希少=高価な素材での差別化を生むことで、デザイナーファッションは「贅沢」な存在として存在し続けてきました。


マルタン・マルジェラのアーティザナルラインは、見た目はアバンギャルドですが、本質的には前時代的でもあります。

手仕事に費やされる時間と素材の希少性(金額的に高価でないけど)というのは、ヨーロッパの宮廷時代の贅沢そのもの・・・それぞれの衣服に制作に何時間かかかったのかを表示しているのは、まだ我々が手仕事に対して持ち続けている価値感への皮肉でしょうか?


コム・デ・ギャルソンの感性を「贅沢」と位置づけるのは、価値観の多様性と言えるでしょう。

過去に西洋のデザイナーたちも、それぞれの時代に新たな感性で差異を「贅沢」として表現してきました。

西洋的なファッション観を覆すことで、ある世代、あるグループの人々には絶大な支持と影響力を持っているコム・デ・ギャルソンの20年に渡るコレクションを改めて見てみると、ファッションという枠の中で「感性」による差異を巧みに表現していた事を感じさせられました。


個人の「感性」によって贅沢の判断が委ねられているということは、絶対的な基準が希薄な時代ということかもしれません。

”経済力”や”感性”を主張する「ファッション」というのは、前時代的な贅沢さの象徴に成り下がって欲望を満たす役目を失いつつあります。

手仕事の量でも、金額の高さでも、素材の希少性でも、流行りのスタイルでもない・・・さらなる贅沢を求める欲望は、ファッションから離れて「肉体美」と「精神性」に向かっているような気がします。


肉体の上にあるに過ぎない衣服ではなく、肉体そのものを美しく改造することに費やす時間と経済力があることが、今日では贅沢なのかもしれません。

スポーツジムで健康で美しい体型になる、整形手術で目鼻や身体を変える、アンチエイジングで若さを保持する、・・・まさに「私、脱いでも凄いんです!」の肉体美こそが、外見重視の欲望の先にあるようです。

環境問題などに関わることは、心の豊かさや世の中の貢献度だけでなく「エコロジカルで素敵な私」という自己満足を与えてくれます。

近年のスピリチュアルや宗教への傾倒のムードは、現世利益志向の自己確認の欲望を満足させているのに過ぎないのかもしれません。


結局、人間の欲望というものの行方は、自己中心的で浅はかなものでしかないのでしょうか・・・。


ラグジュアリー:ファッションの欲望/2010年1月17日年まで

東京都現代美術館 企画展示室1F,B2F、企画展示室アトリウム


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2009/11/04

「クラウド化」のことを考えると頭がモヤモヤ(クラウド化)してきます

新しい技術の変化についていけない・・・なんて感じることは、自分も年を取ったと実感する瞬間です。

パソコンやインターネットは生活の必須な道具となっていますし、それなりに使いこなせているつもりでいます。

「デジタル化」は難なく理解して受け入れていますが、「クラウド化」については馴染めていないところが、まだいろいろとあるのです。


ネットワーク上に存在するデータやサービスを利用する「クラウド・コンピューティング」は、最も身近なクラウド化の流れでしょう。

検索、メール、フォトアルバム、ドキュメントなど無料で使えるサービスなので、僕自身も殆どのサービスを利用しています。

しかし、メインで使用するメールアドレスはネットの接続会社からのもので、接続会社のサーバーからメールをダウンロードして自分のパソコンに保存しています。

データは自分のパソコン内に保存する方が安心感があるのは、「過去」のデジタル感覚から、まだ逃れられていない証拠なのかもしれません。

また、人を点と点の1対1で繋ぐ”出会い系”には、真っ先に飛びついた僕でしたが・・・ソーシャルネットワーキングサービスには消極的になってしまうところがあります。

1対複数、またはコミュニティー内の複数同士のネットを介して”つるむ”人間関係に不自然さを感じてしまうのです。


利便性や平等性は理解しながらも「クラウド・ソーシング」については、常識を覆すような不安感を感じてしまうこともあります。

今までは専門的な知識や技術を持った者にしか参入出来なかった業界でも、ハードウェア/ソフトウェアの発達とブロイードバンドの普及で、プロフェッショナルの裾野が広がりました。

写真、映像、音楽というのは、まさにデジタル化によってハードルが低くなった分野かもしれません。

グラフィックデザインだって、もしかするとアパレルのデザインだって、将来的にはソーシングする時代が当たり前になるのかもしれません。

誰にでも開かれたクリエイティブな業界というのが素晴らしいと思う反面、多数決(ポリュラリティー)が尺度になることで、本質のレベルの低下する不安も感じます。

例えば、音楽の世界ではプロの作詞家や作曲家ではなくアーティストが楽曲をつくるのが普通の時代ですが、本物の歌い手や、年月が経っても心に残る詩や旋律が少なくなったような気がしてしまいます。

プロフェッショナルがプロの仕事ができる環境というのも残していく仕組みも大切なことのように思うのです。


「KIVA」のようなマイクロ・クレジットの資金や、映画や音楽の制作費の調達の手法として「クラウド・ファイナンス」はクラウド化の動きの中でも画期的なことだと思います。

今までの社会の仕組みの中では融資を受けることの出来なかったビジネスやコミュニティーをサポートする有効な仕組みなだけに、詐欺師などに悪用されないことを祈るしかありません。

お金を出す側にとってデジタル化された金銭は、単なる数字のデータのやり取りにしか見えなかったりしますが、受け取る側には現実のお金であることには変らないわけで・・・バーチャルマネーというのは、まだ僕自身の中では正体の分からない存在です。


こうして「クラウド化」のことを考え始めると、頭の中がモヤモヤしてきます・・・。


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2009/11/01

「ファイン・アート」と「デコラティブ・アート」の間で遊ぶ様式美と機能性~Claude & Francois-Xavier Lalanne~


今年(2009年)の秋、野外パブリックアート展「ニューヨーク・シティ・パークス・パブリックアートプログラム」の一環として、ニューヨークのパークアベニューの中央分離帯の芝生の上に、12頭の羊の彫刻が展示されました。

ニューヨークの高層ビルの間の車が行き交う目抜き通りに、草原を連想させるような光景が現れたのです。


クロード&フランソワ・グザビエ・ララン夫妻の制作する庭園彫刻やインテリアオブジェは、機能性や使用目的を考えれば、デコラティブ・アートの範疇に属するのだと思います。

しかし、一点モノの調度品を創る職人という存在が殆どいなくなってしまった現代では、職人的な完成度と独特の作風を持つオブジェは、ファイン・アートとしてとらえた方が素直なのかもしれません。

リアルなディテールとディフォルメされたフォルムの動物や植物は、絵本から抜け出したようなユーモラスな子供っぽさと、マグリットやダリのようなシュールな大人っぽさが共存しているような印象です。

形の面白さだけではなく、ゴリラの暖炉、亀のプランター、鰐の椅子、ロバの物入れ、カバの洗面器、猿のテーブル、サイのキャビネットなど、意外性のある実用的な機能においてもアーティストの遊び心が発揮されています。


ショーウィンドウや舞台セットのデザイナーなどとしても活動していたフランソワ(夫)とクロード(妻)による共同制作によるジョイントキャリアは、1950年代後半から、去年(2008年)の冬、夫のフランソワ・グザビエ・ララン氏が81歳で亡くなるまで、約50年にも及びます。

クロードのアールヌーボー様式とシュールレアリズムを融合した小さなブロンズのオブジェと、フランソワのユーモラスな実物大の動物の庭園彫刻や調度品によって、詩的な世界観を持つデコラティヴ・アートや”インテリア・オブジェ”として、1960年代から1970年代には特別な存在を確立していきました。

彼らのパトロンでもあったイブ・サンローランのシフォンドレスの為に、リアルなボディなども制作しています。

また、食器、アクセサリー、テーブルウェアや、テーブルや椅子などの実用品のデザイナーとしても多くの商品も発表し、建築物やラントスケープなどにも活躍の場を広げました。


ララン夫妻のインテリア作品は、ここ数年の再評価もあって、ギャラリーやオークションで価格が高騰しているそうです。

トム・フォードやキャサリン・マランドリーノなどのファッションデザイナーや、ハリウッドセレブもコレクターとして名前が噂されています。

西洋的な装飾で嗜好性が高く、海外のギャラリーだけで作品を発表されていたこともあって、日本では殆ど知られていません。

それはそれで残念なことではあるのですが、おしゃれなクリエーター/ディレクターに編集されて再現/複製された商品が出回るようになるよりも、「本物」しか存在しないことにこそ真の意味があるように思えるのです。



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