2017/04/15

「イン・ベット・ウィズ・マドンナ/Truth or Dare」から25年目の真実(Truth)・・・ブロンド・アンビション・ツアー(Blond Anbition Tour)のバックダンサーたちの、その後を追ったドキュメンタリー映画~「ポーズ~マドンナのバックダンサーたち~/Strike the Pose」~


1990年、マドンナの世界的な人気のピークの時期に行なわれた「ブロンド・アンビション・ツアー/Blond Anbition Tour」は、セックスとカトリックをテーマとして宗教的な論争を巻き起こし、興行的な大成功を収めます。当時ファッション界で席巻していたジャン=ポール・ゴルチエによる衣装、表現主義映画「メトロポリス」にインスパイアされた近未来的な舞台セットなど、ビジュアル的に圧倒的な完成度であっただけではありません。

ブロンド・アンビション・ツアーが行なわれた時、ボクはニューヨーク在住だったのですが・・・当時、コンサートチケットを購入するためには、チケットブ売り場に徹夜で並ぶか、ひたすら電話をかけまくるしかありませんでした。どうしても行きたいならば、高額に釣り上げられたダフ屋から買うしかないのです。当然ながらブロンド・アンビション・ツアーは即完売・・・マジソンスクェアガーデンでの公演は、非常に高騰していました。

そんな中、マドンナファンだった友人から、チケットが手に入ったので一緒に行こうという誘いがあったのです。ステージから5列目の”かぶりつき”の超プレミアシートにも関わらず、その友人はボクには正規のチケット価格(40~50ドル?)しか請求しなかったので(当時、経済的には貧しかったボクには)有り難かったことを覚えています。数年後、その友人から、実際にはダフ屋から1枚500ドル(1990年頃1ドル=150円程度だったので約75000円!)で手に入れたと聞かされて、驚いたと同時に申し訳なく思ったものでした。


ブロンド・アンビション・ツアーでは、カソリック教会のような宗教イメージと「ライク・ア・ヴァージン」での自慰行為的なダンスが強い批判を浴びましたが、流行りという観点では「ヴォーグ/Vouge」で世界的に知られることになった”ヴォーギング”(Vouging)と呼ばれたダンスの人気が最も頂点に達していた時期でもあります。

”ヴォーギング”は、1980年代後半にはニューヨークのクラブシーンではみかけられましたが・・・そもそもはハーレムやイーストハーレムにいたラテン系やアフリカ系の貧しいゲイの若者たちが、殴り合いの喧嘩の変わりに”威嚇”し合ったのが始まりです。ヴォーグ誌のモデルのように、リッチでグラマラスなライフスタイルを表現するジャスチャーがダンスへと発展していったもので・・・ドキュメンタリー映画「パリ、夜は眠らない。」で詳しく描かれています。


翌1991年に公開された「イン・ベット・ウィズ・マドンナ/Truth or Dare」は「ブロンド・アンビション・ツアー/Blond Anbition Tour」に密着したドキュメンタリー映画で、当初の企画だったツアーの記録フィルムという枠を超えて、アメリカ全土(特に都市部以外の地方)に大きなインパクトを与えたのです。

当時は、エイズ蔓延による同性愛者への差別が激しくなり、政府へのエイズ対策批判運動が高まっていた時代でした。マドンナはゲイコミュニティーだけでなくセーフセックスの啓蒙運動や、性的嗜好による差別をなくそうという訴えは、エンターテイナーの域を超えて政治的オピニオンリーダーとしても影響力を発揮したのです。「イン・ベット・ウィズ・マドンナ」で露呈したマドンナの素(?)には、保守的な人種は眉をひそめてたものですが、マドンナファンにとっては期待どおりの破天荒っぷり・・・当時、人気絶頂のハリウッドスターだったケビン・コスナーや、付き合っていると報道されていたウォーレン・ベイティへの歯に衣着せぬ態度は小気味良いものだったのであります。


ただ、マドンナ以上に注目されたのは、ツアーメンバーとして参加していたバックダンサーたちだったかもしれません。男性バックダンサー7人中、6人がゲイというのは、業界的(都市部のゲイにも、ダンス業界にも)には”定説”だと思いますが、アメリカ全土にいる普通のティーンエイジャーにとっては驚愕の事実であったようで、映画公開直後から彼らは連日のようにテレビ番組で取り上げらるようになっていきます。

その結果・・・バックダンサー数名は、映画公開後にマドンナを訴えると表明します。彼らの言い分としては、バックダンサーとして雇われた自分たちはプライバシーを売りモノにするつもりはなかったということであったり、ゲイであることを全世界に公開されたドキュメンタリー映画で強制的にカミングアウトさせられたということでもあったのです。ゲイへの偏見や差別に対して一石を投じた作品だけあって、この裁判沙汰(のちに調停で解決)は水を差したような印象もありました。その後、マドンナも徐々にゲイ・コミュニティーからの距離をとっていtyたような印象もあり、表現の切り口を、より”エロス”の追求へ舵をきっていくキッカケになったのかもしれません。

あれから25年、ブロンド・アンビション・ツアー当時20代だったマドンナのバックダンサーたちは40代・・・その後の彼らを追ったドキュメンタリー映画「ポーズ~マドンナのバックダンサーたち~/Strike the Pose」が、ベルギーとオランダ資本(本作はアメリカ映画ではありません)で製作されます。トライベッカ映画祭やイベントで上映されたものの、アメリカ国内の劇場公開も限定的で、DVDのリリースはオランダ版ののみ・・・本作についてネットニュースで読んだ際、25年前の記憶が甦ってきたと同時に、どう考えても本作は”切ない”内容であろうことは容易く想像できたのです。

ここからネタバレを含みます。


”ヴォーギング”の中心ダンサーであったルイス・カマチョとホセ・エクスタラヴァガンザの足跡から、まず本作は追っていきます。40代半ばとなったルイスは、中年太りしていて当時の面影はありません。またホセは、体系的には変わらないものの痩せているだけ老けっぷりも激しく・・・25年という年月の残酷さをまじまじと感じさせられます。

彼ら二人ともドラッグの問題があったようで、ツアー後はバックダンサーとしての活躍は殆どありません。ただ、それでも彼らは自らの可能性を求めて、小さなダンスクラスで教えたり、ドラッグクィーンのダンスパフォーマーのひとりとして、再び活動を始めているのです。その彼らを支えるのは、やはりマドンナのバックダンサーであったというプライドなのかもしれません。


「イン・ベット・ウィズ・マドンナ」公開後にマドンナを訴えた3人のバックダンサーのうちのふたり・・・ケヴィン・アレキサンダー・シア(アジア系)とオリバー・クルムス(唯一のストレート)が、本作に出演したことは驚きでありました。当然(?)ながら、その後マドンナとは連絡を取っていないそうですが、ゲヴィンはバックダンサーとしてブロンド・アンビション・ツアー以後も活躍(レディ・ガガのツアーなど)しています。

バックダンサーの中で最も年下だったオリバーは、25年前とは別人のように中年太りをしてしまっています。ツアー後はラスベガスで公演されていたマドンナのそっくりさんショーの振り付けをするなど、明らかにマドンナのンバックダンサーであったという”利子”で食っていた印象・・・プロフェッショナルなトレーニングを受けていない自己流ヒップホップダンサーであったこともあり、現在もラスベガス在住であるものの、カジノホテルでウエイターのような仕事をしているようです。

尚・・・もう一人、マドンナを訴えたバックダンサーのガブリエル・トルーピンは1995年にエイズで亡くなっており、本作では彼の母親がインタビューに答えています。


サリム・ガウロースとカールトン・ウィルボーンは、元々ダンサーとしての基礎的な教育を受けていたこともあり、現在でもダンサー/講師として第一線で活躍しているようです。この二人は本作で、既にブロンド・アンビション・ツアーに参加していた時には、HIVポジティブであったことをカミングアウトしています。

サリムは、初めての男性経験で感染してしまったそうで・・・ハッキリと本作では明言していませんが、おそらくHIVポジティブであることが判明したことが、ベルギーからアメリカへの移住に繋がったようです。カールトンに於いては・・・ブロンド・アンビション・ツアーが始まった日本で体調の変化に気付き、HIVポジティブであったことが分かったというですから。当然のことながら、二人ともHIVポジティブであることはスタッフやツアーメンバーには隠してツアーに参加していたわけですが、セーフセックスを呼びかけることがツアーの大きなメッセージであったことを考えると、なんとも皮肉なものであります。

「ポーズ~マドンナのバックダンサーたち~」のクライマックスは、インタビューに答えた生存しているバックダンサー全員6人が、ツアー終了後初めて(?)顔を合わせる場面でしょう。(本作のプロモーションで、その後は何度も会っている様子ですが)

「イン・ベッド・ウィズ・マドンナ」の原題である「Truth or Dare」というのは・・・「真実を言うか?挑戦するか?」の選択をするアメリカのパーティーゲーム(?)で、「Truth」を選んだら意地悪な質問にも正直に答えなければならず、「Dare」を選んだらやりたくないことを実行しなければならないのです。「イン・ベッド・ウィズ・マドンナ」の中でも、マドンナとバックダンサーたちが「Truth or Dare」を遊ぶシーンは印象的でした。本作の終盤で6人が「Truth or Dare」を始めるのですが・・・この時に選ぶのは「Truth/真実を言う」だけ。25年の年月を隔てたからこそ、お互いに”真実”で向き合うことができたということでしょうか?

マドンナの「ブロンド・アンビション・ツアー」や「イン・ベッド・ウィズ・マドンナ」に思い入れのない世代にとっては、お涙頂戴のノスタルジーを煽るだけのドキュメンタリー映画かもしれません。ただ、短い時間であっても若き日に苦楽を共にした仲間は(例え、確執があったり、ソリが合わなかったとしても)年月が隔てれば困難を乗り越えた同志として絆を感じるようになるということ。「あのとき」が、いかに貴重な時間であったことを気付けるのは、若さを失ったということなのです・・・。


「ポーズ~マドンナのバックダンサーたち~」
原題/Strike the Pose
2016年/ベルギー、オランダ
監督 : エスター・グルド、ライエル・ズワーン
出演 : ルイス・カマチョ、ホセ・エクスタラヴァガンザ、サリム・ガウロース、オリバー・クルムス、ケヴィン・アレキサンダー・シア、カールトン・ウィルボーン、マドンナ(アーカイブ映像)
2017年4月7日より「Netflix」にて配信


「イン・ベッド・ウィズ・マドンナ」
原題/Truth or Dare
1991年/アメリカ
監督 : アレック・ケシシアン
出演 : マドンナ、ケヴィン・コスナー、ウォーレン・ビューティ、ジャン=ポール・ゴルティエ、マット・ディロン、サンドラ・バーンハード、ライオネル.リッチー、アントニオ・バンダラス、ペドロ・アルモドバル
1991年8月31日、日本公開


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2017/04/01

映画監督として作家性を確立したトム・フォードの第二作・・・オースティン・ライト原作「ミステリ原稿」を、よりグラマラス、より深く心えぐる「後悔」と「喪失」の”謎”めいた一作に~「ノクターナル・アニマルズ(原題)/Nocturnal Animals」~


映画界とファッション界といのうのは、映画作品への衣装提供や、ブランドイメージと映画スターの関係など、業界としての親和性も非常に高いと思うのですが・・・ファッションセンス=映画作家性というわけでもないようで、商業的な映画監督として作家性を発揮したファッションデザイナーというのは、トム・フォード以外には思いつきません。

ファッションの第一線で活躍したファッションデザイナーが、映画監督としても高い評価を得て、商業的にも成功するということは結構”稀”なことのようです。1970年代のパリのファッション界を席巻した高田賢三は、1981年に日本資本の劇映画「夢・夢のあと」で、ファッションデザイナー”ケンゾー”の世界観と映像美を表現する意気込みで映画監督としてデビューしましたが・・・評価も興行のどちらも大コケしてしまいます。この作品は、どの国でもビデオ化さえされていない幻の作品となっており、高田賢三による映画作品は結局のところ、この一作のみ・・・その上、ケンゾーのファッションブランド自体も、この頃から急速に失速していくのです。

数年前に山本耀司が監督した映画が作られる・・・というニュースを読んだことがあるのですが、その後、映画が完成したという話を聞きません。近年、芸術(ファイン・アート)へ表現のフィールドを移行しようとしているところもありますので・・・もともと商業的な映画の監督というのではなく、あくまでも表現手段のひとつとして企画されていたのかもしれません。カール・ラガーフェルドは何本か短編作品を監督していますが・・・あくまでもシャネルがらみのファッション的な世界観の延長上にある”プロモーションの映像”です。日本では、アート集団の明和電機が立ち上げたファッションブランド「Meewee Dinkee/ミーウィーディンキー」のトータルディレクターとデザイナーを務めるTRICOが「少女椿」を監督してますが、そもそも映像作家としてでてきた人で初めから”アート寄り”のクリエーター(!?)だったりします。

トム・フォードはテキサス州出身のアメリカ人でありますが、ヨーロッパの老舗ブランド「グッチ」「イヴ・サンローラン」のクリエティブ・ディレクターを務めて・・・その後、自社である「トム・フォード」を立ち上げた近年最も成功したファッションデザイナーのひとりです。デザインの勉強をする以前のニューヨーク大学時代には、俳優を目指した時期もあったらしいので、映画界には少なからず興味があったのかもしれません。

2009年公開の「シングルマン」でトム・フォードは映画監督としてデビューします。1930年代~60年代に活動したゲイ作家のクリストファー・イシャーウッドの原作からして渋くて知的な印象なのですが・・・ファッション的美学に貫かれたスタイル、隅々まで考え抜かれた構図、過去と現在や現実と心象を行き来する巧みな映像美で、”ファッションデザイナーによる”という枕詞が不要なほど「完璧」な映画作品であったのです。ただ、コリン・ファース演じる大学教授の潔癖なスタイリッシュさやゲイの中年男性であることから、トム・フォードを彷彿させるところもあり・・・自らを投影した奇跡の一作とも思えてしまうところはあります。


「シングルマン」から7年、二作目となる「「ノクターナル・アニマルズ(原題)/Nocturnal Animals」は、トム・フォードの映画監督としての作家性を確立させたと言っても、過言ではないかもしれません。原作は(これまた渋くて知的な?)オースティン・ライトによる「トニー・アンド・スーザン(原題)/Tony and Susan」(”スーザン”は語り手の主人公の主婦の名前で、”トニー”は作中小説の主人公の名前)で、日本翻訳版タイトルは「ミステリ原稿」・・・前夫から送られてきた原稿(この小説のタイトルが「ノクターナル・アニマルズ/Nocturnal Animals」=「夜の獣たち」)を、別な男性と結婚した主婦のスーザンが読んでいくうちに、前夫エドワードとの過去や今の結婚生活に思いを巡らすという心理小説です。


タイトルオープニングでは、極端に太った女性たちが妖しく踊るシーンから始まります。これらは主人公のギャラリーオープニングで展示されているアート作品(映像と彫刻)ということなのですが、かなりのインパクトです。トム・フォード曰く・・・太った女性は社会的な(美しさの?)枠組みに囚われていない存在として、主人公と対比しているということらしいのですが、赤いベルベットのカーテンを背景にしているところは、デヴィット・リンチ監督的な禍々しさを漂わせています。

若い頃アーティストを目指してたスーザン(エイミー・アダムス)は、裕福なハットン(アーミー・ハマー)と再婚・・・アートディーラーとして成功しています。小説版では、スーザンとハットンの結婚は破綻していないのですが(前夫のエドワードも別な女性と再婚している)・・・映画版では、ハットンは他の女性と浮気をしていて、二人の関係は冷えきっているセレブとして描かれているのです。そんなスーザン宛に、若い頃には小説家を目指していて、今は大学で映画を教えている前夫のエドワード(ジェイク・ジレンホール)から、「ノクターナル・アニマルズ」というタイトルの原稿が送られてきます。

「ノクターナル・アニマルズ」は、トニー(ジェイク・ジレンホール)が遭遇する悲惨な事件の物語・・・妻のローラ(アイラ・フィッシャー)と娘のインディア(エリー・バンバー)は、ハイウェイで遭遇した暴漢たち(アーロン・テイラー=ジョンソン)に誘拐されて、強姦されたあげくに惨殺されてしまいます。前夫エドワードと主人公トニーを、どちらもジェイク・ジレンホールによって演じられていることからも分かるように・・・「ノクターナル・アニマルズ」はエドワードとスーザンの物語でもあるようです。トニーは、癌で死を宣告されているボビー刑事(マイケル・シャノン)の手助けにより、事件から一年後に暴漢たちへ復讐を果たしますが、拳銃の暴発事故により、誤って自らも死んでしまうのです。

主人公が作中で小悦を読む「入れ子構造」となっている本作・・・スーザンは次第に残酷な小説の内容に引き込まれていき、前夫のエドワードが何故暴力的な小説を自分に送りつけて感想を求めてきたのか考え始めます。そして、幼馴染みのエドワードとのニューヨークでの再会、保守的で現実主義の厳しい母親に反対された結婚、エドワードの小説を厳しく評価して傷つけて、最後には妊娠していた子供を堕して離婚した経緯などを回想していくのです。現実のクールな配色、過去の暖かな色合い、小説のどぎつい色彩と、特徴的な映像で描き分けながら、時にはショットごとに入れ替わる「現在」「過去」「小説」を巧みな編集によって、小説家(クリエーター)のフィクションとノンフィクションの関係を紐解いていきます。

ここからネタバレを含みます。


現在や過去がスーザンによってビジュアライズされる作中小説の世界とリンクされていて、小説が著者である前夫エドワードの過去の体験によって構築されていることが明らかになっていきます。例えば・・・以前、スーザンがエドワードを傷つけた時にあった”赤いソファ”は、小説のトニーの妻と娘の死体が放置された”赤いソファ”と同じですし、エドワードがスーザンが二人の子供を堕胎手術をして、二人の関係が決定的に終わった時にあった”緑の車”は、トニーの襲う暴漢たちが乗っている”緑の車”と同じなのです。小説の中のトニーの妻はスーザンに似ていますし、娘はスーザンが堕した二人の子供かもしれません。小説の内容がトニーの復讐劇となっていくと、スーザンの画廊には、「REVENGE」=「復讐」と書かれた絵画があったりします。暴漢たちの正体を暴き、必要に復讐に誘うボビー刑事は、エドワードの強い別人格・・・かつてスーザンがエドワードを傷つけた「弱虫」という言葉が、追い詰めた暴漢から発せられた時、トニーは初めて拳銃を撃つことができるのです。

原稿を読み終わったスーザンは小説の感想を伝えるため、久しぶりにエドワードと会う約束をして、高級レストランで待ち合わせをします。しかし、いくら待ってもエドワードは姿を現しません。閉店間近のレストランで一人佇み、なにかを悟ったような表情のスーザンの姿で映画は終わるのです。正直いって”尻切れトンボ”で”謎めいた”エンディングであります。作中小説のトニーと同じようにエドワードも死んだのではないか?そもそもエドワードは、スーザンと二度と会うつもりさえなかったのではないのか?スーザンに待ちぼうけを食らわすことが、エドワードの復讐だったのか?


考えてみれば・・・現在のエドワードの姿というのは一度も画面に登場することはありません。スーザンの思い出す過去のエドワードの姿と、作中小説のトニーの姿しか映画では描かれていなのですから、エドワードの存在自体が観客にとっては漠然とした存在だったりします。強い衝撃を与えられた小説を書き上げたエドワードに対して、スーザンが改めて関心を持ったことは確かなようです。しかし、小説を書き上げて、スーザンとの過去からの呪縛から解き放たれたエドワードにとって・・・スーザンと再会する意味はないのかもしれません。

小説版では、スーザンが感想をエドワードに伝える約束をしようと、短い手紙を投函するところで終わります。映画版では、破綻した結婚生活という厳しい現実にいるスーザンが、さらに過去からも報復を受けるという・・・”より”深く心をえぐるような結末となっています。「シングルマン」にしても「ノクターナル・アニマルズ」にしても、トム・フォード監督の映画は、一般的に言って”ハッピーエンディング”ではなく・・・「過去への深い後悔」と「失った者への強い喪失感」を感じさるのです。


パートナーのリチャード・バックリー(元「VOGUE HOMME intternatinal」編集長)と約30年間を共にして、1990年代から2000年代初頭にはヨーロッパの老舗ブランドを再生させて一世を風靡、2005年には自社を設立、2012年には代理母出産で息子を授かり、2014年にはアメリカ国内で同性婚、ファッションデザイナー/映画監督としての成功だけでなく、私生活でも”超リア充”のトム・フォードが、何故「後悔」や「喪失」の映画を撮るのか?・・・これこそが、ボクにとって一番の”謎”であります。


「ノクターナル・アニマルズ(原題)」
原題/Nocturnal Animals」
2016年/アメリカ
監督、脚本、制作:トム・フォード
出演      :エイミー・アダムス、ジェイク・ジレンホール、マイケル・シャノン、アーロン・テイラー=ジョンソン、マイケル・シャノン、アーミー・ハマー、アイラ・フィッシャー、エリー・バンバー
2017年劇場公開予定


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