2019/07/13

アンアースド・フィルムズ(Unearthed Films)の新レーベル「Too Extreme for Mainstream/トゥー・エクストリーム・フォー・メインストリーム=一般市場には過激すぎ」の”看板”に偽りなし?・・・虐待映画+ゲイポルノ+ジャーロ映画風アートフィルム~「トーメント(原題)/Torment」~


「ギニーピッグ」シリーズやエクスリーム系ホラーのディストリビューターとして知られる”アンアースド・フィルムズ”(Unearthed Films)の新レーベル「Too Extrame for Mainstream/トゥー・エクストリーム・フォー・メインストリーム=一般市場には過激すぎ」(アマゾンなどの一般的な販売ルートでの扱いはなし)の第一弾「トーメント(原題)/Torment=苦痛」は、自社のウィブストアでは期間限定の予約販売で、発売と同時に「廃盤」とはなっています。

いくつかのホラー専門通販サイト(DiabolikDVDGrindhouse Video)には、まだ在庫があるのですが(2019年7月13日現在)・・・入手困難になるのは時間の問題かもしれません。オークションサイト(eBayなど)では、転売ヤーにより高額で出品されていますが、ブルーレイ版の正規価格は30ドル(約3300円くらい)なので、アメリカから日本への送料込みでも5000円以下で購入可能です。


「トーメント(原題)/Torment」は「アメリカン・ギニーピッグ:サクリファイス/American Guinea Pig: Sacrifice」(めのおかしブログ参照)のプロデューサー/ドミザーノ・クリストファーロ(Domiziano Cristopharo)によって制作されたイタリア映画で・・・「アメリカン・ギニーピッグ:サクリファイス」に続く三部作の二作目とのこと。過激な残酷描写で定評のある”アンアースド・フィルムズ”が、あえて「一般市場には過激すぎ」と銘打っただけの”看板”に偽りはないのでしょうか?

1972年から1978年の間に、少なくとも33人の少年や若い男性を性的に暴行して殺害したアメリカのシリアルキラー/ジョン・ウェイン・ゲージ(キラークラウン=道化師の殺人鬼)の犯罪からインスパイアされた本作は、全編殆どセリフがなく、道化師姿の男が性的虐待をする様子を映していきます。クロースアップを多用していたり、撮影がほとんど家の中だけだったりと、明らかに”低予算”がわかる作りです。

二人の裸の男がベットにいるところから始まります。デブの男・ジョン(マッテオ・デ・リブラト)はうつ伏せで寝たまま・・・どうやら、もう一人の痩せぎすの男・ジェフリー(リッキー・フォーレ)は、昨晩ジョンの家に連れ込まれたようです。ジェフリーは家の中を物色し始めて、小銭やドラッグをポケットにしまい込みます。唸り声が聞こえる方へ行くと、そこは鍵のかかった部屋・・・隠してあった鍵を見つけて部屋に入ってみると、中には手足を縛られた血だらけの男(マルコ・ピアリッチ)の姿があったのです。そこへ、目を覚したジョンが襲ってきて、ジェフリーは失神させられてしまいます。

ここからネタバレと性的に露骨で残酷な表現を含みます。


ジェフリーが気を取り戻すと、道化師のコスプレをしたジョンがやってきて、ジェフリーをバスルームに無理やり連れて行き、浴槽に頭を無理やり沈めて溺れさせされて、再び気絶させられてします。ジョンはドラッグを自らの腕に打ち、ジェフリーを縛られた男のいる部屋に抱えて連れ戻すと、全裸にして手足を縛り上げるのです。

ジェフリーが再び気づくと、道化師のジョンは縛られた男の背中をナイフで切り刻みながら、激しくアナルを犯しています。犯している男が痛みに苦しめば苦しむほど、ジョンは興奮するようです。恐怖におののくジェフリーを見て、おもむろに立ち上がったジョンは、ジェフリーの顔の上にしゃがみ込んでアナル舐めを強要したり、顔に小便をかけたりします。その後、ジョンは縛られた男の方に戻り、アナルにナイフを突き刺して殺害・・・今度は血だらけのアナルを犯しながら首を切り落として、その生首にオーラスセックスさせるのです。

キッチンに運び込まれたジェフリーは、クロロフォルムで気を失わさせられて、椅子に両足を広げて縛り付けられてしまいます。ジョンは張型の中から太い瓶を選び、ジェフリーのアナルに無理やり突っ込み、アナルは血だらけになってしまうのです。画期的(?)なのは、瓶が挿入されていく様子をアナルの中のカメラから撮影するというショットであります。

ジョンはジェフリーを虐待している”だけ”ではありません。手足を縛られたジェフリーの傍に横たわり、まるで恋人同士のように泣きながら愛撫をしてくることもあるのです。でも、朝になると乱暴に犯してきます。トイレで排泄させたり、食事を食べさせたり(どちらも無理やりだけど)・・・人としての最低限のことはさせてくれるようです。

気絶しているジェフリーが見る幻想シーンは、ジャーロ映画風アートフィルムのように、カラフルな照明やアート的な構図によって描かれます。そこには、青白い顔をしたミステリアスな男性(マニュエル・ファヴァレット)が登場して、ジェフリーを何かに導いているかのようです。

ジョンの家の地下室には何人もの男の死体が置かれていて、その遺体を愛玩物のように楽しんでいる間は、ジェフリーがひとり寝室に放置されていることもあります。ある時ジェフリーが目を覚ますと、ジョンの気配がありません。ここからは、ホラー映画にありがちな脱出劇のようになっていくのです。寝室からは出られたものの、戻ってきたジョンに発見されてしまいます。必死の頭突きでジョンを気絶させたジェフリーは、鍵を手に入れて手錠と足のロープを外すことに成功・・・しかし、すぐに気を取り戻したジョンが再び襲いかかってきたので、ジェフリーは床に落ちていたナイフに手を伸ばして、ジョンをメッタ刺しにして殺してしまうのです。

気づくとジェフリーは、寝室のベットにひとり横たわっています。起き上がって窓の下を見ると、そこには幻想に現れるミステリアスな男の姿が。すると画面は、大量の幼虫が蠢く濡れた道に切り替わり、そして、道化師のジョンの顔が現れて「Kiss my ass(糞食らえ!の意味)」と叫び、映画はエンドタイトルとなります。最後の最後で、どうなったのか分からないアートフィルムぶった(?)終わり方には、ちょっと拍子抜けです。

ゴア描写については、それほど特殊効果に頼らずに、緊迫感のある演出で「らしく」は見せているという印象・・・アンアースド・フィルムズが得意とする”血まみれ”リアルを期待すると、肩透かしかもしれません。「一般販売には過激すぎ」の”過激さ”というのは、ゲイポルノ的な要素だったとしか考えられず・・・結局、ストレート男性にとって「男が男に犯される」ほど”エクストリーム=過激”なものはないということなのでしょうか?

自社のウェブストアでの期間限定による予約販売は、本作の口コミで広がる前に購入させてしまうという手法としては、効果的だったようです。男による男への性的虐待にドン引きしている購入者(ストレートの男性)が多くいるようで・・・「二度と見たくないクソ映画」という反応もあったりします。ただ、本作の性的な描写はハードコアではなく、あくまでもソフトコア・・・そういう意味では、まだまだ生ぬるい(!?)です。

「Too Extreme for Mainstream/トゥー・エクストリーム・フォー・メインストリーム=一般販売には過激すぎ」という”看板”は、ある意味、相応しいといえるのかもしれません。しかし、その理由はゲイに対する根深い嫌悪感からなわけで、近年の”LGBTムーブメント”の流れには逆行しているような・・・複雑な気分にさせられてしまうのです。


「トーメント(原題)」
原題/Torment
2017年/イタリア
監督 : アダム・フォード
出演 : マッテオ・デ・リブラト、リッキー・フォーレ、マルコ・ピアリッチ、マニュエル・ファヴァレット
日本未公開

ブログランキング・にほんブログ村へ

2019/07/09

25年間ニューヨークファッション界で活躍した世界的デザイナーで”トランプタワー”に住んだ唯一の日本人女性を名乗る現在大阪在住のトータルビューティープロデューサー・・・アケミ・S・ミラー/Akemi S. Miller(曽根あけみ)


すっかり忘れていた人の名前を見つけた。

2019年7月8日付で配信されたプレジデントオンライン(PRESIDENT Online)に掲載された「住所だけで驚かれる超高級タワマン生活」という記事で、トランプタワーに住んでいた唯一の日本人という”ふれこみ”の”連載記事”だ。(連載5回の2回目なので、あと3回分あるらしい)

トランプタワーの家賃は毎月高級車が買えるほどで、個人的な銀行預金が3億円以上が必要だという。さらに資産を持っているだけでは住むことはできず、厳しい審査をパスしなければ住人になることはできないそうだ。トランプタワーの住人が、自ら公言することは普通ないし(松居一代ならやりそうだけど)、全くもって信憑性のある話ではない。風の噂のレベルだけど・・・他にもトランプタワーに住んでいたことのある日本人のことは聞いたことがあるし、その人たちはわざわざ「私はトランプタワーに住んでいた」とは自分から言ったりはしない。バブル時代の夢を再びのムードがある日本では、超セレブご用達のタワマンに住んでいたというだけで、注目される人物にはなるようだ。

記事の最後に書かれた”アケミ・S・ミラー”(Akemi S. Miller)という名前を見て、30年前にニューヨークで出会った”曽根あけみ”と同じ人物であることを思い出した。

1988年5月、パーソンズ・デザイン大学のファッションデザイン科を卒業したボクは、前年に起きた”ブラックマンデー”による不況の影響もあって就職できずにいた。1989年の5月頃だっただろうか・・・英語学校時代の友人が働いていた音楽事務所アミューズのニューヨーク支社の社長から「最近、日本人のファッションデザイナーと知り合ったんだけど、アシスタントを探しているらしいよ」・・・と聞いた。そこでコンタクトを取ったのが”曽根あけみ”だったのだ。

当時、日本のファッション雑誌にも目を通していたから、日本のファッション業界について全くの無知ではなかったのだが、”曽根あけみ”という名前を目にしたことは一度もなかったので、素直に「誰?」と思った。現在であれば、インターネットでググったり、SNSで調べることもできるので、すぐに何者かは判明するものだけど、当時、そういう手段はなかったのだ。

面接で訪れたのは、今はなきワールドトレードセンターのツインビルの脇にあったコンドミニアム(高級マンション)のハドソン川を一望できる3KLDKくらいの広い部屋だった。ニューヨークに着いたばかりでオフィスも構えていなかったらしく、スタッフが共同生活を送っていた住まいで面接をしているという。(デザイナーは同じビルの別室に住んでいるという話であった)ワールドトレードセンターの金融関係で働く日本人駐在員が多く住む場所だったので「なぜ、これからビジネスを始めようという人たちが、こんなに家賃の高いところに住んでいるのだろう?」と奇妙に思ったものだ。

女性スタッフ2名により面接が行われたのだが、2人とも化粧っ気なしでファッションに関わっている人とは思えない地味な服装・・・それぞれ柔道選手と陸上選手のような感じで、見た目だけでの印象は「レズビアンっぽい人たち」だった。ニューヨークを拠点にデザイン活動をするにあたり、アシスタントデザイナーを探してるという。ボクのポートフォリオを目を一通り目を通すと「あけみ先生は凄い人だ」という話を始めた。その様子は、カルト宗教に取り憑かれた信者が教祖様への崇拝を語っているかのようで不気味だった。

日本では着物デザイナーとしていくつものブランドを持っており、東京でもコレクションを発表しているという。世界中からオファーがあったのだが、ある企業(名前は公表していないので教えてもらえなかった)から資金提供を受けて、ニューヨークに進出することを決めたのだと説明をされた。当時、日本ではバブル経済がまだ続いていて、日本の企業が異業種に資金を出して新事業を始めるということは珍しくはなかったので、そんなこともあるのかなぁ・・・とボクは首をひねりながらも納得した。

スタッフからの説明が終わったところで、大御所感を醸し出しながらデザイナー曽根あけみが、奥の部屋から登場した・・・真っ昼間から異様に化粧が濃くて、夜の雰囲気を漂わせていたことに、ボクはドン引きした。当時のファッション業界で働く女性の化粧は現在と比較して”濃いめ”ではあったものの、彼女の化粧スタイルはファッション業界的というよりも、キャバレーやクラブで働く水商売の女性のようだったのだ。デザイナーの経歴やビジネス開業の経緯だけでなく、本人の風貌もめちゃくちゃ胡散臭くて、ボクは不信感を感じめた。

彼女の洋服のデザインコンセプトは「イースト・ミーツ・ウエスト=東洋と西洋の出会い」という三宅一生氏が1970年代から唱えているものと全く同じもの。当時、日本にも海外にも、似たようなコンセプトを唱えて日本的な生地(着物の生地だけではなく)で”洋服”を作るデザイナーやメーカーというのがアメリカにも腐るほど存在していて・・・正直言って、もういい加減「ダサい」という時代になっていたのだ。

「実物の服を見せて欲しい」と言ったら、面倒腐りながら奥から持ち出してきたのは、着物の生地で作られたドレスだった。芯を入れていないためペラペラとしていて、洋服のイロハもわかっていない素人が作った服という感じ・・・とても売り物だとは思えない。”デザイナー”を名乗るのに、基本的な縫製技術さえないことに驚愕したのだが、逆にボクが何かしらの力になれるのかもしれない・・・と、ポジティブに考えてしまったのが運の尽きだった。なんだかんだで、ボクは翌日から3ヶ月の試用期間をスタートすることになってしまった。(アメリカでは3ヶ月ほどの試用期間の後に正式採用となることが多い)

主な仕事は、生地サンプルの整理をしたり、デザイン画を描くことだったのだが、仕事を始めて2週間ほどしたら、オフィスが見つかったとのことで、引っ越しすることになった。荷造りや運搬は業者に任せるものだと思っていたら・・・柔道選手みたいな女性スタッフとボクと二人でやらなければいけないというのだ。結局、半月ぐらい引っ越し作業や荷物整理をやらされる羽目になってしまったのだ。

アシスタンデザイナーという名目で雇われたのにも関わらず、連日肉体労働ばかり・・・その上、1ヶ月ほど経っても給料を払ってくれないことに、ボクは不安を感じ始めていた。試用期間といっても”タダ働き”ではなく、時間給で給料は支払うという約束だったのだが、スタッフの女性に訊ねてもはぐらされてばかり。しかし、会社自体は金銭のやりくりに困っているという雰囲気は一切なく、曽根あけみ自身は贅沢な生活をしている様子だったので、ますます理不尽な気分にさせられた。

やっとアシスタントらしい仕事をしても、曽根あけみと接触することは殆どなく、陸上選手みたいなスタッフから指示を受けることばかり。”お題”を出されて描いたデザイン画は数百枚(ボクはデザイン画を描くのが非常に早いのだ)になった。しかしデザイナーの曽根あけみからフィードバックをもらうことは一度もなく、一方的にデザイン画を描かされるだけだった。

当時、ファッション会社(有名なメーカーなども)がアシスタント募集をして、雇用試験だと言ってデザイン画を描かせて、世に出ていないデザイナーの卵の”アイディア”だけを集めるという詐欺まがいのことが、ニューヨークのファッション業界では横行していて、痛い目にあった同級生が何人もいた。まさに、ボクがやらされているのは「コレ」に近いのではないか・・・と気づいたのは、働き出してから2ヶ月ほど経った頃だった。(遅すぎ〜!)

そんなある時、珍しく曽根あけみと二人きりになる機会があったので、将来的な雇用と給料について訊ねてみた。すると、曽根あけみの顔色がみるみると変わり、プイっと怒ったように部屋を出て行ってしまったのだ。数分後、別室にいた陸上選手みたいなスタッフが入ってきて「よくも、あけみ先生に直接そんな話ができたものね!」と一喝された。そして、日本からの送金システムが確立されていないから、まだ支払えないと、逆ギレしながら言い訳をされたのだ。

それから、しばらくして試用期間を1週間ほど残して朝出勤すると、陸上選手みたいなスタッフから「今すぐ出て行って!」と言われて、唐突に解雇されてしまった。曽根あけみがと直接話をしてから二度と顔を合わすこともなかったので、何となくそうなることはわかっていたような気がする。しかし、この時点では給料は未払いのまま・・・当然、ボクの描いた大量のデザイン画も彼女のオフィスに置きっ放しだ。

その後、紹介者だったアミューズ・ニューヨークの社長に仲介を頼んで交渉してもらい(散々面倒臭いと嫌がられたが・・・)3ヶ月分の給料として2000ドル(当時のレートで18万円ほど)を、半年後(年を越して冬になっていた)に手にすることができた。はっきり言って、働いた時間から計算して2000ドルというのは、相当少なく見積もられていたけれど、金額について話し合いをするような雰囲気ではなかったし、ボクもする気さえなかった。小切手をオフィスまで受け取りに行った時、陸上選手みたいなスタッフから手渡されながら「よく取りに来れたものね~ぇ」と嫌味を言われたけど、これで曽根あけみと縁が切れると思ったらスッキリしたことを覚えている。

それから10年ほど経った頃(1990年代末?)だっただろうか・・・陸上選手みたいなスタッフを、ニューヨークのロックフェラープラザにあった本屋の「紀伊国屋」で働いている姿を見かけた。彼女はボクに気づいて、コソコソと奥に隠れてしまったが、その後も何度かカウンターの中で働いているのを見かけた。その頃のボクにとって、曽根あけみの側近だった彼女が本屋で働いているかなんて、どうでも良いことになっていた。そして”曽根あけみ”という人のことも、ボクの記憶からは薄らいでいったのだった・・・最近になってネットニュースで再び名前を見かけるまでは。

今回発見した記事をきっかけに、インターネットで「曽根あけみ」「Akemi Sone」「アケミ・S・ミラー」「Akemi S. Miller」などで調べてみたところ・・・ボクが思っていた以上に胡散臭い人物像が浮かんできた。25年間ニューヨークファッション界で活躍した世界的デザイナーであることを”売り”にしているにも関わらず、ネット検索しても曽根あけみがデザインした服の画像が殆ど出てこないのが、非常に不思議。また、彼女自身のH P以外の個人のSNSやブログで、彼女の名前や商品名が出てくることもないので、現在だけでなく過去のビジネスの実態も見えてこないのだ。

現在、彼女が運営する「Akemi S.Miller Beauty Studio/アケミ・S・ミラー・ビューティー・スタジオ」の公式ホームページに掲載されている”キャリアプロフィール”が、もっとも彼女の経歴について詳しく書かれているので、それを参照しながら検証とツッコミを入れてみようと思う。

なお、曽根あけみは少なくとも二度結婚しているようだが、インタビューなどで言及するのは二度目の黒人弁護士ロイ・P・ミラー氏との結婚のみで、一度目の結婚(おそらく日本で?)については一切語ることはない。

また、曽根あけみは年齢について特に言及していないようだが、過去のインタビュー記事で「23歳の時、東京で会社を立ち上げた」という発言が繰り返しあるので・・・・それを信用するならば、1956年生まれだと思われる。

1973年(17歳)
京都にて着物を学ぶ。

兵庫県三木市出身なので、17歳の時に京都に行って学んだようだ。(高校には通っていたのだろうか?)実際に、どこでどういう形で着物を学んだのかは不明なのだが、実家が着物学校を経営をしていたので、そのコネで呉服屋/生地メーカーとかで勉強させてもらったのだろうか?18歳になると、実家の着物学校で初級インスタラクターとして生徒に教えていたらしい。

1975年(19歳)
ミュージックリサーチ社にて、音楽ジャーナリストとして活躍。

19歳で、いきなり”音楽ジャーナリスト”として活躍っていうのが・・・ある意味、凄い(笑)。実家の着物学校の縁で、東宝レコードの支店長とコネができて、ミュージックリサーチ社に就職できたということだったようだ。実家のある三木市から東京まで、毎日(!)往復5時間かけて通勤していたと言うが・・・本当なのだろうか?

当初は経理業務をしていたが、LPをコツコツと片付けていた努力が認められて、記者の仕事をやらせてもらうようになったとのこと。ミュージックジャーナリストとしての仕事を始めると、芸能人と直接接することが増えたこともあってか、実家のネットワークを利用して着物のコーディネートの仕事(スタイリスト的なこと?)を請け負うようになったらしい。

ミュージックリサーチ社には8ヶ月ほどしか所属していなかったそうなので、実際にジャーナリストとして活動した期間というのは非常に短かった(数ヶ月?)ようだ。ジャーナリストという立場を利用して芸能界でのネットワークを広げて、着物コーディネーターの営業に役立てた・・・というが実態ではないだろうか?週末になると実家が経営する各地の着物学校の講師として、大阪、京都、神戸、広島、鹿児島、熊本、宮崎など(そんなに手広く着物学校をやっていたのか!)を回ったそうだ。

1979年(23歳)
「曽根あけみレディースビューティーアカデミー」を東京で開校。
きものモデル・ファッションモデルの育成。きものショーのコーディネート、演出、プロデュース。歌手、女優、タレントの衣装コーディネーターとしてテレビ、舞台、CM、その他のジャンルで活躍。

23歳のとき、東京で会社を立ち上げたというのがコレのことらしい。「レディースビューティーアカデミー」は、プロを目指す人をターゲットにしたビューティースクールで、白金の交差点にあったそうだ。実際に、この学校に通って、プロとして活躍するようになったような人は存在するのだろうか?この頃、実家の着物学校の縁で、小林幸子、川中美幸、坂本冬美などの着物のコーディネートに関わることもあったらしい。

1984年(28歳)
「日米エアロビクス・インストラクター・コンテスト」スペシャルゲスト。kimonoパフォーマンス白夢紅(しろむく)制作・プロデュース(ハワイ / ホノルルNBCアリーナ)。
「セリーヌきものコレクション」日本初発表、トータルコーディネート(帝国ホテル)。
歌手、女優、タレントの衣装コーディネーターとしてテレビ、舞台、CM、その他のジャンルで活躍。

1985年(29歳)
新潟雪祭りきものショー総合、演出プロデュース。

1986年(30歳)
オリジナルきものブランド「曽根あけみ」デザイン、プロデュース、安田多七()より発表。
オリジナル振袖ブランド「遊貴東」デザイン、プロデュース、安田多七()より発表。
オリジナルブランド「流布」デザイン、プロデュース()東レ・ル・モンド光洋より発表。
「緋魅(あけみ)KIMONOファッションパフォーマンス」発表(青山スパイラルホール)
芸術祭参加作品「オフィーリア」衣装デザインと総合コーディネート、芸術祭賞受賞(国立劇場)
オペラ舞踊「リア王」衣装デザインと総合コーディネート(青山円形劇場)

着物のデザイナーとして活動を始めたのは、この時期のようだ。日本ではDCブランドが流行り、ファッションへの関心が高まっていた時期ではある。着物のデザインというのは(洋服と違い)パターンで制作するのではなく、着方のコーディネートだったり、柄や染めは職人さんの技術次第なので・・・「デザイナー」と言っても微妙ではある。

1987年(31歳)
「きもの衣絽覇(いろは) by AKEMI SONE()じゅらくより発表(京都見本市)
オリジナルきものブランド「AKEMI SONE」デザイン、プロデュース、()じゅらくより発表。
「ステファニー &AKEMI SONE・ロックとKIMONOショー」制作・プロデュース(パルコ劇場)

発表した着物のラインが実際どれほど売れたのか、そしてビジネスとして継続されたのかはわからない。DCブランドの洋服が売り上げを伸ばす中、着物業界の危機感は強かったと推測はできる。着物業者が藁をも掴む思いで、着物デザイナーとして名乗りを上げた若い曽根あけみに希望を託したのでは?と考えるのには無理があるだろうか?

彼女のプロフィールで触れられていないことが不思議なのだが・・・この年(1987年)に、和のテイストを残した洋服を表参道のスパイラルビルで発表したことが、海外進出を志すきっかけになったらしい。日本だけでなく、世界中のプレスから注目された・・・と彼女は自負しているのだけど、実際にビジネスとして成立したのかは全く不明。当時、日本的な生地で洋服を作るということが世界的に流行っており、多くの亜流のひとつであることは否めないし、このショーことが日本のファッション界で話題になったということも、ボクが知る限りない。

1989年(33歳)
ニューヨークへ移住、AKEMI STUDIOを設立。

この年の3月にニューヨークへ移住したらしいので、その2ヶ月後くらいにボクは彼女と出会ったということだ。

そう言えば・・・日本の”スポンサー”(企業?男?)とのミーティングだと言って、ヒラヒラしたホステスっぽい服に濃い化粧をして、毎日のように昼間から外出していたことを覚えている。女性特有の接待のような”いかがわしさ”を漂わせていた。曽根あけみは、2人の女性スタッフからは”女王さま”のように扱われていて、普段の生活も贅沢三昧・・・毎晩のように高級レストランに出かけ、ブランド品を買い漁っていた。彼女があちこちのインタビュー記事で語っているように、裸一貫でアメリカに渡って”どん底”から這い上がったというよりも、太いパトロンがいる”愛人”が、左うちわで海外でビジネスを始めようとしているような印象であった。

ボクは夏が終わる前に、曽根あけみの会社を解雇されたので、翌年に発表されるコレクションの制作には、直接関わっていない。

1990年(34歳)
’91 春夏ニューヨークデビューコレクション発表(ザ・ロイヤルトンホテル NY)
ラトーヤ・ジャクソン湾岸戦争戦士への慰問コンサート、コスチュームデザイン、制作。
グローバー・ワシントン Jr. ステージ・コスチュームデザイン、制作。

このデビューコレクションは、ニューヨークのファッション界で殆どニュースにはならなかった。

彼女は、この年にデビューしたデザイナーの中で、一番売り上げが良かったと公言しているようだけど、この頃アメリカのアパレル業界は、ブラックマンデー後の大不況の真っ只中で、新人デザイナーがデビューすることは殆どなかったのだ。ニューヨーク市内で彼女のコレクションを買い付けた百貨店やブティックは一つもなかったし、アメリカのファッション雑誌に彼女の服が掲載されてた記憶もない。ケーブルチャンネルのファッション専門番組で、彼女のコレクションが取り上げられてたことは、ボクも覚えているが・・・その番組は基本的にニューヨークで行われる全てのコレクションを取り上げるので、特別なことではない。

ラトーヤ・ジャクソンは、そもそもがアメリカでは長年”お騒がせタレント”という存在なので、まともなデザイナーはラトーヤとは関わろうとはしなかった。

1991年(35歳)
’92 春夏ニューヨークコレクション発表(アトリエにて NY)

なぜか、秋冬を飛ばして春夏のコレクション・・・それもアトリエでの発表となると、規模が縮小されたことがわかる。

1992年(36歳)
’93 秋冬ニューヨークコレクション発表(アトリエにて NY)
IMEKA NEW YORK Co.,INC.に社名変更。
Hakuhodo Advertising America Inc.のビジュアルディレクターとして、コンサルタントライセンスを結び、Tsumura Internationalの新製品、デザイン、企画、イメージグラフィック、プロダクションに至るまでを総合プロデュース。

2シーズン飛ばして今度は秋冬だけというのが奇妙・・・それに、またしてもアトリエでの開催。ニューヨークで実質的なファッションビジネスが広がらなかったから、博報堂やツムラなど日本の企業との仕事に頼ったのかもしれない。ただ、この時に関わった仕事が、実際に何かの形になったのかは不明。

何気で、社名を変更しているのは、何故なんだろうか?

彼女がトランプタワーに住み始めたのはこの年(1992年)だったらしい。のちに結婚することになる黒人弁護士ロイ・P・ミラー氏の稼ぎでは、到底トランプタワーには住むことはできなかったそうなので、入居審査は彼女がパスしたということらしい。当時の彼女のアメリカ国内のビジネスから、トランプタワーに入居できるだけの経済力があったとは到底思えない、着物学校を経営していた実家の資産なのか、強力なスポンサー/パトロンが存在していたのか・・・いずれにしても「それなりの資産があることを証明する手段」と「実際に支払うことのできる経済力があった」ことは確かなようだ。

トランプタワーの審査に100人中99人は落ちると彼女は語っているが、当時ファッションデザイナーとしての実質的な功績もない日本人女性が通ってしまうのだから、それほど厳しいとは思えない。1992年と言えば、トランプはニュージャージー州のアトランティックシティーにあったカジノビジネスで失敗して債権者に追われていた頃・・・トランプブランド自体が不人気な時代だったのだ。当時は家賃を値引き(もしくは無料に)してでも、トランプタワーの住人になるように有名人(そのうちの一人がマイケル・ジャクソンだったと言われている)に部屋を提供して、イメージアップを図っていたことが知られている。彼女のように家賃の全額を支払ってくれる住人は、ある意味”ありがたい存在”だったとも推測できるのだ。

1993年(37歳)
’94 春夏ニューヨークコレクション発表。第1回ファッションウィーク「7th on sixth(ブライアントパーク NY)

この時のコレクションは、WWDなどでも報道されていたことを覚えている。ただ、それまでファッションウィークを定めていなかったニューヨークファッション業界(七番街に会社が集中しているので”セブンズアベニューと呼ばれる)が、初めて「セブンス・オン・シックスス/7th on sixth」(会場となったブライアントパークが六番街に面していた)と銘打って、集中的にコレクションを開催することを決めたのだが、発表時期をそれまでより1ヶ月以上早めたために参加を控えるデザイナーやメーカーが数多くいたので、新参者がファッションウィークに参加するには絶好の機会だったとも言えるのだ。

彼女はダナ・キャランやカルヴァン・クラインと同じ初日に開催したことを、特別のことのように語っているのだが・・・有名デザイナーと同じ日にショーを開催すると、翌日の新聞での扱いが小さくなってしまうので、一般的には敬遠される。どちらかというと、スケジュール的には不人気な初日に入り込んだ・・・という方が正しいのかもしれない。もちろん、同日にショーを開催したからと言って、ダナ・キャランやカルヴァン・クラインと肩を並べたということでは決してない。

結局、彼女がニューヨークのファッションウィークで、正式に招待されてコレクションを発表したのは、後にも先にも、この一回だけのようだ。日本のマスコミに対して、25年間に渡りニューヨークでコレクションを発表し続けていた”世界的デザイナー”であるかのように名乗るのは、意図的なミスリード(ほぼ捏造?)だとしか思えない。

1994年(38歳)
NEW YORK BEAUTY SPACE設立。
マイケル・ジャクソン、プライベートコレクション制作。
’94秋冬ニューヨークコレクション発表(ウォルドルフ・アストリアホテル NY)

ここで再び、美容業界へ関わり始めたようだ。彼女は「フェイスデザイン」というコンセプトを唱えていて、それはファッションデザイナーをしていて気づいた独自のコンセプトらしいのだが・・・メイクアップの基本的なステップを言い換えているに過ぎないように思える。また「水肌パッティング」という顔を氷水で濡れた綿で叩くというテクニックを提唱しているのだけど、これも単に肌が冷やされて毛穴が引き締まるだけのことらしい。

マイケル・ジャクソンのプライベートで着る服をデザインする経緯は、トランプタワー内のエレベーターで偶然乗り合わせたからだという。有名人のプレイベート・コレクションというと、とんでもなく難しい功績のように思えてしまうが・・・アメリカのお金持ちはオーダーで服を作ってもらうのが本当に好き。(ボクも何人かのために作ったことがある)有名人の中には「私が着て”あげる”んだから支払わない」ということも多かったりするので、この手のプライベートのオーダーというのは、結構、厄介な仕事だったりする。マイケル・ジャクソンからは、シャツを作ってくれと頼まれたらしい。「2年間、プライベートコレクションを手掛けた」と豪語しているけど、プライベートで着る服全部というわけでは勿論ない。実際に何着のシャツを作ったのだろうか?

この時、発表されたコレクションを取り上げたアメリカのメディア(雑誌、テレビ、新聞)はなかったし、どこかのショップや百貨店が買い付けたこともないようだ・・・確かにウォルドフ・アストリアホテルは高級ホテルではあるが、場所を借りるのは金次第で、デザイナーとしての格を表すわけではない。

ちなみに、彼女がトランプタワーから引っ越したのは翌年の1995年だそうだ。

1996年(40歳)
AKEMI SONEブティックをニューヨークミッドタウンにオープン。
世界三大テノール、プラシード・ドミンゴのプライベートコレクション制作。
トータルビューティークリエータースクールN.Y.B.S CREATIVE ARTSを開校。
スキンケア・ライン「DERMA SYSTEM」発表。
メイクアップ・ライン「NYBS」発表。

AKEMI SONE ブティック」をオープンしていたことは全く知らなかった・・・当時、ボクもニューヨークに住んでいたんだけど。お店をオープンしたミッドタウン(217 East 49th Street)は、所謂ブティックなどはないエリア(住宅地)で、ロケーション的には不可解。さらに”オートクチュール”の店だったそうで・・・店内には白い生地で作られたサンプルだけが展示されていたらしい。お客はサンプルからサイズやデザインを選択して、好きな生地を選ぶというシステムだったそうだ。ニューヨークには、中国人テイラーにデザイナーの服をコピーさせるような小金持ちばかりなので、余程リーズナブルな価格にしないかぎりビジネスとして成立させるのは厳しかったと思う。

プラシード・ドミンゴは体格の大きな方なのでサイズ的にプライベートで着る服を見つけるのは難しいと思われる・・・プライベートコレクションという言い回しが大袈裟で、単にオーダーを受けて何かを作ったということなのではないだろうか・・・。

トータルビューティークリエータースクールというのを開校して、プロの育成を目指したそうだが・・・メイクアップアーティストとして何ら実績のない彼女が開校して、誰が入学したいと思ったのだろうか?授業料が安ければ、そこそこ生徒を集めることはできたかもしれないが。また、スキンケアライン、メイクアップラインを発表しているという話だけど、ニューヨークでは全く話題になっていなかったし、扱っていた小売店さえなかったようなので、彼女のスクールの生徒相手に販売して(売り付けて?)いたということか?

1997年(41歳)
国際連合スタッフデーにて’97 AKEMI SONEスペシャルコレクション「ラブ&ビューティー」を発表。(国際連合本会議場 NY)。

国連から正式指名を受けて、日本人で初めて本会議場でファッションショーを開催したらしいが・・・ニューヨークの日本人社会の中でさえ、話題にはなってなかった。

1998年(42歳)
ロックフェラーセンター、フラワー&ーデンショー ’98 by AKEMI SONE「花の女神」を発表。
ショー後の作品展示は3週間で300万人の来場動員を記録。

フラワーガーデンショー自体は有名な催しものなので、来場動員数が多いのは当然のこと・・・あくまでも入場客の目的は、有名庭師によるガーデンコーディネートのブースだろう。生地で作った花々をあしらったイブニングドレスを48体を制作していたらしいが、イベント会場の添え物的な”展示”という印象でしかない。

この事については、いくつかの日本のマスコミが取り上げているのだけど・・・ファッション業界紙ではなく、主に男性向けのスポーツ新聞ばかりというのが、彼女が日本で築き上げていたネットワークを物語っていると思う。彼女のニューヨークでのビジネスに関しては、日本の経済誌などで取り上げられることもあったようだが・・・女性向けのファッションをデザインして、メイクアップのスクールを運営しているのに、取り上げるマスコミが”おじさん向け”ばかりなのは何とも奇妙なことだ。

1999年(43歳)
NEW YORK BEAUTY SPACEニューオフィスをグランドセントラル、ザ・グレイバー NYに開設。

2000年(44歳)
NEW YORK BEAUTY SPACE改め、正式名NYBS CREATIVE ARTSスタジオ開校。

引っ越したり、ビジネスの名前を変更したり・・・経営的に行き詰まって仕切り直しているのだろうか?それとも、なんらかのトラブル回避のためなのだろうか?

2002年(46歳)
東京・大坂にてニューヨークスタイル、トータルビューティーコレクション「RED」を開催。
(ウェスティンホテル大阪 / ホテルグランパシフィック・メリディアン東京)。

現地ではビジネスに行き詰まったため、海外で活躍していることを”売り”にして日本でのビジネスに頼ったということ?

2005年(49歳)
NYBS CREATIVE ARTSスタジオを5番街 NYに移転。
AKEMI SONEのニューヨーク流「水肌メイク」』株式会社サンマーク出版よりブックデビュー。

この本はすでに絶版だし、ボク自身は未読なので、内容については詳しくは分からないが・・・それほど話題になった美容本というわけではないようだ。(再販もされていないようだし・・・)氷水で濡らした綿で顔を叩くと毛穴が引き締まるテクニックを説明した本らしい。日本国内に「NYBS CREATIVE ARTSスタジオ」を開設するという”野望”があっての出版だったようだ。アマゾンでは出版時に酷評されたレビューが書かれているのだが、何故か2019年2月に高評価のレビューが2つあるという不自然さ(リンク参照)・・・曽根あけみサイドの人が書いたと推測するしかない。

「5番街」に移転とあるが・・・正確には「45 West 46th Street」=西46丁目の五番街と六番街の間に存在していた。雑居ビルがひしめく混沌としたエリアで、美容学校を開校するのに適している場所とは言い難いロケーション。曽根あけみがニューヨークで展開していたビジネスの中で、唯一、インターネット上にレビューが存在しているのが、このビジネスなのだが・・・それによると、プロとして働ける認定書を発行できる学校ではなかったようなので、通っても意味がないと酷評されている。おそらく、彼女がニューヨークで運営していたビューティースクールの全ては、認可されていなかったと思われるので・・・悪い評判が拡散することを阻むため(?)に、数年ごとにビジネスの名称を変更したり、オフィスや学校の引越しをしていたことも推測ができてしまう。

2014年(58歳)
“The Wedding in Thailand”スペシャルゲストとしてニューヨーク・コレクションを発表。
(オークラ プレステージ バンコクにて)。

ここで年月が飛ぶのは・・・彼女の夫(ロイ・ミラー氏)が2013年に亡くなり、彼女が日本に帰国したから。ただ、2005年から約10年近く、彼女のビジネスには何が起こっていたのだろうか?何も記載することがないということは「開店休業」という状態ではなかったのではないだろうか?

彼女の夫は”肺高血圧症”という難病だったそうで、約2年間の闘病の末に亡くなったそうだ。彼女は献身的に看病していたということで、最愛の人を亡くされたのは本当に気の毒なことだったと思う。ただ、夫が亡くなってから、それほどしないうちに日本に帰国していることから、ニューヨークでのビジネスの実態はなっていたとも推測できる。シャガールのオリジナルの絵画などの美術品や、ポルシェやベンツの高級車など、相当な財産があったとあちこちで語っているが、何故か全てを放棄(?)して”身ひとつ”で日本に帰国したと語っている・・・もしかして「差し押さえ?」と疑ってしまうような不自然な話ではある。(夫の死にショックを受けて悲しみに打ちひしがれていたとしても)

バンコクでのファッションショーを機に、夫を失った喪失感から立ち直ったそうだ。一年前に日本に帰国していて、タイの”バンコク”で開催しているのに「ニューヨーク・コレクション」と銘打ってしまうのは・・・「25年間ニューヨークファッション界で活躍した世界的なデザイナー」という看板を売りにしている”曽根あけみらしい”かもしれない。

2015年(59歳)
AKEMI S. MILLER Beauty Studio」大阪にて設立。

「なぜ大阪に?」という疑問はあるが、関西出身の彼女にとっては馴染みのある立地なのかもしれない。住所をグーグルマップのストリートビューで調べてみてみると・・・天満エリアのオフィス街(?)にある雑居ビルの5階だった。

AKEMI S. MILLER Beauty Studioの公式サイトを閲覧する限り、現在(2019年7月)もビューティースクールの運営はしているようだ。60代になった曽根あけみは現役で「フェイスデザイン」や「水肌メイク」を提唱する講習を続けているのだと思われる。ただ、フェイスブック内の彼女の投稿記事への反応の数を見る限り、それほど大勢の顧客/生徒がいる様子は見受けられない。

「25年間ニューヨークファッション界で活躍した世界的ファッションデザイナーで、トランプタワーに住んでいた唯一の日本人女性のセレブ」という宣伝文句を掲げているわりに、かなりスケールダウンしてしまったことは否定しようがない。海外セレブ感を醸し出すためか、夫が亡くなった後も「ミラー姓」を名乗り続けて活動しているのは、少々痛々しささえ感じる。

そもそも「25年間ニューヨークファション界で活躍した世界的デザイナー」であることも「ニューヨークで美容学校を運営して多くのプロを輩出した」ことも「虚構」(?)なので・・・インターネットでバックグラウンドがチェックできる今日には、すぐ”偽りのメッキ”は剥がれてしまうだろう。ただ、トランプタワーに住んだことのある日本人(”唯一”であるかどうかは、かなり怪しいが)という”体験談”は、日本のマスコミが好むネタのようで、トランプ大統領の誕生後には、あちこちのメディア(多くはネット記事だが)に登場しているようだ。

ファッション界や美容界などの業界では、ハッタリのプロフィールというのが通用してしまうことが多い。かつてボクがジェフリー・ビーン社で働いていた時にインターンで1日だけ雇った女性が、その後デザイナーとしてデビューしたとき「私はジェフリー・ビーンのアシスタントだった」とテレビ番組で堂々とインタビューで答えていて、それがまかり通ったことに驚いたことがある。本人が言い切ってしまうと事実確認をしないものなのか・・・公共のテレビ番組でも(または大手出版社であっても)自己申告のプロフィールは相当差し引いて考えた方が良いということのようだ。

”トランプタワー”の住人だったことをネタに「欧米ガー」的な”上から目線”の立ち位置でマスコミに登場している「アケミ・S・ミラー/曽根あけみ」は、ボクの人生で出会った人の中で「一番胡散臭い人」だろう。キム・カーダシアンが自分の補正下着ラインに「KIMONO」という名前で商品登録しようとして炎上したことは記憶に新しいが、30年前に「着物」を利用して、ニューヨークで”世界的ファッションデザイナー”であることを捏造した(?)日本人女性のことを、世の中の多くの人は知る由もない・・・。




ブログランキング・にほんブログ村へ