2013/11/20

禊(みそぎ)なしでは”沢尻エリカ”には普通の娘役なんて許されない?・・・「ぴったんこカン☆カン」番宣出演で垣間見せた”嫌われ者の美女ゆえ”の自虐で「笑いもの」になることが完全復活への道なのかもしれない~TBSドラマ「時計屋の娘」~



「悪女について」から約1年半ぶりとなる沢尻エリカ主演のテレビドラマ「時計屋の娘」が放映されました。放映前の数日間は番宣のために、久しぶりにTBS系のバラエティ番組に出演もしていましたが、扱いは”特別枠”というわけでもなく・・・以前と比べて「エリカ様のテレビに出演」の”ありがたみ”は、随分となくなってしまった気がします。なんだかんだで高城剛と離婚をすることもなく・・・といって仲睦まじいという報道もなく、世間はエリカ様の私生活にも、だいぶ興味を失ったようにも思えるほどです。

映画「クローズド・ノート」の舞台挨拶での無愛想っぷりで叩かれた「別に」騒動は、すでに6年前(2007年)の話・・・しかし、そのことは世間は容易く忘れてはくれません。「パッチギ」「1リットルの涙」などに代表される清楚で純粋な役柄のイメージに関わらず、時々垣間みせる女王さま的なキャラと歯に衣着せぬ気の強そうな発言の数々で、徐々に世間にも”素”の沢尻エリカと役柄のイメージの落差を、世間が徐々に気付き始めたころ・・・「別に」騒動は、沢尻エリカの人としての評価を決定的にしてしまいました。沢尻エリカ程度に性格の悪い若手女優なんて他にもいるはずだけど、上手に”素”の悪さを隠して、表向きは”気さくで良い人”っぷりを演じてみせているだけ・・・”素”がバレてしまうほど、沢尻エリカは「正直」なだけだったのかもしれません。


芸術祭参加作品として制作された「時計屋の娘」は、いかにも”丁寧な作りのテレビドラマ”風であります。石巻で美容院を営んでいた母親を東日本大震災の津波で亡くした宮原リョウ(沢尻エリカ)が、ある日突然、埼玉のシャッター商店街の外れで時計屋を営む秋山守一(國村隼)の前に、ヴィンテージの”ロンジン”の腕時計を修理して欲しいと現れます。実は、その腕時計は若き日の秋山(中村勘九郎)の恋人であった国木知花子(中村文乃)にプレゼントしたものであったのです。実は、母親が保証人となって背負わされた500万円の借金の取り立て屋に追われているというリョウ・・・もしかすると、秋山は自分の父親ではないかと言い出すのであります。秋山はスイスへ時計修理の留学に行けるかもしれない・・・という下心から、上司の娘とデートをしたことをきっかけに、知花子と別れてしまっていたのですが、もしかすると、その時に知花子が妊娠していたとしたらリョウが自分の娘かもしれないのです。そうでないとしても、リョウは秋山が愛した女性の娘であることは確かであります。回想シーンとなる25年前というのは平成元年(1988年)・・・”職人気質”というのが尊重された「昭和」というよりも、バブル経済へ突入していくイケイケな時代だったわけで、当時を知る世代にとっては、本作の”古き良き時代的演出”の違和感は拭えませんでした。

”親子”かもしれない職人気質の気難しい男性と彼の娘と名乗る若い女性との”奇妙な共同生活”というのは、どこかにありそうな設定の物語です。國村隼は、そんな典型的なキャラクターを淡々と演じていますが、沢尻エリカは、「別に」騒動以前のイメージに戻るような”清楚な娘役”といったところで、それなりの気迫を感じさせます。映画「へルタースケルター」とは違って熱量はかなり少ないとしても、役柄のキャラクターが乗り移ったように演じるのが沢尻エリカならでは・・・素顔に近い薄いメイクや、垢抜けない衣装のおかげではなく、騒動の時の憎々しげな表情を見せていた人物とは、まるで別人にしか見えません。町内に住む若者の花村司を桐谷健太が演じているのですが、テレビドラマでよくあるパターンの絡み方・・・ただ、秋山と知花子の思い出のケヤキの木を守る運動を始めたり、秋山とリョウが本当に親子がどうかをDNA検査を奨めたりと、物語は花村が介入することで展開していくことにはなります。しかし、リョウにキャバクラのバイトを紹介するための”フリ”だけのためだけに、午前中は”植木屋”として働き、昼間は”ホスト”をしているという設定は、必要だったのでしょうか?

ここからネタバレを含みます。


秋山は、キャバクラでバイトしないように説教したり、追ってきた取り立て屋に直談判したりと、リョウに対して父親のような気持ちを感じ始めるようになっていきます。また、リョウも心を許して身の上話をするようになるのですが・・・彼女の身の上話によると、随分といい加減な女だってことも分かってくるのです。確かに500万円の借金というのは、結構な金額ではありますが・・・沢尻エリカほどの美人だったらキャバクラで働けば、なんとか返せそうな金額ではあります。なんだかんだと言い訳をして、どんな仕事も長く続けられない若い女が、自分の父親かもしれない男に頼っているだけじゃないか・・・と、ボクは感じてしまいました。

ただ、秋山もリョウの借金を自ら背負うほど浅はかではないようで・・・彼女の母親の形見であるロンジンの腕時計を、ヴィンテージの腕時計のコレクター(小林稔侍)に売って、借金を返そうと提案します。案の定、コレクターはロンジンの腕時計を借金とピッタリ同じ500万円で買い取ると言い出してくれるのですが、その腕時計をプレゼントされる若い愛人が、腕時計のデザインが古臭いなどと文句タラタラ・・・ベルトを交換することで商談は成立するのですが、母親の形見の腕時計に散々ケチをつけられたリョウは「あの人には売りたくない!」と言い始めます。しかし、すぐに500万円を用意出来なければ、再び取り立て屋が秋山の店にやってきてしまう・・・リョウは夜逃げすることにするのです。

夜逃げするという状況の中、唐突にDNA検査の結果が判明します。これほどの個人情報が依頼主であるリョウ本人でなく、仲介者(?)であろう花村に伝えられるというのはありえない事のはずなのですが・・・何故か本作では、検査結果は花村から秋山にだけ伝えられます。ここで、秋山とリョウは親子ではなかったということがハッキリします。しかし、秋山はあえて、その事実をリョウにはすぐ伝えずに、リョウの故郷への戻る”夜逃げ”に付き合うのです。借金を返して、また秋山の暮らす街にリョウが戻ってきた時に、DNA検査の結果は伝えれば良い事だとして・・・。さらに辻褄が合わないのは・・・夜逃げの道中、木に興味があるからという安易な理由で、リョウは花村に植木屋の仕事を教えて欲しいと唐突に言い出すことです。これから謝金の取り立て屋たちから身を隠さなければならないというのに、どうやって仕事を覚えていくのでしょうか?

リョウ、秋山、花村の三人は、津波に流されたリョウの母親の美容室があった石巻を訪れます。震災後2年半以上経っても建物のない風景を見せられると、反射的に心が痛みますが・・・感動を生むために津波の被害を利用しているかのようでもあり、リョウの母親が津波で亡くなったという設定にする必然性はあったのだろうかと感じてしまいました。別に死別の理由が病気でも事故でも物語としては成立するのですから。石巻にも秋山の街にあったようなケヤキの大木があり、その木の下でリョウは秋山に時計屋を続けて欲しいと伝えます。「一日に一人、一週間に一人のためのお客さんのために」という台詞の一字一句は、観ていて予測のつくほど使い古されたドラマの言い回しであります。

本作は、この夜逃げから2年後、まだ時計屋を続けている秋山の目の前に、借金を返しきったらしいリョウが現れるところで終わります。その後の2年間の経緯を省いて、ただ再会する二人を姿を見せるだけという・・・観てくれた視聴者に解釈は委ねるという陳腐なエンディングです。DNA検査を依頼しておきながら、その結果も知らずに2年間リョウが過ごしてきたということなのでしょうか?父親だと思って秋山の元に戻ってきたと思われるリョウに、実は親子ではないことを伝えるのでしょうか?清々しいエンディングというよりも、なんとも不穏な気分にさせられました。秋山とリョウの人生が再び動き出すところを修理して動き出す母親の形見の時計に重ねたり、25年前の思い出と彼らを見守るようなケヤキの大木が繰り返し出てくる場面など・・・芸術祭参加作品らしいテレビドラマの作りを感じさせますが、逆に古臭さを感じさせてしまうのは否めませんでした。


1年半前のTBSドラマ「悪女について」でも、本来は富小路公子が主人公のはずだったのですが、船越英一郎が物語の主人公になっていました。今回も「時計屋の娘」は沢尻エリカ主演作として宣伝されてはいますが・・・実は、國村隼演じる秋山が本作の主人公です。物語を語る視点ではない役どころというのが、沢尻エリカ本人のイメージと役柄のイメージを分離させたいという作り手側の思惑なのかもしれません。ただ「別に」騒動以降の”素”のイメージの悪さを完全に払拭することは、沢尻エリカに好意的なボクでさえ難しく・・・女優としての評価はさておき、安定感のある”嫌われオーラ”は、そう簡単には消えないようです。

週刊誌やワイドショーに叩かれるだけでなく、本来であれば最も女優として輝ける20代という時期を、半ば”干された”ような状態で過ごさなければいけないということは「勿体ない!」のひと言に尽きます。女優として仕事をしないというのは、十分すぎる制裁であるとは思うのですが・・・「へルタースケルター」で”素”の悪いイメージを誇張したよう”りりこ”を演じても、「悪女について」で美貌の”富小路公子”を演じても、「時計屋の娘」で質素で”普通の娘”を演じても、沢尻エリカ本人のイメージは、そう簡単には変わらないようです。

キレイな女優さんというのはいるけれど、その中でもダントツの美しさの沢尻エリカは、日常生活に於いて一般人と全く同じように他人から扱われることというのはないと思います。外見によって態度を変えることは正しいとは思いませんが・・・”ブス”が一般的な女性とは違う扱いを受けるように、”美女”というのも違う扱いを受けます。一般人からすると良い事しか思いつきませんが、決して良い事ばかりではありません。例えば、美女が本人の努力で何かを成し遂げても、男性の力が関与したと思われがちですし、女性から嫉妬されたり理由なく嫌われることも多々あります。男性からは、内面性よりも外見で”しか”評価されないことも日常的です。美女にとってご機嫌を伺われることは日常茶飯事のこと・・・ブスが敬遠されて不機嫌になるのと同じように、美女は美しさ故に特別扱いされることに対して不機嫌になるのです。そういう特別扱いに不機嫌になる美女というのは、人を外見で判断する世間に苛立っているということに他なりません。そう考えると・・・沢尻エリカの仏頂面というのは、彼女が「外見で人を判断する」風潮に対抗している”まっとうな人”であるという証(あかし)なのかもしれないと思えてもくるのです。

本人的には「世の中の人にどう思われよとも関係ないので、女優として仕事を見事にこなして見返してやる!」という心境なのかもしれません。しかし、こういう”しおらしさ”のない開き直りが、逆効果で嫌われてしまうというのも、イカニモ”沢尻エリカ”らしい悪循環なのであります。ただ、世間の声を気にして、猫をかぶってみたところで、さらなる非難を受けることは明らか・・・結局、本性がバレてしまったからには、本人からの弁明の余地というのはないのかもしれません。

世の中が沢尻エリカの完全復活を許すためには、ある種の禊(みそぎ)が必要なのではないでしょうか?しかし、本業である”女優”という仕事の範疇では、どれほど蔑まされても、汚れ役をやろうとも、結果的に女優としては”おいしい”わけで・・・禊にはなりません。といって「いい子ちゃん」を見事に演じきったとことで、好感度が上がるわけでもなく、逆に「さすが女優、騙すのが上手い」とかしか思われないのですから。極論を言わせてもらえば・・・沢尻エリカが、女優としての”プライド”を捨てた姿を見るまでは、世間が完全復帰を許すことはないのかもしれません。

禊のひとつ方法は、バラエティ番組などで”素”の沢尻エリカが「笑いもの」になるということ・・・ただ「実は、天然」とか「結構、親父っぽい」とか、そんな女性タレントにありがちの笑われ方では、逆効果になるでしょう。番宣で生出演した「王様のブランチ」で、撮影中に四葉のクローバーを探して喜んでいる様子をアピールしたところで「かわいい~」と反応してくれるのは、収録スタジオでだけ・・・演出や共演者の気遣いを感じさせてしまいます。また、「A-Studio」での、鶴瓶の「意外に親父やな?」というツッコミも、想定内のイジり方で白々しくしか感じられません。「笑いもの」になるということは、本人的には”不本意”に笑われなければならないのです。


11月15日(金曜日)放映の「ぴったんこカン☆カン」は、沢尻エリカを安住紳一郎アナが、都内周辺のお店や施設を巡って”おもてなし”をするいう企画でした。数年前、ワイドショーで騒がれていた時期ならば2時間スペシャルにでもなりそうですが、今回は前半の3分の1は吉行和子と冨士真奈美の成田山の旅という2本立て・・・”番宣”の出演とはいっても”ありがたみ”のなさを感じさせる扱いでありました。扱いにくそうなゲストを上手に立てつつ、意地の悪いツッコミで転がしてしまう安住紳一郎アナは、エリカ様が他の番組の番宣では見せることのない女王様キャラの奥底にある”素直さ”や”痛々しさ”を引き出しつつ・・・絶妙に「笑いもの」にしていきます。


「機嫌悪いですか?」と下手に出るように見せかけて、表情の硬いエリカ様をイジることからスタート。最初の訪問先の中華街では、腕を組むエリカ様に対して「腕組むから機嫌悪そうに見えるんですよ~」と安住アナが指摘すると、意外にも素直に、腕組まないように努力をするエリカ様・・・しかし、手の置き場に困ってコートの襟を両手でガッシリと掴むという奇妙なポーズに、すかざす安住アナはツッコミ、「ヒーヒー」とヒステリックに笑うのです。負けず嫌いなエリカ様を弄ぶように、安住アナが意地悪くイジり、エリカ様が自虐的なカエシを繰り返す・・・最初よそよそしさを感じさせたエリカ様も、次第にタメ口調で安住アナに反論するようになります。表情からも次第に緊張感が薄れてくるのが、番組が進むうちに感じられました、「自然体でいる」と開き直りながらも・・・時折、エリカ様の瞳に見え隠れする「どうせ私は嫌われ者だから」という”あきらめ”のような痛々しさに、ボクは淡い「同情」を感じると同時に、少々サディスティックな「満足感」も味わったのでした。


番組の最後、「別に」の一言を生でぜひ聞きせてくれ・・・という安住アナの”無茶ぶり”には、さすがにエリカ様も応じませんでしたが、騒動から6年以上も経った今、エリカ様が完全復活するために必要なのは、謝罪や弁明でも、優しいフォローでもなく、自虐的に開き直ってみせるエリカ様を、安住アナのように意地悪~く「笑いもの」にする空気なのかもしれないと思うのです。

「時計屋の娘」
2013年11月18日TBSテレビ系放映
出演 : 沢尻エリカ、國村隼、桐谷健太、中村勘九郎、木村文乃、小林稔侍


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2013/11/01

ニコラス・ウィンディング・レフンとライアン・ゴスリングのタッグ再び!・・・"変態兄弟"と"鬼母"と"カラオケ警部"のバイオレント・アートフィルム~「オンリー・ゴット/Only God Forgives」~



今年のカンヌ映画祭で上映された際、大ブーイングで不評だったと聞いていたニコラス・ウィンディング・レフン監督の最新作品「オンリー・ゴッド/Only God Forgives・・・前作「ドライヴ」のような”暴力のカタルシス”を求めてしまうと期待はずれかもしれません。本作はイチゲンさんお断り”のレフン好みの映画的ディテールやスタイルを詰め込んでいるのですから。

「ドライヴ」と同じく濃い色(赤と青)の照明、現代音楽によるアンビアントな雰囲気は、引き継いでいます。また、デヴィット・リンチ監督の「ブルーベルベット」を思い起こさせる異常な性癖、デヴィット・フィンチャー監督の「ファイトクラブ」に似たアンダーグランドの世界、スタンリー・キューブリック監督の「シャイニング」よりもスローに蠢くカメラ・・・など、レフン監督作品に共通している、好きな映画監督のスタイルのサンプリングも継承されています。なお、本作はカルト映画監督として今「旬」な”アレハンドロ・ホドロフスキー監督に捧ぐ”となっています。

「ドライヴ」と本作の大きな違いは、観客が同化できるヒーロー的キャラクターが不在なこと・・・現実と妄想の入り交じった映像で語られる物語は非常にシンプルなのですが、物語を引っ張っていくサスペンス要素も、登場人物たちの内面的な蓄積によるカタルシスも希薄なのです。それ故に本作は、レフン調の映像を楽しめないと、厳しい見方になってしまうのかもしれません。


ジュリアン(ライアン・ゴスリング)と兄のビリー(トム・パーク)と共に、バンコクで表向きはムエタイのジムを経営しながら、裏では麻薬ビジネスを運営しています。ビリーは”サド”で”ペドフェリア”というド変態で・・・ある夜、タイ人少女をレイプして殺害してしまいます。バンコクを仕切るチャン警部(ウィタヤー・バーンシーガーム)は、犯行現場に殺された少女の父親を連れてきて、父親にビリーを殺させてしまうのです。その後、自分の娘に売春させた父親の罪を罰するために、父親の片手を切り落すのです。タイトルの「Only God Forgives=神のみ許し給う」の「God=神」はチャンということなのであります。

ジュリアンは、ガールフレンドのマイ(ウィーラワン・ボンガーム)に両手を椅子に縛らせて、目の前でオナニーショーをさせるという”性的不能”で”マゾ”・・・寡黙なくせにキレると暴力的になるという相当イッチャてる奴のですが”マザコン”でもあります。ジュリアンとビリーの母親(クリスティン・スコット・トーマス)が、ビリーの遺体を引き取りにバンコクへやってくるのですが、この母親は、さらにイッチャている”鬼母”です。ひと昔前なら、アンジェリカ・ヒューストンがキャスティングされそうな役柄で、柔和なイメージのあるクリスティン・スコット・トーマスはなかなか怪演であります。

本国で犯罪組織を牛耳っているらしい母親は、兄の仇を討たないジュリアンをなじります。「ビリーだったら、即座にアンタの仇を殺してるわ!」とか、「兄弟ってくだらないことで争うものよねぇ・・・でも、ビリーのおちんちんの方が、ずっとデカっかたわ~」とか、母親としておかしいのです。それでも、ジュリアンのガールフレンドが「あなたのお母さん、おかしいわよ!」と悪口を言うものなら、烈火の如く怒るジュリアンは救いようのないマザコンなのであります。どうやら(ボクの推測も入ってます)この母親はビリーともジュリアンとも、性的な関係があったのではないでしょうか・・・そして、ジュリアンが犯罪組織の乗っ取りを狙う母親にそそのかされて父親を殺して、その罪から逃れるためにバンコクに逃げているということのようなのです。


母親は自分の手下によりビリーを殺した父親を殺害させるのですが、ビリー殺害の背後にチャン警部の存在を知ることになります。チャン警部も、自分に近づく影に近づいており・・・ジュリアンの存在を聞き取り調査していくなかで知っていきます。暴力描写は過激さを増していき、拷問、殺害による情報戦となっていくのですが・・・チャン警部は、残忍な立ち回りの後、必ずカラオケバーでタイで量産されているであろうポップソングを歌うのであります。これが「神」のように振る舞う彼の浄化行動なのでしょうか?

チャン警部は自分を襲ってきた殺し屋を捕らえて、雇い主である母親の手下を見つけ出します。その彼を拷問して、遂にジュリアンと母親の存在まで辿り着いてしまいます。チャン警部と遭遇したジュリアンは素手での喧嘩の決闘を申し込んで、自分の経営するジムで戦うことになるのですが・・・チャン警部が圧倒的に強く、ジュリアンは顔が腫れ上がるほどボコボコにされてしまいます。母親はジュリアンとタイ人の手下に、チャン警部の若い妻と娘を含んだ皆殺しを命令するのですが、時を同じにしてチャン警部は母親の滞在するホテルに乗り込んできます。そして、チャン警部は母親の喉をあっさり突き刺し殺害してしまいます。

ここからネタバレを含みます。


チャン警部の自宅に侵入したタイ人の殺し屋は、帰宅したチャン警部の若い妻を射殺するのですが、ジュリアンは娘を殺すことができません。結局、娘に銃口を向けるタイ人の殺し屋を、ジュリアンは殺害して、娘を救ってしまいます。指示された復讐さえも「不能」なジュリアンは複雑な思いで母親の待つホテルに帰宅するのですが、そこには血だらけのまま放置されていた母親の死体が残されています。母親の腹に手を滑らしていくジュリアン・・・彼のマザコンの原点は、自分が生まれた母親の子宮に戻るといくことだったのでしょうか?

ジュリアンは本作の中で、何度となく自分の両手を前に掲げるというポーズをとるシーンがあるのですが、ジュリアンは犯罪者(まずは父親を殺した殺人者)としての罪の懺悔することを望んでいたようなのです。その後、ジュリアンはチャン警部により、両手を切り落とされる幻想を見るのです。そして、チャン警部は再びカラオケバーの舞台に立ち、歌って本作は終わります。

復讐の連鎖による暴力と、幻想と現実の入り交じっ心象描写によって、ジュリアンの懺悔への過程を描いているのですが・・・ストーリーはあってないようなもの。レフン監督の世界観とビジュアルを楽しむアートフィルムなのであります。


「オンリー・ゴット」
原題/Only God Forgives
2013年/アメリカ、デンマーク
監督 : ニコラス・ウィンディング・レフン
脚本 : ニコラス・ウィンディング・レフン
出演 : ライアン・ゴスリング、クリスティン・スコット・トーマス、ウィタヤー・バーンシーガーム、トム・パーク、ウィーラワン・ボンガーム、ゴードン・ブラウン、ピタヤ・バンスリンガム
2014年1月25日より日本劇場公開


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