2011/11/30

おじさんだって”ガールズゲーム”・・・3DS向けファッションゲームの新作~ガーリーな”ときめき”尽くしの「nicola監修 モデル☆おしゃれオーディション2」と、恋愛も仕事も勉強も”欲張り”な「FabStyle(ファブスタイル)」~



以前「めのおかしブログ」でも取り上げたことのあるニンテンドーDS向けのファッションゲーム・・・「わがままファッション ガールズモード」「That's QT(ザッツ・キューティー)」の2作は、”ファッション”をテーマに、それぞれ斬新なゲーム性を持たせた名作であります。ニンテンドー3DSの本体価格の大幅な値下げや、「スーパーマリオ3Dランド」と「マリオカート7」という任天堂ビックタイトルの発売と3DS向けプラットフォームへの移行に拍車がかかり、ファッションゲーム2作が発売されました!まだ、初年のみのプレイしかしていませんが・・・それぞれのタイトルのターゲットとしている購買層の違いや、メーカーの得意とするゲーム性や世界観を感じさられました。

「nicola監修 モデル☆おしゃれオーディション2」は、DS向けに発売された小学生向けのファッションゲームの同タイトルの第2弾・・・3DS向けの立体映像によるパワーアップだけではありません。前作は未プレイなのですが、「カラコン」「ネイル」「つけまつげ」「マスカラ」「チーク」「リップ」を楽しめるようになったことで、メイクする楽しさが格段に広がっているようです。今日日の小学生女子にとって、お化粧というのも、すでに”おしゃれ”の一部として楽しむようになってきていることの反映でしょうか?ただ。違いを確認できないほど表示が小さいので、メイクで大変身ということは実感できません・・・あくまでも「盛ってる」という自己満足を楽しむところが、ある意味、女子心の確信を突いているのかもしれません。

ゲームは、毎月5本与えられる雑誌「nicola」編集部でのお仕事をこなしていきながら、ギャラを稼いで・・・マイルームのクローゼットで着替えられる服やアクセサリーを揃えたり、メイクカラーやヘアスタイルが増やしていくというのが基本的な流れです。強制的に時間が流れるのではなく、お仕事を終わらせないと次の月に進まないので、自分のペースでプレイできるのがミソかもしれません。

お仕事というのは、主にテーマに沿った”コーデ”をするというものなのですが・・・検索を使ってキーワードからテーマに合ったアイテムだけを表示する機能があるので、編集部の意向に添った”コーデ”えをするのは、それほど難しくありません。また、最初から服やアクセサリーはすべてから選び放題なので、お仕事で稼がないと思うようなコーデが出来ないという縛りもなし。撮影の最初のポーズと表情は自分で決める事ことができるのだけど、表情の選択画面が凄く小さいので老眼のおじさんには、表情の違いを把握するのはまず無理。といっても・・・それほどゲーム要素ではないようで、依頼されているテーマに準じたアイテムを揃えていれば、どんなポーズでも表情でも編集部は満足してくれます。お仕事の種類も豊富で重複することはありませんが、ハッキリ言って「作業的」・・・難易度はお子様向けといっても良いでしょう。

写真撮影後、誌面のデザインも任されていて(どんな編集部なの?)いるのですが・・・ここが「おしゃれオーディション」のキモであります。タイトルポップの色や配置、背景の柄、キラキラとしたデコレーションフレーム、立体的に張り付けられるデコレーションアイテムで、「モデション2」の醍醐味を実感できる瞬間であります。キャラクターデザインの可愛らしさに加え、モデルとしてのポーズも豊富で、ガーリーな”ときめき”を満喫できます。さらに”あがる”デコのてんこ盛りのゴチャゴチャで「誌面としては如何なものか?」と思いますが・・・シンプルな美的感覚とは無縁の世界と割り切って楽しんでしまいましょう。

毎月のようにオーディションがあるのですが・・・クライアントの希望のキーワードに準じたコーデをして、写真館でポートレートを撮影して応募するというもの。ポートレート撮影のコーデは自分の所有するアイテムからしか出来ないので、オーディション用に買い物をする必要はあります。ただ、ギャラが仕事のたびに貰えるので、欲しいアイテムが買えないということはありません。オーディションに合格すると、編集部のギャラより多い金額(10万円!)を貰えますので、出来る限り合格を勝ち取れば、さらに買い物三昧できます。

「nicola」の読者モデル同士でのコミュニケーションもあるけど、自分から意図的にコミュニケーションを取れるわけではなく、相手が一方的にイベントに登場してきます。また、対応の選択肢があるわけでなく・・・地味に繰り広げられる人気投票や、オーディションの合格不合格で、パラメーターが変化するという仕組みなのかもしれません。意地悪なライバルの読者モデルとかは存在しないみたいで、イベントで発生した思い出は記念写真として保存されていきます。お仕事で出演する「ニコラ学園」というドラマで恋愛体験はできますが、1年目では男子との一対一の恋愛イベントというのは起こらないようであります。ただ、シナリオが進むに連れて出現する男子はドンドン増えてくるので、2年目以降に期待(?)です。

ファッションに興味がなくてもキーワードを考慮すれば、楽々クリアできてしまうゲームではありますが・・・やはり「カワイイ」雰囲気を楽しむのが王道。いちいち過剰なまでの「ガーリーな演出」に、心地よく”ときめく”ゲームとしてお薦めです。




”ネオロマンスゲーム”のコーエーから発売された「FabStyle(ファブスタイル)」は、あきらかに対象は「おとなの女性」・・・ゲームスタート時の主人公のカスタマイズで、顔の形、眉、目、口元の選択によって、かなり細かく容姿を作り込んでいけます。さらに下着まで選ばないといけないのですから、キャラクター”なりきり”っての感情移入はしやすいかもしれません。

ゲームは、姉から受け継いだブティックの経営でプラチナ大賞を目指すというのがシナリオですが・・・店頭販売でのミニアクションゲーム、アドベンチャーパートの恋愛とイベント、アカデミーでの「ファッション業界」「会社経営」「マナー」の勉強、そして勿論”着替え”も楽しむという何とも盛りだくさんであります。キャクターの容姿が結構リアルな上に、着替えも、メイクも、イベントのムービーに反映されるので、着替え要素には力を入れたくなる仕様となっています。

ブティック経営ですが・・・思いの外、大雑把なシステムです。フリータイムにお店に行かなくても、売り上げナンバーワンになれてしまいます。仕入れに関しても、ブランドごと、アイテムごとに仕入れるのではなく「お任せ仕入れ」で、どのブランドからもまんべんなく買い付ければ、お客様からの要望に応えられないことはありません。自分のテイストを出したいなら「コンセプト仕入れ」で、あるブランド(ブランドごとに客層がハッキリと決まっている)を選ぶと、そのブランドを多く仕入れてくれます。勿論、アイテムごとにひとつずつ買い付けすることも出来ますが、特に”ある”アイテムを大量に仕入れたいという意図がなければ、そんな面倒なことをする必要性はまったくありません。

販売は、毎月の開店時にひとりのお客さんを相手しますが・・・お客様情報で好きなテイストを確認すれば、そのテイストのブランドで欲しがっているアイテムを選ぶだけ。その後、シルエットで登場するお客さんが希望するアイテムのアイコンを、タッチペンで選んで運ぶという「ミニアクションゲーム」となるのですが・・・これが、なんとも陳腐なゲーム。まさに「作業的」で、毎月繰り返すので飽き飽きさせられます。上手にアクションをこなせば、売り上げも上がるというシステムなのですが・・・ファッションゲームにあるまじき、ファッション要素も、経営シュミレーション戦略も一切なしという驚愕の無意味さです。

アドベンチャーパートは、さすがに”ネオロマンスゲーム”の老舗だけあって、超ベタな世界観に満ちています。すべてのイベントではありませんが、声優さんのボイスで「くさい台詞」を言ってくれます。男性とのイベントによって、経営パートでのいろんな「仕入れ」や「プロモーション」の選択が可能となるので、好きじゃなくても「経営パート」をスムーズに進めるためには、仲良くしておく必要はありそうです。男性キャラは「韓流」スター的なルックスばかり・・・逞しいポーツ選手とか、せめて髭を生やしたワイルド系も加えて欲しかったというのが正直な印象。ただ、恋愛ゲームとしての難易度は低めで、努力しなくても男性から勝手に好きになってくれるので「ときメモ」のように苦労することは、まったくありません。

ちなみに、ボクは1年目で恋愛可能な相手の一人、アカデミーでデザイナーを目指している苦学生の「レオ」くんにターゲットを絞って、彼のドレスのモデルまで務めさせて頂きましたが、告白(?)されたと思ったら、スペインのデザイナー(何故、スペイン?)からインターンのアシスタントとして採用されと言って、あっさりと消えてしまいました。「お金がないから諦める」というレオくんに対して、選択肢に「私がお金を出してあげる!」という、まさかの「貢ぎ女」発言・・・金額を聞けば1年間でたったの100万円必要ということなので、あっさりと貢いでしまいました~!

大人の女性向けという意味で興味深いのは・・・ヘアサロンのオネェキャラ「マコ」ではないでしょうか!太い声でオネェ言葉のボイス付きのイベントが何故か多くて、仲良くなると「私のこと、どう思ってるか彼に聞いてきて!」とか、頼みごとをされたりもします。本来であれば、男性キャラ攻略の大事な情報源として活躍する立場のキャラなのだと思われますが・・・恋愛要素の難易度があまりにも低いので、わざわざマコさんの情報をアテにする必要はなさそうです。でも、ボクはマコさんとのオネェな会話目当てで、足しげくヘアサロンに通ってしまうのであります。

「FabStyle」の一番のプレイヤーを萎えさせる点というのは、アカデミーでのお勉強パートではないでしょうか?講義ということで数ページのテキストを呼んで、その内容に関する質問に答えるというものなのですが・・・これが、まるで学習ソフト!テストに出される質問には、講義のテキストに書かれていない意地悪な質問も含まれるので、ファッション業界の専門用語、簿記で必要なビジネスについての知識、そして常識以上の食事や日常のマナーなどを分かっていないと、一発で満点というのはまず無理でしょう。現在、発売されている攻略本にも、アカデミーの問題と回答は記載されていないようです。

ファッションゲームと言っても目指す世界は「玉の輿か?」と突っ込みたくなるような「上昇志向の強い世界観」であります。接触してくる男性は、すべて”世界的”に凄い方ばっかり・・・リアルだったら絶対に結婚詐欺師しかありえないメンツです。それに、何とか理屈こねて、親しくなると海外へ行ってしまうのですが、そのために二股、三股は当然というか、経営モードのプロモーション選択肢を広げるためには必然だったりします。

1年目の売り上げをクリアすると、次の年は価格の高いブランドを扱うようになります。最終的には海外のデザイナーレベルの高価な服を扱うセレクトショップを目指すことになるのですが・・・「高価な服=ビジネスの成功」というヒエラルキー自体、それほどファッション・ビジネス的にも正しくないように思えます。ゲームがゴールとしている女性像に、バブル的な貪欲さを感じさせられてしまうところがありました。

恋愛にも、仕事にも、勉強にも、何かと”欲張り”なゲームで、男も仕事もすべては自分の成功のためにという「素敵な(?)女性の生き方」を夢見るのならば・・・”人生バラ色ゲーム”としてお薦めです。ただし、お勉強パートのハードルを超えなければなりませんが・・・。



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2011/11/28

こんな映画、観るんじゃなかった!?・・・”あの”第1作目よりもさらに悪趣味な続編!~「The Human Centipede 2 Full Sequence/ムカデ人間2」~



日本でも今年の夏から劇場公開されているトム・シックス監督の「ムカデ人間」。すでに続編の製作がされていると噂されていた「ムカデ人間2/The Human Centipede 2 Full Sequenceですが、イギリスでは上映/配信の配給が禁止となり、アメリカでは先月(2011年10月7日から)に限定劇場公開/オン・デ・マンド配信が行われたばかり・・・しかし何故か、そのイギリスでは世界でもいち早くDVD/Blu-rayの発売(2011年11月21日)となりました。「ムカデ人間」については、ちょうど1年ほど前に「めのおかしブログ」で書いていますので、参照してみてください。

画像を含めて内容のネタバレを含みます。

前作ではドイツ人のマッドサイエンティストが、日本人男性と含む3人を肛門と口で数珠繫ぎに結合してムカデ人間を想像するという前代未聞のアイディアで、世界中を恐怖と笑い(?)に落とし込んだわけですが・・・「ムカデ人間2」は、前作の物語の続きというのではなく、「ムカデ人間」という映画に取り憑かれた冴えない男が、自らムカデ人間(それも12人連結!)を創造しようとするオリジナリティに溢れる発想の続編となっているのであります。第1作目よりもさらに悪趣味さ/ビョーキ度を増して、笑うことさえもできなくなるほど”ヤバい映画”となっております。

まず本作が前作と違うのは「モノクロ映画」であるということ・・・デビット・リンチ監督による「イレイザーヘッド」の悪夢を彷彿させます。極端にフォーカスの浅いボケの強い独特の映像からは、息づかいさえも感じさせるほど。モノクロということでゴア描写の残酷さが多少は緩和されてるところがあるのと同時に、モノクロだからこそ観客の想像力で補完されて、よりグロテスクに感じさせているところもあるようにも思います。また、カラーだと特殊メイクの嘘くさが白々しく見えてしまうことがありますが、モノクロ故にロシアのアンドレイ・イスカノフ監督の「ナイフの哲学」のように、妖しいリアリティを感じさせることにも成功しています。前作「ムカデ人間」の”お馬鹿”っぷりとは、かなり雰囲気の違う作品になっていることだけは確かです。

”精神的なハンディキャップを抱える”のマーティン(ローレンス・R・ハーヴィー)は、ロンドンの駐車場でガードマンとして働く30代後半(?)の男で、映画「ムカデ人間」のマニア・・・職場では「ムカデ人間」のDVDを繰り返し観てばかりいます。ムカデ人間関連の写真やイラストを描いたスクラップブックを眺めるのが至福の時という感じ・・・また、自宅のリビングルームでは、ムカデをペットとして飼っていたりしているのです。身長が極端に低く、腹の出た超デブ・・、薄毛がはげ頭に汗で髪がべったりと張り付いて、目だけやたら大きく飛び出してギョロギョロとしているという、かなりインパクトのあるルックスであります。特殊メイクなしで、この体型、この顔というのは”奇跡”のキャスティングと言えるでしょう。


この役者さん・・・主に子供向けの劇団で活動してきたということですが、身体障害者に殺人者を演じさせた「おそいひと」のような、ヤバさを感じさせます。”精神的なハンディキャップを抱える”という設定もあり、全編に渡って台詞らしい台詞はなし・・・地団駄踏んで悔しがったり、奇声を挙げて喜んだりとキチガイじみたパントマイム演技”だけ”で、観る者を不快感の極地に落とし込にながら、虐げられているマーティンの悲痛さまでも感じさせる・・・ある意味、スゴく上手い役者さんなのです。

自ら12人連結のムカデ人間を創造することを”妄想”するマーティンは、職場の駐車場の監視カメラに写る人々を次々と襲って拉致していきます。拳銃で足を撃ち、倒れたところを、バールで殴って気絶させるのです。そして、テープで口や手足を縛り、町外れに借りた倉庫へと運び入れます。時間の流れを考えると・・・随分と手際良く12人もの犠牲者を倉庫に運び入れたり、拉致された犠牲者たちが縛られたままその場にいるというのは不自然ではあるのですが、その理由はエンディングシーンによって明らかになります。

彼の暮らす環境はあまりにも酷いもので、同情の余地は感じさせられます。一緒に暮らす母親(ヴィヴィアン・ブライドソン)は、息子共々死んでしまいたいという願望があるようで、機会があればナイフを振り回すし、何かにつけてマーティンを罵っております。子供の頃に、父親から性的な虐待を受けたというマーティンに対して、夫が刑務所に送られたのは息子のせいだと責め続けている・・・そんな気の狂った母親なのです。

そんなギスギスした家に訪ねてくるカウンセラー先生(ビル・ハチェンズ)は、知恵遅のマーティンを犯そうと狙っていて、ケツを舐め回すように見つめたり、膝をねっとり触ってくる変態エロオヤジであります。さらに、家の上階に住む刺青のマッチョ親父(リー・ニコラス・ハリス)は、毎晩のようにゴア・トランスの音楽を爆音で鳴らす始末・・・騒音の不満を訴えるマーティンに逆ギレして、血尿がでるほど殴る蹴るはの暴力し放題。日常の取り巻く全ての人たちからも虐げられ、イジメを受けるマーティンの姿は、日野日出志のマンガのキャラクターのようであります。

父親からの性的虐待を苦にして、どうやらマーティンは自分の性器を傷つけているらしく・・・正常な状態ではないようなのです。仕事場で「ムカデ人間」のDVDを観ながら性的に興奮してきたマーティンは、紙ヤスリ(!)で陰部をこすってマスターベーションに興じるのですが・・・何が何だか意味が分かりません。でも、興奮と恍惚の表情があまりにも気持ち悪くて・・・見てはいけないものを見せられたように血の気が引いてしまいます。

被害者はムカデ人間の人材(?)にするために拉致された者だけではありません。マーティンが大切にしていた「ムカデ人間スクラップブック」をボロボロに破り捨てた母親は、バールで頭蓋骨に穴が空くほど殴って殺されてしまいます。性的虐待をしようとしていたカウンセラーは、駐車場の車内で売春婦にオーラルセックスをさせているところを発見され、拳銃で処刑されまいます。倉庫の管理人も、あっさりとマーティンは殺してしまいます。


「ムカデ人間」に出演していた女優アシュリン・イェニー本人を、タランティーノ監督の映画のためのオーディションと偽って呼び出して、マーティンはまんまと拉致してしまいます・・・名誉ある(?)ムカデ人間の先頭として。ただ、肛門に繋がれていいので口が利けるため、彼女は舌を引き抜かれるハメになってしまうのですから・・・ムカデの先頭役というのも大変なのです。こうして12人を集めたマーティンは、まったく医学的な知識もなしに12連結のムカデ人間の創造を始めることになります。

まず麻酔なしでハンマーでぶっ叩いて強引に抜歯、膝を切り開いてハサミで腱をチョキンと切って膝をついてしかあるけないようにして・・・口と肛門はホチキスをガンガン打ち込んで無理矢理に結合という大雑把さ!作業中に、うっかり二人(妊婦が、そのうちの一人)殺しちゃったもんだから、実際には”10人”連結のムカデ人間が完成・・・計画していた12人ではないけれど、マーティンも喜びのあまり涙ぐみます。外科的(?)な手術による結合ではないため、現場は血だらけという壮絶さ・・・モノクロの映像だから、かろうじて耐えられる画面です。しかし、本作の悪趣味は、この程度では終わりません。

前作の脱糞シーンも見るに耐えないものでしたが・・・本作では”スカトロビデオ”並に糞まみれとなります。先頭ムカデの女優の口にチューブを突っ込んで、漏斗で無理矢理スープを胃へ流し込み、全員に下剤を注射して排便を促すのです。そして、マーティンの「ブリ、ブリ、ブリ」という合図によって、ムカデ人間たちは次々と下痢便を我慢しきれずに発射していくのであります。しかし、ホチキスで口と肛門を繋いでいるだけだから、結合部分の隙間から便が漏れて飛び散るという地獄図!!!それも至近距離のカメラワークで画面いっぱいに広がるのだから堪りません!最後尾の女性が壁に向かってぶっ放す便は(トム・シックス監督曰く・・・「シンドラーのリスト」のスピルバーグ監督へのオマージュとして)、モノクロ映画の中の唯一のカラー(勿論、うんこ色!)を加えるという周到な悪趣味な演出となっています。

さすがのマーティンも10人の同時排便ショーにゲロ吐きまくりなのですが・・・そんな糞まみれの中、マーティンは性的に興奮してきて、最後尾の女性を後ろから犯し始めるのです!マーティンが腰を振るたびに10人が揺れる様は、まるで10人を一気に犯してるかのようであります。マーティンがムカデ人間を犯すというアイディアは、前作を観た観客から「何故、博士はムカデ人間とセックスしないんだ!」という疑問があったからというのですが・・・ムカデ人間で性的に興奮するということ自体が、ボクは想像しなかったことなので、このレイプシーンには、ただただ絶句というか、息が止まるような衝撃を受けてしまいました。(勿論、直前の脱糞シーンでかなり精神的に参っていたこともありますが・・・)

射精後、ぐったりしたマーティンの隙を狙って、死んでいたと思っていた妊婦がいきなり血の混じった羊水を流しながら、倉庫から外へ逃げ出します。実は彼女は死んでおらず、ビニールシートの下で逃げる機会を伺っていたようなのです。なんとか乗用車の中に逃げ込んで鍵を閉めることができたのですが、何故か車がスタートしません。そのうち運転席に座ったまま赤ん坊を車内で出産してしまいます。へその緒の繋がった赤ん坊は、車内の床に放置されたまま・・・母親は必死の思いで車のアクセルを全開で踏み入れて、何とか逃げることができるのです。

倉庫では、ムカデ人間の中間に繋がれていた刺青のマッチョ親父が、無理矢理自分の口を肛門から引き剥がして、5人連結のムカデ人間の二つに分かれてしまっています。もう・・・ムカデ人間プレイもこれまでかと、マーティンはムカデ人間のひとりひとりを銃殺、刺殺していきます。先頭ムカデの女優が、反撃しようとマーティンの肛門に大きな漏斗をぶっ込んで、ペットのムカデを押し込んだりもします。腸の中で暴れるムカデに苦しむマーティンですが、女優の首筋を切り裂いて、最終的には全員を殺害してしまいます。・・・ここで、画面はいきなり一転して、職場の管理人室で「ムカデ人間」のDVDでエンドロールを観ているマーティンが映し出されます。

・・・すべては、マーティンの妄想であったということなのです。

こういう「すべて主人公の妄想」というオチって、誤摩化されたような印象になってしまうものですが・・・「ムカデ人間2」に関しては、トンデモナイ悪夢から開放されたようなホッとした感覚さえ持ってしまいました。わざわざ「100% MEDICALLY INACCURATE/100%医学的に不正確」と唱えていたり、映画の中での時間の流れが不自然だったのは、マーティンの妄想であったからなのでした。そう思って振り返れば、本作はヒジョーに巧妙な作りになっているのであります。


実は、この”妄想オチ”・・・イギリスの映像審査機関(BBFC)が、イギリス国内での上映/配給禁止の理由として「主人公の妄想による性的暴力行為が過激的だから」と発表してしまったのです。映画会社は、未公開映画の内容を暴露する行為を不服として、訴えていたようですが・・・結果的に、イギリス国内での劇場公開はなく、いきなりDVD/Blu-rayリリースとなったのでしょうか?このような経緯もあってか、残念なことに・・・今回、ボクが観たUK版「ムカデ人間2」は、2分37秒ほどをカットしたバージョンとなっています。アメリカで限定的に劇場公開されたバージョンを観た人たちのレビューや特典映像のメイキングから、いくつかカットされたシーンが推測することができます。

まず、マーティンがムカデ人間をレイプするシーン。カットバージョンでは、マーティンの股間はハッキリとは映し出されません。前出のマスターベーションシーンでも、紙ヤスリを使って”しごいている”らしいとおうことが暗示されるだけ・・・オリジナルバージョンでは、マーティンの股間が映し出されているようです。それは、マーティン自身が傷つけているらしい、そのモノに針金をグルグル巻いて勃起させている(?)という想像しただけでも痛々しいモノ・・・本編で一瞬、メイキングシーンで演出指導している現場ではマーティンの下半身の”フツーでない”股間の状況を確認することが出来ます。


次に、妊婦の女性が車に逃げ込んで出産した後、思いっきりアクセルを踏むシーンですが・・・カットバージョンでは赤ん坊を車の床に産み落とした後、すぐに次のカットで勢いよく発車するシーンになっています。オリジナルでは、赤ん坊の頭が母親の踏み込んだアクセルペダルの下に赤ん坊の頭が挟まって押しつぶされる様子を、ハッキリと映しているようです。メイキング映像で、特殊効果のスタッフが血糊を頭部に仕込んだ赤ん坊の人形を、注意深くアクセルペダルの下に置いているところがありました。妊婦を酷い目に遇わせるというのはホラー映画でも、タブーの範疇に入ると思うのですが・・・生みたての赤ん坊を母親が踏み殺すというのは、さらに一線を越える不快度指数の高いタブーと言えるかもしれません。

最後は、マッチョ親父が自分の口を肛門から引きはがすシーンです。カットバージョンでは引きはがそうとしているシーンから、いきなり引いたカメラで、ムカデ人間がすでにふたつに分離している様子を映し出していますが・・・メイキングを観ると、口と肛門に特殊メイクを丁寧に施し、俳優に血糊の他に便糊(?)を口に含ませる指示をしています。オリジナルバージョンでは、引きはがす瞬間に血だけでなく、下痢便も吹き出すという目を覆いたくなるような演出をしているようです。

オリジナルバージョンを観たアメリカの観客は、これらのカットされたシーンについてのトラウマを語っているのが多いということを考えると・・・アンカットのオリジナルバージョンでこそ、本作の真のポテンシャルが発揮されることには間違いないようです。前作のファンの中には、本作の限界を超えた悪趣味ぶりにヘキヘキしている人もいて「もう二度と観たくない!」「DVDが発売されても買わない!」という人も多いのですから・・・いかにカットされたシーンのインパクトがあることが推測できます。エロティックな内容も含めて、日本で公開された場合、アンカット/無修正となるかは疑問・・・いずれアメリカでもDVD/Blu-rayがリリースされるはずなので、アンカットバージョンの発売に期待するしかありません。

トム・シックス監督は当初から計画してたように「ムカデ人間三部作」完成に向けて、すでに第三作目の脚本を執筆し始めているそうです。続編である「ムカデ人間2」が「ムカデ人間」とは、かなり違う趣の作品であったように、第3作目はまったく違う作品になると語っています。3作をムカデのように繋げた約4時間半で、ひとつの作品になるような三部作を目指しているということです。

4時間半の「ムカデ人間」づくし・・・それはまるで地獄のような体験になることでしょう。




「ムカデ人間2」
原題/The Human Centipede 2 Full Sequence
2011年/オランダ、イギリス、アメリカ
監督 : トム・シックス
脚本 : トム・シックス
出演 : ローレンス・R・ハーヴィー、アシュリン・イェニー、ヴィヴィアン・ブライドソン、ビル・ハチェンズ、リー・ニコラス・ハリス

2012年7月14日日本公開

追伸:2012年2月14日に発売済みのアメリカ版「The Human Centipede 2 Full Sequence」DVD/Blu-rayは「ムカデ」マニア待望(?)のノーカット版!



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2011/11/24

結局「知らぬが仏」が幸せなのよ・・・”期待”がなければ”嫉妬”も”浮気”も”束縛”からも解放されるの!



赤い糸で結ばれた一人と添い遂げるっていうのは、確かに「純粋」と言えるのかもしれません。しかし、人の行き来や情報が乏しかった時代ならともかく、今、そんな関係を求めるのは鼻っから無理・・・そんな、おとぎ話のような恋愛を求めていたら、一生独り身で生きるハメになりそうです。それならば・・・付き合っている間ぐらいは、せめて”ステディな関係”でいたいというのが現実的な「純粋」ということかもしれません。

男女の夫婦であれば「浮気」というのは、家族に関わる問題に直結してくるので、気持ちだけの問題ではありません。妻からしてみれば、夫にあっちこっちの別な女と子供を作られては、自分の家庭生活が危うくなります。妻が別な男の子を宿して、父親でもない夫がその子供の養育の義務までを負うハメになっては非常に困ります。法律的にも男女の夫婦間での「浮気」というのは、感情論だけでは片付けられない問題を含んでいるように思います。ゲイカップルの「浮気」と、男女の夫婦間の「浮気」を同じ土俵で語ることではないのかもしれません。

そもそもゲイにとって「浮気」というのは「なんぞや?」ということです。ボク自身は20代までは、付き合っている人がいたら、他の人とセックスすることなんて考えなかったタイプでした。だから彼氏が浮気をしてるかもしれないかとかさえも、考えることがありませんでした。元々、付き合ってもベッタリと四六時中、一緒にいたいとか、毎日連絡し合っていたいとかというタイプではなかったので、もし当時、付き合っていた人が「浮気」をしていたとしても、ボクは気付くことはなかったでしょう。

「浮気」という概念自体を、本当の意味で理解し始めたのは、自分自身が「浮気」の相手という立場になってからかもしれません。「浮気」相手は彼氏という存在を最初から知らされているわけですが・・・彼氏には浮気相手であったボクの存在というのは「ないこと」になっているわけです。まだまだ浅はかであったボクは、彼氏の存在を含めて彼の関係の全てを把握しているのは自分であると奢った考え方をして、いい気になっていましたが・・・実は、失いたくない大切な人にこそ嘘をつくものだと後々学んだものでした。

ゲイのカップル同士でも、インスタントセックスの相手でも、信頼「する」「しない」の問題ではなく・・・常に”セーフセックス”を行なうべきというのは言うまでもありません。しかし・・・遊んでない人に限って、ついつい流れに任せて「生」でやってしまうことが多いようで、性病や感染症のリスクを負うことになります。ゲイにとって「浮気」にまつわるトラブルって、まずは病気の問題・・・でも、セーフセックスで回避できるのだから容易いことです。

ある程度、歳を取ってくると・・・出会う人の大半は、彼氏/相方持ちになってきます。同棲していても定期的にセックスしていて「パートナー以外とのセックスなんてアリエナイ!」というカップルもいるとは思いますが・・・彼氏/相方とは”セックスレス”というのが殆ど・・・お互い空気なような存在になって日々の生活はうまくやっているというゲイカップルといいうのは、実はヒジョーに多いのです。ただ、悲しいかな・・・人間的な相性が合うからといって、セックスに於いての相性が合うとは限りません。セックスなんてしなくても全然平気ならば、二人して禁欲生活になってしまうわけですが・・・それを続けられないのがゲイのスケベ心だったりします。そうなってくると世の中には、とりあえず彼氏/相方という存在はいるけど、セックスする相手は他で探しているというケースが増えてくるわけで・・・「浮気」相手ということが前提での”お付き合い”ということになるわけです。

タチは「男」だから「浮気」は仕方ないって考えるのは、歪んだ男女の恋愛マニュアルの押し売り・・・「浮気」をするのに「男」とか「女」とか「タチ」とか「ウケ」は関係ありません。ただ「浮気」を「する人」と「しない人」がいるという事だけ・・・その理由も、さまざまだったりします。彼氏/相方とのセックスの相性が合わないので他の人とのセックスで満足したい人というのは勿論・・・いろんな人とセックスすることでしか自分の存在価値や自信を得ることのできない人や、ただ単にアプローチされると断ることが出来ない人っていうのもいます。何故「浮気」するのかなんて、いちいち考えて「浮気」しているわけではありません。

付き合っている人がいないフリーのときは、散々ハッテン場に出掛けたり、誰彼構わずセックスしまくるのに、パートナーが見つかると「浮気」は絶対にしないっていう人っています。そういう人が「一途で純粋」「道徳観のある大人」とは限りません。単に、その人なりの”筋の通し方”というだけのことだったりします。ただ、そういう筋を通し方をする人というのは、パートナーに対しても「束縛」することに意味を見出したりするので・・・付き合うと厄介だったりします。また、世の中には自分は「浮気」しても良いけど、相手の「浮気」は許さないという我が儘な輩っていうのもいます。それって、プライドだけは人一倍あるくせに、本質的に自分自身に自信のないことを公言しているようなもんで・・・精神的にお子様っていうことでしかありません。

「浮気」されて「嫉妬」という感情が生まれるならば、少なからず相手を「束縛」したいという気持ちがある証拠かもしれません・・・でも「束縛」をして、何を得られるのでしょう?「浮気」相手に彼氏/相方が心変わりして、自分が捨てられてしまうことを何とか阻止しようと「束縛」しているとしたら・・・すでに捨てられる立場に自らの身を投じてしまっているようなものです。相手に執着するから「浮気」が「裏切り」に思えてしまうのです。

「浮気」によって裏切っているのは「浮気」をしないという「期待」だけ・・・別に修羅場でもなんでもありません。バレないように「浮気」しているなら、まだ関係を続けたいという何よりの証。逆に「浮気」を疑われて、すぐさま白状して、開き直るというのは、正直者でも素直でもなく、単に「浮気」を隠し通すための重圧に耐えられないだけだったりします。所詮、本気でない「浮気」に対して、無駄に「嫉妬」を感じることさえないのです。

「浮気」の見分け方というのは、実は簡単・・・「浮気」を疑う時点で、おそらく「浮気」していると思って間違いありません。でも、しっぽを掴んだからといって「浮気」を追求するということは、相手につかなくてもいい嘘をあえてつかせるようなモノ・・・言い訳できないほど追い詰めたりして、一体、誰が幸せになるのでしょう?もし、彼氏/相方とセックスレスなのに、一切「浮気」がない方が不自然・・・肉体的に「浮気」さえ出来ないEDとか、ストレスによる性欲減退とか、鬱とかを心配してしまいます。

結局のところ「浮気」をする人は、なんだかんだで「浮気」するわけだから「期待」を持って「束縛」したり「嫉妬」することこそ、無意味・・・彼氏/相方の部外活動には「知らぬが仏」を通すが勝ちなのです。

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2011/11/13

詩人・園子温監督による”概念としての女たち”への讃歌・・・「言葉」をおぼえて”地獄”へ堕ちた女は”明るい奈落”という「城」を目指すの!~「恋の罪」~



「愛のむきだし」以来、脂ののっている園子温監督・・・1993年に発生した埼玉愛犬家殺人事件をベースにした「冷たい熱帯魚」に続き、1997年に起こった東電OL殺人事件からインスパイアされた「恋の罪」は、再びトラウマ確実な園子温テイストの映画でありました。

東電OL殺人事件の発生当時、ボクは日本に住んでいなかったので、マスコミの報道については全く知らないのですが・・・その後に事件のこと読むたび、被害者となった東電OLに興味を持たずにいられませんでした。学歴にも恵まれ、女性総合職のエリート社員として昼は働きながら、夜は円山町で街娼をしていたという39歳(当時)の未婚女性に、ボクは強いシンパシーを感じてしまったのです。この事件をルポルタージュした佐野眞一著の「東電OL殺人事件」は勿論、事件からインスパイアされた桐野夏生著の「グロテスク」を読み、ボクは東電OLの堕ちていく姿を妄想しては、彼女の生き様に憧れてしまうところさえありました。そんなボクが大好物の題材を、あの園子温が映画にするというのですから、これは期待せずにはいられません。

「恋の罪」は、事件から想像を膨らましたフィクション・・・捜査する女刑事とベストセラー作家の妻の二人の架空の物語を加えて、事件の深層というよりも”園子温監督の思う女”の本質に迫っています。本作には、ボクが共感/同化していた”堕ちたエリートOL”なんて生易しい地獄ではなく・・・その先にある「明るい奈落」が描かれているのです。

物語はまず、敏腕女刑事/吉田和子(水野美紀)の大胆なセックスシーンとヘアヌードで始まります。不倫相手との激しい情事の直後、彼女は捜査のため円山町へ駆けつけるのですが・・・空き家のボロアパートの一室で、マネキン人形に接合された切断された遺体を目撃することになるのです。ひとつは赤いドレスを着せられた上半身だけの死体、もうひとつはセーラー服を着せられた下半身の膝までの死体、顔はマネキン人形頭、手、膝から下の部分は行方不明で、女性器からはクリトリスが切り取られているという猟奇的な殺人事件だったでした。

本作では、女刑事の不倫と殺人事件の捜査と同時に、事件に関与していた二人の女性、ベストセラー作家の妻/菊池いずみ(神楽坂恵)と昼は大学教授で夜は街娼をする女/尾沢美津子(冨樫真)の経緯を過去にさかのぼっていき、妄想なども入り込み、時間軸も現実と非現実がシャッフルされるという少々複雑な構造となっています。

まず語られるのは、ベストセラー作家の妻/菊池いずみの物語です。

「冷たい熱帯魚」では主人公の妻を演じていた神楽坂恵・・・台詞は棒読みっぽく、自信なさげで確かな自分がない感じ。でも、脱いだら巨乳で、妙に”男好き”のするエロさを醸し出している不思議な印象でした。本作では、園子温の演出のもと捨て身の怪演をしております。

作家の夫/菊池由起夫(津田寛治)を、毎日同じ時間に家から送り出し、玄関で迎える日々(執筆のために仕事場を構えている)・・・定位置にスリッパを準備し、帰宅のタイミングに合わせて紅茶を用意。夫の望むままの”完璧な家”を守る妻を演じていますが、夫との夜の営みはなく悶々とした夜を過ごしているいたのです。でも、夫の朗読会では妻という立場に優越感を感じたり、女友達を招待して豪華な自宅を見せびらかしていたりもします。

世の中には社会的な成功者の夫を持つ「貞淑な妻」という女性がいますが・・・彼女たちって、何を求めているのかと疑問に感じてしまいます。生活に困窮することはなく、世間的な体裁を保つ贅沢も許されています。夫の言いなりになることで、世間的には羨ましがられる生活を手にし、成功者の妻としての社会的地位さえも手にすることができるのですから・・・学生時代の友人はもとより、元同僚、女友達など世間に対して「してやったり」な優越感さえ感じることでしょう。彼女らは、意識的にしろ、無意識にしろ、したたかで野心家と言えるのかもしれません。

逆に「貞淑な妻」を求める成功者・・・というのは、どういう男性なのでしょう?実は経済的/社会的優位によって女性を縛ることでしか女の信用できない男なのかもしれません。金とセックスを交換することで安心することができるから、家の外では売春婦を買っていたりするもの・・・だからこそ、尚、妻には子孫を残す目的以外でセックスを求めないだろうし、妻の貞淑さというのを過剰に求めるのでしょう。浮気や不倫は勿論、性的に成熟することさえ許すはずはありません。

いずみは日記をつけ始めることで、退屈な生活の不満に気付いていきます。淡々とすべきことをしているだけであれば、ただ同じような日常が続いていただけかのかもしれません。日記を書くという行為で自分の思いを「言葉」にした途端、退屈さは堪え難きモノになっていくのです。夫に許され、いずみの得た仕事というのは・・・スーパーの試食コーナーでソーセージを売る仕事。ベストセラー作家の妻という肩書きをなくした場では、いずみは社会的にこの程度の女だということなのでしょう。

いずみの最初の転機は、撮影モデルのスカウトされたこと。言葉巧みに誘われて撮影所まで出向いてしまったいずみは、スタッフに褒めまくられて、気分を良くしてカメラの前に立ってしまうのです。最初はドレス姿で、次に水着にされ、最後には男性モデルとの絡みまでやらされてしまいます。撮影後にモデルの男に誘惑されホテルへ連れ込まれて・・・欲求不満だったいずみは、久しぶりのセックスで急に生命力を取り戻したかのように生き生きとしてくるのです。自宅の鏡の前で裸になってソーセージ販売の練習をするうちに、声もハキハキして表情も明るくなっていきます。自宅でも夫に対してより献身的になり、スーパーのバイトでも元気いっぱい、ヌードモデルの仕事も楽しくなってくるし・・・いずみは徐々に大胆になっていき、若い男を引っ掛けてトイレでセックスするような女になっていくのです。

次の転機は、尾沢美津子との出会いでした。胸の開いたセクシーなドレスを着て渋谷の街をふらついている時、カオル(小林竜樹)という若者に声をかけられて、円山町のラブホテルにしけこみます。カオルは白いトレンチコートに黒い帽子という園子温監督自身のスタイルを彷彿させるファションをしていることから、監督自身を投影させているのかもしれません。

一見すると今どきの若者のようなカオルですが、エッチが終わった後、危ない本性を現します。いずみの手を縛って、夫に電話で家に帰れなくなったことを言うように、サディスティックに脅すのです。この段階では、まだ家では貞淑な妻を演じていたいずみにとって、これほどの危機はありません。カオルの言いなりになり、四つん這いで犯されながら夫と電話で話す事で、やっと帰宅を許されることになります。いずみは、すっかり精神的にボロボロ・・・ホテルを出た後、円山町の道端で倒れ込んでしまいます。そこに現れて、いずみに手を差し伸べたのが、尾沢美津子なのでした。美津子は円山町で客を取る街娼・・・空き家になったボロアパート一室をラブホテル代わりに使って、安い金額で男達とセックスしていていたのです。

映画はここからは美津子の物語も加わって、いずみと美津子の二人を女を描いていきます。

この美津子こそ東電OLの被害者をモデルとした役柄で、年齢も同じ39歳。痩せぎすで肋骨が浮かび出るほど痩せているという肉体的な特徴も似ています。職業は、会社のエリート社員から大学助教授へと変更されているものの、彼女の父親も同じ大学の教授であったという設定は、東電OLの父親もまた東電幹部であったという事実に基づいているのでしょう。美津子は、ある詩をいずみに教えます。

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ボクはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる

これは、田村隆一の「言葉のない世界」から「帰途」というタイトルの詩からの抜粋なのですが・・・「言葉」をおぼえたことにより、目から流れている水分のことを「涙」であると知ってしまった・・・だから、涙を流す気持ちまでも理解することができて、立ち去ることが出来なくなってしまたという意味なのだそうです。

美津子は、いずみはまだ「言葉」の本当の意味を知らないから、自分のことも分からず迷いがあるのだと説きます・・・「肉体をもった言葉」を理解すべきだと。考えてみれば、我々は「言葉」を介して、自分の感情さえも理解しているところがあります。「浮気」「不倫」という言葉を使えば、裏切られた気持ちにもなるものだけど・・・言葉なしで状況を表す言葉がなければ、どういう感情を持つべきかもハッキリとは分からないものだったりします。言葉の上澄みしか理解していない、いずみは「ベストセラー作家の貞淑な妻」という「言葉」に準じて、その役目を演じていただけだったのかもしれないのです。

重要な「言葉」として登場するのが「城」です。これはカオルの口からも発せられる言葉なのですが・・・美津子は、カフカの「城」を引用して・・・人は、あるかどうかも分からない「城」の周りをぐるぐると回って、まだ「城」の入り口さえも見たこともない、結局は「城」には辿り着けないと言うのです。

謎解きのように、美津子が口にする「城」という言葉の意味・・・そして「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」と詩人である園子温の「言葉」の世界が広がっていきます。美津子はたいへん饒舌で、次から次へと「言葉」をいずみに浴びせます。

「愛が無ければお金を取らなきゃ!」(これは名言!)

美津子の言葉に従って・・・いずみいは誘ってくる男に、セックスするなら金をくれと迫るようになります。だって、いずみにセックスを求めてくる男たちに、いずみは「愛」はないのですか。いずみの「愛」は、夫のために取ってあるのです。お金をもらうAVモデルのお仕事には、ますます力が入ります。以前とは違い、自らが騎乗位で腰を振りまくる熱演ぶりにスタッフも目が点です。スーパーのバイトでは、細かく刻んだウインナーではなく、巨大ウインナー1本を嬉しそうに販売する姿は。滑稽ながら輝いてみえます。

自分を導いてくれるのは美津子だと信じて、いずみは彼女を「師匠」と仰ぎます。行動を共にして円山町で売春をするようなるのですが・・・いずみにとって汚いボロアパートで「売女」と罵られながら男たちに犯されるのには、抵抗があったりします。そんな弱腰のいずみを見て美津子は「わたしのとこまで堕ちてこい!」と一喝するのです。美津子を演じる冨樫真という女優さんは初めて観たのですが・・・壊れた女を見事に怪演しています。

徐々に・・・いずみと美津子の経緯が明らかになると同時に、捜査する和子がズルズルと続けている不倫の状況も描かれます。ゴミ出しのフリして家族の目を盗んで男の車の中で抱擁したり、犯行現場でテレフォンセックスに興じたり・・・というSMチックなプレイ。しかし、いずみと美津子のように何故彼女が不倫相手にのめり込むのか理由というのは釈然としません。
美人だけど、これといった特徴のない水野美紀が演じているのと相まって、殺人事件の真相を観客とともに見守る役目以外、和子にはあまり興味を持てなかったりします。

ここからはエンディングまでのネタバレ含みます。

美津子からある日突然、以前いずみを酷い目にあわせたカオルという男を紹介されます。彼はデリヘルの元締めのような仕事をしているようで、美津子は週数日は彼のやっている「魔女っ子クラブ」でデリヘル嬢をしていたのです。店にいく前に、何故か三人は美津子の自宅の古い屋敷を訪れることになります。そこで彼女達を迎えたのは、美津子の母(大方斐紗子)でした。ここで繰り広げられる母娘のバトルは、本作の最高のシーンのひとつ・・・トラウマ確実の場面が繰り広げられます。

美津子の父、すなわち、彼女の夫は身分が低く婿養子として尾沢家に入ったというのですが・・・下品な彼の血は、娘に引き継がれたのだと母親は訴えます。高校時代、美津子は”男性”として父親に近親相姦的な恋心を抱いていたのです。母親に毛嫌いされている似た者同士の父親と娘は、タジオに閉じこもるようになり、娘をヌードモデルにしてスケッチなどしていたようなのです。母親は、そんな父と娘の関係をおぞましく思っていたに違いありません。しかし実際は、父親は娘にカフカの「城」を手渡して、自分は「城」のような存在である(決して交わってはならない)と諭していたようなのです。美津子にとって、その「城」の概念が、どうしても手に入れることのできないトラウマの象徴として残ったのでした。

自分の血も半分引き継いでいるはずのなのに「下品な父親の血を引き継いだから、娘は頭が悪くて下品なんですよ・・・だから売春なんて下品なことしてますの~」と微笑む母親・・・。美津子が、堕ちてしまった理由は、この「上品」という言葉に囚われた母親が原因であったことが伺えます。

「死ね、ババァ!」と口答えする美津子に「あなたこそ、死ねば良いのにぃ~」と笑いながら、いずみとカオルに同意を求める母親の姿というのは・・・一対一では立ち向かうパワーのない年老いた母親は、第三者(いずみとカオル)が立ち合っている機会を見計らって、普段、娘に言いたくて仕方ない思いをぶつけているようです。母親が最も望まない生き方ことをすることこそが、美津子が自らを堕していった原動力ではなかったかと思えてしまいます。子供に対して高い期待を押し付ける親と、反抗心が大人になってもなくならない幼児性の高い子供によって、親を悲しませることが子の生き甲斐なってしまうのですから・・・こんな皮肉なことはありません。

さて・・・美津子の差し金によりデリヘル嬢として「魔女っ子クラブ」で働かされることになってしまったいずみ。若い子が働くこのデリヘルでは、美津子は実は「チェンジ要員」という名の厄介者・・・39歳の美津子を客の元へ行かせれば、多くの客は女の子のチェンジを求めてくるのです。そこで、客に料金の高い「VIPコース/若くて可愛い女の子が必ず来る」に案内するというのが、デリヘル店のビジネスの常套手段だったというのです。

美津子が出掛けた後、カオルはいずみを連れ立って「チェンジ」に備えて、出張先のホテルの部屋へ向かいます。客に跨がって強引にセックスをする美津子・・相手はいずみの夫/菊池由起夫だったのです!実は、ふたりが結婚する以前から由起夫は美津子の客でした・・・そして彼のお好みのプレイは騎乗位で跨がった美津子に首を絞められながら果てること。その快感によって彼はベストセラーを書き続ける意欲を掻き立てていたというのです。そして・・・いずみを街娼/デリヘル嬢にまで導いてきたのは、意図的であったことが明かされます。

ベストセラー作家の貞淑な妻に収まっている”いずみ”に対しての嫉妬や復讐心で、美津子がカオルを利用して出会い、デリヘル嬢に仕立てたのも夫と鉢合わせさせるためだとしたら・・・美津子にはガッカリです。

肉体をもった「言葉」の意味を求め、辿り着けない「城」を探すという大命題を持って、地獄に堕ちていったはずなのに・・・結局は、そんな凡人のような安っぽい感情によって動いていたとは!そんな最低な美津子には、無惨な死しかありません。それは、美津子の母親によって決着をつけられるのですが・・・カオルといずみの手を借りて行なわれた犯行であるはずです。映画では何故、マネキンに死体の胴体を接合したか、セーラー服と赤いドレスを着せたのか、などの詳しい説明はありませんし、どのような作業をしたのかは描かれません。ただ、カオルはその後、美津子の母親と屋敷に行って、首つり自殺をしていたとうこと。そして、殺害を告白した美津子の母親は、その上品な威厳を守るかのように、さっさと自害してしまうのです。

いずみは生き残り、街娼として田舎の港町にいます。ベストセラー作家の夫は、行方不明とした妻には何の未練もない様子です。小学生の男子の目の前でしゃがんで小便をして、股間を見せたりする頭のおかしな女に成り下がったいずみ・・・客が掴まらないなら安く売春して、他の街娼からブーイングされています。客に逆ギレして殴り掛かれば、強者を雇われて裏道でボコボコにされて鼻血出して倒れている・・・そんな堕ちても、いずみは、どこか幸せそう。地獄の先の行き着くところまで行ってしまったのです。

以前、めのおかしブログで書いたことがあるのですが・・・「うさぎとマツコの往復書簡」の中で、中村うさぎの言葉を思い出さずに入られません。

生き『地獄』を抜けたら『砂漠』だった・・・振り返った『地獄』の真ん中に『天国』はあったのだ。

中村うさぎの言葉を借りれば・・いずみは『地獄』の真ん中にある『天国』という「明るい奈落」へ昇天してしまったようです。ボクの共感を超えた未知の世界・・・それは、入り口さえ何処にあるか分からない「城」であるかもしれません。

映画は、和子の日常で終わります。ゴミ収集車を追って、円山町の事件現場のボロアパートの前まで来てしまった和子に、不倫相手の男(児嶋一哉)から電話がかかってきます。一度は立ち切ろうとしたのに、また電話に出てしまう・・・「どこにいる?」と尋ねられて「分からない」と答える和子は、再び不倫を続けてしまうのでしょうか?愚かな過ちを繰り返すのならば・・・和子にもガッカリです。

「恋の罪」に出てくる女性は、良くも悪くも園子温監督による概念としての女たちのように思います。それは監督にとっての女性とは何かと突き詰めた結果であり・・・”女”を語るというよりも、屈折した園子温監督自身を雄弁に語っているだけなのかもしれません。男のセックスに、支配や権力というパワーを、まだ必要とする”オジサン世代”の・・・。何故なら、彼女たちは、いつでもセックスに自ら応じる、男にとって”都合のいい女”でしかないからです。

いずみを演じた神楽坂恵と園子温監督は、本作製作後に婚約を発表しました。もしも、実生活でもいずみのような貞淑な妻と奈落の街娼を神楽坂恵に求めるならば・・・おそらく結婚は長くかないでしょう。平穏な結婚生活に甘んじて、生温い映画をつくる園子温監督なんて見たくもない!・・・というのが、ファンとしての本音です。あと1作か2作・・・神楽坂恵でドンデモナイ映画を作って、園子温監督には、再び女性不信に満ちた「曲者」に戻って欲しいと願ってしまうのであります。



「恋の罪」
2011年/日本
監督 : 園子温
脚本 : 園子温
出演 : 水野美紀、冨樫真、神楽坂恵、津田寛治、大方斐紗子、児嶋一哉(アンジャッシュ)、二階堂智、小林竜樹、五辻真吾、深水元基、岩松了、町田マリー



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2011/11/06

ニューヨーク・ソサエティとストリート・ファッションを記録し続ける”伝説のカメラマン/ジャーナリスト”のドキュメンタリー映画~「Bill Cunningham New York/ビル・カニングハム & ニューヨーク」~



ニューヨークで暮らしたことがある人なら”ビル・カニングハム”の姿を見たことがあるかもしれません。ニューヨークの5番街をうろついたことのある旅行者だったら、運が良ければ”ビル・カニングハム”を偶然見かけていたかもしれません。”ビル・カニングハム”は、いわゆる「セレブ」と呼ばれるような有名人ではありませんが、”ビル・カニングハム”を知らない「セレブ」も「ファッション業界人」なんていません。それどころか、”ニューヨークタイムス紙”を読んでいるニューヨーカーならば、誰もが彼の名前とコラムだけは目にしたことがあるはずなのです。現在は紙面だけでなく、ネット上でも彼自身の毎週ビオーディオコメンタリーが「ニューヨークタイムズのサイト」にアップされていますので、世界中の人が彼のレポートを”聞ける”ようになっています。「Bill Cunningham New York/ビル・カニングハム & ニューヨーク」は、そのビル・カニングハムを約2年追ったドキュメンタリー映画なのであります。

ビル・カニングハム(Bill Cunningham)は1929年生まれ・・・ニューヨークソサエティのパーティーシーンとストリート・ファッションのスナップを撮影する”ニューヨーク・タイムズ紙”所属の「現役」カメラマン/ジャーナリストです。ボクはニューヨークに20年近く生活していましたが、ビル・カニングハムを幾度か見かけたことがあります。5番街と57丁目の交差点で無我夢中でシャターを切っていたり、イエローキャブの隙間をすり抜けながら自転車で疾走していたり、ナイトクラブのパーティーで派手な格好をしたゲストを撮影しているおじいさんを、よく見かけたものでした。

ビル・カニングハムは、あくまでも新聞社のカメラマン/ジャーナリストです。どこの生まれで、どこに住んでいるのか、結婚しているのか、家族がいるのか、普段はどんな生活をしているのかなど・・・プライベートのことは一切発表されていませんでした。正直なところ、殆どの人はそれほど彼の私生活に関心を寄せていなかったのかもしれません。ただ、カーネギーホールに住んでいるという都市伝説(?)は、1980年代に聞いたことがあります。本作では、彼の撮影したすべてのネガティブをファイリングしている無数のファイルキャビネットに埋め尽くされた(カーネギーホールのあるビルディング内にあるキッチンもバスルームもない芸術家達のためのスタジオ)彼の部屋が公開されています。

元々、1950年代に帽子デザイナーとして帽子サロンをカーネギーホールのスタジオで開いていたビル・カニングハム・・・1960年頃までは帽子は女性のファッションの必需品であり、多くの業界人(ホルストンなど)は帽子デザイナーとしてキャリアをスタートさせた時代であります。その後、自身の帽子ビジネスの低迷により、アメリカのファッション業界紙「ウーメンズ・ウェア・デイリー(WWD)」でファッション関係の記事を担当するコラムニストとして雇われることになります。ある日、友人の写真家から「ペンのようにカメラを使ったら?」と安いカメラをプレゼントされたことが、写真を撮り始めるきっかけとなったそうです。当時まだ注目されていなかったプレタ・ポルテのファッションショーを撮影していた最初のカメラマンでしたが・・・ファッションショーだけでなく、ストリートに目を向けるようになったのは、ヒッピー達の「Be-in」を撮影したときから。1960年代から、ビル・カニングハムは毎週ニューヨークのストリート・ファッションを撮影し始めたのです・・・自分自身の興味のために。

ビル・カニングハムの視線は、当初からファッションショーの世界だけでなく、現実の日常生活でファッションを着こなすリアルな人々にありました。ストリートで撮影したスナップ写真とファッションショーで撮影した写真を並べ・・・「ファションショーでプレゼンテーションされたルック」と「同じ服が実際に街でどう着こなされているか」を、WWD紙でレポートしようとしたのです。しかし、それは当時、理解されないコンセプトでした。一般人女性をあざ笑うかのようなキャプションが付けらて紙面に掲載されたのでした。また、ストリートのスナップ写真を使って、編集部では「IN & OUT/何が流行りで、何が流行遅れか」の記事にしようとしました。しかし、彼にとってストリートで撮影したスタイルは、どれも「OUT/流行遅れ」ではなく、リアルに息づいているファッション「IN/流行っている」と考えていたのでした。権威的なWWDの体質にに嫌気がさして、彼はWWDからニューヨークタイムズ紙にその活躍の場を移すこととなります。

カメラマン兼コラムニストとして、ニューヨーク・タイムズ紙で働き始めたビル・カニングハムは、ある日、グレタ・ガルボの姿を偶然撮影することになります。引退後、公の場に一切姿を現さない伝説の大女優ガルボは、ニューヨークのイースト川沿いのマンションに暮らしており、パパラッチの標的になったスターの元祖でした。プライバシー侵害を好まなかったビル・カニングハムですが、毛皮コートをさらりと着こなすガルボを思わずストリート・スナップしてしまったのです。勿論、ニューヨーク・タイムズ紙としては掲載したいスクープ写真であります。しかしゴシップ紙のような扱い方は出来ないということで、毛皮のコートのストリートスナップをまとめた記事のなかの写真の一枚としてガルボの写真を掲載したのです。ビル・カニングハムの「ON THE STREET」というニューヨークタイムズ紙の名物コラムを始めるきっかけが、ガルボのスクープ写真であったというのは驚きでした。

日本の雑誌のストリート・スナップ写真は、カメラマンが被写体に話しかけて脇道で「ハイ・ポーズ!」という感じで撮影されているようですが・・・ビル・カニングハムの撮影方法は、隠し撮りや、強引に追いかけるというゲリラ的な手段です。おそらく新聞記事の報道という扱いなので、個人の肖像権問題というのは存在しないってことなのでしょうか?半ば強引と思える撮影方法が許されるのも、ニューヨークという場所柄もあるでしょう、また、ビル・カニングハムに撮られるということは、ニューヨーカーにとって”名誉”なことだからでしょう。そして、堅苦しくなくファッションや着こなしを楽しむニューヨーカーがいてこそ、毎週「ON THE STREET」というコラムが成り立つのかもしれません。

ビル・カニングハムが一貫しているのは「ジャーナリスト」という立場で”コマーシャリズム”に屈しないこと・・・そのため、ソサエティのチャリティーパーティーに行ったとしても、水一杯、ワインのグラス一杯、フィンガーフードさえも一切口にせず、ただただ、撮影し続けるという姿勢を守り続けていること。また、ファッション・ショーでは、カメラマン用に設置された正面からの写真を撮る位置ではなく、ランウェイの脇で撮影するのです。ファッションショーであっても、服は現実の一部・・・広告のような写真を彼は信じていません。こうして、ビル・カニングハムは”金銭”のしがらみのない彼独自の立ち位置というのをファッション界で確立したのであります。

今ではネット上でファッションショーを即時(もしくはライブで!)に見ることの出来る時代・・・しかし1960年代には、ファッションショーといいうのは、限られた人たちだけが入場を許される場所でした。徐々にファッションショーを報道するメディアは増えていくものの・・・1990年代になってカナダのテレビ局などが「Fashion TV」などを制作するようになるまで、ファッションショーの映像を見れるチャンスというのは、CNNの「Style with Elsa Klench/スタイル・ウィズ・エルサ・クレンチ」ぐらいでした。

「SOHO NEWS」というダウンタウンのローカル誌を引き継ぐ形で、1982年に創刊された「DETAILS」マガジンの年2回のファッション特集は、ビル・カニングハム責任編集という大胆なもので、年々ページ数が増していった人気企画でした。それまでのコレクションを掲載する雑誌というのは、業界向けにコピー商品を作りやすいように写真をできるだけ多く掲載するか・・・一般顧客向けにトレンドを整理してエディトリアルで紹介するというのが通例でした。勿論、一般向け雑誌の場合、広告主は非常に需要な存在ですから、エディトリアルといっても毎号広告を掲載してくれるファッションメーカーやデザイナーの存在を無視するわけにはいきません。

各国の一般紙には、著名なファッション・ジャーナリストによるファッションショーの評というのは掲載されるのですが、これもまた個々の趣味/嗜好や人間関係の駆け引きが関与して、公平な視線で評価しているとも言い難いところというのがありました。あるデザイナーのショーを酷評したジャーナリストは、その次のファッションショーには招待状が送られてこないのも、隠れた掟(?)でありまして・・・より多くのファッションショーをレポートするためには、酷評することはできないということになってしまうのです。

ビル・カニングハムは「評価」を下すのではなく・・・ジャーナリストとして、何が注目すべきことか”だけ”をレポートをし続けました。彼が取り上げることが、彼の視点であり「今のファッションは何か?」かという意見そのもの・・・誰かをコケ落とす必要はないのです。ただ、ビル・カニングハムから無視されるというのは、最も酷な評価ではあるかもしれません。大広告主である有名ブランドのデザイナーも、ダウンタウンで行なわれている新進デザイナーも、彼には同じ目線で見ることができるのです。1960年代からファッションショー、ニューヨークソサエティー、ストリートファッションという流れを目撃してきた彼にとって、盗んだアイディアやコピーデザインなど一目瞭然・・・本当にクリエティブなデザインを見極めて、それを伝えることのできる世界的にも無二の存在であります。

1980年代には、日本人デザイナー(コム・デ・ギャルソン、ヨウジ・ヤマモトら)は、アメリカのメディアでは殆ど無視され、評価さえされていませんでした。アメリカで最も影響力を持つファッション業界紙「WWD」のフェアチャイルド編集長の個人的な嗜好に合わないという理由で、1990年代になるまで日本人デザイナーのファッションショーの批評は、常に否定的なものでした。これは、西洋的なファッションの価値観の崩壊を危惧する封建的な抵抗であったことは、歴史的にみて明らかなことではありますが・・・誰よりも早く大きく日本人デザイナーの革新性を認めたアメリカのジャーナリストの一人が、ビル・カニングハムでした。
また、WWDが取り上げられることも殆どなく、アメリカのメディアでは無名に近かったデザイナー・・・初期のジョン・ガリアーノやマルタン・マンジェラ、マーク・オティベ、シビラ、ヌーベリー&オスナ、アドリーヌ・アンドレなどを真っ先に扱ったのもビル・カニングハムでした。


ビル・カニングハムの熟練の視点は、時にトラブルの火種にもなりかねません。「DETAILS」の1989年3月号のスプリング・ファッション特集号に於いて、ニューヨークファッション界のニュースター、アイゼック・ミズラヒの発表した服の写真の隣に、ジェフリー・ビーン(わが師!)が13年前に発表した服の写真を並べて、その類似点を指摘したのです。この記事は、コピーを指摘されたミズラヒを苛つかせ、ジェフリー・ビーンはミズラヒに対して激怒するという事態を巻き起こしました。コピー問題に関しては、ファッション業界では暗黙の了解と言うか、指摘しないことがルールになっているところがあります・・・それは現在でも、まったく変わりません。しかし、ビル・カニングハムはジャーナリストとして、明らかな「コピー」の事実を無視することは出来なかったのです。

ニューヨーク・タイムズ紙の日曜日版に掲載されている「ON THE STREET」は、ビル・カニングハムの個人的な見解を訴えているコラムではありません。ストリートに出て、人々を観察し続けて、あぶり出しのように浮かんでくる”現象”を記録しているだけだと彼は言います。それは、リアルな人々が自分自身のお金で買って、自分の好きなように着こなしている結果・・・自然に生まれている流行/トレンドこそが「本当の時代性」だということなのです。セレブがデザイナーの宣伝のために”タダ”で身につけている「衣装」は、何も時代を語っていません。しかし、ストリートで起こっていることを記録し続けるというのは、尋常なことではないことは本作を観るとよく分かります。普通の人の生活を”犠牲”にして、ただただ写真を撮り続ける毎日・・・まさに自分の人生そのものを「この仕事」に捧げているとしか思えないほどの”偉業”なのです。

ここからネタバレを含みます。

本作の終盤・・・インタビュアー(監督)は、ビル・カニングハムに、今まで親しく仕事を共にしてきた誰もが尋ねなかったような彼自身の内面をえぐるような質問をぶつけます。まずは、家族のこと・・・ニューヨークの上流階級の人々と気軽に接する彼をみて、彼自身も上流の家庭の出身ではないかと想像していた友人もいたようなのですが・・・イギリスからカソリック教徒の迫害を避けるために移住してきたという中流階級の出身であったことが明かされます。そして、男なのにファッションに関わる仕事をしているというのは、両親や家族にとっては理解し難いことであったと告白します。

そして次の質問は、さらに彼の本質的なプライバシーに踏み込んだものでした・・・「今までにロマンチックな関係を持ったことがあるのか?」。この遠回しの質問の仕方に、頭のいいビル・カニングハムは瞬時に気付きます。「私がゲイかっていう質問だね」と・・・そして、彼の育った環境では、こういうことは話をするべきことではなかったと語ります。人により彼の言葉の解釈はあるでしょうが・・・このようなシチュエーションで、こう答えるというのは「ゲイ」であることを肯定しているようなものではあります。ただ、彼がハッキリと断言したのは「今まで一度もロマンチックな関係を持ったことはない」ということでした。80歳過ぎたおじいさんには酷な質問ではあったはずですが、冗談まじりに率直に返答している様子に、ある意味、彼自身の生き様に後悔はないことを感じさせました。

しかし、最後の質問でビル・カニングハムの本当の葛藤が明らかとなるのです。カソリック信者で毎週日曜日には教会に通っている彼なのですが・・・「宗教というのは、あなたのとって何ですか?」と尋ねられ、ビル・カニングハムは、しばらくの間、うなだれて沈黙してしまうのです。それは、いかに彼が宗教と葛藤してきたかを数秒で物語っています。「教会はある意味、自分をコントロールする力になってくれているのだ」と説明します。彼がコントロールされなくてはならなかったのは、彼自身のセクシャリティーであることは明らかです。人間としての欲望のすべてをファッションへ向けるしかなかった、ビル・カニングハムの悲痛な情熱を思うと・・・涙なしでは見ることのできないシーンでした。

「ファッション」は自分だけが楽しむための「自己満足だ」と言う人がいますが・・・誰にも見られないとしたら、果して人はこれほど「ファッション」を楽しむものでしょうか?

流行の服を着たり、新作をバッグを持つのも、時代の先端をいく”おしゃれ”と思われたいから。

レアなスニーカーやデッドストックのジーンズに大金を払うのは、同じ価値観を持つ人に気付いて欲しいから。

高価な宝飾品や時計を身につけるのは、経済力や社会的な地位を見せつけたいから。

ファッションの感性で他人を上から目線で判断するのは、感性という自分本意の優位さしかないから。

ビル・カニングハムは「ファッションとは、人が、その日一日を乗り切るのに必要な鎧のようなモノだ」と言っているように・・・他者の存在しないところにファッションは成立しないのです。”ひきこもり”が、ファッションにこだわらなくなるのは、自分しか存在していない世界に閉じこもっているからです。(ただ、今の”ひきこもり”ってネット活動して、コスプレとか楽しんでいそうですが・・・)

日本人からするとニューヨークなんてファッションの街でないと思われるかもしれませんが・・・ヨーロッパのデザイナーのファッションが最も売れているのはニューヨーク。ソサエティのレディー達は、連日のように行なわれるチャリティー・パーティーのためにドレスを新調します。またパリやミラノよりも、個性重視の着こなしを楽しむ派手な人々が多いのもニューヨークならでは・・・世界中からヘンテコな人が集まってきているのです。それはビル・カニングハムにとっては、撮っても撮っても撮りきれないほど、次から次に人々が小さなトレンド/流行を生み出す”ファッションが生きている街”なのです。

ビル・カニングハムは1960年代から、ニューヨークファッションに最も影響力のある「他者の目」として、ニューヨーカーに不可欠な存在となっていました。彼が引退する時、ニューヨークは「偉大な目」を失うことになり、色褪せてしまうに違いありません。


「ビル・カニングハム & ニューヨーク」
原題/Bill Cunningham New York
2011年/アメリカ
監督 : リチャード・プレス
2013年5月18日より日本劇場公開



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