2012/08/27

「ビフォア・サンライズ」よりも、もっと切なく美しい!・・・愛を信じたいゲイと愛を信じないゲイの奇跡の週末のラブストーリー~「ウィークエンド/Weekend」~



日本では殆ど制作されることがないジャンルの映画のひとつが、”ゲイの観客”をターゲットにした”ポルノではない”ゲイ映画”ではないでしょうか?アメリカやヨーロッパに限らずアジアなどの各国でも制作されていて・・・政治的なメッセージを持つシリアスな作品から、セクシャリティーを大胆に描いたもの、おバカなラブコメディまで、幅広いジャンルがあります。ただ、低予算のインディーズ作品という場合が殆どで、大々的に劇場公開されることはほ殆どなく、ゲイの人口の多い大都市での単館上映だったり、ゲイ映画祭やDVD販売でしか観ることはできないことが多いようです。いわゆるポルノ映画(AV)ではないのでハードコアのセックスシーンはありませんが、「ブロークバック・マウンテン」程度のセックスシーンは当たり前・・・一応、成人映画(18歳未満不可)なので、○ン○ン丸出しも普通にあったりします。またキャストは、いかにもゲイ好みの役者ばかり揃えて・・・という感じで、一般向けに作られた”ゲイを描いた映画”とは、明らかに違うオーラを放っています。

「ウイークエンド」はインディペンデント系の映画祭で高い評価をされたイギリスの”ゲイ映画”で・・・ゲイ版「ビフォア・サンライズ/恋人までの距離」として、ストレートとかゲイとか関係ない”普遍的な恋愛映画”と紹介されていることが多かったりします。ゲイ以外の観客が、二人のゲイ男性のセックスについての会話に共感することも・・・あるのかもしれません。しかし、それは性別やセクシャリティーを超えて「人として」というような普遍的なものではなく、本作で描かれるのは”ゲイだからこそ”の論点であります。

「ビフォア・サンライズ/恋人までの距離」は、1995年に公開されたイーサン・ホークとジュリー・デルピー主演のラブロマンス・・・興行的には、それほど成功しなかったものの、好きな一作にあげるファンも多い作品です。プタペストからパリへ向かう列車の中で、偶然出会ったウィーンへ向かうアメリカ人男性とパリへ帰るフランス人女性が、ウィーンで下車して、翌日の朝まで語り合って過ごすというお話・・・とは言っても、ウィーンという美しい街の観光映画ではありません。知り合って間もない男にヒョコヒョコ付いていくヒロインに違和感は感じるものの・・・洒落た二人の駆け引きから目が離せなくなってきます。全編に渡ってトコトン語り合う二人・・・哲学的な話、くだらない話、過去の恋愛など、お互いの価値観をぶつけ合って、次第に深く惹かれ合っていきます。しかし、翌朝にはそれぞれ帰路につかなければならない二人は、肉体的に結ばれることはないまま、連絡先を交換することもなく、半年後の再会を約束して別れたところで映画は終わります。

「ウィークエンド」は、イギリスの地方都市ノッティングハムが舞台です。ロンドンとかゲイの人口の多い大きな都市でないというのが、いい雰囲気を出していて・・・木々の囲まれた団地が美しく撮られています。一眼レフカメラのような背景のボケ感、絶妙な位置に固定されたカメラによって切り取られた画面、長回しワンショットでの長台詞の会話シーンなど・・・まるでプライベート・ビデオを観ているような感覚(良くも悪くも!)で、独特の感触を生み出しています。

プールの監視員をしているラッセル(トム・コルン)は、いつものように金曜日の夜、ストレートの友人のジェイミー宅と過ごします。彼の娘のゴットファザー(名付け親)になるほど親しい間柄・・・というのも、ラッセルとジェイミーは、共に生みの親を知らない孤児で12歳のときからの親友であることが、後に会話から判明します。

カミングアウトやゲイに対しての偏見とかを描く意図のない本作では、ジェイミーを始めストレートの友人たちは、ラッセルがゲイであることを自然に受け止めているようです。それでも、ラッセルは疎外感のようなものを感じているようで・・・明日、仕事があるからと早々と彼らの家を立ち去り、ひとりでゲイバーへ向かうのです。ひとりでゲイバーで佇んでいても、手持ち無沙汰なもの・・・漠然と孤独感からは逃れなかったりするものです。ラッセルは、気になる男を追ってトイレにまで付いていきますが、あっさりフラれてしまいます。そこで、ラッセルは別な男とイチャイチャ・・・でも、結果的には、最初にトイレまで追っていった男を自宅にお持ち帰りしたのでした。

ワンナイトスタンド(一夜限りのエッチの相手)のつもりで連れ帰ったのは、アーティスト志望で、ギャラリーで働くグレン(クリス・ニュー)・・・朝起きるやいなや、グレンは自分のアートプロジェクトという名目で、ボイスレコーダー片手に昨晩の出会いから、セックスした感想などの質問していきます。ワンナイトスタンドの翌朝というのは、なんとも微妙な時間・・・この時に初めてお互いの名前を名乗ったり、連絡先を交換したり、お互いの恋愛ステイタス(彼氏がいるとか、同居している相方があるとか)を確かめ合ったりすることもあるのですが、いきなり自分の感情を説明させられるというのは、とっても奇妙なことに違いありません。

朝に一度別れたものの、同じ日の土曜日には、ラッセルの仕事終わりに待ち合わせて、再び一緒に過ごす二人・・・ラッセルの家に戻って、お互いのアイデンティティーを形成するセクシャリティーを赤裸々に語り始めます。グレンは、ゲイであることを誇り(プライド)としていると同時に、ゲイであることに対しての皮肉に溢れています。逆に、ラッセルは普通にゲイとして生きているタイプ。理解のあるストレートの親友にも恵まれているけれど・・・彼らに自分の恋愛のことは決して語ったりしはしません。ゲイであることを恥じているから?ストレートの親友は本当の親友なのだろうか?カミングアウトして、社会的な偏見からも開放されているにも関わらず、自分自身の偏見の呪縛から、実は逃れていないのかもしれない・・・そんな現在のゲイの心情を見事にあぶり出しているのです。

ワンナイトスタンドとして始まった二人の関係は、いつしか忘れがたい関係へと発展していくのですが・・・ここでグレンが告白します。明日(日曜日)、オレゴン州ポートランドの美術大学へ留学するというのです。それも、最低で2年、もしかするともっと長い期間になるかもしれないと・・・。でも、あからさまに傷ついたり落胆するほど、二人の関係が煮詰まっているわけでもありません。ラッセルは、ただ受け入れるしかありません。

さよならパーティーに顔を出したラッセルは、グレンの元カレとの経緯や取り巻く環境を知ることになるのです。結局、土曜日の夜も、再びラッセルの部屋で過ごすことになります。自分のセックスに関して、語りたがらなかったラッセルは、実は過去の男性経験を事細かにパソコンに書き残していて、グレンに読み聞かせます。お互いの過去の男性経験や同性婚について語り合ううちに・・・ボーイフレンド/パートナーを求めているラッセルと、ボーイフレンド/パートナーなんていらないと言い張るグレンの根本的な確執が露になってきます。それでも、お互いに惹かれ合い、カラダを求め合うことには歯止めが利きません。

ここからネタバレを含みます。

ボク個人の趣味ですが・・・ラッセルを演じるトム・コルンがあまりにも素敵で(典型的なハンサムと言えばハンサム)彼が画面に映っているだけで目が離せなくなってしまいまいました。アンドリュー・ヘイ監督は、まずトム・コルンをキャスティングしてから、画的な相性のテストを繰り返してクリス・ニューをキャスティングしたそうで、本作にはトム・コルンの魅力的な存在は欠かせないのです。ただ、冷静になって考えてみれば、この俳優さんは1985年生まれの27歳(おそらく撮影時は26歳?)・・・「自分の息子の年齢じゃん!」と思うと、なんとも複雑な気持ちにさせられるのでした。ちなみに、トム・コルンは私生活ではストレート・・・ボクは完全に騙されました。

日曜日の早朝、まどろみながらベットの中で、グレンがラッセルの父親を演じて、ラッセルにカミングアウトするように言います。孤児で血のつながった父親を知らないラッセルにとって、そんな状況が現実には起こることはあり得ません。「ボクはゲイで女の子が好きじゃないんだ」とカミングアウトするラッセルに、父親役のグレンは、こう答えるのです。「そんなことはどうでもいいことだよ。今までと変わらず愛している。最初に月にいった男になるよりも誇りに思っている・・・」かなり大袈裟な言い回しではあるけど、これはグレンが彼の父親から言われたかった言葉なのでしょう。いや、ゲイの多くの人が、父親からこんな言葉を聞くことができたら・・・と妄想してしまうのかもしれません。

日曜日の昼過ぎには予定通り、ジェイミー宅へ子供の誕生日パーティーに参加しているラッセルですが、気持ちはそこにあらずといった様子です。それを見兼ねて、ジェイミーはラッセルを家の外に呼び出します。今まで、自分のゲイライフについて話すことを避けてきたラッセルですが、思い切って話してみると・・・「それなら駅へグレンを見送りに行くべきだ!」と、娘の誕生日の最中にも関わらず、ジェイミーは車を運転して駅まで送り届けてくれるのです。ジェイミーとラッセルの間にあったストレートとゲイの”壁”というのは、ラッセル自身が自分で勝手に築いていたものであったことに気付かさせます。

「さよなら」を言われるのは嫌いだというグレンは、見送られることを極端に嫌がっています。それは、何かを期待して裏切られる辛さを経験してきたからなのかもしれません。本当はグレンも「愛」や「ボーイフレンド」だって、全部信じたい・・・でも、傷つくことを恐れている自分がいて、「愛」に皮肉になってしまうです。別れのシーンでラッセルがグレンに何を語ったのかは、列車の音で聞こえません・・・その言葉は「愛」を信じて行動したことがあるなら、観客も自分の心に持っているはずなのです。その言葉を受け止めて・・・グレンはアメリカへ旅立っていきます。

もう二度と会わないかもしれない・・・それでも、二人の出会いは「本物」であったという「確信」は「永遠」なのです!

余談ですが・・・「ビフォア・サンライズ」には9年後を描いた「ビフォア・サンセット」という続編が制作されました。余韻を残した前作を見事に裏切る内容で・・・続編というのも”善し悪し”だと思いました。「ウィークエンド」の続編はいりません。




「ウィークエンド」
原題/Weekend
2011年/イギリス
監督&脚本 : アンドリュー・ヘイ
出演    : トム・コルン、クリス・ニュー
2012年9月15日/「第21回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」にて上映



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2012/08/23

インドネシア産「悪魔のいけにえ」は血糊たっぷりのスプラッター”ちゃんぽん”映画・・・シャリーフ・ダーニッシュの怪演が”ミソ”なの!~「マカブル 永遠の血族」~



インドネシアで制作されたアジア映画史上最凶のスプラッター映画があるらしいという噂では聞いていたものの・・・日本では劇場公開されずに、DVDスルーとなっていた「マカブル 永遠の血族」を、遅ればせながらDVDで鑑賞しました。

前評判どおりインドネシア版「悪魔のいけにえ」といえる物語でありましたが、いろいろなスプラッター映画にオマージュを捧げた(パクった?)ような”ちゃんぽん”で・・・随所に痛々しい描写は満載ではあるのですが、ゴア的な要素は若干控えめという感じです。それでも「インドネシアにスプラッター映画あり!」と世界に知らしめた一作であるような気がします。インドネシア人というと、ミクロネシアっぽい人種を想像してしまうのだけど、本作に出演している俳優さんたちは、東南アジア系の風貌の人も入れば、中国系っぽい人もいるし、どこかの西洋人ともミックスしていそう・・・さらに、インド系も混じっているようにも見えるところもあり、結構、人種的には多種多様なんだということを知りました。

物語は、スプラッターにはよくありがち・・・新鮮な展開や、突出したオリジナリティーというのは、正直感じられません。父と母を交通事故でなくしたアジとラディアという兄妹・・・親の遺産を手にしてオーストラリアに移住するという兄アジと妊娠中の妻アストリッドをジャカルタの空港まで見送るために、アジの男友達3人(アラム、エコ、ジミー)と、妹ラディアの6人で車で出発することとなるのです。親の事故とか、遺産とかは、その後の物語に一切関係はないってところも、スプラッター映画にありがちな深い意味のない伏線なのかもしれません。

突然降り出した雨の中、いきなり車の前に現れた若い女性マヤを、6人は森の中の屋敷まで送り届けることになります。屋敷に到着して帰ろうとする6人を、母に紹介したいと無理矢理に屋敷の中へと誘うマヤ・・・実は、この屋敷に住むのは、不老不死のために人肉を食う一族であったのです!屋敷の女主人のダラは、マヤの母親とは思えないほど若々しく、二人いる息子たちは、まったく似ていなくて、兄はデブで無口、弟は冷たいハンサム・・・母親ダラは、娘を送り届けてくれたお礼に、ぜひ夕食をごちそうしたいと6人を引き止めるのです。勿論、この段階では観客には、彼らが何者かであるとか、殺す目的は何かなど、まったく分からないのですが・・・この家族は見てからにして怪し過ぎます!

ここからネタバレを含みます。



食事に薬を盛られて眠ってしまった彼ら(ラディア、エコ、ジミー)は、気がつくと倉庫のような部屋に縛られて拘束されています。別室では男友達のアラムが手術台に縛られており、デブの兄によって首をチェーンソーであっさり切られて殺されてしまいます。ここら辺のくだりは、あきらかに「悪魔のいけにえ」や「ホステル」シリーズを思い起こさせます。ヒロインの妹ラディアは、危機一髪のところデブの兄に逆襲して、逃げることに成功するわけですが・・・ここからは、血みどろになるばかりではなく、顔じゅうボッコボッコの腫れ上がるまで、壮絶な事態が待ち構えております。

さて・・・アジと身重のアストリッドは別々に拘束されてしまっているのですが・・・何とか逃げ込んだ屋敷の一室で、アスリッドは出産するというトンデモナイ事態になってしまいます!どうやら、女主人から出産を促進する薬を盛られたようなのです。血みどろの状態でアスリッドは何とか男の子を産み落とすのですが・・・勿論、赤ん坊は女主人ダラによって持ち去られてしまいます。「屋敷女」以来、妊婦に対する暴力描写が世界的に解禁されてしまったようなところがあって・・・「ムカデ人間2」でも、「ドリームホーム」でも、「セルビアン・フィルム」でも、妊婦はいたぶれまくってます。スプラッター描写の耐性が高いボクでも、妊婦への暴力シーンというのは耐えられません。ショッキングさを追求して、行き着いた先が”妊婦”なのでしょうか?

この一族は不老不死というだけでなく、何故かスゴい怪力の持ち主でもあり、倒しても倒しても生き返ってくるという、人間を超えた存在になっているようです。刺されようとも、焼かれようとも、銃で撃たれようとも、何度も起き上がって襲ってくるのは、まるでモンスターのようでもあります。人肉を食うことで、これほどの能力が身に付くというのは、正直、理解には苦しむところです。屋敷に立ち寄った3人の警官らを含めて、ラジャと赤ん坊以外は、結局、殺されてしまいます。血で床一面が真っ赤に染まった屋敷で、女主人ダラとアジェの死闘となるのですが・・・チェーソーを持って追いかけてくるダラは、まさに女版”レザーフェイス”!物凄い形相でチェンソーを振り回している姿は、トラウマになりそうなほどです。最終的には、ヒロインと赤ん坊は生き残り・・・殺人鬼は最後の最後になっても、まだ生きている痕跡を見せるというのも、スプラッター映画のお約束を守っております。

他のインドネシア映画が、どういうものなかは全く知りませんが・・・本作に関していえば、あらゆるスプラッター映画を研究していて、血糊の分量では、世界的にも負けていないと言えるでしょう!しかし、なんと言っても本作の”ミソ”は、シャリーフ・ダーニッシュという女優さんの、台詞は”棒読み”の不思議な怪演に尽きるのであります。




「マカブル 永遠の血族」
原題/Macabre
2009年/インドネシア、シンガポール
監督/脚本 : モー・ブラザーズ
       (キモ・スタンポーエル、ティモ・ティヤハヤント)
出演    : シャリーフ・ダーニッシュ、アリオ・バーユ、ジェリー・エスティール、シギ・ウィマラ、メルダ・セリーヌ、アリフィン・プトゥラ


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2012/08/11

「ナチスが月から攻めてくる!」ってなわけないだろう!?・・・フィンランド発!アメリカを筆頭に世界を皮肉に茶化す超おバカなSF政治コメディ~「アイアン・スカイ/Iron Sky」~



ドイツの”ナチス”は、人類の起こした最悪の犯罪のひとつではあるのだけど・・・第二次世界大戦後は、散々残酷映画のネタにされたものです。それは戦争に勝った国々(西ヨーロッパやアメリカ)からすれば当然のことで・・・”ナチス”は世界の誰もが認める悪者だということ。”ナチス”以外にも、冷戦状態にあったロシアだって、テロリスト扱いのイスラム圏の国々だって似たような扱いを受けているのですが、やっぱり悪者といえば”ナチス”。歴史的には”悪”の烙印を押されるのは当然ですが・・・いつまでも”ナチス”の悪者として描かれ続けなければならないドイツ人って、ちょっと気の毒な気もしてしまいます。

中国、韓国からみたら、日本だって”ナチス”ぐらいに”悪者”ではあるわけで、日本人(日本軍)を悪者にした映画も相当数製作されています。日本人=悪者とするステレオタイプは、隣国からなくなることはないのかもしれません。ただ、日本人の国民性やカルチャーも欧米で好意的に受け取られているおかげもあってか、世界的に日本=悪者という図式が当たり前とまでなっていないのは救いではないかと思います。

日本人からすると、時間や規則をしっかりと守りそうな国民性や、工業国として親近感を感じるドイツ人ですが・・・ヨーロッパの国々からは決して好かれているわけではないようなんです。ドイツ人が集まるリゾート地はドイツ以外のヨーロッパの人が来なくなってドイツ人だけになってしまう・・・と言われるほど。ビールを飲んで騒いで野蛮、文化の繊細さに欠けると国民性が、どうやら毛嫌いいるらしいのです。確かに経済ではユーロ圏を牽引しているドイツでありますが・・・なんとなく嫌煙されているからこそ、いまだに”ナチス”という過去を持ち出されてしまうというのかもしれません。

フィンランド人のティモ・プオレンソーラ監督による「アイアン・スカイ/Iron Sky」は、世界各国の映画ファンやSFファンから出資を募って、総制作費の750万ユーロのうち、約65万ユーロを個人からのカンパを集めてしまったという・・・”全世界待望”(?)されているに違いない一作なのです。アメリカでは決して評判は良くなかったようですが、ヨーロッパ各国では大ヒット・・・すでに、続編と前日譚の製作も決定しているそうです。

2018年、月に資源調査にでかけたアメリカの「リバティ号」・・・実は月面裏側に逃げ延びていたナチスは反撃の機会を狙っていたのです!ナチス軍営の総統を演じるのは、毎度”この手の役には”お馴染みのウド・キアー。これだけでも、かなり”おバカ映画”の確信犯さを垣間見せているのですが・・・ナチス軍営が「悪役」というわけでは全然なく、地球側(アメリカ)も酷い(!)・・・どちらも馬鹿にしているところが、ドイツとアメリカ以外の国にとっては、笑いのツボかもしれません。

”サラ・ペイリンのそっくりさん”の保守系アメリカ女性大統領が、とにかく酷い・・・黒人宇宙飛行士を月に送ったのも、彼女が”大統領再選”を狙っての人気取りのためだというのですから!月でナチスに捕らえられてしまった黒人宇宙飛行士は、白人になってしまう薬を投与されてしまいます。ナチスはユダヤ人迫害で知られていますが、黒人に対しての差別も強いものでした。ただ、黒人が白人にされてしまう設定って、アメリカ人(黒人、白人、どちらも)からすると、あまり心地よいものではありません。アルバイノの呼ばれる色素異常で黒人の血を引き継ぎながら色素のなく、ブロンドでブルーの瞳という黒人も存在するのですが(マイケル・ジャクソンも色素異常を主張していた)・・・非常にデリケートな問題です。真面目なドキュメンタリー報道番組でも取り扱われることも殆どなく・・・白人が黒塗りで黒人になる、または、黒人が白塗りで白人になるというのは、ジョークにしてもギリギリなような気がします。

アメリカ側の参謀たちは、妙にセクシーな若者ばっかり・・・司令官となる女性はみてからに品がなく、黒いラバースーツに身を包んで羽根を背負って宇宙戦艦で指示を出しているのは、まるで悪役にしか見えません。「第一期で戦争を始めた大統領は第二期にも再選されるわ~」と”ナチス”のニューヨーク襲撃を大歓迎・・・「オーストラリアとか爆弾投下する必要がなくなったわ」とは、なんとも不謹慎。国際会議で勝手に”ナチス軍”と戦争を始めたことを突っ込まれると「約束破るのは、アメリカのいつものやり方よ」と開き直る始末。北朝鮮が「我々の仕業だ~!」と悪ぶってみても「おまいらに、そんな技術はないよ」と、誰にも相手にされません。日本なんて、それ以前に存在感なしですが・・・唯一、アメリカの言うことを聞かずに戦争に参加しないのが、フィンランドというところは、監督の母国へのリスペクトなのでしょうか?

ここからネタバレを含みます。

ただ、おバカなパロディ映画にしては、宇宙の戦闘シーンはしっかりと作られております。明らかにエンタープライズ号を意識したコックピットに、スターウォーズっぽい音楽・・・ただ、ナチスは宇宙船まで開発しているくせに、コンピューター技術は遅れていてスマートフォンとか信じられないというありさま。結局、アメリカ軍がナチス軍を制圧するのですが・・・月面には人類の夢のエネルギー/核融合に必要なヘリウム3の鉱山がナチス軍によって発見されていた事がが分かると、その利権をアメリカが勝手に主張し始めます。結局・・・世界各国が利権を争って戦い、地球の国々は自爆してしまうのですから、なんという皮肉。その時に流れるのがアメリカ国歌というところは、かなり意地悪い・・・アメリカで人気なかったのも納得です。ナチスの女性司令官と黒人宇宙飛行士(白人から黒人に戻って)が、月に残されたナチスの基地で結ばれるというハッピーエンドなのか分からないエンディングも、ハリウッド映画とはひと味違います。B級映画のパロディと全世界を敵にまわすような政治風刺の好き放題っぷりが、”あっぱれ”な作品なのでした。




「アイアン・スカイ」
原題/Iron Sky
2012年/フィンランド、ドイツ、オーストリア
監督 : ティモ・プオレンソーラ
出演 : ジュリア・デーツ、クリストファー・カービー、ゲッツ・オットー、ペータ・サージェント、ステファニー・ポール、ウド・キアー
2012年9月28日より日本公開


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2012/08/04

ファッションの未来性を示した”コム・デ・ギャルソン”と”ヨージ・ヤマモト”を超えるデザイナーの不在・・・・30年を振り返るにはあまりにも貧しく偏った展示~「FUTURE BEAUTY 日本ファッションの未来性」東京都現代美術館~



2010年〜2011年にロンドンとミュンヘンで開催された「FUTURE BEAUTY 30 Years of Japanese Fashion」展に、新たな作品(2000年以降に設立された15ブランド)を加えてヴァージョンアップした「FUTURE BEAUTY 日本ファッションの未来性」が、東京都現代美術館で開催されています。歴史を振り返る展覧会で、ボク自身がリアルタイムで目撃してきた内容の展覧会というのは初めて・・・それだけボクが年取った証拠ではあるわけですが、リアルタイムで体験しているからこそ、どの部分をピックアップして編集されているのか、どうしても厳しい目で見てしまうものです。

思い起こせば・・・ボクがファッションに目覚めたのは18歳の頃。1981年に渡米する直前のことでした。高校在学時代は、ファッションに全く関心がなく、母親が買ってきた服を文句も言わずに素直に着ていたのです。一ヶ月ほど先の渡米を控えて、初めて自分で服を購入しました。アルバイトで溜めた10万円を握りしめて、ボクは今はなき”パルコPart3”へ向かったのでした。どういう情報を元に、ボクがパルコへ向かったのか全く記憶がないんですが・・・当時のパルコPart3の地下はメンズフロアで、コム・デ・ギャルソン、ヨージ・ヤマモト、DOMON(トキオ・クマガイ)、そしてYMOの高橋ヒロユキのデザインするラインなど、東京の尖ったブランドが揃っていたのです。各ブランドを売り場をじっくりと物色して、最終的にボクが購入したのは、DOMONのドレープした襟が特徴の茶色のスウェット素材のトップスと、極端に幅の広いデニムジーンズ・・・その頃、流行し始めていたテクノっぽいカジュアルウェアで、渡米用に一張羅のスーツを買ってくると思っていた母には不評でした。



本展覧会は「陰翳礼賛」「平面性」「伝統と革新」「日常に潜む前衛」の4つのセクションに分かれています。「陰翳礼賛」ではコム・デ・ギャルソンとヨージ・ヤマモトの1893年以降(パリ・コレクション参加以降)の発表当時は”乞食ルック”と呼ばれた無彩色の作品からジュンヤ・ワタナベまでが並べられています。ループ状の太いニットが絡み合っているセーター、切りっぱなしで切り抜かれた大きな穴がレースのような効果をもたらしているルーズなドレス、切りっぱなしの生地テープをデコラティブに縫いつけたトップスなど・・・発表当時はアメリカ在住だったボクは、雑誌でしか見たことなかった歴史的な作品らも初めて目にすることができました。

「平面性」「伝統と革新」は・・・(展覧会のカタログを見るかぎり)日本独自の編集をしているらしく、海外では別セクションで展示されていたらしい三宅一生、コム・デ.ギャルソン(ジュンヤ・ワタナベやタオ・クリハラを含む)、ヨージ・ヤマモトの代表的な作品と、ネクスト・ジェネレーションとして海外では展示されていたアンダーカバー、ソマルタ、ミントデザインズ、ミナペルホネンなどを加えた展示でありまして・・・正直,「平面性」と「伝統と革新」という大きなテーマを伝えるのには不十分な展示数と作品の選択でありました。

海外では「COOL JAPAN」というセクションとして、”かわいい”にこだわるストリート・ファッションやアニメやマンガへ通じるコスプレの世界を紹介していたようなのですが・・・日本では「日常に潜む前衛」として2000年以降に設立された若手ブランド15組の作品を展示しているのですが・・・これが酷い。いわゆる、アーティスティック一辺倒のアプローチではなく、実際に着れる(売れる)日常の服へと落とし込んだなかに、日本らしい前衛性があるとでも言いたいのでしょうが・・・過去の日本ファッションからの遺産ともいえる斬新なディテールをディフージョンラインのように焼き直したような服や、イギリスなどの伝統的な服の持っていた”テイスト感”をマクロなディテールで再現しているだけのユーティリテーウェア(作業服)や、ヒップホップやストリートファッションからインスピレーションを受けた流行を後追いしてデザイナーウェアという無意味な付加価値を加えただけのカジュアルウェアなど、現在の日本ファンションが抱える根本的な問題を明らかにしていました。

1980年代初頭に、コム・デ・ギャルソンやヨージ・ヤマモトが起こした革命とは、単に立体裁断によって構築されていた西洋のファッションのルールを破ったことや、黒を中心とした無彩色の好んで使ったことや、切りっぱなしや非対称の(西洋的な概念では未完成とも思える)服であったこと”だけ”ではなく・・・女性の社会進出によって大きく変化し始めた女性のイメージを表現したことだったと思います。女性のセクシャリティーをアピールしたファッションではなく・・・といって当時パリで発表されていアメリカンフットボール選手のような巨大なショルダーパッドで”強さ”ばかりを強調した女性像とも違います。無愛想な表情をしたモデル達が淡々とランウェイを歩く様子は、男性(もしくは女性らしさ)に媚びた愛嬌さえ感じられません。「セクシー」も「かわいい」も目指していない・・・モノ・セクシャル的な女性の存在価値観こそが、日本ファッションが西洋の文化に於いて「未来」を感じさせる理由であるのではないかとボクは思うのです。二次元のアニメやマンガの世界を再現するコスプレは、ある意味、1980年代に起こった女性像からは逆行しているようなもの・・・ゴスロリやメイド服など、既成概念に女性を押し込めているのですから。ただ、それを女性自らが求めるようになったということは、日本人の女性が無意識に歴史を逆行しているということなのかもしれません。それもまた「時代」であるのですが。

会場を闊歩するコム・デ・ギャルソン(ヴィンテージ?)を着こなした”コムデおばさん”を数名をお見かけしました・・・そして、コム・デ・ギャルソン、または、コムデ風のファッションは、近い将来”シニア服”になるんだろうなぁ~と思えたのでした。革新的であったファッションも時が経つと”過去の衣服”になってしまうという「流行」の残酷さ・・・だからこそ、ある時代を映した”作品”として残していく意味があるのかもしれません。しかし、今の日本ファッションとして展示されていた洋服が、30年後に”作品”として、美術館で展示されるほどの存在意味を持つとは、到底思えません。何故なら・・・若手デザイナーの趣味嗜好やリスペクトする世界観を表現したに過ぎない服は、衣服文化として数十年後に昇華することもなく、メディアに消費されていくだけだから。今は、まるで第2時世界大戦後、パリの流行に世界中の女性が振り回されたように、ファッションは情報としてインターネット経由で拡散・・・ステレオタイプのイメージ(***ルックなど)の使い古された”知能指数の低い”トレンドが蔓延する時代になってしまいました。

コム・デ・ギャルソンやヨージ・ヤマモトの後にコム・デ・ギャルソンやヨージ・ヤマモトを超える存在なし。日本ファッションの”未来性”は永遠に二人に委ねられたまま・・・21世紀に女性の意識が歴史を逆行していくとは、誰が想像できたでしょう。

「FUTURE BEAUTY 日本ファッションの未来性」
東京都現代美術館
2012年10月8日まで


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