2011/01/31

これぞ、マツコ・デラックスの神髄?・・・上から目線の常識的な回答に、誰もが納得されられるのだ!~あまから人生相談/マツコ・デラックス著~


新刊が出れば必ず買っているんだから、ボクはかなりの”マツコ・デラックスのファン”なのかもしれません・・・。
ただ、自分的には「何かを語るなら(批判するなら)相手を知ってから」というのがモットーでありまして・・・テレビやマスコミのイメージだけで、あれこれは言いたくないんです。
というわけで・・・今回も買いました、マツコ・デラックスの最新本「あまから人生相談」を。

結論からいうと・・・これは、現在までに出版されたマツコ・デラックスの本(アタシがマツコ・デラックス、週刊女装リターンズ、世迷いごと)のなかでは、一番「らしさ」が凝縮されていている「おススメ本」だと思いました。
(中村うさぎとの共著の”往復書簡”は、基本的に中村うさぎ本とボクは考えています)
今までのすべて著書は、芸能人にツッコミを入れるという本で・・・どこか芸能界の掟に縛られているところがあり、それほど「毒舌」というわけではありませんでした。
ピュア(?)な一般人には、それなりに過激な内容だったのかもしれませんが・・・ボクのような”おふて”の中年ゲイにとっては日常会話の延長上でしかなく、面白みには欠けていたのです。
メディアは「おネエキャラ」=「鋭いツッコミ」という”おすぎとピーコ”が構築した路線を期待してしまうのだろうけど・・・マツコ・デラックスが毒舌を吐いているのは、取材に来たレポーターやマスコミ、番組スタッフやテレビ局という内輪に対してだけであって、芸能人や当事者などに対しては、意外にも擁護的な発言が多かったりします。
本書は、読者からの人生相談への回答を一冊にまとめた本ということで、一般人相手にマツコ・デラックス調で「言いたいことを言えている」という感じではあります。
「強い者には甘く、弱い者には強く」というマツコ・デラックスの本領が、人生相談というスタイルで発揮されているのが本書なのです。

元々、マツコ・デラックスの得意とするのは瞬間芸としての「切り返し」・・・それを生かすには「語り下ろし」というスタイルが一番効果的です。
本書の文章は、口語体として抜群に自然でなめらか、その上、なかなかウィットに富んでいます・・・「編集者の手が、かなり入っているのでは?」と邪推してしまうほど、マツコ・デラックス的イメージに極めて忠実なのであります。
元々は、レディスコミックの連載されていた人生相談をまとめたということなので、掲載されてから本として出版されるまでに構成や文章に手をいれることは当然なのですが(連載を読んでないボクには比較できませんが)・・・今回の「推敲」は見事といっても良いでしょう。
ただ、マツコ・デラックスの回答は「洞察力」や「分析力」から導き出された「目からウロコ」的な”教え”ではなく・・・極めて常識的であり、模範的な、読み手が安心できる王道です。
時には、あまりにも、まとも過ぎる「正論」という回答なので”おねえキャラ”独特のアクの強さを期待する読者は、少々がっかりしてしまうかもしれません。
相談者の言葉じりを拾った意地悪な「切り返し」は、小気味良いものの・・・読み進むうちに「マツコ・デラックスって、ホント普通な人なのだなぁ~」って、シミジミ感じさせられることになります。
おネエ言葉の言い回しに隠れた「凡庸な常識人」であることこそが、広く世間の共感を生みやすく「女装キャラ」の中でもマツコ・デラックスが一般的に受け入れられている理由でもあるのかもしれません。

ここでひとつ疑問に思うのは・・・「女装キャラ」を人生の甘いも辛いも経験してきた「人格者」のような扱いをして、世間は上から目線の発言を許してしまうのは何故なのか?ということです。
「女装キャラ」の人は「男の気持ちも、女の気持ちも分かる」という認識をされているようですが・・・ボクに言わせれば「男の気持ちも、女の気持ちも分かってない」であります。
確かに・・・「ゲイ」で「女装」であることの二重の意味で、イジメを受けたり、差別されたりということはあったかもしれません。
それは、それで、それなりに、辛い人生を経験してきたとは、思います。
ただ、それは普通に生活している人が体験することとは大きく違うわけで・・・「女装キャラ」だから、人生や物事を本質を見極めているのだと、持ち上げる必要もないような気がするのです。
すべての「女装キャラ」に当てはまることではないけれど、極端な人生経験のために歪んだ思考回路を持っていることは多く・・・それを「独特な感性」「ユニークな発想」として認めるというのは理解できます。
結局のところ、「男」とか「女」とか「ゲイ」とか「女装」だとか、ステレオタイプで、それぞれを”ひと括り”に語ること自体がおかしな話だということです。
ただ、同性(女性が女性から、男性が男性から)頭ごなしに言われたらムカつくことでも「女装キャラ」から言われると、笑って受け入れることができてしまうという風潮は否定できません。
しかし「ノンケの女装趣味の人」「性同一障害者で女性になった元男性」にはなく「女装キャラ」のみに、人格者的な特権が与えられているのは、ちょっと不思議なことです。
元の性が男性ではなく、元が女性である「男装のビアン」に「女装キャラ」と同じ特権を与えられていないことを考えると・・・根底には、無意識の「男尊女卑」が隠れているということなのでないでしょうか?

「人生相談」というのは、新聞や雑誌などの媒体が存在する頃からあるもので、作家の先生なり、ベテランの俳優なり、世間的に人望のある、それなりに人生経験を積んできた方から”教え”をいただく・・・というのが、本来の「人生相談」だったと思います。
ただ、今では”どこの馬の骨”とも分からないような「カリスマブロガー」「自称、先生」の「人生相談」にも相談者がメールを送るような時代ですから、とりあえず誰でも良いから「私の悩み聞いて!」という人が多いということなのでしょう。
本書のような「人生相談」から、人生について学んだり、考え方の影響を受けたりしたとしたら、それはそれで自分の身の丈を知ることとなるわけで・・・・・・下世話な人生相談になればなるほど、相談を受ける側も、それを読む側も、思考能力や人生経験を問われてしまうものなのかもしれません。




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2011/01/27

ベストセラー作家となって印税をもらったら・・・毎日毎日風俗に通って抜きまくってもらいたいものだ!~「苦役列車」西村賢太著~



普段は「芥川賞/直木賞」の発表に注目しているわけでもないんだけど(年に2回もやっているし)今年は、ある理由で気になってしまいました。
たぶん、文学界的なニュースとしては、芥川賞、直木賞共にダブル受賞(各賞に受賞者2名ずつって大盤振る舞い!)や、やっと直木賞受賞となった道尾秀介氏や財閥・文学一族出身の大型新人朝吹真理子女史なのだろうけど・・・個人的に気になったのが、なんといっても「苦役列車」で芥川賞を受賞した西村賢太氏であります。
こういう太った犬顔の中年(ボクの勝手な解釈ですが)というのは、ゲイ組合ではちょっと人気のあるタイプ・・・ただ”やさぐれ”過ぎな雰囲気は、ちょっと面倒な感じもします。

インパクトがあったのは、芥川賞と直木賞の受賞会見でのこと・・・黒いドレスで”いかにもお嬢様”という体の芥川賞受賞者のひとり朝吹真理子女史と、ヒゲ面で革ジャンを着たメタボな中年男という西村氏という異色の組み合わせに、マスコミには「美女と野獣」と書きたてていました。
(西村氏が野獣としても・・・隣が美女かというのはビミョーですが)
「受賞の連絡があった瞬間、何をしていましたか?」という、こういう受賞会見ではよくある質問に対しての西村氏の返答が「自宅で、まあそろそろ風俗行こうかなと思っていんですが・・・行かずに良かった」なんて、答えていました。
「そんなことまで言わなくても良いのに」っていう余計な情報だったりするわけですが・・・こんな風に屈辱的に自分を落とすような私小説が彼の作風と知って、納得したのでありました。
幼い頃、父親が性犯罪で逮捕され夜逃げ・・・中学から働き始めて自立したものの29歳の時には自らも暴行で留置所に入ったこともあったそうです。
フリーターとして生計を立てながら、2003年から小説を書き始めたということなのですが、そのすべてが自分の愚行自慢のような小説ばかりというのも、なんとも凄まじいような気がします。
芥川賞の審査委員であった島田雅彦氏いわく・・・今回の作品(苦役列車)で何かジャンプしたところはあるのかと質問されて「ないと思います」ときっぱりと返答しているように、継続してきた手法が評価されたいうことのようです。

さて、第144回芥川賞受賞となった「苦役列車」は、”貫多”という主人公が、1980年代半ばを振り返って書かれている三人称の小説でありますが・・・西村氏自身も同じ時代に同じ19歳だったわけで、彼の実体験がベースになっていることは確かなようです。
(人物設定の父親が性犯罪者など、ほぼ西村氏と同じ境遇)
ただ、三人称で書かれた”貫多”という名の若者の物語というのは、この作品以外にもあるようで、その私小説な徹底ぶりにも驚かされてしまいます。
日雇いで倉庫で働く”貫多”の惰性で生きているような日々に、ちょっとした変化が起こるのは、”日下部”という同い年のアルバイトが入ってきてからのこと・・・普通に家族のいる環境で育ってきた”日下部”との関わりによって、”貫多”は己のねじ曲がった感性や、貧しい人間性をよりいっそう感じることとなるのです。
文章は淡々とトレートで、余計な文学的な飾りっけなし・・・ただ、内容が内容だけに気分が重くなっていってしまうのは、”貫多”の卑屈さに「筋が通っている」からかもしれません。
自己に対してこれでもかと卑下する態度、劣等感の裏返しで他人までも見下していく・・・そんな「負の連鎖」が”貫多”自身に戻ってくるという”自業自得”に、切なさと共感を感じてしまったのでありました。
これほどまでに「私小説」という形式のみで書き続けて、自分の恥部をさらけ出すことにこだわるということは、ある意味、冷静に自分自身を客観視して受け入れなければできなければ出来ないこと・・・それなのに西村氏は「ダメ人間」のままでいるからこそ「私小説」を書き続けられているわけで、人間的に成長してしまうことが作家としてのアイデンティティーを奪ってしまうという、自分で作り上げた袋小路の中を進んでいるような気もしてしまいます。
西村氏は「自分よりダメなやつがいると、ちょっとでも思ってくれたらうれしい」なんて、またまた自分を卑下したような発言をしているけど・・・ちょっとだけ卑屈になったり、時々屈折して物事を見てしまう自分自身を、ボクは”貫多”の中に感じてしまったのでした。
きっと西村氏は実生活でもサイテーな奴だと思うけど・・・そこまでの卑屈さを「意識するか」「意識しないか」の違いだけのような気がしてしまうのであります。

日曜日の昼番組「アッコにおまかせ!」の取材に答えていたアンケートでは「(落選していたら)失意の寂しさを紛らわすために、本当に風俗にいくつもりだった」と直筆で答えていて、記者会見の返答が「ガチ」であったことを強調していました。
また「本が売れて大金が手に入ったらそうする?」という問いには・・・

「毎日風俗に行く(これは真面目です)」

と念を押すように返答しているので、ボクが購入した1冊分を含めた10万部といわれる印税(1200円 X 0.1 X 100000)で、西村氏は風俗で抜きまくるのでしょう!
購入者としては、なんだか妙な気分にさせられるところもあるけれど、そのどうしようもなさも許してしまう・・・興味深いキャラクターであることには間違いありません。
今後、出版界で「西村賢太ブーム」・・・起こりそうな予感がします。



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2011/01/24

「会えない時間が~、愛、育てるのさぁ~」なんて昔ばなし・・・「会っている時間”だけ”が、愛、育てることができるのさぁ~」なのだ!


子供の頃、テレビの歌謡番組で郷ひろみが「よろしく哀愁」という歌で、こう歌っていました。

会えない時間が~、愛、育てるのさぁ~♪

このフレーズは、ボクの記憶に焼き付けられて、恋愛に於いての「座右の銘」となり、長い間ボクを悩ます原因になったのです。
ボクの少年時代というのは、コミュニケーションツールとしては「手紙」「電話」ぐらいのもので・・・「留守電」が、一般的に普及したのは20代半ば頃(1980年代半ば)だったような気がします。
(ボクは18歳から留学したので、日本とは多少事情が違うかもしれませんが)
限られたコミュニケーションツールしかなかった時代に、どうやって連絡って取り合っていたのでしょう?
子供の頃、クラスメートなどの日常的に会う仲間とのコミュニケーションは「実際に会う」というのが、基本だったのかもしれません。
アナログの極地というも言えるコミュニケーションであります。
それでも、何か改めて何かを伝えたいという場合には「手紙」という選択・・・離れた友人であれば郵便で、クラスメートや学校の友人であれば置き手紙が、あったのです。
そういう延長上に「交換日記」のようなロマンティックなコミュニケーションが成立していました。
「電話」というのは、あくまでも緊急を要する場合のみに使われるモノだったような気がします。
ボクが子供の頃には、単に友達と話すために電話をすることはありませんでした。
低学年の頃(1970年頃?)には、まだ電話が家にないというクラスメートもいて、緊急連絡網には「呼び出し電話」(そのエリアで電話を持っている家に呼び出してもだって電話を使わせてもらう)というのも存在していたくらいなのですから・・・。
さすがにボクが留学する1980年には「電話」で連絡を取り合うのは普通になっていましたが、それでも実家から長電話をすると親には叱られたものでした。
あくまでも「電話」は、実際に会うための約束をしたり、確認するためだったのです。
限られたコミュニケーションしか出来ないからこそ・・・「会えない時間」が切なく恋心を暴走させて「愛、育てる」になっていったのでありました。

「留守電」の登場は、ボクにとってコミュニケーションの大きな革命であったような気がします・・・特に、恋愛などの濃密な関係に於いては。
「留守電」を使うようになったのは20歳の頃に、メイン州のポートランドという小さな街で、美術大学に通うために一人暮らしを始めた時でした。
ポートランドは小さな街ということもあって、電話で前もって連絡することもなしに、いきなりお互いの家を訪ねるなんてことは多々ありました。
付き合っている人が家にいなかったりすると、一旦、自宅に戻って留守電にメッセージを残したりして、切なく彼からの電話を待ったりしたものでした。
以前だったら、電話していなかったら、それまで・・・だったわけですが、留守電という形で「自分の意志を残せる」というのは、便利なことではあったものの、逆に「留守電を残したのに、すぐ連絡がない!」という今までになかった「喧嘩の火種」を生んだような気がします。
「留守電」によって「会えない時間」は「愛、疑う」になっていったのです。

1990年代半ばになると「携帯電話」「メール」の登場となります。
携帯電話によって、さらに「愛、疑う」機会もさらに増える結果を生むことになったような気がします。

携帯に電話して履歴を残したけど電話をかけてこない!
携帯電話にメールしたのに5分以内に返信がない!
携帯の履歴/メールに浮気相手を発見した!

自宅や仕事場に縛られずに、個人がリアルタイムで連絡が取ることのできる「携帯電話」は、おそらく世の中の全般的に「不倫」を含めて、点と点でつながる「関係」を増やしたかもしれません・・・セフレなどの当事者以外が介入しない関係を。
勿論、携帯電話以前にも「ポケベル」というツールもあったわけなので、強者はとっくに不倫し放題だったのかもしれませんが。
「メール」は、ある意味「手紙」のように相手の時間を拘束することなしにコミュニケーションを取れる手段でありながら、相手に届くまでの時間差もなく、手渡しするような”重み”もないので、バランスの取れたコミュニケーションツールだとボクは思っています。
ただ、問題がないわけではなく・・・時々届かないというトラブルがあったり、文面が相手に誤解を生んだりということがあります。
「メール」が一般化することで、ネットの出会い系サイトというのもポピュラーになっていったわけですが・・・知り合っても上手くいかない場合でも、メールの返信をしないという”能動的な拒絶”がしやすいというのもハードルの低さだったのかもしれません。
ネットの出会い系サイトというのは、言うなれば「一本釣り」の出会いであり、当事者だけで完結出来る「メール」というのが最適であったのです。
インターネットの「メール」が主流だった時代は返信のタイムラグも許されていましたが・・・携帯メールが一般化することで、再び「愛、疑う」ツールとなってしまったかもしれません。
携帯電話を巡るイザコザで関係がうまくいかなくなったという話はよく聞きます。
リアルタイムでのコミュニケーションが可能になることで、浮かび上がってくる「知る必要のない現実」というのもあったわけのかもしれません。
特に恋愛関係に於いては、会えない時間の妄想が、現実の相手以上の素晴らしい存在へ変貌して、結果的に愛をより深くするなんていう幻想も成り立ったわけですが・・・コミュニケーションツールの発達によよって、その幻想を抱かせるチャンスさえもなくなり、期待はずれの現実に向き合うことになってしまうのです。

そして「ツイッター」時代となったわけですが、このコミュニケーションツールは、いまだに発展中・・・人と人を結びつけるということでは素晴らしいツールである反面、知らなくてもいい相手の行動や考え方を知ることもあったりする面倒なツールでもあるわけです。
ネット上ではツイッター以外にも、ブログだったり、ミクシィだったり、相手の情報がネットには蓄積されています。
そこには、赤裸々にその人の本質が現れているのかもしれません。
親友であっても、恋人であっても物事に対しての見解の違いはあるもので・・・リアルで顔を合わしてるだけでは知る由もなかった、相手の真意を知ることになります。
最近、流行りのiPhoneのゲイ出会い系アプリには「相方/パートナーあり」と記述しながらも、ヌード画像をアップしていたり、セックスのポジション(タチか、ウケか)をわざわざ明記している登録者が数多くいます。
この人たちの「相方/パートナー」が登録を見たら、どう感じるのだろう・・・なんて、余計なこと考えてしまいます。
エッチなプロフィールを公開して「友達募集」なんて「地引き網」のような出会い・・・ネット上(まさにウェブの網!)に引っかかる者と、出会う可能性はできるかぎりオープンにしておきたいのでしょう。
ま〜、随分と貪欲なのねぇ〜って感じであります。
人のネットでの活動を逐一監視することなんて不可能・・・不実な人は、どうあっても不実なわけで、それを追求すること自体が無意味な行為なのです。
それならば、一体、何を信じれば良いのでしょうか?
それは、最もアナログな時間・・・その人と一緒にいる時間”だけ”が真実であるということなのかもしれません。
一緒にいるとき「だけ」しか相手のことは考えず、あれこれ自分勝手に想像で判断はしない・・・本能を研ぎすませれば、自ずと真実は分かるはず。
「リア重」(リアルを重視する)に徹することで・・・ボクは「会えない時間が~、愛、育てるのさぁ~♪」の呪縛から、やっと逃れることが出来たような気がします。

だから、今はハッキリと言えるのです・・・

「会っているとき”だけ”が、愛、育てることができるのさぁ~♪」と。



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2011/01/20

園子温監督最新作は”おっさん”が怖い・・・人生っていうのはイタイもんなんだよ!~「冷たい熱帯魚」~



試写会の抽選に当たったので、今月29日からの劇場公開を前に、園子温監督の最新作「冷たい熱帯魚」を観てきました。
「愛のむきだし」「奇妙なサーカス」が、ボクの好きな園子温度監督の作品・・・と白状してしまうと「なるほど・・・・やっぱり、そういうの好きなのねぇ~」と分かる方は頷くことでありましょう。
そう・・・観る者を選ぶ映画ではあるけど、好きな人は好きなのが園子温監督の作品であり、そのフィルモグラフィーの中でも「濃くてエグいのが好き!」ということなのです。
園子温監督の作品には、哲学的かつ社会的なメッセージ性のある濃くてエグい作品、実験的で詩的な映像や演出の作品、アイドル俳優を起用したコマーシャルな作品と、いくつかの方向性があるようなのですが・・・最新作「淋しい熱帯魚」は、2008年の「愛のむきだし」以来の「濃くてエグい」作品であります。
ただ、世界観は「明」と「暗」という感じで、対照的ではありますが・・・。

(ここからは、多少のネタバレを含みます)

小さな熱帯魚店を経営する気弱な中年男、社本(吹越満)は、冷凍食品ばかりの食事を作る若い後妻(神楽坂恵)と、前妻との10代の娘(梶原ひかり)の3人で暮らしているのですが、家庭はほぼ崩壊状況・・・父親としても、夫としても、彼の権限なんてまったくありません。
万引きで捕まった娘をうまいこと機転を利かして救ってくれた、同じ熱帯魚の業者の村田(でんでん)と知り合うのですが・・・娘を自分の店の住み込みの従業員にして面倒を見てくれたり、ビジネスパートナーとして高級熱帯魚での儲けはなしを持ち込んできたりと、何故か親しげに急速に接近してくるのです。
村田は、自慢げで押しが強いところはあるけど、どこかにいそうな”人の良いおっさん”風であります。
村田の妻(黒沢あすか)は、無意味にフェロモン出しまくっていて、どこか粘着質っぽくで不気味・・・また、村のの店の従業員全員が、胸だけは大きなエロい女の子ばかりというのも、どう考えても変!・・・普通とはズレている不可解なことから、徐々に、村田と妻のトンデモナイ連続猟奇殺人としての正体が明らかになっていくのです。
また、村田の弁護士を演じている、渡辺哲の脂ぎった絶倫エロおっさんぶりも、凄まじい!・・・今まで映像的にはお目にかかったことのないような変なモンがグイグイ出ていました。
主人公を演じる吹越満以外は「脂ぎったエロおっさん」「フェロモン出しまくりのエロ女」・・・という濃厚なとんこつスープのようなキャストが「危ない世界へ堕ちていく感」をさらに感じさせているのかもしれません。

村田を演じる”でんでん”のキャスティングが、メチャクチャ絶妙で「いる!いる!こんな、おっさん!」と思わず頷いてしてしまうほどです。
だいたい、こういう役の場合、人の良さそうな笑顔から豹変して怖い顔になるというパターンはよくあるのですが、でんでんの場合、とんでもなく残忍なことや、暴言を吐いていても、どこかへらへらしていて”人は良さげ”・・・それが、逆に「悪」を「悪」とも感じていないようで、血の気の引くような恐ろしさを感じさせるのです。
まるで、何でもない日常的なことのように人を殺し、ニワトリでも捌くかのように死体を「透明にする」村田と妻の淡々とした行為には、恐怖を通り越して滑稽で、思わず笑ってしまいます。
ただ、そのうち映画は、恐ろしくて笑うという観客の許容範囲のレベルを超えて・・・映画史上に於いても、最も残酷で具現化された容赦なしの犯罪現場のシーンへと突入していくのであります!!!
残酷スプラッター大好きのボクにとっても、じーと直視するのは拷問的なほど・・・バラバラ殺人で死体を切り刻んでいく現場というのは、実際はこんな感じであるというのが、まざまざと見せつけられるのですから。
まぁ・・・死体解体愛好家(そんな人が存在すればですが)ならば、ビンビン勃起もんの大好物映像かもしれません。
(そういう意味でカルトとなることは確実?)
世界各国で上映禁止になり、製作されたドイツではオリジナルフィルムまで焼却処分となった屍体愛好者向け映画「ネクロマンティック」に、映像的なインパクトは匹敵するといっても過言でもないかもしれません。

さて・・・
これほど残忍な殺人を繰り返す村田の動機というのは、一体何なんでしょう?
高級魚を高価な値段でふっかけて金を騙し取るから、その口封じ?
それても死体を「透明にする」作業自体に興奮してしまう死体分解マニア?
いいえ・・・それは、山奥に教会(犯行の現場でもある)を持っていた村田の父の影響によるものなのかもしれません。
どういうわけか、園子温の映画に出てくるモチーフとして「贖罪のための折檻」「原罪の罪悪感」そして「神への憧れ」というような・・・カトリック的なキリスト教世界観であることが、たびたびあるのですが、この村田も、その観念に囚われているようなのであります。
「人の寿命を決める」本来は神が行なうべき行為をしてしまうような「殺人」・・・残された死体を「透明にする」ための技術というのは、まるで職人が身につけた生きていくための手段のようです。
単なる猟奇趣味的な連続殺人犯という、ちっぽけなレベルの「悪人」ではなく・・・神の領域さえも凌駕する存在としての「悪の化身」になることで、幼い自分を神の名に於いて折檻した牧師の父を超えることが、出来たのではなかったのでしょうか?
それほど大きい父という存在の呪縛から逃れることが、村田の真の目的だったのかもしれません。

この映画の神髄は・・・終盤、社本が娘に放つ言葉に託されているように、ボクは思います。

人生っていうのはイタイもんなんだよ!

映画を観終わって、ホッとして涙が出てきそうになったというのは、生まれて初めての経験でした。
とにかく「冷たい熱帯魚」の世界から、やっと逃れられることに、ボクは安堵したのです・・・。
視覚的なインパクトだけでなく、倫理的にも観ている者を圧倒的に追い詰めて、エンディングまでどうなってしまうのか想像がつかない展開に、2時間44分以上の疲労感を感じました。
エンディングの不快な不条理さも「ああ、なんという終わり方なんだ・・・こんなの最低!」(これはある意味、褒め言葉)と、思わず頭を抱えてしまいたくなったほどです。
それにしても、おっさんというのはメチャクチャ怖い・・・人の良いおっさん風だからって、おっさんを舐めてかかっては、絶対にイケないと思える映画なのでありました。


「冷たい熱帯魚」
2010年/日本
監督 : 園子温
脚本 : 園子温、高橋ヨシキ
出演 : 吹越満、でんでん、黒沢あすか、神楽坂恵、梶原ひかり、渡辺哲



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2011/01/13

テレビ朝日「お願い!ランキング」の美食アカデミーって勘弁して・・・イタリアンの貴公子の川越シェフってど~よ?


観ようと思って観たことなんて一度もないし、ましてや予約録画までするわけもありません・・・ただ、寝る前に付けていたテレビに偶然流れているので観てしまう番組が、テレビ朝日系列の平日夜の帯番組の「お願い!ランキング」であります。

いろいろと番組のコーナーがある中で、以前から観ていて何ともバカバカしく思っているのが・・・「美食アカデミー」と名乗る3人の料理人が、ファミレスやファーストフード店の売り上げトップの料理を採点してランキングするという企画。
「美食」と、あえて謳っているのは「自虐的」な意味だと思っていたのですが・・・結構、やっている本人たちはマジみたいです。
「美味し~い!」なんて言いながら、満点とか付けちゃったりしているのを観ると・・・堂々と「美食アカデミー」なんて名乗って出てきているわりに、なかなかの恥知らずでレベル低いなぁ・・・と思いつつ、視聴者(まぁ、ボク自身も観ているわけだけど)もレベル低いとしか思えません。
ま・・・「目くそ鼻くそ」的な世界(?)っていうことです。

ボク自身は、あまりファミレスを利用しないので、どれが一番美味しいとランキングされても、それほど有益でない情報でしかないということもあるし・・・ファミレスに、それほど期待をしていないってこともあるのかもしれません。
友人で大変なグルメの人がいるのですが・・・彼曰く、美味しいものを食わせてあげようと、高級なレストランに連れて行っても反応がイマイチな場合がよくあると嘆いています。
その理由は、ファミレスなどの安っぽい味付けに慣れ親しんでしまって、舌が教育されていない・・・とおっしゃるのであります。
美味しいものを「美味しい」と認識しないというのは、幸せなのか不幸なのか分かりませんが・・・高級で滅多に食べれない料理を美味しいと思わなければ、食べたいという欲求も存在しないわけで「食わず嫌い」ならぬ「食わず知らず」で「幸せ♡」という考え方も出来るのかもしれません。

この「美食アカデミー」企画の中心となっているのが、いつも真ん中でニヤニヤしているベティーのマヨネーズのママみたいな「おんな顔」したイタリアンシェフの川越達也氏の存在であります。
本来、シェフを「顔」で判断するのは失礼かもしれないけど・・・明らかに、あの「顔」で「イタリアンの貴公子」としてさまざまな営業しているわけですから、本人的にも「料理」だけで勝負というわけではない「料理系タレント」と受け取られるのは覚悟のことでしょう。
その上「顔」出しで、ハンバーガーショップ、ラーメン屋、キムチ、カップ麺、冷凍パスタ、犬のおやつ(!)まで、あらゆる商品プロデュースしているということは、完全なる確信犯というか、一番のセールスポイントは、あの「顔」でイタリアンシェフということでしかないようです。
ま、個人的には・・・あの顔で「イタリアンシェフ」っていうのは信用出来ませんが。
川越達也氏は、一応は代官山でオーナーシェフという立場でお店をやっている料理人であるとこと・・・ファミレスの料理をあれほど高い評価をするのって、自分の舌を疑われるという危惧はないのでしょうか?
それとも本気で「最近のファミレスやファーストフードは侮れない!ホント美味しくなっている!」と信じているのでしょうか?
「顔」でシェフを好きになってしまうファミレスの味で育ってきたようなファンは、「タツヤ・カワゴエ」で出されるコースメニュで満足するのしょうか?
(お店の方にはボクは行ったことないので・・・実際のところは分かりませんが)

世の中が「ファミレス舌」ばかりになっていうのは、ユニクロが好きなファッションブランド1位になってしまうような・・・服文化で起こっていることが、食文化でも起こっているということなのかもしれません。
いろんな業界に蔓延するマスマーケットへ傾倒し過ぎてしまう傾向というのは・・・日本全体のレベルの底上げなのか、それとも全体のレベルを下げているのでしょうか?
とにかく、ピラミッドのように何かを頂点とする文化が、徐々に崩れてきているようで・・・なんとも悲しい気分になるのであります。



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2011/01/05

「孤族」が、いつか迎えなければならない死とは?・・・孤独死、無縁死、そして、自死という選択~「自死という生き方」須原一秀著~



新年早々、なんとも暗い話になってしまうのだけど、新しい年を迎えたからこそ改めて考えてしまうのが「老いと死」の問題・・・去年12月26日の朝刊から連載が始められた朝日新聞のコラム「孤族の国」は、ボクに新たな深い衝撃を与えているであります。
現在連載中の「第一部/男たち」で取材されている男性と、ボク自身の置かれている状況とは違いますが・・・見方次第では、紙一重のようにも思えます。
ボクが立っている足元に忍び寄っている「深い闇」を覗いているような気持ちにさせられるのです。


「孤族」というのは「個を求めて、孤に向き合う」って生きる人々のこと・・・まさに、ボクの人生は「個」を求めて生きてきて「孤」に向き合うしかないような気がします。
強がるわけではないけど・・・人を頼ることもぜす、頼らせることもせず。
諦めたわけではないけど・・・人に寄りかからず、寄りかからせず。
冷たいわけではないけど・・・人に甘えず、甘えさせることもせず。
迷惑は他人に掛けることはしない、だから迷惑も掛けられるのはゴメン・・・そんな、糸が途切れたような人間関係というのは、日本社会では普通のことなのかもしれません。
幼いころから常に自分の「個性」を貫くことを、親からも求められていたボクには、一般的な「敷かれた線路を歩む」という人生の選択という発想はありませんでした。
ふと気付いてみれば、社会という原野に、ひとりで立ち続けるしかないような気持ちにさえなることがあります・・・それは、社会的な組織に属する限りつきまとう”責任”や”しがらみ”を放棄した者に課せられた「罰」なのかもしれません。

飯島愛、大原麗子らの最期によって、より世間に認識された「孤独死」・・・ひとり暮らしであれば、誰しもに起こりえる現実であります。
確かに、家族のような同居人がいれば、亡くなる前に発見されて命を取り留めていたかもしれません。
「死」は一瞬の出来事ではなく、長時間ひとりだけで苦しんだかもしれないのです。
誰かの出入りがあれば・・・何日も遺体が放置されることもなかったでしょう。
「孤独死=悲惨な死」という風に考えがちですが・・・行き倒れの身元不明人としての最期、または寝たきりアパートを呼ばれる死ぬ場所として入居する形ばかりの介護施設で亡くなることを考えると、自分の住み慣れた自宅で亡くなることに「安堵感」をボクは感じてしまうのです。
たとえ不治の病になっても、病院で生命維持装置によって生きながらえているよりも、自宅で死にたい・・・ということかもしれません。
勿論、家族や子供という存在があるのであれば、一日でも長く生きることを周りの人は望むので、自宅で孤独死なんていう選択肢もない場合もあると思います。
逆に「自宅で孤独死」というのは、ボク自身には理想の死に方と思えることもあるのです。

NHKで放送された「無縁社会」という番組には「無縁死」という、また別な現実を見せつけられました。
例え血縁関係のある家族がいても、引き取りを拒否したり、連絡がつかなければ「無縁死」になってしまうわけですが・・・ボクの場合、兄弟はいない、親戚(従姉など)とは数十年音信不通で、母親以外の血縁者というのが存在しません。
また、ボクが将来的に結婚することはあり得ませんし、自分が死ぬ時というのは必然的に「無縁死」にしかならないことに気付かされたのです。
現在の社会のシステムでは、死んでからだけでなく、病院に入院するにしても・・・同意を必要とする手術をするにしても・・・「血縁者がいない」ということは何かと不便ではあります。
ボクのように「無縁者」は、友人や知人(または行政?)などに、万が一の場合には依存するしかないわけですが・・・現在の友人/知人の関係が「その時がきた時」に、どれほど本当に頼れる存在になり得るのかは、計りかねるところもあります。
社会的なネットワークや利害関係というのが全くない”素”の存在になった時、お互いに、好き、気が合う、という以上に、血縁者と同じような責任を負い合えるというのは、正直難しいのことなのかもしれません。
「個」として生きていける間は何も問題のように思えませんが・・・ある時「個」が「孤」になる時が、確実にくることを覚悟する必要があるんだと身にしみて感じます。

いずれ訪れる自分の「老いや死」についてを考えると、単に自然に任せてボーっと生きているのではなく・・・老いるためにも、死ぬためにも、それなりの準備も必要であると思えてきます。
そんな時、須原一秀氏の「自死という生き方」という本を知りました。
最初に出版されたのは4、5年前なのですが、2年前に新書版も出ています。
不幸なことも問題もなかったにも関わらず、自然死を拒否して65歳で「自死」された哲学者が「自死」について論じた「遺言書」のような本です。
ボクは10代頃、自殺未遂(いずれも睡眠薬で)を2度経験していることもあり・・・「自殺は絶対的に間違っている」という気にはなれないし、常に自らの命を絶つことは選択肢のひとつであると思ってきました。
どういう理由にしろ、自ら死を選択するほど悩み苦しむということは、当事者以外には理解出来ません。
ただ、(ボクの10代の時の未遂のように)本気で死ぬ気がないにも関わらず、成功して死んでしまうケースだってあるわけで・・・安易に自殺的な行動を肯定すべきではないとも思います。

「自死という生き方」では「自殺」「自決」「自死」というのを分けて語っています。
まず「自殺」というのは、何から逃避するために自らの命を絶つことで、金銭問題や人間関係などで追い詰められているという状況から逃げるための行為だということです。
「自決」となると、ある共同体による、何らかの声明のために死をもって訴えるという政治的な行動ということになります。
筆者が選択した「自死」というのは、いわゆる「自然死」を拒否する人生を締めくくり方としての、自ら死ぬ時を選択するという積極的な行動であるということです。
この本の著者が行なったのは、あくまでも「自死」で「自殺」ではありませんでした。

著者が訴えるのは・・・一般的に言われる「老衰死」=「穏やかな死に方」というのは、それを望んだところで誰もが与えられる死に方ではないということです。
全身体機能が同時に衰えてろうそくの火が消えるように亡くなるという「穏やかな死」を迎えることができる可能性は、医学的にも・・・かなり低いのであります。
一般的に「病死」の場合、ある程度の苦痛を(場合によっては、長時間)経験しなければ、死には辿り着けないようで・・・それは肉体的だけではなく、精神的にも、非常に苦しいことであるはずなのです。
元通りのように元気になるという可能性も希望のないまま、命を絶やさないためだけに生き続けなければならないことが、どれほど辛いことになるのか・・・ボクには想像することしかできません。
出来る限り生き続けていて欲しいと願う家族(血縁者)がいるということは、人は死ぬまで生き続けなければならない拷問を経験するかもしれないのです。
また、死を待つような状態の時には、すでに「自死」を選ぶことさえ出来きません。
「安楽死」という選択だって医療機関的には不法な行為となってしまうのですから、本人が死を望んでも、そう易々と死なせてはもらえないのが現実でしょう。
また、人は事故や災害によって、予想だにせずに死んでしまうことだってあります。
圧死や爆死して一瞬で死ねれば楽(?)かもしれませんが・・・下手をすると、数時間、いや、数日間、生き続けた結果、救助されずに餓死で命を落とすことだってあり得るのです。
そう考えると「命ある限り生き続ける」というのは、とても素晴らしいことに思える反面・・・ご褒美としての「穏やかな死」を迎えることは、非常に稀なことなのかもしれないと納得するしかないのであります。

それでは、人はいつ「自死」すべきなのか?・・・ということです。
本書ではソクラテス、三島由紀夫、伊丹十三の三人を例にしていますが・・・正直言って、これらの人たちの「自死」の基準に、ボク自身が達することは難しいように思えます。
「自死」というのは、何かから逃避することでもなく、何らかの政治的な訴えでもなく、人生にある程度の満足を感じるからこそ出来る選択であるわけですから・・・ボクのように何か極めていない人間には、なかなかハードルが高いようです。
だからこそ、本書は「自死という”生き方”というタイトルだったわけですね・・・。
確かに「自死」という究極の死の選択を奨めながら・・・結局のところ「いかに生きるか?」という”生”にこそ、意味があるということを、この本は訴えていたのでありました。
人間が健康で人生を楽しめる限界というのはいずれ訪れるはず・・・「自死」という選択肢を選べるような生き方をしたいと、ボクは強く感じたのです。



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