2011/08/25

「マイノリティーの中のマイノリティー」を自負するマツコ・デラックスの正体・・・架空敵としての「マジョリティー」への”フリ”と”ツッコミ”と”カエシ”の瞬間芸~マツ☆キヨ/マツコ・デラックス&池田清彦著~



「アタシがマツコ・デラックス!」「週刊女装リターンズ」「世迷いごと「うさぎとマツコの往復書簡」「あまから人生相談」、そして最新刊「マツ☆キヨ」まで、マツコ・デラックスの本はすべて買っているのだから・・・ボクは「マツコ・デラックスの大ファン」ということなのかもしれません。とりあえず「本業文筆家」という肩書きのマツコ・デラックスありますから・・・著者が出るたびに「めのおかしブログ」では取り上げてきました。”マツコ叩き”(?)のような厳しいことを書き綴ってきましたが、それはマツコ・デラックスの女装嗜好や人間性のことではなく・・・”タレント”としてのメディアでの扱われ方/立ち位置に対して、ボクが”違和感”を感じているに他なりません。






さて・・・マツコ・デラックスの最新刊は「マツ☆キヨ」は、フジテレビの番組「ホンマでっか!?TV」から生まれた対談本といって良いのかもしれません。番組パネリストとして準レギュラーのマツコ・デラックスが「ホンマでっか」の科学/生物学の専門家としてコメンテーターのひとりを務める池田清彦教授(現:早稲田大学国際教養学部教授)を、おもしろいキャラクターだと見初めて、実現した企画ということのようであります。池田教授は、べらんめい口調で我が道を往くざっくばらんなタイプ・・・数々の著書のある理学博士でありながら、権威を感じさせない人の良いオジサンという印象です。専門分野とは無関係の内容といっても、大学教授と同じ立場で「対談」できてしまうのは、マツコ・デラックスほどの”売れっ子”であるから”こそ”でしょう。

今まで出版されたマツコ・デラックス本というのは「語り下ろし」・・・実際はゴーストライターによってまとめられているので、本書のように「対談本」という形の方が、”より”マツコ・デラックスの持ち味を生かしている気がします。対談本というのは、会話をテープおこしして、ゴーストライターによってまとめるのが当然なのですから。

帯に「これがマイノリティの生きる道!?」とあるように、本書は「マイノリティーの中のマイノリティー」を自負するマツコ・デラックスと、生物学会の「マイノリティー」である池田先生が、東日本震災から、差別意識の仕組み、情報化社会の問題を語り合っているわけですが・・・まず、ふたりを表している「マイノリティー」という存在自体が現在の日本では、それほど「少数派」でも「異端」でもないということを感じます。「マジョリティ」=「多数派」に対しての「マイノリティー」=「少数派」ということですが、1980年代以降は「サブ・カルチャー」などの「マイナー」であった「マイノリティー」の方が、若い世代には「主流」となり「個性」として評価される時代・・・「マジョリティー」に埋もれて「個性」がないと思われる方がマイナスなのです。細分化の進んだ今では誰もが「マイノリティー」・・・「マイノリティー」=「差別される少数派」という認識自体、古臭い考え方のような気がします。

池田先生は環境問題については、定説に対して批判的な意見を持っているところから、自分を「マイノリティー」と位置づけているのかもしれませんが・・・それって、それほど強調することなのでしょうか?学問の世界で「定説」ばかり唱えていても、新しい発見も学説も生まれません。「マイノリティー」であることは、士気の高い学者であれば、当たり前のスタンスであるように思えます。池田先生(1947年生まれ)の世代というのは、反体制的(アナーキー)や反社会的(ドロップアウト)への憧れを持ちながらも、多くの若者は「マジョリティー」である権威的な社会構造に飲み込まれていきました。今という時代になって大学教授という社会的地位に立ったからこそ・・・この世代のオジサンは、権威的な自己の存在を否定するかのように「アナーキー」や「マイノリティー」を主張してしまうものなのかもしれません。

マツコ・デラックスが自らを「マイノリティーの中のマイノリティー」と位置づける理由は、まず「ゲイ」という「マイノリティー」であること。そして、趣味で「女装」をしている「マイノリティー」であるということなのです。確かに「ゲイ」の中には、「女装/ドラッグ・クィーン」を毛嫌いするグループは存在しますが、それは「差別」というよりも、単に「嗜好」の違い・・・相手にされないからって「差別」と受け取るのは、被害者意識が強過ぎます。他者から「受け入れられる」「受け入れられない」を「差別」としてタブー化とすることは、素直に自分の好き嫌いを言えない世界にしてしまいます。結果的に表面化しない根深い「差別」を生んでしまうことになるのです。

また、自分の都合の良いときだけ「私たちオンナとして」と語り、所詮は「私はオトコだから」と言えてしまうマツコ・デラックスのような「ゲイ」の「女装好き」というのは、真剣に「女性」として生まれかわろうとしている「性同一障害者」にとっては、世の中に間違ったステレオタイプを作ってしまう迷惑な存在です。本書では、男でも女でもなく、ゲイでもニューハーフでもないからこそ「フェミニスト」であるという大胆な自己認識を主張しています。他者からの「差別」を訴える以前に、自分の存在が他者を脅かしていることを理解する事も必要でしょう。

「マイノリティー」である「ゲイ」や「性同一障害者」からも、さらに「差別」されるほどの「マイノリティーの中のマイノリティー」なのだから・・・「マイノリティー」の二重苦を背負っているとでも言いたいようなのですが、そんな「マイノリティー」の上塗りで、その「異端」さを主張した末に「差別」されたと感じるなら・・・それは「個性」を受け入れられない=嫌われているだけのこと。それを普遍的な「差別」と捉えることは、少”お門違い”に思えます。

毒舌や辛口を「売り」にしているマツコ・デラックスですが・・・多くの視聴者が感じているように、言動はそれほど毒舌でもなく、辛口でもありません。絶妙な”フリ”と”ツッコミ”と”カエシ”の瞬間芸によって「うまいこと言う!」という印象を与えることには成功しています。マスコミでは、それを「賢者の言葉」のごとく扱っていますが・・・実際はハッキリそした意図のない”合いの手”のことが多いような気がします。立場的に弱い者(マスコミの取材人とか)に対しての「ダメ出し」はしますが、それはマツコ・デラックスというキャラして期待さている定番の”カエシ”という程度。確かに、その場、その場での頭の回転は速いのかもしれませんが・・・芸人としてでもなく、専門分野を持っているわけでもなく、本人曰く「素人」という立場のままでタレント活動をさせて貰えるのですから「マイノリティー」であることを、これほど営業的に生かしている人もいないかもしれません。

本書は、マツコ・デラックスは池田先生に”フリ”をして聞き役を務める印象で、積極的な独自の意見を述べているのは池田先生”だけ”です。それに池田先生は、自分の専門分野を持っているだけあって、ところどころの対話の中に知識が反映されています。でも、マツコ・デラックスの話というのは「友達に聞いたんだけど」とか「テレビ番組で観たんだけど」とか、読者である一般人と同じようなネタ元なのです。その上、マツコ・デラックスの言動は、驚くほどに常識的・・・それもマツコ自身の世代(1972年生まれ)よりも、ずっと世代にとって「そうそう!」と膝を打つような正論として認知しているようなことばかりだったりします。

マツコ・デラックスが”ツッコミ”を入れて暴言を吐くのは「マジョリティー」という「仮想敵」に対して・・・ただ、その「マジョリティー」とマツコ・デラックスが位置づける(たとえば・・・)保守派を敵対視すること自体が、今はそれほど「マイノリティー」なことでなくなっています。「マイノリティー」を代表しているかのようなマツコ・デラックスの言動というのは、実は「マジョリティー」=「多数派」そのものという奇妙なレトリック。

巨漢の男性が女装をしている「非現実」的で「マイノリティー」な「個性」の存在でありながら・・・実は「常識的」で「マジョリティー」=「多数派」に容易く受け入れられているのです。一周回って・・・至極「普通の人」というのが、マツコ・デラックスの正体なのですです。



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2011/08/22

閉じ込められた少女は自由のために戦うの!・・・意識の深層を描いた似て非なるふたつの映画~ジョン・カーペンターの「ザ・ウォード/監禁病棟」とザック・スナイダーの「エンジェル・ウォーズ」~



「奇しくも」と言うべきなのか・・・ジョン・カーペンター監督の「ザ・ウォード/隔離病棟」とザック・スナイダー監督の「エンジェル・ウォーズ」は、共に1960年代の隔離された精神病棟に閉じ込められて苦境に追い込まれた少女の脱出劇ということで、いくつか類似点があります。どちらも舞台となるのは”精神病棟”・・・雷が鳴っているおどろおどろしい雰囲気でグレーを基調にした色彩構成というところもそっくり。さらに、それぞれの主演女優(エミリー・ブラウニング、アンバー・ハード)が、二人とも脱色したブロンドで男勝りの戦う少女キャラというところも似ています。そして何よりも2作品とも、意識の深層を描くというところまで一致しているのです。

すでに日本でも劇場公開済みDVDの発売済みの「エンジェル・ウォーズ」は「300」や「ウォッチメン」のザック・スナイダーの初のオリジナルストーリー・・・コンピューターグラフィックスのスローモーションのアクションシーンや非常にダークなトーンで意識の中の意識を映画的な表現によって描いていています。夢の深層世界を描いた「インセプション」や、村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を思い起こさせるところもあります。

主人公のベイビードール(エミリー・ブラウニング)は、母の死後に義理の父親との諍いの中、誤って妹を死なせてしまいます。怪しい精神病院に閉じ込められることになったベイビードールは、ロボトミー手術を施されようとしています。心を開放するために彼女の意識は、想像の別世界へ移行してしまうのです。そこはスイートピー、ロケット、ブロンディ、アンバーという捉えられた少女達が働かされている「売春宿の世界」・・・「精神病院の世界」の看護士が少女達を管理するオーナーとして仕切っていたりします。「売春宿の世界」でベイビードールが悩殺ダンスを踊ると、売春宿から自由を手にするために少女達が戦士として戦わなければならない想像の「戦場の世界」が、さらにあるのです。

この「戦場の世界」「売春宿の世界」とはパラレルに関係しており「戦場の世界」で起こったことは「売春宿の世界」にも反映されるようなのです。売春宿から逃げ出すためには「地図」「火」「ナイフ「鍵」そして、もうひとつ「謎の何か」が必要で、それらを手に入れるため少女達は結束して戦うことになります。大魔神のようなサムライロボットと戦ったり、第一次世界大戦のような戦場で戦ったり、ドラゴンと戦ったり、時限爆弾を積んだ列車に乗り込んだりして、無事に「戦場の世界」での任務を終えることが出来れば、必要なアイテムを「売春宿の世界」でも手に入れることが出来たということ・・・しかし「戦場の世界」で命を落としてしまった仲間は「売春宿の世界」でも命を落としてしうことになってしまっています。

「精神病院の世界」の厳しい現実(といっても、まるでミュージックビデオか舞台のようなリアリティのなさ!)・・・想像の中の娼婦/踊り子たちが閉じ込められた淫靡な「売春宿の世界」、さらに想像の中の想像である少女戦士達がセーラー服姿で戦う「戦場の世界」という二重の意識の深層で、ベイビードールは自由のために戦わなければならないのです。

「売春宿の世界」では、スイートピーとベイビードールの二人だけが生き残り、売春宿からの脱出を計ことになります。5つ目に必要な「謎の何か」というのが、自分自身の命であったことを悟ったベイビードールは、自ら囮となってスイートピーひとりだけを逃がすのです。「売春宿の世界」で殺された瞬間・・・「精神病院の世界」では、ベイビードールにロボトミー手術が執行されていたのです。そして「精神病院の世界」=「現実」では、意識を持たない抜け殻のような生きた屍となってしまうのであります。

しかし・・・映画はここで終わりません。「売春宿の世界」ではスイートピーがバスに乗り込み無事に逃げていく姿が描かれます。もしかして「売春宿の世界」こそが、実は本当の「現実」で、主人公はベイビードールではなくスイートピーではなかったのか・・・と暗示するように映画は終わるのです。

解釈は、いろいろとあるでしょうが・・・「精神病院の世界」でロボトミー手術を受けたベイビードールの意識は永遠に「売春宿の世界」へ閉じ込められ、その世界の中でスイートピーという存在は生き続けているということなのでは・・・と思いました。意識世界では、何が現実に存在するのかということが大切なのではなく、どの意識を視点にするかによって実在も変わってくるということなのでしょうか?

「エンジェル・ウォーズ」のエンディングは、ある種ハッピーエンドのようでいて観る者を愕然と落ち込ませます。それは「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の読後に似ているのでした。

ジョン・カーペンター監督にとって約10年ぶりの新作となる「ザ・ウォード/監禁病棟」は、ホラー的な要素のあるサスペンスミステリー・・・1966年の監禁病棟を舞台にして少女クリステンが自由を求めて、同じく監禁されている少女達と共に怪奇現象の真実を探りながら、病棟からの脱出を計るという物語なのです。ただ、映画的な視点のトリックをつかったミステリー(「セックス・センス」のように)なので、ネタバレを知って見るか、知らないで見るかでは雲泥の差が出てしまう映画でもあります。

クリステン(アンバー・ハード)は田舎の一軒家に放火するのですが、それ以前の記憶がまったくなく、自分の名前しか分からないまま、この精神病棟へ監禁されます。病棟の看護士たちは何故かクリステンに対して冷ややかで、何だか分からな錠剤を飲ませたり、電気ショックなどの荒療治を施したりするのです。病棟内には、エミリー、サラ、ゾーイ、アイリスという4人の少女がすでに入院しているのですが、彼女らは魔物のような”何か”を恐れている様子・・・クリステンが来る前にタミーという少女が姿を消していたことが分かってきます。このままでは、自分もいつか殺されてしまう・・・クリステンは、その”何か”が、少女達が共謀して殺ろしたアリスという少女であると確信します。しかし、そんな魔物を信じようとしない医者や看護士・・・クリステンは自由と自分の命のため病院から脱出を試みることとなるのです。

終盤で明らかとなる真実は、昔のテレビシリーズ「トワイライト・ゾーン」とかであったようなオチで、実はそれほど衝撃的ではありません。しかし!!!・・・ある意味、斬新さを狙っていないオーソドックスな演出であるからこそ、音響効果やグロテスクな映像のショックだけでなく、オチを知って見る二度目こそ、実はジョン・カーペンター監督の職人芸を楽しめる映画となっています。

2作品とも、自由を求める少女の意識の深層を描きながら・・・脳内世界へ閉じてしまう「エンジェル・ウォーズ」と、自己の人格を取り戻す「ザ・ウォード/監禁病棟」とでは、結末は真逆であったのです。


「エンジェル・ウォーズ」
原題/Sucker Punch
2010年/アメリカ
監督 : ザック・スナイダー
脚本 : ザック・スナイダー、スティーヴ・シブヤ
出演 : エミリー・ブラウニング、ヴァネッサ・ハジェンズ、アビー・コーニッシュ、ジェイミー・チャン、オスカー・アイザック、カーラ・クギノ、スコット・グレン


「ザ・ウォード/監禁病棟」
原題/The Ward
2011年/アメリカ
監督 : ジョン・カーペンター
脚本 : マイケル・ラスムッセン、ショーン・ラスムッセン
出演 : アンバー・ハード、エイミー・ガマー、ダニエル・パナべイカー、ローラ・リー、リンジー・フォンセカ、ミカ・ブレーム、ジャレット・ハリス
2011年9月17日より全国順次公開



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2011/08/15

やっぱり大好き大災害と世界崩壊!・・・1970年代のオールスターキャストの「パニック映画」と「パニック映画」の巨匠と呼ばれた”アーウィン・アレン”・・・~「大空港」から「世界崩壊の序曲」まで~


今の時代、圧倒的に大ヒットする映画というのは滅多にありませんが、ボクがまだ映画好きの少年だった1970年代に観客を集めたのは「パニック映画」と呼ばれた「ディザスター映画」(災害でパニックに陥る人々を描いた映画)でした。ボクが物心ついた時には、映画界は「パニック映画」の隆盛期・・・興行成績のトップは、オールスターキャストの超大作の「パニック映画」だったのです。

映画がつくられるようになった黎明期から「パニック映画」的な要素というのはありましたが、1970年製作の「大空港」が、いわゆる「パニック映画」の草分け的な存在だと言われています。この作品が日本で劇場公開された時、まだボク自身は7歳だったのでリアルタイムでは観ていませんが、テレビの洋画劇場で何度も繰り返し放映されていたことを覚えています。「パニック映画」は劇場公開のドル箱だけでなく、テレビ放映時にも高い視聴率を取っていたのでした。



「大空港」は、パニックよりも人間ドラマがメインに描かれていて、ひと昔前の群像劇の映画のようです。ただ当時の感覚では、災害に遭遇した人々がパニック状況になる映画というのは「B級映画」というイメージで、グランドホテル形式のオールスターキャストを揃えたことが画期的だったような気がします。ただ”オールスター”とは言っても、よくよく考えてみると微妙なキャスティングでありまして・・・「有名どころ」は押さえながらも「旬」というわけではないという、その後のパニック映画の典型的な「オールスターキャスト」の”さじ加減”は押さえていたのでした。

「大空港」
原題/Airport
1970年/アメリカ映画
原作 : アーサー・ヘイリー
監督 : ジョージ・シートン
出演 : バート・ランカスター、ディーン・マーティン、ジーン・セバーグ、ジャクリーン・ビセット、ジョージ・ケネディ、ヘレン・ヘイズ



そして、本格的な「パニック映画」として1972年(日本公開は翌年の1973年)に登場したのが、アーウィン・アレンが製作した「ポセイドン・アドベンチャー」です。巨大な客船が大波で転覆して、ひっくり返るというトンデモナイ状況での乗客の脱出をアクションとオールスターキャストの人間ドラマで描きました。実際に船の上下が一瞬にして逆さまになるようなことが物理的にアリエナイとしても、その大胆な発想と物語展開は、ドル箱のエンターテイメントとしての「パニック映画」という存在を世界的に知らしめたと言っても良いでしょう。この作品を機に、アーウィン・アレンは一躍ハリウッドの第一線のプロデューサーとなったのです。

「ポセイドン・アドベンチャー」
原題/The Poseidon Adventure
1972年/アメリカ映画
製作 : アーウィン・アレン
監督 : ロナルド・ニーム
出演 : ジーン・ハックマン、アーネスト・ボーグナイン、ロディ・マクドウォール、パメラ・スー・マーティン、レスリー・ニールセン、シェリー・ウィンタース

1975年という年は、日本映画市場に於いて「パニック映画」の全盛でありました。”センサラウンド方式”という音響効果が大々的に宣伝された「大地震」とエアポートシリーズの第2弾「エアポート’75」が、1975年の正月映画として日本国内では同じ時期に公開・・・そして、夏には「タワーリング・インフェルノ」が日本公開されたのです。

「大地震」はオールスターキャストで、ロサンジェルスを襲う地震災害を描いた超大作。”センサラウンド方式”というのは、専用スピーカーで超低周波の音波を発生させて、地震のような震動を体感できるというのが”売り”でした。ただ、約100キロのスピーカーを16個も使用するというトンデモナイ音響システムだったので、大きな劇場だけに導入されたようです。ボクは、1977年の「ジェット・ローラー・コースター」という映画を”テアトル東京”で観た時に、初めて”センサラウンド方式”を体験しました。肌が震えるような振動を感じられましたが、振動音が響いている間は、耳鳴りのようで「うるさい」という感じでした。気分が悪くなる人が随分いたようです。その後、すぐに”センサラウンド方式”というのは消えてしまいました。

「大地震」
原題/ Earthquake
1974年/アメリカ映画
監督 : マーク・ロブソン
脚本 : マリオ・プーゾ、ジョージ・フォックス
出演 : チャールトン・ヘストン、エヴァ・ガードナー、ジョージ・ケネディ、ジョヌブエーブ・ブジョルド

「エアポート’75」もテレビの洋画劇場で繰り返し放映されていて、ボクは何度も何度もテレビで観たことを覚えています。セスナ機がジャンボジェットの操縦席のある先端に衝突するという・・・まさかの設定でしたが、エアポートシリーズ前作の「大空港」よりも派手な演出となり「パニック映画」らしい作品となっていました。「大空港」「エアポート’75」共に、飛行機の機体に穴が開くと、気流の力で機体の外へ吸い出されてしまうということだけは、中学生のボクには「恐怖のトラウマ」として焼き付いてしまったようです。いまだに飛行機に乗ると、座席のシートベルトを常に装着していないと安心出来ません・・・万が一(!)機体に穴が開いた場合、吸い出されないためにも!

「エアポート’75」
原題/Airport 1975
1974年/アメリカ映画
監督 : ジャック・スマイト
出演 : チャールトン・ヘストン、カレン・ブラック、ジョージ・ケネディ、リンダ・ブレア、エリック・エストラーダ、グロリア・スワンソン

「大地震」と「エアポート’75」は、どちらも主要な人物がチャールトン・ヘストンでした。スターとしての人気に当時は徐々に陰りはあったものの・・・保守的でアメリカ白人の典型的だったチャールトン・ヘストンこそが”頼もしいキャラ”のイメージだったのです。その後、チャールトン・ヘストンはアメリカライフル協会の会長として、銃規制に異論を唱えるアメリカ保守派のシンボルとなりました。ちなみに現在であれば・・・黒人俳優のローレンス・フィッシュバーンなどが、”頼もしいキャラ”のポジションに君臨しているように思えるのですから、世相も変わったものです。

ただ・・・当時の「パニック映画」で、チャールトン・ヘストン以上に、”頼もしいキャラ”として重宝されたのが、ジョージ・ケネディでありました。固太りのアメリカ人のオッサンという風貌のジョージ・ケネディですが、エアポートシリーズ(大空港からエアポート’80まで)の全作品に出演しているという・・・まさに”ミスターパニック映画”な俳優さんなのです。角川映画の「人間の証明」「復活の日」にもハリウッドスター代表として出演していますが、その後アクション映画には欠かせないバイプレイヤーとして「パニック映画」ブーム以降も活躍し続けたのですから、エアポートシリーズの影響大であります。

1975年に中学2年生になったボクは・・・夏休みに入った頃から、友人を誘って(または、ひとりで)銀座/日比谷界隈で映画を観にいくようになりましました。その年の6月に公開された「ジョーズ」が初めて親の同伴なしで観に行った映画で、その1週間後に公開されたのが「タワーリング・インフェルノ」だったのです。ボクが自主的に映画館へ映画を観に行き始めた時期と「パニック映画」のブームというのは重なっているのでした。

「ポセイドン・アドベンチャー」で「パニック映画」の傑作を生み出したアーウィン・アレン製作の「タワーリング・インフェルノ」は、1970年代に作られたオールスターキャストによる「パニック映画」の集大成であり・・・「パニック映画」の頂点と言えるでしょう。すべてに於いて、それまでの常識を破る「超大作」でした。制作者のアーウィン・アレンは「ポセイドン・アドベンチャー」と「タワーリング.インフェルノ」の2作によって「パニック映画」の巨匠と呼ばれることになったのです。

当時はすでにハリウッドのスタジオシステムはなくなっていましたが、慣習的にスティーブ・マックイーンはワーナーの映画に、ポール・ニューマンは20世紀フォックスの映画に出演していたようで、この二人の共演というのは絶対にアリエナイと思われていました。それを、ワーナーと20世紀フォックスが制作費を折半するという・・・当時としては考えられなかったメジャースタジオ同士の合作によって可能としたのです。実は、それぞれのスタジオが別な原作を元にして、別なビル火災をテーマにした映画を作る予定だったのですが、制作費が膨大になることから二つの企画をまとめたのでした。

「全国拡大ロードショー」という形で一度に全国の映画館で上映するようになったのも「ジョーズ」や「タワーリング・インフェルノ」からぐらいだったと思います。その後、膨大な制作費をかけた超大作が公開される際には、全国の映画館が占領されたのです。それはヨーロッパの映画監督の新作や地味だけど良い作品が、一般的な映画館から消えていった原因でもあったのでした。

「タワーリング・インフェルノ」
原題/The Towering Inferno
1974年/アメリカ映画
製作 : アーウィン・アレン
監督 : ジョン・ギラーミン
出演 : スティーブ・マックイーン、ポール・ニューマン、ウィリアム・ホールデン、フェイ・ダナウェイ、フレッド・アステア、リチャード・チャンバレン、ジェニファー・ジョーンズ、O・J・シンプソン、ロバート・ヴォーン、ロバート・ワグナー

1975年以降も「パニック映画」は客を集めました。1976年に公開された「ヒンデンブルグ」は、実際の事故を撮影した映像や当時のニュース音声を織り交ぜるという賛否両論の手法が使われていました。明らかなナチス批判と共に、ヒンデンブルグ号(飛行船)の悲劇を描いていたのは、監督が「サウンド・オブ・ミュージック」を手掛けたハリウッドの大御所ロバート・ワイズということだったからかもしれません、オールスターキャストのグランドホテル形式の人間ドラマを重視した作りで「パニック映画」としては正統派ドラマの風格さえ感じさせる映画ではありました。

「ヒンデンブルグ」
原題/The HIndenburg
1975年/アメリカ映画
監督 : ロバート・ワイズ
出演 : ジョージ・C・スコット、アン・バンクロフト、チャールズ・ダーニング、パージェス・メレディス

同じく1976年に公開された「カサンドラク・ロス」は「パニック映画」と言えば「ハリウッド映画」という常識を打ち破って、ヨーロッパで製作された「パニック映画」です。ジュネーブにあるアメリカ軍のウイルス研究所から処方箋のないウイルスに感染したテロリストが乗り込んでしまった列車を、乗客全員ごとに古い鉄橋から落として皆殺しにしてしまうというトンデモナイ話のなのです。列車の行き先がポーランドというところに、ユダヤ人虐殺のアウシュビッツを連想させたり、アメリカ軍が皆殺し計画を淡々と実行するという「アメリカ=悪者」という設定であったために、アメリカでは殆ど評価されていません。公開当時は、列車の転落シーンの迫力が”売り”とされていましたが、走り続ける列車に閉じ込められたまま進んでいくサスペンスがよく出来ていて、単純に「パニック映画」として片付けられない傑作でした。

「カサンドラ・クロス」
原題/The Cassandra Crossing
1976年/西ドイツ、イタリア、イギリス映画
製作 : カルロ・ポンティ、リュー・グレード
監督 : ジョルジュ・パン・コスマトス
出演 : ソフィア・ローレン、リチャード・ハリス、バート・ランカスター、イングリット・チューリン、エヴァ・ガードナー、マーティン・シーン、O・J・シンプソン

ボクの記憶の中で、公開当時に話題になって大ヒットした最後の「パニック映画」は、1977年公開された「エアポート’77/バミューダからの脱出」です。これも、ジャンボジェット機がバミューダ海域に墜落して、機体ごと海に沈んでしまうというトンデモナイ設定で、「ポセイドン・アドベンチャー」の二番煎じみたい・・・と、当時は誰もが思いました。飛行会社は実際に飛行機の機体が沈むことはないと設定自体を否定していましたし、機体救出も風船をたくさん付けて水上に浮かばせるという陳腐なアイディアでした。また、ジョゼフ・コットン、オリビア・デ・ハヴィランド、ジェームス・スチュアートなどの往年のハリウッドの大スターたちが出演していたのですが・・・逆に”オールスター”の意味さえも使い古されてきた感を強く残す結果になったのでした。それでも、そこそこヒットしたのは、超大作と言えば「パニック映画」という風潮が、まだまだ日本には残っていたに過ぎなかったのかもしれません。

「エアポート’77/バミューダからの脱出」
原題/Airport'77
1977年/アメリカ映画
監督 : ジェリー・ジェームソン
出演 : ジャック・レモン、リー・グラント、ブレンダ・バッカロ、ジョゼフ・コットン、オリビア・デ・ハヴィランド、ジェームス・スチュアート、クリストファー・リー、ジョージ・ケネディ

1978年に日本公開された「未知との遭遇」「スターウォーズ」、1979年に日本公開のされた「エイリアン」が大ヒットすると、ハリウッド映画の超大作は「SF映画」となっていたのでした。模型だということがありありと分かるようなパニックシーンには観客は満足しなくなていました。また、オールスターキャストうを謳うグランドホテル形式の人間ドラマも、映画のテンポをのろくするだけで、演出手法として古臭くなってしまっていたのです。現実的に起こりそうな災害よりも、人々の関心は未知なる宇宙やファンタジーへと移行したということがあるのかもしれません。


それでもアーウィン・アレンは、ハリウッドの流れに逆らうように、制作者としてだけでなく監督として、次々と「パニック映画」を世に送り出してくるのです。

1978年に日本公開された「スウォーム」は「ジョーズ」の世界的なヒットでブームになった「動物パニック映画」で、この映画で襲ってくるのは「蜂」・・・といっても、画面上では何やら黒いモノが無数に出現して、人々を襲っているだけ。(今ならCGで処理してしまうところを、実際の蜂を使って撮影しているのは、スゴイ!)蜂に刺されて逃げたとしても、次第に朦朧としてきて”巨大な蜂”の幻覚をみるというシュールさ・・・。医者役のキャサリン・ロスの大根女優っぷりも見物でありました。

翌年の1979年には「ポセイドン・アドベンチャー」の続編「ポセイドン・アドベンチャー2」もアーウィン・アレン自身が監督します。この時期に低迷していたマイケル・ケインが、二つの作品に出演していますが・・・この作品が彼のフィルムグラフィーとして語られることはありません。どちらの作品も、公開当時の大掛かりな宣伝活動にも関わらず、興行的には日本でも失敗・・・「パニック映画」の終焉を予感させました。

「スウォーム」
原題/The Swarm
1978年/アメリカ映画
製作 : アーウィン・アレン
監督 : アーウィン・アレン
出演 : マイケル・ケイン、キャサリン・ロス、リチャード・ウッドマーク、ヘンリー・フォンダ、リチャード・チャンバレン、オリビア・デ・ハヴィランド、リー・グラント、ホセ・ファーラー、パティ・ヂューク

「ポセイドン・アドベンチャー2」
原題/Beyond the Poseidon Adventure
1979年/アメリカ映画
製作 : アーウィン・アレン
監督 : アーウィン・アレン
出演 : マイケル・ケイン、サリー・フィールド、テリー・サバラス、カール・マルデン

正統なエアポートシリーズとしては最後の作品となる1979年日本公開の「エアポート’80」は、いろんな危機的な要素を詰め込んだハイテンションな展開にも関わらず、劇場公開時はそれほどヒットしませんでした。ハッキリ言って、当時アラン・ドロンをキャスティングした時点で「古過ぎる」というのは否めません。「パニック映画」という設定にも、オールスターキャストという豪華さにも、観客はすっかり飽きてしまっていたのでした。

「エアポート’80」
原題/The Concorde…Airport'79
1979年/アメリカ映画
監督 : デビット・ローウェル・リッチ
出演 : アラン・ドロン、シルビア・クリステル、ロバート・ワグナー、ジョージ・ケネディ

誰もが「パニック映画」の時代が終わったと思っていた1980年になって公開されたのが・・・「パニック映画」の巨匠と呼ばれ続けたアーウィン・アレン製作による「世界崩壊の序曲」です。「史上最低のパニック映画」と言われる本作によって、アーウィン・アレン自身も映画制作者として崩壊して(?)してまって、この作品以降、映画界から遠ざかることとなってしまいます。また、ポール・ニューマンも後に出演したことを後悔していると、インタビューで白状してしまうほどの駄作なのです。「パニック映画」という、ひとつの映画ジャンルを作り上げたアーウィン・アレン自身によって、ひとつの時代を終わらせたのは、ある意味正しかったのかもしれません。

物語は、南太平洋のある島・・・火山活動が活発になり、高級リゾートホテルも火山爆発によって壊滅的な被害を受けることになるのです。そして、生き残るために溶岩が下に流れる谷にかかる細い木造の橋を割渡るという「タワーリング・インフェルノ」のアクションシーンの二番煎じが、安っぽいスタジオセット撮影で再現されているのですから、目も当てられません。「世界崩壊の序曲」というタイトルでありながら、島の反対側に逃げたら「大丈夫!」というエンディングは、なんとも腰砕け・・・「なんだよ〜世界は崩壊しないじゃん!」とツッコミたくなるほどです。

公開時には、日比谷か有楽町に映画に登場する装甲車のレプリカを走らせて展示したりして、大掛かりの宣伝が繰り広げられました。しかし、結果は散々で・・・誰もがすぐに忘れ去ってしまった映画となってしまいました。

「世界崩壊の序曲」
原題/When Time Ran Out
1980年/アメリカ映画
製作 : アーウィン・アレン
監督 : ジェームス・ゴールドストーン
出演 : ポール・ニューマン、ジャクリーン・ビセット、ウィリアム・ホールデン、バーバラ・カレラ、アーネスト・ボーグナイン、パット・モリタ、パージェス・メレディス

そして月日は過ぎ・・・1990年代になって、再び「パニック映画/ディザスター映画」のブームが訪れました。それは、きっとボクのように少年期に「パニック映画」に心躍らしていた少年達が成長して、映画監督となり進化した特殊撮影技術やコンピューターグラフィックスを駆使して、あの「パニック映画」というジャンルを復活させたに違いありません。

やっぱりボクらは「大災害」と「世界崩壊」が大好きで仕方ないんです!



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2011/08/09

自意識過剰なドロドロしたオンナの妄想地獄・・・グラビアアイドルになれなかった地方の”熊田曜子”を勝手にキャスティングしてしまいました~「ぬるい毒」本谷有希子著~



ここのところ、老眼鏡なしでは単行本でさえ読むのが億劫になってしまったので、電車の移動中に本を読むことはしなくなってしまっています。このあいだの芥川賞(受賞作なし)の候補作品が、近所の本屋さんで平積みされていたので目についたのが、この「ぬるい毒」というタイトル。短めの小説なのでサクッと読めるかなと思って手に取ってみたら、内容的にも重くて、読みにくいリズムの文章。主人公の妄想なのか、実際に起きている現実なのか、どっちか分からない破綻っぷり・・・主人公と共に妄想地獄に落ちていくように感じさせられたのでした。

地元の大学に通っていた19歳の「私」に、向伊と名乗る男から男から電話がかかってきます。高校の高級生という彼は「私」からお金を借りたので返したいと言うのです。まったく覚えがないものの、とりあえず会ってみると、やっぱり知らない男/彼女が書いたという借用書があるのですが、それは彼女の筆跡ではありません。ただ、高校時代イケてなかった「私」に上手いお世辞のようなこと言って、向伊は「私」の心を乱したまま東京へ戻っていくのです。

1年後、再び向伊から同級生と飲んでいるからと呼び出されて「私」は居酒屋に”のこのこ”と行ってしまいます・・・同級生の男たちの”見世物”になることを知りつつ。東京の大学に通う向伊は、グラビアに出てくる女の子とも合コンしたことがあると自負していて・・・「私」の方が「全然キレイだよ〜」なんて持ち上げたりします。向伊や彼の男友達らの言動は嘘とは分かっているのに、何故か向伊に惹かれてしまう「私」・・・それは、いつか彼らの薄っぺらさを屈辱的に暴いてやるという妄想となっていくのです。

結局は「私」から向伊を誘ってホテルでエッチをするような関係になり、彼の里帰りの期間に「私」の実家の部屋に滞在させて恋人気取りになってみたり・・・バカにされていると感じながらも、上手く反撃できない惨めさばかりが募ります。自分でも分かって騙されていると言い聞かせて、いつか向伊より優位に立つのだと「私」は自分の頭の中で妄想し続けるのです。そんな自意識によって、ますます「私」は向伊との関係の深みに入っていき、良いように利用だけされるのであります。

遂には、金蔓にされると分かりつつ・・・向伊と上京することになる「私」。でも、彼の東京の友人達には「彼女」としては紹介されることはないのです。23歳ですべてが決まると思い込んでいた「私」は、24歳で地元に舞い戻ってしまいます。そして、まだ向伊に打ち砕かれた自意識からは、逃れられないでいるのです。「私」の心は、恋をしたことのある者ならば経験したことのある「恐れ」や「期待」にも似たような妄想・・・誰にも多少は同感できる部分もあるけれど、追求し過ぎた自意識の果てには、歪んだ主観しか持てなくなってしまうのかもしれません。

だから、本作は読み進めるうちに「私」のことを「もっと堕ちていけ!」とサディスティックな感情さえ湧いてくるのです。「私」が向伊や彼の男友達らを「ぬるい」と言い切ることで、彼らの”ほころび”を暴露できると思っているなんて、とんだ幼稚な発想・・・その頭の悪さ故「おまえこそ、地獄に堕ちていけばいいのだ!」とボクは心の中で言い放っていました。最後の最後で「私」が、東京の生活で何か掴みかけたなんて思っていること自体、ちゃんちゃら可笑しい・・・24歳となって地元に戻ったんだから「今後、おまえは単なる田舎のオバサンにしかなれないんだ!」と、頭ごなしに言ってやりたいのです。でも「私」みたいな女って、多かれ少なかれ存在している・・・だから、本作は誰が読んでも後味が悪いのであります。

主人公の名前が「熊田由里」なので、どうしてもボクの頭の中には「熊田曜子」と「私」が、かぶってしまいました。高校時代、垢抜けないダサい女だったけど、ちょっとばっかしキレイになって自意識過剰になっているバカ女。自分では頭がいいつもりで、打算的に状況を操っているつもりで、実は男たちに弄ばれている女。リアルの「熊田曜子」は「私」とは、まったく違うとは思うけど(笑)・・・もしも「ぬるい毒」を舞台化(著者の本谷有希子は劇団を主宰している)したとしたら、ボクは熊田曜子主演で観てみたいなんて思っているのです。



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2011/08/03

愛しのライアン・オニール様♡・・・ゲイコスプレのファンサービスも虚しく忘れられてしまった、刑事もの”バディ・ムービー”の先駆的傑作~「パートナーズ」~



約2年ほど前にファラ・フォーセットがガンで亡くなったとき、その傍らにいたのがライアン・オニールだったと聞いて・・・ライアン・オニールの代表作で、不治の病の女性との愛を貫く恋愛映画の王道の「ある愛の詩」を思い出した人も多かったのではないでしょうか?「愛とは決して後悔しないこと」という台詞とフランシス・レイ作曲による「愛のテーマ」は、あまりにも有名・・・しかし、現実は映画のような美しい愛の物語であったかは、かなり疑問ではあります。

ライアン・オニールという人は”ひと筋縄”でいく人ではなく・・・散々マスコミを騒がし続けてきたハリウッドの問題児。次から次へと女の乗り換えるプレイボーイであり、暴言暴挙(家庭内暴力父親だったりとか、息子に銃を発砲したり、息子と一緒に麻薬で逮捕されたり)は数知れず。かなり滅茶苦茶な人だったようです。17年間も同棲して息子をもうけながらも結婚しなかったのに、ファラが亡くなる直前にプロポーズしたという逸話(結果的に結婚手続きをする前にファラは亡くなったらしい)は、心温まる話というよりも、瀕死のファラを自分のパブリシティに利用しようとしただの、ファラの財産を狙っていただの、散々マスコミに叩かれておりました。ライアン・オニールの真意は誰も分かりませんが、ファラの療養中にも自宅に若い女性を何人も呼んでパーティーをしていたとか、相変わらずのプレイボーイっぷりを報道されたりしていて、世間的にはそれほど同情的ではなかったようです。

1960年代にテレビのソープオペラ(お昼のメロドラマ)の「ペイトン・プレイス物語」で一躍人気俳優になっったライアン・オニールですが、当時から女性遍歴のゴシップには事欠ないプレイボーイとして知られていました。ただ、ウォーレン・ビーティのような”肉食系プレイボーイ”というよりも、女性が放っておけないタイプの”ツバメ系プレイボーイ”・・・その後、何度も演じることになる優柔不断な役柄がライアン・オニールに近いキャラクターなのではなんて思ってしまいます。1970年代に入ってからは活動の場を映画に移し、次から次に話題作に恵まれることになります。私生活のゴシップに塗れていたのに、純愛をテーマにした「ある愛の詩」が世界的に大ヒット・・・1971年(第43回)のアカデミー主演男優賞にもノミネートされたりもします。



その後、ソープオペラ男優の二枚目からコミカルな役柄の三枚目も演じるようになり、バーブラ・ストライサンドと共演した「おかしなおかしな大追跡」や娘のテイタム・オニール(当時の最年少でアカデミー助演女優賞を受賞)と共演した「ペーパームーン」が大ヒット・・・さらに、逆に”ツバメ”的資質をを生かして(?)スタンリー・キューブリックの「バリー・リンドン」にも主演します。1970年代は、ハリウッドスターとして充実していたと同時に、ゴシップ紙を賑わすトラブルも多かったようです。振り返ってみると話題作が多いにも関わらず、ライアン・オニールの俳優としての”代表作”というのは、ない気がしてしまいます。ソープオペラ出身の俳優にありがちな「プリティフェイス」でしかないと言ってしまえば・・・その通りで、人間的な深みに欠ける印象は拭いきれないのです。しかし・・・この時代を代表する”典型的な誰もが認める”ハンサム”であったことは確かなことで・・・日本では「ロードショー」「スクリーン」などの雑誌でも常に人気男優としてランクインし、全盛期はアメリカでも女性ファンだけでなく、ゲイにもライアン・オニールの人気は絶大なものでした。



1980年代に入ると急にキャリアは下降線を辿りだします。この時期に、まだファラ・フォーセット・メジャース(TVシリーズ「600万ドルの男」のリー・メジャースと結婚していた)と名乗っていたファラ・フォーセットと同棲を始めたようなのですが、その後17年も続く関係を続けることになります。まるで「バービー&ケン人形」のようなふたりが付き合っているというのは、ゴシップ紙の悪意のある興味を長年引いていましたが、ライアンにとっても、ファラにとっても、最も長く続いたパートナーシップではあったのです。

さて1981年に公開された「恋のジーンズ大作戦/巨人の女に手を出すな」の大失敗の後、40代に突入したライアン・オニールが再びコミカル路線で再起を図ったのが「パートナーズ」であります。日本では劇場未公開でビデオ発売だけの作品ですが、刑事もの”バディ・ムービー”としては、「48時間」「リーサル・ウェポン」の先駆的な作品であり、1980年当時の西海岸のゲイライフスタイルの記録ということだけでも見逃せない作品なのです。


殺人課の巡査部長である刑事ベンソン(ライアン・オニール)はハンサムで女たらしのストレート・・・ゲイコミュニティーで起こっている殺人事件の侵入捜査のため、事務課のカーウィン(ジョン・ハート)とゲイカップルを装って同棲することになります。実はカーウィンはクローゼットのゲイ・・・ひと目で分かる”オネェ系”というところが古臭いゲイキャラクターのような気がします。しかし、当時としてはゲイがハリウッドのメインストリームの映画に主役として登場するだけでも画期的なことでした。本作の3年前に公開された「クルージング」は、ニューヨークのゲイライフスタイルをダークに描いて否定的な印象を残していましたが、「パートナーズ」では、逆にホモフォビアな警察組織を茶化しているようなところがあって小気味良いのであります。これは「Mr. レディ Mr.マダム」の脚本も書いたフランシス・ヴェベールならでは。また、ジョン・ハートは「ミッドナイト・エクスプレス」「エレファント・マン」などで演技派として注目を浴びていた頃で、ルックス的にはお気の毒なほどイケていませんが(そういうイケてない役柄ではあります)真に迫る演技で気弱なゲイになりきっています。

ただ・・・クィア的視点からは、本作の一番の”みどころ”はライアン・オニールのゲイファンへのサービス。本編の登場シーンの殆どは胸毛出しまくりのほぼ上半身裸、もしくは「ジョック」「レザー」「カウボーイ」などのゲイコスプレを堪能出来るのですから堪りません!当時は「クローン」と呼ばれる髭のハードゲイのスタイル(ヴィレッジ・ピープルのような)が人気でしたが、ライアン・オニールのようなブロンドヘアー&ブルーアイズの「ブルーボーイ誌」タイプのスタイルもまだまだ健在でした。だからこそ、ゲイからのモテっぷりを利用してコミュニティーに侵入し、捜査するという設定も、ライアン・オニールのルックスであればこそ「納得」のリアリティがあったのです。





事件を捜査していくうちに、馬の合わなかったベンソンとカーウィンの間に信頼が生まれていくというあたりは、いわゆる”バディ・ムービー”であるのですが・・・二人の関係は最後まで空回りしている印象が残ります。そして、その空回りが、それほど笑いに繋がらないところが、ちょっと残念。ただ、オネェを卑下するような差別的な笑いを取ろうとしているわけではなく・・・と言って「Mr. レディ Mr.マダム」のようなストレートの世界を皮肉るほどでもありません。ベンソンに淡い恋心を寄せるカーウィンとのギクシャクしたコミュニケーションと、ゲイフォビアのベンソンがに罰ゲームのような任務をする姿を笑うしかないのです。



ベンソンは恋人がいるにも関わらず、捜査のためにゲイ雑誌のヌードモデルをした時に出会った女性カメラマン(事件の鍵を握る)と、即デキてしまうという”ライアン・オニール本人”さながらのプレイボーイっぷりを発揮していて・・・カーウィンの乙女心は弄ばれてしまいます。それでも命がけでベンソンの命を救うために銃で撃たれてしまったカーウィンに「一緒に暮らそう」と、ベンソンはエンディングで唐突に語りかけるのです。本来なら感動のシーンであるはずなのですが・・・まったく真実味を感じることが出来ないのは、演技力(!)以前に、ライアン・オニールの薄い人間性に由来しているような気がしてしまいます。



それでも「パートナーズ」が、今でもボクの記憶に残るのは・・・ライアン.オニールが捨て身のゲイコスプレを演じたということではなく、男らしさを微塵にも感じさせなかったカーウィンが、ベンソンを救うため勇気を振り絞って真犯人に立ち向かう姿なのです。


「パートナーズ」
原題/Partners
1982年/アメリカ
監督 : ジェイムス・バロウズ
脚本 : フランシス・ヴェベール
出演 : ライアン・オニール、ジョン・ハート
追伸その1:2014年1月27日、TSUTAYA限定商品のオンデマンドでDVD発売されました。
追伸その2:2015年6月10日”蘇る映画遺産”シリーズで廉価版DVDが発売されました。



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