2015/12/20

「ギニーピッグ2 血肉の華」をリメイクしちゃったヤバいおっさん!・・・残酷スプラッタービデオは犯罪を抑止するのか?誘発するのか?~「アメリカン・ギニーピッグ~血と臓物の花束~/American Guinea Pig : Bouquet of Guts and Gore」~



1980年代に日本で制作されたオリジナルビデオ作品「ギニーピッグ」シリーズのアメリカ版スピンオフとなる「アメリカン・ギニーピッグ~血と臓物の花束~/American Guinea Pig : Bouquet of Guts and Gore」のDVDを先日入手しました。

実は、数ヶ月前にアマゾンUSに注文していたタイトルのひとつで、配達予定日を数週間過ぎても荷物が届かず仕舞いだったので全額返金扱いとなっていたのですが・・・数ヶ月経ってひょこり届いたという次第なのであります。奇しくもタダで手に入れてしまった(?)この作品は、予想どおり”おぞましい”作品であったのです。

ここから閲覧注意の画像や表現、ネタバレが含まれます。

「アメリカン・ギニーピッグ~血と臓物の花束~」で初めてメガフォンをとったステファン・バイロ氏は”この手”の映画好きには知る人ぞ知る人物かもしれません。デスメタルのバンド活動、コミックストアとビデオストア経営と、さまざまな経歴を持っている人物なのですが・・・「ギニーピッグ」シリーズに取り憑かれたマニアとしても知られています。長年の夢であったアメリカでの配給権を得たステファン・バイロ氏は「ギニーピッグ」シリーズのDVDを発売するために、2001年に「アンアースド・フィルムス/Unearthed Films」という配給会社を設立してしまうのです!

劣悪なビデオしか流通していなかった「ギニーピッグ」シリーズのDVD化は、世界中のマニアが待ちこがれていたことでもあり(購入者の大半は日本人だったとは思われますが・・・)、アンアースド・フィルムスは日本のエクストリーム系ホラー映画の配給会社として知られるようになります。一時期は日本にもオフィスを構えていたらしく、早乙女宏美の切腹パフォーマンス、福居ショウジン監督の「ピノキオ√964」「ラバーズ・ラバー」を、アメリカでDVDリリースしたのも、この会社だったりするのです。


その後、アンドレイ・イスカノフ監督の悪夢的なアート系ホラー「ヴィジョン・オブ・サファリング/Visions of Suffering」、本物の死体を解剖して撮影されたナッチョ・セーダ監督のショートフィルム「アフターマス/Aftermath」、ルシファー・ヴァレンタイン監督の嘔吐と拷問の血まみれスプラッターの3部作「ザ・ヴァミット・ゴア・トリオロジー/The Vomit Gore Triology」(Slaughtered Vomit Dolls, ReGOREgitated Sacrifaice, Slow Torture Puke Chamber)など・・・視覚的にも精神的にも不快極まる作品(!)を、次々とアメリカでDVDリリースしていきます。


2009年には、アンドレイ・イスカノフ監督による「ナイフの哲学/Philosophy of a Knife」の共同プロデューサーとして映画製作にも進出するという・・・”筋金入り”のヤバい人。「アメリカン・ギニーピッグ~血と臓物の花束~」は、長年の交渉の末に「ギニーピッグ」シリーズの正統な”スピンオフ”としての、オリジナル新作の制作を許可されたステファン・バイロ氏が、満を持して初監督した作品というわけなのです。

「ギニーピッグ」シリーズは、現在も独立系映画プロデューサーとして活躍している小椋悟氏の企画によって、1985年から1988年に、日本でリリースされたオリジナルビデオ作品。「ギニーピッグ 悪魔の実験」「ギニーピッグ2 血肉の華」「ギニーピッグ3 戦慄!死なない男」「メイキング・オブ・ギニーピッグ」「ギニーピッグ4 ピーターの悪魔の女医さん」「メイキング・オブ・ピーターの悪魔の女医さん」(以上オレンジビデオハウス)「ザ・ギニーピッグ マンホールの中の人魚」「ザ・ギニーピッグ2 ノートルダムのアンドロイド」(以上ジャパンホームビデオ)があります。編集版である「惨殺スペシャル」と、当初「ザ・ギニーピッグ3」として企画されていた「LSD ラッキー・スカイ・ダイアモンド」を第7作目としてシリーズに含めることもあるようです。発売当時「ギニーピッグ」シリーズは、ハリウッドの大作映画と並んで売り上げランキング上位を占めたそうですから、その人気ぶりが伺えます。


3作目以降はドラマ仕立てだったり、コミカル路線に走っていくのですが、初期2作品の「悪魔の実験」「血肉の華」(同時期に制作/撮影されていたらしい)はコレといったストーリーはなく、残酷描写のみに焦点を当てています。ドキュメンタリー風のスナッフ・フィルムを模して制作されたのは、予算(200万円程度だったらしい)と撮影日数(5日間ほどだったらしい)の制限により、1台のカメラを使ってひと部屋で撮影しなければならないという制約からの”苦肉の策”ではあったようです。

3人の男性が女性して拉致して、あれやこれや(回転イスで目を回させるなんてものまで)で拷問する第1作目の「悪魔の実験」は、直接的な性的描写やヌードはないものの、”拷問ポルノ”として「女性を痛めつけたい!」という願望を具現化していて、その手のフェチの方には堪らない(?)のかもしれませんが、フェチのない人にはとっては少々滑稽であったりします。とは言っても・・・さすがに、こめかみから目玉を一気に長い針で突き刺していくシーンには、血の気は引いてしまいましたが。


第2作目の「ギニーピッグ2 血肉の華」は、当時の特殊技術を駆使して、残酷スプラッター描写の限界に挑戦したといえる作品で、今観ても衝撃的。ワイヤーにより五本の指が自在に動く仕組みや、オイルゼリーと軟質ウレタンを組み合わせた人体パーツの肉感と質感、食紅にゼラチンを混ぜた血糊のリアルさなど、特殊美術を担当した古賀信明氏の功績が非常に大きいといえるでしょう。後に、アメリカに流出したビデオを観たチャーリー・シーン(最近、またお騒がせ!)が本物のスナッフフィルム(殺人を記録した映画)と勘違いしてFBIに通報してしまったのも頷けるクオリティーなのであります。安易に怖いものみたさで観ると、一生(!)トラウマを抱えること”必須”です。


帰宅途中の女性(夕顔きらら)を拉致した後、苦痛を快楽に感じる薬を投与されて、生きたまま解体されていく様子を淡々と撮影しているのですが・・・朦朧している女性は一切悲鳴を上げたりせず、されるがまま。出刃包丁で手首を切り取られ、ノコギリで足を切断され、ナイフで腹を割かれて内蔵を引き出され、斧で首を切り落とされ、最後にはスプーンで目玉をくりぬかれてしまうのです。白塗りで兜をかぶった男(田村寛)が、詩を詠むかのように実況しながら解体していくのも不気味だし、妙に哲学ぶった理屈を語るも不快極まりありません。部屋には、バラバラになった体の一部がデコレーションされていて、被害者がひとりではないこと、そして、殺人者が新たな被害者を物色するところでビデオは終わります。

1980年代末というのは、日本だけでなくアメリカやイギリスでも、有害ビデオの取り締まりが厳しくなった時代だったのですが・・・1989年に起こった連続殺人犯の宮﨑勤の自宅に保管されていたビデオの中に「ギニーピッグ」シリーズがあったことで、「ギニーピッグ」の知名度はマニアだけでなく全国区となります。しかし、宮﨑勤の自室から実際に見つかったのは、シリーズの中でもコミカル路線の「ギニーピッグ4 ピーターの悪魔の女医さん」だったと言われており、事件とビデオは無関係だったようです。

しかし、”あの宮崎”が同じシリーズでリリースされていた「血肉の華」を知らなかったというのも不自然なことであります。事件後、「ギニーピッグ」シリーズは有害ビデオの指定されて廃盤・・・2000年代まで(?)はレンタルビデオ店でも貸し出しされていようですが、今では見かけることはありません。国内でDVD化されることもなく、レンタルアップのVHSビデオはプレミア化・・・その後、日本で製作されたエクストリーム系ホラーの作品の数々(オールナイトロング、鬼畜大宴会、オーディション、グロテスクなど)の原点でもあり、「ギニーピッグ」シリーズはマニアの脳裏に記憶されるタイトルのひとつになったのです。


「アメリカン・ギニーピッグ~血と臓物の花束~」は「血肉の華」にオマージュを捧げて、リメイクした作品となっています。これといったストーリーはなく、女性を拉致して朦朧とさせる薬を投与、生きたまま解体していくところは、オリジナルと同じです。ただ「血と臓物の花束」では、拉致されるのは”二人”の女性になっています。また画面に登場する解体作業をする男が”3人”というところは「悪魔の実験」を意識しているのかもしれません。

照明が妙に明るく倉庫のような場所で撮影されているということもあり雰囲気が安っぽく、CGや特殊技術の進化に見慣れてしまったこともあり特殊美術の技術不足が明白、カメラアングルが絶妙だった「血肉の華」とは違い無意味なカメラの切り返しや編集と・・・全体的に稚拙な印象です。また、犯罪者の心理(犯罪者としての哲学?)が描けていないために、エンターテイメントとしての完成度は低く、単に「生きている女を解体したい」という性癖の代償行為(マスターベーション)にしか感じられません。精神的な闇を感じさせない大味なところは、さすがアメリカ・・・猟奇的な犯罪行為も精神的に病んでいる(日本的?)のではなく、ただただ暴力的な残忍さ(アメリカ的?)ばかり感じさせられます。


あえてスタンダードサイズ(昔のテレビの画面比率)にして、アナログの8ミリフィルムの”スナッフフィルム”風にこだわっているようなのですが・・・画面に登場する二人の男が手持ちの8ミリムービカメラで撮影している画像がクリアなデジタル画像で、映画的に全体を撮影しているカメラの映像が色合いやスクラッチを加えて8ミリフィルム風にしているというところが”矛盾”しています。”スナッフフィルム”風にこだわるならば・・・俯瞰的に全体を撮影しているカメラマンの画像はデジタルで、手持ちの8ミリカメラの映像がフィルム風というのであれば、まだ辻褄が合うのですが。

限定版DVDには、サウンドトラックCD(!?)と特典映像DVDが付属しているのですが、特典映像のスタッフたちへのインタビューが本編よりも、恐怖を感じさせてます。ステファン・バイロ氏が、かなりヤバい人物だというのは分かってはいたのですが・・・ルックス的に、いつ猟奇的な犯罪を犯しても不思議でないような”シリアルキラー”風なのですから!


”この手”の作品を作る人って、作品の過激さに反して、本人は精細な優男だったり、オタク系だったりすることが多かったりするものなのですが・・・ステファン・バイロ氏は、ハードコアな雰囲気を漂わせていて、マジでヤバい感じです。インタビューが撮影された時には45~6歳なのだけど、薄毛のロンゲに無精髭、知性の欠片もない話し方は、ホワイトトラッシュ(白人貧困層)っぽくて・・・こういう人が残酷スプラッタービデオを監督していたのかと思うと、心穏やかではいられなくなります。

スプラッター映画に向けられる世間の批判としては、真似をして犯罪者を生むもしれないというもの。これには、制作者側の決まり文句のような”正論”があって・・・「映像で疑似体験することによって欲望を満足させらるので、リアルに犯罪を犯すことを抑制しているのだ」という理屈です。確かにマニアの中には、実際にやってみたいという欲望を抱えているけれど、実行しない人が殆ど・・・映像で観ることで、欲望を抑制できるというのに一理あります。しかし、逆に映像で観たことによって、自分で抑えていた欲望に歯止めがかからなったり、自覚していなかった欲望を発見してしまうこともあったりもするわけで、映像によって誘発されてしまうという危惧を無視することはできません。

ただ、何気ない日常生活の中からでも、犯罪的な欲望を持ってしまう”きっかけ”というのもあったりするわけで・・・犯罪を種(タネ)を撲滅できるわけではなく、映像は犯罪を「抑制する」一面と「誘発する」一面の両方を持ち合わせているといるものなのです。猟奇的な犯罪を犯すことをアレルギー反応に例えてみると、スプラッター映画は刺激的なスパイスということになるのかもしれません。人口の大半の人は、そのスパイスの刺激を嗜好品として楽しむことができるのですが、ある体質をもった人には致命的なアレルギー反応が起きてしまいます。事前にアレルギー反応を起こすことを予測するのは難しいように、どう線引きをすべきかの正解はありません。ただ、成長過程にある子供に刺激物をむやみに与えないように、年齢で制限するぐらいが可能なことでしかありません。モノ好きの大人は、さらなる刺激を求めるだろうし、全面的に禁止したら逆に闇市場に出回ってしまう・・・銃規制と同じように堂々巡りの話なのです。


ステファン・バイロ氏は「アメリカン・ギニーピッグ」のシリーズ化に本気らしく・・・第2作「アメリカン・ギニーピッグ~ブラッドショック/American  Guinea Pig : Bloodshock」を、2015年9月頃(?)にアメリカの一部にて限定的に劇場公開しており、製作と脚本をステファン・バイロ氏が担当、「血と臓物の花束」で特殊効果を担当していたマーカス・コーチの初監督作品となっています。

「ブラッドショック」で虐待されるのは”女性”ではなく”中年男性”・・・拷問ポルノ的だった今まではとは違う方向の作品ようです。ソリッドシチュエーションホラーのヒットシリーズ「ソウ/SAW」に、世界観が似ているような気もしますし・・・全編モノクロ画面というところは「ムカデ人間2」を連想させます。拷問/虐待シーンが売り物であることには変わりありませんが、ストーリーのあるドラマのようなので、散々の酷評(?)だった「血と臓物の花束」よりも、観れる”作品”になっているようです。「アメリカン・ギニーピッグ~ブラッドショック」のDVDリリースが待ちきれません!


「アメリカン・ギニーピッグ~血と臓物の花束~」
原題/American Guinea Pig : Bouquet of Guts and Gore
2014年/アメリカ
監督&脚本:ステファン・バイロ
特殊効果 :マーカス・コーチ
出演   :アシュレー・リン・キャプト、ケイトリン・デイリー、エイト・ザ・チョーズン・ワン、スコット・ギャビー
日本劇場未公開
2016年6月3日日本版「アメリカンギニーピッグ」DVDリリース



「ギニーピッグ2 血肉の華」
1985年/日本
監督&脚本: 日野日出志
出演   : 田村寛、夕顔きらら
1985年11月30日VHSビデオ発売/廃盤





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2015/11/06

中村昇監督の”ほのぼの”エグい昭和の映画・・・「所詮、生涯の旅路の道連れなんていない」という喪失感しか残らないの!~「旅路」~



先日、友人が『「旅路」っていう映画観たんだけど、すごく良かったよ~』という話をしてくれました。恥ずかしながら・・・中村登という映画監督の名前にさえボクは馴染みなかったので、帰宅してから調べてみたところ、2013年には生誕100年を記念して「東京フィルメックス」にて特集上映がされていたりして、再評価の兆しがあるらしいことを知りました。

中村登監督は、1940年代~1970年代に多くの文芸作品や女性映画を手掛け、アカデミー外国語映画賞にノミネートされたこともある松竹の全盛期を支えた”巨匠”のひとりなのですが・・・ボクの世代(アラフィフ)でも、リアルタイムで映画館で観たわけではありません、また、監督した作品の本数が非常に多く、作風の幅も広いことが災いしてか・・・同時代に活躍した松竹の他の”巨匠”たちと比較すると、語られることも多くなかったような気がします。


「旅路」は、1952年7月16日から1953年2月19日まで、朝日新聞の朝刊に連載された大佛次郎(鞍馬天狗シリーズ)の同名の小説が原作・・・劇場公開が1953年7月29日ですから、連載終了後すぐに映画化されたということのようです。終戦から7~8年後という時代を背景に「自立していく女性」を描いた文芸作品であります。「お涙頂戴」のメロドラマにありがちな「苦境に耐え忍ぶ女性」ではなく、自ら人生の選択をしていくというところが、戦後間もない日本を象徴しているようなのですが・・・彼女を取り巻く環境、当時の世間一般的常識、戦後の混沌の中で生き抜く人々の姿は、今の感覚からすると少々違和感を感じます。しかし、単に”戦後の新しい女性像”を描いている前向きなだけではない、作品に漂うダークさもまた味わい深い作品であるのです。

まず、主人公である岡本妙子(岸恵子)の境遇が、なかなかエグくて・・・女中が生んだ娘で、父親の家に引き取られて育てられたというのですから、どれほど形見の狭い思いをして育ったのだろうと推測してしまいます。「血縁」重視で母親に養育権を与えることが多い現在とは違い・・・「家」重視で父親側に引き取られることが多かった時代ならではです。妙子は出生の暗さを感じさせない美しい”お嬢さま”として成長しているものの、両親の死後、上京してタイピストとして生計を立てています。


ひとり息子が戦死した後、淋しく暮らしている叔父の岡本素六(笠智衆)から、妙子は娘のように可愛がられてはいるのですが、実はこの叔父・・・以前は金のことばかり考えていた”高利貸”だったというのです。ただ、笠智衆の演じる叔父が、まったく高利貸をやるような人物に見えない上に、住まいが鎌倉だったりするところもあってか、小津安二郎作品での父親像とダブってしまうところがあります。叔父は、ひとり息子を亡くした悲しみから逃れることができず、妙子が墓参りに尋ねてきた時・・・実は思い詰めて山で投身自殺をしようとしていたのです。偶然に通りかかった歴史学者の瀬木博士(千田是也)と弟子の捨吉(若原雅夫)に命を救われて、再び生きる気力を取り戻していきます。そして、捨吉が死んだ息子と同じ年齢ということもあり、捨吉に息子の面影を追うようになるのです。


妙子が明の墓参りの際、彼の戦友だった良助(佐田啓二)と偶然知り合うというのが物語の発端なのですが、この良助がヒロインの相手役なのに、一筋縄ではいかない怪しい男であります。戦地での生きるか死ぬかのストレスを乗り越えるため「人生は博打みたいなもんさ」と考えるようになったという良助は、”自称”高級車のブローカー・・・外国人ビジネスマンとビジネスをしている岩室元男爵夫人(月丘夢路)と組んで、車の商売だけでなく、賭けごとをしたりしているのです。佐田啓二には珍しい悪い男の役柄のため、本作の印象をマイナスと感じる人も多いようなのですが・・・逆に、甘い二枚目よりも、よっぽどハマり役に思えてしまうのは、ボクだけではないかもしれません。


妙子に一目惚れした良助は、巧みに気を引いてドライブデートに誘って外泊・・・あっさりと妙子とカラダの関係を持ってしまいます。妙子は翌日も会社を休んでまで良助とホテルに滞在・・・「肉体関係を持つ」=「いずれ結婚」という発想は、当時としては当たり前なのかもしれませんが、随分と安易に結婚を意識するのには驚きです。フィアンセ気分で舞いがってしまう妙子ではありますが・・・良助のような男に、結婚の安定や堅実さを求めるのは、所詮無理な気もします。叔父にあと押されて、妙子にアプローチした学者肌の捨吉は、告白する前に妙子から結婚を意識している男性(良助)との関係に悩んでいると相談されて、あっさり玉砕・・・それでも捨吉は、妙子を暖かく見守る気持ちは失うことはありません。


ボクが、本作で一番興味を引かれたのは、妙子と良助の恋愛の行方ではなく・・・岩室元男爵(日守新一)と夫人の物語であります。夫人の出身についてはハッキリと説明はありませんが、戦前に男爵家に嫁いだぐらいですから、それなりの家柄なのでしょう。戦中には一般の日本人が学ぶことのできなかった英語が堪能なようで、その語学力を生かして戦後は外国人相手にビジネスをして稼いでいるようなのですから、なかなか逞しい女性なのです。一方、男爵であった夫はまったくもって生活力なし・・・元華族という見栄にさえ疲れきって、貧しいながらも夫婦二人で質素に生きたいと願っています。しかし、夫人の方は元男爵夫人というプライドを捨てることができず、裕福な生活を続けることに執着していくのです。この夫婦の殺伐とした”やりとり”が、グサグサと心に刺さって堪りません!


京都に外国人ビジネスマンを案内するという仕事で、夫人が一週間家を空ける時・・・「元男爵夫人としてでなく、一人の女性として自分を大事にして欲しい」と嗜める夫は、結局、妻を信じることができません。自分の家内をホテルに訪ねることになるなんて・・・と愚痴ながら、商談をしている京都のホテルへ現れます。競輪で遊ぶための金をせびるという下衆なことを要求しているにも関わらず、日守新一の穏やかな口調によって、落ちぶれながらも元華族としての誇りと傲慢さを感じさるところが”見事”です。

「家という好都合な制度があるので、当分は亭主としての権利は利用できそうだね」


・・・こんなことを言う夫を持ったなら、ヤケ酒を飲まずにいられない夫人の気持ちもわからなくありません。そして、夫人は介抱してくれた良助を誘惑して、カラダの関係を持ってしまうのです。その後、岩室元男爵は夫人と良助のただならぬ関係を嗅ぎ付けて、良助からも酒代を強請っているようになるのですから、夫として堕ちるところまで堕ちた感があります。妙子を、夫人と良助が商談をしているホテルへ引き連れて鉢合わせさせるなんて、元男爵も意地悪くて悪趣味・・・ただ、純粋な気持ちを持っている妙子に接したことで、離婚を決心するに至ることになるのです。そこで交わされる会話の中で、元男爵が妻に対していう言葉が、本作のタイトルになっているというところが、興味深いとボクは思いました。

「夫婦というものは生涯の”旅路”の道連れだと考えていた」


良助との関係を断ち切ることを条件に、すべての財産を譲って離婚するという元男爵・・・旧華族らしい引き際は、最後のプライドなのかもしれません。しかし、そんな”潔さ”さえも、結局は自己満足でしかなく、今後、元男爵には”惨めな生活”という悲劇が待っていることは明らかです。恵まれた環境で育ったために生き抜く図太さに欠けていることを、単に「自業自得」だとか、「自己責任」とは考えられません。誰からも気の毒に思われるお涙頂戴の”不幸”よりも、誰にも同情してもらえない気位の高さゆえの”不幸”と”惨めさ”・・・ボクは元男爵に強くシンパシーを感じてしまうのです。

ここから結末のネタバレを含みます。


元男爵夫人とは縁を切って地道な仕事に就いて欲しいという妙子の願いも虚しく、良助には自分の生き方を変える気持ちは毛頭ありません。車の販売代金を株に使い込んで、元男爵夫人から逃げ回るようになってしまうのです。良助は金策のため、いったん実家へ戻るのですが・・・待ちきれない妙子は、お金を都合してもらうため叔父を尋ねます。しかし、あいにく叔父は不在・・・留守番をしていた捨吉が叔父から預かっていた現金を黙って持ち去って、良助の借金を全額返済してしまうのです。妙子が大金を持ち去ったことを知りつつも、捨吉は叔父に道で落としてしまったと嘘をつくのですが、妙子が叔父の元に戻ってきて事実を話したことで、捨吉が妙子を庇っていたことが判明します。叔父は責めることなく二人を許すものの、妙子に対しての捨吉の思いに、妙子が応えるということは最後までありません。そして、妙子は良助の田舎を訪れて「一緒にいることでお互いに不幸になってしまう」と良助に別れを告げるのです。


結局、妙子と良助が結ばれることはなく・・・また、誠実に妙子を思う捨吉ととも結ばれないという、ある意味、バッドエンディングで終わる本作・・・2ヶ月ほど後に公開された岸恵子と佐田啓二という同じコンビによるメロドラマ「君の名は」が大ヒットしたことで、本作は忘れ去れてしまうことを運命づけられていたのかもしれません。あまりにも、あっさりと妙子からの別れ話を受け入れる良助の爽やかな(?)態度には、違和感を感じてしまいますが・・・大佛次郎の原作でも、最後の数ページで唐突に別れてしまうのですから、このように映画も終わるしかなかったのでしょう。

最初に観たときには、製作当時の日本人の感覚についていけず、ところどころ釈然としないところがあったのですが・・・原作を読んだり、繰り返し視聴していくうちに、中村登監督の巧みな演出に気付かされます。妙子の不憫な出生をしみじみと語る叔父から、良助の誘惑に負けてカラダを許してしまった妙子に移るシーンで、連れ込み旅館の窓の外に咲いていたアジサイの花の白さに、妙子が気付くシーンがあるのですが、映画の後半に妙子が叔父に金を盗んだことを謝罪に訪れた際には、アジサイの花はすでに散っていて枝と葉っぱしかありません。しかし、妙子には白いアジサイの花が見えてしまう・・・白いアジサイは妙子の罪悪感の象徴というわけです。


「旅路」というタイトルにも関わらず、登場人物の誰も”旅路”を共に歩んでいく”道連れ”という存在がいるわけでもなく、出会うわけでもありません。叔父は戦争でひとり息子を失い、岩室元男爵夫妻は離婚によってお互いを失い、夫人と良助の商売関係はお金の問題で破綻し、妙子と良助と捨吉の3人それぞれの”思い”は通じ合わない・・・戦争という大きな喪失の後、人々は何かしらの喪失感に苛まれながら、結局”ひとりっきり”ということなのでしょうか?

生涯の”旅路”の道連れなんて、所詮・・・いやしないということなのです。

「旅路」
1953年/日本
監督 : 中村登
原作 : 大佛次郎
出演 : 岸恵子、佐田啓二、笠智衆、若原雅夫、日守新一、月丘夢路、千田是也
1953年7月29日劇場公開


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2015/10/14

三島有紀子監督の”おしゃれ素敵ワールド”へようこそ(笑)・・・頑固で不器用だけど丁寧に生きる(?)薄っぺらい職人気質を描く”癒しと感動のファンタジー”~「繕い裁つ人」~


以前、三島有紀子監督の「しあわせのパン」のことを書いたこと(めのおかし参照)があります。重箱の隅をつつくように貶すことしかできなかったのですが・・・「嫌い過ぎて語らずにいられない!」というのも、逆説的な”ラブコール”なのかもしれません。同じく大泉洋を主演した”田舎ファンタジー”の「ぶどうのなみだ」はスルーしたものの、仕立て屋の女性を主人公にした「繕い裁つ人」は、多少なりとも服作りに関わっていたことのあるボクとしては「ツッコミどころ満載」の予感(!)しかしなくて・・・思わずレンタルDVDを手にしてしまったのです。

「繕い裁つ人」は、今年(2015年)1月に劇場公開されています。公式ホームページによると、大ヒット御礼の舞台挨拶が行なわれていたりしていたようなので、そこそこヒットはしたみたいです。世の中には三島有紀子監督作品は全部好きという”ファン”はいるのだろうし、劇場に足を運んだ方もたくさんいるのでしょう。

三島有紀子監督のオリジナル脚本だった前2作品「しあわせのパン」「ぶどうのなみだ」とは違い、本作「繕い裁つ人」には原作があるのです。2012年の「このマンガがすごい」のオンナ編で17位(微妙?)にランクインした池辺葵著の同名のマンガであります。アマゾンのKindle版で第1巻は無料で読むこと出来たので、本作観賞後に読んでみたのですが・・・エピソードや台詞を”そのまんま”引用しているところが多く、原作へのリスペクトは高めの印象。原作の非現実感(浮世離れした嘘っぽい設定)も、三島有紀子監督の世界観に近いのかもしれません。

ここからネタバレ、および「繕い裁つ人」が好きな方には不快な内容を含んでいます。


祖母の跡を継ぎ二代目として”南洋裁店”を営んでいる南市江(中谷美紀)・・・百貨店バイヤーの藤井(三浦貴大)から、ブランド化してネット販売をするという商談を持ち込まれているのですが、「頑固親父」と比喩されるような”職人肌”(?)の市江は、首を立てに振りません。本作は、市江を説得しようと”南洋装店”に通う藤井と市江の物語を軸に、お店に関わる顧客たちのオムニバスのエピソードが語られるという構成になっています。

この”南洋裁店”というのが「謎」だらけなのです。まず、住居兼、仕事場兼、店舗になっているのが、神戸の高台の住宅地にある古い洋館の一軒家ということ。マンガだったら、夢物語として「素敵」な設定ですが、実写映画で見せられると「マジで?」としか思えません。本作で祖父や父親の存在は語られませんが・・・祖母の代から同じ場所で洋裁店をしていたようなので、相続税と固定資産税は支払い続けているってことなのでしょう。


ただ、そうだとすると”南洋裁店”が、どのようにして商売として成り立っているかが「謎」であります。「二代目の仕事は一代目の仕事をまっとうすることだと思っています」ということで、雑貨屋の女主人(片桐はいり)曰く「先代の仕立て直しとサイズ直しが仕事のすべて」というのですから・・・。「着る人の顔の見えない服なんて作れない」という市江にとって、先代からの付き合いがある雑貨屋に自分の服を卸しているのも、生活費のため”だけ”なのです。入荷すると即日完売とはいっても、市江一人で裁断から縫製までやっているので、卸せる服の数は限られています。また、オーダーで服を作っているようですが、顧客が生地を持ち込んでいるみたいなので、それほど利益があるとも思えません。


そして一番の「謎」が・・・どうして百貨店バイヤーの藤井が市江の服をブランド化したいと思っているかです。市江の服というのは、先代の祖母が顧客からの注文で作ったものを再現しているもので、市江がデザインしているわけでも、型紙をひいているわけではありません。

市江の祖母が仕立て屋として繁盛していたであろう時代(昭和30年代くらいまで?)には、一部の高級な既製服を除いて「既製服」は”つるし”と呼ばれ”格下”に考えられていました。良い布が手に入ると仕立て屋さんであつらえてもらったり、型紙から自分で作るという時代だったのです。「デザイン」や「ブランド」という概念も今とは違い、仕立て屋であつらえるということは、流行りを上手に「コピー」してもらうということだったわけで・・・祖母のスケッチブックや型紙も、オリジナルのデザインというわけではないと思うのです。

本作に登場する”南洋装店”で作られた服をみると、大正時代のモガ風から1970年代のヒッピー風と、年代はバラバラのレトロ風(?)・・・服そのもののデザインよりも、プリントやジャガードの生地に特徴がある印象で、雑貨店に卸している服は、祖母の残してくれたデッドストックの生地やボタンで作られた「一点モノ」みたい。市江の服の雰囲気に近いのは・・・「ミナペルホネン」あたりのような気がします。ブランド化してインターネットで販売するとなると、テキスタイルからデザイン、生産しないと素材自体がないので、このような雰囲気を服を量産するのは難しそうです。

服のもつ世界観を体現している存在である市江を、スタイリスト/デザイナーという名の広告塔(モデル)にしたいというのであれば分かるのですが・・・藤井は、ブランド化するにあたって、市江の仕立て屋としての”技術”を継承しなければならないという使命を感じているらしいところが、ますます理解に苦しむところです。

市江の母親(余貴美子)は、仕立て屋を継いでおらず”専業主婦”をしていたようですから、市江は祖母から服作りの手ほどきを受けたのでしょうか?継承すべき技術を持っているというのに・・・図書館で「高級仕立て服の縫い方」という本を読んでいるのは、いまだ独学で勉強中ということなのでしょうか?

”技術”で勝負する職人であることが、市江というキャラクターの根幹のはずなのですが・・・映画の中で描かれる市江の職人気質っぷりは”薄っぺらく”かつ”屈折”しています。「夢見るための服を作っているんです。生活感出してたまるもんですか」と言う市江・・・監督お得意のスタイリングに頼った”ファンタジー”のキャラクターであることを白状しているかのようです。


また、映画が始まって間もなく、市江の寝起き姿を登場させて「実は天然でかわいい女性」であることもバラしてしまいます。監督が市江の別な顔を垣間見せることを意図しているかは分かりますが・・・逆に、市江の職人気質は”コスプレ”で”作っているキャラ”であることを露呈させてしまっているのです。

「自分の美しさを自覚している人に、私の服は必要ないわ」と言い切れるのは、中谷美紀のような”美くしい女性”が市江を演じているからこそ・・・”おかっぱ頭のブス”(失礼!)だったら(現実にいる仕立て屋を名乗る女性には多いかも)素敵に感じられるのでしょうか?市江が唯一の楽しみで、ホールのチーズケーキを食いまくるというシーンが3度(!)もあるのですが・・・禁欲的なスタイルの裏で、過食に走る闇のストレスを抱えているかのようで怖いです。


市江がブランド化を承諾しないのは「変化」や「挑戦」を恐れているのでも、「自分の殻を破れない」のではなく・・・ブランド化しようにも、そもそも市江はデザイナーというクリエータととしてのアイデンティティがあるわけでもない「縫い子=仕立て屋」だから無理なのです。(仕立て屋がデザイナーより下という話ではなく)そこのあたりの藤井は完全に勘違いしているように思います。

エピソードにもツッコミどころのある本作。女子高生のゆき(杉咲花)は、母親の形見である白地にブルーの派手なプリントで、大きなフリルがあしらわれている1970年代風のロングドレスのリメイクを市江に依頼するのです。市江はフリルはそのままに、ビックシルエットのミニドレスにリメイクするのですが、背が低いことにコンプレックスを持っているゆきを、さらに小柄にみせてしまうデザインになってしまっています。


「死に衣装を作って欲しい」と、柄物の生地を預けたガーデニングが趣味の泉先生(中尾ミエ)に、市江が縫い上げたのは、ガーデニング用のエプロン。「まだ死に衣装を準備するなんて早い」というメッセージなのかもしれませんが・・・モノに託して伝える思いがゴリ押しにしか感じられません。

市江によって開催される「夜会」は、浮世離れしてるとしかいいようのないイベントであります。1年に一度だけ30歳以上の”大人”だけが参加することのできるということなのですが・・・参加者は、おしゃれな服=市江(もしくは市江の祖母?)の服を着てくることになっているみたいです。これがご老人のノスタルジックなコスプレ状態。演奏家を招いての音楽会、会場いっぱいの豪華な花々など・・・素敵さを強調すればするほど、ファンタジーという”嘘”が際立ってしまいます。一体「夜会」の開催費用って・・・誰が出しているのでしょうか?”南洋装店”のビジネス規模ならば、明らかに大赤字です。


ドレスメーキングとメンズテイラードというのは技術的に違うと思うのですが、本作での境界線は曖昧です。おじいさんが「夜会」のために着る背広を市江がお直しすることになるのですが・・・袖や身頃を詰めたり出すのではなく「襟」の仕立て直しや「肩」を詰めるというのは、普通アリエナイです。伏線として、おじいさんが亡くなった後、背広を着たマネキンを「夜会」に参加させて故人を偲ぶという・・・センチメンタルな感動へ繋げることも忘れていません。

ここからエンディングのネタバレを含みます。


藤井と市江の関係は、なんとも尻切れとんぼで終わります。本作の制作当時は、まだ原作マンガが完結していなかったようなので、ハッキリした結論を出さずに終わるしかなかったのかもしれませんが・・・。

若い女性と車の中で楽しげに笑っている藤井を目撃し、思わず動揺してしまう市江が恋愛に目覚め・・・というアリガチな展開ではないことには好感を感じますが、藤井は市江の服のブランド化失敗に傷心(?)して、自ら希望して家具販売員となるという”くだり”や、藤井があっさりファッションの道を諦めたことに反発して、市江はますます自分のやってきたスタイルを変えずに頑になっていくところは、本作のテーマといえる大事なところにも関わらず、イマイチ説明不足。

その後、藤井と一緒にいた若い女性は、結婚を控えた藤井の妹(黒木華)であることが判明して、市江は彼女のウィディングドレスをデザインすることを申し出ます。ヴェールの裾がハート形の風船で浮かばせるというウエディングコーディネーターがやりそうな陳腐な演出がありますが、これも市江のデザインなのでしょうか・・・藤井を含め、結婚式のゲストたちも感激しているようですが。


月日が流れて季節が変わり・・・「夜会」に忍び込んできた少女たちへ「あなたが一生着れる服を私につくらせてください」と申し出たように、市江は自分自身でデザインしたドレスを作り始めているようです。市江は、以前のような禁欲的な暗い感じではなく、解放されたような優しい雰囲気になっています。ただ・・・なんだかんだで「自分自身の全肯定」という少女マンガっぽい着地点は、少々物足りなく感じるものです。

「繕い裁つ人」は、本物にこだわる職人をリスペクトしているようでいて、実際は薄っぺらい世界観(原作を引き継いでの設定もあるのですが)で「頑固親父のような職人肌」「生きることに不器用」「洋裁以外に取り柄がない」を過剰に美化しているところが、なんとも気持ちが悪い作品なのです。ただ、裏を返せば、この”気持ち悪さ”こそが三島有紀子監督ならではの”持ち味”が発揮されているということであり(?)・・・本作もファンの期待を裏切らない作品ではあるのかもしれません。


「繕い裁つ人」
2015年/日本
監督 三島有紀子
脚本 林民夫
原作 池辺葵
出演 中谷美紀、三浦貴大、片桐はいり、黒木華、杉咲花、伊武雅刀、中尾ミエ、余貴美子
2015年1月31日より日本劇場公開


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