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2014/07/19

ドラァグクィーンがNext America's Drag Super Starを競うリアリティー番組・・・RuPaul(ル・ポール)の歴史とドラァグクィーンの楽しみ方~「ル・ポールのドラァグレース/RuPaul's Drag Race」~



この記事はドラァグクィーンの文化を誰よりも愛していた親友ティムシー・ルース/Timothy Luce(2009年没)に捧げます。

1:「ル・ポールのドラァグレース」の概要

2009年からアメリカのケーブルテレビチャンネル「LOGO TV」(LGBTの視聴者向けチャンネル)で放送されている「ル・ポールのドラァグレース/RuPaul's Drag Race」は、Next America's Drag Super Star(ネクスト・アメリカズ・ドラァグ・スーパースター)を発掘するバトル形式のリアリティー番組であります。

「ル・ポールのドラァグレース」オープニングタイトル

「ネクスト・アメリカズ・ドラァグ・スーパースター」と銘打っているところから、ファッションモデル発掘のリアリティー番組「アメリカン・ネクスト・トップモデル/America's Next Top Model」をパクったように思えるかもしれませんが・・・バトル部分のチャレンジはファッションデザイナー発掘のリアリティー番組「プロジェクト・ランウェイ/Project Runway」に近いかもしれません。直線コースを一気に走る「Drag Race/ドラッグレース」にかけていることから分かるように、番組内でもレーシング用語が決め文句として使われたり、アシスタントの男性モデルを「Pit Crew/ピットクリュー」(レース場の整備員)と呼んだりしています。

すでにシーズン7(2015年放映予定)の制作も発表されており、現在までに「オールスターズ」(シーズン1~4より選出)を含めて7つのシーズンが放映されています。(そのうちシーズン2~5までがアマゾンUSにてオンデマンドDVDを購入可能)さらにドラァグ・クィーンが女性をメイクオーバーしてバトルするスピンオフのリアリティー番組「RuPaul's Drag U」(シーズン3まで放映/2010~12年)も制作されました。また、イギリスBBCの人気司会者のJonathan Ross(ジョナサン・ロス)氏がイギリス版「ドラァグレース」の制作権利を獲得したということなので、イギリス版が放映されるのも遠い日ではないようです。ただ、イギリス版にRuPaul(ル・ポール)が出演するかは現時点では未定らしいです。

2:ドラァグクィーンとは?

「ドラァグクィーン/Drag Queen」とは、女性特有の「グラマーさ」や「セクシーさ」を強調したヘアスタイル、メイクアップ、ドレスを、見せるために着飾っている人のこと・・・性別(性同一障害、性転換も含む)や性的嗜好は無関係と言われています。ハッキリと区別する必要があるのは、女性として「パス」することを目的にして女装をする人たち・・・派手な衣装ではなく地味なワンピースやアンサンブルを好み化粧も薄めで、生まれ持った資質次第で完成度の個人差は大きいかったりするのです。性同一障害者(Transsexual)やフェチズムのクロスドレッサー(Cross Dresser)の中には、”女らしさ”の誇張に欠けてしまうことがあるのは、あくまでも個人的な満足感を得るための「女装」だからかもしれません。

ビジネスで女装するパフォーマー(Female Inpersonater)は、モノマネやコメディアンとしての「女装」なので、実生活ではストレートの男性ということも結構あります。世界的に最も有名なのはオーストラリア出身のコメディアンのBarry Humphries(バリー・ハンフリーズ)が演じるDame Edna Evarage(デイム・エドナ・エヴァレイジ)でしょうか?日本だったら・・・荒川ばってん?(古いけど)と似たような存在と言えるかもしれません。この場合は、当然のことながら、あくまでも”女装”ありきの”芸風”という観点では、日本のオネエタレントというのは「ドラァグ・クィーン」というよりは「女装パフォーマー」に近いのかも・・・なんて思ったりします。


自ら「ドラァグクィーン」を名乗るのは、殆どが「ゲイ男性」・・・ゲイ・カルチャーの中で成熟させてきた「ドラァグクィーンならではの化粧技術やファッションセンス」「ドラァグクィーン特有のスラングやフレーズ」「ドラァグクィーン好みのスター、映画、音楽」を融合して昇華さているので、これらの文化を知ることで、より”ドラァグクィーン”の世界というのは楽しめるものなのです。

3:ル・ポールの歴史

「ル・ポールのドラァグレース」の司会、審査員長、アドバイザーの3役を務めるRuPaul(ル・ポール)は、1980年代初頭から活動を続けるアメリカのドラァグクィーン・・・御歳54歳(2014年現在)でありながら圧倒的な美貌、エンターテイメント業界で30年以上生き抜いてきた経験値、敬虔なクリスチャン(?)でバランス感覚の優れた人格者であります。

1960年11月17日にカリフォルニア州のサンディエゴで生まれたル・ポール・アンドレ・チャールズことRuPaul(ル・ポール)は、両親の離婚後、母親とアトランタへ引っ越して、そこで少年時代を過ごします。後に親友となるThe "Lady" Bunny(レディー・バニー)とは、1982年頃(ル・ポール21歳、レディー・バニー19歳の頃?)に出会い、アトランタとニューヨークでルームメイトだったこともあるほどの仲良し。1984年ニューヨークで開催された「第5回ニューミュージックセミナー/New Music Seminar」に参加した頃から、RuPaul(ル・ポール)は何度もニューヨークとアトランタの間で引っ越しを繰り返して・・・1987年頃、ニューヨークに落ち着いたようです。(ただ、その後はロサンジェルスとニューヨークを行き来しているらしい)

ボクが初めてRuPaul(ル・ポール)のパフォーマンスを見たのは、1987年に行なわれた第3回「Wigstock/ウィッグストック」のステージであります。「Star Booty/スター・ブーティー」というモヒカンの女性スパイのキャラクターで、音楽活動や自主映画に出演していた頃のこと。2メートル以上(ハイヒールを含む)の長身で繰り広げられたパフォーマンスと、愛に満ちた超ポジティブなメッセージは、キャンプ(Camp)テイストの強いイーストヴィレッジのクラブ/アート系ドラァグクィーンや、ハリウッド女優のモノマネをするビューティーコンテストタイプとは、別次元の「エンターテイナー」としての片鱗を見せつけていたのです。


当時、RuPaul(ル・ポール)友人だったNelson Sullivan(ネルソン・サリバン)氏によって撮影された動画は、ル・ポールの下積み時代というだけでなく・・・1980年代半ばのニューヨークのクラブシーンや、当時のドラァグクィーンの日常(?)の貴重な記録と言えるでしょう。

1984年/ダンステリアの楽屋にて

1985年/ピラミッドクラブにて

1986年/アトランタでのパフォーマンス

1987年/ピラミッドクラブにて

1988年/ゴーゴーダンスを語るル・ポール

1985年、The "Lady" Bunny(レディー・バニー)によってオーガナイズされた「ウィッグストック/Wigstock」は当初、イーストヴィレッジのアベニューAにあった”ピラミッド(Pyramid)”やセントマークスプレイスにあった”ボーイバー(Boy Bar)”などで活動するパフォーマーたち・・・John Sex(ジョン・セックス)、Tabboo!(タブー!)、Hapi Phace(ハッピーフェース)、Wendy Wild(ウェンディ・ワイルド)、Sister Dimention(シスター・ディメンション)、Ethel Eichelberger(エセル・エッチェルバーガー)、John Kelly(ジョン・ケリー)、Flloyd(フロイド) らによる”クラブシーン”色の濃い「ミュージックフェスティバル」でした。


その後・・・RuPaul(ル・ポール)、Lypsinka(リップシンカ)、Joey Arias(ジョージ・アイリス)、Candis Cayne(キャンディス・ケイン)、Perfidia(パフィディア)、Misstress Formika(ミストレス・フォーマイカ)、Lahoma Van Zandit(ラホマ・ヴァン=ザンディット)、Mona Foote(モナ・フット)、Linda Simpson(リンダ・シンプソン)らの参加により、ドラァグクィーンのフェスティバルとしての知名度を確立していったような気がします。1995年のドキュメンタリー映画「Wigstock The Movie/ウィッグストック・ザ・ムービー」を観ると、レイバースデー(Labor's Day)ウィークエンドの風物詩となった90年代半(ストレートのニューヨーカー達にも知られるイベントになっていた)の「ウィッグストック」の雰囲気を感じることができるかもしれません。

現在でもニューヨークのドラァグクィーンの第一人者として人気を誇るThe "Lady" Bunny(レディー・バニー)は、ダスティ・スピリングフィールドのパロディのようなキャラ・・・派手なサイケデリックファッション、頭の数倍あるような巨大なウィッグ(かつら)で、ドラァグクィーンの”アイコン”となっています。自虐的、かつ、天然ボケと下ネタ満載の話術”は、それまでの毒舌/辛口を売りにしていたドラァグパフォーマンスとは違う「愛されキャラ」を確立しました。RuPaul(ル・ポール)は、The "Lady" Bunny(レディー・バニー)が開拓した路線を継承しながらも、歌って、踊れて、MCを努められる総合的なエンターテイナーとして、ゲイクラブシーンを飛び出していく次世代のドラァグクィーンとなっていくのです。

レディーバニーのトリビュートビデオ

当時(1980年代末期)はイーストヴィレッジのカルチャーがメインストリームに受け入れられて、世界的にメジャー化していった時代・・・分かりやすいところでは、The B-52'sが大ブレークをしていました。(ル・ポールもプロモーションビデオに出演)同時期にイーストヴィレッジのクラブシーンで活動していた後輩「ディー・ライト/Deee-Lite」にメジャーデビューの先を越されたもの・・・1993年、RuPaul(ル・ポール)も「Supermodel (You Better Work/スーパーモデル(ユー・ベター・ワーク)」でメジャーデビューして大ヒットさせます。「Back to My Roots/バック・トゥ・マイ・ルーツ」「A Shade Shady (Now Parance)/ア・シェイド・シェイディー(ナウ・プランス)」「House of Love/ハウス・オブ・ラブ」などの続く楽曲もクラブダンスチャートでヒット・・・当時、人気スターがこぞって出演した深夜のトークショー番組「Arsenio Hall Show/アーセニオ・ホール・ショー」で、一躍全米の知名度を獲得したのです。

ル・ポール「スーパーモデル」

1996~98年には、VH1(音楽専門のケーブルテレビチャンネル)で「The RuPaul Show/ザ・ル・ポール・ショー」というトーク番組を持つまでになり、ダイアナ・ロス、シェール、デボラ・ハリー、パット・ベネター、オリビア.ニュートン=ジョン、タミー・フェイ、バーナデット・ピーターズ、ディオンヌ・ワーウィック、シンディー・ローパー、リンダ・ブレア、リンダ・カーターなど、蒼々たるゲストが出演しました。

しかし、その後、RuPaul(ル・ポール)のキャリアは若干、低迷気味(?)・・・アトランタ時代に演じていたキャラクターをリメイクした2007年の低予算映画「Starrbooty/スターブーティー」(Mike Ruiz/マイク・ルイズ監督)は、いくつかのゲイ&レズビアン映画祭で上映されただけで、DVD版リリースもRuPaul(ル・ポール)の自主レーベルから発売されたぐらい・・・現在、貴重なDVDとなってしまいプレミア化しています。

2007年版「スターブーティー」映画予告編

4:「ル・ポールのドラァグレース」番組フォーマット

さて、長~い前置きになってしまいましたが・・・ここから本筋です。

バトル形式のリアリティー番組としては、かなり後発となる「ル・ポールのドラァグレース」でありますが・・・後発だからこそ番組の「フォーマット」の完成度は高いと言えます。「アメリカン・ネクスト・トップモデル/America's Next Top Model」と「プロジェクト・ランウェイ/Project Runway」と同様に、さまざまな”チャレンジ”で競い合い、毎週ひとりの候補者が落選していき、最終的に優勝者を決定するというシステムなのですが、番組開始以降、基本的な番組の進行も大きな変わっていません。

まず番組は、男性の姿で出場者たちがワークルームに集合するところからスタートします。(最初のエピソードのみ、全出場者がドラァグクィーンの姿で登場)そこに司会のRuPaul(ル・ポール)から「SHE MAIL」(eメールにかけている)届いて、その回の「ミニ・チャレンジ」のヒントが伝えられます。そして、男性の姿のRuPaul(ル・ポール)がワークルームに登場して「ミニ・チャレンジ」が行なわれるという流れです。番組の冒頭、候補者もRuPaul(ル・ポール)も男性の姿というところが大切な「ミソ」でありまして・・・メイクアップ、かつら、コスチュームによって、各出場者がどれほど劇的に変貌するかを強調しているのです。

20~30分程度の「ミニ・チャレンジ」は、工作をするようなチャレンジから、ダンス、モデル、クイズ、スポーツなどあるのですが・・・「ミニ・チャレンジ」で勝者となることで、メイン・チャレンジを有利に奨めることができる”特典”が与えられます。例えば、個々にテーマが与えられる「メイン・チャレンジ」の場合、どのテーマを各候補者に与えるかの決定権・・・グループに分かれて行なわれる「メイン・チャレンジ」の場合は、勝者二人がグループリーダーとなって自分のグループのメンバーを順番に選んでいける権利となるわけです。終盤になっていくと、家族(または友人や彼氏)に電話する権利ということもあります。いずれにしても「ミニ・チャレンジ」の勝者の判断次第で、各出場者にとって「メイン・チャレンジ」の難易度が大きく変わることもあるので、必然的に出場者たちの関係はギスギスとしていくのです!

「ミニ・チャレンジ」で”アシスタント”として登場するのが「Pit Crew/ピット・クリュー」の男性モデル・・・RuPaul(ル・ポール)が個人的(!)にオーディション(シーズン3)で選んだJason Carter(ジェイソン・カーター)と、バート・レイノルズを彷彿させるShawn Morales(ショーン・モラレス)二人がブリーフ姿で務めるというのが見所です。シーズン6からは、さらに二人を加えて計4人の「Pit Crew/ピット・クリュー」が、殺伐とした(?)ドラァグクィーン同士のバトルに花を添えています。「ミニ・チャレンジ」終了後「メイン・チャレンジ」の準備にかかる出場者たちへのRuPaul(ル・ポール)の決まり文句が・・・「Start your engine, and don't fuck it up!」(エンジンをを吹かせて・・・しくじるんじゃないわよ!)であります。


「メイン・チャレンジ」で求められることは、さらにレベルの高いタスクになっていきます。多くのチャレンジは二つのパートに分けれていて、最初の「チャレンジ・パート」は・・・ゴミ箱から拾った素材でクチュールっぽい衣装を作成するとか、シチュエーションコメディやコマーシャルで演技をするとか、モノマネをしてゲームショーの出演者を演じるとか、ドラァグクィーンの姿で路上の見知らぬ人に難題をお願いするとか、アスリートのノンケ男性をドラァグクィーンに仕立てるとか、女性政治家に扮して政治的なスピーチをするなど、単に「キレイに着飾ること」だけではありません。演技力、お笑いのセンス、ダンスの才能、裁縫などのドレス作成技術、モノマネの完成度、かつらをセットする技術、メイクのテクニックなど、審査される能力の範囲は、どのバトル形式のリアリティー番組よりも広い範囲になっていると言っていいでしょう。そして、もっとも重要なのは、各チャレンジの意図を理解して、自分の個性を表現することなのかもしれません。

「メイン・チャレンジ」に向けて出場者たちが作業中、RuPaul(ル・ポール)はワークルームを再び訪問してアドバイスをします。「プロジェクト・ランウェイ」でのティム・ガン氏の役割もRuPaul(ル・ポール)が担っているわけですが・・・出場者それぞれのパーソナリティーを考慮しながら、的確なアドバイスをしていく手腕は見事であります。また、ここの場面で見えてくるのが、ワークルーム内での出場者同士の確執・・・そして、徐々に化粧をして、男性の姿からドラァグクィーンに変貌していく過程です。

「メイン・チャレンジ」の次のパートは、RuPaul(ル・ポール)らの審査員たちの前で行なわれる「ランウェイ・パート」・・・まず、RuPaul(ル・ポール)が、ドラァグクィーンのドレス姿で登場します。ここでのRuPaul(ル・ポール)の美貌は圧倒的・・・すべての出場者を凌駕してしまうほど完璧です。審査員を紹介後、いよいよ「ランウェイ・パート」となるわけですが、ここでのRuPaul(ル・ポール)の決まり文句は・・・「Let the best woman win!」(最高の女性に勝利を!)であります。

出場者たちは、与えられたテーマのスタイルで、ランウェイウォークを見せることになるのですが・・・ここで着用するコスチュームは持ち込みしている市販のドレスの時もあれば、テーマによっては与えられた生地やトリミングでデコレーションを施したり、時には生地からコスチューム全部を作成しなければならない時もあるのです。与えられている期日が1~2日程度ということを考慮すると、「プロジェクト・ランウェイ」以上に過酷なタスクと言えるでしょう。

12人~14人の出場者からスタートして、毎週ひとりずつ落選していくわけですが・・・「メイン・チャレンジ」の「ランウェイ・パート」の後、落選候補として「ふたり」が残されます。そして、その「ふたり」が「Lip Sync for your life/リップ・シンク・フォー・ユア・ライフ」=「命がけの口パク対決」で競い合い、審査員長のRuPaul(ル・ポール)の独断により、落伍者が決定するのです。リップ・シンクとは、歌に合わせて口パクで踊るドラァグクィーンならではのパフォーマンス。”命がけ”という表現がピッタリの戦いとなるわけで・・・番組に生き残るために、必死にリップ・シンクをするというエキサイティング、かつ、時には感動的なドラマを生み出す番組の頂点であります。アメリカのドラァグ・クィーンならば知っているべき選曲ばかり・・・否が応でもドラマティックで過剰なパフォーマンスが期待できるのです。


「リップ・シンク・フォー・ユア・ライフ」の後、RuPaul(ル・ポール)から落伍者と居残る者が伝えられるわけですが・・・ここでの決まり文句が「Sahay Away/サシェイ・アウェイ=去りなさい」「Shate, you stay/シャンテ・ユー・ステイ=残りなさい」であります。「Sashay, Shante」は、RuPaul(ル・ポール)が下積み時代から使ってきた造語のキャッチフレーズ・・・「Sashay」はモデルが颯爽とランウェイを歩くような雰囲気、「Shante」はモデルが決めポーズをしているようなニュアンスでしょうか?明確な意味というのはなく、音触りの良さがポイントです。

番組の最後は、生き残った出場者が一同に並んでエンディングとなるのですが、ここでのRuPaul(ル・ポール)の決まり文句は・・・「If you don't love yourself, how the hell you gonna love somebody else!」(自分を愛せないければ、誰も愛せやしないわよ!)と言った後、まるでクリスチャンの伝道師が共感を求めるように「Can I get Amen!」(アーメンをちょうだい!=賛同を頂戴)と唱えて”締める”のです。キリスト教を前提としない日本人からすると、ちょっと違和感さえ感じさせるところはありますが・・・「ル・ポールのドラァグレース」を”ファミリー番組”と冗談まじりに例えるRuPaul(ル・ポール)なので、胡散臭いクリスチャン番組のパロディなのかもしれません。

最終的に3人まで(例外もあり?)絞り込み・・・その3人が「Next America's Drag Super Star/ネクスト・アメリカズ・ドラァグ・スーパースター」のクラウンを競うことになるのですが、最後の「メイン・チャレンジ」は、RuPaul(ル・ポール)の新曲プロモーションビデオへの出演・・・ここではダンスの才能、演技力が重要となります。そして「ランウェイ・パート」の後、最終選考をふたりに絞り(例外あり)最後の「Lip Sync for your life/リップ・シンク・フォー・ユア・ライフ」で競い合い・・・「Next America's Drag Super Star/ネクスト・アメリカズ・ドラァグ・スーパースター」が決定するのです。

番組開始当初、優勝賞金は2万5000ドルでしたが、今では10万ドル(約1000万円!)となり、副賞には化粧品やクルーズ旅行と豪華になっています。さらに、優勝者だけでなく、番組の候補者たちは全米を「Battle of the season」と名付けられたドラァグクィーンのショーで営業するキャストになることができるのです。また、多くの出場者は、アーティストとしてデビューしたり、化粧品会社の契約モデルになるなど、エンターテイメント業界で番組出演後も活躍をしています。

シーズン4からは「Next America's Drag Super Star/ネクスト・アメリカズ・ドラァグ・スーパースター」の発表の最終回は、スタジオ収録ではなく・・・観客を入れた会場で行なわれる「Reunion/リユニオン」(番組放映後の同窓会)で、大々的に発表というスタイルになっています。この変更は理にかなっていて・・・最後の最後まで結果が分からないという”お楽しみ”を引っ張るだけでなく、インターネットを通じて視聴者からの意見も反映することができるわけです。また、観客の前で繰り広げられる裏舞台での暴露合戦にも、より緊張感が生まれています。

5:タイプ別のドラァグクィーン

バトル形式のリアリティー番組の面白さは、チャレンジの出来不出来”だけ”ではありません。他の番組と同様・・・居残れば居残るほど長期にわたる閉鎖された過酷な状況(家族や友人への連絡は禁じられていることが多い)での、出場者同士の不仲、確執、嫉妬、妬み、喧嘩などが、視聴者の興味を惹きつけるのです。ドラァグクィーンは、男性的な要素(好戦的な態度)と女性的な要素(策士的な頭脳)を兼ね備えているところがあるので、数人が集まったら確執が生まれるのは火を見るより明かなこと・・・また、アメリカのドラァグクィーンにはいくつかのタイプがあり、それぞれがお互いのタイプを牽制して認め合わないので、トラブルが起こるのは必然と言えるでしょう。

外見的な美しさとリアルネスを追求する「ビューティーコンテスト(ページェント)タイプ」は、フロリダ州やテキサス州などアメリカ南部に比較的多く、本物の女性以上に美しい(とは言っても体格はそれなりに男性的?)のが強みです。比較的、年齢的に若いドラァグクィーンであることが多く、若さと美貌を武器に普段チヤホヤされているせいか、性格的にわがまま放題、基本的に自己チューで、本番組ではトラブルメーカーになりがち・・・他の出場者から真っ先に嫌われることが多いタイプでもあります。


ナイトクラブでドラァグクィーンのショーで舞台に立つ経験の豊富な「プロフェッショナルタイプ」は、モノマネが得意だったり、歌が上手かったり、コメディアンとしてのセンスが優れていたり、パフォーマーとしての完成度が高いのが特徴です。「Old School/オールドスクール」と呼ばれるドラァグクィーンの伝統を継承し、キャリアも積んできているので、年齢的にも高めだったりします。ドラァグクィーンに必要な技術に長けているし、豊富な人生経験によって人望も厚く、本番組では出場者たちの精神的な支えとなっていく”キーパーソン”となることが多かったりします。


貧しい地区で育った「ゲトー(貧民街)タイプ」は、家出少年や親に捨てられた少年たちであることが殆どです。生きるためにドラァグクィーン(男娼として働くことも)になっている場合もあり、女性のフリをして男性客を欺くという・・ドラァグクィーンの悪いステレオタイプの原因になってきたことは否めません。年長者のドラァグ・クィーンを”ドラァグ・マザー”とするドラァグ・ファミリー=ハウスに所属していることが多く、同じハウスのメンバーは同じファミリーネームを名乗のることを習慣としていましたが、現在では、ハウスの存在意義も生活のサバイバルのためというよりも、仲間意識の強化が目的となってきているかもしれません。近年では、同じようなスタイルを持つドラァグ・クィーンが同じファミリーネームを持ち、”ドラァグ・ファミリー”を名乗る場合も増えてきています。


日本のオネエタレントの「ダイアナ・エクストラバガンザ」や「ナジャ・グランディーバ」は、ドラァグ・ファミリーのネームを拝借して(?)命名された芸名でしょう。この「ゲトータイプ」の厳しい現実については「Vouguing/ヴォーギング」を競う「Ball/ボール」を描いた1990年のドキュメンタリー映画「Paris is Burnig/パリ、夜は眠らない」で赤裸々に記録されています。

ステレオタイプのドラァグクィーンではなく・・・個性的であることを目指す「アートタイプ」は、ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコなどゲイクラブが細分化している大都市に存在することが多いようです。いわゆるドラァグクィーン好みの”ゴージャス系”ではなく”アヴァンギャルド系”のファッションを嗜好する傾向が強いかもしれません。当然のことながら・・・メイン・チャレンジの「ランウェイ・パート」のコスチュームも、テーマの解釈が独特で、リスクを負うことを恐れない独自性を追求していきます。しかし、攻撃的(?)に思われがちな外見に反して、化粧を落とした素顔は、意外なほどナイーブで繊細であることが多いようです。イジメられっ子として悲惨な少年時代を送ったという場合もあり・・・他のタイプのドラァグクィーンからは「バケモノ」扱いされたり、「変人」「コミック(お笑い系)」とバカにさるなど、番組内でも”イジメられっ子”的なポジションに追い込まれることが多かったりします。


6:ドラァグクィーンの楽しみ方

ドラァグクィーンの名前も”お楽しみ”のひとつ・・・出場者たちは番組内では(男性の姿でいる時も)本名ではなく、ドラァグネームが使われます。典型的なドラァグネームのひとつは「名前だけ」のドラァグネームでありまして・・・多くの場合、音の響きによってつけられていています。「Raven/レイヴン」「Jujubee/ジュジュビー」「Raja/ラジャ」「Willam/ウィラム」、言葉をもじった「Detox/デトックス」、ブランド名のスペルを変えた「Shannel/シャーネル」、地名を名前にした「Alaska/アラスカ」「Milan/ミラノ」などがあり・・・ファッションモデル的で、どこかしらエキゾチックな雰囲気を漂わせます。

ファーストネームとファミリーネームを語感で組み合わせた「Carmen Carrera/カルメン・カレラ」「Jessica Wild/ジェシカ・ワイルド」「Tyra Sanchez/タイラ・サンチェス」「Ivy Winters/アイヴィー・ウィンターズ」などは、いかにもストリップダンサーにありそうな名前だったりします。「Pandora Boxx/パンドラ・ボックス」「Jinkx Monsoon/ジンクス・モンスーン」などは、二つの言葉の意味を掛け合わせるというのも、ドラァグクィーンらしい捻りの効いたセンスです。「Latrice Royale/ラトリース・ロイエール」のように、ゴージャスっぽいネーミングは、まさに伝統的なドラァグクィーンらしさを感じさせます。

「Sharon Needles/シャロン・ニードルズ」「Honey Mahogany/ハニー・マホガニー」「Nina Flowers/ニナ・フラワーズ」「Rebecca Glasscock/レベッカ・グラスコック」などは、女性のファーストネームにドラァグクィーンらしい嘘っぽいファミリーネームを加えることで、独自の世界観を表現しているかのようです。「Sahara Devenport/サハラ・デヴンポート」「Manila Luzon/マニラ・ルゾン」などは、イメージで言葉を並べています。「Phi Phi O'Hara/フィフィ・オハラ」「Coutoney Act/コートニー・アクト」「Delta Work/デルタ・ワーク」などは、有名人の名前に似た音感で、イメージを掻き立てるのに役立っています。「Chad Michaels/チャッド・マイケルズ」のように、希に本名がドラァグクィーンっぽいこともあるようですが・・・一般的にドラァグネームは、ドラァグクィーンのアイデンティティーというだけでなく、如何に名前をもじってジョークにできるかというところも決め手となるので、なかなか奥深いものがあります。

舞台裏でのドラァグクィーン同士の戦いも見逃せません・・・ということで、第4シーズンからはスピンオフエピソード「Untucked/アンタックド」という番組も同時に制作されるようになっています。これは「メイン・チャレンジ」の「ランウェイ・パート」の後、出場者達が控え室(ゴールドルームとシルバールームがある)で審査を待っている間の様子を撮影したものなのですが・・・もうすぐ誰かが落選するという緊張感の中、必ずと言って良いほど喧嘩が始まるのです。さらに、RuPaul(ル・ポール)からのメッセージを託した「Pink Box/ピンクボックス」がプレゼントされて、時には意図的に喧嘩の種を提供したりするのですから・・・番組制作側も結構意地悪。時には、出場者の家族、恋人からのビデオレターなどを紹介する時もあり、お涙頂戴の演出となることもあります、なんだかんだで、”シスター”として出場者同士の絆を強めることにも、貢献しているようです。

ドラァグクィーン特有のスラングを理解することは「ル・ポールのドラァグレース」を楽しむためには必要なことかもしれません。「Read/リード」=相手の弱点を指摘すること。明らかな欠点を指摘するのではなく、皮肉とユーモアでキツイひと言というのが、上手な「リード」です。このスラングから「Put your reading glasses. Liberaly is open」(リーディング眼鏡をかけてちょうだい!図書館が開館するわよぉ〜」というような言い方をします。「Shade/シェイド」=侮辱のひとつの形で、リードすることによって「being shady/ビーイング・シェイディ−」という状態になるです。「No Shade/ノー・シェイド」は、侮辱し合わないこと・・・「What's the T/ワッツ・ザ・ティー」=「本音(真実)は何なの?」と腹を割って話し合う時によく使われます。

「Tuck/タック」「Untuck/アンタック」=男性器を股に押し込むことが「タック」で、それを元に戻すことが「アンタック」と言います。小さめの下着の着用やマスキングテープの使用によって、男性器の竿部分と玉部分の両方を股(下から後ろ?)に押し込んで、女性のような平坦な股間にするのです。アソコのサイズ次第では、それなりの苦痛を伴うようですが・・・レオタードやビキニのような股間がピッタリした衣装の時には「タック」することは絶対的に必要な作業であります。

何でも大袈裟に表現するのがドラァグクィーン・・・形容詞の最上級には事欠きません。「Eleganza Extravaganza/エレガンザ・エクストラバガンザ」=「エレガンス」の最上級。「fierce!/フィアス!」=「上出来」の最上級。「Sick'ning/シックニング」=「素晴らしい」の最上級。一昔前ならば・・・なんでもかんでも「Fabulous!/ファビュラス!」と表現されていましたが・・・現在では、死語(?)に近いかもしれません。形容詞の使い方次第では、世代がバレることがあるのです。

女性”らしさ”を表現している女装を「Realness/リアルネス」と言いますが・・・ドラァグクィーンの「リアルネス」は、本物の女性として「パス」すること”だけ”が、目的ではありません。あくまでも、ドラァグクィーン的なステレオタイプの”女性像”を強調しているということ・・・「1950年代のサントロペでバケーション中のファッションモデル」とか「パーク・アヴェニューでランチする上流階級のご夫人」とか、ほぼ”妄想”と”思い込み”(?)の世界観による”リアルな”スタイルだったりします。反対語として言われるのが「Fantasy/ファンタジー」・・・こちらは「パリコレのモデルがスーパーガールになったら」とか「エジプトのミイラのグラマーに生き返ったら」とか、現実ではまずアリエナイ設定によるスタイルのことです。

「Honey/ハニー」というのは一般的にパートナーなど(愛する人)を呼ぶ時に使われます。逆に、女性に対して侮辱的な罵倒する呼び名として使われるが「Cunt/カント」(女性器の意)・・・そこで、仲の良いドラァグクィーン同士は「ハニー」と「カント」を合成して「Hunty/ハンティー」と呼び合います。

ドラァグクィーンの多くは「ゲイ男性」・・・化粧を落とした時、男性として”も”(?)魅力的なドラァグクィーンのことは「Trade/トレード」と呼びます。ハンサムな男性が必ず美しいドラァグクィーンになるわけではありませんが・・・多くのドラァグクィーンは日常生活は男性の姿で過ごしていることが多いので、男としても魅力的というのは、さまざまなケースでアドバンテージがあるのかもしれません。

そして、ドラァグクィーン同士でセックスすることは「Kai Kai/カイカイ」と言って、ちょっとした秘事・・・一般的にドラァグクィーンは、より男性的な男性を求めることが多いので、ドラァグクィーンの間で肉体関係が発生することは、滅多にありません。ただ、希に”似た者同士”でくっついてしまうこともあり・・・このような場合、パートナー同士で化粧品、かつら、衣装、補正下着などを貸し借りできるという利点はあるでしょう。

7:「ル・ポールのドラァグレース」の意義

「ル・ポールのドラァグレース」の出場者はドラァグクィーンの中でも、一筋縄ではいかない強者揃い・・・エピソード1で全出場者が揃った時点では、正直、誰にもシンパシーを感じられません。しかし、エピソードを重ねていくうちに・・・化粧、かつら、衣装の下に潜んでいる”素”の人間性が垣間見えてきて、ひとりひとりの出場者が愛しくなってきてしまうのです。まんまと演出にハマってしまっているということですが・・・リアリティー番組の神髄は、その演出が多少意図的であったとしても、出場者の人間らしい”素”の弱い部分に視聴者が共感してしまうところなわけで、「ル・ポールのドラァグレース」はバトル系リアリティー番組として、これ以上ないほど正統派であると言えるでしょう。

RuPaul(ル・ポール)は、出場者すべての「ドラァグ・マザー」的存在として、また、ドラァグクィーンの「ロールモデル」として、「ル・ポールのドラァグレース」という番組を背負っています。番組内で繰り返し使われる音楽のすべてはRuPaul(ル・ポール)の曲の一部ですし、チャレンジで使用することのできるパンプスなどもRuPaul(ル・ポール)プロデュースによるものだし、番組内のルールもRuPaul(ル・ポール)の気持ちひとつで変更可能と、まさにRuPaul(ル・ポール)カラー一色なのです。

古い友人を大切にすることで知られているRuPaul(ル・ポール)は、本番組に多くの友人をスタッフやキャストに配しています。審査員のミッシェル・ヴィサージュとサンティノ・ライスとは、20年以上の付き合いらしいですし、RuPaul(ル・ポール)のヘア&メイクを担当するMathu(マヒュー)、コスチューム担当のZaldy(ザルディー)らとも、メジャーデビュー以前からの付き合いだそうです。番組内で出演するカメラマンのMike Ruiz(マイク・ルイズ)にしても、ダンスの振り付け師のCandis Cayne(キャンディス・ケイン)にしても、古い友人・・・また、最近その存在を公言したオーストラリア人のボーイフレンド/パートナーのGeorge LeBer(ジョージ・レ=バー)とは20年来の仲であります。「ル・ポールのドラァグレース」という番組は、RuPaul(ル・ポール)に集められた長年の友人たちに支えられているのです。

RuPaul(ル・ポール)にとって、深夜のテレビトークショー番組「アセニオ・ホール・ショー」に出演することは、大きな節目となるようです。約20年前、ブレイクのきっかけになった出演時には、ド派手なドラァグクィーンの姿でしたが...今年(2014年)の出演の際には、あえて男性の姿で登場しました。ドラァグクィーンのRuPaul(ル・ポール)と男性タレントとしてのRuPaul(ル・ポール)を使い分けるというのも、RuPaul(ル・ポール)らしい選択と言えるでしょう。

2014年/アセニオ・ホール・ショー

現在、世界中のドラァグクィーンの中でも、圧倒的な美貌と存在感を誇るRuPaul(ル・ポール)でありますが・・・ドラァグクィーンとしての自己表現というエゴや、ナルシシズムの自己満足を感じさない器の大きい人格者であります。「ギャラ貰わないとドラァグクィーンにはならない!」と冗談っぽく公言していますが・・・これは、ドラァグクィーンを真面目にとらえ過ぎないバランス感覚に富んだ発想を持っているからに他なりません。また、外見的な完璧さを求める努力とプロフェッショナリズムの照れ隠しかもしれません。

ドラァグクィーンというのは、ゲイカルチャーが長年愛おしんできた文化をモザイクのように集めた”パロディ”芸術であることを、誰よりも理解して体現しているのがRuPaul(ル・ポール)だと、ボクは思うのです。

RuPaul(ル・ポール)という”ひとりの人間”の人生の集大成と言える「ル・ポールのドラァグレース」でありますが、RuPaul(ル・ポール)自身の再ブレイクを果たしただけでなく・・・”ドラァグクィーン”という存在への理解と認知度を高めることに貢献し、ドラァグ・カルチャーをアメリカ一般人のメインストリームに浸透させ続けている画期的な番組といっても過言ではありません。

オネエタレントが当たり前のようにテレビで毎日のように観られる日本で、ぜひ「ル・ポールのドラァグレース」を放映して欲しいと思います。スラングの翻訳など敷居は決して低くはありませんが・・・英語が堪能らしい(?)ミッツ・マングローブが解説者を努めるというのは、どうでしょう?できれば・・・マイナーなケーブルチャンネルとかではなく(フジテレビの有料配信のNEXTチャンネルで、シーズン1が放映されていたことがあるらしい)地方局(テレビ東京とか、東京MX?)のプライムタイムで、実現して欲しいものです!

「ル・ポールのドラァグレース」
原題/RuPaul's Drag Race
2009年よりLOGO TVにて放映
出演 : ル・ポール・チャールズ、ミッシェル・ヴィサージュ、サンティノ・ライス、ビリーB
2016年4月よりNetflixにて配信開始



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2011/09/14

”正直者”より”嘘つき”が好きになったわけ・・・「二号さん」という立場の上に、結局は捨てられてしまったの!~アイルランド系アメリカ人「B」~



経験がそれほどない若いときは、恋愛に関しても、セックスに関しても、結構”純粋”ものです。まぁ、若いときからずっと”淫乱ヤリマン”だぜぇ~っていう強者もいるかと思いますが・・・セックスに関する情報なども限られていた昭和”に育ったボクからすると、お互いに好き合っている者同士が付き合ってからセックスするものという既成概念に縛られていたところはありました。それは、多少なりとも「結婚」というストレート社会での表向きのルールに無意識に洗脳されていたというところもあったのかもしれません。

1980年初頭にニューヨークに移り住んだ18歳のボクの貞操感覚は、当時のティーンエイジャーとして特に保守的だったわけではなかったと思いますが・・・エイズ以前のニューヨークのゲイシーンは、ゲイの人権運動とフリーセックスの精神で、ガンガンと”やりまくり”が当たり前。週末に出会ったワンナイトスタンドの相手の数を、日曜日のブランチで友人たちと競い合うなんていうのが、当時はごくごく普通のゲイライフだったのでした。ただ、18歳のボクにとっては、そう易々と受け入れたわけでもなく・・・ゲイの友人たちからは「お固い子」として、レッテルを貼られていました。

そんなボクですから・・・付き合っている人(セックスしている人)がいるのに別な人とセックスするような「浮気」はアリエナイし、まして、恋人と同居している人とセックスしたりする「浮気相手」になるなんて、絶対にアリエナイと思っていました。

「B」とは、友人のパーティーで知り合いました。アイルランド系によくいるガチムチ体型にフルフェイスの髭は、まさに「熊系」。それでいて、キラキラしたブルーの瞳は少女マンガの夢みるキャラクターのようで・・・「B」の人柄の良さが現れていました。次の週末には食事に行こうとトントン拍子で、デートも決まりました。最初のデートに選んだレストランは、当時ボクの住んでいたアパートのほぼ正面にあるスペイン料理店・・・もしかして、食事後には「なるように、なってしまうのかも〜!」と、一人で勝手にドキドキしていたのです。たった一度しか会っていないのに、ボクはすっかり「B」と付き合うことになるのだろうと思い込んでしまっていたのでした。

食後のデザートが運ばれてきた頃「B」は、ボクに打ち明け話をしてきました。実は大学時代から付き合っている「彼」がいて、その「彼」とは15年ほど一緒に暮らしていること・・・ただ、ここ10年はカラダの関係は一度もないというのです。一度も浮気はしないできたけれど、そろそろ限界を感じ始めていた・・・そんなタイミングで、ボクと知り合ったということ。セックスだけではなく、もう一度「恋愛をしたい」と切実に思っている・・・とも。ただ、一緒に住んでいる「彼」とは、今後も同居を続けるつもりでいることも告げられたのでした。

「B」の告白は、今振り返って思えば・・・自分勝手な言い分ではあるのですが、当時のボクは、その正直さに心を動かされてしまったのです。それまでは「浮気相手」になることには、自尊心が傷つけられたものでしたが・・・「B」と「彼」の関係は恋愛としては破綻しているから、セックスを含んだ恋愛関係という意味では「浮気」ではないのではないか?・・・なんて、「B」との関係を肯定するためには、自分に都合の良いように考え始めていました。すでに「B」のことが好きになってしまったボクにとって、これこそが典型的な「二号さん」的な立ち位置ということさえ理解していなかったのです。

最初のデートから、一週間後に「B」をボクのアパートに招待しました。当時、セックスの経験が豊富でなかったボクにとっては、相性がどうのこうのというのは分からなかったのですが・・・「B」との優しいセックスに大満足していたのでした。それからは、週に一度は「B」がボクのアパートに来て、デートとセックスを繰り返しました。ただ、どんなに遅くなっても「B」は、ボクの部屋に泊まることはしませんでした。ニューヨーク市内は運行間隔は1時間に2本とかになるものの、基本的に24時間サブウェイは動いているので、「B」はタクシーを使わなくても帰宅することができたのです。

毎週「B」と会うようになると・・・お互いの育ちのこと、仕事のこと、夢のはなしなど、さまざまなことを語り合いました。時には「彼」との生活の不満も耳にすることもありました。15年一緒に暮らした時間には敵わないけれど・・・今の「B」のことは、同居している「彼」よりも、ボクが一番分かっているという自負が次第に生まれてきました。「B」は、ボクと「B」との関係のことは「彼」には秘密にしていたのですから。「B」がボクに対しては100%正直であること・・・それがボクにとっては「B」の”愛の証”だと信じていたのです。

そんな関係が一年ほど続いたころ・・・夜中の2時だろうと帰宅する「B」の後ろ姿をみて、とめどなく切なく感じ始めたのです。週に一度だけはボクと「B」は、恋人同士のように過ごしているけど一夜を過ごすことはなく・・・ボクは「B」と「彼」の事情を理解させられているけど「彼」はボクの存在さえ知らない。自分はまぎれもなく「二号さん」であることを実感させられたのでした。

それから、ボクは徐々に「B」に対して、ボクの部屋に泊まらないことや、ボクのことを「彼」に告白しないことを、なじるようになりました。「B」と「彼」の同居生活を壊したいとは思っていませんでしたが・・・ボクと「B」の関係を「彼」を含む「B」の周りの人たちにも認知して欲しいという欲求が生まれてきたのです。しかし、それは絶対に敵わぬ思いだったのでした・・・「B」は「彼」とは別れる気なんて全くなかったのですから。

「B」と「彼」は、他の人とセックスをしたり、恋愛をしたりしているのではないかとは、お互いに察していましたが、腹を割って話し合って、性的にオープンな関係にするつもりは、まったくなかったようです。「Don't Tell, Don't Ask/話さず、尋ねず」でルールで、二人の同居しているアパートに誰かを連れ込んだり、誰かのところに泊まったり、誰かとセックスしたことを話したりというのは、お互いにしないことになったいたのでした。「B」と「彼」は、まるで目や耳を塞ぐことで成り立っているような”偽りの関係”・・・それに対して、ボクと「B」は、お互いに正直にすべてを話している”真実の関係”であるとボクは思い込んでいたのですが、それは突然の思いもよらない事態で”大間違い”であったことをボクは知ることになります。

ある晩、突然「B」から別れを告げられたのです。「二号さん」の立場を甘んじてさせられていたボクとしては、別れを告げるのは自分でなくてはならないと勝手に思っていました。それは、ボクにとっては「二号さん」としてのプライドだったのですが・・・プライドを持つなんて、唾を上に向かって吐くような行為なんだと思い知らされることとなったのです。

ボクはいつしか「B」にとっては、罪悪感を感じさせる存在になってしまったのでした。「B」からすれば、すべてを話して納得した上でボクは付き合っていたはずなのに、ボクと会うたびに責められて罪悪感を感じさせられてしまうと。「罪悪感」とを感じる関係は、絶対に長続きはしません。また、ボクの立場からの欲求も理解できないわけでもなかった「B」にとって、次第にボクと付き合うことが苦痛になっていったのかもしれません。

「二号さん」という立場に甘んじた上に、最終的には振られてしまうなんて・・・ボクとしては、どうしても納得することが出来ませんでしたが「B」の決心は変わりませんでした。「納得するように説明して!」と訴えるボクに対して、言葉を変えて繰り返し説明をする、どこまでも優しい「B」・・・かすかであっても復縁する希望を持ちたいボクにとっては、「B」の誠実な対応がさらにボクを傷つけたのです。

数時間後、ボクは「B」に帰宅を促しました。もう、これ以上話し合っても、何も変わらないと悟ったのです。ただ、その翌日から「B」からボクの様子を心配して、毎日電話がかかってきました。もしかすると、ボクが自殺とかするのではないかと思っていたのかもしれません。ボクの心の傷は「B」と話すことで癒されることは永遠にないと思えたので・・・「もう二度と電話しないでくれ」と伝えたのでした。

「B」と付き合ったことでボクが学んだのは・・・一番大事な人には、嘘をつくっていうこと。

守りたい関係だからこそ、その関係を守るために、人は嘘をつくもののようです。それならば、最初から嘘をつくようなことをしなければ良いのに・・・という話なのですが、それでも嘘をつかなければいけないようなことをしてしまうものだったりします。それは「浮気」とか「セックス」に限ったことではないかもしれないけど・・・守りたい関係を脅かすような不愉快なことではあるようです。「二号さん」や「セクフレ」には「相方いるんで・・・」とか、「結婚している」とか、前もって言っておくっていうのは”誠実さ”や”優しさ”とかでは全然なくって・・・嘘をつくという”重荷”さえも抱えないということ。バレるような嘘をついたり、白々しくシラをきり通すほど、絶対に失いたくない・・・そんな守りたい関係の人に、ボクはなりたいであります。

だから、ボクは「正直者」よりも「嘘つき」が好きになったのです。

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2011/02/05

もうひとつのゴールデングローグ作品賞受賞作・・・男前アネット・ベニングと尻軽ジュリアン・ムーアのビアンカップルの”アメリカンファミリー”のかたち~「キッズ・オールライト」~



先日、発表された第68回ゴールデングローグ賞作品賞受賞作・・・といえば作品賞、監督賞、脚本賞、オリジナル作曲賞の4部門を獲得した「ソーシャル・ネットワーク」が話題でありますが、ゴールデングローブ賞映画部門(テレビドラマ部門というのもある)の作品賞、主演女優賞、主演男優賞というのは、ドラマ部門とコメディ・ミュージカル部門と分かれているのです。
コメディ・ミュージカル部門で作品賞と主演女優賞を受賞したのが、日本での劇場公開もゴールデンウィークに決定した「キッズ・オールライト/原題 The Kids Are All RIght」であります。
すでにアメリカではDVD/Blu-rayが発売されているので、アメリカ版を観ました。

アネット・ベニングとジュリアン・ムーア扮するレズビアンカップルが、同じドナーの精子によって、それぞれ子供をもうけた家庭のはなしなのですが・・・まず日本では”ありえない”状況でしょう。
精子バンクに登録すること自体が、医学生ならともかく・・・一般的にはまずないことだから。
しかし1980年代後半には、アメリカの有名大学(プレッピースクールと呼ばれるような)に通う男子学生が精子バンクに登録しているというのは”、それほどありえないこと”ではなかったという記憶があります。
当時は、精子提供者の匿名保持が原則だったので、お小遣い稼ぎに提供する男子大学生っていうのがいたようです。
提供者の容姿、人種、知能指数などによって価格のランクづけされているというのが違和感を感じますが・・・どうせ生むなら「見た目の良い」「頭のいい」「自分と同じ人種」の子種が欲しいという女性がいるのも理解出来ます。
ただ、精子を条件だけで選別というのは、人種差別に繋がる問題を含んでしまうことは否めませんが・・・この映画は、そういう倫理的な問題を描こうとしているわけではありません。

「キッズ・オールライト」では、レズビアンカップルと18歳の娘と15歳の息子の4人家族を、普通のアメリカンファミリーのかたちとして描いています。
ゲイやレズビアンのカップルに育てられている子供なんて「さすがにアメリカでも特殊なのでは?」と思われるかもしれませんが・・・カリフォルニアやニューヨークでは、結構普通に存在しているのです。
ボクの知り合いでも・・・ゲイの父親と父親のパートナーに育てられた友人というのもいたし(代理母ではなく、以前彼の父親は女性と結婚していて養育権を持っていた)、海外から子供をアダプトしたレズビアンカップルというのもいました。
ゲイカップルの場合には、自らが精子提供者となって、妊娠して生んでくれる女性を見つけるということになるわけですが・・・・ふたりの精子を混ぜて、血縁関係のある父親がどちらかハッキリさせずに育てるということもあると聞いたことがあります。
ただ、そう簡単に子供を生む”だけ”の女性を見つけるというのは難しいようだし、実際に出産してから子供を手放してくれなかったりと・・・トラブルになることもあるようです。
レズビアンカップルの場合には精子バンクで精子を調達出来れば、自分で妊娠して生めば良いので、ゲイカップルよりも自分と血のつながった子供を持つことは敷居が低いのかもしれません。

子供が18歳になると精子提供者である父親と会う権利があるという法律があるのですが・・・これは、これでトラブルになるという話を聞いたことがあります。
元々、匿名保持を条件に精子を提供している場合が殆どなので、会ったこともない女性が自分の精子で生んだ子供がいきなり目の前に現れて「あなたの子供です」と訴えられても愛情もひったったくれもないということはあるようで・・・、何らかの繋がりや自己のルーツを求める子供にとって、厳しい現実を直視しなければならないこともあるということなのです。
「キッズ・オールライト」のように、精子提供者の父親と子供達が良い関係を結べるというのは、現実的には稀なことなのなのかもしれません。
その上、その父親と母親のひとりであるジュリアン・ムーアが肉体関係を持ってしまうのですから・・・展開としては、かなりぶっ飛んでいます。
同じ同性愛者でもゲイとレズビアンというのは違うのかもしれませんが・・・何十年もゲイとして同性結婚をしていた男性が、50歳を過ぎて女性と関係を持つというのは非常に考えにくいです。
ただ、この映画はレズビアンカップルの生態描くことを目的とした”同性愛映画”ではなく、また精子提供者の精子を使って同性愛カップルが子供を持つことの問題提起でもなく、アメリカの新しい「家族」のかたちを描いている映画なので、生物学的な父親という存在が現れることによって起こるレズビアン家庭の危機を描くドラマには必然なのでした。

下手すると重くなりそうなテーマをコメディとして成立させているのは、父親役的な存在であるニック演じるアネット・ベニングのクールでシニカルな演技かもしれません。
シリアスさとコメディが紙一重という感じで・・・脚本のサブテキストを見事に表現しています。
ニックはレズビアンだけど保守的・・・ある意味、古臭いタイプの父親のような女性なのですが、その分家族を守ろうとする母性愛も大きくて、良くも悪くも男前な家長といえる存在です。
ニックは、ジュリアン・ムーアの演じるジュールスには「専業主婦」のように家庭を守って欲しいのですが・・・ジュールスはカリフォルニアによくいそうな元サーファーガールで落ち着かない感じであります。
あれこれ違う仕事にチェレンジしても結局成功していな様子・・・これまた、同性カップルにありがちな片方がもう片方に経済的にパートナーに依存してしまいがちという問題を絶妙に描かれています。
精子提供者の父親ポールを演じるマーク・ラファロは、若いガールフレンドと遊んでバイクを乗り回すセクシーで自由奔放な中年男・・・子供たちやジュールスが惹かれてしまうというのも、なんとなく納得できてしまうのであります。
ポールの出現によって、ニックを家長とする一家の危機となるわけですが・・・最後はタイトル通り「子供たちは大丈夫」というエンディングとなります。
実は、リア・チェロデンコ監督自身も、レズビアンで精子バンクを利用して子供をもうけたそうで、彼女自身のリアルな体験が生かされているのでしょう。

「子供を育ててファミリーを築くことと、親のセクシャリティーというのは関係ないよね!」

・・・という当たり前のことを改めて気付かせてくれるのです。

「キッズ・オールライト」
原題/The Kids Are All Right
2010年/アメリカ
監督 : リサ・チェロデンコ
脚本 : リサ・チェロデンコ、スチュアート・ブルムバーグ
出演 : アネット・ベニング、ジュリアン・ムーア、マーク・ラファロ、ミア・ワシコウスカ、ジョシュ・ハッチャーソン


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2010/12/16

怒濤のような酷評の数々!・・・水嶋ヒロだから叩かれてしまうという逆差別の嵐~「KAGEROU」齋藤智裕著~


第5回ポプラ社小説大賞受賞作「KAGEROU」ですが・・・水嶋ヒロが著者だったということで、発売日にいきなりの43万部突破(すでに4刷)で、さらに25万部の増刷もされるということなので、おそらく来年のベストセラーには上位に入ることは確実でしょう。
ボクも報道の盛り上がりに負けて、さっそく購入したわけですが・・・発売日の夜にはアマゾンのレビューは酷評の嵐!という叩かれ方をしています。
発売二日目にして数百件のレビュー(殆どは☆ひとつという酷評)というのは、ある意味スゴイことかもしれません。
もし、この本をこれから購入しようと考えているなら、もう少し我慢することをお奨めします・・・BOOK OFFで100円で山積みで売られるのは、そう遠い日のことじゃないはずだから。

水嶋ヒロという芸能人には、ハッキリ言って、ボクはあまり興味ありませんでした。
ここ1、2年、なんとなくテレビで観るこのある顔ぐらいしか認識していなかったのです。
歌手の綾香との結婚記者会見の報道で、初めて名前と顔が一致したぐらいでした。
水嶋ヒロのソツのない対応というのが、あまりにも芸能人として優等生的ではありましたが・・・バセドー氏病の治療に専念するという綾香を守っていくという覚悟に、物事を斜に構えてみるボクでさえ、チャチャを入れるような気持ちにならないほど良い印象を持ったのでした。
結婚後、水嶋ヒロは、引退する綾香のためにも、俳優としてバリバリ頑張っていくのだろうと思っていたら、秋頃に所属事務所を辞めて執筆活動宣言というのをします。
この時に、まさか数ヶ月後に処女作で賞を獲るというデキすぎた展開になるとは、誰が予測したでしょうか?
このポプラ社小説大賞受賞の経緯が、報道されているとおり、審査員もポプラ社側も水嶋ヒロが著者であったということを全く知らずに、この作品を大賞に選んだとしたら、まるで宝くじを当てるぐらいラッキーな出来事だったと言っても良いと思います・・・ポプラ社にとっても。
もしも、これが広報的に仕組まれていたことだとしたら・・・我々は「上手にやられた~!」と降参するしかありません。
真実はどうであれ、「KAGEROU」に関してのプロモーションは巧みであることには変わりなく、その「上手さ」に対して憤慨するのは、少々お門違いと思うのであります。

さて、この「KAGEROU」を読んでみて、ボクが正直に感じたのは”それほどは酷くはない”ということです・・・2000万円が賞金の小説大賞に値するような作品かと言われれば、確かに疑問を感じるデキではあります。
佳作ぐらいであれば、信じられたとは思いますが・・・。
文学賞に応募された作品なんだから、それほどの長編でないのは当たり前のこと・・・一冊の本としてボリュームがなくても仕方ありません。
確かに行間はヒジョーに広く取っているし、上質の真っ白い分厚い紙に印刷されているので「水増し感」を感じないわけではありません・・・しかし、安っぽい作りで薄っぺらい本をそこそこの価格で出版されるよりは、1400円の本としては”誠実”な商品であるような気もします。
文章に、それほどの技量を感じさせないところが・・・「やっぱり、水嶋ヒロ本人が書いたのではないか」と思わせるという、逆の意味での信憑性が高められているところは、妙なことではあります。
”小説の新たな領域に挑んでいない”文学的な技巧はないということろが、普段、小説を読まない人にとっては読みやすかったりするのかもしれません。

「命の大切さ」をテーマに、改めて特別なメッセージのように伝えられてもねぇ~って気もしますが・・・「哀切かつ峻烈な命の物語」と宣伝するほどの重いトーンの小説ではなく、若者らしい短い人生経験からの薄っぺらい感動に、ボクのような”おじさん”は拍子抜けします。
中盤までは、寒い親父ギャグや、コントのようなやり取りが続きますが・・・物語の導入部と設定のアイディアは、星新一のショートショート、または、テレビの「世にも奇妙な物語」にありそうな、ちょっと良い感じのアイディアだと思いました。
自殺しようとした主人公に近づく黒服の男(藤子不二雄の「黒イせぇるすまん」を思い起こしたりもしましたが、マイケル・ジャクソンのビリー・ジーンのスタイル)・・・実は、この男の正体は自殺者に臓器のドナー提供を求めるコーディネーターであったのです。
「悪魔との契約」モノのジャンルですが、ファンタジーっぽさよりも、妙に現実的な辻褄の合わせがあったりして、それにリアリティーを感じるか、薄っぺらさを感じるかが「好き、嫌い」の分かれ道かもしれません。
臓器を必要とするレシピエントと臓器を提供する側との人間関係という、面白くなりそうな着眼点なのでありますが、いかんせん後半は中途半端に甘ったるい展開・・・おそらくエンディングで「まぁ、びっくり!」という反応を読者に期待しているようだけど、そこまで書き切れていない印象でありました。
水嶋ヒロは「KAGEROU」の映画化をしたいようだけど、変な風に原作者として介入せずに任せて、映画は映画として”ひとり歩き”で製作された方が、まだ観れる作品にはなりそうです。
芥川賞などと違い、あくまでも素人が応募している文学賞ということを考慮する必要はあります。
他の応募作品と比較することはできないので、他の作品を押さえて「KAGEROU」が大賞に選ばれたのかを論じることはできませんが・・・芸能人の水嶋ヒロが著者でなかったら、ここまで酷評されるほどの作品でないような気がするのです。

水嶋ヒロは、親仕事の関係によりスイスからの帰国子女で、高校時代にサッカーの日本全国大会にも出場し、デビュー数年でイケメン俳優として人気を得て、初めて応募した小説が受賞してベストセラーになる・・・と、経歴だけをみれば、デキすぎた人生を歩んできた「ちょっと厭味なヤツ」に思えます。
最近、スイスの子供時代は外国人ということでイジメ体験をしていて、それほど海外生活では恵まれていたわけではないことを告白をしました。
日本で暮らす日本人というのは、海外に生活している日本人に対して、海外生活をしているだけで恵まれていると思われて、過剰に羨望の目で評価するところがあるようです。
海外生活を自慢するようなブログをやっている海外に暮らしている日本人は多くいますが・・・日本人に羨ましがられることで、海外での孤立や、日常生活の厳しさを乗り越えているのではないかな・・.と、ボクは痛々しく感じてしまいます。
ボク自身は20年ほど海外で生活していましたので、ボク自身の体験と周りの日本人をみて感じることがあるのですが・・・最初の数年間(1~3年?)は、とりあえず海外の方が素晴らしくて、日本ってダメだと考え方になりがちです。
しかし、数年(4、5年目あたり?)経って周りで起こっている状況がよく理解出来るようになってくると、徐々に言葉や習慣の壁を感じたり、時には差別的な扱いを意識できるようになります。
自らが意識しないレベルでのストレスを抱えながら、海外での日常生活を送ることになるので・・・この時期になると、いかに自分は海外生活に溶け込んでいるかを、日本人に対してアピールするような行動が目立つようになります。
日本語の会話に、ついつい外国語が混ざってしまうというのは、この時期の典型的な症状かもしれません。
帰国子女というと、それだけで日本人にとって羨望の対象になるがちですが・・・実は内面的には、日本にしか暮らしたことのない日本人に理解されにくい、孤独な苦しみを抱えていることがあるのです。

さて・・・帰国子女の水嶋ヒロは日本帰国後には、彼のルックスによって、芸能人として成功していくという恵まれた人生を歩んでいたかもしれません。
しかし、外見的に恵まれているからといって、他の才能がないとか、実は性格が悪いとか、決めつけるのも「逆差別」になります。
水嶋ヒロの「ツイッター」でのやり取りを閲覧する限り、謙虚で感謝を怠らない「普通にいい人」という印象で、ツッコミようのない好青年なのであります。
ここまで、完璧にソツなくされてしまうと、人間としての面白みというのは、正直あまり感じられません。
ボクの勝手な推測かもしれませんが・・・水嶋ヒロという人は、真面目で謙虚な普通の人なんだろうと思います。
ただ、彼は多くの人が「イケメン」と思うようなルックスの持ち主人であるということが、彼の一番の個性であったということだったのです。
齋藤智裕が水嶋ヒロだからといって、過剰な高評価も不自然だし、頭ごなしに酷評というのも意地が悪すぎます。
水嶋ヒロが、ルックスとは関係のない何かを成し遂げようとする時・・・その一番の障害になるのは、彼のルックスなのかもしれません。



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2010/12/15

「共同購入クーポン」って貧乏ったらしくない?・・・お得感を求める客は決して正規価格の客にはならない



テレビのニュースなどで「共同購入クーポン(GROUPONやボンパレなど)」の特集などを観ていると、ため息をついてしまいます。
「たくさんの人が買うことで安くなる」というギミックのビジネスモデルは、楽天市場とかでも以前から存在していたのと思うんだけど、なんでクーポンという面倒な割引ビジネスが、急に流行っているのか、ボクには理解出来ません。
「お安くなっている」ということだけで、瞬間的な購買意欲が湧くだけであって、本当に欲しい商品かどうかというのは怪しいもの・・・結果的には、いらないもの、不要なものを買っただけということになることも多々ありそうです。
それに、あれやこれや、定価から大幅に値引きされているとなると・・・もともと定価って「どうやって設定しているの?」という疑問さえ湧いてきます。
アパレルメーカーだって、アウトレット店舗向け商品というのを企画生産していて、そこには「定価」からの値引率というは、実際には存在していないんだから・・・。

ボクがアメリカに在住していた1980年代~90年代のことですが・・・アメリカの主婦が大きな労力を費やすことに、クーポンの集めというのがありました。
パソコンもネットもない時代でありますから、クーポンと言えば・・・新聞や雑誌の広告ということになります。
主婦向けの雑誌は、まるでクーポン雑誌のように、ページの4分の1ぐらいはクーポンで占められていたような印象さえありました。
このクーポンというのは、お店側が発行してるのではなくて、メーカーによって発行されており、特定の商品に対して「50セントOFF」とか「3つで3ドル」とかになるのです。
マクドナルドなどのファーストフードのお店のクーポンと同じような仕組みと思って良いでしょう。
クーポンの種類はかなり豊富で、生鮮食品以外であれば、さまざま商品を網羅しています。
ただ、クーポンの発行されている商品が、必ず自分の行くお店やスーパーマーケットで販売されているかどうかは分かりません。
例えば、スパゲティソースのクーポンだとすると、あるメーカーの特定のフレーバーということもあったりするのです。
クーポンを常に利用するためには、とにかく多くのクーポンを持っている必要があるわけで・・・商品別に整理するために工夫された「クーポン専用」のポーチも売られているぐらいんなのです。
日本のスーパーマーケットのように店独自のちらしというのも存在しないわけではありませんが、それよりも何たってクーポンでメーカー割引というのが主流のようでした。
賢い節約主婦は、パンパンに膨らんだクーポンポーチを抱えて、スーパーマーケットの店内をお目当ての商品を探して巡ることになるわけですが・・・それはそれで労力を必要とすることのように思います。
アメリカ人は安く買うための努力というものを惜しみません・・・良く言えば「買い物上手」悪く言えば「ケチ」ですが、「ケチ」という称号だって、決してアメリカ人にとって侮蔑ではないようなのです。


20年間のアメリカ生活で、ボクは一度もクーポンを使ったことはありません。
それは、ボクが「いい格好しい」なのか、「見栄っ張り」なのか・・・値切るとか、安く買おうとする行為に、ある種の”卑しさ”を感じてしまうからなのです。
レストランなどで”常連面”して、特別なサービスや、お勘定を安くしてもらうのも嫌い・・・なんとも「損な性格」だとは思いつつ、どうしても守りたい”一線”なのであります。
そんな考え方ですから、どう間違ってもボクが「共同購入クーポン」を利用することはありません。
テレビ番組で観るかぎり・・・クーポン購入後にウェブブラウザのページを印刷して、それをお店に持参して、クーポンを利用するような仕組みのようです。
入店するやいなや、クーポンを差し出すなんて・・・考えただけでも恥ずかしい。
自ら「私、安っぽい客です」と、店側に宣言しているようなもんじゃありませんか!

有名ブランドに努める友人から聞くのは、ファミリーセールやサンプルセールに来る客は、決して本来の正規の客とはまったく違う客層だということ・・・共同購入クーポンを利用する人が、その後に正規価格を支払う顧客になるとは”稀”だと思います。
お得感を貪欲に求めているクーポン利用者は、クーポンをなしでお店を再び訪れるよりも、他のクーポンを使えるお店に行くってだけではないでしょうか?
たとえ”赤字”でも客が来てくれるクーポンの方が広告より効率がいいという、お店側の貧乏ったらしい発想もあるわけで・・・どっちもどっちなのかもしれません。
お店側も”したたか”に、割引を前提として収益を計算してるわけです。
いつの時代にも「お得感」を売りにさまざまなビジネスのギミックが考案され、少しでも得をしようとする客層には必ず支持されるということです・・・そして、それに便乗しようとする商売も消えることはないのですから。
景気のいい話がない上に・・・貧乏ったらしいクーポンとか流行っているという噂を聞くと、ボクのテンションはさらに下がってしまうのであります。

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2010/11/30

ミュージックビデオで振り返ってみたら、マイケルを聴かなくなった理由を思い出しました~マイケル・ジャクソン「VISION」~



去年の今ごろ(2009年末)はマイケル・ジャクソンの「THIS IS IT」の劇場公開で、世界中は大騒ぎしていました。
ボクは劇場にまでは足は運ばなかったものの、今年1月のブレーレイ版を発売日に購入して、改めてマイケル・ジャクソンの才能には圧倒されたものでした。
世の中がマイケルの偉大さに感動し、亡くなった事実に改めて悲しんでいる中・・・ボクはどこか冷めたところもありました。
先日(2010年11月24日)に、マイケル・ジャクソンの全てのショートフィルム(プロモーションビデオ)を収録した「VISION」というDVDボックスが発売されたのですが・・・これまた、発売日にボクは購入しました。
結構なファンじゃないか・・・と思われてしまうでしょうが、実際にDVDを観てみたら収録されている楽曲で知っていたのは半分ほど。
リアルタイムでマイケル・ジャクソンの音楽はずっと聴いてきたつもりではありましたが、よく考えてみればキチンと聴いていたのは80年代半ばあたりまでだったのです。
やはり・・・あの時感じた「違和感」以降、ボクはマイケルの音楽には、それほど関心を持つことが出来なかったということだったのかもしれません。

ボクが初めてマイケル・ジャクソンの音楽を知ったのは、1979~1980年ごろディスコに出掛けるようになってからだと思います。
六本木のスクウェアビルのディスコ(名前は忘れたけど)で「今夜はドント・ストップ/Don't Stop 'Till You Get Enough」で踊ったりしてた記憶があります・・・といっても、当時、マイケル・ジャクソンの曲であったことは分かっていなかったのですが。


その後(1981年9月)にニューヨークに渡り、音楽好きの日本人の友人らに影響されて、ボクは洋楽を聴くようになったのですが・・・「これが好き!」というほど自分の趣味が定まっていたわけではありませんでした。
BOW BOW WOW、Earth Wind & Fire、Billy Joel, ELOなどのコマーシャルな音楽を聴きながら、マッドハウス、アンダーグラウンド、ダンステリアなどのクラブにも出入りしたりして、何でもかんでもチャンポンだったのです。
ただ、急にいろんな音楽を聴き始めたボクにとって、マイケル・ジャクソンという存在は、徐々にコマーシャル過ぎる存在に徐々になっていったのでした。

アルバムの「スリラー」が発売された1982年には、ボクはメイン州のプレップ・スクールの寮で暮らしていたので、実際にアルバムを購入したのは、発売されてから時間が経ってからだったと思います。
当時始まったばかりのMTVは、今のような若者向けの番組を製作放映していたわけでなく、まさにミュージックビデオばかりを流す専門チャンネルらしかったのです。
ただ、まだミュージックビデオ自体の数も少なかったので、同じビデオを繰り返し放映していたような感じでした。
それに、ケーブルテレビ自体がそれほど一般的でなくて、MTVを視聴出来る環境を持っているのは、明らかに中産階級以上の豊かな人ではあったのです。
確かにマイケル・ジャクソンが、ヘビーローテーションで放映された初めての黒人音楽でしたが、すでに「VH1」という別のミュージックビデオ専門チャンネルも存在しており、こちらでは黒人音楽を放映していました。

「Billie Jean」のビデオは、ある意味、衝撃的でした。
当時のビデオは、今からすると陳腐なCG的な効果を使ったスタジオ撮影か、ミュージシャンが街中とか、部屋の中で歌っている・・・程度のクオリティが殆どでした。
映画のようにセットを作って演出された、費用をかけたビデオは珍しかったのです。
ただ、当時から歌詞の内容(自分の子種じゃないと訴える唄)とは、まったく関係ないコンセプトの映像は妙に感じたものでした。

次に公開された「Beat It」は、本当の意味で「ミュージックビデオ革命」だったと言って良いのかもしれません・・・。
明らかに「ウエストサイド物語」からインスパイアされたダンスの演出でしたが、サビに合わせてバックダンサーらと動きを合わせて踊り始める瞬間には、誰もがゾクゾクして興奮したものです。


そして「Thriller」・・・このビデオが放映されることが、MTVのイベントでした。
ただ、ボク自身がテレビ(それもケーブルテレビ)を持つようになるのは1987年なので、どうやってミュージックビデオを観ていたのでしょう?
ゲーブルテレビはおろかテレビ自体を所有していなかったし、ビデオデッキもそれほど一般的でなくレンタルビデオ屋だってマンハッタンに数軒しかない(ビデオデッキ自体をレンタルして観ることもあった)時代・・・振り返って考えてみると、ビデオ観たさにクラブやバーへ足を運んだりしていたのでした。

さて、1987年にマイケル・ジャクソンが4年ぶりの新作アルバム「BAD」を発表しました。
そして「BAD」のミュージックビデオを初公開するときには、ボクもテレビを持っていて、ケーブルビデオにも契約していて、リアルタイムでワールドプレミアを観ることができました。
そして、このビデオでのマイケル・ジャクソンの「顔」に、皆、たいへんなショックを受けました。
マーティン・スコセッジ監督によって演出されたショートフィルムは、モノクロの導入部分から始まります。
ほとんどが白人の全寮制のプライベートハイスクール(コネチカット州、もしくはマサチューセッツ州でしょうか?)・・・当時すでに29歳だったマイケルはクリスマス休暇で帰宅する高校生を演じているのです。


マイケルは他の白人の出演者と比べても、やけに肌の色が薄く顔の印象も以前と違うなぁ・・・とは思いましたが、画面はモノクロなので、それほどの違和感はまだ感じませんでした。
ハーレムらしき自宅へ戻ったマイケルを迎える近所の仲間のワルを演じていたウェズリー・スナイプスが黒人の中でも黒人的な特徴が強い顔で、肌の色も濃いこともあって、マイケルの肌の色の薄さがより強調されるようです。


その違和感がマックスに達したのは、地下鉄のシーンで画面がカラーになった時でした!
・・・明らかに整形手術をしたであろうマイケルの顔、特に「鼻」の形状が作り物のようです・・・呆然としました。


当時、アメリカのマスコミは整形疑惑を騒ぎ立えれ、深層心理的に「白人願望」を表しているというような非難を受けましたが、マイケル自身はすべて100%否定してます。(後に整形手術については肯定的な発言もしていますが)
マイケルの心のうちを知る由は誰にもありませんが・・・ある種「人種同一障害」のような複雑な心情を邪推してしまって、ボクは「痛く」感じてしまったのです。

今回、発売された「VISION」を時代順に観ていくことは、同時にマイケルの外見の変貌の歴史をワンステップごとに追っていくことになります。
晩年に近づくにつれて、肌はますます磁器のように輝くほど白くなり、鼻の形はますますシャープに小さくなり、髪はますます直毛のさらさらヘアーとなっていく・・・パフォーマーとして洗練され完成度が高まるについれて、外見の変容も加速化していくように感じます。


それは、心の真理を追究し続けて、最後には「死」を選ぶしかなくなってしまう文豪や思想家が突き進んでしまう”危険なベクトル”にも似ているような気がするのです。
3枚目に収録されているジャクソン5時代に兄弟とともに歌い踊るマイケルは、アフロヘアーの黒人の姿。
すごくチャーミングで、この姿のままで世界中から愛されていたのに「どうして?」と・・・マイケルに繰り返し問いたくなってしまうのです。





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