2009/12/26

緻密な近未来小説だからこそ気になる”赤毛モノ”的な違和感〜「ドーン」/平野啓一郎著〜

SF小説というのは子供の頃には好んで読んでいたけれど、大人になってからは殆ど読まなくなってしまっているジャンルになってしまいました。

村上春樹のファンタジーの世界というのは、どこか現実と重なっていたり、続いていたりするものだから、一種のSF小説だったり、ミステリー小説だとしても、そのジャンルを意識せずに読んでいたりはするのですが・・・。

近未来SFというのは実は未来のはなしではなくて、その小説の書かれた時代を描いているものですが、「管理社会」への警告がテーマになっていることが多いようです。

それは、実際に近未来が管理社会になるか、否かということではなく、管理されることが「今」を生きる我々のなかにある”恐怖”そのものなのかもしれません。

我々が管理されることを恐れる、倫理、表現、情報、行動、コミュニケーションの自由は、インターネットの発達で10年前よりも自由になったような感覚はあります。

性同一障害への理解などは、女性、人種、同性愛などの問題と比べて飛躍的なスピードで浸透したと思えます。

人類の歴史の中でも、これほどまでに個々の自由というのが比較的広く尊重される(さまざま意見はまだあるでしょうが)時代というのはなかったような気がします。


平野啓一郎著の」「ドーン」は、ネット社会による管理社会を描いているのですが、単に社会の仕組みの未来像というだけでなく、新たなテクノロジーによって変化していく人間の心の内を描いているところが「今」の近未来SF小説なのかもしれません。

インディヴィジュアル(individual)という「個人」から、ディヴィジュアル(dividual)という「分人」という、関係性や状況によって個が分かれるという「ドーン」の世界で描かれる人間の捉え方は、ネットのハンドル名を使い分けたり、仕事とプライベートでは別人のように生活する「今」の時代を、ちょっとだけ先に進ませたような気がします。

また「ドーン」の世界での管理社会を象徴する仕組みとして描かれる「散影」というのは、顔認識技術、ネット検索、防犯カメラという「今」あるテクノロジーを、高いレベルで融合した個人情報の検索機能で、これによってプライバシーに対する感覚というのが希薄になっています。

テクノロジーの進化というのが人間の感情に大きな影響を与えることは、ここ十数年のインターネットや携帯電話の進化で証明されていることだと思います。

コミュニケーションに於ける時間軸がショートスパンになっただけでなく、短いメールの文章や絵文字での意思疎通というのが当たり前になると、繋がることも容易くなる反面、繋がりがなくなることも早くなっているような気がします。

「ドーン」の舞台になっている2033年に、テクノロジーによって我々の感覚が現代とはまったく違っていても驚きでもありません。

火星探索というSF的な物語を中心に展開されますが、アメリカ大統領選挙の伏線によるブッシュ政権への批判というのが大きなテーマになっています。

火星探索船ドーン(これがタイトルの由来)の内部でのクルー内での騒動や、登場人物達のキャラクターにしてもディヴィジュアルという分人主義の世界では、巧みな日本語の表現力で語られるながら読者にそれほど共感を感じさず、そういう空気感自体が「今」の我々の感じる「近未来」なのかもしれません。


火星に降り立つ日本人宇宙飛行士が「明日人(あすと)」という名前で、その妻が「今日子」で、亡くなった息子が「太陽」という、なんとも意味深なネーミングである反面、殆どの登場人物はアメリカ人を含む外国人の名前がなんともアバウトで、その人物のエスニックなバックグラウンドを感じさせないところが気になりました。

また、登場人物達の考え方や表現の仕方が、実に日本語的であったのにも違和感を感じてしまいました。

古い言い方をさせてもらえば「ドーン」は一種の”赤毛もの”(日本人が赤毛の鬘を被って外国人を演じる)のような小説で、所詮は日本人が書いた外国の話なのでしょう。

そこまで気にするのはバイリンガルでバイカルチュアルでないと気にならないことなのかもしれませんが、政治的な背景は「今」の現実とかなりリンクしているので、余計に気になってしまったのでした。



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2009/12/18

これこそ歌舞伎の懐の深さと贅沢さ?~大江戸りびんぐでっど/歌舞伎座~

歌舞伎はいつの時代にも新しい風を取り入れてながら進化してきた伝統です。

歌舞伎の、歌舞伎「らしさ」なんだろうと考えると、あまりにもたくさんの要素があり過ぎます。

舞踏のような様式化された様々な動きと静止した姿、声の抑揚や台詞の語り口、衣装や舞台の仕掛けや化粧や鬘のスタイル、物語の流れのお約束などなど・・・。

ほとんどの歌舞伎役者は、歌舞伎役者の家に生まれて、幼い頃から稽古をして舞台に上がります。

歌舞伎「らしさ」というものを、生まれながらに染み付いている役者が演じるからこそ、歌舞伎が歌舞伎たる由縁でもあるのです。


僕は歌舞伎のついて勉強したり、文献を読むということさえしたことがありませんが、母のお供で子供の頃から歌舞伎を観させてもらいました。

別に”目利き”とは思っていませんが、自分なりに歌舞伎「らしさ」ということには”こだわり”はあったりします。

以前、猿之助が上演していた”スーパー歌舞伎”というのがあったのですが、僕には歌舞伎”まがい”のお芝居に思えたのです。

演劇としての完成度は高く、スペクタクルで圧倒的なエンターテイメントであったのですが、演じている役者さんたちが一般からお弟子さんたちということもあって、歌舞伎の様式が身に付いていない感じで、歌舞伎の「らしさ」より「まねごと」のように感じました。

その後、中村勘三郎を中心とした「平成中村座」による現代の演出家や脚本家による新しいスタイルの歌舞伎がブームとなりました。

歌舞伎にはあり得ないおふざけはあっても、勘三郎、橋之助、福助、扇雀、勘太郎、七之助、亀蔵らの役者たちの巧みな演技によって、僕には歌舞伎「らしさ」を感じさせてくれる芝居だったのです。


串田和美、野田秀樹、渡辺えり子、蜷川幸雄などの新しいスタイルの歌舞伎に挑戦した演出家に”官藤官九郎”が、12月の歌舞伎座の公演「大江戸りびんぐでっど」で加わりました。

あまり官藤官九郎が好きでなかった僕は当初スルーしようと思っていたのですが・・・「もしかして再演はないかも」という気がして、母のコネでチケットを手に入れ歌舞伎座に駆けつけました。

官藤官九郎の小劇場の演劇的なノリを、歌舞伎座という大舞台と装置を使い、歌舞伎役者によって演じるという、なんとも贅沢な(?)芝居でした。


「大江戸りびんぐでっど」は、くさや汁によって屍が生き返り「らくだ衆(ゾンビ)」となり、江戸の人々を襲うのですが、半助(染五郎)の機転によって、生きる屍を”派遣”の労働力として利用するという社会風刺を感じさせる物語です。

中盤以のサプライズの後、話の行方を失った感のある脚本でしたが、随所に官藤官九郎なりの歌舞伎のお約束のパロディが散りばめられています。

歌舞伎の台詞の掛け合いや見栄の張り方でふざけてみたり、マイケル・ジャクソンの「スリラー」のごとくゾンビたちが音楽とともに踊ったりと、歌舞伎のお約束を壊す勝手放題の演出です。

しかし、歌舞伎役者たちの巧みな演技によって、ギリギリで歌舞伎としての体裁を保っているような気がします。

こんな馬鹿げた芝居をして芸を荒らしてしまうのではと心配してしまうほど、ふざかまくっているなのですが、どこか品格は失わない・・・これが歌舞伎役者の「血」というものなのでしょうか?

歌舞伎という様式は、あり得ない異質なものでも見事に要素の一部として吸収してしまうことを、またしても証明してくれた舞台なのでした。


歌舞伎座さよなら公演 十二月大歌舞伎/2009年12月2日~26日

「大江戸りびんぐでっど」官藤官九郎 脚本、演出

市川染五郎、中村勘三郎、中村扇雀、中村福助、中村七之助、他


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2009/12/12

なんちゃってゴージャスでケアされる腐女子の聖地!~執事喫茶スワロウテイル~

秋葉原のメイド喫茶「@ほぉ~むcafe(アットホームカフェ)」は、すでに経験済みの僕ではありますが・・・さすがに、腐女子を対象とした執事喫茶というのは未知の世界です。

メイド喫茶のように”チェキ”での撮影会はあるのか?ドリンクに”ラブラブ”注入やシャカシャカするプラスαのサービスは?チョコレートソースやケッチャップでメッセージを書いてくれるのか?アイドルのイベント的な催しが行われているか?BL(ボーイズラブ)マンガから抜け出したような美少年、美青年ばかり集められるものなのか?

謎に満ちた「腐女子の聖地」に僕が行くことになったのは、腐女子の友人Sからのお誘いでした。

メイド喫茶で多少オタク文化に免疫(?)が出来たこともあって、腐女子同伴でなければ覗くことさえできない世界に興味を持ったのであります。

予約受付と同時にほぼすべての時間帯が埋まってしまうほど、ハードルの高い完全予約をクリア出来たのは、執事喫茶へ行こうと話をしてから一ヶ月以上たってからでした。

初めは軽い興味本位だった僕も、そこまでの努力をして腐女子が予約して訪れる執事喫茶とはどうなんだ!と、鼻息も荒くなってしまったのです。

その上、スタッフ(執事)の画像は「未公開」店舗の電話番号は「非公開」という謎めいた仕組みも、いかにも怪しい感じだったので、この目で確かめてやるという気分にもなっていたのでした。


当日はあいにくの雨、池袋乙女ストリート沿いに「執事喫茶スワロウテイル」のお店・・・いや「お屋敷」はあるのですが、迷ったあげくに発見したのは一階に堂々と「ファミリーマート」を構える雑居ビルでありました。

地下への「お屋敷」入り口には、すでに順番待ちの腐女子らしき女性の二人組がいました。

予約時間ちょうどに地下へ降りていくと、ビジュアル系バンドのボーカル系っぽい執事がお出迎えです。

そこでの質問は「なんと呼ばれたいか?」なのですが、女性は「お嬢さま」か「奥さま」で、男性は「お坊ちゃま」か「旦那さま」となります。

僕は、もちろん「旦那さま」を選択しました。

待合室にはミニチュアの西洋家具が置かれて、入り口の扉はちょっと仰々しい作りになっています。

出入りのお客が狭い(!)入り口でかち合わないように、おごそかに順番待ちを強いられるというシステムなのでした。


数分後、いよいよ「ご帰宅」(入店)の時間となりました。

ドアの先に待ち受けていた執事は・・・・なんと、バーコード禿で小柄な60歳にはなるおじいさん!!!

リアリティを追求しての起用なのか、はたまた本人たっての希望の就職口なのか・・・入り口のビジュアル系との落差に不意をつけれる演出ではありました。

にこやかな笑みをたたえながら。完璧に執事の演技に徹している”おじいさん”を目の前にして、誰が「執事喫茶」の小芝居を馬鹿にできるでしょうか?

帽子やコートなどを受け取りながら、「藤堂でございます・・・旦那さま、大きくていらっしゃっいますね」と挨拶をされて、執事というよりイケてないゲイバーのママっぽいなぁと思いつつ、奥のメインルームへ向かったのでした。

そこには、あまり着飾ってない「お嬢さま」達(僕以外客は全員女性)がいたのですが、一見すると老舗の高級喫茶室というような雰囲気でありました。

しかし、ふと、見上げれば・・・ガラス玉の安っぽいシャンデリアが低い天井に張り付いています。

これみよがしに飾られたティーセットや調度品も、これでもかと照明があてられて、豪華さの上塗りで逆に安っぽさが浮き出ています。

本物の屋敷系フレンチレストランなどに行ける客を相手にしているわけではないので、これくらいで十分なのかもしれませんが・・・どこを見回しても重厚感のかけらのない日本的な「なんちゃってゴージャス」な空間には、さすがにトホホでした。


担当の執事は、額から禿げ出している30歳ぐらいのメガネ男子で、どこかの会社のシステムエンジニアとかいるかも・・・という「ビミョー」な加減で、執事喫茶的には「ハズレ」という感じでした。

給仕をしてくれる担当の執事を客が選べないシステムになっているので、どの執事がつくかは運次第(?)ということのようです。

屋敷内(店内)を見渡すと、年齢の若い客には若い美少年系をあてがい、年齢層が高い客にはそれなりの年齢のを・・・ということのようでした。

若くない執事の中には「お前、あり得ない!」と指で指してしまいそうなイケてない変なおじさんみたいなのもいたりしました。

とりあえず体系的にはスリムを集めて、髪型をBL的にイケている風にして、それでもどうにもならないのはメガネ男子に仕立てているようです。

アニメから抜け出たようなという意味で合格点の執事は約2名という程度で、入り口のドアマンに一番の美形を配置しているというのが店の戦略のようでした。


メニューは海外のホテルによくあるティータイムを意識したセットが中心で、2500円から3200円という高くもなく、安くもなくという価格設定でした。

メイド喫茶のようにオプションであれこれチャージされることを考えれば、明朗会計ということでしょうか。

スコーン、サンドイッチ(またはキッシュも選択可能)、デザートケーキの盛りつけのプレゼンテーションは、合格点という感じだけど、これといった特徴のない甘いケーキで、デザートバイキング的なレベルでした。

途中、執事は専属でないようで、いろんな執事が入れ替わり立ち替わりくるのですが、紅茶の選択を褒める歯の浮くような”おべっか”のサービスも付いてくるのが、腐女子的ツボなのかもしれません。


おひとりさまと二人組が中心で、客層は女子高校生から50代に手が届きそうなおばさんまでいるのですが、思ったほど腐女子ばかりというわけでもありません。

ロリータ系ファッションに身を包自らみお嬢さまになりきって読書に励む「おひとりさま」もいるし、パンク系ファッションのおフテな客(呼び鈴ならしてばかりいた)もいるし、エステ通いに励んでいるアンチエージングマニアっぽい中年の姉妹とか、海外観光客の腐女子グループなんていうのもいました。

ただ、どのお客さんから僕が感じるバイブレーションというのは「ケアされたい」という強い乙女な願望・・・しかし「普段ケアされ慣れていない」という腐女子にありがちの不器用さだったのです。


予約の80分はあっという間に過ぎてしまい、せかされるようにデザートを食い会計をして、お出かけの準備(お店を出る)という、リラックスさえ出来ないエンディングとなりました。

おじいさん執事に代わって出て来たのが鉾崎(ほこさき)というポニーテールのガタイの良い執事・・・何故か上から目線で威圧的な態度だったりして”旦那さま役”の僕としては、ちょっと不機嫌になってしまったのでした。

「お食事はいかがでしたか?旦那さまのご意見が我々を成長させます」なんて煽られたので、素直に「デザート甘過ぎでした」と言ったら「ダイエットとかは考慮せずに美味しいデザートをつくております」というイヤミな反論・・・こういうSキャラの執事もいるんだという演出なのかもしれません。

最後の最後になって、最初に入り口で迎えてくれたおじいさん執事が妙に懐かしく感じられて・・・「藤堂が一番!」という結論に達してしまったのでした。

客のテンションの上げ下げは意図的な演出なのか否かは別として、結果的に執事喫茶という体験を楽しめてしまった自分がいました。


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2009/12/09

お約束の江戸歌舞伎の世話物・・・地味渋な右之助の見事な型!〜引窓/歌舞伎座〜

歌舞伎座の12月公演の目玉は、官藤官九郎の「大江戸りびんぐでっと」と野田秀樹の「鼠小僧」の再演というところなのでしょうが、現代のモダン歌舞伎と江戸のオーソドックスな歌舞伎をひとつの公演で、どちらも観れてしまうのが歌舞伎公演の面白さであります。


夜の部の「引窓」は、浄瑠璃をベースにした世話物の狂言で、江戸時代には度々上演されていたものの明治時代に途絶えていたそうなのですが、昭和の戦後に再演されてからは繰り返し公演されるようになったらしいです。

主な登場人物は4人で、追われる身の長十郎(橋之助)、代官の十次兵衛(三津五郎)、十次兵衛の妻お早(扇雀)、そして長十郎と十次兵衛(義理)の母お幸(右之助)です。

今まで、さまざまな役者に演じられてきた4役ですが、今回は今まででも最も良いキャスティングのように思えました。


長十郎は、幼い頃養子に出されたのですが、追われる身になって実母のお幸を訪ねてきます。

そのお幸と妻お早と暮らしている十次兵衛は、お幸が後妻となった夫の前妻の子で、その長十郎の人相書を持って追っている代官なのです。

長十郎をかくまおうとする実母のお幸とお早の思い・・・その気持ちを知り見逃そうとする十次兵衛・・・義理や情けを感じて自害しようとする長十郎。

母、ふたりの息子、その妻、それぞれの思いやりが行き交う様子を、引窓を開けたり閉めたりすることで照らされる月夜の明かりに例えているのが、この狂言の題名の由来のようです。

浄瑠璃にのせて登場人物の心情が語られるオーソドックスなスタイルには、モダン歌舞伎にはない様式の醍醐味があります。

母お幸を演じる右之助は、声の抑揚、肩や背中の角度、泣き崩れる姿は、完璧な「歌舞伎様式の演技」で、見事にふたりの息子の狭間で悩み苦しむ母の気持ちを表現していました。

歌舞伎の「演技の型」というもののパワーを、まざまざと感じさせてくれました。

舞台の上の役者は、その「型」通りに演じることにより、登場人物の心境をしみじみと感じさせます。

歌舞伎の歴史を通じて代々の役者によって極められて磨かれてきた「型」という「お約束」は、時代を超えて現代の観客にも伝わるものなのです。

右之助は、僕はそれほど注目したことのない役者さんでしたが、地味渋くて巧い演技の奥深さを魅了されました。


オーソドックスな狂言は、野田秀樹のスピーディーな現代的なテンポや、官藤官九郎の型破りのエンターテイメント性には、つい見劣りしてしまいがちです。

しかし、18世紀の江戸時代につくられた狂言を、250年以上経った今でも大きくスタイルを変えることなく観ることのできることを幸福に感じました。


歌舞伎座さよなら公演 十二月大歌舞伎/2009年12月2日〜26日

「双蝶々曲輪日記 引窓」

坂東三津五郎、中村橋之助、市川右之助、中村扇雀


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2009/12/04

マックだからパソコン使ってます・・・僕のマック遍歴

パソコンに慣れていない人がしてしまう最初の間違い(?)というのが「ウィンドウズ機を買う」というのは、マックユーザーならば承知の事実でありましょう。

世の中のパーソナルコンピューターの9割はウィンドウズ機だから・・・というのが、ウィンドウズ機を購入してしまう理由のようですが、それはオフィスなどで使われているパソコンという話です。

個人が自宅で使用するパソコンが、会社で使っているのと同じウィンドウズ機でなければならないという理由は、まったくないのです。

「仕事で使う管理された機械」としてのウィンドウズ機に対して、否定的なことを言う気はありません。

ただ、マックは直感的な操作のできる真の”パーソナル”コンピューターとして、常に存在してきたということなのです。

理数系でもなく、機械好きでもない僕がマックと出会うのは必然であったし、マックでなかったら今のようにパソコンを使ているとは思えません。


「アップル」とか「マック」とかいう名前だけは発売当時から耳にしていました。

1990年にルームメイトが使っていたモニタ一体型マックが、初めて目にした実物のマックだったかもしれません。

ただ、当時は個人が自宅にコンピューターを持つ意味が、僕にはよく分かりませんでした。

その数年後、CDーROMの制作会社を始めた知り合いから、絵心があると見込まれた僕に仕事のオファーがあったのです。

自分でマックの購入することが条件ではありましたが、ソフトの使い方などはゼロから教えてくれるということでした。

しかし、当時の僕に5000ドル以上もする「機械」を買うことは出来ず、結局仕事のオファーも断りました。

そして・・・それから数年後の1995年、親友のT宅でマックに実際に触れる機会がありました。

自分の想像していたパソコンとはまったく違う操作感に感動して、その時には衝動的に「欲しい!」と思ったのです。


最初に購入したマックは「Power Mac 6100」でした。

当時は15インチのモニターが主流だったにも関わらず「グラフィックがやりたい」という理由で17インチのモニターを奮発しました。

以前よりは安くなってきた言われていたマックでしたが、本体とモニターだけで60万円ほどでした。

この「Power Mac 6100」は、メモリー、グラフィックカード、ハードディスクを増設しながら数年使い続けました。

1997年「Power Book 1400」を購入したもののノート機の限界を感じ、すぐに型落ちになっていた「Power Mac 7600」を買い増ししました。

モニターは20インチにして、贅沢な環境に満足していました。

このパワーマックもパワーブックも、G3のCPUカードやグラフィックカードを差し替えたりしながら数年使い続けました。

日本に帰国後の2002年に、白い団子型の筐体と液晶モニターを電気スタンドのような首振りの奇抜で機能的なスタイルに一目惚れして「iMac」の17インチに買い替えました。

勿論、メモリーやハードディスクは最大限にカスタマイズして・・・です。

そして、2年ほど前に出張用に使っていた「Power Book 1400」が壊れたので、サブ機として「Power Book G4」を中古で購入しました。


首振り「iMac」は購入時に、最大までカスタマイズしていたおかげで、購入から7年経った今でも現役として十分使うことは出来ます。

ただ、インテルマックが主流になってきたことはヒシヒシと感じ始めていて、買い替えのタイミングを見計らってきました。

今秋発表された新型「iMac」は、ビデオ再生の不具など不安な報告もありましたが、新世代のCPUを搭載した最上位機種がオーダー出来るようになったので購入を決めました。

自分でカスタマイズ出来るメモリーなどは後々増設することにして、とりあえずCPUとHDだけは最大限にカスタマイズしておきました。

最初に購入したマックから考えると、パソコンとしての性能は何百倍になっているでしょう。

それが、27インチという巨大な液晶モニターも含めて20数万円で買えるとは本当に安くなった・・・と感じてしまう僕は、マックの昔を知る人間だからかもしれません。

来週早々、新型「iMac」は届く予定です!



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2009/12/01

影万理江の演ずる富小路君子は世紀のはまり役!・・・有吉佐和子原作テレビドラマ~「悪女について」~


昔のテレビドラマが発掘されるように、DVD化されるのは嬉しいことであります。ビデオデッキが普及するまではテレビ番組を録画して観るということは不可能で、自宅でリアルタイムで観るしかないという時代だったのです。

我が家にビデオデッキが導入されたのは1970年代末期だった記憶があるのですが、当時録画した番組はそれほど多くありません。・・・というのも、初期のビデオデッキには予約録画機能がなく(時計内蔵の専用取付式タイマーは別売りだったらしい)、VHSテープ自体も高価・・・連続ドラマを録画する習慣は一般的ではありませんでした。

そんな時代に放映されたテレビドラマで忘れられないのが、1978年4月6日から9月28日の午後10時から放映された有吉佐和子原作の「悪女について」であります。再放送で観た記憶がないので、たった一度しか観ていないドラマなのですが、その後、繰り返し原作を読んだこともあり、非常に深く記憶に残っているのです。

「悪女について」は「週刊朝日」に連載された原作とテレビでのドラマ放映が同時進行という、ある意味、メディアミックスという手法の先駆けでもありました。物語は「虚飾の女王」と呼ばれた”富小路君子”という美貌の女性の謎めいた人生を27人の証言によって暴いていく・・・というミステリー仕立てになっています。

何故、彼女は戦後の混乱の中で事業家として独立し、大成功を収めて巨大な屋敷を持つほどの大富豪となっていくのか・・・そして彼女の死の真相は?出演した役者は、NHKの大河ドラマ以外では考えられないほど、当時の人気俳優から大御所まで網羅した豪華なキャスティングでした。

緒形拳、杉村春子、渡辺美佐子、中村敦夫、沢村貞子、森繁久彌、奈良岡朋子、中山仁、草笛光子、岸田今日子、山田五十鈴、山口崇、江利チエミ、馬淵晴子、谷隼人、あおい輝彦、小林桂樹、北村和夫、司葉子、小松方正、細川俊之、高橋とよ、赤木春恵、中原ひとみ、ジュディ・オング、仲谷昇などなど・・・。

過去を証言者が語るという物語の構成上、回想場面の多いドラマでした。主人公が10代だった時代まで遡るシーンもあったので、出演者らの「若づくり」の怪演が衝撃的だった記憶があります。

証言者によって富小路君子の印象は、無垢な少女のようだったり、性悪の悪女のようだったりするのですが、人は立場や関わり方によって人物や物事の見方が変わるのだということを、有吉佐和子は印象的に描いています。黒澤明の[羅生門」でも、この手法は使われているのですが・・・「悪女について」は登場人物も多くてかなり複雑になっています。

テレビドラマで、富小路君子役を見事に演じた「影万理江」という女優さんの存在感とインパクトに、ティーンエイジャーだった僕は釘付けになりました。彼女は、劇団四季所属で主に舞台を中心に活躍していた役者さんで、浅利慶太の二番目の奥さまだった方だそうなのですが、放映当時は彼女の経歴については知りませんでした。

このドラマを制作時、影万理江さんは40代であったはずなのですが、10代のおさげ姿の少女時代も演じています。極端な若づくりということもあって、妙な雰囲気を漂わせていました。また、成功して大富豪となっていくとともに、魔性の女っぽいフリフリのロマンチックなドレスに身を包む姿は、コケティッシュで妖しい魅力を放っていました。

「影万理江」と「富小路君子」は「ヴィヴィアン・リー」と「スカーレット・オハラ」のような運命的な配役と、僕には思えてしまうほどの”はまり役”だったのです。残念ながら、影万理江さんはその後テレビで活躍することもなく、このドラマに出演した数年後(1981年)に脳腫瘍のために亡くなられました。それ故に、テレビでしか影万理江さんを知らない僕にとっては、富小路君子役と重ねって永遠に記憶に残ってしまうのです。

キャストの豪華さと当時の有名女流作家のメディアミックスという戦略をしても、テレビドラマ「悪女について」の視聴率はそれほどふるわなかったそうです。そんな経緯もあってか・・・いまだにDVD化されていない「悪女について」は、僕のもう一度観たいテレビドラマのナンバーワンとして長年君臨しているのです!

註:影万里江さんの画像は1967年5月公演「ひばり」のパンフレットからです。



「悪女について」
1978年4月6日~9月28日
木曜日22時より、テレビ朝日系列
スタッフ
原作/有吉佐和子、脚本/大藪郁子、演出/大村哲生、藤原英一、オープニング画像/クリムト「接吻」
キャスト
影万里江(富小路公子)、山口崇(早川松夫)、江利チエミ(丸井牧子)、馬淵晴子(浅井雪子)、緒形拳(渡瀬義雄)、杉村春子(渡瀬小静)、渡辺美佐子(里内文子)、中村 敦夫(大内三郎)、沢村貞子(沢山夫和枝)、森繁久彌(沢山栄次)、奈良岡朋子(林梨江)、有島一郎(伊藤一郎)、木暮実千代(富本宮子)、一の宮あつ子(菅原ふみ)、中山仁(富本寛一)、草笛光子(烏丸瑶子)、岸田今日子(小川圭子)、山田五十鈴(瀬川のぶ代)、小林桂樹(吉井治平)、北村和夫(北村医師)、司葉子(清水かおる)、曽我迺家鶴蝶(鈴木タネ)、小松方正(太田プロデューサー)、谷隼人(小島誠)、あおい輝彦(鈴木義彦)、細川俊之(尾藤輝彦)、高橋とよ(芦屋婦長)、中島久之(鈴木義輝)、牟田悌三、辻萬長、井上和行、花沢徳衛(渡瀬の父)、山本道子、岩井友見(渡瀬の妻芳子)、赤木春恵、南風洋子、三好美智子、山本圭、宝生あやこ、中原ひとみ(昭子)、ジュディ・オング、仲谷昇、山形勲(瀬川大介)、池田秀一(渡瀬義次)、松山省二[松山政路]、梶三和子、浜田寸躬子、原知佐子、葦原邦子、中田喜子(義彦の妻)、松村彦次郎、松岡みどり、佐野周二(輝彦の父)、市川翠扇(輝彦の母)、溝口泰男(本人役)、川久保潔(ナレーター)





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2009/11/30

「15分間の有名人」でさえなく「15秒のすれ違い」

1968年、アンディ・ウォーホルは「未来には、誰でも15分間は世界的な有名人になれるだろう」と予言のような言葉を残しています。

それは「テレビ時代」を見据えての発言だったのですが、その後の「インターネットの時代」までは、さすがのウォーホルさえも予見出来なかったのかもしれません。


テレビというメディアは、ウォーホルが語ったとおりに、いろんな人に15分間の名声を与えましたところはあるでしょう。

特にアメリカにはテレビ局自体の数が多くて、ケーブルテレビのパブリックアクセスまですると、テレビによってちょっとの間だけ有名になる人というのは、まさに星の数ほどいるのです。

それは素人出演の番組であったり、世の中を騒がすスキャンダルや事件だったりしたかもしれません。

ホームビデオの登場は、テレビに映る自分の姿ということ自体の意味も薄くしたかもしれませんが、ビデオ投稿で構成される番組というものもあるくらいですから・・・テレビに出演するという感覚の敷居を低くもしたでしょう。

ただ、放映されるテレビ番組に出ることは、仲間内やご近所の範囲に限ってであっても、様々なメディアが存在する現在でも15分ぐらいの名声は与えてくれるのかもしれません・・・。


インタ-ネットというメディアはテレビ放映のように一瞬にして消えてなくなるわけではないけどれど、個人のホームページやブログ、またはYouTubeの動画投稿などを、人が見るのは15分もないよう思います。

検索エンジンに引っ掛かったキーワードに導かれたり、どこかのリンクから訪れてくたとしても、誰かのパソコンの画面に目を走らせる時間なんて、もしかするとせいぜい15秒程度なのかもしれません。

個人的に知り合いでもなければ、その15秒さえも閲覧することなしに、他のコンテンツやバックボタンを押しているかもしれないのです。

「Twitter」など自分のつぶやきを瞬時に伝えられる手段が出てくると15秒どころか、1.5秒ぐらいしか耳を傾けてもらえていないのかもしれません。

そこまで細切れのコミュニケーションばかりが溢れていくことは、すでに個人の表現でも何かの主張でもなく、単に誰かと繋がっている・・・という、人間の根源的な「つるむ」という行為に戻っていっているだけのような気さえします。

誰からか分からなくても、誰からの何らか、すれ違うような僅かな反応を求めて・・・。


芸能人でもない、何かのカリスマでもない、ネットビジネスをやっているわけでもない、そんな人間がブログを書いたり、ホームページを公開したりする意味って・・・すれ違うような、ほんの僅かな瞬間をつくっているだけに過ぎないように感じてしまうのです。


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2009/11/26

みんな大好き「世界崩壊」・・・今回はハリウッド仕上げの全部入り!~「2012」~

アメリカとほぼ同時公開となった「2012」は、日本でも興業成績のトップに躍り出たそうですが、世界のどこに住んでいても「世界崩壊」は、みんな大好きなようです。
ローランド・エメリッヒ監督にとっては「インデペンデンス・デイ」「デイ・アフター・トゥモロー」に続く、三度目の「世界崩壊」になりますが、これが決定版ということでしょう。
太陽からのニュートリノが過剰に降り注ぐことで地殻異変が起こって大陸プレートが動き出す・・・という設定の今回は、大地震、火山大爆発、大型船転覆、大津波、大吹雪、大陸移動と、今回のは、まさに「全部入り」の豪華なてんこ盛りです。

「ノストラダムスの大予言」世代の僕らにとっては、お馴染の「世界崩壊」ではありますが、今回は「マヤ歴の予言」を持ち出してきたところが、”目新しい(?)”切り口なのかもしれません。
また、このマヤ歴の「2012」という数字に便乗して、人類は宇宙人の遺伝子から誕生したとか、選ばれた者は5次元へのテレポーション(アセンション)するなど・・・「ノストラダムス」以上に突拍子もないカルトな論理を繰り広げる人達も出てきています。
当った占いや予言は記憶に残るけれど、ハズれた占いや予言は忘れていく人間は、太古から自然の脅威に恐れて「世界崩壊」の不安を持ちながら、反省して過ちを繰り返し、これからも行き続けていくのでしょう。

映画「2012」は、とにもかくにも「世界崩壊」の大宴会状態なわけでありますが・・・政府高官や大金持ちが「ノアの箱船」によって自分たちだけ生き残ろうとする「エゴの愚かさ」と、一般市民(ジョン・キューザック演じる)がカタストロフィーの危機のなかで家族の絆が取り戻されていく「家族愛の素晴らしさ」という、ハリウッドお得意の定番要素が分かり易く盛り込まれています。
また、巨大空母が津波に流されてホワイトハウスを潰すというアメリカ国家の弱体化を皮肉りながら、ノアの箱船を制作しているのが「あの国だったのか〜!」という納得のサプライズ(?)も用意されているのです。
予告編で繰り返し放映されている地盤崩壊から逃げるシーンは、昔のジェームス・ボンド(007)の映画以上に、あり得ないコンマ1秒のタイミングで困難に次ぐ困難をものの見事に逃げきります。
これほど人類史上最も運の良い(?)主人公ですから、勿論、生き残ってハッピーエンドを迎えることになるわけですが・・・箱船を氷河との大衝突から救ったにも関わらず、特にヒーローとして描かれているわけでもありません。
人間ドラマを複雑に組み込みながらも、たいして誰も印象に残らない・・・「世界崩壊」こそが、この映画のテーマであり、真の主人公であるようです。

映画が終って冷静に振り返ってにみると、トンデモなくご都合主義のストーリーの映画ということに愕然します。
しかし、紋切り型の感動を盛り込みながら、お約束の世界崩壊は全部入れて、2時間半以上の長尺を飽きることなくアドレナリン出しっ放しで楽しましてくれるのは、さすがの「ハリウッド仕上げ」と言えるでしょう!


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2009/11/24

何故アメリカンヴォーグ誌は「スタイル」で君臨し続けるのか~「ファッションが教えてくれること」~


アメリカンヴォーグ誌の編集長のアナ・ウィンターを追ったドキュメンタリー映画「ファッションが教えてくれること」の日本語題名というのは、ちょっと的を外していているような気がします。
原題の「The September Issue」というのは・・・アメリカンヴォーグ誌が秋冬ファッション(春夏より重要なシーズンとされる)のトレンドを伝える一年で最も重要な「9月号」という意味です。
毎年のように「前年より増ページ!」というのが「9月号」の目標というのは、なんともアメリカ的な尺度ではないでしょうか・・・?
ページ数が増えるということは、簡単に言えば「広告ページ」が増えるということで、ずばりアメリカンヴォーグ誌を所有しているConde Nast社にとっての増益ということなのです。
年々電話帳並に分厚くなっていくアメリカンヴォーグ誌の9月号というのは、アメリカ出版界の季節の風物のようになりつつのかもしれません。

アメリカの主要ファッション誌の編集長やディレクター/エディターの多数がイギリス出身のアングロサクソン系の女性という事実は、アメリカのファッションに於いて大英帝国の名残のヒエラルキーが生き残っていることを、否応なしに感じさせられます。
アメリカンヴォーグ誌の編集長のアナ・ウィンター女史も勿論イギリス人ですし、伝統的にアメリカ人のアシスタントにしてもWASP系のお金持ちのお嬢さんが雇われやすい環境という噂です。
(勿論、近年は人種的に例外もありますが・・・あくまでもアシスタントレベルではあるようです)
映画の中でのインタビューで認めているように、アナ自身の強みは冷酷なまでの編集者としての「決断力」であり、ファッションセンスに突出しているというわけではありません。
エディトリアルの誌面は、アナと同時期にアメリカンヴォーグ編集部に加わったグレイス・コディトンというウェールズ出身の元モデルのファンションディレクターによって”創造”されているのです。
グレイスは、時代の空気を感じてテーマを決め、服をモデルという被写体に着せて、スタイルに合ったカメラマンに撮影させていくのですが、彼女独自の世界を構築していきます。
それは、画家が絵の具で、彫刻家が石で作品を制作するように、ファッションをミディアムに「スタイル」という”ナマモノ”のファンタジーを表現をしているかのようです。
グレイスが具現化する誌面には、日本のファッション誌のような商品の「カタログ」化でもなければ、商品をマクロに捉えた「テイスト」感とは次元の違う、ファッションに対しての「夢」と「リスペクト」を感じさせます。
「テイスト」や「カタログ」でファッション誌を構成する日本という国は、まだ文化としてのファッションに関しては”極東の島国”でしかないと認識させられる思いがしました。

アメリカンヴォーグ誌が強大な影響力を維持し続ける秘訣は、アナの編集者としての先見の目と素早い決断力だけでなく、グレイスのファッションに対する愛情と想像力によるものだったのです。
この映画の中では常にコンフリクト(衝突)を繰り返す二人の女性ですが、アメリカンヴォーグ誌は両極端な個性を認め合うことによって生み出されていたことが、エンドロールのインタビューで明らかになります。
アナとグレイスの二人の成熟した緊張感のある人間関係にこそ「教えてくれること」があるのかもしれません。


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2009/11/21

「老眼ゲーマー」に朗報!大型化されて大画面になったNintendo DSi LLが発売!


任天堂がゲームボーイを開発していた数十年前に、誰が「老眼ゲーマー」を想定していたでしょう?

最近売り上げを伸ばしているソニーのPSP対策として、任天堂が今日(11月21日)から発売する「Nintendo DSi LL」は、既存の携帯ゲーム機を大型化するというゲーム機史上初(?)の”英断”であります。

プレイステーションのような据置ゲーム機にしても新型は小型化することが当たり前、携帯ゲーム機なら尚更小型化を目指すのが今までの常識でした。

ただ、ゲームボーイアドバンス機の最後のモデルはの「ゲームボーイアドバンスマクロ」は、ゲームプレイ可能な極限まで画面も本体も小型化しましたが、それほど売れなかったようです。

そんな失敗から、任天堂は学んだのかもしれません。


僕自身は「Nintendo DS」は初期モデルから、すべて発売日に購入しているというほど愛用しています。

ただ、ここ1年ほどは老眼がすすんで3.2インチの画面では、細かい文字が読めないというストレスが段々とは感じてくるようになっていました。

物語や設定を理解して遊びたいロールプレイングゲームは、正直もうキツイ・・・と投げ出してしまうことしばしばだったりします。

また、電車の移動中にプレイしたくなるDSなのですが、新聞を顔から遠ざけて読むように、ゲーム機を持った手を顔の前にズンと突っ張ってゲームをしている姿というのも・・・「老眼にまでなって、そんなにゲームしたいの?」と、冷たい目で見られるような気がしてしまうので、なんとも恥ずかしいのです。


さて「Nintendo DSi LL」の実機を手にした感想ですが、僕のような体の大きな人にはまったく違和感のないサイズといえるでしょう。

ふたつの大画面はかなりの迫力だし、スピーカーの位置が少し離れたことで、同じゲームをしていても絵と音の臨場感はなかなか良いです。

老眼のせいで今まで見えていなかった、ゲームのディテールまでよ〜く見えるので、よりゲームが楽しめる気がします。

今後はDSゲームはすべて「Nintendo DSi LL」で遊ぶことになりそうです。

唯一の気に入らないところは、カバー上部のフィニッシュが高級感を出すためか、ツルツル仕上げになっているので、指紋が付きやすいということぐらいでしょうか・・・。

全般的に「老眼ゲーマー」となった僕には大満足のDS本体ラインナップ拡大でした。


新機種発売後にありがちな、プレミア価格販売やオークションでの価格高騰もしていないようなので、任天堂の十分な供給と、意外に低い消費者の需要(?)というのが功を博しているのかもしれません。

欲しければ店頭ですぐ買えるという状況のようです・・・欲しい人はお店へ。


註:画像は歴代4台のNintendo DS。上段左から「DS」「DS Lite」下段左から「DSi」「DSi LL」



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2009/11/20

「空気感」よりも濃密な「呼吸感」を感じさせる静止画~Desiree Dolron~

25年ほど昔、アートスクールでペインティングなんて勉強していたものだから、芸術として写真をリスペクトできない時期がありました。

当時は「アーティストは自分の手で何かを創造することである!」と思い込んでいたので「すでに存在している被写体」を撮影するだけの写真は、ファインアート(絵画、彫刻はどの純粋芸術)の格下だと決めつけていたのでした。

写真の「記録」と「表現」という、ふたつの軸をクリエティブな作業として興味深く感じるようになったのは、自ら写真を撮るようになってからかもしれません。


デーシレー・ドルロン(Desiree Dolron)は「芸術写真」を発表するアムステルダムの写真家です。

残念ながら、彼女の実物の写真作品は見たことはありません。

しかし、彼女の作品集からだけでも、彼女の写真作品の持つ「密度」を感じられるほど完成されています。

ひとつのテーマを時間をかけて取り組むという姿勢のために、1991年から現在まで4つのシリーズしか発表していません。

「撮影」「デジタル加工」「紙の選択」「写真印刷」という行程の”クラフト”にこだわるために作品数が少ないようです。


1991年から1999年に制作された「EXALATION」は宗教と死の関係性を捉えたセピアの写真のシリーズには、宗教儀式に恍惚となっている猟奇的な時間が凝縮されています。

1996年から1998年に製作された「GAZE」はガーゼを透かしたようなソフトフォーカスの写真シリーズで、夢のような恍惚感に包まれています。

2002年から2003年に製作された「TE DI TODOS MIS SUENOS」は、キューバの社会主義のユートピアと実生活を対比させた政治的な写真シリーズですが、流れを止めてしまったような時間を感じさせます。

彼女の最高傑作と思われるのは、2001年から2005年に制作された「XTERIOS」でしょう。

中世絵画のような構図に特徴があり、ハーマンズホイの絵のような静かな空間とフェルメールのような光を思い起こさせます。


写真では「空気感」と言いますが、デーシレー・ドルロンの写真は見る者が息を止めてしまうほどの濃密な空気と時間を表現しています。

それは被写体の「呼吸感」を感じられるほどです。




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2009/11/19

アメリカ上流階級セレブの成れの果て・・・大竹しのぶ怪演ミュージカル!~グレイ・ガーデンズ/シアタークリエ~


元ケネディ大統領夫人、ジャクリーン・ケネディ・オナシスの姪と伯母にあたるイーディス・ブーヴィエ・ビールとリトル・エディ母娘の、イーストハンプトン(ニューヨーク郊外の高級避暑地)での生活を追ったドキュメンタリー映画「グレイ・ガーデンズ」が公開されたのは1975年のことでした。

上流階級の夫人でありながらショービジネスに憧れた結果、妻の座を追われたイーディスと、その娘リトル・エディは「グレイ・ガーデンズ」と呼ばれた大邸宅に信託基金を切り崩しながら、閉じられたふたりの世界で生きていたのです。
バサバサの髪をしていても、ボロ布をスカートとして身に付けていても、上流階級独特のアクセント、詩的な言い回し、上品な身振りを備えた母娘から、ハイソサエティの気品が滲み出ていたことは奇妙な感銘を与えました。
また「過去と現在」「現実と幻想」を揺れ動く母娘の意識は、狂気というよりも落ちぶれても上流階級らしさを持ち続ける強ささえ感じさせました。

ゲイの間で「グレイ・ガーデンズ」はカルトフィルムとしてたいへん人気があり、カリスマ的な人気を博したブーヴィエ母娘(特にリトル・エディ)でしたが、ジャクリーンの一族の汚名を消そうとする努力もあり1990年代には忘れられた存在になっていきました。
ジャクリーン死後、2006年にブロードウェイミュージカルとして甦ったことをきっかけに、ドキュメンタリー映画の再編集版が公開されたり、ヴォーグ誌などでリトル・エディの着こなしを真似たボロルックを特集したり、HBOゲーブルテレビでドラマ化されたり・・・と、アメリカでは以前にも増して脚光を浴びることになったのです。

アメリカのようなブーヴィエ母娘の知名度がまったくない日本で、ミュージカル「グレイ・ガーデンズ」が日本人キャストで上演されることに最初驚きましたが、主演が大竹しのぶと知って見逃せない舞台であると確信しました。
舞台では1940年代の豊かな生活を一幕目で、その後の1970年代に落ちぶれた姿を二幕目で描きます。
日本人が演じるというバタ臭いミュージカル独特の不自然さに、開演数十分は戸惑いは感じましたが、段々と慣れました。
大竹しのぶは一幕目で母、二幕目では娘という難しい二役を怪演していたのですが、庶民的な雰囲気を払拭することは出来ず、ビーヴィエ母娘の”気品”を感じさせるには至っていなかった気がします。
二幕目で母を演じた草笛光子は、ボロボロの衣装とヘアでも”気品”を感じさせていたのは、さすがでした。

ミュージカル版は変わり者の母と母に依存し続ける娘との葛藤の物語として、分かり易く描き過ぎている印象はありましたが、実際に本人たちの言った言葉の引用がちりばめられていて、オリジナルのドキュメンタリー映画をこよなく愛する僕にとっても満足の出来のミュージカルでした。

シアタークリエ/2009年11月7日~12月6日
「グレイ・ガーデンズ」宮本亜門演出、大竹しのぶ、草笛光子出演

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2009/11/17

「巨人のドシン」のWii版リメイクって、でないの?



任天堂には「スーパーマリオブラザース」に代表されるマリオシリーズを始め、ゼルダシリーズ、どうぶつの森シリーズなどゲーム機の世代を越えて、リメイクされ続けるゲームがあります。

スーパーファミコンとニンテンドーWiiの狭間の任天堂停滞期に、”ニンテンドー64”と”ゲームキューブ”で発売された「巨人のドシン」は、僕がやり込んだ数少ないゲームのひとつです。

ただ残念なことに、Wii版のリメイクの企画はいまだに発表されておらず、このまま世の中の記憶から消えてしまうのではないかと悲しく思っています。


「アクアノートの日」「太陽のしっぽ」のゲームクリエーター(飯田和敏氏)によって制作された自由度の高いゲームのひとつで、”巨人のドシン”となって南国に暮らす住民のために、土地を上げたり下げたり、災害の被害を最低限に抑えたり、木を移動させたり住民を運んだりを繰り返しながら、モニュメントを完成させるというのが一応の目的のゲームです。

住民から感謝されるともらえる”ハート”を集めると、巨人は大きく成長して移動速度や出来ることが増えます。

住民を踏み殺してしまったり、住民の嫌がることをすると”ドクロ”が出てくるのですが、これを集めることでも巨人が成長出来るというのが、このゲームのミソです。

神となるか、悪魔となるかは、プレイヤー次第というわけなのですから・・・。


最初に発売された「巨人のドシン1」は、ニンテンドー64本体以上に普及しなかった「ニンテンドー64DD」専用だったことが、第一の不幸でした。

「巨人のドシン解放戦線チビッコチッコ大集合」という拡張ディスクも発売されるのですが、自由度を縛るプレイ感が数少ないファンに不評だったことが第二の不幸になりました。

この拡張ディスクは超レアゲームになっていますが、流通本数が極端に少なかった(数百本程度らしい)ことが原因のようです。

現在では、64DD本体自体もプレミア化してしまったので、64DD版の「巨人のドシン1」を遊ぶことさえも、殆ど不可能な状況になっています。

その後、満を持してゲームキューブ版「巨人のドシン」が発表されるのですが、期待されたほどのヒットにもなりませんでした。

メディアがROMカセットから光ディスクになったことで、読み込みや動作が遅くなってしまったこと、ゲーム容量が少なかったためにフィールドが狭くなったことなど、ある意味ゲーム的に後退してしまったことが第三の不幸になりました。

幸(安く買えて遊べる)か、不幸(不人気なソフトの汚名)か、ゲームキューブ版「巨人のドシン」は、中古ゲームショップで投げ売りされているソフトのひとつになってしまっています。


ふたつのプラットホームで成功しなかったゲームタイトルを、改めてWiiでリメイクというのは、厳しいのかもしれません。

ただ、Wiiのコントローラならば画面上のポインタを合わせるのも容易なので、土地の上げ下げや、木や住民の選択などが、とても直感的に出来そうです。

ゲームとしての操作感も読み込み速度も向上させた”決定打”となりえるWii版「巨人のドシン」の発売を拙に願っています。



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2009/11/13

少年時代の友情は打算的で、犬は心の内を見破っている~「犬はいつも足元にいて」/大森兄弟著~


「犬」タイトル小説好きの僕としては思わず手に取らずにいられなかった「犬はいつも足元にいて」は、大森兄弟というふたりの実兄弟による共作というのが話題にもなっています。

テレビの取材の様子を観たかぎり、30代の兄弟にしては(気持ち悪いほど?)仲が良くて、愛し合っている草食系な兄弟でした。

家庭的にもとても幸せに育ったという話をしていましたが、彼らのデビュー作は僕を冷ややかな気持ちにさせました。


主人公の中1の少年の両親は離婚していて、離婚したこと自体も母親から説明がないほど崩壊している家庭環境にあります。

学校には”サダ”という友人はいるのですが、その繋がりは給食時間に一人になりたくないという理由でしかありません。

お互いをひとりきりにしないために学校を休むことはありませんが、支え合う友情ではなく、お互いを束縛しているだけです。

少年期の友情には、どこか打算的な理由があったのかもしれない・・・という苦いような記憶が頭に浮かびました。


サダが朝の犬の散歩にまで現れるようになって、それを疎ましく感じる少年の気持ちを読み取ったように、犬がサダの足に噛みつく事件が起こります。

自分の飼い犬が怪我をさせたという負い目を煽って、友情で優位に立とうと計るサダの、自傷行為は少年期の屈折なのかもしれません。

また、サダの脅迫を利用して別れて暮らす父親から大金をくすねたり、母親を意図的に傷つける言葉を発したりする、少年の悪意にも歯止めが効かなくなっていきます。

しかし、最後にはサダとの打算の友情しか、主人公の居場所はなかったのかもしれません。


主人公の少年が犬の散歩で立ち寄る公園の穴から出てくる腐った肉片が、繰り返し象徴的に出現するのですが・・・それは、犬の臭覚でしか嗅ぎ分けられない人の心の内なのでしょうか?

”犬はいつも足元にいて”本質を見破っているようです。



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2009/11/11

「感性のリトマス試験紙」は、いつの間にか手元から減っていました

「はやり」「すたり」というモノは、どっぷりと”その世界”に浸っているよりも、多少は距離をおいた方が、冷静に判断出来るのではないかと思っていました。

しかし、ことファッションに関しては、その世界に日々身を置いていないと、「はやり」を見失ってしまったり、「はやり」自体に興味がなくなってしまったりするようです。

「はやり」の情報を集めるとか、「はやり」を買い物をするだけではなく・・・「はやり」「すたり」に身を委ねて、善し悪しに関わらず変化に一喜一憂することでしか「感性のリトマス紙」の手札を更新し続けることが出来ないような気がします。


むかしむかしは、海外から来る情報を、いち早く「知る」ことが「感性のリトマス試験紙」を持っていることででした。

それは、服のシルエットだったり、あるブランドだったり、人気デザイナーだったり、情報そのものが「感性のリトマス試験紙」という時代でした。

その手札の数も多くはなく、「はやり」自体も広く世の中を巻き込むような流れで、猫も杓子も”ミニスカート””パンタロン”という分かり易かったのです。

ただ”肩パッド”の「はやり」以降、世の中を制覇するほどの「はやり」は、出現していないのかもしれません。

ファッションの市場が成熟してくると”人それぞれ”の好みを尊重する傾向が高まってきました。

マーケット自体が分類分けされ、各パイの大きさも随分と小さくなってしまったように思います。そうして「感性のリトマス試験紙」の種類もジャンルも増えてきました。


日本の場合には「雑誌」でジャンル分けできるところもあるので、見ない雑誌の「感性のリトマス試験紙」には、ピーンと来なかったりします。海外ではデザイナーやセレクトショップでのジャンル分けが、主流かもしれません。

いずれにしても、それぞれのジャンルに「感性のリトマス試験紙」の手札が必要になるわけで、すべての手札を揃えていることなんて無理な話です。

嗜好がさらに細分化されえていくことや、価格帯が両極化するということは、僕がファッション大学に通っていた1980年代頃から予測されていました。

ただ、実際にそういう時代になった時に、自分の「感性のリトマス試験紙」の手札が、すっかり減ってしまっていたとは思ってもみませんでした。


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2009/11/09

不条理な「悪」は「悪」によって救われる~「掏摸(スリ)」/中村文則著~


犯罪者の心理には人一倍興味があるのですが、犯罪の現場を目にした経験は一度しかありません。

クッキー屋さんでアルバイトをしていた時、一緒に働いていた聾唖の女性が売り上げを小さな金庫から札束を盗んでいる様子を目撃したことがありました。

自分自身が盗みを働いているわけではないのに、口が渇いて、心臓がバクバクしてきて、足が震えたことを覚えています。


中村文則氏の「掏摸(スリ)」は、丹念に書かれた主人公の犯罪者心理に、不快感さえ感じる小説でした。

主人公には「スリ」としてのルールがあって、どうターゲットを決めて、どうアプローチするのか、どの指をどう使って盗むのか、盗んだ後どうするのか・・・という細かなディテールは、まるで「スリの教本」のようです。


犯罪者としては勿論のこと、人間的には好きになれない性格の主人公ではあるのですが、不幸な環境の”子供”(名前はない)を救おうとする姿勢が、唯一人間らしさを感じさる「救い」になっています。

この”子供”は、売春を生活の糧にしている母親からは万引きを強要され、客になる男たちからは暴力を受けているというトンデモナイ不幸な状況なのです。

しかし、お涙頂戴の子供らしい健気さを感じさせないほど、この”子供”は淡々と生きています。

主人公がどうしてそこまで、この”子供”を救おうとするのかは分かりません。上手に万引き(盗み)が出来ないならば「盗みはやめておけ」という”先輩犯罪者”としてのアドバイスもあったりします。

本能的にスリとして生きるしかない自分自身を潜在的には否定しているのかもしれません。


スリ仲間と強盗の手伝いをしたことをきっかけに、”悪の化身”のような男から、主人公は命がけの3つの仕事を依頼されます。

失敗すれば自分の、逃げれば”子供”の、命が奪われると脅迫されて、不可能と思われた仕事をやり遂げます。

しかし、不条理にも主人公は制裁を受けてしまうのです。そして、最後の最後に彼は「スリの本能」によって救われるのです。


この世には、どうしようもない悪があって、どうしようもない人生があって、僕の知っている正義なんて意味をなさない・・・「悪」は「悪」なりの理屈で救われるのかもしれません。



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