2011/09/28

やはりお父上の血筋からは逃れられないのでございます・・・香川照之が歌舞伎俳優としてデビュー!



今の時代、男系男子継承が守られている世界なんて歌舞伎界ぐらいのもの・・・梨園の宗家に生まれた男子が歌舞伎役者にならないというのは珍しいことです。

三代目猿之助の長男として生まれながら、母親の浜木綿子に育てられた香川照之は、歌舞伎界とは一線を引いて、芸能界で俳優として活躍してきました。「猿之助」は澤瀉(おもだか)屋にとって大きな名前・・・本来であるならば長男が継ぐのが自然なことです。猿之助は梨園出身でない弟子の育成にも積極的で「跡継ぎには血筋は関係ない」などの発言もしていました。右近が猿之助の名前を継ぐのではという憶測もあったほどです。

しかし先日、猿之助の甥である亀治郎が、四代目猿之助を襲名するということと、香川照之が中車(ちゅうしゃ)という名前で来年6月の新橋演舞場での歌舞伎公演で、歌舞伎俳優としてデビューすることも発表されました。また香川照之の長男が団子としても初舞台を踏むということなので、将来的には五代目猿之助を継ぐのではとも、すでに噂されています。こうして「澤瀉屋」の血筋は守られていくということになったのです。

それにしても、45歳で歌舞伎俳優としてデビューというのは前代未聞のことであります。香川照之が生まれて1年後に猿之助と浜木綿子は別居、3歳のときに両親は離婚して、その後彼は歌舞伎界の御曹司として生を受けながら、歌舞伎のいろはを学ぶことなしに育つことになります。確かに・・・梨園の息子として生まれながら、歌舞伎界から自らの意志で退いた人は存在します。萬屋 錦之介は映画俳優の道を選びましたし、初代中村獅童(現中村獅童の父親)は役者として廃業して東映のプロデューサーとなりました。ただ、歌舞伎界でも重要な宗家の長男として生まれながら、まったく歌舞伎役者として育てられないという香川照之のようなケースは、たいへん珍しいことだと思います。

澤瀉屋の家系というのは、梨園のなかでもインテリ志向です。慶応大学出身の三代目猿之助よりレベルの高い大学を卒業させたいという母親の意向もあったのか、香川照之は東京大学を卒業しています。その後、役者として芸能界デビューするのですが「親の七光り」が明らかなスタートでありました。25歳の時、香川照之は父親と再会を果たしたそうですが、その時「あなたは息子ではありません。ぼくはあなたの父でもない」と言い放たれたといわれています。猿之助のあまりにも冷たい言葉の真意は分かりませんが・・・極論として好意的に考えると、息子と認めて跡継ぎになる苦労をかけたくないという親心だったかもしれません。その後、香川照之はVシネマで頭角を現して、今では演技派の俳優としての実力は誰もが認める存在となっています。

猿之助は浜木綿子との離婚後、初恋の人であった年上の藤間紫と結ばれることになるのですが、猿之助とのあいだには子供はいません。藤間紫は日本舞踏の家元・・・もしも、香川照之が浜木綿子に引き取られずに、猿之助と藤間紫によって育てられていたら「どんな歌舞伎俳優になったのだろう?」というのは、誰もが一度は妄想したことかもしれません。先日の会見で「お母さん、ありがとう」と香川照之が涙ぐんでいたのには、浜木綿子が長年の確執を乗り越えて、遂に息子を猿之助の元へ戻すことに承諾したということに対する感謝でしょう。

ある意味、猿之助と浜木綿子は「チャールズ皇太子」と「ダイアナ妃」のようなものなのかもしれません。猿之助(チャールズ皇太子)の生きる歌舞伎界(王室)から浜木綿子(ダイアナ妃)は息子の香川照之(ウィリアム王子)を連れて飛び出しました。香川照之(ウィリアム王子)は王権継承権を失いましたが、芸能界(民主主義の国)で自分の実力で得るまでになります。猿之助(チャールズ皇太子)は、初恋の人藤間紫(カミラ)とW不倫の末に結婚します。血筋を引かない後継者を育成しようとしますが、結果的にそういう人物は現れませんでした。藤間紫(カミラ)に先立たれ、自らも脳梗塞で倒れてしまったとき・・・やはり、頼りにするのは息子であり、自分の血筋を引く孫であったというわけです。こうして、香川照之(ウィリアム王子)は、再び歌舞伎界(王室)へ迎えられたのであります。

ただ・・・いくら血筋を引いているといっても、このたびの香川照之の決断は、かなり無謀なことのように思われ・・・これからがイバラの道であります。歌舞伎の役者の動きのひとつひとつは、幼い頃からの稽古の賜物・・・ちょっとやそっとの”お稽古”では身につきません。「スーパー歌舞伎」や「パルコ歌舞伎」のような大衆演劇的な舞台であれば、役柄によっては誤摩化しようがあるかもしれませんが・・・香川照之がデビューするのは本家本元、新橋演舞場での大歌舞伎の舞台。演目は発表されていませんが・・・初代市川猿翁と三代目市川段四郎の五十回忌追善であり、亀治郎が猿之助襲名の”お家”の大事な行事の公演なのであります。将来的には、新しく建て替えている「新」歌舞伎座の舞台を踏むこともあると思われます。

45年間も無縁だった父親と和解した香川照之に衝撃を感じながら、記者会見の様子を観てボクが涙が止まらなくなってしまったのは・・・香川照之とボクの境遇が、ちょっと似ているからかもしれません。

ボクも同じように物心ついたときには父親の存在はなく、母親によって育てられました。また、18歳の時、父親と会う機会があったのですが、その時に父親から”父親としての愛情”をボクに対して持っていないことを痛感させられました。その後、ボクは渡米し、父親とは一度も連絡を取っていません。例え、目の前で父親が死んだとしても、何も感情なんて生まれないと思ってきましたが・・・いつか父親が死んだ事を知った時には、こんなボクでえ、涙のひとつも流れてしまうのでしょうか?

やはり・・・親の血からは完全には逃れられないものなのかもしれません。

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2011/09/25

アラフォー女子目線のビタースウィートなドタバタコメディ・・・女性コメディアンらしい下品でリアルな”あるあるネタ”満載でゲイも共感!~「Bridesmaids/ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン」~



西洋の不思議な習慣のひとつが、結婚式での「付添人/立会人」の存在であります。(日本の結婚式の仲人の役目とは全く違います)花嫁側は「ブライズメイド」花婿側「グルームマン」で、ブライズメイドの代表が「メイド・オブ・オナー」でグルームマンの代表が「ベストマン」と呼ばれています。

ボク自身は20年のアメリカ在住中に、たった2度しか結婚式に出席したことがありませんが・・・どちらの結婚式でも、ブライドメイドがおりました。ボクは花嫁側の友人で招待客の中では付き合いも長くて仲が良い方ではあったけど・・・ブライドメイドにはなれませんでした、男だから!もうひとつアメリカの結婚式の習慣で、ボクが驚いたのは(花嫁の親の経済力があればの場合に限りますが)結婚式の出費は花嫁の父親が全額支払うということ。ボクが出席した結婚式のひとつは、ニューハンプシャー州の民宿みたな大きな一軒家を貸し切って行なわれたんだけど、花嫁側の招待客全員にベットルームが用意されていて”いたせりつくせり”でした。結果的に、その友人は数年で離婚してしまったけど、お父さまの出費は相当な金額であったことは確かであります。

ブライズメイドは、親しい友人、親戚から選ばれるのですが、名誉なことではあるけれど、その責任は大きいです。結婚の祝福するために、ブライダルシャワーから結婚式までの数々のイベントを企画/プロデュースして、成功させなければなりません。特にメイド・オブ・オナーの責任とプレッシャーは相当なもの。また、花嫁の純白のウエディングドレスの美しさを際立たせるためにブライドメイドたちは、デザイン的にひどく、キレイでない色のドレスを、自費で購入して着なければならないという損な役目を請け負います。そんな理由から、ブライドメイドのドレスと言えば、ブルー系やグリーン系のポリエスターサテンの、ゴチャゴチャしたデザインのドレスなんていうのが多かったりします。

ブライズメイドに焦点を当てた映画がアメリカで大ヒットしたのが、そのタイトルもズバリ「ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン」というコメディ映画です。サタデー・ナイト・ライブ(S.N.L.)出身のクリスティン・ウィグが、「40歳の童貞男」「無ケーカクの命中男/ノックドアップ」「スーパーバッド/童貞ウォーズ」などの男子目線のコメディを手掛けてきたジャド・アバトーから勧められて、コメディアン仲間のアニー・ムモロと共同執筆した脚本を、TVシリーズを演出してきたポール・フェイグが監督した「女子目線のドタバタコメディ」であります。アメリカでは歴代のS.N.L.出身のスターが主演した映画の中で最もヒットした作品となったという本作は、”ガールズ・ムービーの枠を超えた作品と言っていいでしょう。

アニー(クリスティン・ウィグ)は、元カレと始めたケーキショップの経営は破綻・・・小さなジュエリーストアで販売員のバイトをしています。ハンサムで金持ちだけど最低男のテッド(ジョン・ハム)にはナンバー3(後に判明する事実)の”セクフ”として、都合良く扱われているという、なんとも残念なアラフォー女性であります。ひとむかし前の言い回しなら「負け犬」ってことです。お互いに未婚で幼なじみの親友リリアン(マヤ・ルドルフ)の突然の婚約で、アニーは”メイド・オブ・オナー”を指名されるのですが、親友の結婚というのは未婚で残される側にとっては、いろいろと複雑な心境でもあったりするのです。

婚約発表パーティーは豪華なクラブハウスで行われることになるのですが、リリアンの婚約者の上司の妻で最近リリアンが仲良くなったという、ブライズメイドのひとりのヘレン(ローズ・バーン)は、若くて美しくてお金持ちのちょっと厭味な女・・・リリアンの一番の親友の座をかけてアニーに何かと挑戦的だったりします。子供のときからの思い出や、リリアンの趣味が一番分かっているのは「私よ!」という自負しかアニーにはなく・・・圧倒的な経済力とネットワークがあるヘレンには敵うわけありません。他3人のブライズメイドたちも個性的・・・新郎の姉メーガン(メリッサ・マッカーシー)は巨漢デブの変わり者、リリアンの従姉リタ(ウェンディー・マクレンドン・コヴィー)は性息子3人にうんざりしている主婦、リリアンの仕事仲間ベッカ(エリー・ケンパー)は空気読めない新婚の妻という、まとめきれないメンツばかりです。

ブライダルシャワーのプランは、メイド・オブ・オナーの大事な役目のひとつ。アニーは、子供の頃からパリに行きたがっていたリリアンのために「パリ」をテーマにしたシャワーの企画を提案するのですが、他のブライズメイドたちは、自分勝手なこと言いたい放題。その上、アニーが打ち合わせランチのために選んだ町外れにあるブラジリアンレストランでは怪しい肉料理が出されて・・・その後の展開はガールズ・ムービーにはありえないトンデモナイことになってしまいます。街でも最もファンシーなブライダルショップでブライドメイド用のドレスを試着し始めたところ・・・先ほどの肉料理で食中毒を起こしてしまうのであります。嘔吐と下痢便に襲われるという地獄絵図が繰り広げられることとなるのです。リリアンに至っては、ウエディングドレスの試着中に路上で垂れ流してしまうという悲惨な事態に・・・アニーの面目は丸潰れです。

バチェラレット・パーティー(女だけ参加できる花嫁と友達の婚前パーティー)は、ヘレンの根回しで決まったラスベガス旅行・・・しかし、行きの飛行機の中で睡眠薬とアルコールで”へべれけ状態”になって、アニーはヘレンに悪態をつくだけでなく、飛行妨害までしてしまう始末。結局、彼女たちは飛行機を下ろされて、旅行自体がオジャンになってしまいます。そこで、アニーはリリアンからウエディングの仕切りからのクビを言い渡されてしまうのです。

アニーに替わってヘレンが仕切ったブライダルシャワーは、アニーが元々提案していた「パリ」のテーマのパクリだけど、お金をかけた超ゴージャスなもの。アニーが思い出の詰まった手作り感のあるチープなプレゼントすれば、ヘレンからはウエディングドレスのフィッティングを兼ねたパリ旅行のプレゼントという圧倒的な差をつけられてしまいます。これでアニーもお手上げかと思いきや・・・嫉妬したアニーは、ぶっちぎれて会場をめちゃくちゃにしてしまいます。そして、遂にリリアンから結婚式への出席までも断られてしまいます。

そんなアニーにも、彼女に心を寄せる警察官のネーサン・ローデス(クリス・オダウド)というパッとはしなけど、優しい男が現れます。メイド・オブ・オナーをクビになって自暴自棄になったアニーは、彼とひと晩を共にしてしまうのですが、最低男のテッドを初め、12年前に母親(ジル・クレイバーグ)を捨てた父親の存在から、男を信用できなくなっているアニーにとって、彼の優しさや誠実さは重荷としか感じられません。このあたりは、アラフォー女性ならずし~んとくる”あるあるネタ”であります。

さらに、住んでいたアパート(大家が奇妙なイギリス人兄妹!)からは追い出され、ジュエリーストアでは不貞腐れの悪態ぶりに仕事も失い、オンボロの自家用車はオカマを掘られて壊れてしまうという、さらなる「人生のどん底」の深みにはまってしまうアニー。勿論、映画の最後には、ハッピーエンディングが待っているわけですが・・・リリアンの結婚式までに、まだまだ紆余曲折が用意されていて、アニーが学ばなければならない人生のレッスンがあるのです。

映画のエンディングで特別出演する”ウィルソン・フィリップ”という女性コーラスグループの大ヒット曲「ホールド・オン/Hold On」の歌詞は、本作のテーマそのもの!1990年頃に流行ったこの曲・・・当時はMTVで流れるたびに「ダサっ!」と聞き流していたボクでしたが、改めて聴いてみると妙に懐かしかったりします。

ブレーレイのメイキングによると、多くのシーンは役者のアドリブや現場での即興で、いくつものパターンを撮影した中から選んで編集したとのこと。台詞のひとつひとつがスタンドアップコメディのネタのように冴えているし、コメディアンとして演じてきた数々のキャラクターの積み重ねがあったからこそ、役柄のひとりひとりが生き生きとしていたのです

結婚を巡るドタバタということで「ハングオーバー」の女性版のような本作ですが、切ない人生の本質や女性の本音が見え隠れするハリウッドお得意の、大爆笑しながら、ちょっと真面目に人生も考えさせてしまうところもあったりする味深いコメディ・・・アメリカ社会のステレオタイプは勿論、台詞のニュアンスを理解できるかがキモの作品なので、字幕によって伝わらないジョークもあるかもしれませんが、シングルのアラフォー以上の女性は勿論、内面的にはシングル女性と共感できてしまうアロフォー以上のゲイにとっても「ブライズメイズ」は、ビタースイートな”あるあるネタ”満載の映画であります!

「ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン」
原題/Bridesmaids
2011年/アメリカ
製作 : ジャッド・アバトー、バリー・メンデル、クレイトン・タウンゼン
監督 : ホール・フェイグ
脚本 : クリスティン・ウィッグ、アニー・ムモロ
出演 : クリスティン・ウィッグ、マヤ・ルドルフ、ローズ・バーン、メリッサ・マッカーシー、クリス・オダウド、ウェンディー・マクレンドン・コヴィー、エリー・ケンパー、ジル・クレイバーグ
2012年4月28日より劇場公開


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2011/09/22

エレン・ペイジ演じる”ボルティー”は「キックアス」の”ヒットガール”を超える最狂のサイドキック!・・・「信じる者は救われる」キリスト教啓蒙映画?~「スーパー」~



何も特殊能力もない冴えない男が、スーパーヒーローのコスチュームを着てサイドキック(相棒)と共に悪者と戦う!・・・という設定から「キックアス」の”中年男版”のような作品かと思ったら大間違い。監督のジェームズ・ガンが、原作はウィリアム・ジェイムスの「宗教的経験の諸相」と語っているように、本作「スーパー」は、神の啓示を受けるという「宗教的体験」と「宗教的な救い」を描いたシュールな宗教映画でもありました。

人生の中で「パーフェクトな瞬間」というのが、妻サラ(リブ・テイラー)と結婚した時と、警官に犯人が逃げた方向を「あっちです」とチクった時・・・という中年男のフランク(レイン・ウィルソン)は、その二つの出来事をイラストにして壁に貼っておくような、残念で優しいだけの大男。ドラッグリハビリ中の妻サラが、再び悪い仲間と付き合い出しても何も言えません。ある日、サラはドラッグディラーのジョック(ケヴィン・ベーコン)のところへ、家出してしまいます。フランクの妻に対する思いとは裏腹に、自主的な家出なので警察では取り合ってくれないし、サラ本人もフランクの元へは帰るつもりはない様子。フランクに出来る事と言えば・・・「サラをもう一度、ボクのサラにしてください」と神に祈ることであります。

「信じる者は救われる」・・・光輝く神の触手が直接触れることによって、クリスチャンチャンネルのキリスト教啓蒙番組のスーパーヒーロー”ホーリー・アベンジャーのように「悪と戦え!」という神の啓示を受る(と思い込む)のです!キリスト信者でない者にとってはイマイチ意味の分からない「神の啓示」が、これほど”具体的”かつ”悪趣味”に描かれたことはなかったのではないでしょうか?フランクは子供のときから、ジーザスの姿を壁に見たり、イタズラしている悪い友達が悪魔のように見えたりするという、バリバリのキリスト教の信者なんだけど、神の啓示を受ける妄想はかなり独特なのもの。触手はグニョグニョしていて「スリザー」(ジェームス・ガン監督によるエイリアン寄生ゾンビ映画)のナメクジ状生命体みたいだし、フランクの頭部をスライスして”まさに”パッカリと開いて脳みそそのものに触るのだから・・・。

こうして神より悪と戦う使命を与えられた信じる(信じ込んだ)フランクは、コミックブックを参考にスーパーヒーローの衣装を自作して、クリムゾンボルトとしてリゼレクション(再生)します。悪と戦う心を持つことで”スーパーヒーロー”になるわけです。ただ、超人的な能力もなく、武器を持っていないフランクは、袋叩きにあったり、逃げるしかないという始末・・・そこで、コミックスストアの地味な女の子店員リビー(エレン・ペイジ)のアドバイスを参考にして、でっかいレンチを武器(凶器)に戦うことになるのです!

しかしフランクの悪との戦いというのは、正義(法律的にも、宗教的にも)という名のもとに、凄惨な暴力行為をする「通り魔」的なほぼ犯罪行為・・・いくら麻薬を取引したり、少年を性的に虐待したからといって、一方的に殴り倒すのは、まるで神の名のもと戦争を繰り返したキリスト教の歴史そのものであります。映画館で横入りをしてきたカップルに対してまで、わざわざクリムゾン・ボルトの衣装に着替えて、レンチで容赦なく頭を殴るのは、もはや”正義”でもありません。確かに、列を横入りすることは”間違ったこと”ではありますが・・・これこそ信仰が狂気と化してしまう時。ウィリアム・ジェイムスが100年以上も前に分析、究明した宗教信仰の問題点であります。

クリムゾン・ボルトとして暴走しだしたフランクを上回るのが、コミックストアの女店員リビーです。フランクが、クリムゾンボルトであることを突き止めたリビーは、自らを「クリムゾン・ボルト」のサイドキック(相棒)としてボルティーを名乗り、共に悪と戦うと言い出すのであります。ただ・・・このリビーという女は、単なる暴力フェチでセックスマニアの”サイコ”。ボルト・モービル(フランク所有の普通車)で麻薬ギャングの下半身を壁にはさんで粉々にして、はしゃいでいるという狂気っぷりには、さすが引き気味になってしまう・・・その上、暴力で欲情しちゃったリビーは、ボルティーの衣装のままでフランクにエッチを迫ったりとやりたい放題。

「キックアス」のヒットガールのクロエ・グレース・モリッツが「いたいけな少女が人殺している!」という「ロリコンでマゾ」の”萌え”や、画的な暴力の格好良さとか全然なくて・・・エレン・ペイジ演じるリビー/ボルティーの不謹慎な暴力には爽快感はなく、えげつなくて生々しい悪趣味さばかりが目立ちます。暴力は暴力の連鎖を生み・・・最後には残酷な形で報復されるということをリビー/ボルティー自身が身をもって証明してしまうのですから。

ここからエンディングまでのネタバレあります。

リビー/ボルティーの正気の沙汰でない行動は、通り魔的な暴力をふるってきたフランク自身にとっては、反面教師となるのです。そもそも、何故「クリムゾン・ボルト」になったのか?・・・という一番の目的(妻サラを麻薬ディラーのジャックから取り戻すため!)を、フランクに思い起こさせるのです。悲しいかなフランクの最大の理解者でもあるのが、リビー/ボルティーだけというのが、何とも切ない・・・フランクはクリムゾンボルトとしてボルティーと麻薬ディラージャックの屋敷へ向かうのであります!

屋敷での殺戮は凄惨そのもの・・・ギャング達の体は、ダイナマイトで粉々に血しぶきをあげて砕け散ります。しかし、暴力のための暴力をする暴力フェチのリビー/ボルティーは、あっけなく顔半分をライフルで撃たれて死んでしまうのです。クリムゾン・ボルトは屋敷にるすべてのギャングを惨殺して、麻薬ディーラーのジャックを追い込みます。あっさりとサラを差し出しすジャックは、俺を殺したからって世界は変わらない」と命乞いをしますが・・・「それは試してみるまで分からない!」と、フランク/クリムゾンボルトはナイフでジャックをめった刺しにして殺してしまいます。そして、ヒーローのようにサラを救いだし、元の生活に戻っていくのです。ただ・・・一旦はフランクの元へ戻ったサラですが、数ヶ月して再びフランクから去ってしまいます。彼女は大学で勉強をして麻薬カウンセラーとなり、別な男と結婚して4人の子供をもうけて、幸せに暮らしています。

神の啓示を受けて悪と戦ったフランクは、クリムゾンボルトを引退して、ひとり静かに暮らしています。ただ、クリムゾンボルトになる前との違いは、日々の小さな出来事や人との関わりを「パーフェクトな瞬間」として、ひとつひとつ大事にして感謝できるようになったということ。まさに、これこそが宗教がなせる癒しの効果であり、紆余曲折ありながらもフランクは、神と出会ったということなのかもしれません。数々の「パーフェクトな瞬間」のイラストを眺めながら至福のときを過ごしている姿で映画は終わりますが・・・サラが去った後のフランクの日常は、そんなには素晴らしくはないはず。それでも、フランクが幸福感を感じるのは、やはり「神のおかげ」「信仰があるこそ」なのです。

「信じる者は救われる」・・・「スーパー」は、まぎれもなく悪ふざけの過ぎたキリスト教啓蒙映画”でも”あるのです!


「スーパー」
原題/Super
2011年/アメリカ
監督 : ジェームズ・ガン
脚本 : ジェームズ・ガン
出演 : レイン・ウィルソン、エレン・ペイジ、ケヴィン・ベーコン、リブ・タイラー



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2011/09/16

ペドロ・アルモドバル監督の最新作にして最高傑作!・・・屈折した妄想の変態医療と究極のサバイバル~「私が、生きる肌/The Skin I Live In/La Piel Que Habito」~



スペインのペドロ・アルモドバル監督は、アメリカで(日本でも)初めて劇場公開された彼の5作目となる「マタドール~炎のレクイエム~」を1986年に観てから、ボクの大好きな監督のひとりであります。「精神衰弱ぎりぎりの女たち」で世界的にブレイクして、その後初期作品もさかのぼって次々と公開されました。アブノーマルな人々がアブノーマルな状況で、予想だにしないアブノーマルな事が唐突に起こるアルモドバル作品は、ボクの映画の嗜好にも大きく影響を与えています。中でもアントニオ・バンデラスがゲイの青年を演じた「欲望の法則」には、当時の鬱屈していたボクの精神状態を表すかのように、陶酔しきって何度も繰り返し鑑賞したものです。

その後、アルモドバル作品はよりスタイリッシュに洗練され、作風も円熟していくのですが・・・初期作品にあった熱量の高い狂気が欠けていくように感じることもありました。アルモドバル作品は”アルモドバル劇団”のように同じ俳優が出演することが多いのですが、アントニオ・バンデラスは、垢抜けないけど性的魅力に溢れ、一途で純粋だけど狂気のストーカー気質の繊細な青年を演じていました。しかし1990年製作の「アタメ」を最後にバンデラスはアルモドバル作品からは姿を消し、ハリウッドへ活動の場を移してしまいました。

本作で、20年ぶりにアントニオ・バンデラスがアルモドバル作品に復帰しました・・・原作の映画化権を獲得後、アントニオ・バンデラスが出演できる時期を待って撮影された(マリザ・ペデレス談)ということですから、アルモドバルがバンデラスを念頭においていた作品と言っても良いでしょう。そして、アルモドバルの初期作品以上に、アブノーマルで狂気な執着心に満ちた役柄であります!

「私が、生きる肌/The Skin I Live In/La Piel Que Habito」は、フランスのミステリー作家ティエリー・ジョンケの「蜘蛛の微笑」を原作としていますが、原作を忠実に映画化したわけではなく、あくまでも”あるシチュエーション”を流用してアルモドバル風に書き直したと言える作品です。タイトルからは「顔のない眼」を、予告編のスキンヘッドの女性が暴れているシーンからはサミュエル・フラーの「裸のキッス」を連想させるところがありますが・・・物語の伏線、キャラクター設定や、細かなディテールは、30年にも渡るアルモドバルの集大成とも言えるほどのアブノーマルな世界観を詰め込んだ・・・”アルモドバル・ファン”にとっては「待っていました!」という作品でありました。

2011年9月15日から開催されている「ラテンビート映画祭」のオープニング作品として新宿バルト9にて上映されました。ゲストスピーカーにアルモドバル作品の常連だったマリサ・ペデレスを迎えての舞台挨拶と上映後のQ&Aというサプライズもありました。おそらく日本でも公開されると思われる本作ですが、ボクにとってアルモドバル作品のなかでも最高傑作と思える作品をいち早く鑑賞できたことは、大変嬉しかったです。

大きな屋敷に閉じ込められている全身タイツを来た女性ベラ(エレナ・アンヤ)・・・屋敷の主人の形成外科医のロベルト(アントニオ・バンデラス)は、ベラを寵愛して監視しているようです。ロベルトとベラの世話をするのは、父親の代から屋敷のメイドを務めるマリリア(マリサ・ペデレス)。その屋敷に宝石強盗として追われているマリリアの息子ゼカ(ロベルト・アラモ)が押し入ってきます。ゼカは母親のマリリアを拘束して、ベラが監禁されている部屋に入り、はベラを激しくレイプします。それは過去にも同じことがあり、それを思い出させるかのように・・・。帰宅したロベルトは逆上して、ゼカを射殺してしまいます。

実はゼカだけでなく、ロベルトもマリリアは生んだ息子でありました。ロベルトの父親は無精子症と言われていたのですが、メイドのマリリアに手を出して妊娠させてしまったのです。将来的にも跡継ぎが生まれる可能性も少ないので、ロベルトは母親の生んだ息子として育てられたのです。そして、その後に生まれたゼカは、母親の元を離れて犯罪の世界で生きてきたのです。このレイプ事件後、ベラも普通の愛のある生活をしたいとロベルトに懇願します。しかし、マリリアはベラのことを信用していないどころか、存在さえも消してしまえと思っているようなのです。

ロベルトはベラの監禁状態を緩めて、マリリアとの買い物の外出も許可するようになります。ロベルトとベラは、ベットを共にするようになるのですが・・・それぞれの夢の中(?)で、過去に起こった事件が明らかになっていきます。

12年前、ロベルトは交通事故で焼けた車から妻を救いますが、自分自身の焼けただれた姿を見てしまった妻は娘ノーマの目の前で飛び降り自殺をしてしまいます。その後、ロベルトは人工皮膚の研究に没頭するようになったのです。実は、ロベルトの妻はマリリアの息子のゼカに犯され誘拐された上に、車ごと燃やされて殺されそうになっていたのでした。ロベルトが監禁しているベラの顔は、どうやら亡くなったロベルトの妻と瓜二つらしい・・・ベラって一体何者なのでしょう?

今から6年前、母親の自殺後に対人恐怖症になってしまった娘ノーマ(ブランカ・スアレス)も回復して、友人の結婚パーティーにも出席できるほど元気になっています。母親の経営するブティックで働くビンセンテ(ジャン・コーネット)は、ブティックで働くガールフレンドのクリスティーナを誘ったものの断られて、仲間とこの結婚パーティーに参加しています。ドラッグの取り過ぎでトリップしているビンセンテは、ノーマを誘って他の若者達と暗い庭に出て、エッチなことを始めようとします。しかし、愛撫をされ始めるとノーマはパニックを起こして気を失ってしまいます。バイクで逃げるビンセンテを目撃していたのは、娘を心配して捜しにきたロベルトでした。ノーマは、襲ってきたビンセンテと父親のロベルトの区別さえ付かないほどの酷い精神状態になり、母親と同じように窓から飛び降り自殺してしまいます。

ここからは筋のネタバレを含みます。本作を観る予定のある方は、グレーの部分は絶対に読まないことをお奨めします。

娘の復讐のため、ロベルトはビンセンテのバイクに衝突して拉致してします。そして、ビンセンテを小屋の地下に監禁して、ろくに飲み物や食べ物を与えずにギリギリの精神状態まで追い込みます。そして自宅の手術室へ運び・・・ビンセンテに「性転換手術」を施してしまうのです!そう・・・ベラという女性は性転換させられたビンセンテだったのです。術後、人口膣が閉じないようにペニス形の張型を渡したりします。そして、ビンセンテはロベルトの研究している人工皮膚の人体実験のモルモットとして全身の皮膚を移植され、顔まで妻そっくりに整形されて、ベラとして生まれ変わらせられていたのです。

ここで映画は現在に戻ります。従順な妻として再生したように見えたベラ(ビンセンテ)ですが・・・ふと目にした新聞で行方不明者として、捜索されている以前の自分の写真を目にしてしまいます。ベラが遂に女性としてロベルトと結ばれることになる夜・・・ベラはロベルトを射殺します。息子を心配して部屋に入ってきたマリリアも、ベラ(ビンセンテ)によって射殺さます。長年逃げる機会をうかがってきたベラ(ビンセンテ)は、なんとかして母親のブティックのあったところへ向かいます。そこには年老いた母親とクリスティーヌが、今でもブティックをやっていました。ベラとなったビンセンテに気付かない母親に対して、自分はビンセンテであると名乗るところで映画は終わります。唐突に終わってしまうところが、いかにもアルモドバルらしいところです。

「私が、生きる肌/ザ・スキン・アイ・リブ・イン/The Skin I Live In/La Piel Que Habito」は、ボクが陶酔していた頃のアルモドバルの初期作品で変質者の執念と妄想を描いた「マタドール~炎のレクイエム~」「欲望の法則」に近い、久々のダークな映画となっています。そして、もう繊細な青年ではなく・・・渋くて重厚な貫禄さえ漂わせるアントニオ・バンデラスが、阿呆みたいなラテン系男性の典型的な役ではなく、内面的な「狂気のオーラ」をアルモドバルによって蘇らせているのです。ハリウッドで出演した映画では演技賞などには完全に無縁なバンデラスですが、本作ではもしかして、もしかするとオスカーのノミネートもありえるかも(?)と思えるほどの熱い演技を見せております!

近年の女性/母性を讃歌した作品も素晴らしいですが、やはりアブノーマルな世界こそがアルモドバルの神髄・・・それにはアントニオ・バンデラスが欠かせないということを、20年経って確信させた作品でありました。


「私が、生きる肌」
原題/La Piel Que Habito
2011年/スペイン
監督 : ペドロ・アルモドバル
脚本 : ペドロ・アルモドバル
原作 : ティエリー・ジョンケ
出演 : アントニオ・バンデラス、マリサ・ペデレス、エレナ・アンヤ、ジャン・コーネット
2011年9月15日「ラテンビート映画祭」オープニングにてプレミア上映
2012年5月26日より日本劇場公開



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2011/09/14

”正直者”より”嘘つき”が好きになったわけ・・・「二号さん」という立場の上に、結局は捨てられてしまったの!~アイルランド系アメリカ人「B」~



経験がそれほどない若いときは、恋愛に関しても、セックスに関しても、結構”純粋”ものです。まぁ、若いときからずっと”淫乱ヤリマン”だぜぇ~っていう強者もいるかと思いますが・・・セックスに関する情報なども限られていた昭和”に育ったボクからすると、お互いに好き合っている者同士が付き合ってからセックスするものという既成概念に縛られていたところはありました。それは、多少なりとも「結婚」というストレート社会での表向きのルールに無意識に洗脳されていたというところもあったのかもしれません。

1980年初頭にニューヨークに移り住んだ18歳のボクの貞操感覚は、当時のティーンエイジャーとして特に保守的だったわけではなかったと思いますが・・・エイズ以前のニューヨークのゲイシーンは、ゲイの人権運動とフリーセックスの精神で、ガンガンと”やりまくり”が当たり前。週末に出会ったワンナイトスタンドの相手の数を、日曜日のブランチで友人たちと競い合うなんていうのが、当時はごくごく普通のゲイライフだったのでした。ただ、18歳のボクにとっては、そう易々と受け入れたわけでもなく・・・ゲイの友人たちからは「お固い子」として、レッテルを貼られていました。

そんなボクですから・・・付き合っている人(セックスしている人)がいるのに別な人とセックスするような「浮気」はアリエナイし、まして、恋人と同居している人とセックスしたりする「浮気相手」になるなんて、絶対にアリエナイと思っていました。

「B」とは、友人のパーティーで知り合いました。アイルランド系によくいるガチムチ体型にフルフェイスの髭は、まさに「熊系」。それでいて、キラキラしたブルーの瞳は少女マンガの夢みるキャラクターのようで・・・「B」の人柄の良さが現れていました。次の週末には食事に行こうとトントン拍子で、デートも決まりました。最初のデートに選んだレストランは、当時ボクの住んでいたアパートのほぼ正面にあるスペイン料理店・・・もしかして、食事後には「なるように、なってしまうのかも〜!」と、一人で勝手にドキドキしていたのです。たった一度しか会っていないのに、ボクはすっかり「B」と付き合うことになるのだろうと思い込んでしまっていたのでした。

食後のデザートが運ばれてきた頃「B」は、ボクに打ち明け話をしてきました。実は大学時代から付き合っている「彼」がいて、その「彼」とは15年ほど一緒に暮らしていること・・・ただ、ここ10年はカラダの関係は一度もないというのです。一度も浮気はしないできたけれど、そろそろ限界を感じ始めていた・・・そんなタイミングで、ボクと知り合ったということ。セックスだけではなく、もう一度「恋愛をしたい」と切実に思っている・・・とも。ただ、一緒に住んでいる「彼」とは、今後も同居を続けるつもりでいることも告げられたのでした。

「B」の告白は、今振り返って思えば・・・自分勝手な言い分ではあるのですが、当時のボクは、その正直さに心を動かされてしまったのです。それまでは「浮気相手」になることには、自尊心が傷つけられたものでしたが・・・「B」と「彼」の関係は恋愛としては破綻しているから、セックスを含んだ恋愛関係という意味では「浮気」ではないのではないか?・・・なんて、「B」との関係を肯定するためには、自分に都合の良いように考え始めていました。すでに「B」のことが好きになってしまったボクにとって、これこそが典型的な「二号さん」的な立ち位置ということさえ理解していなかったのです。

最初のデートから、一週間後に「B」をボクのアパートに招待しました。当時、セックスの経験が豊富でなかったボクにとっては、相性がどうのこうのというのは分からなかったのですが・・・「B」との優しいセックスに大満足していたのでした。それからは、週に一度は「B」がボクのアパートに来て、デートとセックスを繰り返しました。ただ、どんなに遅くなっても「B」は、ボクの部屋に泊まることはしませんでした。ニューヨーク市内は運行間隔は1時間に2本とかになるものの、基本的に24時間サブウェイは動いているので、「B」はタクシーを使わなくても帰宅することができたのです。

毎週「B」と会うようになると・・・お互いの育ちのこと、仕事のこと、夢のはなしなど、さまざまなことを語り合いました。時には「彼」との生活の不満も耳にすることもありました。15年一緒に暮らした時間には敵わないけれど・・・今の「B」のことは、同居している「彼」よりも、ボクが一番分かっているという自負が次第に生まれてきました。「B」は、ボクと「B」との関係のことは「彼」には秘密にしていたのですから。「B」がボクに対しては100%正直であること・・・それがボクにとっては「B」の”愛の証”だと信じていたのです。

そんな関係が一年ほど続いたころ・・・夜中の2時だろうと帰宅する「B」の後ろ姿をみて、とめどなく切なく感じ始めたのです。週に一度だけはボクと「B」は、恋人同士のように過ごしているけど一夜を過ごすことはなく・・・ボクは「B」と「彼」の事情を理解させられているけど「彼」はボクの存在さえ知らない。自分はまぎれもなく「二号さん」であることを実感させられたのでした。

それから、ボクは徐々に「B」に対して、ボクの部屋に泊まらないことや、ボクのことを「彼」に告白しないことを、なじるようになりました。「B」と「彼」の同居生活を壊したいとは思っていませんでしたが・・・ボクと「B」の関係を「彼」を含む「B」の周りの人たちにも認知して欲しいという欲求が生まれてきたのです。しかし、それは絶対に敵わぬ思いだったのでした・・・「B」は「彼」とは別れる気なんて全くなかったのですから。

「B」と「彼」は、他の人とセックスをしたり、恋愛をしたりしているのではないかとは、お互いに察していましたが、腹を割って話し合って、性的にオープンな関係にするつもりは、まったくなかったようです。「Don't Tell, Don't Ask/話さず、尋ねず」でルールで、二人の同居しているアパートに誰かを連れ込んだり、誰かのところに泊まったり、誰かとセックスしたことを話したりというのは、お互いにしないことになったいたのでした。「B」と「彼」は、まるで目や耳を塞ぐことで成り立っているような”偽りの関係”・・・それに対して、ボクと「B」は、お互いに正直にすべてを話している”真実の関係”であるとボクは思い込んでいたのですが、それは突然の思いもよらない事態で”大間違い”であったことをボクは知ることになります。

ある晩、突然「B」から別れを告げられたのです。「二号さん」の立場を甘んじてさせられていたボクとしては、別れを告げるのは自分でなくてはならないと勝手に思っていました。それは、ボクにとっては「二号さん」としてのプライドだったのですが・・・プライドを持つなんて、唾を上に向かって吐くような行為なんだと思い知らされることとなったのです。

ボクはいつしか「B」にとっては、罪悪感を感じさせる存在になってしまったのでした。「B」からすれば、すべてを話して納得した上でボクは付き合っていたはずなのに、ボクと会うたびに責められて罪悪感を感じさせられてしまうと。「罪悪感」とを感じる関係は、絶対に長続きはしません。また、ボクの立場からの欲求も理解できないわけでもなかった「B」にとって、次第にボクと付き合うことが苦痛になっていったのかもしれません。

「二号さん」という立場に甘んじた上に、最終的には振られてしまうなんて・・・ボクとしては、どうしても納得することが出来ませんでしたが「B」の決心は変わりませんでした。「納得するように説明して!」と訴えるボクに対して、言葉を変えて繰り返し説明をする、どこまでも優しい「B」・・・かすかであっても復縁する希望を持ちたいボクにとっては、「B」の誠実な対応がさらにボクを傷つけたのです。

数時間後、ボクは「B」に帰宅を促しました。もう、これ以上話し合っても、何も変わらないと悟ったのです。ただ、その翌日から「B」からボクの様子を心配して、毎日電話がかかってきました。もしかすると、ボクが自殺とかするのではないかと思っていたのかもしれません。ボクの心の傷は「B」と話すことで癒されることは永遠にないと思えたので・・・「もう二度と電話しないでくれ」と伝えたのでした。

「B」と付き合ったことでボクが学んだのは・・・一番大事な人には、嘘をつくっていうこと。

守りたい関係だからこそ、その関係を守るために、人は嘘をつくもののようです。それならば、最初から嘘をつくようなことをしなければ良いのに・・・という話なのですが、それでも嘘をつかなければいけないようなことをしてしまうものだったりします。それは「浮気」とか「セックス」に限ったことではないかもしれないけど・・・守りたい関係を脅かすような不愉快なことではあるようです。「二号さん」や「セクフレ」には「相方いるんで・・・」とか、「結婚している」とか、前もって言っておくっていうのは”誠実さ”や”優しさ”とかでは全然なくって・・・嘘をつくという”重荷”さえも抱えないということ。バレるような嘘をついたり、白々しくシラをきり通すほど、絶対に失いたくない・・・そんな守りたい関係の人に、ボクはなりたいであります。

だから、ボクは「正直者」よりも「嘘つき」が好きになったのです。

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2011/09/03

”ファッションデザイン”をテーマにした映画はダサい!・・・まるで最近の歌詞のような感動ありきの薄っぺらいステレオタイプの青春物語~「ランウェイ☆ビート」~



ファッションモデルを描いた映画というのはあっても、ファッション”デザイン”を描いた映画というのは、それほど多くありません。時代感を表すために”ファッション”は重要な要素でありますが、リアルタイムの”ファッション性”とか、”おしゃれ感”を、実際の服で表現するというのは、実は非情に厄介なことなのです。最新のトレンドを映画の中で打ち出せば打ち出すだけ、映画館やDVDで観ている時点では古臭くてダサくなってしまうからです。奇抜だと、殆どの観客からは「誰がこんな服着んの~?」と冷笑されること間違いありません。・・・と言って、無難なファッションでは、物足りないという「パラドックス」に陥ってしまうのであります。

そんな高いハードルにも関わらず・・・真っ向うから「ファッションデザイン」をテーマに邦画初(?)のファッション映画に挑戦したのが「ランウェイ☆ビート」です。東関東大震災直後(3月19日)に公開されたのですが・・・震災後の自粛もあって、十分な宣伝活動も出来なかったという不運な映画であります。しかし、予想以上の出来の悪さに「このまま忘れられた方が良いのに・・・」と思ってしまうほどでありました。

「ビート」こと溝呂木美糸(瀬戸康史)は、母の病死後、山梨の甲府で小さな洋裁店を営む祖父に育てられていたのだけど、白血病の恋人の宮本きらら(水野絵梨奈)の転院に合わせて、東京の月島の青々学園に転校生としてやってきます。クラスには・・・雑誌で活躍するティーンモデルの「ミキティ」こと立花美姫(桐谷美鈴)、散髪屋の娘の「メイ」こと塚本芽衣(桜庭ななみ)、もんじゃ焼き屋の娘の「アンナ」こと秋川杏奈(IMALU)、ひきこもりだった留年生で”いじめられっこ”の「ワンダ」こと犬田悟(田中圭)、洋品店の息子で””いじめっこ”の郷田豪介(加冶将樹)らがいるのですが・・・ステレオタイプで固めただけの、なんともリアリティのないキャラクターたちであります。

まず・・・人気モデルからだという理由で、クラス内で女王さま扱いのわがままし放題しているミキティといういう女の子はどうなのよ〜という話。こんな性格の悪いのに、性懲りもなく文化祭でミキティをモデルにしてファッションショーを開く計画をしているというのも奇妙なクラスです。ワンダという冴えない留年生に対するイジメも陰湿(女装みたいな格好をさせる)です。そのクラスにビートが転校してくるわけですが・・・初日からメイと共にワンダくん宅に押し掛けてカッコいい男の子に大変身させてしまい、翌日クラスメート達を驚嘆させるほどカッコいい服のデザイン画を披露して、いきなりクラスは一丸となってビートのデザインした服の製作に取り組むことになるのです。ひとりの転校生によって、これほど急に今までの人間関係が変わってしまうクラスって・・・ありえません!

実はビートの父親(田辺誠一)はアパレルの大手会社、スタイル・ジャパン社の企画部長で、ビートが文化祭でファッションショーをすることが週刊誌の記事になってしまうという・・・何とも凄い「親の七光り」です。何の脈略も努力もなく、いきなり「モードの天才」という設定のビートの才能は、”父親譲り”ということなのでしょうか?そんなビートの”決めスタイル”は、タータンチェックのプリーツスカートをパンツの上から穿くというもの。服のラインのデザインは、何枚の布を縫い合わせたロックっぽいスタイルで、良く解釈すればファッションデザイン学校へ進学しようとしている子が頑張ってデザインした感じでしょうか?ただ、こんな服をみてカッコいいと思えるのって、よっぽど情報から隔離された地域の子しかいないように思います。そんなビートの服のデザインを、あるアパレルメーカーがコピーしたということで、クラスメート達との間に亀裂が生まれるのですが・・・タータンチェックに星形のスタッドって子供服もどき過ぎます。結局、このコピー騒ぎで、ビートは文化祭のファッションショーを放り出して、学校に来なくなってしまうのですから、かなり無責任な行動です。

その後、母親が病気で亡くなる時に側にいなかった父親とビートの確執や、白血病の移植手術に望む恋人きららと、ビートに恋するクラスメートのメイの逸話などがあるのですが・・・過去に存在したドラマの状況や台詞を引用したのではないかと思えるほど”ステレオタイプ”の展開。クライマックスは、劇場上映時には「3D」であったという校庭でのファッションショーとなるのですが・・・舞台装置は高校生のレベルで出来るとは思えないほどの大仕掛けです。代理店とかイベント屋さんが関わったみたいなダサいファッションショー・・・「東京ガールズコレクション」が、最高のファッションショーと思える人たちにとっては「ステキ!」と共感出来る世界観なのかもしれませんが。それにしても、このファッションショーのシーンだけを、わざわざ「3D」にする必要って、本当にあったのでしょうか?

この映画で最も驚くべきことは、いろいろなエピソードが物語全体の流れに、それほど影響してないということです。「心地よい台詞」を言わすため”だけ”に、各エピソードの状況を作っているだけで、キャラクターは”ステレオタイプ”以上の存在にはなれません。作品で伝えたいテーマを、作り手がズバリ言葉で説明してしまうのは、本来とってもダサいことなのですが・・・最近の観客というのは、台詞で何度も繰り返さないと理解出来ないってことなのでしょうか?観客が頭悪くなったのか・・・それとも作り手が頭悪くなったのか・・・おそらく、どちらも頭悪くなったということなのかもしれません。ちょっと前までは、映画だって、歌の歌詞だって、情景を表現してテーマは観客や聴く人の技量に任されていたものです。近年の日本の音楽も伝えたいことをズバリ言うだけの薄っぺらい歌詞ばかり・・・散々使い古された感動ありきの「心地よい言葉」ばかり並べられても、その言葉の薄っぺらさ以外に何を感じれば良いのでしょう?

「ランウェイ☆ビート」は、物語は使い古しのステレオタイプを切り貼り、俳優たちの大根っぷりもススゴ過ぎて学園祭の劇レベル(中でもIMALUは映画初出演だけど、あまりにも酷い!)・・・いいところなしです。「信じていれば、必ず変われる」というのが、この映画で伝えたいテーマということだと宣伝しているけど、劇中でも何度もビートに台詞で言わせるという陳腐さ・・・わざわざ映画にして伝えるほどのテーマでもない上に、それを熱く伝えているつもりになっている薄っぺらい演出に冷笑するしかありませんでした。

今年のワースト邦画に入るのは確実と言える・・・かなりデキの悪さを”極めた”作品であります!

そう言えば、今年は北川景子と向井理の「パラダイス・キッス」というファッション映画もありました・・・こちらも、かなりデキは悪そうで、ある意味、レンタル開始されるのが待ち遠しいです。(鼻っから劇場で観る気はありません!)


「ランウェイ☆ビート」
2011年/日本
監督 : 大谷健太郎
脚本 : 高橋泉
原作 : 原田マハ
出演 : 瀬戸康史、桐谷美鈴、桜庭ななみ、田中圭、IMALU、田辺誠一、吉瀬美智子、RICAKO



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2011/09/01

「E.T.」+「未知との遭遇」のスティーヴン・スピルバーグ・リスペクト・・・サイモン・ペグとニック・フロストのオタク系ホモ・ソーシャルな”男の子ムービー”~「宇宙人ポール」~



「ショーン・オブ・ザ・デッド」「ホット・ファズ/俺たちスーパーポリスメン」で知られる”サイモン・ペグ””ニック・フロスト”の、映画オタクのイギリス人コンビ(脚本と主演)が、「宇宙人ポール」で遂にアメリカ上陸であります。「ショーン・オブ・ザ・デッド」では、ゾンビ映画、「ホット・ファズ/俺たちスーパーポリスメン」では、ポリスバディムービーをネタにして、リスペクト&オマージュ満載の作品で知られている二人ですが、本作は、J.J.エイブラム監督の「スーパー8」とは、違う方向性のスティーヴン・スピルバーグ(「E.T.」「未知との遭遇」「レイダース/失われたアーク」など)のリスペクト映画となっています。それも、スピルバーグ本人が(声だけですが)カメオ出演をしているという”お墨付き”です。ただ、前2作(「ショーン・オブ・ザ・デッド」「ホット・ファズ/俺たちスーパーポリスメン」)で組んだエドガー・ライト監督ではなく・・・「スーパーバッド/童貞ウォーズ」「アドベンチャーランドへようこそ」のグレッグ・モットーラ監督と組んだということもあってか、イギリス的な悪趣味ギリギリ感(バイオレンスやジョークの表現)は、若干薄まった印象ではあります。

アメリカの”コミコン(Comic-Con)”に参加したイギリス人のイラストレーターとライターの二人組(サイモン・ペッグ/ニック・フロスト)が、キャンピングカーでアメリカ旅行の途中エリア51付近を通過中に、施設から逃げ出した宇宙人のポール(声:セス・ローガン)を母船のUFOに帰還させるという「E.T.」を連想させるロードムービー。ポールは60年ほどアメリカの施設に閉じ込められていたために、アメリカの文化に染まったベタなアメリカンなキャラクターの宇宙人であったのです。ポールというAlien/エイリアン(宇宙人)と、イギリス人というAlien/エイリアン(外国人)というエイリアン同士がアメリカ中西部を横断して、キリスト教原理主義的なアメリカ人に追い回されたりして、実は保守的な宗教大国であるアメリカの実態を浮き彫りにしているところは、イギリス人的な皮肉が効いています。ただ、ポールを追うの連邦捜査官のエージェントが、オタクなアメリカ人の二人組”だけ”というのが機密任務としても、あまりにもスケールがこじんまりとしております。

ポールは外見的に「E.T.」を意識しているのは勿論・・・傷を治癒したり、死んだ生き物を生き変えさせられるヒーリングパワーを持っているというのも「E.T.」と同じ。さらに、スピルバーグ映画だけでなく、「エイリアン」「プレデター」「メン・イン・ブラック」「バック・トゥ・ザ・フーチャー」「スター・ウォーズ」「スター・トレック」などのハリウッドのSF映画をネタにしていて・・・”リスペクト&オマージュ”というよりも”パロディ”に近い感じでしょうか。小ネタを入れることを期待されているという本末転倒なところもあるので、あまり欲張りすぎるとハリウッド製のパロディ映画みたいになってしまいそうです。終盤に姿を現すシガニー・ウィバーは、トンデモナイ特別出演の仕方で・・・”ステレオタイプ”だけの「出オチ」のようで、ちょっと悲しくなってしまいました。

”サイモン・ペグ”と”ニック・フロスト”のコンビの、アメリカ映画リスペクト以上に重要なテーマとして、社会性の欠けたイケてない中年男二人の友情があると思います。この「男同士の友情が一番!」という”ホモ・ソーシャル感”を貫いているからこそ・・・すべてが暴力で崩壊しようとも、主人公がヒロインと結ばれても、男二人の物語として完結して、見事に”男の子ムービー”として成立してるのです。本作も「バディ・ムービー」として”ホモ・ソーシャル感”は十分機能はしているのですが・・・男が二人だけでキャンピングカーで旅をしているから、アメリカの田舎者たちに「イギリス人のゲイカップルのハネムーン」と勘違いさてしまうというジョークは、ボクのようなリアルゲイにとっては、正直まったく萌えませんでした・・・まぁ、二人がボクの好きなタイプからは、ほど遠いというのは大きな理由でありますが。

イギリス人の英語の発音は上品っぽく聞こえるので、それがオネェっぽくて男らしさに欠ける印象を与えるかもしれませんが・・・「サイモン・ペグとニック・フロストの二人を見て”ゲイ”と思い込むことなんてあるのかよ!」としか、ボクには思えません。しかし、ふたりでロケハンをしている時に、実際にゲイカップルに勘違いされた経験したことを元ネタにしているということなんで・・・男二人でつるんでいるだけで「ホモだ!」と思われるほど、アメリカは極端にホモフォビアで、マッチョ嗜好の強いということなのでしょう。ただ、ホモフォビアを描いてしまうということは、ホモ・ソーシャルな友情が(アメリカの田舎では)他者の目に、どう映っているのかを明らかにしてしまったわけで・・・指摘してはいけないポイントを指摘してまった気がします。

ゲイであることを隠したい”クローゼットのゲイ”にとって、男と一緒にいるだけで「ゲイカップル」と思われるなんて、恐怖以外の何物でもないと思うのですが・・・ホモ・ソーシャシャル好きの「腐中年」にとっては、逆に”ゲイカップル”に間違われるのは、ちょっと嬉しいことなのかもしれません。さらに「俺はゲイに好かれた経験がある」とか「この先輩ならケツやられても良い!」とかの、ゲイネタで異様なほど「腐中年」同士で盛り上がるというのは・・・ボーイズラブ好きの「腐女子」の妄想よりも”いびつ”な感性に感じられます。ただ「腐中年」って・・・ゲイには受けないタイプの男ということが殆どで「ゲイ男子」と「腐中年」が、どうかなるなんて事は、まずありません。ただ「腐中年」がリアルに男性経験を持った途端に、単なる「遅咲きのゲイ」(本人的にはバイと言い張りたいでしょうが)ということになるわけで・・・「腐中年」と「遅咲きゲイ」の線引きって、結構、危ういものかもしれません。

「宇宙人ポール」
原題/Paul
2010年/アメリカ、イギリス
監督 : グレッグ・モットーラ
脚本 : サイモン・ペッグ、ニック・フロスト
出演 : サイモン・ペッグ、ニック・フロスト、ジョイソン・ベイトマン、シガニー・ウィーバー、スティーヴン・スピルバーグ(声)、セス.ローガン(声)

2011年9月18日
第4回したまちコメディ映画祭「映画秘宝まつり」にてジャパンプレミア
2011年12月23日より全国公開



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