2017/12/09

華奢でもなく羽根のようにも軽くない”ブランチ・デュボア”!・・・良くも悪くも”大竹しのぶ”は”大竹しのぶ”なの~「欲望という名の電車」@シアターコクーン・オンレパトリー2017 DISCOVER WORLD THEATRE VOL.3~


15歳のとき、ボクはリバイバル上映されていた「欲望という名の電車」を映画館で観て、主人公のブランチ・デュボアというキャラクターの虜になってしまいました。原作の戯曲を繰り返し読んで、ブランチになりきって(!)ひとり芝居をしていたほどです。

何故、15歳の少年がブランチと同化しまうのか、当時は全く自分でも分からなかったのですが・・・精神的に不安定な中年女性に共感してしまうゲイのビョーキの一種だったことに次第に気付いたのは、ずっと後のことだったのです。このことは、以前「おかしのみみ」というブログに書いた記事があるので、そちらも閲覧してみて下さい。

ボクは映画は繰り返して何度も観ていますが、舞台は1980年に日生劇場で杉村春子がブランチを演じた公演を一度観たっきりなのです。当時、74歳だった杉村春子の迫真の演技に引き込まれて、非常に衝撃を受けたことを覚えています。共演者のキャスティングも(今、思うと)かなり豪華で・・・スタンリー役に江守徹、ステラ役に大地喜和子 ミッチ役は北村和夫(スタンレー役を長年演じていた)でした。


その後、舞台を観る機会があったのが、ニューヨークに住んでいた1992年・・・ブランチ役ジェシカ・ラング、スタンレー役アレック・ボールドウィンで「欲望という名の電車」がブロードウェイで期間限定で公演された際、チケットを購入していたのですが・・・ちょうど公演日にグリーンカードの面接(日本で行なわれた)が組まれてしまい、泣く泣く諦めた経緯があるのです。ちなみに、この二人主演でテレビムービー版が1995年に制作されています。

友人から、シアターコクーン・オンレパトリー2017 DISCOVER WORLD THEATRE VOL.3「欲望という名の電車」の初日の招待券を頂くことになって、人生で二度目の「欲望という名の電車」の観劇となった次第です。招待券を頂いておいて・・・辛口の感想を書くのは大変気が引けるのですが、ここから書くことは「欲望という名の電車」に取り憑かれた頭のおかしなゲイの戯言だと思ってください。


今回の「欲望という名の電車」のキャスティングについては、正直、首を傾げてしまうところがあります。

ステラ役を演じる鈴木杏は年齢的にまだ若くて(と言っても30歳だけど)、ポーランド系の肉体労働者の男の性的魅力に堕ちてしまった元上流階級の女性を表現することが出来るのかなという感じです。

ミッチ役を演じる藤岡正明は、あまりにも若くてハンサムすぎで絶対アリエナイ・・・台詞にもあるように、ミッチは大柄でガッチリ体型の中年男という役柄で、そんなパッとしない男がブランチの王子さまとなるのがミソなのですから。

ボクが受け入れるのに苦しんだのが、ブランチを演じる大竹しのぶであります。映画でブランチを演じたヴィヴィアン・リーのイメージが強いということがありますが・・・大竹しのぶの身体的特徴が、どうしても華奢なブランチのイメージには繋がらないのです。

昔、ボクが持っていた大竹しのぶのイメージというのは・・・「事件」や「あゝ野麦峠」で数々の演技賞を総なめにした演技のすごく上手い若手女優、素顔は田舎臭い天然系というイメージで、当時の好感度は決して低くはありませんでした。しかし、その後、大竹しのぶは数々の男性遍歴と多くのスキャンダルにまみれて”魔性の女”と呼ばれるようになっていきます。そして、演技派女優として年齢を重ねていくうちに、すっかり”大御所”という芝居が上手いことが前提の存在になっていったのです。


2009年に、ブロードウェイミュージカル「グレイ・ガーデンズ」の日本人キャスト版を、ボクは観劇しているのですが・・・大竹しのぶは、ジャクリーン・オナシス・ケネディの従姉でボロボロの豪邸で母親とと二人で暮らしていた実在した女性を演じていました。狂気の中にも上流階級出身の品性を感じさせるべき役柄なのにも関わらず、大竹しのぶはどうしても庶民臭が抜けず、ただただ”下品”なだけ・・・母親役を演じていた草笛光子が、どんなに髪を振り乱しても凛とした上品さを失わないオーラを発していたのとは大違いでした。どれほど演技が上手くても、品性を演じることはできないものだと感じさせられたものです。

テレビのバラエティ番組では、相変わらず甘ったるい天然系のイメージの大竹しのぶですが・・・演じる役柄は”魔性の女”のタイプキャスティングで、下品な中年女役ばかりをやっている印象しかありません。当然、与えられた役柄を素直に演じているだけだと思いますが・・・ゲッソリするほどゲスく演じるので(ある意味、褒め言葉?)大竹しのぶの演技を見かけるたび、胸くそが悪くなるようになってしまったのです。


2002年5月に、蜷川幸雄演出で大竹しのぶがブランチ役を演じた「欲望という名の電車」が公演されていたようなのですが、この公演は、ボクは完全にスルーでした。ステラ役には寺島しのぶ(!)、スタンレー役に堤真一、ミッチ役に六平直政というキャスティングで、非常にソソられるところがあります。また、あの蜷川幸雄が、どんな「欲望という名の電車」を演出していたのかも大変気になります。

ブランチ役というのは女優にとってチャレンジしてみたい役柄のひとつではあるようで・・・杉村春子没後には、浅丘ルリ子(舞台を日本に置き換えた)、篠井英介(世界で初めて女形で演じた)、水谷良重、岸田今日子、東恵美子、樋口可南子、高畑淳子と「なるほど〜」と唸ってしまうような名前が連なっています。そういう蒼々たるメンバーの中で、別な演出家によるプロダクションでブランチ役を二度も演じるのは、大竹しのぶが初めてかもしれません。


さて、今回の「欲望という名の電車」は、演出がフィピップ・ブリーン(Phillip Breen)で、美術や音楽もイギリス人スタッフによるものとなっています。中心となるスタッフがイギリス人ということが関係しているのかは分かりませんが・・・海外戯曲ものを日本人キャストで演じるとき、大袈裟な手振り身振りの”ベタ”なジャスチャーを交えて”外人”になりきろうとする傾向って、日本演劇界にはあるように思うのですが、本公演では、わざとらしいジャスチャーはありません。マシンガンのように早口で飛び交う台詞をやり取りしている時も(山場となる感情が高ぶるような場面以外)イスに座ったままだったり、立ったままだったりと・・・まるで歌舞伎のお芝居のようなのです。


舞台上には、ステラとスタンレーのアパートメントの2部屋が、リアルな家具や調度品と共に再現されていますが、2階への階段はなく・・・2階へは、舞台に向かって左側の舞台袖にはけるという演出になっていました。スタンレーの暴力やブランチへの仕打ちに我慢できずに、ステラが逃げる先が物理的に住んでいる場所より「上」の2階というところに意味をボクは感じていたので、本公演の装置はちょっと意外でした。

第1幕ではリアルに再現した部屋であるのが、ゴチャゴチャしていて芝居をこじんまりとさせてしまっているように感じたのですが・・・第2幕でブランチの幻覚や妄想が舞台奥に現れて、アパートメントの部屋の現実との比較が明確になることで、あえてリアルな部屋を再現していることが腑に落ちました。印象に残った音楽の使い方としては、場面が変わったり時間経過を表す暗転してる時のジャズ音楽で、ブランチの精神の崩壊していくにしたがって、旋律やリズムが乱れていくところが効果的だったように思います。


スタンレー役の北村一輝は、見た目が”濃い”という意味では役柄にハマっていたとは思うのですが・・・ただ、それだけで一般的なスタンレーらしさをそつなくこなしていた印象でした。ミッチ役の藤岡正明のミスキャストは、最後まで違和感は拭えませんでした。興行的なことを配慮してのキャスティングだったのかな・・・と思ってしまうほど。鈴木杏からは、スタンレーの動物的なセックスに魅せられているセクシャリティを表現しきれず、ブランチとスタンレーの狭間で苦悩するさまも感じられず、ただただスタンレーのDVに耐えているようにしか思えません。

エンディングの演出で気になったのは、ステラがブランチを見送り立ちすくむ”だけ”で終わってしまったところ。「もう二度と家には戻らない!」と、これまでのスタンレーの横暴に堪忍袋の緒が切れたステラが2階へ駆け上がり、ステラの名を絶叫し続けるスタンレーの姿で終わるはずなのですが・・・今回は2階へ続く階段がない舞台装置なので、ステラが立ちすくんで暗転という演出にしかできなかったのでしょうか?

なんとも尻切れトンボな終わり方で・・・ブランチを精神病院送りにしたスタンレーを、ステラが受け入れてしまっているようにしか解釈できなくて、原作とは真逆であるような印象さえ持ちました。


ブランチ役の大竹しのぶについては、やはり「女優”大竹しのぶ”」の底力を見せつけられた気がします。舞台女優としては当然のことのかもしれませんが・・・叫び狂う台詞も、ささやくような台詞も、マシンガンのように畳み掛けるような台詞も、しっかりと言葉のひとつひとつが意味を持って伝わってきて、他の役者たちとの技術な差を見せつけていました。

本作で最も有名なのは、精神病院の迎えにきた医者が紳士らしい振る舞いで差し出した腕に、淑女のように手をかけるブランチが言う台詞「どなたかは存じ上げませんが、わたくしは見知らぬ方のご親切を頼りにして参りましたの」だと思うのですが・・・本公演では、意外なほどサラッと流してしまっていたので、ちょっと腰砕けでした。もっともっと溜めて言って欲しい・・・(ボクにとっては)重い重い台詞なのです。

舞台では、役柄の身体的特徴と演じる役者が一致しなくても良いという考え方もあるのかもしれませんが・・・ミッチがブランチを持ち上げて「羽根のように軽い」という台詞があるので、ブランチが今にも崩れてしまいそうなほど華奢であることは必須のはず。大竹しのぶが持ち上げられるシーンでは、思わずボクは心の中で苦笑いをしてしまいました。

大竹しのぶの台詞まわしからは、上流階級出身であるブランチから滲み出てくるはずの品性は感じることはできませんでした。大竹しのぶならではの演技の”クセ”が強くて・・・「後妻業の女」感が抜ききれていないのです。大竹しのぶは、役柄が乗り移ったかのようになりきってしまう”北島マヤ”タイプの女優ではなくて・・・良くも悪くも”大竹しのぶ”は、何を演じても”演技のうまい大竹しのぶ”でしかないような気がします。「欲望という名の電車」さえも、女優”大竹しのぶ”を見せつける題材として、いままでの、どの大竹しのぶの出演作と変わらないのかもしれません。

シアターコクーン・オンレパトリー2017 DISCOVER WORLD THEATRE VOL.3
「欲望という名の電車」
作  : テネシー・ウィリアムズ
演出 : フィリップ・プリーン
出演 : 大竹しのぶ、北村一輝、鈴木杏、藤岡正明
2017年12月8日~12月28日、Bunkamura シアターコクーンにて公演



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2017/11/30

オールドミスの甘酸っぱい恋物語じゃないサイコな怪作で”ドMの女王さま”っぷりを発揮したジョーン・クロフォード・・・ナット・キング・コールが歌う名曲とは無関係な”おキャンプ映画”なのっ!~「枯葉/Autumn Leaves」~


ジョーン・クロフォードは1920年代半ばから1970年まで(何本かのゲスト出演を除いて)主演作品しかないという・・・まさにスター女優の中のスター女優であります。しかし、30代を過ぎると”年増”扱いされることが当たり前だった昔のハリウッド映画界で、それほどの長期に渡って主役を貼り続けるということは並大抵のことではありません。ジョーン・クロフォードが40代半ばを過ぎた1950年代になると、主演といっても格下の男優が相手役の「B級映画」ばかりが目立つようになり、その迷走っぷりは明らかになっていきます。


1952年に発表されて大ヒットしたナット・キング・コールの歌う「枯葉」を主題歌/テーマミュージックとした1956年制作の「枯葉」は、骨太な映画で知られるロバート・アルドリッチ監督が撮った女性映画のひとつです。全編に渡って「枯葉」が繰り返し繰り返し流されますが、本作は「枯葉」の歌詞とはまったく無関係であります。

本作が撮影された頃というのは、アルドリッチ監督のアメリカ国内での評価が、まだ高くなかった時代・・・一方、ジョーン・クロフォードはハリウッドの大御所として君臨しており、撮影直前になって降板をちらつかせて台詞の書き直しを要求するほどワガママ放題だったそうです。それを、アルドリッチ監督が頑として突っぱねたため、撮影は険悪なムードでスタートしたらしいのですが、あるときアルドリッチ監督がジョーン・クロフォードの演技に涙したことがきっかけで二人は和解・・・6年後”あの”「何がジェーンに起ったか?」で再びジョーン・クロフォードを起用することになります。


在宅でフリーランス(?)のタイピストをするミリー(ジョーン・クロフォード)は、ロサンジェルスに暮らす淋しいオールドミス・・・コンサートのペアチケットをもらっても、誘う相手が家主のおばあさん(ルース・ドネリー)だったします。若い頃、ミリーは父親の介護を優先してしまったことで、結婚を逃してきてしまったのです。


ひとりで行ったコンサートの帰りに偶然立ち寄ったカフェテリアで、年下の男バード(クリフ・ロバートソン)から強引に相席を求められます。最初は冷たくあしらうミリーでしたが、彼の強引さに負けてしまい、戸惑いながらもバートとは次第に打ち解ていくのです。年齢差を理由にミリーはバートの誘いを一度は断るのですが、それでもしつこいバートに根負けしてミリーは海辺のデートを承諾します。


バートの視線を意識するミリーは、水着姿になることを躊躇してしまいますが・・・そんな事はおかまいなしに一人で海へ走って行ってしまうバートは、まるで子供。案の定(!)ミリーは溺れかけて、そのドサクサに紛れてバートは熱烈なキスするのです。


波が打ち付ける浜辺で抱き合いキスする二人は、本作公開の3年前に公開された「地上より永遠に」(1953)の有名なシーンのまんま”パクリ”。あっさりとバートに身を委ねてしまったミリーでしたが・・・デートの最後には年齢差の理由に「もう二度と会わない」と一方的にバートを突き放しまいます。

それから一ヶ月・・・ミリーは再び孤独な毎日を送くりながらも、どこかでバートを忘れられません。そんな、ある日バートがサプライズで訪ねてくるのです。百貨店でマネージャーの仕事についたと語るバート・・・それをお祝いしようと友達のように二人はデートへ出かけます。そつない態度のミリーに煮え切らない思いを募らせたバートは、突然「愛している」と訴えて、プロポーズをするのです。

再び年齢差を理由に断るミリー・・・しかし、自分の心に素直になろうと、ミリーは土壇場でプロポーズを受け入れるのです。そうとなったら「すぐにでも!」ということになり、二人はメキシコまで車を飛ばして(当時はアメリカ国内で手続きをするようりも簡単だったため)結婚をします。


本作の前年に公開されたデヴィット・リーン監督、キャサリーン・ヘップバーン主演の「旅情」のような、オールドミスのヒロインの心が、揺れ動く甘酸っぱいメロドラマだと思っていると・・・二人が結婚するやいなや、本作は妙な方向に展開していくのです。

ここからネタバレを含みます。

結婚後、二人はミリーの住んでいる部屋で一緒に暮らし始めます。毎日仕事帰りにプレゼントを持って帰ってくるようなラブラブの新婚生活なのですが・・・それまでミリーに語っていた出身地や経歴とは違うことを、バートが語り始めます。問いただすと「別な男性と勘違いしている」と、とぼけるのですが・・・バートは本当にそう思っているような態度なのです。


そんなある日、ヴァージニア(ヴェラ・マイルズ)という若い女性が、バートの留守中に訪ねてきます。彼女曰く・・・最近バートとの離婚が成立したので、財産分与の手続きのためにバートにサインが必要だとのこと。この財産というのは、元々バートの母親のもっていた財産らしく、ヴァージニアが分与を受け取るためにはバートの同意が必要となるらしいのです。

離婚した理由は、ある日突然バートが姿をくらましたからと説明するヴァージニア・・・バートに結婚歴があることさえ知らなかった上に、幼い頃に亡くなっていると聞かされていた父親は存命しているし、行方不明になる前には万引きのトラブルも起こしていたと聞かされたミリーは、ことの真相を確かめるため、バケーションでロサンジェルス滞在しているバートの父(ローン・グリーン)を訪ねることにします。父親は息子であるバートを「嘘つきの出来損ない」と見放している様子・・・ミリーはバートを守るのは自分しかいないという思いを強くするのです。


百貨店に立ち寄ったミリーによって、バートはマネージャーではなくネクタイ販売員であることがバレてしまいます。さらに、毎日のプレゼントは給料のツケで買ってきたものだったり、売り場から盗んできたものだったようなのです。ヴァージニアのことを尋ねると「忘れていた」と言い訳をする始末・・・バートは何かしら衝撃的な体験してトラウマになっていることが分かってきます。しかし、過去から逃げているだけでは問題が解決することはないと、ミリーは嫌がるバートを説得して父親に会うことを承諾させるのです。


先にホテルに到着したミリーは、偶然バートの父親とヴァージニアがプールから出てくるところ目撃・・・実は、バートの父はヴァージニアとデキていたのです。部屋に戻る父親らと入れ違いに、バートがホテルに到着・・・エレベーターを乗り過ぎたミリーが父親の部屋の前に到着したときには、既にバートは父親とヴァージニアが一緒にいるところを目撃してしまった後で、呆然と廊下で立ち尽くしています。バートの抱えていたトラウマというのは、新婚6ヶ月の頃、バートが父親とヴァージニアがいちゃついているところに鉢合わせしてしまったことだったのです。


再びトラウマを経験して憔悴したバートを、父親とヴァージニアは容赦なく尋ねてきて、財産分与の書類へのサインを求めます。二人は、バートを精神的に追い詰めて、バートの母親の残した財産までもを奪おうと画策していたのです。「バートを精神病院にぶち込め!」という父親に対して、毅然とした態度で対峙するミリー・・・苦境に追い込まれても戦う”ドMの女王さま”っぷりを発揮したジョーン・クロフォードの真骨頂といえるシーンであります。


しかし、精神的に追い詰められていたバートは、ミリーが父親らとグルになって自分の財産を狙っていると勘違いしてしまうのです。そして、否定するミリーの頬を平手打ちした上に、タイピストにとっては大事な手に重いタイプライターを投げつけてしまいます。


バートは自分がミリーの手や顔を傷つけたことを忘れてしまうこともあるようで、以前のようにラブラブでご機嫌な時があったり、トラウマに退行して泣き叫び出す時があったりと、精神的に不安定になっていきます。バートには精神病院での治療が必要だという専門医からの強い薦めもあり、ミリーは苦渋の決断をするしかありません。たとえ、治療が成功したあかつきには、ミリーへの愛情をバートが失ったとしても・・・。


バートは病院の職員に連行されて精神病院へ入院・・・後悔や不安を感じながらもミリーはタイピストの仕事をこなしていて、かさむ入院費を負担して、孤独な毎日を再び過ごしています。バートは電気ショックや薬の投与による治療により、次第に回復していくのですが、ミリーには手紙一通さえ書くことはありません。それでもバートの退院が決まると、精神病院からはミリーの元へ身元引き受け人として連絡がくるのです。


すでにバートは自分のへの愛を失っているかもしれない・・・それどころか、精神病院に入院させた自分を恨んでいるかもしれない・・・それでもミリーは退院日にバートを尋ねることにします。バートの過去のトラウマと同様に、自分もバートの人生からは離れるべきだと伝えるミリーに対して、出会った頃のように優しい気遣いをみせるバート・・・ミリーはバートの愛を取り戻したことを確認して、二人は抱き合って熱いキスを交わすのです。

ハッピーエンドっていえばハッピーエンドではありますが・・・この先ミリーが幸せな結婚生活をバートと送っていけるのか不安を感じられるにはいられません。なんでもかんでも精神の病気のせいにしてしまう時代ならではの物語であります。

それにしても、出会いから年齢差で悩み、夫のトラウマに苦しめられ、肉体的にも精神的にも苦しめられ、入院費を負担するために必死に働かなければならなず・・・なんとも遠回りの幸せです。年上女が若い男と幸せになるためには、これほどの努力と犠牲が必要だともいうのでしょうか?

ミリーの立場でみると、なんとも悲惨な(?)ハッピーエンドの物語とも思える本作ですが・・・常に気丈に困難を乗り越えていくジョーン・クロフォードに、観客が同情を感じることはありません。あまりもの打たれ強さに、観客は「もっと苦しめ~!」とサディスティックな気持ちになってしまうのです。

ジョーン・クロフォードとクリフ・ロバートソンが過剰なほどの熱演している本作が”おキャンプ映画”として語られる”もうひとつの理由”は・・・当時50歳を前にしたジョーン・クロフォードが、30代前半のクリフ・ロバートソン相手に”年上の女性”を演じているにも関わらず、少しでも”若く”スクリーンに写りたいという執念を感じさせるからかもしれません。本作にはアリエナイ場所にアリエナイ影がたびたび出現するのです。


下あごの”たるみ”は光の加減次第では、非常に年齢を感じさせてします。そこで本作では、ジョーン・クロフォードのアゴから首の周辺に、何の影だか分からない謎の影が作られているのです。女優ライトで顔正面にはたっぷりと光が当てられていますので、顔上半分は浮き出るように白く写り、アゴの下はまっ黒く写り、下あごは見えなくなってしまうというわけであります。

このような不思議な影が出現するシーンは全編に渡っており、撮影現場での照明や美術のスタッフらの苦労が垣間みれるのと同時に・・・完璧に影をつくりだす立ち位置と絶妙な顔の角度を、完全に把握しながら演技するジョーン・クロフォードに、真の”女優魂”を感じさせられずにはいられないのです。

「枯葉」
原題/Autumn Leaves
1956年/アメリカ
監督 : ロバート・アルドリッチ
出演 : ジョーン・クロフォード、クリフ・ロバートソン、ヴェラ・マイルズ、ローン・グリーン、ルース・ドネリー
日本劇場未公開、WOWOWにて放映



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2017/10/22

フランスの新鋭女性監督ジュリア・ディクルノー(Julia Ducournau)による「ジンジャースナップス」的なカニバリズム映画・・・少女の”性の目覚め”と”呪わしい血族”の物語~「RAW〜少女のめざめ〜/Raw(英題)/Grave(仏題)」~


近年、女性の映画監督も増えてきて珍しい存在ではなくなってきたこともあり、わざわざ「女性」という”冠言葉”は不要になっている気がします。しかし、間違いなく「女性」を感じさせる映画作品もあるのです。

フランスの新鋭監督ジュリア・ディクルノー(Julia Ducournau)による長編第一作となる RAW〜少女のめざめ〜/Raw(英題)/Grave(仏題)」は、少女から女性への成長とカニバリズムへの目覚めを、並列に描いていくというホラー(青春?)映画・・・ひとつ違いの姉妹という設定から思い起こされるのが、2000年に制作されたカナダの狼女映画「ジンジャースナップス/Ginger Snaps」であります。


この「ジンジャースナップス」は、日本では劇場未公開ではあったものの、翌年(2001年)にDVDリリース・・・しかし、何故かレンタルショップに並ぶこともなく廃盤となってしまったため、現在は視聴困難。(こういう作品こそネット配信して欲しい!)ただ「ジンジャースナップス」はシリーズ化され、2004年には続編となる第2作目と外伝的な第3作目が製作されています。しかし、日本では第3作目の「ウルフマン/Ginger Snaps Back: The Begining」がDVDリリース後に「ウルフマン」の続編かのように第2作目の「ウルフマン・リターンズ/Giger Snaps 2: Unleashed」がDVDリリースされたものですから、少々ややこしいことになってしまっているのです。

16歳で初潮を迎えた(かなり遅め?)ジンジャーは、ひとつ違いの妹ブリジットと自殺死体を演じて写真を撮るのが趣味という仲良し姉妹・・・「大人の女性になること」は拒否しているところもあり、学校ではイジメの対象にされているゴスロリ系のオタクです。ある夜、謎の獣に襲われたジンジャーは、治療しなくても時間が経つと自然に傷が癒えたり、傷口から剛毛が生えてきたりと、明らかに初潮とは関係のない変化が現れるのですが・・・それと同時に、急に女性らしくなりオタク系からセクシー系に変貌していきます。監督は男性ではありますが、脚本を担当したのはカレン・ウォルトンという女性なのですが、生理で血まみれになったパンティや足元にボトボトと垂れる血の描写などは「女性ならでは」と感じてしまうのです。


ジンジャーを襲った獣の姿はハッキリとした姿も分からならないのですが(低予算映画だから?)、狼に似た獣だったようで狼男ならぬ”狼女”へ変化していく過程と少女が女性へと変化していく第二次性徴期と重ねて描かれていくわけであります。狼女に変貌していく姉のジンジャーに、それを抑制するワクチンを打って何とか助けようとする「姉妹愛」の物語ともとらえられるのですが・・・みどころはオタク少女だったジンジャーが、狼女へと変貌していくにつれて、それまで拒否していた大人の女性(それも魔性のヤリマン!)へとなっていく過程かもしれません。


ネタバレになりますが・・・最後には少女どころか女性の姿ではないバケモノにジンジャーがなってしまうところは、デヴィット・クローネンバーグ監督の「ザ・フライ」を彷彿させます。「ジンジャー・スナップス」の後日談である「ウルフマン・リターンズ」では、ブリジットが狼女への変貌していくのではないかと怯える姿が・・・そして、外伝的な「ウルフマン」では、この姉妹の逃れられない因縁が時代を遡って描かれます。大人の女性へと成長する過程(第二次性徴期)と、ある種のモンスター化が並列している描くという視点から、ジュリア・ディクルノー監督が「ジンジャースナップス」を意識していたのかは分かりませんが・・・「RAW〜少女のめざめ〜」には「ジンジャースナップス」以外にも過去の映画作品(主にホラー映画)へのオマージュがあるのです。


「RAW〜少女のめざめ〜」の主人公のジャスティン(ギャランス・マリリエ)は気弱な少女・・・厳格なベジタリアンとして育てられてきた彼女は、父(ローレン・リュカ)と母(ジョナ・プレシス)から少々過保護に育てられてきたようで、誤ってマッシュポテトの中にウインナーが入っていたことをレストランで強く抗議してくれるのも母親だったりします。両親が卒業した獣医大学には、既にひとつ年上の姉アレクサ(エラ・ランプ)が通っており、ジャスティンも実家を離れて大学の学生寮に入ることとなるのです。

学生寮での初めての夜、覆面姿の上級生がいきなり部屋にと突入してきて、部屋から追い出されてしまいます。ルームメイトに女子を希望していたにも関わらず、ジャスティンのルームメイトとなったのは、性的に奔放なゲイ男子のエイドリアン(ラバー・ナイ・オフェラ)・・・そんなことに戸惑っている間もなく、新入生歓迎の洗礼儀式が始まります。蛍光灯だけの暗い外廊下を、四つん這いで移動させられる様子は、ピエロ・パオロ・パゾリーニ監督の「ソドムの市」のワンシーン(若者達が肛門チェックのために集められる場面)を彷彿とさせます。ただ、目的地に着いてみれば学生達が踊りまくる歓迎パーティーではあったのですが・・・。


新入生たちに上級生たちからの洗礼は続きます。真新しい白衣を着た新入生たちは、頭の上から動物の血を浴びせられるのです。コレは言うまでもなく、ブライアン・デ・パルマ監督の「キャリー」の有名なシーンを連想させます。先輩から後輩への”イジメ”がフランスにもあったんだと驚いてしまいましたが、アメリカの大学でも新入生への洗礼儀式があったりするので、世界的には珍しいことではないのかもしれません。そう考えると・・・無理に飲酒させるような飲み会などなくなった日本の大学というのは、随分と優しいと思えてしまいます。


血を浴びせられた後、新入生たちは列に並ばされてウサギの肝臓を”生”で食べることを強いられることになるのですが、ベジタリアンのジャスティンにとって動物の内蔵(それも生!)を食べるなんてアリエナイ事・・・しかし、同じく厳格なベジタリアンとして育てられたはずの姉のアレクサは平然と食べてしまいます。さらに「食べた方があなたにも良いんだから」と、ジャスティンの口に生肝臓を押し込んで食べさせてしまうのです。

奇妙なのが・・・血だらけのままシャワーさえ浴びずに、その後、新入生たちがランチしたり、授業でテストをしたりしているところ。主人公が学校に入学してみると妙なしきたりがあったりとか、不吉なムードを漂わせるところは、ダリオ・アルジェント監督の「サスペリア」を思い起こさせます。

生肝臓を食べた夜、ジョスティンにはアレルギー反応が現れるのですが、翌日には”かさぶた”になって、まさにジャスティンは”ひと皮”剥けてしまうわけです。気付くと”肉”を食べたい衝動にかられてしまうジャスティン・・・カフェテリアでハンバーグを万引きしてしまったり、ルームメイトと肉入りのサンドウィッチを食べに出かけたり、夜中に冷蔵庫に入っている生のチキンをこっそり食ったり・・・挙げ句の果てには、自分の髪の毛を食べた毛玉を吐き出したりします。この時期の少女の摂食障害とも重なるような描写です。

ここからネタバレを含みます。


ある晩、自分の変化に悩むジャスティンは姉アレクサの部屋と訪ねるのですが・・・そこで「ブラジリアンワックスやってないなんてありな~い」ということになり、早速ビキニラインのお手入れをすることになるのです。お股のクロースアップ(ムダ毛までありありと!)の脱毛シーンの生々しさは、やはり(?)女性監督ならではかもしれません。


ワックスが剥がれないので、ハサミで毛を切ろうとするアレクサを、ジャスティンが足で蹴ったところ・・・誤ってアレクサは中指を切り落としてしまいます。切り落とされた指先は、そっくり見つかったものの、救急員が到着するまでの間・・・何故かジャスティンは、その指を食べたい衝動にかられて、まるで手羽先を食べるかのように姉の指先の肉に食らいついてしまうのです。ジャスティンの中で、カニバリズムのスイッチが入った瞬間であります。


退院後、アレクサはジャスティンを人気のない並木道沿いへ連れて行きます。すると、アレクサは急に走行中の車の前に飛び出すのです。避けようとした車は路側の木に激突・・・運転手は血だらけでほぼ即死状態となってしまいます。そういえば・・・本作の冒頭のシーンは同じような場面だったのですが、ここでやっと”その意味”が分かるわけです。実はアレクサもカニバリズムの嗜好を持っていて、このように自動車事故を起こしては、死にたての運転手の肉を食べて欲求を満たしていたということ・・・それを、わざわざ実践してジャスティンに教えたのであります。


次第に、カニバリズムの欲求を自覚していくジャスティン・・・その矛先は、ルームメイトのエイドリアンに向けられます。垢抜けなかったジャスティンは、化粧も、着る服も、態度も、聞く音楽の趣味も、急にセクシーになっていき、性欲にも目覚めるという展開は「ジンジャースナップス」を思い起こさずにはいられません。

ジャスティンが就寝中、シーツの中で何者かに襲われる妄想に囚われる姿は、まるでウェス・クレイヴン監督の「エルム街の悪夢」のワンシーンのようですし・・・寮の一室で行なわれているパーティーでは、青や黄色のペンキをぶっかけ合って騒いでいるのですが、これはジャン=リュク・ゴダールの「気狂いピエロ」を思い起こさせます。このように「ロウ」には、様々な映画のオマージュとも思えるシーンがあるのです。


パーティーで知り合った男子学生の唇を思わず噛み切ってしまったジャスティンは、もうカニバリズム欲=性欲を抑えられません。部屋に戻ると、ゲイのルームメイトのエイドリアンにのしかかって、ヤリ始めるのですから・・・。性的興奮が高まってくるとカニバリズム欲も高まるようです。何とか自分の腕に噛み付いて我慢するものの、明らかにモンスター化しています。


肉体関係をもったことで、エイドリアンを男性としても、獲物としても(?)ロックオンしたジャスティン・・・しかし、ゲイのエイドリアンにとっては、一夜限りのハプニングでしかありません。まだまだ”女の子”の一面のあるジャスティンは傷つき荒れて、パーティーで泥酔してしまうのですが・・・そんな妹をアレクサは(死体を使って!)からかうのです。それを知ったジャスティンはアレクサに掴み掛かり、お互いを(まさに)噛みつき合う大喧嘩になってしまいます。

翌早朝、新入生を集合させるためのサイレンで目が覚めたジャスティン・・・ベットの横にはルームメイトのエイドリアンが寝ています。しかし、掛け布団をはがすとエイドリアンは息途絶えていて、太ももを噛みちぎられていているのです。もしかして、自分が襲ってしまったのではと、不安になるジャスティン。実は、就寝中にアレクサによって、エイドリアンは食べられていたのです。カニバリズム欲を満たして呆然としているアレクサ・・・そんな姉を責めきれないのは、二人が共有する哀しきカニバリズムの宿命をジャスティンが理解したからなのでしょうか?


当然のことながら、アレクサは逮捕されて勾留されます。実家へ戻ったジャスティンは、再び厳格なベジタリアンの生活に母親から強いられるのですが・・・そこで、カニバリズムは母親からの遺伝であることを、父親の”ある行動”で知らされることになるのです。「ジンジャースナップス」だと思っていたら・・・なんと”オチ”は「肉」(2013年のカニバリズム映画)だったのであります!


本作はホラー映画にジャンル分けされる作品ですし、多少ゴアっぽい描写もあります。しかし「ジンジャースナップス」がそうであったように、作品の印象は少女の心を丁寧に描写していくカミング・オブ・エイジの青春映画でもあるのです。そして「カニバリズムの目覚め」と「大人への成長」を同列で語ることにより、誰もが通り過ぎた危うい十代を思い出させるかもしれません。


RAW〜少女のめざめ〜
原題/Grave
2017年/フランス、ベルギー
監督 : ジュリア・ディクルノー
出演 : ギャランス・マリリエ、エラ・ランプ、ラバー・ナイ・オフェラ、ローレン・リュカ、ジョナ・プレシス
2017年6月25日フランス映画祭2017にて上映
2018年2月2日より日本劇場公開


「ジンジャースナップス」
原題/Ginger Snaps
2000年/カナダ
監督 : ジョン・フォーセット
脚本 : カレン・ウォルトン
出演 : エミリー・パーキンズ、キャサリン・イザベル、クリス・レムシュ、ミミ・ロジャース、ジェシー・モス
日本劇場未公開/2001年7月25日、日本版DVDリリース



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2017/09/01

オノ・ヨーコ出演のセクスプロイテーション映画を監督したマイケル・フィンドレイ(Michael Findlay)の因果応報な運命とオノ・ヨーコ(Yoko Ono)の炎上人生・・・ひとつの映画で交差した全く無関係な二人のはなし~「サタンズ・ベット(原題)/Satan's Bed」~


1960年代は、さまざまな分野で革命が起こった時代・・・映画の世界でもヌードや性表現の規制が緩和され、”セクスプロイテーション映画”が量産されたのも、この時代です。女性の裸を売りモノにした「ヌーディスト・キャンプ/Nudist Camp」、エッチなコントと女性の裸が売りの「ヌーディー・キューティー/Nudie Cutie」などは50年代末期に誕生していますが・・・その後、男性が女性を暴力的に扱う「ラフィーズ/Roughies」と呼ばれるジャンルに派生していくのです。

早い時期から”ラフィーズ”のセクスプロイテーション映画を手掛けて、悪名高かったマイケル・フィンドレイは、ニューヨークを拠点としたアンダーグランドの映画監督・・・1964年、女性を拉致して乱暴するという「ボディ・オブ・フィーメール(原題)/Body of a Female」で映画監督としてデビューして、その翌年、オノ・ヨーコ出演の「サタンズ・ベット(原題)/Satan's Bed」を発表するのです。


オノ・ヨーコというと・・・先日(2017年8月17日)放映されたNHKテレビ番組「ファミリーヒストリー」で、スゴイ家系の出身であることや、数々の困難を乗り切った人生であったことが語られていましたが、最初の結婚についてはナレーションで触れられただけ・・・二度目の結婚や娘の存在については全く触れられることはありませんでした。ジョン・レノンと結婚する前、オノ・ヨーコは2度の結婚/離婚をしていて、ショーン・レノンの誕生以前に娘を一人もうけており・・・奔放とも言える人生を歩んでいるのです。

オノ・ヨーコは、父の仕事の関係でアメリカと日本を行き来しながら成長したバリバリの”帰国子女”・・・1953年(20歳のとき)に家族でニューヨーク近郊に引っ越して、お嬢様学校としてアメリカでも有名なサラ.ローレンス大学に入学します。大学在学中にジュリアード音楽院に留学していた一柳慧と出会い、1956年に家族の反対を押し切って結婚(大学も退学)するのです。


当時、ニューヨークのダウンタウンで流行っていたビートニクスだけでなく、前衛芸術の活動には、夫の一柳慧の影響は少なからずあったようです。特に、一柳慧を通じて知り合った実験音楽家ジョン・ケージの影響を強く受けたことは明らか・・・オノ・ヨーコの前衛芸術の基礎となる”ハプニング”に依存した「偶然性や観客参加による不確定性」は、ジョン・ケージの音楽理念そのものだったりします。現代音楽家らとの交遊関係の中で、オノ・ヨーコは新鋭の女性芸術家としてニューヨークで頭角を現していくのです。


1962年、ニューヨークで活躍し始めていたオノ・ヨーコは、日本を拠点に移します。何故、好意的な評価を受けていたニューヨークを離れて、日本に戻ろうとしたのかは分かりませんが・・・夫だった一柳慧が1961年に日本に帰国していることから、彼と行動を共にしただけなのかもしれません。帰国後、オノ・ヨーコの代表作ともなった観客が衣服をハサミで切り取るパフォーマンス・アートの「カット・ピース」、詩的な言葉の”指示”よるコンセプチュアルアートの「グレープフルーツ」の自費出版、現代音楽家とのコラボレーション・パフォーマンスなど、精力的に発表するのですが・・・前衛芸術に理解の乏しかった当時の日本では、全く理解されることはありませんでした。

日本国内の評論家からの酷評にショックを受けてノイローゼ気味になったオノ・ヨーコは自殺を図り、家族と夫の一柳慧により精神病院に入院させらることになるのです。孤独感を強めていった入院中、毎日花束を持って面会を申し込んでくる男性が現れるのですが・・・これが、ニューヨークでオノ・ヨーコの作品に感銘を受けて、彼女を日本にまで追いかけてきたアメリカ人映像作家のアンソニー(トニー)・コックス(Anthony Cox)だったのです。退院後、二人はすぐさま男女の関係になってしまいます。その後すぐに、一柳慧と離婚することになるのは、オノ・ヨーコの妊娠が判明したから・・・一柳慧との離婚成立後の1963年6月、オノ・ヨーコはアンソニー・コックス再婚して、同年8月に長女キョーコを生むのです。


1964年、オノ・ヨーコはアンソニー・コックスと共にニューヨークへ戻るのですが、その頃からアンソニー・コックスは”プロモーター”として、オノ・ヨーコの前衛芸術活動をサポートするようになっていきます。渡米から2年後の1966年、オノ・ヨーコはロンドンの現代芸術協会の招きで、イギリスを訪ねるのです。当時の活気あるロンドンの若者カルチャーに触れて、オノ・ヨーコは夫アンソニー・コックスに支えられながら、活動の拠点をロンドンに移すことを決断します。

ところが・・・1966年11月、オノ・ヨーコの個展を訪れたジョン・レノンとオノ・ヨーコは、恋に落ちてしまうのです。ジョン・レノン27歳で、オノ・ヨーコ35歳だった1968年には、娘キョーコと共に二人は同棲をスタートします。当時、ジョン・レノンも結婚していたので、ダブル不倫の関係だったのです。夫アンソニー・コックスは娘のキョーコを誘拐して養育権を主張して、二人の関係は泥沼化・・・それでも何とか、それぞれの離婚が成立して、1969年に二人は正式に結婚します。翌1970年にビートルズは解散・・・オノ・ヨーコがビートルズを分裂させたとして、世界で最も嫌われる女性となったのです。

ジョン・レノンとの再々婚後も、麻薬問題やら女性問題やらがあって、オノ・ヨーコの人生は幸せに満ちていたわけではありません。1973年頃・・・メイ・パン(May Pang)という中国人女性に、ジョン・レノンの愛人になるように頼み込み、ロサンジェルスで二人を同棲させて(オノ・ヨーコはニューヨークで別居)、結果的に離婚危機を回避したことさえあるのですから。その後、性生活を取り戻したオノ・ヨーコとジョン・レノンの間にショーン・レノンが誕生するのは、1975年、オノ・ヨーコ42歳のときです。


ジョン・レノン没後、オノ・ヨーコにはインテリアデザイナー(アンティークディーラー?)のサム・ハヴァトイ(Sam Havadtoy)という長年同居するパートナー(おそらくオノ・ヨーコと最も長期に渡る関係を持つ男性)が存在するものの、彼と再々々婚しないのは「ジョン・レノンの未亡人」というタイトル(立場)を失いたくないから・・・と邪推してしまうのは少々意地悪でしょうか?ちなみに「ファミリーヒストリー」では触れられなかった娘キョーコですが・・・現在ではオノ・ヨーコと和解して、ショーン・レノンを交えて家族ぐるみで付き合いがあるそうです。


欲望のままなのか、行き当たりばったりなのか、それとも戦略的に男を乗り換えていったのかは分かりません。「強くて独立している女性」「過激なフェミニスト」としてして知られるオノ・ヨーコではありますが・・・実際には、結婚した男性たちの立場、人脈のネットワーク、芸術的な才能や社会的な影響力によって、彼女自身の社会的/文化的な地位をステップアップしていったのです。ただ、世間から”やることなすこと”厳しく批判され、常にバッシングを受ける”炎上人生”であったことを考えると・・・十分すぎるほどの贖罪(?)を果たしている気もします。


オノ・ヨーコについて長々と書いてしまいましたが・・・マイケル・フィンドレイ監督の「サタンズ・ベット」が公開されたのは1965年のことであります。アンソニー・コックスとの再婚後、ニューヨークに戻ってきた頃。オノ.ヨーコが31、2歳の時に撮影されたようです。タイトルに監督名のクレジットはありせんが、本作はマイケル・ファンドレイ監督作品とされています。実は、タミジアン(Tamijian)という映像作家による未完成の「ジューダス・シティ(原題)/Judas City」という映画に、マイケル・ファンドレイが別に撮影した映画を編集で加えて、一本の映画として完成させたという経緯があるのです。

「サタンズ・ベット」は、ニューヨークに住む麻薬売人の男のところに、嫁として日本人女性(オノ・ヨーコ)が港に到着するところから始まります。夫となる男は、売人から足を洗おうとしているのですが、元締めはそうはさせるものかとしているようです。彼女はマンハッタンのホテルに滞在しているのですが、そのホテルの従業員は、彼女を人種差別的な扱いしたり、彼女の金を盗んだり・・・遂には、彼女は強姦されてしまいます。必死に路上へ逃げだしたところ、彼女は車に轢かれてしまいます。


オノ・ヨーコの役には、英語の台詞は殆どなくカタコト程度で、日本語の台詞は棒読み・・・正直言ってかなりの大根役者っぷりです。この日本人女性の物語が「ジューダス・シティ」という映画だったようなのですが、強姦シーンでカメラがパンしてしまうなど、セクスプロイテーション映画としては少々パンチ不足で未完のまま・・・そこで撮影済みのフィルムの権利を、マイケル・フィンドレイが買い取ったというわけです。


マイケル・フィンドレイは、男女三人の若者たちが次から次へと女性を襲って犯していくという・・・「ジューダス・シティ」とは、まったく関係のない映画を撮影して、二つの映画を編集でミックスしたのであります。照明や撮影技術のクオリティーは「ジューダス・シティ」の方が明らかに高く、別撮りした部分は音声はアフレコ(撮影現場で録音しないので安上がり)になっているのですが・・・マイケル・フィンドレイが得意とする”ラフィーズ/Roughies”ならではの暴力描写を加えたことで、公開にこぎつけた作品だったのです。とは言っても、公開当時、決して商業的に成功したわけでもなく、評価が高かったわけでもありませんが。

ちなみに、マイケル・フィンドレイとオノ・ヨーコは一度も会ったことはないそうで・・・オノ・ヨーコは意図せずにセクスプロイテーション映画に出演したことになってしまったのです。ただ、オノ・ヨーコの役は、当時のアメリカ人の日本人女性のステレオタイプだったと思われる「ひと言も英語が理解できない」「金を取られても分からないほど頭が悪い」「襲われても拒絶することさえできない」という人種差別的な設定・・・オノ・ヨーコ本人の生き方や思想とは反する役柄であることは脚本からも明確だったはずなのに、出演の承諾をしたのは奇妙なことです。後年、オノ・ヨーコ唯一の”女優”としての映画出演として語ち継がれることになるとは、彼女も思ってもいなかったことでしょう。


「サタンズ・ベット」を撮った後、マイケル・フィンドレイは次々と”ラフィーズ”を手掛けます。マイケル・ファンドレイ自身が、妻に浮気された腹いせに、ストリッパー、ゴーゴーダンサー、売春婦の女性たちを様々な道具で殺害して復讐するという陰湿な主人公を演じた「ザ・タッチ・オブ・ハー・スキン(原題)/The Touch of Her Flesh」は、クラシック音楽と詩的で残忍なモノローグという組み合わせが独特で・・・ところどころにストリップ映像が挿入されるというセクスプロイテーション映画的なサービス精神満載の作品です。

「ザ・タッチ・オブ・ハー・フレッシュ」は商業的に成功して・・・「ザ・コース・オブ・ハー・フレッシュ(原題)/The Curse of Her Flesh」「ザ・キス・オブ・ハー・フレッシュ(原題)/The Kiss of Her Flesh」という続編もつくられます。これら”フレッシュ(Flesh)”三部作は、マイケル・フィンドレイ代表作となるのです。これら”ラフィーズ”の作品の監督クレジットは、ジュリアン・マーシュ(Julian Marsh)になっており、出演、撮影、脚本、音楽など担当している妻のロベルタ・ファンドレイは、アナ・リーヴァ(Anna RIva)など、複数の名義を使い分けてクレジットされています。

基本的にフィンドレイ”夫妻”二人によって、制作、監督、脚本、編集、音楽、撮影、照明など、ほぼ映画製作の全てを行なっていたのですが・・・これは、彼らが様々な才能に恵まれていたということではなく、単純に資金がなかったことが理由だと思われます。。そんなわけで、どのマイケル・フィンドレイ監督作品も、映画としてのクオリティーは素人レベル・・・暴力とエロのギミック”だけ”が売りの低俗映画としか評価されていなかったのです。ただ、1960年代後半のニューヨークのアンダーグランドの空気感を、生々しく伝える”タイムカプセル”のような役目は果たしているのかもしれません。


1971年・・・フィンドレイ夫妻は、アメリカよりも資金が少なくても映画を撮れるアルゼンチンへ行って「ザ・スローター(原題)/The Slaughter」を撮影します。これは、カルト集団の若い女性たちが次々と殺人を犯すという・・・マイケル・フィンドレイ”らしい”作品ではあったのですが、あまりのデキの悪さに限られた上映が行なわれただけで、配給会社の判断でお蔵入りしてしまいます。


1974年「シュリーク・オブ・ザ・ミューティレイテッド(原題)/Shriek of the Mutilated」というイエティ(雪男)調査隊の学生たちが次々襲われるという低予算のモンスター/ホラー映画を”マイク・フィンドレイ”という名義で監督。ニューヨーク近郊でイエティ捜索するというのもアリエナイ設定なのですが、実は、調査隊の教授が率いるカルト集団の男が、イエティの着ぐるみを着て人々を襲っていたという”オチ”で・・・「サイテー映画」として、おもしろがる以外に存在価値のない作品であります。


その後、フィンドレイ夫妻は映画をつくる機会さえもなくなっていったのですが・・・思いもしない形で、マイケル・ファンドレイ監督作品が世界的に公開されることとなるのです。それが、本物の殺人映画として世の中を騒がせた「スナッフ/Snuff」であります。これは、お蔵入りしていた「「ザ・スローター」のタイトルやクレジットを外して、撮影終了直後の撮影現場で、主演女優が撮影スタッフよって惨殺されるというエンディングを付け加えられた作品だったのです。

1976年にアメリカや日本で公開されて・・・「本物か、トリックか」という宣伝が話題になり(そこそこ?)ヒットします。注意深く観れば・・・別の女優に入れ替わっているし、複数のカメラで撮影が切り替わるし、血糊があまりにも赤過ぎるし、手や胴体が模型であることも分かるのですが・・・後年、都市伝説のように「スナッフ」は、殺人映画として語り継がれることになったのです。

かつて、マイケル・フィンドレイが他人の撮影した「ジューダス・シティ」という映画に、勝手に自分の映画を編集で加えて「サタンズ・ベット」を完成させたように・・・自分の撮影した「ザ・スローター」という映画に、勝手な結末を付け加えられて「スナッフ」が完成されたとは、因果応報としか言えません。クレジットを外された夫妻には興行収入も入ってくるわけもなく、夫妻は配給会社のオーナーを告訴すると脅します。結果的に示談で決着はつくのですが・・・妻のロベルタ・フィンドレイは夫を捨てて、「スナッフ」の配給会社のオーナーに乗り換えるのです。その男性の元で、ロベルタはハードコアポルノやホラー映画の製作、監督、脚本、撮影をして、1980年代後半まで映画界で活躍します。その後、音楽スタジオを経営する別な男性と再婚して、現在は音楽業界で活躍しているそうです。関係をもつ男性の影響で、あらゆる業界で活躍するところは、オノ・ヨーコ的な強さを感じます。


映画製作においての最大の協力者であった妻ロベルタを失ったマイケル・フィンドレイはどうなったかというと・・・ジョン・アメロ(John Amero)という1960年代~70年代にセクスプロイテーション映画の監督や出演をしていた人物と、フランシス・エリー(Francis Ellie)という共同名義でゲイポルノ映画を4本「マイケル、アンジェロ・アンド・デヴィット(原題)/Michael, Angelo and David(1976)」「Kiss Today Goodbye(1976)」「ポイント・メー・トゥワード・トゥモロウ(原題)/Point Me Toward Tomorrow(1977)」「クリストファー・ストリート・ブルース(原題)/Christopher Street Blues(1977)」をつくります。

1972年にハードコアポルノがアメリカで解禁されたことにより、当時のストレートのハードコアポルノ業界は、1960年代にセクスプロイテーション映画をに関わっていた映画人たちの受け皿となっていた”はず”なのですが・・・マイケル・フィンドレイが、監督だけでなく、制作、撮影、編集まで担当して、ストレートポルノではなくゲイポルノに参入したというのは、ちょっと不可解ではあります。

フランシス・エリー名義のゲイポルノには、暴力的な描写はなく・・・マイケル・フィンドレイ”らしさ”は微塵もありません。なかでも「キス・トゥデイ・グッバイ(原題)/Kiss Today Goodbye」は、当時のゲイポルノの中でも王道の恋愛ストーリーとして知られる名作だったりします。ちなみに、共同監督であったジョー・アメロの兄のレム・アメロ(彼も1960年代からセクスプロイテーション映画の監督や出演していた)が、カメオ出演(キス・トゥデイ・グッバイ)したり、衣装(ポイント・メー・トゥワード・トゥモロウ、クリストファー・ストリート・ブルース)を担当していることから、ストレートの映画仲間たちが集まって、ゲイポルノを作っていたという事だったのでしょうか?


1977年、マイケル・フィンドレイは39歳で、突然亡くなります。前年に制作した「ファンク 3ーD(原題)/Funk 3-D」という3Dハードコアポルノのために発明した3Dカメラを、フランスの投資家に売り込むために、ジョン・F・ケネディ空港へ向かう途中、パンナムビル(現・メットライフビル)の屋上からヘリコプターに乗ろうとして、事故に巻き込まれたのです。ヘリコプターの機体の片側がビルに接触して、外れたローター羽根によって体を切断されてしまったそうで・・・これまた因果応報としか思えないような壮絶な亡くなり方であります。なお、この3Dカメラを使用して、台湾では「リベンジ・オブ・ザ・ショーグン・ウーメン(原題)/Revenge of The Shogun Women」と 「ダイナスティ(原題)/Dynasty」という2作品が撮影されているそうです。

正統の映画史で論じられることなど”まずない”マイケル・フィンドレイ監督ではありますが・・・彼の辿った運命は、彼自身が出演し監督した映画よりも、興味深く、切ない気持ちにもさせられます。ちなみに、マイケル・フィンドレイの死後、ジョン・アメロはフランシス.エリー監督名義を使用し続けて・・・「ネイビー・ブルー(原題)/Navy Blue(1979)」「ザ・デス・オブ・スコーピオ(原題)/The Death of Scorpio(1979)」「ブーツ・アンド・サドル(原題)/Boots & Saddles(1982)」など、ゲイポルノ黎明期の名作と呼ばれる作品を監督しているというのも・・・”美談”として受け止めるべきなのか、なんとも妙な気持ちにさせられるのです。

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マイケル・フィンドレイ(Michael Findlay)監督のフィルモグラフィー


1964 Body of a Female(ジュリアン・マーシュ名義)
1965 The Sin Syndicate
1965 Satan's Bed(クレジットなし)
1966 Take Me Naked(ジュリアン・マーシュ名義)
1967 The Touch of Her Flesh(ジュリアン・マーシュ名義)
1968 A Thousand Pleasures(ジュリアン・マーシュ名義)
1968 The Curse of Her Flesh(ジュリアン・マーシュ名義)
1968 The Kiss of Her Flesh(ジュリアン・マーシュ名義)
1969 The Ultimate Degenerate(ジュリアン・マーシュ名義)
1969 Night Rider
1969 The Closer to the Bone the Sweeter the Meat
1969 Mnasidika
1969 Crack-Up
1970 Take My Head
1971 The Slaughter
1971 Vice Versa!
1974 Shriek of the Mutilated(マイク・フィンドレイ名義)
1975 Snuff(ノークレジット)
1976 Michael, Angelo and David(フランシス・エリー名義/ゲイポルノ)
1976 Kiss Today Goodbye(フランシス・エリー名義/ゲイポルノ)
1976 Virgins in Heat
1976 Funk in 3-D(ジュリアン・マーシュ名義)
1977 Point Me Toward Tomorrow(フランシス・エリー名義/ゲイポルノ)
1977 Christopher Street Blues(フランシス・エリー名義/ゲイポルノ)

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「サタンズ・ベット(原題)」
原題/Satan's Bed
1965年/アメリカ
監督、撮影、編集、音楽  :  マイケル・フィンドレイ(クレジットなし)
出演          : オノ・ヨーコ
日本未公開

「ザ・タッチ・オブ・ハー・フレッシュ(原題)」
原題/The Touch of Her Flesh
1965年/アメリカ
監督、制作、編集。主演  :  マイケル・フィンドレイ(ジュリアン・マーシュ名義)
制作、編集、音楽、照明、エキストラ出演 : ロベルタ・フィンドレイ
出演 : スザンヌ・マレー、アンジェリーク・ペティジョン、ヴィヴィアン・デル=リオ、ペギー・ステファンズ
日本未公開

「ザ・スローター(原題)」
原題・The Slaughter
1971年/アメリカ、アルゼンチン
監督、出演   : マイケル・フィンドレイ
撮影、声の出演 : ロベルタ・フィンドレイ
出演      : マーガリータ・アムチャステギュー、アナ・カーロ、ブライアン・カリー、リリアナ・フランチェス・ビアンコ、エンリク・ラーラテリ、アルド・マヨ、カーロ・ヴィラヌーヴ、ミーサ・マッサ、ザンティ・エリス
日本未公開


「シュリーク・オブ・ザ・ミューティレイテッド(原題)」
原題/Shriek of the Mutilated
1974年/アメリカ
監督、編集、エキストラ出演 : マイケル・フィンドレイ
撮影            : ロベルタ・フィンドレイ
出演            : アラン・ブロック、ジェニファー・ストック、タム.エリス、マイケル.ハリス、ダーシー・ブラウン、ジャック・ヌーバック、トム・グラーリ、ルーシー・ブランデット、イヴァン・アゴール
日本未公開


「スナッフ/SNUFF」
原題/Snuff
1975年/アメリカ、アルゼンチン
クレジットなし
1976年6月19日、日本劇場公開

「キス・トゥデイ・グッバイ(原題)」
原題/Kiss Today Goodbye
1976年/アメリカ
制作、監督、編集、撮影 : マイケル・フィンドレイ(フランシス・エリー名義)
制作、監督       : ジョン・アメロ(フランシス・エリー名義)
出演          : ジョージ・ペイン、リウ・シーガー、デヴィット・サヴェージ、マイケル・ガウト、マーク・ハミルトン、カート・マン、レム・アメロ、ベン・ドーヴァー
日本未公開

「ファンク 3ーD(原題)」
原題/Funk 3-D
1977年/アメリカ
監督、制作、編集、脚本 : マイケル・フィンドレイ(監督のみジュリアン・マーシュ名義)
出演          : ドン・アレン、ブリー・アンソニー、ロジャー・ケイン、リタ・デイヴィス、ニッキー・ヒルトン、エド・ラロックス、アレックス・マン、アラン・マーロウ、アニー・スプリンクル
日本未公開



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