2018/02/18

「現代アートの欺瞞」「スウェーデン人の国民性」「エリート白人男の傲慢さ」を皮肉る同族嫌悪的なシニカルさ・・・悪意のないミハエル・ハネケ節コメディにゾワゾワさせられるの!~「ザ・スクウェア 思いやりの聖域/The Square」~


第70回カンヌ映画祭(2017年)でパルムドール賞に輝き、第90回アカデミー賞の外国語映画賞部門でもノミネーションされている「ザ・スクウェア 思いやりの聖域/The Square」は「フレンチアルプスで起きたこと/Force Majeure」のスウェーデンの映画監督リューベン・オストルンドの最新作であります。


「フレンチアルプスで起きたこと」は、休暇中のスウェーデン夫婦が雪崩に遭遇して夫が先にひとりで逃げたことをきっかけに家族がバラバラになっていく・・・というダークコメディ(!?)。ちょとした台詞や行動によって夫婦間に起こる不調和感の「あるある」を絶妙を描いていて・・・何とも言えない居心地の悪さにゾワゾワさせられてしまったのです。

原題の「Force Majeure」はフランス語で「不可抗力」という意味で、暗に夫の行動を肯定しているような印象・・・ボク的には邦題の「フレンチアルプスで起きたこと」の方が、曖昧さがしっくりくるような気がします。今回も、原題の「The Squre」だけでは何のことだか分からない感じですが「思いやりの聖域」というサブタイトルを邦題に加えたことは”正解”ではないでしょうか?

実は「ザ・スクウェア 思いやりの聖域」には、ボクの友人の旦那さん(スウェーデン人)が、VFXのプロデューサーとして関わっているという事もあり、以前から話に聞いていたのです。その後、カンヌ映画祭に出品されるという運びになり、その様子を彼のフェイスブックで見るたびに「スゴイ、スゴイ!」と興奮していたら、パルムドール(グランプリ)獲得という展開に、何も関係のないボクまで嬉しくなります。来月(2018年3月4日現地時間)に発表となる第90回アカデミー外国語映画賞も受賞するのか期待です。


本作は、ストックホルムにある現代アートの美術館のキャレーターのクリスティアン(クレス・バング)を中心に、様々なエピソードが平行して語られていきます。タイトルでもある「ザ・スクウェア」は、クリスティアンの手掛ける次回の展示作品で、現代社会の格差やエゴイズムを訴え、平等の権利と救済の手を差し伸べるべきである空間(思いやりの聖域)を表したインスタレーションアートなのですが・・・物語はそれとは反するように皮肉に満ちているのです。

ここからネタバレを含みます。


冒頭のアメリカ人ジャーナリストのアン(エリザベス・モス)によるクリスティアンへのインタビューの中身のなさから分かるように、本作は「現代アートの欺瞞」を小気味よいほど暴いていきます。

アーティストの講演会で語られる薄っぺらい”コンセプト”を遮るのが、客席にいるトゥレット障害者(意図せず冒涜的な言葉を吞む発作的に発してしまう)から言動というのも、なんとも居心地の悪かったりします。また、作品と真逆なメッセージ動画をネット上で拡散させて”炎上商法”を狙うという、愚かなマーケティングによって世間からバッシングを受けることになり、美術館もクリスティンも窮地に追い込まれていく展開には、苦笑いするしかありません。


道で寝転がっていホームレス、カフェテリアにたむろする移民、小銭をねだる慈善事業ボランティアなどを無視して、通り過ぎていくストックホルムの街角の人並みのカットが繰り返した挿入されるのですが`・・・これもまたアート作品「ザ・スクウェア」のコンセプトと真逆にあ「スウェーデン人の国民性」も垣間見せているのです。


或る朝、クリスティアンが出勤途中男女のイザコザに巻き込まれて、iPhoneと財布をを盗まれるのですが・・・遠巻きに傍観する人々の無関心さだけでなく、すられたことに気づいたクリスティアンが助けを求めても、誰も関わりを持とうとしないのは、ちょっと冷たい過ぎるように感じてしまいます。

20数年間ストックホルムで暮すボクの友人に「スウェーデンの国民性をひとことで言うと何?」と尋ねたことがあるのですが・・・「人と人の関係において情が薄い」という思いもやらない返答をもらったことがあります。スウェーデンは、気候的には厳しいし、税金は高いけれど、福祉国家として良いイメージをボクは持っていたので、彼女の言葉には少々ショックを受けたのですが・・・逆に”情の薄い国民性”だからこそ福祉を充実させる必要があったと言えるのかもしれません。


現代アート界を支えるのは金持ちのブルジョワ階級であると言えると思うのですが・・・彼らが他人のトラブルとは関わらない”情の薄い”スウェーデン人の国民性を発揮するのは、本作の海外版ポスターになっているディナーパーティーでの場面です。「猿の惑星」でのモーションキャプチャー演技で知られるテリー・ノタリーのパフォーマンスが暴走して、ゲスト客を恐怖に落とし込んでいくのですが・・・女性ゲストが強姦されそうになるまで、誰一人として関わろうとする者がいないのですから”ことなかれ主義”にもほどがあります。

本作ではクリスティアンに代表される「エリート白人男性の傲慢さ」も描かれていきます。盗まれたiPhoneの在処をGPSで貧民街のアパートにあると突き止めたクリスティアンは、全部屋に返却を求めるビラを全部屋に配るという作戦に出て、見事にiPhoneと財布を取り返すことに成功するのです。しかし、全く無関係の移民の少年はビラによって親から盗っ人の疑いをかけられてしまいます。少年はビラを配ったのがクリスティアンを突き止めて謝罪を要求するのですが、クリスティアンは少年の心に寄り添うことはありません。追い払うことしか考えられず、思わず少年を階段から突き落としてしまい、助けを呼び続ける少年を置き去りにしてしまうのです。


打上げパーティーの後、アメリカ人ジャーナリストのアンとクリスティアンは、その場の流れでエッチをしてしまいます。クリスティアンにとっては一夜限りの関係・・・行為の最中でさえ、クリスティアンの視線はアンではなく、天井のシャンデリアだったりするのです。行為の後、使用済みのコンドームの攻防戦を繰り広げるバカバカしい「あるある」には、思わず苦笑いしてしまいます。後日、アンがクリスティアンの職場に押しかけて、二人の関係を問い詰めてクリスティアンの化けの皮を剥がしていく様は居心地悪くなるほどです。


この”居た堪れない”ゾワゾワした感じは、ボクが”不快映画の巨匠”と呼ぶミハエル・ハネケ監督を思い起こさせるところもあるのですが・・・それほど”悪意”に満ち溢れているわけではなく”滑稽”であるところが救いかもしれません。ただ、2時間半を超える上映時間というのは、内容的には長尺な気はします。

最後の最後、クリスティアンが自責の念にかられて、少年を探して謝ろうとするのは贖罪の気持ちなのでしょうか?考えてみると・・・監督と脚本のリューベン・オストルンド自身を含めて、本作に関わっているスタッフ多く(ボクの友人の旦那さんも含めてかもしれない)は、クリスティアンに似た存在の人たちであるのかもしれないので、本作で描かれるのは同族嫌悪的な「あるある」なのかもしれません。


「フレンチアルプスで起きたこと」
原題/Force Majeure
2014年/スウェーデン、デンマーク、フランス、ノルウェー
監督、脚本 : リューベン・オストルンド
出演    : ヨハネス・バー・クンケ、リサ・ロブン・コングスリ、クリストファー・ヒビュー、クララ・ペッテルグレン、ビンセント・ペッテルグレン、ファンニ・メテーリウス
2015年7月4日より日本劇場公開


「ザ・スクウェア 思いやりの聖域」
原題/The Square
2017年/スウェーデン、ドイツ、フランス、デンマーク
監督、脚本 : リューベン・オストルンド
出演    : クレス・バング、エリザベス・モス、ドミニク・ウェスト、テリー・ノタリー、リンダ・アンボリ、クストファー・レス
2018年4月28日より日本劇場公開


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2018/01/30

ポーランドの新鋭監督によるポップでキッチュな2作品・・・アグニェシュカ・スモチンスカ(Agnieszka Smoczynska)の不思議ちゃん系人魚ホラーミュージカルとクパ・チェカイ(Kuba Czekaj)の男の子の悪夢~「ゆれる人魚/The Lure」「ベイビー・バンプ(原題)/Baby Bump」~


ポーランドの映画監督というと”アンジェイ・ワイダ”が、まず頭に浮かんでしまうのは、日本の映画監督というと”黒澤明”という名前を挙げてしまうようなものなのかもしれません。世界的に評価されているポーランド映画は、社会主義国家ならではの政治色の強い作品が多く・・・少々取っ付きにくい印象もあったりします。

ただ、他にもイェジー・カヴァレロヴィッチ、クシシェトフ・キェシロフスキなどの巨匠級の映画監督もいるし、ポーランド出身の映画監督というと、ロマン・ポランスキー、ワレリアン・ボロズウィック、アンジェイ・ズラウスキー、ヴォイチェフ・イエジー・ハスなど、なかなかクセのある”ヘンタイ”監督(!?)を排出しているお国柄だったりします。最近、たまたま観たキッチュな2作品が、ポーランドの新鋭監督による作品だったもの偶然ではないと思えるのです。


「ゆれる人魚」は、一見すると日本人が好みそうな”不思議ちゃん系”の映画・・・新鋭女性監督アグニェシュカ・スモチンスカによる長編劇映画デビュー作品ですが、日本での劇場公開も決定しております。人魚の姉妹がワルシャワのクラブで人気歌手になるという突拍子もない設定なのですが、そもそもは姉妹の歌手(人間の!)の物語だった脚本を、あれこれ試行錯誤しているうちに姉妹を人魚にしてしまったという経緯だったそうです。ただ、人魚といっても・・・「スプラッシュ」「リトルマーメード」「愛しのアクアマリン」などの過去の人魚映画から想像される”美しい”もんじゃないくて、パッと見は”ウミヘビ”?という印象を持ってしまうようなグロテスクな人魚であります。


1980年代のワルシャワ・・・人魚の姉妹シルバー(マルタ・マズレク)とゴールデン(ミハリーナ・オルシャンスカ)は、海辺で歌声に誘われるように沖に上がりナイトクラブに辿り着きます。まだ社会主義国だったワルシャワに、これほどカラフルなクラブが存在していたのだろうか?なんて思ってしまいますが、これは、本作の監督や脚本家が、子供時代を過ごした1980年代の残像ということ・・・ニコラス・ウィンディング・レフィンやギャスパー・ノエを彷彿させるジャーロな色彩センスにはノスタルジーも感じさせます。

人魚姉妹の人間社会からの扱われ方は、異文化/移民への対応であったり、ひと昔前の女性の扱われ方だったりを連想させるところがあります。ただ、男も女も人魚姉妹の生物を超えた性的魅力にメロメロで、人魚の姿の彼女たちとのセクシャルな行為に耽ってしまうというのは、なんとも怪しげであります。また、本来の伝説に基づいているらしく、人魚姉妹は人間の”男”を食べなければ生きていけないというのがホラーです。


しかし、シルバーはバンドメンバーの一人のミテーク(ヤーコブ・ジェルシャル)に恋に堕ちてしまうことで、物語は悲劇的な方向へ向かっていきます。人間に恋をした人魚が、その恋を成就できない時には泡となって消えてしまうのですから。人魚が人間の姿のときは生殖器も排泄器もないツルツル状態。ミテークと(肉体的にも)結ばれるため、シルバーは(魚の下半身を失えば声を失ってしまうにも関わらず)人間の下半身を移植して人間になることを決意するのです。

先日、このブログでも取り上げた「RAW~少女のめざめ~」と同じく、グロテスクな本作ではありますが、アンビエントなサウンドが際立つミュージカル仕立ての本作は、あえての”ダサおしゃれ感”を狙ったようなキッチュでポップ場面があるかと思えば、ダークなシリアスドラマのような場面もあります。少女(人魚ですが)の性のめざめの物語のようでもあるし、女性へのハラスメントを告発しているようでもあるし、童話「人魚姫」どおりの切ないファンタジーでもあるし、いくつもの映画がひとつの作品になったような印象もある不思議な映画なのです。


もうひとつのポーランド映画「ベイビー・バンプ(原題)」も、新鋭男性監督クパ・チェカイによる長編劇映画デビュー作品で、こちらも・・・ある意味”不思議ちゃん系”かもしれません。主人公の11歳の少年ミッキー・ハウス()の心理的な現実(?)を、昔風のアニメーション、雑誌のようなポップ、斬新な編集、奇抜なインターカットなどをコラージュしており、”カミング・オブ・エイジ”系ではあるのですが、幼少期から思春期へと成長していく少年のぶっ飛んだファンタジー映画でもあるのでもあります。


「悪夢」「現実」「仮想現実」「空想」「疑似体験」が、カット毎ぐらいに入れ替わるので、物語を追うのに混乱してしまうのですが・・・シングルマザーの母親から溺愛されていることの不満や、思春期の身体の変化(夢精や勃起など)の不安を感じているようです。上級生のいじめっ子たち、執拗に絡んでくる同級生の女子、母親にモーションかけている警官らも加わり、現実と非現実はごちゃまぜで描かれていきます。

また本作は、さまざまなシンボルや比喩を多用しているので、一度観ただけでは訳の分からないことばかり。ただ、ミッキー・ハウスのアルターエゴとして登場する耳の大きなネズミのアニメーションキャラクター(このキャラクターだけ何故か台詞は英語)が、時にはミッキー・ハウスに助言をしながら、観客に対して解説の役回りも担っているような気もします。

この耳の大きなネズミを(まさに!)吐きだして、踏み潰すことで、ミッキー・ハウスは自我を確立して・・・母親と卵を奪い合いを制して、たまごから生まれ直す(!)ことによって、幼少期から思春期へ脱皮するするのです。男性にとっては、性の目覚めよりも居心地悪く感じられるようなビミョーな時期の描写に、なんとも居心地の悪さを感じるところもあるのですが、女性にとっては少年がこんな過程を乗り越えていたとは考えもしないのかもしれません。ティーン以前の少年の心と体の変化を、これほどグロテスクに(!)表現するとは・・・クパ・チェカイ監督の恐るべしのデビュー長編作品であります!


「ゆれる人魚」
原題/The Lure
2015年/ポーランド
監督 : アグニェシュカ・スモチンスカ
脚本 : ロベルト・ボレスト
出演 : キンガ・プレイス、マルタ・マズレク、ミハリーナ・オルシャンスカ、ヤーコブ・ジェルシャル、ジグムント・マラノヴィッチ、カタジーナ・ヘルマン、マンジェイ・コノブカ、マルチン・コヴァルチク、マグダレーナ・チェレツカ
2017年9月17日第10回したまちコメディ映画祭 in 台東にて公開
2018年2月10日より劇場公開


「ベイビー・バンプ(原題)」
原題/Baby Bump
2015年/ポーランド
監督&脚本 : クパ・チェカイ
出演    : カクパー・オルツォウスキー、アグエツカ・ポドシアディク、カイル・スウィフト、セバスチャン・ラーチ、ウェロニカ
日本未公開

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2017/12/09

華奢でもなく羽根のようにも軽くない”ブランチ・デュボア”!・・・良くも悪くも”大竹しのぶ”は”大竹しのぶ”なの~「欲望という名の電車」@シアターコクーン・オンレパトリー2017 DISCOVER WORLD THEATRE VOL.3~


15歳のとき、ボクはリバイバル上映されていた「欲望という名の電車」を映画館で観て、主人公のブランチ・デュボアというキャラクターの虜になってしまいました。原作の戯曲を繰り返し読んで、ブランチになりきって(!)ひとり芝居をしていたほどです。

何故、15歳の少年がブランチと同化しまうのか、当時は全く自分でも分からなかったのですが・・・精神的に不安定な中年女性に共感してしまうゲイのビョーキの一種だったことに次第に気付いたのは、ずっと後のことだったのです。このことは、以前「おかしのみみ」というブログに書いた記事があるので、そちらも閲覧してみて下さい。

ボクは映画は繰り返して何度も観ていますが、舞台は1980年に日生劇場で杉村春子がブランチを演じた公演を一度観たっきりなのです。当時、74歳だった杉村春子の迫真の演技に引き込まれて、非常に衝撃を受けたことを覚えています。共演者のキャスティングも(今、思うと)かなり豪華で・・・スタンリー役に江守徹、ステラ役に大地喜和子 ミッチ役は北村和夫(スタンレー役を長年演じていた)でした。


その後、舞台を観る機会があったのが、ニューヨークに住んでいた1992年・・・ブランチ役ジェシカ・ラング、スタンレー役アレック・ボールドウィンで「欲望という名の電車」がブロードウェイで期間限定で公演された際、チケットを購入していたのですが・・・ちょうど公演日にグリーンカードの面接(日本で行なわれた)が組まれてしまい、泣く泣く諦めた経緯があるのです。ちなみに、この二人主演でテレビムービー版が1995年に制作されています。

友人から、シアターコクーン・オンレパトリー2017 DISCOVER WORLD THEATRE VOL.3「欲望という名の電車」の初日の招待券を頂くことになって、人生で二度目の「欲望という名の電車」の観劇となった次第です。招待券を頂いておいて・・・辛口の感想を書くのは大変気が引けるのですが、ここから書くことは「欲望という名の電車」に取り憑かれた頭のおかしなゲイの戯言だと思ってください。


今回の「欲望という名の電車」のキャスティングについては、正直、首を傾げてしまうところがあります。

ステラ役を演じる鈴木杏は年齢的にまだ若くて(と言っても30歳だけど)、ポーランド系の肉体労働者の男の性的魅力に堕ちてしまった元上流階級の女性を表現することが出来るのかなという感じです。

ミッチ役を演じる藤岡正明は、あまりにも若くてハンサムすぎで絶対アリエナイ・・・台詞にもあるように、ミッチは大柄ガッタリ体型の中年男という役柄で、そんなパッとしない男がブランチの王子さまとなるのがミソなのですから。

ボクが受け入れるのに苦しんだのが、ブランチを演じる大竹しのぶであります。映画でブランチを演じたヴィヴィアン・リーのイメージが強いということがありますが・・・大竹しのぶの身体的特徴が、どうしても華奢なブランチのイメージには繋がらないのです。

昔、ボクが持っていた大竹しのぶのイメージというのは・・・「事件」や「あゝ野麦峠」で数々の演技賞を総なめにした演技のすごく上手い若手女優、素顔は田舎臭い天然系というイメージで、当時の好感度は決して低くはありませんでした。しかし、その後、大竹しのぶは数々の男性遍歴と多くのスキャンダルにまみれて”魔性の女”と呼ばれるようになっていきます。そして、大御所の演技派女優として年齢を重ねていくうちに、すっかり”おばさん”になっていったのです。


2009年に、ブロードウェイミュージカル「グレイ・ガーデンズ」の日本人キャスト版を、ボクは観劇しているのですが・・・大竹しのぶは、ジャクリーン・オナシス・ケネディの従姉でボロボロの豪邸で母親とと二人で暮らしていた実在した女性を演じていました。狂気の中にも上流階級出身の品性を感じさせるべき役柄なのにも関わらず、大竹しのぶは庶民的で”下品”なだけ・・・母親役を演じていた草笛光子が、どんなに髪を振り乱しても凛とした品を失わないオーラを発していたのとは大違いでした。どれほど演技が上手くても、品性を演じることはできないものだと感じさせられたものです。

テレビのバラエティ番組では、相変わらず甘ったるい天然系のイメージで出ている大竹しのぶですが、テレビや映画で演じる役柄は”魔性の女”のタイプキャスティングで、下品な中年女役ばかりをやっている印象しかありません。当然、与えられた役柄を演じているだけだと思いますが・・・ゲッソリするほど素晴らしくゲスく演じるので(ある意味、褒め言葉)最近は大竹しのぶが演じている姿を見かけるたび、胸くそが悪くなるようになってしまったのです。


2002年5月に、蜷川幸雄演出で大竹しのぶがブランチ役を演じた「欲望という名の電車」が公演されていたようなのですが、この公演は、ボクは完全にスルーでした。ステラ役には寺島しのぶ(!)、スタンレー役に堤真一、ミッチ役に六平直政というキャスティングで、非常にソソられるところがあります。また、あの蜷川幸雄が、どんな「欲望という名の電車」を演出していたのかも大変気になります。

ブランチ役というのは女優にとってチャレンジしてみたい役柄のひとつではあるようで・・・杉村春子没後には、浅丘ルリ子(舞台を日本に置き換えた)、篠井英介(世界で初めて女形で演じた)、水谷良重、岸田今日子、東恵美子、樋口可南子、高畑淳子と「なるほど」という名前が連なっています。そういう蒼々たるメンバーの中で、別な演出家によるプロダクションでブランチ役を二度も演じるのは、大竹しのぶだけかもしれません


さて、今回の「欲望という名の電車」は、演出がフィピップ・ブリーン(Phillip Breen)で、美術や音楽もイギリス人スタッフによるものとなっています。中心となるスタッフがイギリス人ということが関係しているのかは分かりませんが・・・海外戯曲ものを日本人キャストで演じるとき、大袈裟な手振り身振りの”ベタ”なジャスチャーを交えて”外人”になりきろうとする傾向って、日本演劇界にはあるように思うのですが、本公演では、わざとらしいジャスチャーはありません。マシンガンのように早口で飛び交う台詞をやり取りしている時も(山場となる感情が高ぶるような場面以外)イスに座ったままだったり、立ったままだったりと・・・まるで歌舞伎のお芝居のようなのです。


舞台上には、ステラとスタンレーのアパートメントの2部屋が、リアルな家具や調度品と共に再現されていますが、2階への階段はなく・・・2階へは、舞台に向かって左側の舞台袖にはけるという演出になっていました。スタンレーの暴力やブランチへの仕打ちに我慢できずに、ステラが逃げる先が物理的に住んでいる場所より「上」の2階というところに意味をボクは感じていたので、本公演の装置はちょっと意外でした。

第1幕ではリアルに再現した部屋であるのが、ゴチャゴチャしていて芝居をこじんまりとさせてしまっているように感じたのですが・・・第2幕でブランチの幻覚や妄想が舞台奥に現れて、アパートメントの部屋の現実との比較が明確になることで、あえてリアルな部屋を再現していることが腑に落ちました。印象に残った音楽の使い方としては、場面が変わったり時間経過を表す暗転してる時のジャズ音楽で、ブランチの精神の崩壊していくにしたがって、旋律やリズムが乱れていくところが効果的だったように思います。


スタンレー役の北村一輝は、見た目が”濃い”という意味では役柄にハマっていたとは思うのですが・・・それだけで、一般的なスタンレーらしさをそつなくこなしていた印象。ミッチ役の藤岡正明のミスキャストは、最後まで違和感は拭えませんでした。興行的なことを配慮してのキャスティングだったのかな・・・とさえ思えてしまいました。鈴木杏からは、スタンレーの動物的なセックスに魅せられているセクシャリティを表現しきれず、ブランチとスタンレーの狭間で苦悩するさまも感じられず、ただただスタンレーのDVに耐えているようにしか思えませんでした。

エンディングの演出で気になったのは、ステラがブランチを見送り立ちすくむ”だけ”で終わってしまったところ。「もう二度と家には戻らない!」と、これまでのスタンレーの横暴に堪忍袋の緒が切れたステラが2階へ駆け上がり、ステラの名を絶叫し続けるスタンレーの姿で終わるはずなのですが・・・今回は2階へ続く階段がない舞台装置なので、ステラが立ちすくんで暗転という演出にしかできなかったのでしょうか?

なんとも尻切れトンボな終わり方で・・・ブランチを精神病院送りにしたスタンレーを、ステラが受け入れてしまっているようにしか解釈できなくて、原作とは真逆であるような印象さえ持ちました。


ブランチ役の大竹しのぶについては、やはり女優”大竹しのぶ”の底力を見せつけられた気がします。舞台女優としては当然のことのかもしれませんが・・・叫び狂う台詞も、ささやくような台詞も、マシンガンのように畳み掛けるような台詞も、しっかりと言葉のひとつひとつが意味を持って伝わってきて、他の役者たちとの技術な差を見せつけていました。

本作で最も有名なのは、精神病院の迎えにきた医者が紳士らしい振る舞いで差し出した腕に、淑女のように手をかけるブランチが言う台詞「どなたかは存じ上げませんが、わたくしは見知らぬ方のご親切を頼りにして参りましたの」だと思うのですが・・・本公演では、意外なほどサラッと流してしまっていたので、ちょっと腰砕けでした。もっともっと溜めて言って欲しかったボクにとっては重い重い台詞です。

舞台では、役柄の身体的特徴と演じる役者が一致しなくても良いという考え方もあるのかもしれませんが・・・ミッチがブランチを持ち上げて「羽根のように軽い」という台詞があるので、ブランチが今にも崩れてしまいそうなほど華奢であることは必須なのです。大竹しのぶが持ち上げられるシーンでは、思わずボクは心の中で苦笑いをしてしまいました。

大竹しのぶの台詞まわしからは、上流階級出身であるブランチから滲み出てくるはずの品性は感じることはできませんでした。大竹しのぶならではの演技の”クセ”が強くて・・・「後妻業の女」感が抜ききれないのです。大竹しのぶは、役柄が乗り移ったかのようになりきってしまうタイプの女優ではなくて・・・良くも悪くも”大竹しのぶ”は、何を演じても”演技のうまい大竹しのぶ”でしかないような気がします。「欲望という名の電車」さえも、女優”大竹しのぶ”を見せつける題材として、いままでの、どの大竹しのぶの出演作と変わらないのかもしれません。

シアターコクーン・オンレパトリー2017 DISCOVER WORLD THEATRE VOL.3
「欲望という名の電車」
作  : テネシー・ウィリアムズ
演出 : フィリップ・プリーン
出演 : 大竹しのぶ、北村一輝、鈴木杏、藤岡正明
2017年12月8日~12月28日、Bunkamura シアターコクーンにて公演


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2017/11/30

オールドミスの甘酸っぱい恋物語じゃないサイコな怪作で”ドMの女王さま”っぷりを発揮したジョーン・クロフォード・・・ナット・キング・コールが歌う名曲とは無関係な”おキャンプ映画”なのっ!~「枯葉/Autumn Leaves」~


ジョーン・クロフォードは1920年代半ばから1970年まで(何本かのゲスト出演を除いて)主演作品しかないという・・・まさにスター女優の中のスター女優であります。しかし、30代を過ぎると”年増”扱いされることが当たり前だった昔のハリウッド映画界で、それほどの長期に渡って主役を貼り続けるということは並大抵のことではありません。ジョーン・クロフォードが40代半ばを過ぎた1950年代になると、主演といっても格下の男優が相手役の「B級映画」ばかりが目立つようになり、その迷走っぷりは明らかになっていきます。


1952年に発表されて大ヒットしたナット・キング・コールの歌う「枯葉」を主題歌/テーマミュージックとした1956年制作の「枯葉」は、骨太な映画で知られるロバート・アルドリッチ監督が撮った女性映画のひとつです。全編に渡って「枯葉」が繰り返し繰り返し流されますが、本作は「枯葉」の歌詞とはまったく無関係であります。

本作が撮影された頃というのは、アルドリッチ監督のアメリカ国内での評価が、まだ高くなかった時代・・・一方、ジョーン・クロフォードはハリウッドの大御所として君臨しており、撮影直前になって降板をちらつかせて台詞の書き直しを要求するほどワガママ放題だったそうです。それを、アルドリッチ監督が頑として突っぱねたため、撮影は険悪なムードでスタートしたらしいのですが、あるときアルドリッチ監督がジョーン・クロフォードの演技に涙したことがきっかけで二人は和解・・・6年後”あの”「何がジェーンに起ったか?」で再びジョーン・クロフォードを起用することになります。


在宅でフリーランス(?)のタイピストをするミリー(ジョーン・クロフォード)は、ロサンジェルスに暮らす淋しいオールドミス・・・コンサートのペアチケットをもらっても、誘う相手が家主のおばあさん(ルース・ドネリー)だったします。若い頃、ミリーは父親の介護を優先してしまったことで、結婚を逃してきてしまったのです。


ひとりで行ったコンサートの帰りに偶然立ち寄ったカフェテリアで、年下の男バード(クリフ・ロバートソン)から強引に相席を求められます。最初は冷たくあしらうミリーでしたが、彼の強引さに負けてしまい、戸惑いながらもバートとは次第に打ち解ていくのです。年齢差を理由にミリーはバートの誘いを一度は断るのですが、それでもしつこいバートに根負けしてミリーは海辺のデートを承諾します。


バートの視線を意識するミリーは、水着姿になることを躊躇してしまいますが・・・そんな事はおかまいなしに一人で海へ走って行ってしまうバートは、まるで子供。案の定(!)ミリーは溺れかけて、そのドサクサに紛れてバートは熱烈なキスするのです。


波が打ち付ける浜辺で抱き合いキスする二人は、本作公開の3年前に公開された「地上より永遠に」(1953)の有名なシーンのまんま”パクリ”。あっさりとバートに身を委ねてしまったミリーでしたが・・・デートの最後には年齢差の理由に「もう二度と会わない」と一方的にバートを突き放しまいます。

それから一ヶ月・・・ミリーは再び孤独な毎日を送くりながらも、どこかでバートを忘れられません。そんな、ある日バートがサプライズで訪ねてくるのです。百貨店でマネージャーの仕事についたと語るバート・・・それをお祝いしようと友達のように二人はデートへ出かけます。そつない態度のミリーに煮え切らない思いを募らせたバートは、突然「愛している」と訴えて、プロポーズをするのです。

再び年齢差を理由に断るミリー・・・しかし、自分の心に素直になろうと、ミリーは土壇場でプロポーズを受け入れるのです。そうとなったら「すぐにでも!」ということになり、二人はメキシコまで車を飛ばして(当時はアメリカ国内で手続きをするようりも簡単だったため)結婚をします。


本作の前年に公開されたデヴィット・リーン監督、キャサリーン・ヘップバーン主演の「旅情」のような、オールドミスのヒロインの心が、揺れ動く甘酸っぱいメロドラマだと思っていると・・・二人が結婚するやいなや、本作は妙な方向に展開していくのです。

ここからネタバレを含みます。

結婚後、二人はミリーの住んでいる部屋で一緒に暮らし始めます。毎日仕事帰りにプレゼントを持って帰ってくるようなラブラブの新婚生活なのですが・・・それまでミリーに語っていた出身地や経歴とは違うことを、バートが語り始めます。問いただすと「別な男性と勘違いしている」と、とぼけるのですが・・・バートは本当にそう思っているような態度なのです。


そんなある日、ヴァージニア(ヴェラ・マイルズ)という若い女性が、バートの留守中に訪ねてきます。彼女曰く・・・最近バートとの離婚が成立したので、財産分与の手続きのためにバートにサインが必要だとのこと。この財産というのは、元々バートの母親のもっていた財産らしく、ヴァージニアが分与を受け取るためにはバートの同意が必要となるらしいのです。

離婚した理由は、ある日突然バートが姿をくらましたからと説明するヴァージニア・・・バートに結婚歴があることさえ知らなかった上に、幼い頃に亡くなっていると聞かされていた父親は存命しているし、行方不明になる前には万引きのトラブルも起こしていたと聞かされたミリーは、ことの真相を確かめるため、バケーションでロサンジェルス滞在しているバートの父(ローン・グリーン)を訪ねることにします。父親は息子であるバートを「嘘つきの出来損ない」と見放している様子・・・ミリーはバートを守るのは自分しかいないという思いを強くするのです。


百貨店に立ち寄ったミリーによって、バートはマネージャーではなくネクタイ販売員であることがバレてしまいます。さらに、毎日のプレゼントは給料のツケで買ってきたものだったり、売り場から盗んできたものだったようなのです。ヴァージニアのことを尋ねると「忘れていた」と言い訳をする始末・・・バートは何かしら衝撃的な体験してトラウマになっていることが分かってきます。しかし、過去から逃げているだけでは問題が解決することはないと、ミリーは嫌がるバートを説得して父親に会うことを承諾させるのです。


先にホテルに到着したミリーは、偶然バートの父親とヴァージニアがプールから出てくるところ目撃・・・実は、バートの父はヴァージニアとデキていたのです。部屋に戻る父親らと入れ違いに、バートがホテルに到着・・・エレベーターを乗り過ぎたミリーが父親の部屋の前に到着したときには、既にバートは父親とヴァージニアが一緒にいるところを目撃してしまった後で、呆然と廊下で立ち尽くしています。バートの抱えていたトラウマというのは、新婚6ヶ月の頃、バートが父親とヴァージニアがいちゃついているところに鉢合わせしてしまったことだったのです。


再びトラウマを経験して憔悴したバートを、父親とヴァージニアは容赦なく尋ねてきて、財産分与の書類へのサインを求めます。二人は、バートを精神的に追い詰めて、バートの母親の残した財産までもを奪おうと画策していたのです。「バートを精神病院にぶち込め!」という父親に対して、毅然とした態度で対峙するミリー・・・苦境に追い込まれても戦う”ドMの女王さま”っぷりを発揮したジョーン・クロフォードの真骨頂といえるシーンであります。


しかし、精神的に追い詰められていたバートは、ミリーが父親らとグルになって自分の財産を狙っていると勘違いしてしまうのです。そして、否定するミリーの頬を平手打ちした上に、タイピストにとっては大事な手に重いタイプライターを投げつけてしまいます。


バートは自分がミリーの手や顔を傷つけたことを忘れてしまうこともあるようで、以前のようにラブラブでご機嫌な時があったり、トラウマに退行して泣き叫び出す時があったりと、精神的に不安定になっていきます。バートには精神病院での治療が必要だという専門医からの強い薦めもあり、ミリーは苦渋の決断をするしかありません。たとえ、治療が成功したあかつきには、ミリーへの愛情をバートが失ったとしても・・・。


バートは病院の職員に連行されて精神病院へ入院・・・後悔や不安を感じながらもミリーはタイピストの仕事をこなしていて、かさむ入院費を負担して、孤独な毎日を再び過ごしています。バートは電気ショックや薬の投与による治療により、次第に回復していくのですが、ミリーには手紙一通さえ書くことはありません。それでもバートの退院が決まると、精神病院からはミリーの元へ身元引き受け人として連絡がくるのです。


すでにバートは自分のへの愛を失っているかもしれない・・・それどころか、精神病院に入院させた自分を恨んでいるかもしれない・・・それでもミリーは退院日にバートを尋ねることにします。バートの過去のトラウマと同様に、自分もバートの人生からは離れるべきだと伝えるミリーに対して、出会った頃のように優しい気遣いをみせるバート・・・ミリーはバートの愛を取り戻したことを確認して、二人は抱き合って熱いキスを交わすのです。

ハッピーエンドっていえばハッピーエンドではありますが・・・この先ミリーが幸せな結婚生活をバートと送っていけるのか不安を感じられるにはいられません。なんでもかんでも精神の病気のせいにしてしまう時代ならではの物語であります。

それにしても、出会いから年齢差で悩み、夫のトラウマに苦しめられ、肉体的にも精神的にも苦しめられ、入院費を負担するために必死に働かなければならなず・・・なんとも遠回りの幸せです。年上女が若い男と幸せになるためには、これほどの努力と犠牲が必要だともいうのでしょうか?

ミリーの立場でみると、なんとも悲惨な(?)ハッピーエンドの物語とも思える本作ですが・・・常に気丈に困難を乗り越えていくジョーン・クロフォードに、観客が同情を感じることはありません。あまりもの打たれ強さに、観客は「もっと苦しめ~!」とサディスティックな気持ちになってしまうのです。

ジョーン・クロフォードとクリフ・ロバートソンが過剰なほどの熱演している本作が”おキャンプ映画”として語られる”もうひとつの理由”は・・・当時50歳を前にしたジョーン・クロフォードが、30代前半のクリフ・ロバートソン相手に”年上の女性”を演じているにも関わらず、少しでも”若く”スクリーンに写りたいという執念を感じさせるからかもしれません。本作にはアリエナイ場所にアリエナイ影がたびたび出現するのです。


下あごの”たるみ”は光の加減次第では、非常に年齢を感じさせてします。そこで本作では、ジョーン・クロフォードのアゴから首の周辺に、何の影だか分からない謎の影が作られているのです。女優ライトで顔正面にはたっぷりと光が当てられていますので、顔上半分は浮き出るように白く写り、アゴの下はまっ黒く写り、下あごは見えなくなってしまうというわけであります。

このような不思議な影が出現するシーンは全編に渡っており、撮影現場での照明や美術のスタッフらの苦労が垣間みれるのと同時に・・・完璧に影をつくりだす立ち位置と絶妙な顔の角度を、完全に把握しながら演技するジョーン・クロフォードに、真の”女優魂”を感じさせられずにはいられないのです。

「枯葉」
原題/Autumn Leaves
1956年/アメリカ
監督 : ロバート・アルドリッチ
出演 : ジョーン・クロフォード、クリフ・ロバートソン、ヴェラ・マイルズ、ローン・グリーン、ルース・ドネリー
日本劇場未公開、WOWOWにて放映

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