2018/06/24

ハードコアポルノ映画のパイオニア/ジェラルド・ダミアーノ(Gerard Damiano)監督の”後味の悪い”作家性~「ディープ・スロート/Deep Throat」「ミス・ジョーンズの背徳/The Devil in Miss Jones」「爛れた欲情/Memories Within Miss Aggie」「スーパーラブマシーン・ジョアンナ/The Story of Joanna」~


ハードコアポルノは「スタッグ・フィルム/Stag Film」と呼ばれて、アメリカやヨーロッパでは20世紀初頭から存在していました。当初ムービカメラは非常に高価でしたし、撮影や照明にも技術が必要で、誰もが映画を製作できるわけではありません。映画館で興行することはできないので、お金持ちのコレクション用、または売春宿で客に上映するために、高額で闇マーケットで取引されていたそうです。

アメリカでは「ヘイズ・コード/Hays Code」(1968年廃止)により、性的な映画表現は厳しく規制されていましたが「ループス/Loops」と呼ばれる短編ポルノフィルム(その多くは無声だったらしい)は作られていました。ストリッパーが徐々に脱いでいくというソフトなものから、緊縛系のSMプレイやフェチもの、ただただ性行為を撮影したハードコアポルノも存在してそうです。ビデオブースの中で観賞するスタイルが一般的だったようで、いくつかのパートに分かれていて続きを観るためには課金し続ける必要があったと言われています。

1960年代になると、ループスやスタッグを上映するアンダーグランドの小さな映画館のようなものも存在していたそうですし・・・性教育という名目で性行為を見せる”ポルノまがい”の性教育映画や、ヨーロッパ(主にスウェーデン産)のセックス描写のある映画なども上映されることもあったとようです。厳しい規制の中でもアメリカではポルノ業界は存在していたわけで・・・「性の解放」や「表現の自由」が反体制的な政治思想と結びついて「ハードコア映画の解禁」という流れになっていきます。


アメリカ国内の”映画館”で上映された最初の「ハードコア映画」には諸説あるようなのですが・・・1969年6月に公開されたアンディ・ウォホールが製作、監督、脚本、撮影、配給した「ブルームービー/Blue Movie」(別タイトルは「ファック/Fuck」)のようです。多くのウォホール作品がそうであるような即興演出と撮影で、アパートメントのひと部屋でカップルがベトナム戦争について語ったり、実際に性行為に及ぶという内容で、いわゆる”ポルノ映画”とは違うような気がしますが、「ポルノ・シック/Porn Chic」の先駆けかもしれません。

”商業的”映画館で上映された最初の「ハードコア映画」は、1971年11月にニューヨークの劇場で公開されたゲイポルノ映画「ボーイズ・イン・ザ・サンド/Boys in the Sand」と言われています。初めてゲイを真っ正面から扱った舞台劇/映画「真夜中のパーティー/Boys in the Band」をもじったタイトルですが、内容的には全く無関係。3部構成(浜辺, プールサイド, 室内)になっており、主演男優(ケイシー・ドノヴァン/Casey Donovan)が複数の相手役と様々な性行為をするという・・・その後のアダルトビデオの原型を完成させていると言えるでしょう。

「ボーイズ・イン・ザ・サンド」公開の翌年となる1972年6月に、ジェラルド・ダミアーノ(Gerard Damiano)監督の「ディープ・スロート/Deep Throat」がニューヨーク市内のブロードウェイの劇場で公開されて、2年半という記録的なロングランとなります。ちなみに(ソフトコアですが・・・)日本では前年の1971年11月に日活ポルノ第1号の「団地妻 昼下がりの情事」が公開されており、ポルノ解禁の流れは世界的であったようです。また「ディープスロート」の公開から僅か2ヶ月後には、もうひとつの「ハードコア映画」黎明期の大ヒット作「グリーンドア/Behide the Green Door」がアメリカで公開されています。


ジェラルド・ダミアーノは、ポルノ業界に進出するまでは、ニューヨーク市クイーンズ地区で妻のヘアサロンを手伝っていた美容師だったのですが、既婚女性と接する機会が多い職業であったことから、当時の女性達たちがいかに性的不満を抱えていたかを知ったそうです。低予算で自由に表現できる手段としてポルノ(ヌード)映画を制作することが若い世代(ヒッピー)に流行っていたこともあり、仲間を集めて短編のループスを撮影するようになります。当時のポルノのビジネスは、反社会組織(マフィアなど)が牛耳っていたこともあり犯罪的な行為でもあったわけですが・・・思想的な革命としての意義を若い世代は見出していたのかもしれません。


そんなダミアーノ元に、チャック・トレイナーという男が自分の妻リンダ(後のリンダ・ラブレース)を売り込みに来ます。それまでもリンダはポルノ女優としてループスには何本も出演していて、その中には犬との獣姦というトンデモナイものもあったそうです。胸が大きいわけでもなく、顔もどこにでもいそうな平均的なルックスで、ポルノ女優としてはイマイチだと思われたリンダでしたが、ハリー・リームスと共演したループスの中で、喉の奥までアレをくわえこむという得意技を披露して、ダミアーノに「ディープ・スロート」のアイディアを与えます。当時、ループスは16ミリ撮影で数時間で撮影するのが通常で、35ミリで撮影された「ハードコア映画」というのは存在していなかったのですが、ダミアーノ破格の2万5千ドルという資金を調達して、ロケーション撮影やオリジナルでサウンドトラックも製作するという本格的な”映画”として製作するという勝負に出たのです。


エッチしても絶頂を感じた経験がないリンダ(リンダ・ラヴレース)は、欲求不満をつのらせています。それを聞いた淫乱な近所の主婦ヘレン(ドリー・シャープ)は、男達を集めて次から次にリンダとヤラせてみるのですが、鐘が鳴り響くような(!?)快感を感じることができません。そこで、ヘレンが奨めるヤング医師(ハリー・リームス)の元を訪れます。診察によると、リンダのクリトリスは喉の奥にあることが判明・・・さっそく(!)ヤング医師自身のモノでディープ・スロート(喉の奥まで吸い込む)を試すのです。するとリンダは鐘が鳴り響くかのごとくオーガズムを感じて、ヤング医師はロケット発射のように果ててしまいます。オーガズムを知ったリンダは、ヤング医師の助手看護婦となり、男性患者の元を訪れてディープスロート治療(セラピー)をするようになるのです。強姦プレイ好きのボーイフレンドのウォルバー(ウィリアム・ラブ)からリンダはプロポーズされるのですが、アソコのサイズが合わないからと断りそうになるのですが・・・ヤング医師の手術で、どんなサイズにもできると分かって「めでたし、めでたし」となり映画は終わるのです。


「ディープ・スロート」の商業的な成功が「ポルノ黄金期/The Golden Age of Porn」を導いたことには違いありません。「クリトリスが喉の奥にあったら」という(冗談のような)設定、フェラチオという行為に特化したポルノが当時は少なかったこと、それまでのポルノにはなかったコメディタッチ、”ディープ・スロート”というキャッチーな造語により、世間の注目を集めるわけですが・・・上映禁止を訴えるアメリカ全土規模での裁判沙汰や、ネットワークテレビのトークショー(ジョニー・カーソン・ショーなど)で取り上げられたことが、何よりも宣伝になり興行的な成功に拍車をかけたと言われています。


余談ですが・・・モザイクだらけで公開された日本では「元祖・巨根男優」として有名なハリー・リームスですが、実際は比較的普通のサイズ(16センチ程度?)なのです。映画の中でリンダが「9インチ(約23センチ)ないと満足できない」と言及するシーンがあるので、その台詞に由来して日本では「25センチ砲」などと宣伝されたのかもしれません。ハリー・リームスの「巨根伝説」が日本限定であったことは、実物をモザイクなしで観ることができなかったことが幸いした(?)こともありますが・・・当時の日本人がアメリカ(広くは西洋人)に持っていた肉体的な劣等感があったのではないでしょうか?


「ディープ・スロート」の公開当初、女性が積極的にオーガズムを追求するという描写に、保守的な男性たちはドン引きし、先進的な女性たちは共感したそうです。しかし「フェラチオで女性も感じている」という男性にとって都合の良い思い込みを増長させることが指摘されるようになると、女性運動家たちから問題視されるようになります。リンダ・ラヴレースが「ディープ・スロート」で受け取った出演料は僅か1250ドル(当時の為替で45万円程度)だったそうですが、世間から”時の人”としてセレブ扱いを受けていた時には「有名になれたから構わない」と語ってたそうです。しかし、その後「ディープ・スロート PART 2」などのソフトコア映画には出演したものの、再び「ハードコア映画」には出演することはありません。


「ディープ・スロート」公開2年後には、チャック・トレイナーと離婚して、一般男性と結婚したリンダは「前夫に脅迫されてポルノ出演させられた」と告発して、女性運動家たちと共に「反ポルノ活動」に参加します。しかし、リンダやチャックと関わりのあった多くの人物からは、リンダが自らの過ちを正当化するために捏造したと指摘されていて、女性運動家に利用されただけという見解もあるようです。実際、世間の風は厳しくて、リンダの改心は素直には受け入れられず、一般人として働いていた職場を追われることも多々あったと言われています。不慮の事故で亡くなる数年前(2000年頃?)には、自身の伝記本の宣伝のために50歳にしてヌードグラビアに登場して世間を再び驚かせましたが、告発の主張を変えることはことはなかったそうです。長引いた裁判、主演女優の告発、反ポルノ活動の標的となった「ディープ・スロート」は、決して後味が良い作品だとは言えません。


「ディープ・スロート」の興行的な成功(と多くの裁判沙汰)の中、ジェラルド・ダミアーノ監督は「ミス・ジョーンズの背徳/The Devil in Miss Jones」を制作するのですが・・・これがトラウマになるような後味の悪い作品です。

ニューヨークに暮らすジャスティン(ジョージナ・スペルヴィン)は、セックス未経験のまま30代半ばになってしまった孤独な未婚女性・・・ある日、浴槽で手首を切って自殺してしまいます。気付くとジャスティンは、天国と地獄の中間の”リンボ”という場所(本作内では質素なお屋敷のひと部屋という感じ)にいて、アパカ(ジョン・クレメンス)という天使から「自殺したので、天国に行くことはできない」ことを伝えられるのです。処女を守って罪なき人生を歩んできたのに、たった一度の自殺という過ちのために、地獄へ行く選択しか与えられないことに苛立ったジャスティンは、生前は決して犯すことはなかった”肉欲”を満足させたいと懇願します。すると、アパカは十分欲望を満たしたと彼が判断したら再び呼び戻すという条件で、ジャスティンの願いに応えます。


ジャスティンは、ザ・ティーチャー(ハリー・リームス)が待つ部屋へと導かれます。ジャスティンは自らの欲望を剥き出しにして、思う存分男性のモノに頬ずりしたりしゃぶったりして、自分から跨がって念願の処女喪失も叶えるのです。ザ・ティーチャーは痛がるのもおかまいなしにジャスティンのアナルを犯すのですが、次第にジャスティンにとっても快感へと変わっていきます。その後・・・女性と濃厚なレズビアン行為をしたり、水道ホース/果物(バナナ)/生きている蛇などでマスターベーションしたり、何人もの男の精液を飲み干したり、二人の男から前と後ろに同時に二本挿しされたり、すっかり”セックス中毒”となってしまうのです。ここに居残りたいというジャスティンの願いも虚しく、欲望を満たすのに許された短い時間は終わりを告げ、アパカによりジャスティンは地獄へ送られることになります。


ジャスティンが辿り着いた地獄とは、想像のハエを捕まえることに執着しているセックスにも女性にも無関心な男(ジェラルド・ダミアーノ)と、永遠に狭い部屋に閉じ込められること・・・それは、ジャスティンがいくらセックスを懇願しても応えてもらうことはなく、どれだけマスターベーションに耽ってもオーガズムを得るができないという”肉欲”の罪を知ったからこその”地獄”だったのです。


「ディープ・スロート」のコメディタッチとは真逆のダークな物語は、”性の歓び”を真っ向から否定しているかのようで、ポルノ映画の観客である男性を萎えさせそうであります。さらに、ジャスティンを演じる主演女優のジョージナ・スペルヴィンは、撮影時30代半ばを過ぎで普通に”おばさん顔”なのですから・・・。ジェラルド・ダミアーノ監督はイタリア系アメリカ人で、カトリックの家庭で生まれたことが影響を与えているのかもしれません。おおらかに性(セックス)を受け入れるというよりも、背徳感や罪悪感を伴った”業(ごう)”を感じさせるところから、そもそもポルノ映画としての”機能”を果たすことさえ否定している気がしてしまうのです。

日本では1975年に「ディープ・スロート」と「ミス・ジョーンズの背徳」の2作品を再編集して、日本独自で追加撮影したシーンを加えた2部構成で公開されています。当時の規制は大変厳しく、あまりにもカットされたシーンが多く、一本の映画として成り立たなかったための苦肉の策だったようです。ボクは、このバージョンを1980年頃の名画座で観たような記憶があるのですが・・・白く抜かれた大きなモザイク、同じカットを繰り返す編集、構図の一部を切り取った粗い画面で、一体何が行なわれているか全然分からなくて、ストーリーも記憶にありません。そんなシロモノでも、映画館で上映して商売になったことに驚いてしまいます。


1974年に制作された「爛れた欲情/Memories Within Miss Aggie」は「ミス・ジョーンズの背徳」よりも、さらにダークな物語で・・・もはやジャンルとしては”ホラーサイコサスペンス映画”と言えるのかもしれません。今回取り上げたジェラルド・ダミアーノ監督作品の中では、それほど語られることがない作品ではあるのですが・・・映画としての出来はなかなかです。


雪が深く人里離れた小屋に、リチャード(パトリック・L・ファレーリ)という車椅子生活の男性と同居するアジー(デボラ・アシラ)は、見た目からして幸の薄そうな貧しい中年女性・・・いかにしてリチャードと出会い、一緒に暮らすことになったかを思い出そうと、鏡の中の自分に問いかけています。過去を振り返るときのアジーの姿は若くて美しく、またリチャードも中年男の姿ではありません。アジー役も、リチャード役も、エピソードごと違うキャストによって演じられているのです。


小柄でブロンドの髪をもつアジー(キム・ポープ)は、まだ男性を知らない純粋な娘・・・ある日の帰宅途中、見かけたことない青年リチャード(エリック・エドワーズ)と橋の上ですれ違います。お互いにひと目惚れしたアジーとリチャードは、アジーの小屋で愛を確かめ合うのです。処女のアジーに優しくキスをするリチャード・・・オーラルセックスでお互い感じ合って、アジーはリチャードこそ待っていた王子様なのだと確信します。しかし、これは実際に起こったことではなかったと現実のアジーは気付くのです。


黒髪の娘アジー(メリー・スチュアート)は、素行が悪いという理由で母親によって納屋の二階に閉じ込められている孤独な娘・・・淋しさを紛らわすかのように、人形を入れたリ出したりしてマスターベーションに耽っています。干し草を届けにきた近所の農夫のリチャード(ハリー・リームス)を納屋に誘い込んで誘惑・・・興奮したリチャードは服を脱いで自分の股間をアジーの目の前に差し出して、アジーにしゃぶらせるのです。アジーにとって自分に関心をもってくれる誰かがいることが嬉しく、リチャードに性的な奉仕することも歓びのようで、四つん這いで犯されて苦痛に感じても、ただ耐えるのであります。しかし、これも実際に起こったことではなかったと現実のアジーは気付くのです。


娼婦のアジー(デボラ・ロイド・レインズ)は、引っ込み思案な客のリチャード(ラルフ・ハーマン)のためにオナニーショーを演じて見せるのですが、眺めているリチャードはアジーとの激しいオーラルセックスを妄想しています。そして、しゃぶるまくるアジーの顔にリチャードは発射してしまうのです。しかし、これもまた実際に起こったことではなかったと現実のアジーは気付くのです。

「どうして思い出せないんだろう」とアジーが話しかけたリチャードの姿は、ミイラ化した黒い死体・・・しかし、アジーにとっては、まだ男性の姿が見えているようです。ここからの回想は、中年女性の姿のアジーとリチャードになります。ある日、一人暮らしで孤独なアジーが教会に立ち寄った帰り、行くあてもなく彷徨っているリチャードという中年男と偶然出会うのです。アジーはリチャードを自宅に招き、風呂を沸かし食事をつくって”もてなす”のですが・・・「ずっと、あなたのような人が来るのを待っていた」というアジーに正直リチャードはドン引きしてしまいます。それでも「ひと晩だけでも泊まっていって」と懇願するアジーにリチャードも折れれ滞在することにするのです。


その夜中、アジーは白いアンティークのドレス(まるでウエディングドレス!)を着てリチャードの眠る部屋に侵入します。それまで男性との経験はないアジーは、リチャードに処女を捧げるつもりのようです。明らかにアジーに対して気持ちがないリチャードではありますが、アジーの強思いに心を動かされてしまいます。「誰だって淋しいんだ」と、リチャードがアジーを受け入れるような優しい言葉を投げかけた途端・・・アジは隠し持っていた大きな包丁で、リチャードの目をひと突きするのです。それから、どれほど年月が経ったのかは分かりませんが、リチャードの遺体はすっかりミイラ化しています。実際には起こっていない記憶を辿っては記憶が甦り・・・そして、その現実に耐えきれずに再び記憶を失ってしまうということを繰り返しながら、これからもアジーは孤独に暮らしていくのです。


同じ女優と男優の絡みでは飽きてしまう・・・というポルノならではの事情もあったと思いますが、同一人物である役柄を全く違うキャストで演じるというのは、斬新なアイディアだったのではないでしょうか?アジーの多人格性を表していると同時に、冴えない中年女性のアジーが自己投影しているのは、若くて美しい全くの”別人”であることに痛々しさも感じます。死体となったリチャードと、これからも妄想し続けながら生きていくアジーの孤独に、絶望の底に落とされたような気分にさせられるのです。

原題の「Memories Within Miss Aggie(直訳:アジーの内にある思い出の数々)」は、少々ネタバレ気味のタイトルかもしれません。エンディングのオチは「サイコ」の影響を受けたことは、ダミアーノ自身も認めているようですが、当時盛んに作られていたサイコミステリー映画にありがちの展開にも似ています。「過去に犯した殺人の記憶を犯人自身が失っている」という設定は、今でも十分通用するようで・・・最近の邦画(「ユリゴコロ」「彼女が その名を知らない 鳥たち」など)でも”サプライズ”として使われているのですから・・・。


ポルノ映画界の巨匠となったジェラルド・ダミアーノ監督が、破格の予算をかけて製作したのが「O嬢の物語」からインスピレーションを得たハードコア大作「スーパーラブマシーン・ジョアンナ/The Story of Joanna」です。豪華な屋敷でのロケーション撮影されて、全編に渡ってクラシック音楽が流れて・・・”重厚なアートフィルムのような作風”と”練り上げられた猥褻な台詞”は、ヨーロッパのエロティック大作に匹敵しているかもしれません。


舞台は1920年代、もしくは1930年代・・・大富豪のジェイソン(ジェイミー・ギリス)は、ナイトクラブでジョアンナ(テリー・ホール)を見初めて、広大な屋敷に招き入れます。優雅な食事のあと、愛とセックスについて哲学的な論議をしていたら、いきなりジェイソンはジョアンナに屈辱的な指示を与えて、痛がるジョアンナのアナルを無理矢理犯してしまうのです。ジェイソンの目的は、ジョアンナを愛の見返りを求めずに快楽を与えることだけの性奴隷とするため・・・それからは、全裸で男性ダンサーとバレーを踊らせたり、三人の男性ゲストたちにジョアンナを犯させて眺めたり、首輪をつけてオーラルセックスを強要したりと、ジェイソンのサディスティックな調教が続きます。実生活でもアナル大好きで”ドS”でもあるジェイミー・ギリスが演じているのですから、なんともリアルなのです。


ただ、優しく愛されてセックスしたいと願うジョアンナに、ジェイソンはジョアンナの寝室に執事のグリフィン(ザベディー・コルト)を送り込むのです。グリフィンはジョアンナを崇拝するかのように、ジョアンナが求めていたような優しく愛情溢れたセックスをして、ジョアンナをたっぷり満足させます。ポルノ黄金期のハードコア映画の中で最もエロティックなセックスシーンと言われているのですが・・・日本公開時には殆ど何も観ることはできなかったのではないでしょうか?自分以外の男で性的に満足した罪により、ジョアンナは鏡張りの部屋(「上海からきた女」のパクリ?)で、ジェイソンから鞭打ちを受けることになります。メイドもメイドで・・・鞭の持ち手をジョアンナに挿入したり、傷の治療をしながらレズビアンセックスをしたりと、やりたい放題です。


ジョアンナはジェイソンに忠誠を誓うため・・・長い髪を切り落とします。実は、ジェイソンには死期が迫っていて、自分の処刑人としてジョアンナを選んでいたことが分かるのです。ジェイソンはピストルを自分の頭部にあてて、ジョアンナに引き金を引くように命令します。銃声とともにジェイソンは即死・・・それでも、いつもと変わらずに夕食の準備をするようにと執事のグリフィンに、新しい女主人としてジョアンナが指示をするところで、本作は終わるのです。


さて・・・本作には、当時のポルノ映画(ストレートもの)としては衝撃的(?)なシーンがあり、それ故に一部の観客からは後味の悪い作品として記憶に残ることになっています。執事のグリフィンが、全裸のジェイソンをオイルマッサージするシーンがあるのですが、徐々にグリフィンの手がジェイソンの股間に伸びていき、普通のことのようにフェラチオし始めるのです。ゲイポルノ、または、バイセクシャルポルノとして宣伝していないストレートのポルノ映画で、男性同士の性行為をズバリ見せるのは、明らかにタブー・・・男性の観客がドン引きしたことは容易に想像できます。それは、予測しうる限界を常に超えようとするジェラルド・ダミアーノ監督のチャレンジ精神なのかもしれません。

現在の感覚では、これらの作品を”ポルノ映画”として観ると正直古さを感じるでしょう。しかし、ジェラルド・ダミアーノ監督の”業”のような自己矛盾を垣間みれるところが、後味の悪い作家性として、ボクの心には突き刺さるのです。

「ディープ・スロート」
原題/Deep Throat
1972年/アメリカ
監督 : ジェラルド・ダミアーノ(ジェリー・ジェラルド名義)
出演 : リンダ・ラブレース、ハリー・リームス、ドリー・シャープ、ビル・ハリソン、ウィリアム・ラブ、キャロル・コーナース、ボブ・フィリップス、テッド・ストリート
1975年8月16日、日本劇場公開「ミス・ジョーンズの背徳」との再編集版

「ミス・ジョーンズの背徳」
原題/The Devil in Miss Jones
1973年/アメリカ
監督 : ジェラルド・ダミアーノ
出演 : ジョージナ・スペルヴィン、ハリー・リームス、ジョン・クレメンス、マック・スティーブンス、リヴィ・リチャーズ、ジュディス・ハミルトン、スー・フラケン、ジェラルド・ダミアーノ
1975年8月16日、日本劇場公開「ディープ・スロートとの再編集版

「爛れた欲情」
原題/Memories Within Miss Aggie
1974年/アメリカ
監督 : ジェラルド・ダミアーノ
出演 : デボラ・アシラ、パトリック・L・ファレーリ、キム・ポープ、メリー・スチュアート、デボラ・ロイド・レインズ、エリック・エドワーズ、ハリー・リームス、ラルフ・ハーマン
1976年2月28日、日本劇場公開

「スーパーラブマシーン・ジョアンナ」
原題/The Story of Joanna
1975年/アメリカ
監督 : ジェラルド・ダミアーノ
出演 : ジェイミー・ギリス、テリー・ホール、ジュリエット・グラハム、スティーブン・ラーク、ジョン・ブッシュ、ジョン・コヴェン、ボブ・ステーブンス

1981年12月、 日本劇場公開

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2018/05/19

プライベートのジョーン・クロフォードの姿に最も近いと言われる”おキャンプ”な主演作・・・嫌われ者の”女王蜂”を抹殺して屋敷を乗っ取る若き”女王蜂”!?~「クィーン・ビー(原題)/Queen Bee」~


ジョーン・クロフォードが主演作の中で最も自身に近い役柄を演じたというわれるのが、その名もズバリ「クィーン・ビー(原題)=女王蜂/Queen Bee」という1955年のメロドラマであります。「親愛なるマミー/ジョーン・クロドードの虚像と実像」を書いた養女クリスティーナ・クロフォードによると、あまりにも役柄が普段の姿に近いことに衝撃を受けて、本作の上映途中で退場してしまった逸話もあるほどなのです。


低予算の映画が多い1950年代のジョーン・クロフォード主演作品の中では比較的制作費をかけた本作は、1949年に発表されたエドナ・L・リー著のロマンスノベル「The Queen Bee」を原作としており、その映画化権はジョーン・クロフォード自ら得ています。「自分が主演すること」「映画制作スタッフの選択権(「ミルドレッド・ピアーズの脚本家だったラナルド・マクドュガルの監督デビュー作となった)」「衣装/メイク/ヘアーの完全なるコントロール」を条件に、コロンビア映画へ売却したというのですから、映画会社だけでなく本人的にも肝入りの作品でもあったわけです。ジョーン・クロフォードはとっかえひっかえ豪華な衣装につつみ、陰影が美しく奥行き感のある構図が印象的なフィルムノアール映画としての完成度は高く・・・本作は1956年度アカデミー賞の撮影(白黒)と衣装部門でノミネートされています。


ジョーン・クロフォードが演じるのはジョージア州の大きな屋敷を仕切るエヴァという女性・・・美しくて気も強く、毎朝完璧に身支度をして、身の回りの人々をコントロールするというジョーン・クロフォード自身そのままという役柄です。なお、本作でイブニングドレス姿で階段を下りるシーンは「愛と憎しみ伝説/Mommie Dearest」でも印象的なシーンとして再現されています。

エヴァの夫アヴェリー(バリー・サリヴァン)は、南部の上流階級出身で一族は工場主・・・顔に深い傷があり、一族からは「Beauty(ビューティー)」という皮肉なニックネームでで呼ばれています。1日中飲んだくれているアル中で、とにもかくも妻であるエヴァを憎んでいるようなのです。屋敷には、アヴェリーの妹キャロル(ベッツィー・パルマー)も暮らしており、工場の運営をしているジャッド(ジョン・アイルランド)と結婚を前提に付き合っています。


未亡人だった母親を失い一人っきりになったエヴァの姪っ子のジェニファー(ルーシー・マロウ)が、エヴァからの招待でシカゴから、この屋敷に引っ越してくるのが、本作のはじまりです。ジェニファーが屋敷に到着した時、客人として屋敷を訪れていたのは、名家出身のスー(フェイ・レイ)という女性と彼女の弟タイ(ウィリアム・レスリー)・・・そこへエヴァが帰宅するのですが、彼女が応接室に入って来るや否や部屋の空気が張りつめます。夫のエヴァリーはもとより、義理の妹のキャロルもスーもエヴァのことを、あからさまに嫌っているようです。実は、スーは元々エヴァリーの結婚相手だった女性・・・式当日にエヴァリーがエヴァと駆け落ちしたため、花嫁姿で待ちぼうけを食らったという因縁があったのです。それ以降、頭がちょっとおかしくなってしまったらしく(?)ジェニファーを幼馴染みの娘と勘違いしてしまいます。


屋敷の中で孤立しているエヴァに同情心を感じつつ、自分を引き取ってくれたエヴァに感謝しているジェニファーは、憧れも抱いているエヴァのパーソナルアシスタントの役割をかってでるのです。ある日、タイがジェニファーをデートに誘いたいと、エヴァに許可を求める電話がかかってきます。デートの誘いにエヴァの許可を得ることに違和感を感じたジェニファーは玉の輿にも関心がなく、タイの誘いに乗り気にはなれません。しかし、エヴァから強く肩を押されて、セクシーなドレスを着てデートに出かけることにするのです。デート当日、アヴェリーとジャッドは、着飾ったジェニファーを皮肉まじりに見送ります。


その日、屋敷にジャッドが泊まることを知ったエヴァは、仮病を装ってまで友人との夕食会をキャンセル・・・実は、ジャッドとエヴァは10年ほど前に男女の関係にあり、アヴェリーをエヴァに紹介したのもジャッドだったのです。名家一族の娘であるキャロルと結婚をして、ジャッドは逆玉に乗ろうとしているのではないかと疑惑をもつエヴァは、キャロルとの関係を好ましく思っていません。また同時に、男性としてジャッドを忘れられないエヴァは、ジャッドを再び誘惑しようとするのです。電話のコードをジャッドの首に巻くシーンは、エヴァの支配欲が感じられます。


その夜、ジャッドはキャロルとの婚約を家族の前で電撃発表・・・デートから帰宅したジェニファーをにこやかに迎えながらも、エヴァの苛立ちは抑えられません。真夜中に、ジェニファーはエヴァの息子テッドの鳴き声で起こされます。テッドをあやすキャロル曰く・・・エヴァの運転する車に乗って大きな山に向かっている夢を毎晩のようにみて、テッドは泣き叫ぶというのです。キャロルは屋敷の図書館でみつけた本に書かれていた女王蜂について語り始めます。そして、エヴァは自分に歯向かう者を抹殺する”女王蜂”のようだと忠告をするのです。ジェニファーは、何故、皆がエヴァを悪くいうのか理解できません。


ジェニファーが寝室へ戻ろうとした時、暗い応接室へ忍び足で入るエヴァの姿を見かけます。ソファにはジャッドがおり、やがて二人は口論を始めるのです。ジャッドはキャロルとの婚約発表を機に、エヴァとの関係を完全に解消したいのですが、そう簡単にエヴァは諦めません。そんなエヴァを病気に例えて、今はウィルスの免疫があると拒絶するジャッド・・・エヴァは「必ず後悔させてやる」とタンカを切ります、その一部始終を盗み見していたジェニファーは、エヴァがこの屋敷の”女王蜂”であることを理解するのです。


翌日、エヴァは精神科医を自宅に招いて息子テッドの悪夢について相談・・・エヴァの美しさに惑わされた精神科医は、テッドが夜泣きする原因はキャロルの甘やかしにあると、エヴァにとって都合の良い診断を下してしまいます。それを聞いてエヴァは、すぐさまキャロルの寝室を屋敷の別棟に移動させるようとするのです。ジャッドと結婚して屋敷を出るのだから、今すぐ部屋を移さなくても・・・と言うジェニファーに、エヴァは「本当に結婚するかしら?」と微笑みます。


勝手にキャロルの部屋に入ったかと思うと、ヒステリックに片っ端から調度品を投げ倒すエヴァ・・・アヴァリーと駆け落ちして結ばれて玉の輿にのったものの、保守的な南部の上流階級で”よそ者”扱いされ続けた疎外感から、キャロルに敵対心を募らせていたのです。長年の孤独感を涙ながらに訴えて、血縁者であるジェニファーを屋敷に招いたのも、自分の味方になってくれる人が欲しかったからとエヴァは告白します。そして、屋敷を出たいというジェニファーを、エヴァが今までしてきた経済的援助などを理由に引き止めるのです。


アヴェリーの無関心がエヴァの疎外感を生んでいると感じたジェニファーは、アヴェリーの部屋を訪れます。その場限りの火遊びだったのに、エヴァが強引で別れられずに結婚したんだと告白するアヴェリー・・・酒に溺れていたののも、エヴァと向き合うことを逃げているからかもしれません。酒に逃げずに一族の長としての役目を果たすようにと意見するジェニファーを、アヴェリーは抱き寄せてキスします。お互いの秘められた恋心が、目覚めたのかもしれません・・・。


アヴェリーは家族を集めて、キャロルとジャッドはすぐにでも結婚すべきだから、今度の日曜日に結婚式をすると宣言・・・それ聞いて祝福するジェニファーの頬を、エヴァは苛立ちのあまりひっぱたくのです。エヴァが気に食わないのは分かりますが、唐突の暴力にはただあっけにとられます。


その夜、アヴェリー、キャロル、ジャッドが、ささやかな結婚祝いのディナーをしていると、エヴァが割り込んできて「パーティーは女にとって戦場だから」と、ジャッドにパーティーの会場まで車で送るように要求します。エヴァが支度をしている間、アヴェリーはジャッドにエヴァとの過去の関係をキャロルに話すのかと尋ねずにはいられません。ジャッドはアヴェリーが妹の幸せを願い、真実を話してしまうのではないかと疑っているのです。


その夜遅く、キャロルはジャッドと暮らす家の設計図を広げて、ジェニファーと楽しくおしゃべりしています。そこへ、エヴァがパーティーから帰宅・・・設計図を踏みつけて、キャロルにジャッドの過去の女性関係について語り始めるのです。「ジャッド本人に確認すれば?」と脅しながら、男女の関係をもっていたのは”暗”に自分だったと、キャロルに暴露してしまいます。憤るジェニファーに、明日にでも屋敷を出て行けと言い放つエヴァ・・・ジェニファーは屋敷に残ると言い返すのです。


翌朝、ジャッドとジェニファーがキャロルを探して馬小屋に入ると、そこには梁から首を吊ったキャロルの姿があります。エヴァとジャッドの関係を確信したキャロルは、自ら命を絶つことを選んでしまったのです。化粧台の前で訃報を聞いたエヴァは、フェイスクリームを鏡に塗りたくりながら嗚咽します。ジョーン・クロフォード本領発揮の”やり過ぎ”演技炸裂です。


キャロルの死後、エヴァは規律に厳しい乳母を雇い、子供たちも管理するようになります。ジェニファーは積極的に子供たちと接して、子供たちの心を癒そうとするのですが、エヴァにはおもしろくありません。一方、アヴェリーはジェニーに意見されたことで、一族の工場の経営にも積極的になり、以前のアル中だった時とは違って仕事や家庭のことにも熱心です。乳母の乱暴な叱り方を目の当たりにして、即クビだと言い伝えると、乳母はアヴェリーとジェニーの不適切な関係をエヴァに告げ口してやると、まったく怯みません。

乳母をアヴェリーの独断で解雇しようとしたことは、当然のことながらエヴァの逆鱗に触れてしまいます。もしも、離婚しようなんて考えているならば、ジェニーとの関係を法廷で訴えるというのです。法廷では、乳母は重要な証言者となるだろうし、エヴァ自身が何を語るかはスキャンダルになるに違いないと脅します。アヴェリーのエヴァへの憎しみは、この時を機に殺意に変わるのです。

キャロルの死後、屋敷から遠ざかっていたジャッドは、工場の仕事を辞めてニューオリンズへ引っ越すことを決意し、仕事の整理のために久しぶりに屋敷を訪れていたのですが・・・そこで、キャロルにエヴァと自分の過去の関係を話したのは、アヴェリーではなくエヴァだったことをジェニファーから伝えられます。ジャッドはエヴァへの復讐を誓うのです。


この頃から、アヴェリーはエヴァに対して愛情が甦ったように振る舞い始めます。妻から信用を得たところで、交車の事故を起こして無理心中しようというのがアヴェリーの計画なのです。夫の態度の変化に戸惑いながらも、2度目のハネムーンが来たと歓びを隠しきれないエヴァ・・・アヴェリーから高価なジュエリーをプレゼントされて機嫌の様子であります。アヴェリーの愛情を再び勝ち得たエヴァの変化は噂になるほどになり、ジェニファーは自分が屋敷に滞在する意味はなくなったと、今度こそ本当に屋敷を出ることを決意するのです。

ジェニファーの屋敷での最後の夜・・・大雨にも関わらず、アヴェリーはエヴァを連れ立ってパーティーに出かける予定になっています。アヴェリーが顔の傷を負うことになった車の事故もエヴァが同乗していたことから、ジャッドは不穏な気持ちに襲われて屋敷にやってくるのです。アヴェリーの計画を確信したジャッドは、エヴァをパーティー会場に自分が運転すると言い出して、エヴァだけを誘い出します。


車内で、アヴェリーが無理心中の機会を伺うために、愛情が甦ったフリをしていたことを暴露するジャッド・・・運転中のジャッドにエヴァがつかみかり、ジャッドはハンドル操作を誤って車は崖から落ちてしまいます。二人の後を追ってきたアヴェリーは、燃えさかる車を、ただ見つめるのです。警察から交通事故について呼び出されたアヴェリーに付き添うのは、屋敷を去るはずだったジェニファー・・・二人を阻むモノはもうありません。暗い屋敷から外に出ると、空は輝くほど晴れ渡っています。


原作の小説は未読ですが・・・本作の筋は、ジェニファーが様々な障害が乗り越えて、叔母の夫と結ばれるという略奪愛の物語でもあります。”女王蜂”と比喩されるエヴァは、二人の愛を阻む”邪魔者”なのかもしれません。ただ、本作はジョーン・クロフォード主演が条件での映画化であったため、エヴァというキャラクターに焦点をあてることは絶対的な映画化の条件だったのです。実際、ジェニファーを演じるルーシー・マロウは、それほど華がある女優でもありません。

それにしても・・・エヴァは、それほど皆から嫌われるべきキャラクターなのでしょうか?見方を変えれば、エヴァは可哀想な女性でもあります。確かに、玉の輿にのる強引さとしたたかさ、義理の妹の婚約者となる男に執着したり、家族を高圧的に支配していたり、上から目線で意地悪で厭味ばかりだったり・・・決して”いいひと”ではないかもしれません。

しかし、夫だけでなく夫の家族や家族の友人たちからもよそ者扱いで疎外され続け、昔の男からは一方的に関係を断ち切られ、引き取った姪っ子には結果的に夫を奪われ、最後には殺されてしまうのです。二人の子供たちに対して愛情がないわけではありませんし、アヴァリーから愛情を示したならば女性的なかわいいところあったりします。観客がエヴァに同情を感じる間もないほど疎ましく感じてしまうのは、ジョーン・クロフォードという大女優の存在感と、お得意の”やり過ぎ”演技にあるのかもしれません。

逆に、純粋そうなジェニファーですが・・・エヴァの招待により屋敷に入り込み、誰からも好かれるように上手に立ち回って、最後には全てを手にするのであります。エヴァから信頼を得ることは容易かったし、結婚を応援することでジャッドからもキャロルから好かれていますし、名家出身のタイからは一目惚れされるし、アヴェリーの心も次第に虜にしてしまうのです。ジェニファーは自らの手を一切汚すことなく、屋敷の”女王蜂”であるエヴァだけでなく、ジャッドもキャロルさえも亡き者にして、一家の長であるエヴァリーに寄り添う存在として、新たな”女王蜂”として屋敷を乗っ取ったとも解釈できるのではないでしょうか?

そう考えると・・・本作は、1950年の「イヴの総て」の亜流作品とも言えるのかもしれません。ジョーン・クロフォード演じるエヴァはベティ・デイヴィス演じるマーゴ・チャニングに、ルーシー・マロウ演じるジェニファーはアン・バクスター演じるイブに重なるのです。ただ、いかにもメロドラマといったジェットコースターなご都合主義の展開と、登場人物たち同士(ジェニファー以外)が放つ厭味な台詞のやりとりによって、本作は立派な”おキャンプ映画”として成立してしまったのであります。


本作の撮影時、ジョーン・クロフォードはペプシ・コーラ社社長アルフレッド・スティールと婚約中で・・・結婚後は、ペプシ・コーラの広告塔として活躍することとなります。まだまだ女性の社会進出がアメリカでも珍しかった時代であったにも関わらず、1959年に夫が亡くなった後(1973年まで)元社長未亡人という立場で会社役員として、ジョーン・クロフォードは”女王蜂”の如くペプシ・コーラ社に君臨し続けたのです。本作のエヴァのようにジョーン・クロフォードも、ペプシ・コーラ社の他の役員たちから疎まれ続けた「嫌われ者」だったことは言うまでもありません。


「クィーン・ビー(原題)」
原題/Queen Bee
1955年/アメリカ
監督 : ラナルド・マクドュガル
出演 : ジョーン・クロフォード、バリー・サリヴァン、ベッツィー・パルマー、ジョン・アイルランド、ルーシー・マロウ、ウィリアム・レスリー、フェイ・レイ

日本未公開


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