2013/01/24

向田邦子の台詞を巧み紡いだ魔性の女優たち競演の舞台!・・・オリジナルの「品性」「エグさ」「斬新さ」は超えられない!~2013年舞台版、森田芳光監督映画版、NHK土曜ドラマ版「阿修羅のごとく」~



NHK土曜ドラマ枠(午後9時から)で放映されていた「阿修羅のごとく」は、舞台となる1979年の”リアルタイム”で制作されていたこともあって、向田邦子の代名詞となっている「昭和の家庭」を懐古するようなノスタルジーさを感じさせるというよりも「”斬新なホームドラマ」でありました。テーマ曲のトルコの軍楽(メヘテルハーネ「ジェッディン・デデン」)や、本編中の楽曲は、当時のホームドラマとしては不気味なセレクションと言えます。レインボー「バビロンの城門」、ダウン・タウン・ブギウギ・バンド「フィール・ブルー」、サンタ・エスメラルダ「悲しき願い」、シルバー・コンベンション「Get Up and Boogie」、イエロー・マジック・オーケストラ「テクノポリス」、ピンクレディー「UFO」などが、不穏な感情を揺さぶったものです。

日常に潜む”おんな”の阿修羅的な恐ろしさを描いたといわれる本作・・・四姉妹がそれぞれの心に潜ませる妬み、嫉みなどの愛想を、何気ない台詞や表情で”ミニマル”に表現されています。夫が愛人を囲っていることを長年知りつつも、知らん顔していた母親がみせる嫉妬が、一番恐ろしいです。母亡き後のパート2では、さらに四姉妹の運命は劇的な展開をしていくのですが、沈黙の中での一瞬の表情さえも見逃すことを許さない、緻密で凝縮された演出が凄いことなっています。また、父親の”柳に風”のような動じないさや、男たちの優柔不断さや頼りなさなど、”おとこ”への厳しい視線も鋭いです。


長女・綱子を演じるのは「寺内貫太郎一家」の母親役でお馴染みの加藤治子・・・長女らしい保守的なところがありながらも、どこかしら”すっとぼけ”ていて、ゆるい”エロさ”を漂わせているところが絶妙でありました。夫に先立たれて生け花の師匠として生計を立てているのですが、実は営業先の料亭・枡川の旦那と不倫中・・・その旦那を、往年の二代目俳優・菅原謙次が演じているのですから、なんとも艶っぽいわけです。優柔不断で優しい二枚目という存在自体を、せせら笑うようでありました。そして料亭の女将さんを演じているのが、三條美紀という女優さん・・・着物の似合う大御所でありますが、意地悪さ加減が、観ていて小気味良いほどです。

次女・巻子を演じるのは、八千草薫・・・品の良いお母さん役というイメージの女優さんでしたが、同時に”のほほん”とした不気味な印象もボクは持っていました。専業主婦で視聴者が一番親近感を感じやすい役柄ということもあってか、四姉妹の中では主役的な存在であったような気がします。巻子の夫の鷹男役は、パート1が緒形拳で、パート2は露口茂・・・緒形拳は飄々と演じている印象でコミカルさを感じさせるのですが、露口茂はどこかウェットでシリアスな感じで、ボク個人的には緒形拳がいい味出していたように思います。またパート2では、2013年の舞台版で巻子役を演じる荻野目慶子が、巻子の娘役で出演しています・・・ただ、現在の魔性っぷりからは想像出来ないほどの初々しさです。

三女・滝子を演じるのは、いじだあゆみ・・・ボクの世代にとっては「ブルーライト・ヨコハマ」というヒット曲の歌手というイメージが強いのですが、性に関して潔癖性なクセに、実は欲求不満の図書館の事務員という、華やかなイメージからはかけ離れた役柄が意外でした。父親の愛人調査を依頼した探偵・勝又と恋に堕ちてしまうのですが・・・勝又を演じるのが、宇崎竜童という意外なキャスティングで・・・口下手で正直者という役柄が、妙にハマっておりました。

四女・咲子を演じたのが風吹ジュン・・・今でいうグラドルみたいな存在で、歌手として歌っても吐息ばっかりで音痴、演技もけだるい感じでやる気なさそうというノリが、学生運動が終結した当時のアンニュイな雰囲気に合っていたのかもしれません。本作の中では、ソバージュの髪型、肩パッドなどの1979年~1980年当時の”今風”ファッションを体現している役柄でもありました。

四姉妹を演じる女優にも増して、スゴいのが父親を演じる佐分利信であります。威厳のある父親という、いわゆる”寡黙な親父”像そのもののような役者さんなのですが、出演作のどれを観ても似たような演技というイメージ・・・ボクは「あまり演技が上手ではない役者さんだなぁ」と思っていたのですが「阿修羅のごとく」を観て印象は変わりました。一見すると無表情でありながら、目の奥で内面を表現していたのです。物語が進むにつれ・・・愛人に振られ、妻に先立たれて、侘しさを増していく様子は惨めさをヒシヒシと感じさせます。向田邦子が描いてきた父親像というものを崩壊させている本作ですが・・・と同時にまわりの女たちの繰り広げる嫉妬や葛藤にも感情を露にしない”男のズルさ”もしっかりと覗かせています。

母親を演じた大路三千緒という女優さんについては、ボクは何も知らなかったのですが・・・元宝塚の男役スターだったそうです。ただ、本作では影の薄い専業主婦の母親を演じています。夫に愛人がいたとしても家庭を守るということが美徳ととらえられていた時代の母親・・・しかし、娘のフリをして新聞社に投書したり、愛人の暮らすアパート付近で見張っていたりと、内面では嫉妬に燃えていたというのが、向田邦子が男に対して放つ平手打ちのようです。まったく素振りを一切見せない演技が、より奥深い嫉妬の怖さを増しているのかもしれません。

オリジナルのNHK土曜ドラマ版は、演じる役者を考慮して脚本を書かれているということもあって、キャスティングは役者さんの表層的なクラクターだけでなく、深層に潜むキャラクターまでもあぶり出している”エグさ”がありました。だからこそ、観るたびにキャラクターの人間像の発見があり、制作から30数年経った今でもNHKドラマの名作として語り継がれているに違いないのです。


2003年(オリジナルドラマ放映から24年・・・森田芳光監督により「阿修羅のごとく」が映画化されます。パート2放映後から1年後に飛行機事故で向田邦子が亡くなったこともあり、本作は繰り返しNHKで再放送されていましたし、昭和という良き時代の家庭を懐かしむ風潮が高まってきたこともあったのかもしれません。ただ、森田芳光監督と豪華な配役にも関わらず、映画版は失敗作であったとボクは思っています。

まず、過去を舞台とする物語となったために、昭和的なノスタルジーを取り込もうとしたようです。確かに、本作で描かれる父親像、母親像、そして、四姉妹それぞれの物事の考え方・・・さらに、物語の辻褄上、黒電話などの小道具も重要ではあり、1979年という時代設定は無視できません。しかし、リアルタイムで生きていたボクからすると・・・1979年というのは、もはや懐かしい”昭和”を感じさせてくれるような時代ではなく、学生運動が盛んだった混乱からバブル景気への”中間点”・・・”しらけ世代”の冷めた無気力感、個性尊重の個人主義、ブランド志向などの風潮が広がっていく、実は”昭和”感から大きく脱却した時代であったのです。

ドラマのパート1とパート2の全7話のストーリーを2時間ほどにまとめるわけですから、はしょらなければならない場面が出てくるのは当たり前のことです。おおまかな物語の流れは、パート1の母の死をクライマックスにしながらも、パート2の四姉妹のエピソードを前後シャッフルして織り交ぜていくという手法をとっています。しかし、オリジナルの台詞を忠実に再現しようとするばかりに、その言葉だけが残っていて、その背景にある感情が希薄になってしまった印象です。

キャスティングにも問題があったように思います。それぞれの役柄に合った役者を起用しようとしたのでしょうが・・・逆に周知の”キャラクター”を前面に押し出すだけになってしまった気がします。長女役の大竹しのぶは、デビュー時代は”田舎臭い娘役”で天才女優の名を欲しいままにしていました。しかし、人生を重ねるうちに上手な演技と呼ばれてきた芝居もある種パターン化してきて・・・身持ちの悪い役を演じさせると、下品さだけが目立つようになってきました。長女は、確かに料理屋の旦那とカラダの関係を断ち切れないのですが、生け花の師匠で未亡人という”気品”も共存しているはず・・・その”品”が、大竹しのぶには絶望的に欠けているのです。また、料理店の女将を演じる桃井かおりも、下品さでは大竹しのぶに負けていなくて・・・二人が対決する場面は場末のホステス同士の喧嘩のようです。

次女役の黒木瞳にしても、三女役の深津絵里にしても、それぞれの役のイメージに合わせたキャスティングなのかもしれませんが、それまで演じてきた役柄の延長線上という感じです。四女役の深田恭子に至っては演技が下手で話になりません。父親役の仲代達矢も、母親役の八千草薫も、四姉妹の物語の背景のような扱いをされているので、生かされていないキャスティングです。一番ヒドいのは三女と付き合う探偵の勝又役の中村獅童・・・監督の指示なのか、中村獅童の役作りなのかは分かりませんが、口下手で正直者という以上に、落ち着きがなく吃るという変なキャラクターになってしまっています。その演技が、あまりにも大袈裟で、まるで障害者を滑稽に真似しているかのよう・・・観ていて不謹慎に感じました。映画版のキャスティングで良かったのは、長女の夫・鷹男役の小林薫と、長女の不倫相手の料理屋の旦那役の坂東三津五郎ぐらいでしょうか?残念ながら・・・映画版「阿修羅のごとく」は、オリジナルドラマファンのボクにとっては残念な作品でした。


「阿修羅のごとく」が、初めて舞台化されたのは・・・小説版「阿修羅のごとく」の文庫あとがき(南田洋子著)によると、1999年6月のようなのですが、ネットで調べても詳細が分かりません。南田洋子が母親役、長門裕之が父親役を演じていたようですが、四姉妹を誰が演じられたのか分かりません。2004年に、再び、南田洋子の母親役、長門裕之の父親役で、芸術座で公演されています(2006年の博多座で再演では、母親役は水野久美、父親役は天田俊明)。長女・山本陽子、次女・中田喜子、三女・秋本奈緒美/森口博子、四女・藤谷美紀/細川ふみえ、鷹男・国広富之、勝又・渋谷哲平というキャスティングというのは、商業演劇らしい気がします。どちらの舞台もボクは観ていません。

さて、先日観に行った2013年版舞台「阿修羅のごとく」は・・・母親・加賀まりこ、長女・浅野温子、次女・荻野目慶子、三女・高岡早紀、四女・奥菜恵という”魔性の女優”ばかりを集めた確信犯的なキャスティングに、興味を惹かれてしまいました。

母親役に”加賀まりこ”というのが”ありえない”気がします。”おんな”として枯れてしまった役柄を演じるには、69歳であっても加賀まりこは瑞々しい”現役感”ありすぎの印象・・・白菜のお漬け物を漬けるイメージからも程遠く、嫉妬に燃えながらも夫の浮気に絶えたりせずに凄い剣幕で愛人宅に怒鳴り込みそうです。ただ、年を取っても若い役を演じられる舞台の魔法が逆に作用して”老け役”に挑んだという感じでしょうか?

長女役の”浅野温子”が「未亡人」の「生け花の師匠」というのは、かなり無理・・・未亡人の枯れたエロスもなければ、生け花の師匠らしい気品もなく、不倫することなんか全然気にしなさそうな”あっけらかん”としているイメージしかありません。目力の強いデビュー時代には男性ファン、W浅野時代には女性ファンを獲得していた浅野温子も、その後は迷走し続けているような感じがします。この舞台では「サザエさん」役を彷彿させるコミカルな演技をみせています。

次女役の荻野目慶子が、専業主婦というのもシュールです。まったりとした独特のエロさは、長女役に適しているような気がするのです。夫の浮気を疑う様子は妙におどろおどろしいし、夫を問い詰める様子は変に甘えているようで・・・隠せないエロさが滲み出てしまっています。三女役の高岡早紀は、いい意味で、高岡早紀っぽさを消して役柄になりきっていた印象でした。四女役の奥菜恵は、頑張り過ぎて下品で派手なオバサン(?)みたいになってしまっていました。この5人の女優よりも異彩を放っていたのが・・・長女の浮気相手の奥さんを演じていた”伊佐山ひろ子”でした。長女とのやり取りでは、完全に浅野温子を制圧してしました。

さて・・・全7話のテレビドラマを、どうやって2時間ちょっとの舞台にするのか?場面が頻繁に変わる展開を、どうのような舞台装置を使うか?というのが、ボクは大変興味がありました。舞台は15分の休憩を挟んで、1部と2部に分かれているのですが・・・1部でパート1、2部でパート2の物語を追っていきます。時間的にかなり凝縮されているので、全体的にドタバタ感があって展開のペースが早いです。ただ、向田邦子の書いた台詞を言うだけでは感情が伴わなくなってしまいますが、巧みに時間軸や場面を変更して、生きた台詞として紡いでいたのには驚きました。また、舞台という制約もあるなかで、記憶に残っていたキーポイントとなるドラマの場面も殆ど再現されていました。

今回の舞台版の脚本の巧みさだけでなく、舞台セットも複数に進む物語を効果的にみせることに成功していた気がします。真ん中に大きな茶の間、その左横に出入り口のある茶の間(長女宅の茶の間)、左上にダイニングテーブル(次女宅の食堂)、右脇に病室や外など自在に変化する空間、右上に小さな茶の間(四女の部屋)、その茶の間の奥に土手・・・という風に舞台上に6つの空間を設けることで、めまぐるしく場面の変わる物語を手際良くみせていました。

舞台としての完成度は決して低くはありません。興業として考えた場合、今回のキャスティングというのは、ボクのようなオリジナル版のファンの興味も惹いたわけですから、成功と言えるのかもしれません。ただ・・・焼き直されるたびに失われていく「品性」「エグさ」「斬新さ」を、改めて確認してしまうことも事実なのです。


「阿修羅のごとく」
1979年、1980年/テレビドラマ
演出 : 和田勉、高橋康夫、富沢正幸
出演 : 加藤治子、八千草薫、いしだあゆみ、風吹ジュン、佐分利信、大路三千緒、緒形拳(パート1)/露口茂(パート2)、宇崎竜童、荻野目慶子(パート2)
パート1/1979年1月13日~1月27日放映
パート2/1980年1月19日~2月9日放映

「阿修羅のごとく」
2003年/映画
監督 : 森田芳光
出演 : 大竹しのぶ、黒木瞳、深津理絵、深田恭子、八千草薫、仲代達矢、小林薫、中村獅童、桃井かおり、坂東三津五郎
2003年11月3日劇場公開

「阿修羅のごとく」
2013年/舞台
演出 : 松本祐子
出演 : 浅野温子、荻野目慶子、高岡早紀、奥菜恵、加賀まりこ、林隆三、伊佐山ひろ子
2013年1月11日~1月29日 ル・テアトル銀座/東京
2013年1月31日~2月3日 森ノ宮ピロティホール/大阪
2013年2月9日~2月10日 名鉄ホール/愛知 



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2013/01/22

さりげなくゲイのおじいさんが登場する大人映画・・・でも、さわやかなエンディングは迎えさせてもらえないの!~「マリーゴールド・ホテルで会いましょう」~



ゲイ(同性愛男性)のキャラクターを扱う場合・・・女装の狂言回し役だったり、サイコパスの犯罪者であったり、哀れむ対象であったりということが、多かった時代というがありました。今ではそんな意識はすっかりなくなった・・・と言いたいところですが、女装やオネェ言葉は、いまだに笑えるギャグとして有効というのは、深層心理的には昔とそれほど変わっていないのかもしれません。同性愛をテーマとた作品というわけでもなく、登場人物の一人としてゲイを扱う場合には、一見してゲイと分かるようなステレオタイプの「ゲイ・キャラ」というのも、まだまだ多いような気がします。

「マリーゴールド・ホテルで会いましょう」は、イギリス人の高齢者7人が、インドのマリーゴールド・ホテルに老後を過ごすために移住するというお話・・・さわやかな感動を呼ぶ”高齢者向け”(?)の大人映画であります。実際にホテルに到着してみると、宣伝写真とは違ってボロボロ・・・さらに、慣れないインドの環境にヘキヘキしていく様子を、暖かい眼差しと皮肉さの混じった視点で描いていきます。当初、英国人のプライド丸出しで異文化を蔑視するような彼らの態度は、傲慢に感じられますが・・・これも、新しい環境を段々と受け入れていく後半の展開との対比のためであります。それぞれの抱える問題が明らかになっていくに連れて、気難しい英国人気質さえも共感を生んでいきます。また、経営困難なホテルを再建しようとする若いインド人青年ソニー(デヴ・パテル)とイギリス人高齢者との対比は、まさに経済発展を進めるインドという国の若さとエネルギーと円熟したイギリスという国そのものであることは言うまでもありません。

夫に先立たれて自立の道を探る元専業主婦のイヴリン(ジュディ・デンチ)、腰の手術を受けるためにやってきた元家政婦のミュリエル(マギー・スミス)、離婚の危機にあるダグラス(ビル・ナイ)とジーン(ペネロープ・ウィルトン)の熟年夫婦、新しい恋を探しているオールドミスのマッジ(セリア・イムリー)、若さに執着して女の尻を追い回すノーマン(ロナルド・ピックアップ)・・・それぞれの物語の展開には、小さな驚きと清々しい結末が待っているのですが、ボク自身が注目したのは、少年時代インドに暮らしていた元判事のグレハム(トム・ウィルキンソン)の物語です。

グレアムが父親の仕事の関係でインドに住んでいた少年時代のこと・・・現地の使用人家族の息子マナージと遊び相手として仲良くなるのですが、ある時をきっかけに(本作では深くは語られません)ふたりの関係は”恋人関係”へと発展していったのでした。数ヶ月後、ふたりの関係はグレアムの両親に知られてしまいます。マナージの父親は解雇され、マナージの家族は屋敷を追い出されてしまいます。しかし、まだ少年だったグレアムは、この状況を傍観してやり過ごしてしまっていたのでした。その後、グレアムはイギリスに帰国して、何事もなかったように進学して、判事として働くまでになっていたのです・・・マナージへの愛と罪悪感をずっと抱えたまま。

ここからネタバレを含みます。

マナージにとって自分は最も会いたくない人間ではないかと恐れながらも、グレアムは根気よく役所に問い合わせてマナージの居場所をみつけます。マナージは、お見合いで妻を娶っていたのですが・・・その妻は夫のマナージが、グレアムというイギリス人の少年と愛し合っていたことを知っていたのです。無言で再会の抱擁をするマナージとグレアムを見つめる妻・・・彼女の夫への複雑、かつ、深い愛情を感じさせます。

本作は、特に同性愛の是非を問いただそうという映画ではありません。ただ、グレアムがストレートという設定で、過去に愛したインド人の少女と再会する話だとすると、陳腐なロマンチズムを感じさせたかもしれません。また、グレアムとマナージの過去、そして再会した後の様子は、フラッシュバックなどではなく、グラハムの台詞だけでしか説明されません。過去の思い出も、再会した後の会話も、観客が想像するしかないのです。

マナージはインド社会で、同性愛者として辱められ「終身刑」に追い込んでしまったと、グレアムはずっと思っていたのですが・・・実は、妻にグレアムとの関係を隠すこともなく、マナージは穏やかな人生を送っていました。そして、マナージもグレアムのことをずっと愛していたことを知らされるのであります。グレアム自身こそが、罪悪感という「終身刑」に自らを追い込んで生きていたことを悟り、彼はやっと解放されるのです。

マナージとの再会により、グレアムの愛の物語はひとつの決着はしているわけですが・・・その直後、グレアムは心臓麻痺でポックリ亡くなってしまいます。登場人物が高齢者ばかりなのですから、その中ひとりぐらいは亡くなることはあっても不思議はありませんが、よりにもよってゲイのキャラクターというのが、ちょっと釈然としません。映画本編は、さわやかで楽天的なエンディングを迎えることになるのですが・・・グラアムが、その結末を迎えさせてもらえないのは、彼がゲイという”特別枠”のキャラクターだからなのでしょうか?

高齢者のイギリス人がインドで暮らすというシチュエーションの”ネタ”は尽きないようで、続編の製作も噂されている本作・・・過去の愛を確かめ合ったグラアムの、その後が描かれることがないことが、ボクには悔やまれてならないのです。


「マリーゴールド・ホテルで会いましょう」
原題/The Best Exotic Marigold Hotel
2011年/イギリス、アメリカ、アラブ首長国連邦
監督 : ジョン・マッデン
出演 : ジュディ・デンチ、マギー・スミス、ペネロープ・ウィルトン、ビル・ナイ、デヴ・パテル、セリア・イムリー、ロナルド・ピックアップ、
2013年2月1日より日本劇場公開


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2013/01/20

追悼・大島渚監督・・・超低予算映画でありながら斬新なアイディアで不条理な国家権力を皮肉った革命的な一作!~ATG映画「絞死刑」~


2013年1月15日大島渚監督が亡くなられた。1996年に脳出血で倒れてから、一度は「御法度」で監督復帰するものの、病状が悪化して闘病生活を送られていました。言語障害や右半身不随のリハビリの様子をテレビのドキュメンタリー番組で拝見したときには、とても心が痛みました。心よりご冥福をお祈りします。

ボクが映画に興味を持ち始めた1970年代後半というのは、「ロードショー」や「スクリーン」といった洋画雑誌が全盛の頃で、ロードショー形式という全国の主要映画館で一斉に封切るという拡大ロードショーというスタイルが定着してきた時代でした。また、角川映画のマスメディア戦略による邦画が次々と製作され、商業主義の大作映画ばかりに注目されていたものです。当時は、レンタルビデオ屋なんてもんは存在していませんでしでしたから、古い作品というのは名画座かテレビ放映で観るしかありません。だだ、映画を放映するテレビ枠は毎晩がありましたし、2本立て、3本立ての名画座も都内にまだ多くありました。ボクは「ぴあ」を片手に名画座を巡り、ある年には1年間で400本以上の映画を観たものです。しかし、名画座で上映されることもなく、テレビ放映されることもない映画というのもありました。

初期(1967~1971)のATG(日本アート・シアター・ギルド)映画については、文献などで読むことはあったも、テレビ放映はもちろん、名画座で上映されることも殆どなく、ボクにとっては”幻の映画”でした。1962年から映画配給を行なっていたATGが、1000万円という低予算映画を製作し始めたのが1967年・・・1970年代後半には、長谷川和彦監督の「青春の殺人者」や、東陽一監督の「サード」のように、全国的に大ヒットする作品などの映画の製作を行う会社になっていました。

1979年、ATG創立20周年を記念して、日劇地下の映画館で「ATG映画の全貌」という映画祭が開催されました。ボクは上映作品のすべてを観るために回数券を購入して毎週通いました。この映画祭は、それまで観ることのできなかった初期のATG映画を集中的に上映するもので・・・「人間蒸発」「絞死刑」「初恋・地獄篇」「肉弾」「心中天網島」「地の群れ」「無常」「書を捨てよ町へ出よう」「儀式」「あらかじめ失われた恋人たち」の10作品がラインナップされていたと記憶しています。

この時に上映された作品の中でボクが一番衝撃を受けたのが大島渚監督の「絞死刑」でした。映画を「監督」で観るようになったのは、この時「絞死刑」と「儀式」2本を観たことがきっかけと言ってもいいでしょう。しかし、当時(1980年前後)大島渚監督の初期の松竹映画やATG以前の独立プロ時代の作品は名画座でも上映されることにはなく、その後(1985年)留学先のニューヨークの”フィルム・フォーラム”で行なわれた大島渚監督のレトロスペクティブにて、デビュー作の「愛と希望の街」や、松竹を辞めるきっかけになった問題作「日本の夜と霧」など、多くの大島作品を観る機会に、やっと恵まれました。初めて観た大島渚監督作品ということだけでなく、すべての大島作品の中でも斬新さが際立つ「絞死刑」は、ボクにとって大島作品のベストワンなのです。

「絞死刑」は、当時としても超低予算の”1000万円映画”で製作された作品の””劇映画”第一作目で・・・大掛かりなセットを組むことは出来ないという状況を逆手に、舞台となるのは絞死刑を行なう刑場の部屋の中(一部、外部ロケもあり)だけという手法を使った作品でした。1958年に実際に起きた在日韓国人李珍宇による”小松川高校殺人事件”をヒントにしているのですが・・・事件の背景に「朝鮮人差別」「極貧問題」があるとして、死刑判決後に助命要請運動も行なわれたそうです。犯人の少年は、死刑執行される前にカソリックの洗礼を受けたりしたものの、最後まで被害者たちへの罪の意識を感じることがなかったらしいということも、本作に反映されているようです。

映画は、いきなり主人公”R”(アール)の死刑が、拘置所所長、教育部長、神父、保安課長、医務官、検事らが立ち会いのもと執行されるシーンから始まります。ところが絞死刑が執行された後も、”R”の脈は止まらず処刑は失敗・・・意識は取り戻すものの記憶を失ってしまいます。法律上、心神喪失状態にある時には死刑執行は出来ないということで、教育部長らは処刑の再執行を行なうために、”R”の記憶と罪の意識を取り戻させるために、寸劇で”R”の家庭や犯罪状況を再現したりすることになります。そう・・・死刑制度問題、在日韓国人差別、貧困による犯罪心理、国家権力の見えない力、などデリケートな社会問題を扱ってはいながらも、本作は「コメディ映画」なのです。

”R”の素朴な疑問は、ボクが問い正すことされも考えてみなかった世の中の仕組みの疑問でもありました。「国家」という存在を意識することもなく生きていたボクでしたが、その「国家」によって「正義」と「罪悪」が決められていることに、反発や疑問を感じたものです。また、本作の”R”は、自分にとって確信できるのは自己認識していることだけなので、罪の意識を持つことはできないということに、共感している自分に怖さも感じました。第二次世界大戦後の教育により「自己」は尊重されるべきものとして、自分自身の価値観を持つことは「良」として、ボク以降の世代は育てられてきました。「ボク」「わたし」という自己を中心とした物事の認識が当然の時代に・・・「国家」の正義を、どのように個人に認めさせるのかを、大島渚監督は本作で映像的に表現することを試みています。刑場を出て行けと言われた”R”がドアを開けた瞬間、まばゆい光に思わず”R”の足はすくみ外へ出ることは出来ません。”R”は”R”であることを認め、差別や貧困で苦しんできた在日韓国人の重荷を引き受けて処刑されることに同意して再び絞死刑が執行されます。しかし、処刑を行なったロープの先には”R”のカラダはなく、そこには空のロープがぶら下がっているだけ!なんという皮肉・・・「国家」が認識させた「正義」さえも、その実体がないのです。

「絞死刑」を観るたび、さまざまな問題提起に対して、何ひとつ納得出来る答えを出せない自分を感じます。映画というのは、なにかしらの結論を導くきっかけを与えてくれるものですが、本作は哲学的な問答の大海原に、観る者を投げ出してしまうような作品なのです。


「絞死刑」
1968年/日本
監督 : 大島渚
出演 : 尹隆道、佐藤慶、渡辺文雄、石堂淑朗、足立正生、戸浦六宏、小松方正、松田政男、小山明子
1966年2月3日より日本劇場公開

 
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2013/01/09

宇宙の中にひとつの命として存在する私、地球温暖化と格差社会、少女の父親との死別・・・場所、人種、時代を超えた普遍的な寓話~「ハッシュパピー バスタブ島の少女/Beasts of the Southern Wild」~


最近、ドラマだけではなくバラエティ番組や宣伝のイベントにも”ひっぱりダコ”になっているように「子役」・・・現場の空気を読んで、自分の言葉で切り返す能力までもが求められているようで、大人が期待する子供らしい”かわいさ”を演じている「こども大人」ようで、キモち悪く感じることがあります。歌舞伎では子役の台詞は、わざと一本調子の”棒読み”・・・鼻っから一人前の演者としては扱わないという割り切りがあったりします。ただ、時に監督の指導や、絶妙なキャスティングによって、素人の子役がとんでもない”名演”をして、映画祭の演技賞を総なめ・・・なんてことがあったりします。ただ、その後成長してからも演技者として成功を続けることは稀ではありますが。

オーディション当時、若干5歳(撮影時は6歳?)だったクゥヴェンジャネ・ウォリスちゃんが、演技の経験がまったくないのも関わらず、主役のハッシュパピー役で奇跡の名演をみせる「ハッシュパピー バスタブ島の少女」は、一般的なジャンル分けに戸惑ってしまう不思議な作品であります。

ハッシュパピーの父親のウィンクを演じるドワイト・ヘンリーさんも、本作を制作したプロダクションの近所でパン屋さんをしている素人だし、その他のキャストの殆どが素人・・・その上、アメリカ映画としては超低予算(約1億5千万円)で16ミリカメラで撮影されたということもあって、まるでドキュメンタリー映画のような生々しい手触りを感じさせます。と同時に・・・寓話のようなファンタジーとさまざまな社会の問題のリアリティが入り交じります。ハッシュパピーの視点とモノローグで語られる本作は、どこまでが現実で、どこから想像なのかも曖昧・・・「ツリー・オブ・ライフ」にも似ているところもあり、観客を選ぶ作品かもしれません。


少女ハッシュパピーは父親のウィンクと、”バスタブ”と呼ばれるルイジアナ州あたりにあるらしい三角州のような湿地帯に住んでいます。家畜を飼っているようですが、それで生活が成り立っているとは思えません。多くは描かれませんが、ハッシュパピーの母親である女性は、随分と前に家を出ていってストリッパーになってしまったようで・・・母親の着ていたランニングトップを、ハッシュパピーは母親がわりのように大切にしています。

「ここって本当にアメリカ?」「いつの時代の設定?」と思ってしまうほどの過酷な生活環境に、まず驚かされます。かろうじて雨を防ぐ程度の小屋はゴミだらけ、同じ服を着たっきりでまるでホームレスのよう・・・周辺の住民たち(黒人だけでなく白人のいる)も似たような生活をしているのだけど、その生活に不満を持っているような感じでもありません。自然破壊や地球温暖化などの環境問題に憤りを感じていて、ある種の政治的な意志をもってバスタブでの生活を選んでいるようにも思えます。

実は父親のウィンクは重い病気で、先はそれほど長くないようなのですが、ちゃんと治療する意志はないようで・・・入院していた病院を勝手に飛び出して、ハッシュパピーの元へ戻って来てしまいます。もしかすると、治療費とかを払えないからかもしれません。自分が病気で苦しんでいる様子や、徐々に死に近づいている自分の姿を、ハッシュパピーには見せないようにしようとするウィンク・・・年齢的にハッシュパピーが「死」を理解しているかわかりませんが、宇宙の中のひとつひとつ、ひとつの命が調和して共存しているということは、彼女なりに実感しているようです。

ある日、大きな嵐がやってきます。それでも、ウィンクはバスタブから離れることはせずに、小屋にとどまろうとします。嵐のあと、バスタブ周辺の一帯は完全に水没してしまいます。ドラム缶ボートで彷徨っていたハッシュパピーとウィンクは、同じように非難せずに留まっていた他の住民達と合流します。嵐のおかげで蟹とかザリガニとか大量に獲れて、まるで収穫祭のようなお祭り騒ぎとなります。食物連鎖の中で、自然と共存する人間も”動物”のひとつであることを証明するかのように、蟹を手で割って中身を食らうシーンが印象的です。

しかし、そんなお祭り騒ぎは長くは続きませんでした。一帯が水没したことによって、ますます衛生状態が悪化してしまい、食用のためにボートに乗せていた家畜たちが続々と死んでいってしまったのです。バスタブ一帯の水はけをしようと、ウィンクと仲間たちは、堤防を手作り爆弾(魚に火薬を詰め込んだ!)爆破させます。それで、すぐに水は引いたものの、バスタブは元のようにはなりません。徐々に病気で弱っていくウィンク・・・ハッシュパピーも、父親が死が近づいていることを察し始めます。

ここからネタバレを含みます。


ハッシュパピーを含め住民達は、衛生環境の悪化を問題視した政府当局により、近代的な病院施設に強制的に避難させられることになります。白い壁ばかりの病院で、ハッシュパピーは新しいドレスを着させられ、ウィンクは手術を施されます。ある意味、このような救助の手を差し伸べられて良かったと思えるのですが・・・ウィンクは病院ではなくバスタブで死ぬことを選びます。もう娘の面倒をみることはできないと、ハッシュパピーだけをバスに乗せようとするのですが・・・ハッシュパピーはウィンクの思惑を察し、離れようとしません。結局、ハッシュパピーはウィンクや他の住民らと共に、バスタブに戻ってきます。

バスタブの子供たちが海で泳いでいると、遠く沖から離れてしまいます。そこで、通りかかった船に乗って、海に浮かぶ売春宿のような施設に向かうことになります。もしかすると、ストリッパーになったという母親は、こんな場所にいるのかもしれません。そこは、まるで竜宮城かのように光に満ちた夢のような空間に子供達の目には映ります。売春婦と子供達は、抱き合って踊り、しばし夢のような時間を過ごします。

再び、ハッシュパピーがバスタブへ戻ってくると、ウィンクは死を待つだけのベットに伏してします。そこに「オーロックス」という百獣の王であったという伝説の動物が現れます。その巨大な動物に、まったく怯えることもなく、正面に立ちはだかるハッシュパピーに「オーロックス」もひれ伏します。ハッシュパピーは、バスタブの王として選ばれた者なのでしょうか?亡くなったウィンクをドラム缶ボートで弔ったハッシュパピーは、バスタブの住民達と共に力強く行進をしながら、高らかに訴えるのです!

私はとっても大きな宇宙の中で小さなピース
私が死んだら未来の科学者はすべてを見つける
ハッシュパピーがバスタブでダディと暮らしていたことを!

当たり前のことと言ってしまえば、そうなのですが・・・ハッシュパピーという少女に「与えられた命なんだから、生きている限り、生きなければいけない」と、ボクは改めて教えられたのです。自殺願望があるわけというわけではありませんが・・・自分の子供がいるわけでもないボクが「1人で長生きする意味って何だろう?」って考えてしまうことがあったりします。年老いて「生きる」ということに消極的になってしまいそうな時、必ずこの映画を観ようと思ってしまったのです。

少女が大自然の中で自分を見つけ成長するというテーマから、宮崎駿監督の影響を受けていると評されることが多い本作・・・確かに「オーロックス」という巨大なイノシシのような動物(もののけ姫)、水没してしまう村(崖の上のポニョ)、幻想的な水に浮かぶ売春宿のような施設(千と千尋の神隠し)など、モチーフとして非常に似ているところがあります。日本人として・・・宮崎駿監督の共通点を指摘したい気持ちも分かりますが、実写とアニメという違いだけでなく、作品の雰囲気は、かなり違うものだったりします。また本作は、共同脚本のルーシー・アリバーによる一幕の舞台劇「ジューシー・アンド・デリシャス/Juicy and Delicious」をベースにしていて、重要なモチーフは舞台劇から引き継いでいます。

舞台となる場所、登場人物の人種、設定されている時代を超えた普遍的な寓話としてだけでなく、最近リアルに感じさせられる自然破壊の危機さえも織り込んでいる、真の”オリジナリティー”を感じさせる一作であると、ボクは思うのです。

「ハッシュパピー バスタブ島の少女」
原題/Beasts of the Southern Wild
2012年/アメリカ
監督 : ベン・ザイトリン
脚本 : ルーシー・アリバー、ベン・ザイトリン
出演 : クゥヴェンジャネ・ウォリス、ドワイト・ヘンリー

2013年4月より日本劇場公開


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