2010/03/28

何故かアカデミー賞作品賞にノミネートされたカルトな怪作〜「第9地区」〜


今年からアカデミー賞は「アバター」と「ハート・ロッカー」の元夫婦対決ばかりに注目されましたが、作品賞のノミネートが5作品から10作品に増えたことも興味深い変更でした。
ゴールデングローブ賞がコメディ部門とドラマ部門に分かれているのに対抗してなのか、それともノミネート作品を増やすことで興行収入アップを狙っているのか、真意は分かりませんが・・・ノミネートの作品数が増えたことで「これが作品賞?」と思うようなタイトルまで加わることになったような気がします。
その中でも、作品賞以外にも脚色賞、編集賞、視覚効果賞の4部門にノミネートされていた「第9地区」は、作品賞などには縁のなさそうなカルトな怪作ではないでしょうか?

第9地区」は「ロード・オブ・ザ・リングス」を監督したピーター・ジャクソンの製作で、南アフリカ出身のニール・ブラカンプという監督の長編映画デビュー作品です。
1982年、南アフリカのヨハネスブルグ上空に突如現れた宇宙船が現れます。
その宇宙船には、外見がエビ(甲殻類系)に似たエイリアンの難民がおり、第9地区と呼ばれる難民隔離地区に地球人共存して暮らすこととなっている今というのが舞台です。
ナイジェリア人のマフィアなどに支配され、第9地区の治安が悪化してスラム化したために、エイリアンを第10地区へ強制的に退去させることになります。
その任務を現場で遂行する機関(MNU)の男が、この映画の主人公です。
彼が宇宙人の住処を探索中にエイリアンのウィルスを接してしまうことで、負傷していた右手から徐々に宇宙人に変化していきます。
皮膚を破って甲殻類系に体右半分が変貌していう様子は、クローネンバーグ監督の「ザ・フライ」を思い出させるグロテスクさです。
宇宙人のDNAも持ち合わせることにより、エイリアンしか使えなかった強力な武器を使えるようになり、彼は人類にとって人体実験の対象とされてしまうのです。
エイリアンを容赦なく殺す閉鎖された研究所から脱走して、彼は第9地区に逃げ込みます。
そして、彼はモビールスーツに乗り込んで、エイリアンのために地球人と戦うのです。

マイノリティーの差別(南アフリカのアパルトヘイト政策)を連想させ政治的な問題提起をしているようでありますが、エイリアンのルックス、エイリアンがキャットフード好きという設定、肉片飛び散る残酷な描写など、どこかB級映画なカルト臭がプンプンするのです。
フェイクドキュメンタリーという形式をとっているので、全編不安定なカメラアングルで撮影されています。
また、台詞は俳優たちに即興で演じさせるという、臨場感を重視した手法をつかっています。
これは、主人公を演じたの監督の友人(演技経験のない素人)のために、状況説明だけして即興で演じさせたらしいのですが、逆にその場で台詞まで考える方が難しそうに思えてしまいます。
スタッフも監督の知り合いである南アフリカの人たちが多く、ハリウッド映画と比較すれば低予算で制作された映画ではありますが、逆に難民街のリアリティーは感じられました。
しかし、シチュエーションの説明不足なツメの弱さが目立つ映画でもありました。
科学的にも軍事的にも地球人よりも進んでいるエイリアンであるにも関わらず、何故差別されながらもスラム化した難民隔離地区に留まることに甘んじてるのか?
何故、宇宙船に戻る燃料になるガスを吸うと、主人公の体がエビ宇宙人になってしまうのか?
主人公の家族のリアクションなどが、現実感に欠けている印象もあります。
あれこれツッコミどころがあっても、カルトな魅力に満ちた怪作であることは確かな映画ではあります。
アメリカで大ヒットしたということで、続編が制作されるらしいので、それによって辻褄の合わない部分の説明がされるのかもしれません。


「第9地区」
原題/District 9
2009年/アメリカ、南アフリカ、ニュージーランド
監督 : ニール・ブロカンプ
製作 : ピーター・ジャクソン、キャロリン・カニングハム
脚本 : ニール・ブロカンプ、テリー・タッチェル
出演 : シャルト・コプリー、ジェイソン・コープ、デヴィッド・コープ



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2010/03/22

これでも、まだ、カツマーになりたいですか?~「金スマ」出演の勝間和代をみて~



3月12日放映の「中居正広の金曜日のスマたちへ」は、経済評論家で日本一デキる女として「カツマー」と呼ばれるフォロワーもいる勝間和代さんがゲストでした。
そして、番組は「カツマー」と「アンチ・カツマー」の溝を、さらに深めるような内容だったのです。

基本的にゲストを「よいしょ!」するキャンペーン(金スマ輝く女シリーズ)のはずなのですが・・・安住アナの容赦ないツッコミと、レギュラーコメンテーターたち(室井佑月、ベッキー、假屋崎省吾、大竹しのぶ)の冷めた反応から、出演者の誰ひとりとして勝間さんに好感をもっている様子もなく、スタジオの白けた空気がヒシヒシと感じさせられました。
いつも元気で饒舌なベッキーはヤケに寡黙だったし、普段はゲストを褒めまくるカリー(假屋崎省吾)でさえコメントがなく、中居くんも勝間さんのライフスタイルに共感できないみたいで会話も弾んでいなかったのですから・・・。
番組で公開されていた「勝間式効率化術」については、カツマーにとっては頷いて「なるほど!」と膝を打つような内容だったのかもしれませんが、アンチ・カツマーにとっては(毎度のことながら・・・)拒否反応を起こすようなものでした。

まず、妬まない、怒らない、愚痴らないという「三毒追放」でストレスが減り「仕事の効率化」できるということですが「妬まない」が入ってくるところが、勝間さんらしい・・・というか、エグいです。
勝間さんほどの人に妬まれたら・・・それは、それは恐ろしいことでしょう。
愚痴るというのは、適切な相手に適度であれば平和なストレス発散方法になると思うので、逆に愚痴らないことでストレスが溜まりそうです。
これらを「三毒」として禁じたことで仕事が効率化されたという勝間さんは、妬むことも、怒ることも、愚痴ることも、過剰にやっていた・・・ということなのかもしれません。

「断る力」というのは、自分を生かせる質の高い仕事をするために、自分でなくても出来る仕事を断わる(他の人に廻す)ことだそうです。
上司に自分の実力をアピールできる仕事だけに集中することができて「出世の効率化」されたということですが・・・こんなことを普通の職場でやったら、ほぼ100%職場の嫌われ者になるでしょう。
上司が絶対的な縦社会の外資系の会社の場合だと、上司からの指示を断るというのはかなり危険なことです。
勝間さんのいう「断る力」というのは、上司が見えないところで自分がやりたくない仕事を他の人に押し付けるということなのでしょうか?
自分の利益のために「断る力」を発揮するには「嫌われても平気」という強い精神力と、いつでも転職出来るという自信が必要な気がします。

「家事はやらない」というのは、仕事が忙しければ仕方ないことでありますが、家政婦さんの時給の算出して(勝間さんのように高収入の場合には)自分は仕事した方が経済的にも効率化が計れるというのは・・・ある意味「家事」という仕事を卑下しているようにも受け取れます。
勝間さんがまだ会社に勤めていた頃には、彼女の母親が同居して家事や育児をしていたということですので、今のように稼ぐようになったから金勘定を始めただけ・・・というような印象です。
「家事の効率化」を訴えるのであれば「プロの方が要領がいい」とか「家事が嫌いだから、下手だから」とか「家事をするより子供と過ごしたい」などという理由の方が好感が持てたかもしれません。

仕事相手との「コミュニケーションの効率化」のためにキレイになる・・・というのは、男性の目を意識しての発言なのでしょうか?
確かに第一印象というのはコミュニケーションに於いて大切だとは思いますが、努力しているキレイさというのは一種の「はったり」(それも女性に対して)のような気がします。
それに、男目線で言わせてもらえば、普通の男なんて「努力しなくてもキレイな女」が一番好きだったりするものです。
勝間さんは「結局、女はキレイが勝ち」という本も書かれていますが、あえて「結局、」と断った上に「女は」と女性だけに特定をして「キレイが勝ち」と勝ち負けにこだわるのは、彼女自身が容姿の「キレイ」「キレイでない」で、過去に苦い思いをしたというだけなのではないでしょうか?

勝間さんは学生でできちゃった結婚、二度の離婚歴を持っておられますが、男性経験が豊富そうというイメージはありません。
「いいパートナーを見つける」というのは大切なことですが、お互い成長し合える関係でなくなったら別れるというのは、まるで学生同士の恋愛のようです。
女性が社会に参加出来ない時代には結婚相手に対して打算的になることは仕方なかったと思いますが、今のように女性の自立もできる時代に「恋愛の効率化」を追求するというのは、自分の成長のために男性を利用するということでしょうか?
家庭を持つ幸せとか、妻や母親としての喜びが、欠落しているように思えます。
また、男性まで恋愛の効率化を計ったら、結婚さえ成り立たなくなるかもしれません。

勝間式効率化術に現れているカツマーの神髄は、資本主義という泥舟が沈みかけている時に自分だけ生き残りたいという・・・勝ち組の自己中心的な傲慢さが垣間見えてしまうのです。
「あなたにも出来る!」と、勝間式の努力で成功すると指南しているようですが、その方法で勝間さん自身ほど成果を出せる人なんているわけありません。
現在の勝間さんのビジネスの中心となっているのは、自己啓発の執筆やセミナーだと思うのですが、彼女のライフスタイルや思想が支持されるのは「成功して勝間さんみたいな金持ちになりたい!」という世の女性たち(男性たちも?)のスケベ心をくすぐっているからかもしれません。
それは「成功する秘訣」を売ることで「成功する」というレトリックさえも連想させてしまうのです。

さて、この日の「金スマ」の番組内では、勝間さんの笑顔も引きつってしまうような場面が、いくつもありました。
安住アナは「ヤな奴だな~みたいなこと言われた事ないですか?」と、世のアンチ・カツマーを代弁するような質問を勝間さん本人にぶつけていました。
また、ずっ~とスタジオで怪訝な顔しながらVTRを見ていた室井佑月が「カツマー流行すると、若い女が能力ないくせに直ぐ断ってデキる女ぶって、ムカつくんだよね!」と、吠えていました。
あちこちと随分と編集でカットされている様子でしたが、あえて安住アナや室井佑月のコメントをカットせずに放映しているところに「金スマ」のアンチ・カツマー的な姿勢が見え隠れしていたと感じるのは、僕の深読みでしょうか?
最後に、もしも、まだ飯島愛がレギュラーコメメンテーターだったら、勝間さんにガンガン噛み付いていたかも・・・なんて想像をしてしまいました。



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2010/03/18

永遠に「PARCO」な女性(ひと)・・・タマラ・ド・レンピッカと石岡瑛子の時代~美しき挑発 レンピッカ展~



1970年代後半のパルコの宣伝ポスターやテレビのCMは、まだ感覚的に子供だった僕にとって、とても怖いものでした。
インパクトのあるイメージと挑発的なコピーだけのコマーシャルで、何の宣伝なのかさえもよく分からない・・・それでも、何かとんでもないパワーを感じていたのかもしれません。
「モデルだって顔だけじゃダメなんだ。」「ファッションだって真似だけじゃダメなんだ。」「裸を見るな。裸になれ。」「諸君。女のためにもっと美しくなろう」と、みる者にストレートに問いかけていたのです。
それらが、石岡瑛子氏のアートディレクションだったと知ったのは、ずっと後のことでした。

1980年、パルコ出版からは石岡瑛子氏の構成による「肖像神話・迷宮の画家/タマラ・ド・レンピッカ」という画集が出版されたのですが、当時としては6800円という高額な本だったのに関わらず、僕は発売直後に購入しました。
キュービズムの手法による立体感、フーチャリズム(未来派)の躍動感のある背景、ルネッサンス絵画のようなポーズなど、スタイル化されたポートレートにすっかり魅せられて、彼女のスタイルに僕は長い間影響され続けたのです。
タマラ・ド・レンピッカという”画家”は、美術史のなかで重要な存在ではありませんが、華やかな美貌、自己演出の巧みさ、階級社会での上昇志向、権力を持つ男性との関係など、シャネルやレニ・リーフェンシュタールなど同時代に活躍した女性たちとも共通するところがあり、彼女自身の生きざまが興味を引いたのでした。
新しい女性像が求められた1970年代後半に、力強く生きた理想の女性の”アイコン”として、石岡瑛子氏が掲げたタマラ・ド・レンピッカという画家は、僕にとっては石岡瑛子的であり、永遠にPARCOな女性(ひと)であったのです。

それから約30年後、Bunkamura ザ・ミュージアムで、タマラ・ド・レンピッカの修業時代の初期の作品から代表作、晩年のセルフレプリカまでを展示した「美しき挑発 レンピッカ展」が開催されています。
若い頃に夢中になったアイドルやスターに再会するような気持ちで、僕はタマラ・ド・レンピッカの絵を再び目にしました。
画家としての全盛は、彼女が貪欲に富と名声を求めて生きた1920年代後半から1930年代前半の短い期間であったことを、改めて感じさせられました。
彼女がお金持ちの男爵と結婚して生活が安定してくると、上流階級のポートレートから貧しい人々の姿や簡素な静物など、対象やテーマも変わっていきます。
その変化は、彼女の人間的な成長であったのかもしれませんが、画家としての魅力は失われていきます。
1950年代以降は、抽象画や輪郭のハッキリしないテラコッタ風だったりと、何度も大きく作風を変化させるのですが、画家としての”挑戦”というよりも”迷い”にしかみえません。
彼女はいつも、その時代、時代に、流行っているスタイルに影響されていたかのようです。
晩年には全盛期の自分の作品のレプリカを描き続けていたということですが、タマラ・ド・レンピッカ自身、自己演出したイメージを超えることは出来なかったということかもしれません。
タマラ・ド・レンピッカの人生と画風の変貌は、1980年代初頭(バブル以前)、誰もがその先にあると思っていた「輝かしい未来」が、30年という年月を経て・・・いかに危うくて、脆かったのかということを改めて思い起こさせます。
だから、僕はタマラ・ド・レンピッカを「あの時代」の女性(ひと)として、封印してしまいたくなるのです・・・。

美しき挑発 レンピッカ展
Bunkamura ザ・ミュージアム
2010年5月9日まで



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2010/03/15

笑う阿呆に、笑われる阿呆、同じ阿呆なら笑わにゃ、損々!~「ブルーノ」~


サシャ・バロン・コーエン主演の”なりきり突撃ドキュメンタリーコメディ”の新作「ブルーノ」が、やっと(!!!)日本でも3月20日から公開されるようです。
話題作ならアメリカ公開と同時、または1、2ヶ月で日本でも公開される時代に半年以上も待たされた・・・というのには、それなりには理由があるのかもしれません。

前作「ボラット~栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習~」では、カザフスタン人のテレビレポータ-になりきって、カザフスタン人だけでなく、悪魔扱いするユダヤ人(コーエン本人はユダヤ系のイギリス人のコメディアン)だったり、アメリカの文化を茶化しまくっていました。
突撃っぷりは「進め!電波少年」を思い起こさせるところがありますが、実在しない人物になりきって騙すというのは、段違いの悪質さではありますし、突撃する人たちへの態度も頭っからバカにした態度です。
これだけ様々な人々の神経を逆撫でしまくって、よく無事に撮影して生きて帰ってきたもんだ・・と感心するしかありませんでした。

今回のブルーノというキャラクターは、ゲイのオーストリア人の元ファッションレポーターという設定で、ミラノファッションウィークでファッションショーに乱入して職を失ってしまい、ハリウッドでセレブになろうと自作のテレビ番組のレポーターをする設定になっています。
(前作と設定は似ているような気もします・・・)
今回の標的は・・・「ファッションデザイナーとファッション界」「アフリカの子供との養子縁組をするセレブ」「アラブとイスラエルの確執」「アメリカの銃文化」「アメリカ兵士の訓練」「政治家のセックス・スキャンダル」「乱交パーティーの愛好者」「ゲイを矯正するキリスト教会」「ホモ嫌いのレスリングファン」などで、勿論キャラ設定である「ゲイ」も「オーストリア人」も笑いものの対象になっています。
架空のキャラとは知らずにレポートされた人たちが、ブルーノの小馬鹿にした態度や応答に、怒り狂うことさえも”笑い”にされてしまうわけで・・・標的にされた人たちは誠実に対応すればするほど墓穴を掘るような結果になるのです。
騙された人たちが、堂々と素顔で映画に出てくること自体が信じられない気がしますが、おそらく撮影前に「何に撮影された映像を使用されても構わない」と合意する書類にサインとかさせられているのでしょう。
ブルーノが揚げ足をとるトピックに対して、政治、常識、カルチャーに一石を投じている・・・と深読みする事も可能ですが、単なる悪趣味・・・アメリカのトークショーの下世話な内容以下のジョークも多くあります。
「ふざけるな!」と笑いものにされたことを怒るよりは、真っ先に笑った方が勝ち・・・という意地の悪い種類のジョークなのですが、すべての人を敵にまわして笑いものにしてしまうというチャレンジ精神には、崇高な政治的メッセージなんて「糞喰らえ!」という意志さえ感じます。

普通の日本人にとっては、差別やステレオタイプが希薄な世界をネタに茶化しているので、どこまで面白さが通じるかは疑問ではあります。

次回作ではぜひ、サシャ・バロン・コーエンに、ジャパニーズアニメ好きのキャラとかになって、日本をいじって欲しいなんて思います。


「ブルーノ」
原題/Bruno
2009年/アメリカ、イギリス
監督 : ラリー・チャールズ
脚本 : サシャ・バロン・コーエン、アンソニー・ハインズ、ダン・メイザー
出演 : サシャ・バロン・コーエン



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2010/03/06

エンターテーメントとしてのファッションデザイン~「プロジェクト・ランウェイ/Project Runway」~



ファッションデザイナーの”存在意義”というのを考えさせられる最近のファッション業界でありますが・・・そんな思いに反するようにファッションデザインをエンターテイメント化してしまったアメリカの”リアリティー・ショー”があります。
MTVの「ザ・リアル・ワールド/The Real World」を元祖とする”リアリティー・ショー”は「アメリカンアイドル/American Idol」ようにオーディション形式で脱落していく手法と組み合わせて「恋人/結婚相手」「ファッションモデル」「料理人」「起業家」「ファッション雑誌の編集者」などのバトル形式の番組がたくさん製作されています。
2004年より「ブラボー/BRAVO」チャンネルで放映されているファッションデザイナーを発掘する「プロジェクト・ランウェイ/Project Runway」は、開始後ファッションスクールへの入学倍率が上がったり、番組関連商品(子供向けデザインキットやWiiのテレビゲームまで)なども展開されたりと、社会的にも大きな影響を与えている番組です。
シーズン6からは、アメリカでの放映チャンネルが「ライフタイム/ Lifetime」になり、ロケーションの場所もニューヨーク(Parson's School of Design)からロサンジェルス(Fashion Institute of Design & Merchandising)に移りました。
日本では、WOWWOWにてシーズン5を放映中ですが、アメリカではすでにシーズン7が放映中です。

番組内で、デザイナーたちに適切な助言をしてサポートする重要な役割を果たしているのが、元パーソンズ・デザイン大学校長のティム・ガン氏です。
僕自身、シーズン5まで使われている校舎に同大学の学生として通った経験があり、ティム・ガン氏は僕が入学した際には面接官をされていました。
僕が面接をした4月末には入学願書受付はとっくに終わっていたはずなのですが、あっさりと入学出来てしまったのは、思い返せばティム・ガン氏のおかげだったのでした。
また、シーズン2にはパーソンズ大学時代に親しかった同級生だったエメット・マッカーシー(Emmet McCathy)が、デザイナーの一人として番組に登場し、チャレンジ7まで勝ち残る活躍をしました。
そんなこともあって、僕にとって「プロジェクト・ランウェイ」は、遠く離れたアメリカで制作されている番組でありながら、個人的な接点も感じてしまう番組なのです。

デザイナーたちが臨む「チャレンジ」は、スーパーマーケットの商品、生花、新聞紙などを素材にドレスをつくるとか、あるセレブティや特定のブランドのラインのためにデザインするとか、都市、建物、美術などからインスピレーションを受けた服をつくるとか、ステージ衣装、ランジェリー/水着、イブニングまで広いジャンルを自ら手で制作する技術や知識を求められ、得意とする分野の服だけをデザインすれば良いというわけではありません。
チャレンジ内容を聞かされて、30分でスケッチして、だいたいのデザインを決めて、生地屋さんに行って、予算内に30分で必要な生地や材料を買え揃えなければならないというプレッシャーを強いられます。
さらに、丸一日、もしくは丸二日で、ドレープ、パターン作成、生地の裁断、モデルのフィッティング、服の裁縫と始末、モデルのスタイリングまで終わらせなければならなりません。
この番組で勝ち残っていくためには、このような「チャレンジ」を次から次へとこなし続けていかなければならないという非常に厳しい戦いとなるのです。

デザイナーたちは番組後半で、各エピソードのチャレンジをランウェイで披露して審査員に審査されるのですが、その審査結果には賛成できない場合というのも時々あります。
脱落すべきでないと思えるデザイナーが落ちてしまったり、上手に生き残ってしまう運のいいデザイナーがいたりします。
視聴者すべてが納得する審査というのは不可能です。
また、オーディション番組というあくまでもエンターテイメントとしては、審査員たちの辛辣なコメントやフレーズも楽しみの要素ではあります。
アメリカのファッション業界の評価基準としての「マーケットのニーズの把握」「オリジナリティの尊重」そして「顧客のTPO」とのバランスは絶妙なところがあり、その厳しさは「プロジェクト・ランウェイ」の審査からも垣間みることが出来ます。
近年ニューヨークデザイナーたちがヨーロッパの老舗ブランドのデザイナーとして起用されていることと、アメリカ的なファッションデザインの評価の仕方というのが無関係ではないように思えます。
大味なマスマーケットのファッションが主流のアメリカの市場ですが、ブランド志向でない個性的な顧客の存在というのもあり、日本とは別な観点での個性的なファッションは求め続けられているのです。

「プロジェクト・ランウェイ」では、最後の3人まで勝ち残ることが出来れば、ニューヨークファッションウィークの期間中にブライアントパークのテントで12ピースの自分のコレクションを発表をして、最終的にひとりの勝者(Winner)を決定します。
MTV的な躍動的なカメラワーク、ノリの良い音楽と街並のインサートショット、別撮りの個々のインタビューで明らかにされる心の内、脱落者が選ばれる瞬間のドラマティックな演出・・・シーズンの最終回まで視聴者は釘付けです。
この番組から誕生したアメリカファッション界のニュースターとなったデザイナーはいませんが、アメリカではドレスメーカーとして、個人の顧客のイブニングドレスや、映画や舞台のためのコスチューム製作など請け負うことで、アパレル業界以外でもファッションで食っていける土壌があります。
この番組に出演したデザイナーたちは現在さまざまな分野で活躍しているようです。
同級生のエメットは番組出演後、ニューヨークのリトルイタリーにブティックを開店し、通販番組などでも彼が手掛けた商品を販売しています。
あと10年、人生のタイミングがずれていたならデザイナーのひとりして出演してみたかった・・・などと考えながら「プロジェクト・ランウェイ」を毎シーズンを楽しみにしている僕なのです。



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2010/03/03

ブログの書き込みが100投稿になりました


子供の頃から日記を書いても、三日坊主で続いたことは一度もなかったのですが、ブログ/ホームページは、なんとか続けられています。
去年(2009年)の6月23日からブログ/ホームページを始めて、今回の書き込みで「100回」になりました。
100という書き込み数というのは、ブログとしては多いわけではありませんが、自分の考えていることを文章にまとめる習慣のなかった僕にとっては、頭の中を整理する良い訓練になっています。

時々「なんで、ブログやっているの?」と素朴な疑問をぶつけられることがあるのですが、正直自分でもはっきりとした理由が分からないのです。
仕事に繋がっていうくような営業でもないし、テーマを掲げて仲間作りをしたいわけでもないし、世の中に訴えるような大事なメッセージがあるわけでもありません。
僕の日常なんて日記にして公開するほど面白くないし、素敵なライフスタイルを持っているわけでもないし、可愛いペットや美しい写真をアップするわけでもないし、多くの人の興味を引くような情報があるわけでもありません。
ただ、僕の友人にとっては「安否確認」の役目ぐらいは、果たしてはいるようです。
リアルの知り合い以外には「おかしライター」と名乗っている僕が何者だが分からないわけなのですが、それでも時々読んで頂いている奇特な方いうのは存在するのでしょうか?
いずれにしても僕のブログをみたことで誰かが、本を手にとってみたり、映画を観てみたり、展示会に行ってみたり、何かを考えるきっかけになったり、どこかで会話の種になったりすれば嬉しいとは思っています。

ただ・・・結局のところ、自分自身のためにブログという形式を使って、自分の考えたことを記録し続けているだけなのかもしれません。
ネット上のブログというのが、何年ぐらいサーバーのデータとして保存されるのか分かりませんが、何十年も経って自分の古いブログを読めたら楽しいのではないでしょうか?
もし、自分が若い頃からブログがあったとして、今読み返すことが出来たとしたら、どんなに面白かっただろうと想像することがあります。
その時代に戻ることはできませんが、将来の自分のためにも過去の出来事を出来るだけ書き残しておきたいと思ってしまうのです。

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2010/03/02

それが男の生きる道!・・・それでも”麻薬”のような戦場へ戻る選択〜「ハート・ロッカー」〜


今年のアカデミー賞作品賞や監督賞の最有力候補と言われている「ハート・ロッカー」をアメリカ版のブルーレイで観ました。
配給会社の倒産により、日本でのロードショーが遅れていたようですが、3月6日から公開されるようです。
タイトルの「ハート・ロッカー(The Hurt Locker)」を「HEART ROCKER」と勘違いすると「心のロッカー」というようなロックミュージシャンの映画みたいですが・・・原題は軍事用語で「爆死者を入れるモノ」という意味らしいです。
僕は「傷つき(hurt)をしまう者(locker)」というような意味も感じました。

イラクでのアメリカ軍の爆発物処理班の38日間の厳しい任務を描いている”戦争映画”で、アメリカ軍のイラクにおける現状に対しての「自虐的」な状況を淡々とドキュメンタリータッチで見せていきます。
あからさまに反戦を謳っているわけでもなく・・・といって、戦争を肯定しているわけでもないのですが、根底にはブッシュ政権に対する批判が見え隠れするのです。
「戦争は麻薬のようだ」とつぶやく、爆弾処理だけが取り柄のような一匹狼の主人公・・・グループ内の不信感や対立、仲間や知り合いの少年の死など、ドラマチックな要素もあることはあるのですが、ヒューマンドラマとして涙の感動を訴えるわけでもなく、人間関係をウェットにも描いてもいません。
イラク人の台詞にはサブタイトルもなく、観客のシンパシーを感じさせる機会も与えられず、スナイパーや自爆テロリストとして登場しては次々と死んでいきます。
全編をハンドカメラで撮影しているので、フレームが常に激しく動くので、全編を通して観客は落ち着くことができません。
出演している俳優たちが熱演しているのにも関わらず演じているという印象もなくて、観る者は戦場に実際にいるような緊迫感を常に感じさせるのです。
台詞や物語の展開によって多くを語るのではなく、戦場にるような感覚を感じさせながら、主人公の選択の真意を問う映画と言えるでしょう。
爆発の煙、砂漠の砂、イラクの街並のように、この映画を見ていると戦場の悲惨な状況に対して、乾いた精神になってしまうような気がします。
たいした意味も説明もなく、次々と死んで人たち(レイン・ファインズ演じるベテラン作業員もあっさりと射殺されてしまう)を目の前にしても、自分が何をすべきかの答えは”ひとつ”しかないのです・・・それが男の生きる道、エンディングは、映画の冒頭シーンに戻るループのようです。

監督のキャスリン・ビグローは、元ジェームス・キャメロン監督の奥さんであり、現在58歳とは思えないモデルのような美貌の持ち主です。
しかし以前から、”美人女性監督”に期待されそうな「女性の視点」をもったタイプの映画をつくる監督ではありません。
もしも、アカデミー監督賞を彼女が受賞したとしたら、女性として「初の監督賞受賞」ということになるらしいのですが、わざわざ「女性監督」と分けること自体、失礼なように思えてしまう「監督」なのです。



「ハート・ロッカー」
原題/The Hurt Locker
2009年/アメリカ
監督 : キャスリン・ビグロー
脚本 : マーク・ポール
出演 : ジェレミー・レナー、アンソニー・マッキー



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