2010/03/18

永遠に「PARCO」な女性(ひと)・・・タマラ・ド・レンピッカと石岡瑛子の時代~美しき挑発 レンピッカ展~


1970年代後半のパルコの宣伝ポスターやテレビのCMは、まだ感覚的に子供だった僕にとって、とても怖いものでした。
インパクトのあるイメージと挑発的なコピーだけのコマーシャルで、何の宣伝なのかさえもよく分からない・・・それでも、何かとんでもないパワーを感じていたのかもしれません。
「モデルだって顔だけじゃダメなんだ。」「ファッションだって真似だけじゃダメなんだ。」「裸を見るな。裸になれ。」「諸君。女のためにもっと美しくなろう」と、みる者にストレートに問いかけていたのです。
それらが、石岡瑛子氏のアートディレクションだったと知ったのは、ずっと後のことでした。

1980年、パルコ出版からは石岡瑛子氏の構成による「肖像神話・迷宮の画家/タマラ・ド・レンピッカ」という画集が出版されたのですが、当時としては6800円という高額な本だったのに関わらず、僕は発売直後に購入しました。
キュービズムの手法による立体感、フーチャリズム(未来派)の躍動感のある背景、ルネッサンス絵画のようなポーズなど、スタイル化されたポートレートにすっかり魅せられて、彼女のスタイルに僕は長い間影響され続けたのです。
タマラ・ド・レンピッカという”画家”は、美術史のなかで重要な存在ではありませんが、華やかな美貌、自己演出の巧みさ、階級社会での上昇志向、権力を持つ男性との関係など、シャネルやレニ・リーフェンシュタールなど同時代に活躍した女性たちとも共通するところがあり、彼女自身の生きざまが興味を引いたのでした。
新しい女性像が求められた1970年代後半に、力強く生きた理想の女性の”アイコン”として、石岡瑛子氏が掲げたタマラ・ド・レンピッカという画家は、僕にとっては石岡瑛子的であり、永遠にPARCOな女性(ひと)であったのです。

それから約30年後、Bunkamura ザ・ミュージアムで、タマラ・ド・レンピッカの修業時代の初期の作品から代表作、晩年のセルフレプリカまでを展示した「美しき挑発 レンピッカ展」が開催されています。
若い頃に夢中になったアイドルやスターに再会するような気持ちで、僕はタマラ・ド・レンピッカの絵を再び目にしました。
画家としての全盛は、彼女が貪欲に富と名声を求めて生きた1920年代後半から1930年代前半の短い期間であったことを、改めて感じさせられました。
彼女がお金持ちの男爵と結婚して生活が安定してくると、上流階級のポートレートから貧しい人々の姿や簡素な静物など、対象やテーマも変わっていきます。
その変化は、彼女の人間的な成長であったのかもしれませんが、画家としての魅力は失われていきます。
1950年代以降は、抽象画や輪郭のハッキリしないテラコッタ風だったりと、何度も大きく作風を変化させるのですが、画家としての”挑戦”というよりも”迷い”にしかみえません。
彼女はいつも、その時代、時代に、流行っているスタイルに影響されていたかのようです。
晩年には全盛期の自分の作品のレプリカを描き続けていたということですが、タマラ・ド・レンピッカ自身、自己演出したイメージを超えることは出来なかったということかもしれません。
タマラ・ド・レンピッカの人生と画風の変貌は、1980年代初頭(バブル以前)、誰もがその先にあると思っていた「輝かしい未来」が、30年という年月を経て・・・いかに危うくて、脆かったのかということを改めて思い起こさせます。
だから、僕はタマラ・ド・レンピッカを「あの時代」の女性(ひと)として、封印してしまいたくなるのです・・・。

美しき挑発 レンピッカ展/2010年5月9日まで
Bunkamura ザ・ミュージアム



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2 件のコメント:

  1. はじめまして。

    そうか、5月に回顧展があり、若い人でも画集を手にしたくなり、売れたのが私のオークションだったんだ。

    ちょっと安売りだけど。。。

    タマラはロシア革命から逃れ、貧乏になり、食べる為に絵を描いたけど、食べられるような結婚の後に、創作意欲も消えたんだね。

    それだけだったんだ。

    抽象画に行き、ぼよよんとして来たのは、迷いと言われても仕方ないですね。

    1/5世を風靡したタマラ!

    思い出を整理させていただき、ありがとうございました。

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  2. コメントありがとうございます。
    驚くほどのプレミア価格がつくほどではないようですが、1980年にパルコ出版された画集が、世界的にもベストだと思います。

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