歌舞伎はいつの時代にも新しい風を取り入れてながら進化してきた伝統です。
歌舞伎の、歌舞伎「らしさ」なんだろうと考えると、あまりにもたくさんの要素があり過ぎます。
舞踏のような様式化された様々な動きと静止した姿、声の抑揚や台詞の語り口、衣装や舞台の仕掛けや化粧や鬘のスタイル、物語の流れのお約束などなど・・・。
ほとんどの歌舞伎役者は、歌舞伎役者の家に生まれて、幼い頃から稽古をして舞台に上がります。
歌舞伎「らしさ」というものを、生まれながらに染み付いている役者が演じるからこそ、歌舞伎が歌舞伎たる由縁でもあるのです。
僕は歌舞伎のついて勉強したり、文献を読むということさえしたことがありませんが、母のお供で子供の頃から歌舞伎を観させてもらいました。
別に”目利き”とは思っていませんが、自分なりに歌舞伎「らしさ」ということには”こだわり”はあったりします。
以前、猿之助が上演していた”スーパー歌舞伎”というのがあったのですが、僕には歌舞伎”まがい”のお芝居に思えたのです。
演劇としての完成度は高く、スペクタクルで圧倒的なエンターテイメントであったのですが、演じている役者さんたちが一般からお弟子さんたちということもあって、歌舞伎の様式が身に付いていない感じで、歌舞伎の「らしさ」より「まねごと」のように感じました。
その後、中村勘三郎を中心とした「平成中村座」による現代の演出家や脚本家による新しいスタイルの歌舞伎がブームとなりました。
歌舞伎にはあり得ないおふざけはあっても、勘三郎、橋之助、福助、扇雀、勘太郎、七之助、亀蔵らの役者たちの巧みな演技によって、僕には歌舞伎「らしさ」を感じさせてくれる芝居だったのです。
串田和美、野田秀樹、渡辺えり子、蜷川幸雄などの新しいスタイルの歌舞伎に挑戦した演出家に”官藤官九郎”が、12月の歌舞伎座の公演「大江戸りびんぐでっど」で加わりました。
あまり官藤官九郎が好きでなかった僕は当初スルーしようと思っていたのですが・・・「もしかして再演はないかも」という気がして、母のコネでチケットを手に入れ歌舞伎座に駆けつけました。
官藤官九郎の小劇場の演劇的なノリを、歌舞伎座という大舞台と装置を使い、歌舞伎役者によって演じるという、なんとも贅沢な(?)芝居でした。
「大江戸りびんぐでっど」は、くさや汁によって屍が生き返り「らくだ衆(ゾンビ)」となり、江戸の人々を襲うのですが、半助(染五郎)の機転によって、生きる屍を”派遣”の労働力として利用するという社会風刺を感じさせる物語です。
中盤以のサプライズの後、話の行方を失った感のある脚本でしたが、随所に官藤官九郎なりの歌舞伎のお約束のパロディが散りばめられています。
歌舞伎の台詞の掛け合いや見栄の張り方でふざけてみたり、マイケル・ジャクソンの「スリラー」のごとくゾンビたちが音楽とともに踊ったりと、歌舞伎のお約束を壊す勝手放題の演出です。
しかし、歌舞伎役者たちの巧みな演技によって、ギリギリで歌舞伎としての体裁を保っているような気がします。
こんな馬鹿げた芝居をして芸を荒らしてしまうのではと心配してしまうほど、ふざかまくっているなのですが、どこか品格は失わない・・・これが歌舞伎役者の「血」というものなのでしょうか?
歌舞伎という様式は、あり得ない異質なものでも見事に要素の一部として吸収してしまうことを、またしても証明してくれた舞台なのでした。
歌舞伎座さよなら公演十二月大歌舞伎「大江戸りびんぐでっど」
官藤官九郎 脚本、演出
市川染五郎、中村勘三郎、中村扇雀、中村福助、中村七之助、他
2009年12月2日~26日
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