「アタシがマツコ・デラックス!」「週刊女装リターンズ」「世迷いごと「うさぎとマツコの往復書簡」「あまから人生相談」、そして最新刊「マツ☆キヨ」まで、マツコ・デラックスの本はすべて買っているのだから・・・ボクは「マツコ・デラックスの大ファン」ということなのかもしれません。とりあえず「本業文筆家」という肩書きのマツコ・デラックスありますから・・・著者が出るたびに「めのおかしブログ」では取り上げてきました。”マツコ叩き”(?)のような厳しいことを書き綴ってきましたが、それはマツコ・デラックスの女装嗜好や人間性のことではなく・・・”タレント”としてのメディアでの扱われ方/立ち位置に対して、ボクが”違和感”を感じているに他なりません。
さて・・・マツコ・デラックスの最新刊は「マツ☆キヨ」は、フジテレビの番組「ホンマでっか!?TV」から生まれた対談本といって良いのかもしれません。番組パネリストとして準レギュラーのマツコ・デラックスが「ホンマでっか」の科学/生物学の専門家としてコメンテーターのひとりを務める池田清彦教授(現:早稲田大学国際教養学部教授)を、おもしろいキャラクターだと見初めて、実現した企画ということのようであります。池田教授は、べらんめい口調で我が道を往くざっくばらんなタイプ・・・数々の著書のある理学博士でありながら、権威を感じさせない人の良いオジサンという印象です。専門分野とは無関係の内容といっても、大学教授と同じ立場で「対談」できてしまうのは、マツコ・デラックスほどの”売れっ子”であるから”こそ”でしょう。
今まで出版されたマツコ・デラックス本というのは「語り下ろし」・・・実際はゴーストライターによってまとめられているので、本書のように「対談本」という形の方が、”より”マツコ・デラックスの持ち味を生かしている気がします。対談本というのは、会話をテープおこしして、ゴーストライターによってまとめるのが当然なのですから。
帯に「これがマイノリティの生きる道!?」とあるように、本書は「マイノリティーの中のマイノリティー」を自負するマツコ・デラックスと、生物学会の「マイノリティー」である池田先生が、東日本震災から、差別意識の仕組み、情報化社会の問題を語り合っているわけですが・・・まず、ふたりを表している「マイノリティー」という存在自体が現在の日本では、それほど「少数派」でも「異端」でもないということを感じます。「マジョリティ」=「多数派」に対しての「マイノリティー」=「少数派」ということですが、1980年代以降は「サブ・カルチャー」などの「マイナー」であった「マイノリティー」の方が、若い世代には「主流」となり「個性」として評価される時代・・・「マジョリティー」に埋もれて「個性」がないと思われる方がマイナスなのです。細分化の進んだ今では誰もが「マイノリティー」・・・「マイノリティー」=「差別される少数派」という認識自体、古臭い考え方のような気がします。
池田先生は環境問題については、定説に対して批判的な意見を持っているところから、自分を「マイノリティー」と位置づけているのかもしれませんが・・・それって、それほど強調することなのでしょうか?学問の世界で「定説」ばかり唱えていても、新しい発見も学説も生まれません。「マイノリティー」であることは、士気の高い学者であれば、当たり前のスタンスであるように思えます。池田先生(1947年生まれ)の世代というのは、反体制的(アナーキー)や反社会的(ドロップアウト)への憧れを持ちながらも、多くの若者は「マジョリティー」である権威的な社会構造に飲み込まれていきました。今という時代になって大学教授という社会的地位に立ったからこそ・・・この世代のオジサンは、権威的な自己の存在を否定するかのように「アナーキー」や「マイノリティー」を主張してしまうものなのかもしれません。
マツコ・デラックスが自らを「マイノリティーの中のマイノリティー」と位置づける理由は、まず「ゲイ」という「マイノリティー」であること。そして、趣味で「女装」をしている「マイノリティー」であるということなのです。確かに「ゲイ」の中には、「女装/ドラッグ・クィーン」を毛嫌いするグループは存在しますが、それは「差別」というよりも、単に「嗜好」の違い・・・相手にされないからって「差別」と受け取るのは、被害者意識が強過ぎます。他者から「受け入れられる」「受け入れられない」を「差別」としてタブー化とすることは、素直に自分の好き嫌いを言えない世界にしてしまいます。結果的に表面化しない根深い「差別」を生んでしまうことになるのです。
また、自分の都合の良いときだけ「私たちオンナとして」と語り、所詮は「私はオトコだから」と言えてしまうマツコ・デラックスのような「ゲイ」の「女装好き」というのは、真剣に「女性」として生まれかわろうとしている「性同一障害者」にとっては、世の中に間違ったステレオタイプを作ってしまう迷惑な存在です。本書では、男でも女でもなく、ゲイでもニューハーフでもないからこそ「フェミニスト」であるという大胆な自己認識を主張しています。他者からの「差別」を訴える以前に、自分の存在が他者を脅かしていることを理解する事も必要でしょう。
「マイノリティー」である「ゲイ」や「性同一障害者」からも、さらに「差別」されるほどの「マイノリティーの中のマイノリティー」なのだから・・・「マイノリティー」の二重苦を背負っているとでも言いたいようなのですが、そんな「マイノリティー」の上塗りで、その「異端」さを主張した末に「差別」されたと感じるなら・・・それは「個性」を受け入れられない=嫌われているだけのこと。それを普遍的な「差別」と捉えることは、少”お門違い”に思えます。
毒舌や辛口を「売り」にしているマツコ・デラックスですが・・・多くの視聴者が感じているように、言動はそれほど毒舌でもなく、辛口でもありません。絶妙な”フリ”と”ツッコミ”と”カエシ”の瞬間芸によって「うまいこと言う!」という印象を与えることには成功しています。マスコミでは、それを「賢者の言葉」のごとく扱っていますが・・・実際はハッキリそした意図のない”合いの手”のことが多いような気がします。立場的に弱い者(マスコミの取材人とか)に対しての「ダメ出し」はしますが、それはマツコ・デラックスというキャラして期待さている定番の”カエシ”という程度。確かに、その場、その場での頭の回転は速いのかもしれませんが・・・芸人としてでもなく、専門分野を持っているわけでもなく、本人曰く「素人」という立場のままでタレント活動をさせて貰えるのですから「マイノリティー」であることを、これほど営業的に生かしている人もいないかもしれません。
本書は、マツコ・デラックスは池田先生に”フリ”をして聞き役を務める印象で、積極的な独自の意見を述べているのは池田先生”だけ”です。それに池田先生は、自分の専門分野を持っているだけあって、ところどころの対話の中に知識が反映されています。でも、マツコ・デラックスの話というのは「友達に聞いたんだけど」とか「テレビ番組で観たんだけど」とか、読者である一般人と同じようなネタ元なのです。その上、マツコ・デラックスの言動は、驚くほどに常識的・・・それもマツコ自身の世代(1972年生まれ)よりも、ずっと世代にとって「そうそう!」と膝を打つような正論として認知しているようなことばかりだったりします。
マツコ・デラックスが”ツッコミ”を入れて暴言を吐くのは「マジョリティー」という「仮想敵」に対して・・・ただ、その「マジョリティー」とマツコ・デラックスが位置づける(たとえば・・・)保守派を敵対視すること自体が、今はそれほど「マイノリティー」なことでなくなっています。「マイノリティー」を代表しているかのようなマツコ・デラックスの言動というのは、実は「マジョリティー」=「多数派」そのものという奇妙なレトリック。
巨漢の男性が女装をしている「非現実」的で「マイノリティー」な「個性」の存在でありながら・・・実は「常識的」で「マジョリティー」=「多数派」に容易く受け入れられているのです。一周回って・・・至極「普通の人」というのが、マツコ・デラックスの正体なのですです。
結局この化け物は、何の取り柄もないと言うことですね。
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