2011/01/24

「会えない時間が~、愛、育てるのさぁ~」なんて昔ばなし・・・「会っている時間”だけ”が、愛、育てることができるのさぁ~」なのだ!

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子供の頃、テレビの歌謡番組で郷ひろみが「よろしく哀愁」という歌で、こう歌っていました。

会えない時間が~、愛、育てるのさぁ~♪

このフレーズは、ボクの記憶に焼き付けられて、恋愛に於いての「座右の銘」となり、長い間ボクを悩ます原因になったのです。
ボクの少年時代というのは、コミュニケーションツールとしては「手紙」「電話」ぐらいのもので・・・「留守電」が、一般的に普及したのは20代半ば頃(1980年代半ば)だったような気がします。
(ボクは18歳から留学したので、日本とは多少事情が違うかもしれませんが)
限られたコミュニケーションツールしかなかった時代に、どうやって連絡って取り合っていたのでしょう?
子供の頃、クラスメートなどの日常的に会う仲間とのコミュニケーションは「実際に会う」というのが、基本だったのかもしれません。
アナログの極地というも言えるコミュニケーションであります。
それでも、何か改めて何かを伝えたいという場合には「手紙」という選択・・・離れた友人であれば郵便で、クラスメートや学校の友人であれば置き手紙が、あったのです。
そういう延長上に「交換日記」のようなロマンティックなコミュニケーションが成立していました。
「電話」というのは、あくまでも緊急を要する場合のみに使われるモノだったような気がします。
ボクが子供の頃には、単に友達と話すために電話をすることはありませんでした。
低学年の頃(1970年頃?)には、まだ電話が家にないというクラスメートもいて、緊急連絡網には「呼び出し電話」(そのエリアで電話を持っている家に呼び出してもだって電話を使わせてもらう)というのも存在していたくらいなのですから・・・。
さすがにボクが留学する1980年には「電話」で連絡を取り合うのは普通になっていましたが、それでも実家から長電話をすると親には叱られたものでした。
あくまでも「電話」は、実際に会うための約束をしたり、確認するためだったのです。
限られたコミュニケーションしか出来ないからこそ・・・「会えない時間」が切なく恋心を暴走させて「愛、育てる」になっていったのでありました。

「留守電」の登場は、ボクにとってコミュニケーションの大きな革命であったような気がします・・・特に、恋愛などの濃密な関係に於いては。
「留守電」を使うようになったのは20歳の頃に、メイン州のポートランドという小さな街で、美術大学に通うために一人暮らしを始めた時でした。
ポートランドは小さな街ということもあって、電話で前もって連絡することもなしに、いきなりお互いの家を訪ねるなんてことは多々ありました。
付き合っている人が家にいなかったりすると、一旦、自宅に戻って留守電にメッセージを残したりして、切なく彼からの電話を待ったりしたものでした。
以前だったら、電話していなかったら、それまで・・・だったわけですが、留守電という形で「自分の意志を残せる」というのは、便利なことではあったものの、逆に「留守電を残したのに、すぐ連絡がない!」という今までになかった「喧嘩の火種」を生んだような気がします。
「留守電」によって「会えない時間」は「愛、疑う」になっていったのです。

1990年代半ばになると「携帯電話」「メール」の登場となります。
携帯電話によって、さらに「愛、疑う」機会もさらに増える結果を生むことになったような気がします。

携帯に電話して履歴を残したけど電話をかけてこない!
携帯電話にメールしたのに5分以内に返信がない!
携帯の履歴/メールに浮気相手を発見した!

自宅や仕事場に縛られずに、個人がリアルタイムで連絡が取ることのできる「携帯電話」は、おそらく世の中の全般的に「不倫」を含めて、点と点でつながる「関係」を増やしたかもしれません・・・セフレなどの当事者以外が介入しない関係を。
勿論、携帯電話以前にも「ポケベル」というツールもあったわけなので、強者はとっくに不倫し放題だったのかもしれませんが。
「メール」は、ある意味「手紙」のように相手の時間を拘束することなしにコミュニケーションを取れる手段でありながら、相手に届くまでの時間差もなく、手渡しするような”重み”もないので、バランスの取れたコミュニケーションツールだとボクは思っています。
ただ、問題がないわけではなく・・・時々届かないというトラブルがあったり、文面が相手に誤解を生んだりということがあります。
「メール」が一般化することで、ネットの出会い系サイトというのもポピュラーになっていったわけですが・・・知り合っても上手くいかない場合でも、メールの返信をしないという”能動的な拒絶”がしやすいというのもハードルの低さだったのかもしれません。
ネットの出会い系サイトというのは、言うなれば「一本釣り」の出会いであり、当事者だけで完結出来る「メール」というのが最適であったのです。
インターネットの「メール」が主流だった時代は返信のタイムラグも許されていましたが・・・携帯メールが一般化することで、再び「愛、疑う」ツールとなってしまったかもしれません。
携帯電話を巡るイザコザで関係がうまくいかなくなったという話はよく聞きます。
リアルタイムでのコミュニケーションが可能になることで、浮かび上がってくる「知る必要のない現実」というのもあったわけのかもしれません。
特に恋愛関係に於いては、会えない時間の妄想が、現実の相手以上の素晴らしい存在へ変貌して、結果的に愛をより深くするなんていう幻想も成り立ったわけですが・・・コミュニケーションツールの発達によよって、その幻想を抱かせるチャンスさえもなくなり、期待はずれの現実に向き合うことになってしまうのです。

そして「ツイッター」時代となったわけですが、このコミュニケーションツールは、いまだに発展中・・・人と人を結びつけるということでは素晴らしいツールである反面、知らなくてもいい相手の行動や考え方を知ることもあったりする面倒なツールでもあるわけです。
ネット上ではツイッター以外にも、ブログだったり、ミクシィだったり、相手の情報がネットには蓄積されています。
そこには、赤裸々にその人の本質が現れているのかもしれません。
親友であっても、恋人であっても物事に対しての見解の違いはあるもので・・・リアルで顔を合わしてるだけでは知る由もなかった、相手の真意を知ることになります。
最近、流行りのiPhoneのゲイ出会い系アプリには「相方/パートナーあり」と記述しながらも、ヌード画像をアップしていたり、セックスのポジション(タチか、ウケか)をわざわざ明記している登録者が数多くいます。
この人たちの「相方/パートナー」が登録を見たら、どう感じるのだろう・・・なんて、余計なこと考えてしまいます。
エッチなプロフィールを公開して「友達募集」なんて「地引き網」のような出会い・・・ネット上(まさにウェブの網!)に引っかかる者と、出会う可能性はできるかぎりオープンにしておきたいのでしょう。
ま〜、随分と貪欲なのねぇ〜って感じであります。
人のネットでの活動を逐一監視することなんて不可能・・・不実な人は、どうあっても不実なわけで、それを追求すること自体が無意味な行為なのです。
それならば、一体、何を信じれば良いのでしょうか?
それは、最もアナログな時間・・・その人と一緒にいる時間”だけ”が真実であるということなのかもしれません。
一緒にいるとき「だけ」しか相手のことは考えず、あれこれ自分勝手に想像で判断はしない・・・本能を研ぎすませれば、自ずと真実は分かるはず。
「リア重」(リアルを重視する)に徹することで・・・ボクは「会えない時間が~、愛、育てるのさぁ~♪」の呪縛から、やっと逃れることが出来たような気がします。

だから、今はハッキリと言えるのです・・・

「会っているとき”だけ”が、愛、育てることができるのさぁ~♪」と。

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