2019/07/09

25年間ニューヨークファッション界で活躍した世界的デザイナーで”トランプタワー”に住んだ唯一の日本人女性を名乗る現在大阪在住のトータルビューティープロデューサー・・・アケミ・S・ミラー/Akemi S. Miller(曽根あけみ)


すっかり忘れていた人の名前を見つけた。

2019年7月8日付で配信されたプレジデントオンライン(PRESIDENT Online)に掲載された「住所だけで驚かれる超高級タワマン生活」という記事で、トランプタワーに住んでいた唯一の日本人女性という”ふれこみ”の”連載記事”だ。(連載5回の2回目なので、あと3回分あるらしい)

トランプタワーの家賃は毎月高級車が買えるほどで、個人的な銀行預金が3億円以上が必要だという。さらに資産を持っているだけでは住むことはできず、厳しい審査をパスしなければ住人になることはできないそうだ。トランプタワーの住人が、自らトランプタワーの住人であったことを公言することは普通はしないので(松居一代とかならやりそうだけど)、どこまで信ぴょう性のある話なのかはわからない。ただ、バブル時代の夢を再び(?)のような日本では、超セレブご用達のタワマンに住んでいたというだけで、注目される人物にはなるようだ。

記事の最後に書かれた”アケミ・S・ミラー”(Akemi S. Miller)という名前を見て、30年前にニューヨークで出会った”曽根あけみ”と同じ人物であることを思い出した。

1988年5月、パーソンズ・デザイン大学のファッションデザイン科を卒業したボクは、前年に起きた”ブラックマンデー”による不況の影響もあって就職できずにいた。1989年の5月頃だっただろうか・・・英語学校時代の友人が働いていた音楽事務所アミューズのニューヨーク支社の社長から「最近、日本人のファッションデザイナーと知り合ったんだけど、アシスタントを探しているらしいよ」・・・と聞いた。そこでコンタクトを取ったのが”曽根あけみ”だったのだ。

当時、日本のファッション雑誌にも目を通していたから、全く日本のファッション業界に無知であったわけではないのだが、”曽根あけみ”という名前を目にしたことは一度もなかったので、素直に「誰?」と思った。現在であれば、インターネットでググったり、SNSで調べることもできるので、すぐ何者かは判明するものだけど、当時、そういう手段はなかったのだ。

面接で訪れたのは、今はなきワールドトレードセンターのツインビルの脇にあったコンドミニアム(高級マンション)のハドソン川を一望できる3KLDKくらいの広い部屋だった。ニューヨークに着いたばかりでオフィスも構えていなかったらしく、スタッフが共同生活を送っていた住まいで面接をしていたようだ。(デザイナーは同じビルの別室に住んでいるという話だった)ワールドトレードセンターの金融関係で働く日本人駐在員が多く住む家賃が高い場所だったので「なぜ、これからビジネスを始めようという人たちが、こんなにお金がかかる部屋に住んでいるのだろう?」と奇妙に思ったものだ。

女性スタッフ2名により面接が行われたのだけど、2人とも化粧っ気なしでファッションに関わっている人とは思えない地味な服装・・・それぞれ柔道選手と陸上選手のようなタイプで、見た目だけでの印象は”レズビアン”っぽいだった。ニューヨークを拠点にデザイン活動をするにあたり、アシスタントデザイナーを探してるという。ボクのポートフォリオを目を一通り目を通すと「曽根あけみ先生は凄い人だ」という話を始めた。その様子は、カルト宗教に取り憑かれた信者が教祖様への崇拝をしているかのようで、かなり不気味だった。

日本では着物デザイナーとしていくつものブランドを発表しており、東京でもコレクションを発表しているという。世界中からオファーがあったのだが、ある企業(名前は公表できないからと教えてもらえなかった)が資金提供を受けて、ニューヨークに進出することを決めたのだと説明をされた。当時、まだ日本ではバブル経済が続いていて、日本の企業が異業種に資金を出して新事業を始めるということは珍しくはなかったので、こういうこともあるのかなぁ・・・とボクは首をひねりながらも納得した。

スタッフからの説明が終わったところで、大御所感を醸し出しながらデザイナー曽根あけみが、奥の部屋から登場したのだけど・・・真っ昼間から異様に化粧が濃くて、夜の雰囲気を漂わせていたことに、ドン引きした。当時のファッション業界で働く女性の化粧は現在と比較して”濃いめ”ではあったものの、彼女の化粧スタイルはファッション業界的というよりも、キャバレーとかにいそうな水商売の女性のようだったのだ。デザイナーの経歴やビジネスの経緯だけでなく、本人の風貌もめちゃくちゃ胡散臭くて、ボクは徐々に不信感を感じめた。

彼女の洋服のデザインコンセプトが「イースト・ミーツ・ウエスト=東洋と西洋の出会い」という三宅一生氏が1970年代から唱えているものと全く同じ。当時、日本にも海外にも、似たようなコンセプトを唱えて日本的な生地(着物の生地だけではなく)で”洋服”を作るデザイナーやメーカーというのが腐るほど存在していて・・・正直言って、もういい加減「ダサい」という時代だった。

「実物の服を見せて欲しい」と言ったら、面倒腐りながら奥から持ち出してきたのは、着物の生地のドレスだった。芯を入れていないのでペラペラとしていて、洋服のイロハもわかっていない素人が作った感じ。”デザイナー”を名乗るわりに、基本的な縫製技術さえないことに驚愕したのだが、逆にボクが力になれるのかもしれない・・・と、ポジティブに考えてしまったのが、運の尽きだった。なんだかんだで、ボクは翌日から3ヶ月の試用期間をスタートすることになってしまったのだ。(アメリカでは3ヶ月ほどの試用期間の後に正式採用となることが多かった)

主な仕事は、生地サンプルの整理をしたり、デザイン画を描くことだったのだが、仕事を始めて2週間ほどしたら、オフィスが見つかったとのことで、引っ越しすることになった。荷造りや運搬は業者に任せるものだと思っていたら・・・柔道選手みたいな女性スタッフとボクと二人でやらなければいけないというのだ。結局、半月ぐらい引っ越し作業や荷物整理をやらされる羽目になった。

アシスタンデザイナーという名目で雇われたのにも関わらず肉体労働ばかり・・・その上、1ヶ月ほど経っても給料を払ってくれないことに、ボクは不安を感じ始めていた。試用期間といっても”タダ働き”ではなく、時間給で給料は支払うという約束だったのだが、スタッフの女性に訊ねてもはぐらされてばかり。しかし、会社自体は金銭のやりくりに困っているという雰囲気は一切なく、曽根あけみ自身は贅沢な生活をしている様子だったので、ますます理不尽な気分にさせられた。

仕事中、曽根あけみと接触することは殆どなく、陸上選手みたいなスタッフから指示を受けていた。”お題”を出されて描いたデザイン画は、なんだかんだで数百枚以上になった(ボクはデザイン画を描くのが早かった)と思う。しかしデザイナーの曽根あけみから、デザイン画へのフィードバックをもらうことは一度もなく、一方的にデザイン画を描かされるだけだった。

当時、ファッション会社(有名なメーカーなども)がアシスタント募集をして、雇用試験だと言ってデザイン画を描かせて、世に出ていないデザイナーの卵の”アイディア”だけを集めるという詐欺まがいのことが、ニューヨークのファッション業界では横行していて、痛い目にあった同級生が何人もいた。まさに、ボクがやらされているのは「コレ」に近いのではないか・・・と気づいたのは、働き出してから2ヶ月ほど経った頃だった。(遅すぎ〜!)

そんなある時、珍しく曽根あけみと二人きりになる機会があったので、将来的な雇用と給料についてズバリ訊ねてみたのだ。すると、曽根あけみの顔色がみるみると変わり、プイっと部屋を出て行ってしまった。数分後、別室にいた陸上選手みたいなスタッフが入ってきて「よくも、あけみ先生に直接そんな話ができたものね!」と一喝された。そして、まだ日本からの送金システムが確立されていないから支払えないと、逆ギレしながら言い訳をされたのだ。

それから、しばらくして試用期間を1週間ほど残してボクは解雇された。曽根あけみが部屋を出て行ってから二度と顔を合わすこともなかったから、何となくそうなることはわかっていたような気がする。しかし、この時点でも給料が未払いのまんま。当然、何百枚ものデザイン画も彼女のオフィスに置きっ放しだ。

その後、紹介者だった社長に仲介を頼んで交渉してもらい(散々面倒臭いと嫌がられたが)3ヶ月分の給料として2000ドル(当時のレートで18万円ほど)を、半年後(年を越して冬になっていた)に手にすることができた。はっきり言って、働いた時間から計算して2000ドルというのは、相当少なく見積もられていたけれど、クレームつけるような雰囲気ではなかった。小切手をオフィスまで受け取りに行った時、陸上選手みたいなスタッフに「よく取りに来れたわね~」と嫌味を言われたけど、コレで曽根あけみと縁が切れると思ったらスッキリしたことを覚えている。

それから10年ほど経った頃(1990年代末?)だっただろうか・・・陸上選手みたいなスタッフを、ニューヨークのロックフェラープラザにあった本屋の「紀伊国屋」で働いている姿を見かけた。彼女はボクに気づいて奥に隠れてしまったが、その後も何度かカウンターの中で働いているのを見かけた。その頃のボクにとって、曽根あけみの側近だった彼女が紀伊国屋で働いているかなんて、どうでも良いことになっていた。そして”曽根あけみ”という人のことも、ボクの記憶からは薄らいでいったのだった・・・最近になってネットニュースで再び名前を見かけるまでは。

今回発見した記事を機に、インターネットで「曽根あけみ」「Akemi Sone」「アケミ・S・ミラー」「Akemi S. Miller」で調べてみたところ・・・ボクが思っていた以上に胡散臭い人物像が浮かんできた。25年間ニューヨークファッション界で活躍した世界的デザイナーであることを”売り”にしているにも関わらず、ネット検索しても曽根あけみがデザインした服の画像が殆ど出てこないというのが、まず不思議。また、個人のSNSやブログで彼女の名前や商品名が出てくることもないので、現在だけでなく過去のビジネスの実態も殆ど見えてこないのだ。

現在、彼女が運営する「Akemi S.Miller Beauty Studio/アケミ・S・ミラー・ビューティー・スタジオ」の公式ホームページに掲載されている”キャリアプロフィール”が、もっとも詳しく書かれているので、それを参照しながらツッコミ(?)を入れてみようと思う。なお、曽根あけみは年齢不詳のようだが、記事の中で23歳で東京で会社を立ち上げたという発言があるので・・・・1956年生まれだと思われる。

1973年(17歳)
京都にて着物を学ぶ。

兵庫県三木市出身なので、17歳の時に京都に行って学んだようだ。(高校には通っていたのだろうか?)実際に、どこでどういう形で着物を学んだのかは不明なのだが、実家が着物学校を経営をしていたので、そのコネで呉服屋/生地メーカーで(?)勉強させてもらったのだろうか?18歳になると、実家の着物学校で初級インスタラクターとして生徒さんに教えていたらしい。

1975年(19歳)
ミュージックリサーチ社にて、音楽ジャーナリストとして活躍。

19歳で音楽ジャーナリストとして”活躍”っていうのが・・・凄い(笑)。実家の着物学校の縁で、東宝レコードの支店長とコネができて、ミュージックリサーチ社に就職できたそうだ。実家のある三木市から東京まで往復5時間かけて通勤していたという。(本当?)当初は経理をしていたのだけど、LPをコツコツと片付けていた努力が認められて、記者の仕事をやらせてもらうようになったとのこと。ミュージックジャーナリストになると芸能人と直接接することが増えたので、実家の着物学校のネットワークを駆使して、着物のコーディネートの仕事(スタイリスト的なこと?)を請け負うようになったらしい。ミュージックリサーチ社には8ヶ月ほどしか勤務していなかったそうなので、実際にジャーナリストとして活動した(?)期間は”ヒジョーに”短かったようだ。ジャーナリストという仕事を通じて芸能界のネットワークを広げて、着物コーディネーターの仕事の営業に役立てた・・・というが実態ではないだろうか?週末になると実家が経営する各地の着物学校の講師として、大阪、京都、神戸、広島、鹿児島、熊本、宮崎など(そんなに手広く着物学校をやっていたのか!)を回ったそうだ。

1979年(23歳)
「曽根あけみレディースビューティーアカデミー」を東京で開校。
きものモデル・ファッションモデルの育成。きものショーのコーディネート、演出、プロデュース。歌手、女優、タレントの衣装コーディネーターとしてテレビ、舞台、CM、その他のジャンルで活躍。

23歳のとき、東京で会社を立ち上げたというのがコレのことらしい。「レディースビューティーアカデミー」は、プロを目指す人をターゲットにしたビューティースクールで、白金の交差点にあったそうだ。実際に、この学校に通って、プロとして活躍するようになったような人は存在するのだろうか?この頃、実家の着物学校の縁で、小林幸子、川中美幸、坂本冬美などの着物のコーディネートに関わることもあったらしい。

1984年(28歳)
「日米エアロビクス・インストラクター・コンテスト」スペシャルゲスト。kimonoパフォーマンス白夢紅(しろむく)制作・プロデュース(ハワイ / ホノルルNBCアリーナ)。
「セリーヌきものコレクション」日本初発表、トータルコーディネート(帝国ホテル)。
歌手、女優、タレントの衣装コーディネーターとしてテレビ、舞台、CM、その他のジャンルで活躍。

1985年(29歳)
新潟雪祭りきものショー総合、演出プロデュース。

1986年(30歳)
オリジナルきものブランド「曽根あけみ」デザイン、プロデュース、安田多七()より発表。
オリジナル振袖ブランド「遊貴東」デザイン、プロデュース、安田多七()より発表。
オリジナルブランド「流布」デザイン、プロデュース()東レ・ル・モンド光洋より発表。
「緋魅(あけみ)KIMONOファッションパフォーマンス」発表(青山スパイラルホール)
芸術祭参加作品「オフィーリア」衣装デザインと総合コーディネート、芸術祭賞受賞(国立劇場)
オペラ舞踊「リア王」衣装デザインと総合コーディネート(青山円形劇場)

着物のデザイナーとして活動を始めたのは、この時期のようだ。日本ではDCブランドが流行り、ファッションへの関心が高まっていた時期ではある。着物のデザインというのは(洋服と違い)パターンで制作するのではなく、着方のコーディネートだったり、柄や染めは職人さんの技術次第でもあるので・・・「デザイン」と言っても微妙ではある。

1987年(31歳)
「きもの衣絽覇(いろは) by AKEMI SONE()じゅらくより発表(京都見本市)
オリジナルきものブランド「AKEMI SONE」デザイン、プロデュース、()じゅらくより発表。
「ステファニー & AKEMI SONE・ロックとKIMONOショー」制作・プロデュース(パルコ劇場)

発表した着物のラインが実際どれほど売れたのか、そしてビジネスとして継続されたのかはわからない。DCブランドの洋服が売り上げを伸ばす中、着物業界の危機感は強かったと推測はできる。着物業者が藁をも掴む思いで、着物デザイナーとして名乗りを上げた若い曽根あけみに、ある種の希望を託したのでは?と考えるのには無理があるだろうか?

彼女のキャリアプロフィールで触れられていないことが不思議なのだが・・・この頃に、和のテイストを残した洋服を表参道のスパイラルビルで発表したことが、海外進出を志すきっかけになったらしい。日本だけでなく、世界中のプレスから注目された・・・と自負しているのだけど、実際にビジネスとして成立したのかは不明。当時、日本的な生地で洋服を作るということが世界的に流行っており、多くの亜流のひとつであることは否めないし、このことを報じたファッション誌は、ボクが知る限り存在しない・・・。

1989年(33歳)
ニューヨークへ移住、AKEMI STUDIOを設立。

この年の3月にニューヨークへ移住したらしいので、その2ヶ月後くらいにボクは彼女と出会ったということだ。

そう言えば・・・日本の”スポンサー”(企業?男?)とのミーティングだと言って、ヒラヒラしたホステスっぽい服に濃い化粧をして、毎日のように昼間から出かけていたことを覚えている。女性特有の接待のような”いかがわしさ”を漂わせていた。曽根あけみは、2人の女性スタッフからは女王さまのように扱われていて、普段の生活も贅沢三昧。毎晩のように高級レストランに出かけたり、ブランド品を買い漁っていた。彼女があちこちのインタビューで語っているように、裸一貫でアメリカに渡って”どん底”から這い上がったというよりも、太いパトロンがいる”愛人”が、左うちわで海外でビジネスを始めようとしているような印象であった。

ボクは夏が終わる前に、曽根あけみの会社を解雇されたので、翌年に発表されるコレクションの制作には、直接関わっていない。

1990年(34歳)
’91 春夏ニューヨークデビューコレクション発表(ザ・ロイヤルトンホテル NY)
ラトーヤ・ジャクソン湾岸戦争戦士への慰問コンサート、コスチュームデザイン、制作。
グローバー・ワシントン Jr. ステージ・コスチュームデザイン、制作。

このデビューコレクションは、業界的に殆どニュースにはならなかった。彼女は、この年にデビューしたデザイナーの中で、一番売り上げが良かったと自負しているようだけど、この頃アメリカのアパレル業界は、ブラックマンデー後の大不況の真っ只中で、新人デザイナーがデビューすることは殆どなかったのだ。ニューヨーク市内で彼女のコレクションを買い付けた百貨店やブティックはなかったし、アメリカのファッション雑誌に掲載されてもいない。ケーブルチャンネルのファッション専門番組で、彼女のコレクションが取り上げられてたことは、ボクも覚えているが・・・その番組は基本的に全てのコレクションを取り上げるので、全く特別なことではない。

ラトーヤ・ジャクソンは、そもそもがアメリカでは長年”お騒がせタレント”という存在なので、まともなデザイナーがラトーヤに関わることはなかった・・・。

1991年(35歳)
’92 春夏ニューヨークコレクション発表(アトリエにて NY)

なぜか、秋冬を飛ばして春夏のコレクション・・・それもアトリエでの発表となると、規模が縮小されたことがわかるというものだ。

1992年(36歳)
’93 秋冬ニューヨークコレクション発表(アトリエにて NY)
IMEKA NEW YORK Co.,INC.に社名変更。
Hakuhodo Advertising America Inc.のビジュアルディレクターとして、コンサルタントライセンスを結び、Tsumura Internationalの新製品、デザイン、企画、イメージグラフィック、プロダクションに至るまでを総合プロデュース。

今度は秋冬だけ?それに、またしてもアトリエでの開催。ニューヨークで実質的なファッションビジネスが広がらなかったから、博報堂やツムラなど日本の企業との仕事に頼ったのかもしれない。社名を変更しているのは、何故なんだろうか?

彼女がトランプタワーに住み始めたのはこの年(1992年)だったらしい。のちに結婚することになる黒人弁護士ロイ・P・ミラー氏の稼ぎでは、到底トランプタワーには住むことはできなかったそうなので、入居審査は彼女がパスしたということらしい。着物学校を経営していた実家が資産家だったのかもしれないし、強力なスポンサー/パトロンがいたのかもしれない・・・それなりの資産を持っていることを証明する手段が曽根あけみにあったことは確かなようだ。

100人中99人は審査に落ちると彼女は語っているが、当時ファッションデザイナーとしての実質的な功績もない日本人女性が審査に通ってしまうのだから、それほど厳しいとは思えない。1992年と言えば、トランプはカジノビジネスで失敗して債権者に追われていた頃・・・トランプタワー自体も不人気な時代だったのだ。家賃を値引きしてでも、トランプタワーの住人になるように有名人を勧誘して、イメージアップを図っていたということも知られている。彼女のように家賃全額を支払う住人は、ありがたい存在だったとも推測できるのだ。

1993年(37歳)
’94 春夏ニューヨークコレクション発表。第1回ファッションウィーク「7th on sixth(ブライアントパーク NY)

この時のコレクションは、WWDなどでも多少は報道されていたと思う。ただ、それまでファッションウィークを定めていなかったニューヨークファッション業界(七番街に会社が集中しているので”セブンズアベニューと呼ばれる)が、初めて「セブンス・オン・シックスス/7th on sixth」(会場となったブライアントパークが六番街に面していた)と銘打って、集中的にコレクションを開催することを決めたのだが、発表時期をそれまでより1ヶ月以上早めたために参加を控えるデザイナーやメーカーが数多くいたのだ。

彼女はダナ・キャランやカルヴァン・クラインと同じ初日に開催したことを、特別のことのように語っているのだが・・・有名デザイナーと同じ日にショーを開催すると、翌日の新聞での扱いが小さくなってしまうので、一般的には敬遠される。どちらかというと、スケジュール的には不人気な初日に入り込んだ・・・という方が正しいのかもしれない。もちろん(彼女が自負しているように・・・)同日にショーを開催したからと言って、ダナ・キャランやカルヴァン・クラインと肩を並べたという話では決してない。

結局、彼女がニューヨークのファッションウィークで、正式に招待されてコレクションを発表したのは、後にも先にも、この一回だけ。日本のプレスに対して、25年間に渡りニューヨークでコレクションを発表し続けていたデザイナーであるかのように名乗るのは、意図的なミスリードだとしか思えない。

1994年(38歳)
NEW YORK BEAUTY SPACE設立。
マイケル・ジャクソン、プライベートコレクション制作。
’94秋冬ニューヨークコレクション発表(ウォルドルフ・アストリアホテル NY)

ここで再び、美容業界へ関わり始めたようだ。彼女は「フェイスデザイン」ということを唱えていて、それはファッションデザイナーをしていて気づいた発想らしいのだが、メイクアップの基本的なステップの言い方を変えているにしか過ぎない。また「水肌パッティング」という顔を氷水で濡れた綿で叩くというテクニックを提唱しているのだけど、単に肌が冷やされて毛穴が引き締まるだけのことようだ。

マイケル・ジャクソンのプライベートで着る服をデザインする経緯は、トランプタワー内のエレベーターで偶然乗り合わせたからだという。有名人のプレイベート・コレクションというと、トンデモナイことのように思えてしまうが・・・アメリカのお金持ちはオーダーで服を作ってもらうのが本当に好きだ。(ボクも何人かのために作ったことがある)有名人の中には「私が着てあげるんだから金は支払わない」というトンデモナイ人も多かったりするので、この手のプライベートのオーダーというのは、厄介な仕事だったりする。マイケル・ジャクソンからは、シャツを作ってくれと頼まれたらしい。2年間プライベートコレクションを手掛けたと言い張っているけど、プライベートで着る服全部というわけでは勿論ない。実際に何着のシャツを作ったのだろうか?

ちなみに、彼女がトランプタワーから引っ越したのは翌年の1995年だそうだ。

1996年(40歳)
AKEMI SONEブティックをニューヨークミッドタウンにオープン。
世界三大テノール、プラシード・ドミンゴのプライベートコレクション制作。
トータルビューティークリエータースクールN.Y.B.S CREATIVE ARTSを開校。
スキンケア・ライン「DERMA SYSTEM」発表。
メイクアップ・ライン「NYBS」発表。

AKEMI SONE ブティック」をオープンしていたことは全く知らなかった・・・当時、ボクもニューヨークに住んでいたけど。お店をオープンしたミッドタウン(217 East 49th Street)は、ブティックなど全くない住宅地で、ロケーション的には不可解。オートクチュールの店だったそうで・・・店内には白い生地で作られたサンプルだけがあったらしい。お客はサンプルからサイズやデザインを選択して、好きな生地を選ぶというシステムだったそうだ。ニューヨークには、中国人テイラーにデザイナーの服をコピーさせるような人が大勢いるので、よほど格安にしないかぎりビジネスとして成立させるのは厳しいと思う。

トータルビューティークリエータースクールというのを開校して、プロの育成を目指したそうだが・・・メイクアップアーティストとして何ら実績のない彼女が開校して、誰が入学したいと思うのだろうか?授業料が破格に安ければ、お金のおない生徒を集めることはできたかもしれないが。また、スキンケアライン、メイクアップラインを発表しているけど、ニューヨークでは全く話題になっていなかったし、扱っていた小売店さえなかったようなので、彼女のスクールの生徒相手に販売されていたのだろうか?

1997年(41歳)
国際連合スタッフデーにて’97 AKEMI SONEスペシャルコレクション「ラブ&ビューティー」を発表。(国際連合本会議場 NY)。

国連から正式指名を受けて、日本人で初めて本会議場でファッションショーを開催したらしいが・・・ニューヨークの日本人社会の中でさえ、話題にはなってなかった。

1998年(42歳)
ロックフェラーセンター、フラワー&ーデンショー ’98 by AKEMI SONE「花の女神」を発表。
ショー後の作品展示は3週間で300万人の来場動員を記録。

フラワーガーデンショー自体は有名な催しものなので、来場動員数が多いのは当然のこと・・・あくまでも入場客の目的は、有名庭師によるガーデンコーディネートのブースだろう。生地で作った花々をあしらったイブニングドレスを48体を制作していたらしいが、イベント会場の添え物的な”展示”という印象でしかない。

この事については、いくつかの日本のマスコミが取り上げているのだけど・・・ファッション業界紙とかではなく、スポーツ新聞ばかりなのが、彼女が日本で築き上げていたネットワークを物語っていると思う。彼女のニューヨークでのビジネスについては、一部の経済誌などで取り上げられることもあったようだが、女性向けのファッションをデザインして、メイクアップのスクールを運営しているのに、日本で取り上げるマスコミが”おじさん向け”ばかりなのは奇妙だ。

1999年(43歳)
NEW YORK BEAUTY SPACEニューオフィスをグランドセントラル、ザ・グレイバー NYに開設。

2000年(44歳)
NEW YORK BEAUTY SPACE改め、正式名NYBS CREATIVE ARTSスタジオ開校。

引っ越したり、ビジネスの名前を変更したり・・・経営的に行き詰まって仕切り直しているのだろうか?それとも、なんらかのトラブル回避のためなのだろうか?

2002年(46歳)
東京・大坂にてニューヨークスタイル、トータルビューティーコレクション「RED」を開催。
(ウェスティンホテル大阪 / ホテルグランパシフィック・メリディアン東京)。

結局、日本でのビジネスに頼るっていうのは、海外で活躍していることを”売り”にする日本人にありがちなことだ。

2005年(49歳)
NYBS CREATIVE ARTSスタジオを5番街 NYに移転。
AKEMI SONEのニューヨーク流「水肌メイク」』株式会社サンマーク出版よりブックデビュー。

この本は絶版だし未読なので、なんとも言えないが・・・それほど話題になった美容本というわけではないようだ。氷水で濡らした綿で顔を叩くと毛穴が引き締まるテクニックを説明した本らしい。日本国内に「NYBS CREATIVE ARTSスタジオ」を開設するという”野望”があっての出版だったようだ・・・結果的に、それは実現はしていないが。

「5番街」に移転とあるが・・・正確には「45 West 46th Street」=西46丁目の五番街と六番街の間に存在していた。雑居ビルがひしめく混沌としたエリアで、美容学校を開校するのに適している場所とは言い難い。曽根あけみがニューヨークで展開していたビジネスの中で、唯一、インターネット上にレビューが存在しているのが、このビジネスなのだが・・・それによると、プロとして働ける認定書を発行できる学校ではないので、通っても意味がないと酷評されている。おそらく、彼女がニューヨークで運営していたビューティースクールの全ては、似たような運営のスタイルだったと思われるので・・・悪評が拡散する前に、ビジネスの名称を変更したり、オフィスや学校の引越しをしていたことも推測ができる。

2014年(58歳)
“The Wedding in Thailand”スペシャルゲストとしてニューヨーク・コレクションを発表。
(オークラ プレステージバンコクにて)。

ここで年月が飛ぶのは・・・彼女の夫(ロイ・ミラー氏)が2013年に亡くなり、彼女が日本に帰国したから。ただ、2005年から約10年近く、彼女のビジネスには何が起こっていたのだろうか?何も記載することがないということは「開店休業」という状態ではなかったのではないか・・・?

彼女の夫は”肺高血圧症”という難病だったそうで、約2年間の闘病の末に亡くなったそうだ。彼女は献身的に看病していたということで、最愛の人を亡くされたのは本当に気の毒なことだったと思う。ただ、夫が亡くなったら、すぐに日本に帰国したということから、ニューヨークでのビジネスの実態は殆どなくなっていたとも推測できる。シャガールのオリジナルの絵画などの美術品や、ポルシェやベンツの高級車など、相当な財産があったらしいが、何故か全てを放棄(?)して”身ひとつ”で日本に帰国したと語っている・・・もしかして「差し押さえ?」と疑ってしまうような不自然な話。

バンコクでのファッションショーを機に、夫を失った喪失感から立ち直ったそうだ。一年前に日本に帰国していても「ニューヨーク・コレクション」と銘打ってしまうところは・・・”曽根あけみらしい”かもしれない。

2015年(59歳)
AKEMI S. MILLER Beauty Studio」大阪にて設立。

「なぜ大阪に?」という疑問はあるが、関西出身の彼女にとっては馴染みのある場所なのかもしれない。住所をグーグルマップで調べてみてみたが、決して高級店が並ぶような界隈ではなく、雑居ビルの立ち並ぶ庶民的(?)なエリアだ。

AKEMI S. MILLER Beauty Studioの公式サイトを閲覧する限り、現在(2019年7月)もビューティースクールの運営はしているようだ。60代になった曽根あけみは現役で「フェイスデザイン」や「水肌メイク」を提唱しているのだと思われる。ただ、フェイスブック内の彼女の投稿記事への反応の数を見る限り、大勢の顧客/生徒がいる様子はない。

「25年間ニューヨークファッション界で活躍した世界的ファッションデザイナーでトランプタワーに住んでいた唯一の日本人女性のセレブ」を掲げているわりに、かなりスケールダウンしてしまったことは否定しようがない。海外セレブ感を醸し出そうとしているのか、夫が亡くなった後もミラー姓を名乗り続けて活動しているのは、もはや痛々しささえ感じる。

そもそも、ニューヨークファション界で活躍した”世界的デザイナー”であることも、ニューヨークで美容学校を運営して多くのプロを輩出したことも「虚構」(?)なので・・・インターネットでバックグラウンドがチェックできる今日には、すぐに”偽りのメッキ”は剥がれてしまう。ただ、トランプタワーに住んだことのある日本人女性(”唯一”かどうかは、かなり怪しい?)というのは、様々なマスコミが好むネタのようで、トランプ大統領の誕生後には、あちこちのメディア(インタネット記事が多いが・・・)には登場しているようだ。

ファッション界や美容界などの業界では、ハッタリのプロフィールというのが通用してしまうことが多い。かつてボクがジェフリー・ビーン社で働いていた時にインターンで1日だけ雇った女性が、その後デザイナーとしてデビューしたとき「私はジェフリー・ビーンのアシスタントだった」と堂々とインタビューで答えていて驚いたことがある。マスコミというのは、たいした事実チェックというのをしないものなのかもしれないが・・・自己申告のプロフィールというのは、相当差し引いて考えた方が良いということだ。

”トランプタワー”の住人だったことをネタに、「欧米ガー」的な”上から目線”の立ち位置で再びマスコミに登場している「アケミ・S・ミラー/曽根あけみ」は、ボクの人生で出会った人の中で「一番胡散臭い人」だろう。キム・カーダシアンが自分の補正下着ラインに「KIMONO」という名前で商品登録しようとして炎上したことは記憶に新しいが、30年前に「着物」を利用して、ニューヨークでファッションデザイナーになりすました(?)日本人女性がいたことを、世の中の人たちは知る由もない・・・。


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