2009/09/28

犬と飼い主の物語(ラブストーリー)と思ったらトンデモナイ!~「犬身」/松浦理英子著~


「男好きのする女」という表現があるならば、「犬好きのする人」というのも”あり”だと思うのですが・・・何を隠そう、僕自身が「犬好きのする人」だと思っています。

そんな意識しているのには、それなりの自覚があったのことです。


それは、外で出会う近所の犬と、非常によく目が合うということです。

正確に言うと、僕を見ているのか、僕の周りのオーラか背後霊を見ているか分からないような、視線がピッタリと合っていない感じのズレを感じる見られ方なのです。

普段外を歩いていて、散歩している犬から、庭に繋がれている犬まで、ピタっと身動きしないで僕の方向をジーっと「ガン見」されることが、とにかく多いのです。

見られることが「犬に好かれる」ということには、直結しないのかもしれませんが、世界に存在する人間以外の動物の中でも、犬が一番好きということもあって、ちょっと自意識過剰になっているのかもしれません。

「よく目が合うんだよねぇ」とか言って、モテることを自認する人に限って、自分を見ている視線を必死に探していただけってこともあるわけですから・・・僕の方から犬のことを見て視線を求めているのかもしれません。


さて、そんな犬好きの僕にとって、松浦理英子著の「犬身(けんしん)」は、そのタイトル、帯からも、非常に興味をそそられる小説でありました。

主人公の「房枝」は、人として犬好きというだけでなく、犬になって好きな人(これは別に男でも女でも)に可愛がられたいという「性同一障害」ならぬ「種同一障害」ということであり、犬の毛並みや肉体に対する憧れがこれでもかと語られます。

房枝は自分好みの飼い主「梓」と出会い、魂と引き換えにバーテンダーに化けている(?)狼男によって「フサ」という名の牡の子犬にされてしまうのです。

その”くだり”は、あっけないほど簡単に描かれているのですが、どうやって人間が犬になるのか・・・というのは、それほど物語には重要なことではありません。

僕自身が犬として可愛がられることが、セクシャルな行為にはまったく結びつかないのですが、房枝の「犬になりたい」という願望が、段々と理解できてくるような不思議な導入部でありました。


フサという犬になってからは、飼い主の梓との「愛の蜜月」がねっとりと語られるのかと思いきや・・・梓と彼女の家族にまつわる嫌悪感たっぷりの別の物語が中心となっていくのです。

フサにとっては子犬の視点で傍観するしかない、この家族の最大の問題というのは、梓と兄との近親相姦です。魂と交換してまで梓の犬になったフサ(房枝)にとっては、なんとも気の毒な展開としか思えないような状況ではあります。

気持ち悪い兄妹の性行為がこれでもかと繰り返し語られるので、僕は吐き気を感じるほどでした。

さらに、家族に無関心で後に蒸発してしまう父親、そして息子を溺愛する母親によって、次第にこの家族は悲劇的な方向へ向かっていきます。

フサは命がけで梓を救い(?)、最後の最後には梓の胸に戻るという一応のハッピーエンドを向かえるのですが・・・後半はフサが犬になりたがった人間であったということは、単に語り部の視点でしかなくなってしまい「犬として生きる人の物語」でなくなってしまったのは、僕にはたいへん期待はずれで、後味の悪いものでした。


もしも、フサのような元人間の化け犬に飼い主として選ばれたとしても、それはそれで不気味なものかもしれません。

犬の心というのが人には分からないからこそ、人にとって理想の関係がなりたっているわけで・・・人のような自主的な考え方を持ってしまったら、ある意味愛玩する対象としての犬は、その魅力を失ってしまうところがあります。

無条件に好きな飼い主に可愛がられるとしても、やっぱり僕は犬にはなりたくないと思うのでした。



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