2009/09/06

「孤独死」こそ、理想の逝き方


独り暮しの人が誰にも看取られずに亡くなった時、その死は「孤独死」と呼ばれます。
それは、単に人生の最後の瞬間を、亡くなる本人ひとりで過ごしたという状況というだけのことなのですが・・・生きている人間にとって「死」自体が未知な恐怖だからこそ、それをひとりで経験する状況を、特別に「孤独」と感じるのかもしれません。

人生の伴侶/パートナーもいなくて、子供もいない、兄弟もいない、血縁関係のあるのはまったく付き合いのない従姉妹だけ(それも年齢がかなり離れている)という自分にとって「孤独死」と言われる”自宅でひとりで逝く”というのは、起こる可能性の高い逝き方であり、理想とするものです。母方も父方も健康に長生きする家系なので、おそらく自分も日常生活を気をつければそこそこ長生きはするでしょう。
長生きすることは素晴らしいことだということになっていますが、長く生きれば生きるほど、家族や友人に先立たれて、たくさんの人達を見送り、「孤独」になっていくのです。大家族であれば別ですが、自分のような血縁関係者が少ない者は、長生きしすぎると、身元引受人という法的な存在の人物さえもいなくなってしまいそうです。

時々、自分が凄く長生きていることを考えると、妙に淋しい気持ちになります。まだ自分ひとりで外出ができるのであれば、出先で急に死んでしまった場合は「行き倒れ」と扱われる可能性が高いように思えます。
所持品から、身元ぐらいは分かるとは思いますが、自宅には誰もいないし血縁者もいないので、死体を引き取りにくる人もいないわけです。
また、病院に入院している間に死んでしまった場合も、家族という立場の人間がいるわけではないので、手術や治療についての承諾書というのも自分でするしかありません。
治るような病気であれば良いけれど、治っても寝たきりというような状態であれば、そう簡単に独り暮しの自宅に戻れるものではありません。
病院だったら死ぬ瞬間は、ひとりきりではないかもしれませんが、自分をとりまく状況は「孤独」そのものになっているような気がしてならないのです。
同じ「孤独」という生活環境なら、病院や雑踏の中ではなく、住み慣れた自宅で逝くことが出来たらなら(誰かに救急車を呼んでもらえたら、延命出来たとしても)本望だと思えてくるのです・・・第三者からみたら淋しく哀れな「孤独死」という死に方だとしても。

幼い頃、母が「人はひとりで生まれ、ひとりで死ぬのよ」と、よく言っていたのを思い出します。
子供ながらに、何故そんな淋しいことを何度も何度も繰り返し子供に向って言うのだろうと思っていましたが・・・将来的に「孤独死」に直面する可能性が高い人生を結果的に歩んできている僕にとって、母の根源的な人間としての強さを感じさせる言葉になっています。

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