2012/03/31

そろそろ、ファイスブック疲れ?・・・「いいね!」って誰のため?・・・そもそも、そこまで繋がりたいの?



ボクがフェイスブックを始めたのは3年ほど前・・・”ある人”に勧められたのがきっかけでした。実名登録ということもあって、当初はアメリカ在住時代の友人や知り合いとの「再会ツール」として重宝していました。ただ・・・お互いのその後を報告し合った後は、それほど語り合うことって、それほどなかったりします。それぞれの人生を歩んできたわけですから、接点も希薄になってしまうのは当たり前のこと・・・それでも、メールで伝えるほどのことでない近況を、ざっくりと知ることが出来るのは便利ではあります。

アメリカ人の友人の殆どは、ダイレクトメッセージでの短いやり取りか、誕生日の書き込みぐらいにしか、フェイスブックを利用していません。俗にいう「フェイスブック疲れ」「フェイスブック離れ」が、徐々に広まっているといって良いでしょう。今でも「ポスト」「いいね!」「シェア」を盛んにしているのは、政治的なメッセージと訴えているフレンドぐらいです。

一方、日本では映画「ソーシャルネットワーク」以降・・・友人や知り合いが、次々とフェイスブックに登録し始めてました。「フェイスブックって、楽しい!」という人の多くは、フレンドという限られたコミュニティーの中で「すぐ反応がある!」(「いいね!」や「コメント」)ということを挙げます。確かに・・・ブログのコメント欄に書き込んだり、ツイッターでコメント付きRTで返信するよりも「いいね!」の方が、敷居が低いかもしれません。何よりも、自分の投稿に対して誰か共感してくれることは、単純に嬉しいものです。ただ「いいね!」の”お返し”をした方が良いのかなぁ・・・という妙な義理も感じることもあったりします。

フレンドといってもビジネスにで関わっている人など、多少なりともリアルの世界での”ちから関係”があったりすると、「いいね!」をクリックするのが礼儀のようになんてしまうものです。お互いに等しくフェイスブックから恩恵を受けているという心理があってこそ「ソーシャル・ネットワーキング」の「ギブ・アンド・テイク」は成り立つと思うのですが・・・それを、わざわざ他者から見えるところでするのって「仲良しごっこ」のような感じがしてしまいます。また、ウォール上で、自分のビジネスの”告知”(宣伝)ばかり”という人もいて・・・「フレンド」=「クライアント(顧客)」ではないんだから、やり過ぎるとウザかったりします。。

今では、すっかり「フェイスブック疲れ」してしまったアメリカの友人が言うのは・・・当初は、親しい友人だけだったのが、フェイスブックが広まったことで、仕事の関係の人から、恋人(いずれ元恋人?)や、家族/親戚まで、フレンド登録が広がってしてしまったことで、オープンにする交友関係まで公開することになって”煩わしさ”を感じてしまうということ。確かに、ボクも、普段会う(会える)友人と、”あえて”フェイスブックって必要なのでしょうか?ただ、リアルに知っている人からフレンドリクエストが送られてきて、それを「無視」「拒否」することというのは、なかなか難しいものです。

知る必要のない友人の行動をフェイスブックで知って、不愉快になるってことも多々あったりします。アメリカの女友達には、気になる男友達がいたらしいのですが、いつしか彼女の友人でもある女性がその男性と付き合い始めたそうなのです。勿論、3人ともフェイスブックではフレンズ同士・・・そのうち、二人がデートに出掛けたときの画像などをアップし始めたのだから、彼女は相当凹んでしまったそうです。彼らのウォールを非表示に、「即」設定したことは言うまでもありません。別に恋愛関係だけでなく、友達同士だって、家族同士だって、知らなくて良いこともあるわけだし、仕事関係の人ならなおさらのこと・・・繋がることが必要なとき”だけ”繋がれば良いのかもしれません。

元々、フェイスブックをボクに紹介した”ある人”には、不愉快な思いをさせられました。出会いはラブラブで盛り上がっていたのですが、すぐに冷めて(笑)フツーの友達になったのですが、実はその彼・・・当初はボクも知らなかったのですが、ネットで”男漁り”を盛んにしている人で、次から次に彼と一度はエッチをしたことあるという人が現れる次第・・・おそらく、彼はフェイスブックのフレンドリストや、ウォールのアクティビティを、ボクには見せたくなかったのでしょう。ある時、彼が、忽然としてフレンドリストから、消えていることに気付きました。フェイスブック上で検索しても存在しないことになっているので、ボクのことを「ブロック」したようです。リアルでも疎遠になりつつあった間柄ではありましたが・・・あえて「ブロック」という形で「絶縁」を一方的に下されるのは、リアルで口喧嘩などして絶交されるよりも”不愉快”に感じさせられました。

フェイスブックは、基本的にリアルな人間関係の延長上にあるわけで・・・そこにある”マイナス”は、フェイスブックの問題ではないのかもしれません。不愉快なことを目の前に突きつけられられたり、前触れや説明もなく一方的に縁を切られたり・・・「フェイスブック疲れ」とは、すなわち「人間関係疲れ」なような気もします。

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2012/03/28

ニコラス・ウィンディング・レフン監督による”暴力”と”信仰”の前衛フィルム・・・北欧神話的世界観のSFファンタジーの中でのメタファーとしての”キリスト”~「ヴァルハラ・ライジング/Valhalla Rising」~



「ドライヴ」効果なのか、ニコラス・ウィンディング・レフン監督の過去の作品が日本で公開される気配です。

「ヴァルハラ・ライジング」は、北欧神話的なヴァイキング風の戦士を描いているのですが・・・血湧き肉躍る史劇を期待すると裏切られてしまうような映画です。どうちらかというと、北欧尾神話的世界観のSFファンタジーのような感じと言っても良いかもしれません。寓話的な物語からピエル・パオロ・パゾリーニ監督を、壮大なスケールからヴェルナー・ヘルツォーク監督を、幻想的で映像表現からラース・フォン・トリアー監督を連想されられる一作でもあります。

血や肉は飛び散りまくりで、相変わらずニコラス・ウィンディング・レフン監督らしい残酷な暴力描写には手加減はありません。スプラッター映画以上のグロテスクな描写と、ブルーグレーを基調としたスケール感のある美しい風景との対比・・・より殺伐とした雰囲気を感じさせます。時折、フラッシュバックのように映される主人公の幻覚(?)は、赤をベースにした凝った映像美です。また、音楽は限定的にしか使われず・・・風の吹き荒れる音、骨が砕ける音、肉片が切り裂かれる音、血が噴き出す音などの効果音だけが響きます。物語を追うにしても・・・登場人物それぞれの立場や背景というのは、少ない会話や服装から推測するしかないという「前衛フィルム」のようでもあるのです。

舞台は11世紀あたり・・・主人公は口のきけない戦士で、ケルト風部族のグループの奴隷という身です。彼からは”One-Eye/ワンアイ"(マッツ・ミルケセン)と呼ばれています。鎖に繋がれたまま、他の捕虜らと殺し合いをさせられるのですが、圧倒的に強い”ワンアイ”は、鎖で相手を首を絞めたり、頭をぶち割って脳みそを飛び散らせるほど、残忍でもあります。普段は檻に閉じ込められていて、世話をするのは別な部族の奴隷の少年(マールテン・スティーヴンソン)です。

ある日の移動中、”ワンアイ”は、グループ全員を皆殺しにして脱走をします。岩に縛りつけた敵の腹を槍の先で切り裂き、内蔵を引きずり出したり・・・敵のリーダーの男の生首を晒して復讐をするのです。彼の世話係だった奴隷の少年は、黙って彼について行動を共にすることになります。しばらくして二人が遭遇したのは、キリスト教を信仰するヴァイキングのグループ・・・彼らは”先住民”らしいインディアン風のグループ(キリスト教徒からすると異教徒)の男たちを皆殺しにして焼却し、女たちは裸にして放置したりしているという”ひとでなし”。彼らは、聖地(エルサレム)へ行って金と土地を手に入れることを計画していて、”ワンアイ”に同行するように誘うのです。

ヴァイキングのグループと”ワンアイ”と少年は、船に乗って旅立つのですが、濃い霧に巻き込まれて、動けなくなってしまいます。「こいつの呪いだ」と、奴隷の少年を殺そうとするヴァイキングの戦士を、”ワンアイ”は、少年を庇って殺してしまいます。しばらくして、船は再び浮かび、森の中の川を進んでいきます。霧が晴れると、インディアン風の部族が埋葬した死体が置かれている土地へと辿り着いてしまいます。彼らはここを、神の征服した土地(約束の土地?)として十字架を立てるのですが・・・一人の戦士が忽然と姿を消してしまいます。

ここからエンディングのネタバレを含みます。

再び船で上流を目指すと、いきなり弓矢で攻撃され、また一人殺されてしまいます。見知らぬ場所で、次第に狂っていくヴァイキングのグループ・・・もしかして”ワンアイ”によって地獄に連れてこられてしまったのではないかと、仲間割れが起り皆殺しとなってしまうのであります。”ワンアイ”と少年は、対岸へ逃れるのですが・・・そこにはインディアン風のグループの戦士たちが待ち構えており、”ワンアイ”は、まるでそうなることを予期していたように(?)されるがままに殴り殺されるのです。少年は殺されはしませんが、その後、どうなるかは分からないまま映画は終わります。

”ワンアイ”は・・・先住民たちへ自らの身を捧げて贖罪を背負うという、ある意味”キリスト”のような存在なのでしょうか?宗教の名に於いて、世俗にまみれたキリスト教徒を名の乗るヴァイキングたちは皆滅び、”ワンアイ”を献身的に信じる奴隷の少年だけが最終的に生き残る・・・どこかしら”信仰”の意味を問いているような気がしました。

「ヴァルハラ・ライジング」
原題/Valhalla Rising
2009年/デンマーク、イギリス
監督 : ニコラス・ウィンディング・レフン
出演 : マッツ・ミケルセン、マールテン・スティーヴンソン
2012年4月7日よりヒューマントラストシネマ渋谷にて公開

ニコラス・ウィンディング・レフン監督次回作の「Only God Forgives」は再びライアン・ゴズリング主演でタイを舞台にした復讐劇だそうです。待ちきれません!





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2012/03/20

アラフォー”負け美女”は最後まで改心しないの!・・・いつまでも”女子”気分のオバさんには他人事じゃない「痛~い映画」~「ヤング≒アダルト/Young Adult」~



歳を取っても少年や少女の心を忘れない・・・というのを「若さの証明」かの如く”美化”しがちだけど、もしかすると最近の問題は、いくつになっても自称「女子」のオバさんや、精神的に「お子様」なオジさんが増えてきていることかもしれません。「年相応」というのは、保守的なステレオタイプに縛られて個人の自由な生き方を尊重してないように考えがちだけど・・・今の世の中だと、逆に「年相応」に生きる方が(特に経済的、社会的に)難しかったりします。また、子を持つ親になっても自分のために生きることを優先するのが当然(?)のようになっているので、年相応という考え方自体が意味をなくしているのかもしれません。

「ヤング≒アダルト」は、高校時代にモテモテだった栄光の過去の忘れられない女性のお話・・・アメリカでは”ヤングアダルト”と分類されるティーン向け小説のゴーストライターで生計を立ている離婚歴のある37歳(俗にいうアラフォー女子?)のメイビス(シャーリーズ・セロン)は、ミネアポリス(なんとも中途半端なミネソタ州の都市)で一人暮らしをしいています。プロムクィーンとして君臨した過去をもつ美人・・・でも、彼女の日常生活は笑えるほど荒んでいます。愛犬ドルチェ(ポメラニアン!)は自分勝手に都合の良いときだけ可愛がっているし、アルコールに溺れて男を連れ込んだり、リアリティTV番組をつけっぱなしのまま、毎晩ベットに倒れ込んでいるような日々。朝目覚めれば、ヌーブラ装着しっぱなし、コーラ2リットルがぶ飲み・・・と、あっぱれな”だらしない女”のであります。

そんなメイビスの元に、ミネソタ州マーキュリーという魚臭い田舎町という故郷で結婚した元カレ・バディ(パトリック・ウィルソン)から届いた「出産報告」メール・・・「一体何をしたいの!」と怒り狂うものの、元カレは故郷の田舎町で囚われの身で不幸に違いないと思い込んで、既婚者の元カレを奪うという作戦に出てしまいます。勝手に相手の状況を決めつけてしまうところが、さすがの女王キャラの勘違いっぷりではありますが・・・正直、理解しがたいメイビスの行動の悲しい理由は、後に明らかとなります。

メイビスは、高校時代にゲイの疑いをかけられて、歩行が不自由になってしまうほど暴行を受けた小太りのオタクのマット(パットン・オズワルド)と、偶然にローカルバーで再会します。高校時代にはまったく接点のなかった二人ですが、過去の記憶に囚われているという意味では「光」と「影」の二人だからこそ、意気投合・・・メイビスはマットだけには心を開いて、バディ略奪作戦を話をしたりします。また、メイビスに散々振り回されながらも、彼女のことを思って冷静に忠告してくれるのは、マットひとりだけ・・・彼の言葉は、まさに観客の声であり、メイビスの正気の声でもあるのかもしれません。

バディの奥さん・ベス(エリザベス・リーサー)は、地元の女友達とバンドを組んだりしているクールな女性・・・その普通に素敵な感じが、逆に目障りという絶妙なキャスティングと演技であります。バディの優柔不断な態度により、メイビスの妄想は暴走気味になっていきます。父親になった喜びを語るバディの言葉を「実はバディはベスとの結婚に不満を持っているに違いない!」とか、別れ際の軽いキスを「彼が遂に決心した!」と勝手に解釈して・・・メイビスの振る舞いはドンドンおかしなことになっていきます。そして、バディから子供の命名式に招待されたことを、遂にバディは一緒に町を出ることを決心したとメイビスは思い込んでしまうのです。意気揚々と出掛けるメイビスには、かなり痛い修羅場が待ち構えていることは言うまでもありません。。

メイビスの行動は、視点を変えれば”サイコホラー”のようです。ただ、高校時代に限らず、自分が輝いていた過去を引きずってしまうことというのは、時にありがちなこと・・・意識的にしろ、無意識にしろ、ノリノリだった時代に聞いていた音楽でテンションを上げたり、イケていた時に着ていたファションからいつまで経っても卒業できなかったりするものです。実家でバディが高校時代に着ていたトレーナーを見つけて、羽織ってフラフラと町に出掛ける姿は痛々しくもあり、可愛くも見えたりします。いつまでも”女子”気分のオバさんには、他人事として笑うに笑えないはずです。

ここからネタバレを含みます。

命名式に現れたエイビスはバディをベットルームに連れ込み、満を持して告白をするのですが・・・勿論、あっさりと振られてしまいます。実はメイビスを招待したのは、エイビスの精神状態を心配していたベスであったことも判明します。とうとうメイビスは、命名式に集まったゲストの前でぶちキレます。実はエイビスとバディが付き合っていた20歳の時、バディの子供を妊娠していたのですが、流産してしまっていたのでした。メイビスにとっては、バディの子供の命名式には、本来、自分がいるはずだったという思いが強くあったということなのです。この事実によって、過去から卒業できないアラフォー女子の物語は、メイビスという女性独自の物語になってしまいました。

ボロボロになったメイビスが訪ねたのはマット・・・なんと、ふたりは肉体的に結ばれてしまうのであります!マットにとってメイビスは永遠の高嶺の花・・・ある意味、本作はマットとメイビスの不釣り合いな二人のラブストーリーになっていたのでした!ただ、現実はそれほど甘いものではありません。翌朝、メイビスが目覚めると我に帰って、マットとはそれっきりなのですから。

「私にはいろいろと問題がある。他の人にとってシンプルなのに、私にとって幸せになるハードルが高い。私は変わらないといけない」と、大事なことに気付きはじめたメイビスの言葉に、水を差すのはマットの妹・サンドラ(コレット・ウルフ)です。

メイビスに憧れ続けてきたサンドラにとって、メイビスは今でも輝いている存在・・・「田舎町の人なんて、デブでバカばかり、みんなあなたに憧れている」と、メイビスの自尊心をくすぐります。売れない小説のゴーストライターでしかないメイビスも、サンドラからすれば、まだまだ”特別なひと”・・・なんたって、これほどの美人の上に、都会で本を書いているのですから!田舎者なんて、そもそも存在している意味もないから、ちょっとしたことで幸せを感じているだけだと彼女は語ります。それに対して、メイビスは「あ、そっか〜。私って、このまんまで全然良いんじゃん!」と、ケロッと立ち直ってしまうのであります!!!

田舎から都会に出てきた人の中には、都会での生活こそが「幸福」と「成功」で、田舎で生活するなんて「不幸」で「負け組」だと考えている人って少なからずいるものです。また、都会に憧れながら田舎に住んでいる人にとって、田舎で幸せに暮らしているのは「田舎者」とバカにしがちです。ただ、都会の人からすると、どちらも「田舎者」には変わりありません。それに、都会に憧れている田舎者よりも、素朴な田舎の人の方が好感が、都会人には持てたりします。ただ、最近、日本では”地元大好き”という「田舎者」が増えてきたみたいで・・・都会への憧れというのは、昔ほどではなくなってきているのかもしれませんが・・・。

東京出身のボクですが・・・1980年代初頭に東京からニューヨークへ移り住むというのは、地方から東京に出てくるという感覚に近かったような気がします。まだまだ、アメリカ崇拝が残っていた時代ということもあって、現実は厳しい生活をしているのも関わらず、ニューヨークに住んでいる”だけ”で、日本からはスゴいことのように思われがちだった気がします。

さて・・・今までの自分の人生を反省して、発想を転換させるチャンスを逃したメイビスは「田舎なんてクソ食らえ!」と、再びミネアポリスへと戻っていきます。一緒にミネアポリスに連れて帰って欲しいと頼むサンドラのことなんて、メイビス眼中にありません。サンドラには、あっさりと「あなたはここに残るべき」と冷たく突き放します。「田舎の生活」=「シンプルな幸せ」というが、誰にでも当てはまるわけではありませんが、「都会の生活」=「人生の成功者」というわけでもありません。それでも、メイビスは都会の価値観へと戻っていきます・・・というか、彼女には戻るしか選択はないのです。

ある意味、メイビスは人生の新しいチャプターへは進んだのかもしれないけど・・・結局、それほど改心もせず、成長もせず映画は終わります。普通、映画の主人公って、最後には何かしら成長するものなのですが・・・人間って、そう簡単に何かを学んだりしないものなのだということを描いた本作は、まさにジェイソン・ライトマン監督の真骨頂と言えるのであります!



「ヤング≒アダルト」
原題/Young Adult
2011年/アメリカ
監督 : ジェイソン・ライトマン
脚本 : ディアブロ・コディ
出演 : シャーリーズ・セロン、パットン・オズワルド、パトリック・ウィルソン、エリザベス・リーサー、コレット・ウルフ



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2012/03/17

ポジティブ信仰が正しい世の中だからこそネガティブ思考から幸福になれるの!~「絶望名人カフカの人生論」フランツ・カフカ著/頭木弘樹編集・翻訳~



ボクが20代の頃(1980年代)には「ネクラ」とか「ビョーキ」とか、ネガティブな嗜好が一部では流行って(?)おりました。今、思い返せば、世界的にもバブル経済の好景気だった、あの頃・・・ネガティブになるという「遊び」を若者が余裕でできるほど「豊かな時代」であったということなのかもしれません。バブルの弾けてから慢性の不況の時代になってしまうと、思考だけでもポジティブになろうとするものなのでしょうか?

「追い続ければ夢は叶う」「思いはいつか伝わる」というようなポジティブ信仰は、さまざまなメディアから垂れ流しにされております。ここのところ増えているのが、いわゆる夢を叶えたアーティストとが熱い思いで語るというヤツ・・・「夢を持つ事」「思いを伝えようとする事」を否定するつもりはないけど、ファンに向かって語ってしまうというマスターベーション的パフォーマンス。これって、自分はただ運が良かったわけでなく、それなりの努力して夢を叶えたんだって訴えているようにも受け取れてしまいます。ポジティブ信仰の言葉は間違っているわけではないけど・・・良くも悪くも誰にでも当てはまる繰り返し語られてきた凡庸な言葉だから深みはなく、一時しのぎの自己暗示としてはパワーを得る有効な手段なのかもしれません。

「勝ち組、負け組」という格差社会が日本でもリアルになってくると、うまいことやって”ひと山”当てたいなんて”生臭い”夢になりがち。「夢を叶える」ための努力と言えば・・・第一人者的には全面的に正しい行為ではありますが、目的のためには他人を利用したり、踏み台にすることにも、鈍感になってしまうことだってあります。第三者的には自己チューになってしまった自分のことを、ポジティブ信仰によって無意識に肯定してしまうこともありがちのような気がします。

「絶望名人カフカの人生論」は、日本人のカフカの研究家の黒木弘樹氏が、カフカの残した手紙や手記からネガティブな人生観を表す文章を引用した本であります。

ボクは学生時代に「変身」を読んだくらいで、作家のカフカがどういう人で、どういう人生を歩んだのか、知りませんでした。彼は生前に作家として認められることがなかっただけでなく、プライベートライフも自分が望んだように生きられませんでした。仕事が嫌でも生きるためにサラリーマンを辞められず、何度か婚約するにも関わらず生涯独身で、家族と仲が悪くて理解されていませんでしたし、行き詰まって長編小説を書き上げることもなく、カラダが弱くて病気がちで40歳という若さで亡くなっているのです。まったくもって人生に前向きでなく、弱音を吐き続けたカフカの究極のネガティブな言葉は、絶望した者が実感した、具体的で、新鮮な発想に触れることができるのです。

将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。
将来にむかってつまずくこと、これはできます。
いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。

カフカが婚約者であった女性に送った手紙からの引用だそうです。前に進むことが、つまずくことにしか思えない時というのは、人生の中で起こることがあります。そんな時には、前にも後ろにも動けななくて、倒れてしまいそうになるものです。それならば倒れたままでいることを、素直に受け入れてしまうというのは・・・本来の意味での「ポジティブ・シンキング」であるのかもしれません。

幸福になるための、完璧な方法がひとつだけある。
それは、
自己のなかにある確固たるものを信じ、
しかもそれを磨くための努力をしないことである。

これは・・・恐ろしく深く重い言葉です。自分に才能があると信じて努力をしなければ、成功しなくても「努力しなかったから」という言い訳をして傷つかなく済むし、万が一成功した場合には「努力もしないかったのにスゴイ才能だ」と自負できるという・・・いずれでも自尊心は守られるというパラドックス。無意識にやってしまいがちの、自分に都合の良い「逃げ」の心理を、ここまで厳しく指摘できるのは、カフカ自身が「努力しない自分」とも正直に向き合ったからこそでしょう。

カフカ自身だけでなく、周りの人たちにとっても、この上なく面倒くさいほどネガティブであったカフカですが、彼には彼の才能を高く評価した親友がおりました。生前に出版された短編集も、死後になってカフカの作品のすべてが出版されたのは、親友のマックス・ブロートという作家の力添えのおかげだったのです。皮肉なことに、マックス・ブロートは当時、人気作家として大変成功していたそうですが・・・現在では彼は作家としてよりも、カフカを世に出した人として歴史に名を残したに過ぎません。

君は君の不幸の中で幸福なのだ。

マックス・ブロートがカフカに送った手紙の中で書いたという言葉です。絶望から逃れないで、ネガティブな自分を100%受け入れられることは、実は幸福なことかもしれません。そこにはポジティブ信仰ばかりしていては、見逃してしまう真理があるのですから・・・その真理がいかに辛辣であっても、自分なりに真理を知ることができるというのは、やはり幸福である瞬間であるはずなのです!



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2012/03/12

アース・ウィンド&ファイアーのコロンビア全15アルバム復刻盤をドドーンと大人買いっ!・・・踊らずにはいられなくなるのと同時に何故か涙が止まらない~EARTH, WIND & FIRE COLUMBIA YEARS~



ボクが若かりし頃(1970年代後半)アイドルにそれほど夢中になったわけでもなく、といって海外アーティストを聞き込んでいたわけでもなく・・・音楽に関しての興味は「普通の高校生」でありました。都内の私立高校ということもあってか、同級生の一部にはディスコ通いをするような、おしゃれな”不良”(もう死語か?)もいたけれど・・・中学まで横浜市内公立中学に通っていたボクにとっては、ディスコは、とんでもなく怖い世界のように感じてしました。

しかし、高校生活も1年ほどして、六本木に住んでいた一番仲の良かった友人宅に泊まりがけで遊びに行くようになると・・・夜な夜な六本木界隈をうろつくことも経験しました。青山通り沿いにあった「吉野家」で500円(高!)の牛丼食ったり、「カーシャ・マミ」というロシア料理店の常連になって生意気にもボトルキープしたり・・・そんなタワイもないことをしているだけでも16歳の少年にとっては、十分、大人の仲間入りをした気分でした。

そのうち、六本木にも免疫ができて、瀬里奈の前にあった10階建てのディスコビル(スクエアビル)にも足を踏み入れるようになったのです。今では、どの店に行ったことのがあるのかさえ覚えていませんが、当時のボクはまだ16歳の未成年・・・それでも、平然とディスコに入場して、飲酒、喫煙できてしまったのは、ボクの見た目が老けていて、20代半ばぐらいだったからです。

入場料は、男性は3000円、女性は2000円ぐらいだったという覚えがあります。3000円というのは当時のボクにとっては大金だったので、できるだけ元を取ろうという気持ちがありました。その頃のディスコは、バイキング形式で食事ができるシステムだったので、海外から連れてこられた貧しいモデル達と奪い合うように(!?)飲んだり食ったりしていたのであります。そして・・・ナンパなんかには一切興味のないボクは、食べたり飲んだりする以外は、ひたすら踊りまくっていました。

当時、よく踊っていたのがアース・ウィンド&ファイアーの曲でした。海外の音楽には疎かったボクは、アース・ウィンド&ファイアーがどんなグループかは分かっていなかったけど、知識はなくても、アース・ウィンド&ファイアーの曲がかかると、自然に体が動いて踊っていたものでした。中でもボクのお気に入りは「セプテンバー」・・・イントロを聞くと無意識にダンスフロアに移動してしまったものです。当時はプロモーションビデオというのは滅多に製作されていなかったのですが・・・アース・ウィンド&ファイアーのレザービームと使用したサイケデリックなビデオクリップや、古代文明とスペースファンタジーを融合したようなビジュアル/ファッションも、とっても衝撃的でした。

1980年代にニューヨークに移ってからは、何度かマジソンスクウェアガーデンでのコンサートにも足を運びました。スモークやレザーを使用したステージは幻想的・・・ボクだけでなく、白人、黒人、人種に関係なく、曲に合わせて踊る様子は。この世の光景とは思えない、ある種の宗教儀式のようでした。ディスコ・ミュージックの衰退と共に、世間的にはアース・ウィンド&ファイアーは過去のグループという扱いになっていきましたが・・・ボクが人生で一番盛んに夜遊びをしていた1980年代後半には、ニューヨークの一部のナイトクラブ(特にゲイクラブ)で、すでにディスコのリバイバルがあったので、ボクにとっては「ダンス・ミュージック」=「アース・ウィンド&ファイアー」というのは、ずっと変わることはない印象なのです。

先日(2012年3月7日)にアース・ウィンド&ファイアーのデビュー40周年を記念して再発売されたのは、コロンビア時代の全15アルバムをリマスタリングのBlu-Spec CDで、紙ジャケットを再現した完全生産限定盤。メーカーの思惑に完全に乗せられているのは分かっていても、結局のところ、大人買いしてしまう”おじさん”なので・・・勿論15枚全部お買い上げ~。レコードジャケットの質感(特に折り目の部分)から、ライナーシート、レコードスリーブ(肩癖な再現過ぎて文字の解読は不可能!?)、帯までを完璧に再現しているのは、さすが日本企画による日本生産!・・・「大人買いに悔いなし」の素晴らしい仕様です。

コロンビア所属時代のオリジナルアルバムのすべてを聴くのは初めてのこと・・・正直、初めて聴く曲もあったのですが、ボクの前世は「メンバーの一人ではなかったのか?」と思えてしまうほど、サウンドに”郷愁”を感じました。1970年代後半の絶世期を含む1972年から1990年までのアルバムを一気に聴いてみると、リアルタイムの時代性を超えて「アース・ウィンド&ファイアー」という音楽のジャンルのように感じてしまいます。特に「太陽神」(1977年)から「天空の女神」(1981年)は圧巻!リードボーカルを勤めるモーリス.ホワイトとフィリップ・ベイリーの歌声には、どこかしら「憂い」も含んでいて・・・踊らずにはいなられなくなると同時に、何故かボクは涙がポロポロと出てきて止まらなくなってしまうのであります。

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2012/03/07

東映エログロ路線末期のハチャメチャな悪趣味っぷり!・・・牧野雄二監督の幻のオカルトポルノが遂にDVD化~「女獄門帖 引き裂かれた尼僧」~



ブルーレイディスクが普及してきたと思ったら、何故かいろんなメーカーからはDVD化されていなかった作品が続々とDVDで発売されております。どうせならばブレーレイで発売すればいいのに・・・とは思いますが、DVDなら安価で生産できるためか、メーカーは最後にひと儲けというつもりなのかもしれません。

ラピュタ阿佐ヶ谷などで特集上映はされてきたものの、なかなか観れる機会のなかった牧口雄二監督のカルト作品が、遂に先日(2012年2月21日)DVD化されました。

牧口雄二監督は、石井輝男監督の異常性愛路線の流れを汲む「エロ」「グロ」「ポルノ」の”添え物映画”を任されていた職人監督。ただ、監督としてデビューした時期が、とっくに東映全盛期を過ぎてからということもあってか、低予算でのキワモノ勝負・・・東映の映画館で公開はされている(18禁の成人映画)とはいっても、群を抜いた悪趣味の作品ばかりという、特異な”作家性”が、飛び抜けています。

遊女に性技を仕込む”玉割り人”のゆきの悲恋と女の業をしっとりと描いたデビュー作の「玉割り人ゆき」(1975年)とその続編「玉割り人ゆき 西の廊夕月楼」(1976年)や、和製「俺たちに明日はない」的な青春ドラマ「毒婦お伝と首斬り浅」(1977年)などは、当時から評価が高かったようですが・・・カルト作品として今日語れることが多いのは、愚作と評されていた「戦後猟奇犯罪史」「徳川女刑罰絵巻 牛裂きの刑」「女獄門帖 引き裂かれた尼僧」であります。

その中でも公開後に30分の短縮版のVHSが発売されたっきり・・・日本カルト映画全集としてシナリオが出版されていたものの、東映チャンネルで放映されることがなく、世界のどこの国でもメディア化されていなかった「女獄門帖 引き裂かれた尼僧」は、滅多のことでは目にすることのできない”幻の作品”として「カルト中のカルト映画」として知る人ぞ知る作品となっていたのでした。

年期が明けたと思っていた女郎の”おみの”(田島はるか)は、弥多八(汐路章)と亀(佐藤蛾次郎)に土蔵に連れ込まれて犯されてしまいます。おみのが鞍替えさせられる品川の女郎屋は地獄のようらしい・・・そこで、客の沢吉(小林稔侍!)の足抜けを手伝わせて、3年経てば現世の縁切りができるという山奥の駆け込み寺「愁月院」を目指して逃げることになるのです。勿論、沢吉は追っ手に捕まり、一人になったおみのは道中、浮浪者の男たちにいたぶられて、犯されまくられます。

ここからネタバレとグロテクスな表現含みます。

なんとか愁月院に辿り着いた”おみの”は、庵主の桂秀尼(折口亜矢)に助けられるのですが・・・この尼寺こそ、足を踏み入れた男を生きては返さない、男を憎む食人レズ尼さんたちの巣窟だったのです!アヘンに陶酔する庵主、派手な化粧の”おかじ”(ひろみ麻耶)と”おつな”(芹田かおり)はレズに耽り、年増の”おとく”(藤ひろ子)は人肉鍋に舌鼓を打つ・・・そして、すべての奇行を淡々を見つめている口を利かない少女の”お小夜”(佐藤美鈴)という女達。そして、白塗りの寺男(志賀勝)は、寺の裏で生け贄となった男の死体をさばいて調理しながら、その人肉を食らう・・・志賀勝は毎度ながらの怪演を見せてくれています。


娘と駆け落ちしてきた若者も、”おみの”を追ってきた浮浪者の男も弥多八と亀も、代官所からの隠密(成瀬正)も、すべての男たちは拷問され殺されていきます。中でも隠密は、首を切り落とされた胴体だけが血だらけでピクピク・・・驚いた”おみの”が水を飲もうとして水桶を中を覗くと生首があるというグロテスクな描写となっています。ただ、こてこてのゴアシーンは、この場面ぐらい・・・全編に渡る気味の悪いナンセンスさが、本作の真骨頂かもしれません。


愁月院の正体を知った”おみの”は・・・”おつな”の猫を惨殺して、”おかじ”に罪をなすりつけ、二人殺し合うように仕向けます。さらに本堂に火を放って”おとく”を殺し、庵主と死闘を繰り広げます。しかし、”お小夜”に植木ハサミで突かれて、”おみの”も殺されてしまうのです。燃えさかる炎を見つめながら、”お小夜”は、庵主(実は”お小夜”の母親だった!)を強姦した男を殺したことを思い返しながら・・・初潮を迎えます。血が足を滴るという何とも悪趣味なロリコンしか喜ばないような演出!最後は、ひとり田舎へ帰る”お小夜”が雪の中を歩く姿で映画は終わるのですが・・・センチメンタルな音楽が、なんとも気色悪いのであります。


エロといっても、エッチなシーンのある女優さんは貧乳ばかり・・・唯一のグラマーなのが年増の”おとく”となのだから「ポルノとして成立しているのか?」という素朴な疑問も感じてしてしまいます。訳がわからないのが、”おとく”の母乳を無理矢理飲まされた亀(佐藤蛾次郎)が死んでしまうところ・・・人肉を食う女の母乳には毒が入っているとでもいうのでしょうか?このあたりは、エロとか、グロより・・・笑うに笑えないギャグという感じ。そう言えば・・・30年ほど前ニューヨークのナイトクラブで、ストリップパフォーマンスを見たことあるのですが、観客に母乳を浴びせかけるというキワモノ芸でした。ボクは母乳から逃れようとして、ギャーギャー叫びまくり、マジ気が狂いそうになったこと思い出しました。


「女獄門帖 引き裂かれた尼僧」というタイトルではありますが、尼僧は最後まで”引き裂かれる”ことはありません。(物理的にも、精神的にも)・・・ただ、当時の男性目線によって妄想された「男を憎むレズの尼さん」という差別的な世界観に貫かれた「東映エログロ路線」末期の、行き着くところまで行ってしまった感のある「超怪作」であることは間違いありません。アルゼンチンの殺人映画「スナッフ」を意識したのが「徳川女刑罰絵巻 牛裂きの刑」であるなら、本作「女獄門帖 引き裂かれた尼僧」はトビー・フパー監督の「悪魔のいけにえ」というところでしょうか?

いずれにしても、観る機会がなかったが故に「幻のカルト映画」となっていた本作は、多くの人が目にすることで、本来の「悪趣味な愚作」という”愛のある悪評”を下されるような気がするのです。

「女獄門帖 引き裂かれた尼僧」
1977年/日本
監督 : 牧口雄二
出演 : 田島はるか、折口亜矢、ひろみ麻耶、芹田かおり、藤ひろ子、佐藤美鈴、成瀬正、小林稔侍、志賀勝、汐路章、佐藤蛾次郎



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2012/02/29

祝・アカデミー脚本賞受賞!・・・ノスタルジックでロマンチックなファンタジーと人生の皮肉を紡いだ”ウディ・アレン”の職人技~「ミッドナイト・イン・パリ」~



先日(2012年2月27日)行なわれた第84回アカデミー賞授賞発表授賞式・・・作品賞など主要な部門を含む5つのオスカーを獲得したフランスのサイレント映画「アーティスト」や、毎年のようにノミネートされているメリル・ストリープがサッチャー首相のモノマネ演技で、意外にあっさりと3度目の演技賞受賞など、何かと話題があったのだけれど・・・ボクが良い意味でサプライズしたのが、ウディ・アレンの3度目のオリジナル脚本賞の受賞です。アカデミー賞ノミネートの常連でありながら、授賞式には出席しないことで有名なウディ・アレンは、「アニー・ホール」(1977年)「ハンナとその姉妹」(1986年)以来の受賞でしたが、勿論、今年も会場には来ていませんでした。

ボク個人的には、1990年代始めに騒動になった公私のパートナーだったミア・ファローの連れ子(スン=イー・プレヴィン)との交際発覚(その後に結婚)以降、道徳的にウディ・アレンを受け入れがたく感じるようになってしまいました。血のつながっていないとは言っても「娘」のような存在であったパートナーの養女(当時21歳)と肉体関係を持つというのは、正直「人として如何なものか?」・・・・それもウディ・アレンは、すでに50代後半。さらに、発覚したきっけけというのが、ミア・ファローが養女のヌード写真をウディ・アレンの部屋から見つけたというのだから、下世話なメロドラマのような陳腐さでありました。そんなわけで・・・ボクは「マンハッタン殺人ミステリー」(1993年)以降は、めっきり彼の作品をリアルタイムで観ることもなくなってしまったのです。

興行的にウディ・アレン作品として最大のヒットとなっている最新作「ミッドナイト・イン・パリ」は、「カイロの紫のバラ」(1985年)や「アリス」(1990年)などの流れを汲むファンタジー路線・・・ひと言で言うと”タイムトラベル”のお話であります。

パリの街を愛情溢れる暖かな色彩で撮影した風景のスライドショーで本作は始まります。ニューヨークを第2の故郷と思うボクには嫉妬さえ感じてしまうほどです。それほど、全編に渡って、ウディ・アレンはパリを魅力的に映しとっています。場面はモネの庭園でパリに移り住むことを夢見ているジル(オーウェン・ウィルソン)と、彼の婚約者イネス(レイチェル・マクアダム)の会話となります。ウディ・アレンの脚本の素晴らしさというのは、この二人の数分の掛け合いだけで、二人の関係性や設定を、明確に説明してしまうところでしょう。相変わらず、入れ替わり立ち替わり登場人物は多いし、その関係性も微妙ではあるのですが・・・画面に登場してひと言ふた言の台詞で、そのキャラクターの人物設定から登場人物達の関係性が手に取るように明らかになってしまうのですから、これって凄いことです。

ジルはハリウッド映画のスクリプトの仕事で成功を収めているもものの、小説家としてひと旗揚げようと考えています。イネスの両親(カート・フューラー、ミミ・ケネディ)のビジネストリップに便乗して、イネスと共にパリに滞在して、すっかりパリの魅力に取り憑かれて、結婚後は二人で移り住むことを夢み始めてします。イネスの元カレのポール(マイケル・シーン)と彼の妻キャロル(ニナ・アリアンダ)と偶然パリで合流して、イネスはすっかり彼らと意気投合・・・取り残されたジルは、骨董屋で若いアルバイトの女の子と知り合ったり、真夜中フラフラとパリの街を散歩するようになります。

そんな、ある真夜中・・・ジルは1920年代のパリの街角にタイムトリップしてしまうのです。まぁ、難しい理屈はさておいて・・・F・スコット・フィッツジェラルドと妻のゼルダ(アリソン・ピル)と知り合いになり、ジルが崇拝するさまざまな芸術家たち・・・ガートルード・スタイン(キャシー・ベイツ)、アーネスト・ヘミングウェイ、T・S・エリオット、コール・ポーター、パブロ・ピカソ、ヘンリ・マチス、マン・レイ、ルイス・ブニュエル、サルバドール・ダリ(エイドリアン・ブロンディ)らと夜な夜な交流することになるのです。モディリアーニやピカソのミューズ(愛人)であったエイドリアーナ(マリオン・コティラード)には恋心を抱き合うよになり・・・現実の婚約者であるイネスとは、ますますギクシャクした関係になっていってしまいます。

ジルが1920年代のパリに憧れを抱くように、エイドリアーナはベル・エポックの時代(19世紀末期)に強い憧れを抱いています。そして、二人がデート中、1920年代から19世紀へとさらにタイムトリップしてしまうのです。現代のジルからすると、パリの黄金期は1920年代・・・おかしなもので、その1920年代に生きるエイドリアーナにとってのパリの黄金期は19世紀末期のベル・エポック時代というのは・・・「人は自らが経験することのなかった、ちょっとだけ過去の時代に憧れるものだ」ということでしょう。これはファッションでは常に繰り返されていることで・・・1980年代初頭、若者であった僕らの世代はアールデコのインテリアや、フィフティーズのファッションに憧れ、1990年代以降は1960年代、1970年代を振り返り、数年前からは1980年代がおしゃれに見える・・・若い世代は常に自分たちが生まれるちょっと前の時代に憧れを持つもののようです。

本作は思いもよらない、あっさりとしたエンディングを迎えて終わります。そこには練りに練ったドラマツルギーや、思わず膝を叩いてしまうようなオチよりも・・・「人生なんて、どうなるか分からないさ」という軽やかな人生観も感じられて、観賞後には、何とも言えない”いい気分”になれてしまうのです。


「ミッドナイト・イン・パリ」
原題/MIdnight in Paris
2011年/スペイン、アメリカ
監督&脚本:ウディ・アレン
出演   :オーウェン・ウィルソン、レイチェル・マクアダム、エイドリアン・ブロンディ、キャシー・ベイツ、エイドリアン・ブロンディ、マリオン・コティヤール、マイケル・シーン、カーラ・ブルー二、マリオン・コティラード
2012年5月26日より日本公開



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2012/02/24

ライアン・ゴズリング主演の最高にスタイリッシュな”男の子映画”・・・デヴィット・リンチとスタンリー・キューブリックの遺伝子を引き継ぐニコラス・ウィンディング・レフン監督による”暴力のアート・フィルム”~「ドライヴ/Drive」~



今、最も旬な男優のひとり・・・ライアン・ゴズリング。特に近年の出演作はどれも話題作でもあり、演技も高い評価も受けています。「きみに読む物語」ではロマンティックなリーディンマン、「ラースとその彼女」ではダッチワイフを恋人にしてしまう繊細な青年、「ブルーバレンタイン」では結婚が破綻してくダメ男・・・と、作品を選ぶセンスだけでなく、役柄をリアルに演じ分けています。日本未公開ですが、出世作のひとつの「The Believer/ビリーバー」では、ユダヤ人でありながらネオナチに陶酔してく屈折した若者を異様な気迫で演じていました。また「Half Nelson/ハーフ・ネルソン」では麻薬に溺れる貧民街の教師を演じてアカデミー主演男優賞ノミネートされています。

そんなライアン・ゴズリングの新作のひとつが「ドライヴ」です。主人公が犯罪者を現場から車で逃走させる「プロの逃がし屋」で役名が名前ではなく”ドライバー”という設定だと聞いた時には、1978年のウォルター・ヒル監督、ライアン・オニール主演の「ザ・ドライバー」のリメイク???と思ってしまいましたが・・・本作は、ジェイムズ・サリスというクライム・ミステリー作家による2006年に出版された同名の小説が原作。設定を映画版の「ザ・ドライバー」の影響を受けていることは明らかですが(主人公の名前も経歴も不明で”ドライバー”としか呼ばれない)ストーリーは違う作品でした。

監督のニコラス・ウィンディング・レフンは、コペンハーゲン生まれのデンマーク人・・・子供時代にニューヨークへ暮らし、映画の勉強もアメリカで始めたものの、デンマークに戻り24歳の時に監督した1996年の「プッシャー/Pusher」(その後三部作になる)というバイオレンスな麻薬ディラーを描いた犯罪映画で、デンマーク国内だけでなく世界的に注目を集めます。そして、このデビュー作以来、凄まじい暴力描写の犯罪映画ばかりを撮り続けることになるのです。2作目の「ブリーダー/Bleeder」(1999年)では、映像、キャラクター、音楽がエモーショナルに連動するという、レフン監督独特のスタイルをみることができます。

3作目の「フィア・エックス/Fear X」(2003年)はジョン・タトゥーロ主演のミステリー。妻を殺された警備員が、現実と悪夢を行き来するようなアート・フィルム的な作品で、デヴィット・リンチの一連の作品を彷彿させました。出世作「プッシャー」の続編、続々編を完成後、イギリスで最も凶暴な囚人といわれる”チャールス・ブロンソン”(本名マイケル・ゴードン・ピーターソン)の半生を描いた「ブロンソン/Bronson」(2008年)を政策。スタンリー・キューブリック監督の「時計仕掛けのオレンジ」を思い起こさせる”暴力”と”権力”を対比させた作品でした。

本作「ドライヴ」では、レフン監督独特の照明によるアンビエンスのある”クールな映像”と、ベタな歌詞が場面と連動する”エレクトリック・ポップ”やエモーショナルに盛り上がる”ムード・ミュージック”との融合が、暴力のカタルシスになっていく・・・デヴィット・リンチやスタンリー・キューブリックの”遺伝子”を連想させるのです。

ライアン・ゴズリング演じる”ドライバー”は、家族も友人もいない寡黙で不器用な男(映画内でもあまり台詞がない)・・・昼間は車の修理工場で働いたり、ハリウッドの車のスタントマン稼業をしながら、凄腕のドライビングテクニックを駆使して夜は腕利きの”プロの逃がし屋”稼業もしています。ある日、引っ越したばかりの同じアパートメントビルに暮らすアイリーン(キャリー・マリガン)とエレベーターで出会い、心惹かれてしまいます。ドライブデートを重ね、お互いの気持ちが徐々に寄り合っていくのですが・・・実は、アイリーンには、もうすぐ服役を終えて戻ってくる夫スタンダード(オスカー・アイザック)がいるのです。更正を誓うスタンダードと家族を守ることをアイリーンは決め、”ドライバー”もそんな彼らを影で見守ることとなります。ところが、服役中の用心棒費用を借金していたスタンダードは、闇の組織に強盗をすることを強要されて追い詰められています。そこで、”ドライバー”は愛する女性のムショ帰りの”夫”を救うため、無料で”逃がし屋”をかって出るのです。ううう・・・切ない。

”ドライバー”は、スタンダードと組織からの女ブランチ(クリスティナ・ヘンドリックス)を伴い、町外れの質屋の強盗を決行します。大金が入ったバッグとブランチは問題なく車に戻ってきたのですが、スタンダードは店の前で銃で撃たれて殺されてしまいます。”ドライバー”はブランチと大金をのせたまま逃亡することとなるのです。ところが、テレビのニュースでは大金が盗まれたことは報道されません。コレは罠だったのです。モーテルに潜伏していると、いきなりライフルを持った男達に襲われてしまいます。ブランチは頭をぶち抜かれ即死・・・ここからは、血まみれの自衛と復讐の暴力へと突き進んでいきます!頭部/顔面を破壊する暴力描写が多いのは、レフン監督の真骨頂・・・「ドライヴ」にひとつ前の作品「ヴァルハラ・ライジング/Valhalla RIsing」(2009年)ではスイカ割のように頭部をハンマーでぶっ叩いたていましたし、「ブロンソン/Bronson」でも特に顔面への暴力がしつこく繰り返されていました。

本作で最もロマンチック、かつ、バイオレンスなシーンが、エレベーターのシーンかもしれません。”ドライバー”は大金を持ってアイリーンと一緒に逃げても良いと告白するのですが、彼女は受け入れられません。そんな”まだかまり”を残したまま、”ドラーバー”を殺しにきた殺し屋と、アイリーンと”ドライバー”がエレベーターで鉢合わせしてしまうのです。”ドライバー”はいきなり振り返り、音楽に合わせてスローモーションでアイリーンとキスした直後・・・殺し屋に襲いかかり、靴で頭部がグチャグチャになるまで踏みつけて惨殺しまうのです。”ドライバー”は、これを気に殺人者と化して、アイリーンをトラブルから逃すため、黒幕と戦うことを決意するのです。そして、彼女の前からは姿を消してしまいます。この二人が愛を確かめ合うのは、このエレベーターのキス”だけ”なのです。

不器用な男はあくまでも不器用で、愛のために戦うことしかできません。リアルな暴力描写に対して、叶わぬ男の愛はとことんピュアに描かれる・・・「ドライヴ」は、精一杯、切ない”男の子映画”なのであります。



「ドライヴ」
原題/Drive
2011年/アメリカ
監督 : ニコラス・ウィンディング・レフン
原作 : ジェイムズ・サリス
出演 : ライアン・ゴズリング、キャリー・マリガン、アルバート・ブルックス、オスカー・アイザック、ロン・パールマン、ブライアン・クランストン、クリスティナ・ヘンドリックス
2012年3月31日より日本公開



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2012/02/09

なんだかんだで、やっぱりエログロ趣味の美人日本画家から、目が離せない!・・・自傷系アーティストのしたたかな戦略と矛盾、そして未来~「松井冬子展ー世界中の子と友達になれるー」横浜美術館~



横浜美術館で開催されている「松井冬子展ー世界中の子と友達になれるー」に行ってきました。この「めのおかしブログ」で取り上げる映画の嗜好から、ボクが”松井冬子”が好きなことを推測するのは容易いことだと思います。勿論、彼女の作品そのものが好きということもありますが、梅図かずおのマンガ、もしくは、横溝正史の小説から抜けたしたような濃い(化粧だけでなく存在そのものが!)キャラの方に強く惹かれてしまうのであります。

松井冬子という画家について語る際に、その”美貌”を無視することは出来ません。モデル並みのスレンダーな長身、キリっとした美しい顔だち・・・妙な眼力の強さは、鳥居みゆきに通じる”イチャッテル”系の美人に共通のものを感じさせます。基本的にボクが見たことのある松井冬子は、何らかのメディアに出ているときだから、見られることを意識していて当たり前ではあるのですが・・・常に(それは工房で絵を描いている時さえ!)バッチリと濃い化粧をしているという”気合い”の入り様は「ナルシシズム」を強く感じさせます。ナチュラルさや自然体とは逆で、自分の美しさを最大限の効力を発揮する手管を知り尽くしているようで・・・いい意味で”素人”の匂いを感じられないのです。

女性の髪の長さというのは、その女性がどれだけ「女」を意識しているかを示すところもあると思うのですが・・・松井冬子は長い髪をも戦略的に使い分けているようです。着物のときには、様々なスタイルのアップされているのですが、どの着物姿の写真を見ても彼女の佇まいは、まるで「銀座のママ」・・・記者会見や公の場、または、お偉い先生(美大教授などの男性に限り!)との対談の「これぞ!」という機会には、必ず着物姿というのも、彼女のセルフ・プロデュース戦略なのでしょうか?批評家、画廊、アートコレクター、美大教授などの美術界を動かす”オジ様”が”イチコロ”になるのも納得なのであります。

洋装のときには、名古屋巻だったり、日本人女性らしいロングだったり・・・叶姉妹の美香さんを思わせるような”ゴージャス系”。ファッションモデルとしてイブニングドレスを着たときには、いかにも「お金がかかりそうな女」風なのにも関わらず・・・女性向けの取材や女性問題を扱う大学教授との対談のときには、ポニーテールで比較的お化粧も薄めで、(彼女としては)清楚なイメージにするという”あざとさ”を覗かせているのも素敵です!

「美貌を武器にする、したたかな美人画家」というだけでも、ボクには十分に面白い存在ではあるのですが・・・松井冬子の描く痛みを感じさせるグロテスクな日本画は、彼女の美貌と相まって作品以上の妖気を感じさせてしまうのです。日本画技法を独自で研究/再現して現代アートとして日本画の可能性を切り開いた・・・のかもしれないど、題材としている世界観はサブカル系の不思議ちゃんの好みそうな「エログロ趣味」で、お世辞にも”上品”とは言えない「イロもの」であることは否定できません。容姿に恵まれない女性(失礼!)が、こんな作品ばかりを描いていたら、ただただ恐ろしいだけ・・・女性からの共感も、美術関係の男性の注目も、これほど集めることはなかったでしょう。

松井冬子は、女子美術短期大学を卒業後、四浪までして東京芸術大学に入学しています。当初は油絵専攻だったようですが、後に日本画専攻に変更します。確かに彼女の描く人物が、日本画というより石膏デッサンのような印象も与えるのは、ベースとなっている油絵専攻での基礎があるからでしょうか・・・。ただ、彼女が油絵専攻のままであったら、耽美派の画家やイラストレーターのひとりとして埋もれてしまっていたかもしれません。彼女はインタビューなどで「エッジが効いている」という表現をよく使うのですが、そのような「感性」に依存したクリエーションというのは、自分の「趣味嗜好」の再現ということが多かったりします。「絹本」「薄描き」「裏彩色」などの日本画の伝統的な技法によって、単に「感性」に頼っているのではなく・・・絵の存在そのものにアカデミックな物語性を生み、創造過程に深みを感じさせることにもなっているのです。

美貌は世間の注目を集めますが、同時に、その美貌ゆえ、厳しい目で見られることもあります。それを打ちのめすように、松井冬子は女性としては初めて東京芸術大学の日本画専攻の博士号を取得します。アカデミックな学位を持つことは、誰でも納得する「箔付け」となり・・・「美人だから」という批判の枕言葉を封じることが出来るのですから「あっぱれ」であります。そのような「箔付け」の上塗りというのは、基本的に美人なのに、さらに常にきっちりと化粧する彼女のスタンスと似ているような気がしてしまうのです。それは、彼女の周到な「痛み」の表現にも通じるところがあります。「これでもか〜!」と、くどいほど上塗りして過剰に表現してしまうのは・・・強い性(さが)を感じてしまいます。

虫一匹から髪一本まで、細かに描き込まれた執念の「超絶技巧」は、松井冬子の人としての”几帳面さ”と”真面目さ”を表しているように思います。下絵を何度も描いて絹本に写すというのは、筆入れが一発勝負の日本画としては一般的な行程ではあるのですが・・・構図や対象物の大きさや比率を、まるでコンピューターグラフィックスの過程のように、何度も何度も試行錯誤して作り込んでいく彼女の忍耐力と几帳面さには、ただ敬服するしかありません。「感性」に頼らない真摯さは、まさに「匠の世界」の人であります。また、内蔵などのリアリティを追求するあまり、鼠や子牛を実際に解剖してスケッチをするという生真面目さもエグ過ぎてゾッとするほどです。

暴力によって鼓膜を傷つけられた経験を持つと公言している松井冬子・・・どれほど画家自身が哲学的に解説しようとも、仏教的な思わせぶりなタイトルを付けようとも、”意図的”に痛みを感じさせようとしている作品というのは、結局のところ”エログロ好き”という汚名(?)からは逃れられないのかもしれません。彼女が日本画専攻に転向したきっかけとなったという”河鍋暁斎”にしても、無惨絵の”月岡芳年”や”甲斐庄楠音”なども、その根底にあるのは”まがまがしい悪趣味”なのですから・・・。海外であれば、写真家のJ・W・ウィトキンの生理的限界を超える妖しさ、マーク・ライデンの”肉”への執着など、いわゆるサブカル好みの嗜好である気がします。上野千鶴子氏曰く・・・女性のジェンダー化した痛みを表現している「自傷系アート」という分類をするならば、フリーダ・カーロに通じるのかもしれません。

松井冬子の画家としてのキャリアに幸運だったのは・・・ゲイイラストレーターやエログロ写真を扱っていた金持ちのボンボン(16歳からアートコレクター)の道楽(?)のような「成山画廊」によって見出されたということかもしれません。2005年3月から4月に開催された初めての個展の前後から、あらゆる媒体へ「美人日本画家」として強烈にプッシュして、大々的に売り出してくれたのですから・・・。また、成山画廊にとっても”松井冬子”を抱える画廊として美術界のステイタスを得たわけで・・・まさに、お互いに”WIN WIN”の理想的な画家と画廊の関係とも言えるのであります。


2009年5月(25日?)に、松井冬子は東京大学の科学者(特任助教)の男性と結婚されました。結婚式の二次会のお土産が東大と芸大の大学饅頭だったそうで、一部のゲストには”ドン引き”されたという噂もあったりなかったり・・・「肩書き好き」という「素」が、露呈してしまったようです。

男性不信とも受け取れる自傷的なイメージを崇拝していた女性ファンにとっては「あなたもフツーの女だったね」と、裏切りに感じられたかもしれません。もしくは「さすが冬子さま~、東大の科学者先生と結婚なんて”らしい”わぁ~!」なのでしょうか?いずれにしても、自分の痛みを作品のテーマにしてきた松井冬子にとって、俗にいう「女性としての幸せ」が、今後どのように作品に影響していくかは、とても気になるところです。

横浜美術館での展覧会には、結婚後に描かれた作品も数点展示されていました。以前よりも、画面は全体的に明るく、ポジティブな印象を感じさせました。展覧会の出口近く、最後に展示されていたのは、トンボが孵化する瞬間を捉えた「生まれる」というタイトルの小さな絵・・・お子さまが誕生したというニュースは聞きませんが、明らかに彼女は次の人生のステージへ移行しているのかもしれません。ひとりの女性としてみた場合、あれほど痛みを訴えていたのに、随分と心が浄化されたんだと・・・涙が出そうであります。

しかし・・・”松井冬子”という「キャラ」のファンとしては、これからの彼女の人生にトンデモナイ波乱が起きることを願ってしまうヨコシマな自分もいるのです。

東大教授夫人としての幸せな結婚生活を送りながら、たわいもない花や昆虫を描くだけの松井冬子は、あまりにも面白くありません。「事実は小説より奇なり」を地で行くような、おどろおどろしい奇行を、ボクは心の隅で期待してしまうのです。例えば、何らかの理由で彼女がその美貌を失うようなことが起こったら・・・「美への執着」を感じさせる女の情念の世界へ入り込み、さらなる「痛み」と「怨念」を昇華していく「化け物」のような存在になってくれるのではないか・・・?

そんな不謹慎な妄想さえも膨らまされずにいられない”松井冬子”から・・・なんだかんだで、やっぱりボクは目が離せないのです。

横浜美術館
2012年3月18日まで



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2012/02/01

ラース・フォン・トリアー監督の鬱(うつ)地獄へようこそ・・・すべてが「無」になる世界の終わりこそが究極のハッピーエンドなのだ!~「メランコリア」~



「鬱になってしまいそうな映画」を撮らせたら右に出る監督はいないラース・フォン・トリアー・・・前作の鬱ホラー映画「アンチクライスト」に続く最新作は鬱SF映画!(といっても、ハリウッドのSF映画とは根本的に大きく違いますが)タイトルもズバリ「メランコリア」=「うつの心理状態」であります。雄大な世界観を舞台に個人的な心象をテーマ扱った映画として、テレンス・マリック監督の「ツリー・オブ・ライフ」や、マイク・ケンヒル監督の「アナザー・プラネット」(日本では劇場公開なしのDVDスルーで3月16日に発売)が思い起こされますが・・・「メランコリア」では何かしらの”救済”さえ提示されない、まさに”トリアーらしい”作品です。

巨大惑星”メランコリア”が地球に衝突する日が数日後に迫っている中、ジャスティン(キルスティン・ダンスト)とマイケル(アレクサンダー・スカルスガルド)の結婚式が、ジャスティンの姉夫婦、クレア(シャルロット・ゲンズブール)と大金持ちのジョン(キーフアー・サザーランド)の海辺の大豪邸で挙げられています。

しかし幸せの絶頂にあるべきはずのジャスティンは・・・披露宴に遅刻したり、ケーキカットをキャンセルしたり、ブランデーをラッパ飲みしたり、奇行を繰り返すのです。姉クレアとジョンは結婚式を台無しにさせまいと、ジャスティンを強く叱るのですが、ジャスティンの会社の社長を怒らせた上に、仕舞いには新郎のマイケルにまで愛想を尽かされてしまうのであります。ただ・・・不快な言動や行動をしているのはジャスティンだけではありません。姉夫婦のクレアとジョンは自分たちが計画して費用も出している豪華絢爛な披露宴がぶちこわしになることや、世間体を気にしているだけだったりします。母(シャーロット・ランプリング)は冷えきった自分の結婚生活を皮肉るようなスピーチをすますし、父(ジョン・ハート)は性悪ないたずらをウェイターに仕掛けて喜んでいたりします。

鬱であるジャスティン「だけ」は、惑星”メランコリア”が地球に激突して世界が終わることを確信していて、うわべの祝福や笑顔には何も意味を見出せていないようです。不思議なことに、彼女は生命は地球にしか存在しないことにも確信しているようで・・・つまり、惑星”メランコリア”が地球に衝突することによって、すべての生命が消滅して、宇宙は「無」になってしまうことであるというのであります。

虚無感と絶望の中、満足に食事もできず、ひとりで入浴もできないような酷い状態に落ち込んだかと思うと・・・世界の終わりが近づくにつれジャスティンは妙な落ち着きを感じさせたりします。これは、ラース・フォン・トリアー監督自身が鬱病に苦しんでいた時に、体験したセラピーからアイディアを得たとのこと・・・鬱病の患者は悪い事が起こると予測して、強いプレッシャーに冷静に行動する傾向があるということなのです。一方、姉のクレアやジョン達は、次第に空で大きくなっている惑星”メランコリア”が、地球に衝突することを確信するにつれ、悲観的になり自分を見失っていきます。

「メランコリア」ではタイトルの冒頭に、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」をバックに約8分ほどの台詞のない詩的なイメージ映像が流れます。超倍速カメラで撮影されたスローモーションなのですが、音楽と相まって、圧倒的に尊厳のある映像美を見せつけられます。鳥が空から落ちてきたり、馬がゆっくりと倒れていったり、ウエディングドレス姿のジャスティンが小川を流れていったり(ミレイの”オフィーリア”から引用)・・・そして、地球より遥かに大きい惑星”メランコリア”が地球に激突したところでタイトルが現れるのです。ある意味、「メランコリア」という映画は、この冒頭の8分で本作の要点を語ってしまっているとも言えるかもしれません。

最後には惑星”メランコリア”は目の前いっぱいに広がるほど地球に近づき、ジャスティンとクレアに向かって激突!・・・世界は終わり、すべてが「無」となって映画が終わります。自分を含め、世界のすべてが消滅するというのは、ある意味、究極のハッピーエンドと思えてしまうところがあります。鬱にとっての究極の結論は、自分の存在を消してしまうこと。その手段としての、内的な「無」という「自殺」と、外的な「無」である「世界の終わり」・・・そのふたつは鬱にとって紙一重でもあったりするのですから。


「メランコリア」
原題/Melancholia
2011年/デンマーク、スウェーデン、フランス、ドイツ、イタリア
監督&脚本 : ラース・フォン・トリアー
出演    : キルスティン・ダンスト、シャルロット・ゲンズブール、キーフアー・サザーランド、シャーロット・ランプリング、ジョン・ハート、ウド・ギア、アレクサンダー・スカルスガルド、ステラン・スカルスガルド
2012年2月17日より劇場公開



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