一週間ほど前に足立区で30年前に死亡してミイラ化していた111歳の男性が見つかっったことを発端に、今週になって杉並区で都内最高齢のまずだった113歳の女性の所在不明と報道されて、それから日本全国で次々と100歳以上の所在(生存)不明者が現れているようです。
このニュースによって「家族の核家族化」「地域社会の崩壊」「行政の管理不備」「個人情報保護法の間違った解釈」「人と人との絆の希薄さ」「偽りの長寿大国」などなど、さまざまな問題を考えさせられます。
ボクは現代の日本で、まるで消えるように死んでしまっている人がいるかもしれないことと、こういう所在不明者というのは100歳以上「だけ」に限ったことではなくて、90歳代、80歳代と年齢を下げていけば、もっともっと亡くなっているにも関わらず、存在することになっている人がいるのかもしれないのではにかと思いました。
もしかすると・・・ボクのような40歳代でも、家族が捜索届けも出さない(もしくは、天涯孤独で近い親族がない)場合に、住民票をそのままにして、身元不明で亡くなってしまったら、まるで「消滅死」とでも言うように、消えてなくなることもあるのではないでしょうか?
「孤独死」というものが語られ始められた時に、子供もパートナーもいない将来的に”ひとり暮らし”となるボクは、病院や介護施設で亡くなるよりも、住み慣れた自分の自宅で「孤独死」することこそが”本望”と考えていました。
その後、家族に拒否されたり、血縁関係者がいなくて、遺体引受人がいない場合には「無縁死」になることを知って、少なからず衝撃を受けました。
ボクには兄弟もなく、親戚とも縁がなく、高齢の母以外には遺体を引き受ける血縁者など存在しないのです。
今から子供を作るなんてことはあり得ないので、ボクは「無縁死」は覚悟しなければならないことだと理解しました。
ただ、所在も生存も分からないまま何年間も放置されて、生きていることになっていながら、どこかで死んでいるかもしれないという「消滅死」というのは、なんとも不思議な「死に方」だと思うのです。
記録として残されていながら、ずっと存在自体が世の中の誰からも「無視」されているような・・・無縁死以上に無縁を感じます。
長生きできることは素晴らしいけれど、それは自分を知る人々、人生を一緒に歩んで来て人々、同じ時代を生きて来た人々が、まわりからドンドン減っていくということです。
そして、友人や家族を失う悲しみにも耐えながら生きていかなければなりません。
母がボクが幼い頃から繰り返すフレーズを思い出します。
「ひとりで生まれ、ひとりで死ぬものなのよ」
なんて厳しい言葉だろうと子供ながらに感じながらも・・・やはり「人はひとり」なのだと、今でもボクは自分に言い聞かせているのです。
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