2012/10/31

不快度MAXの問題作になるはずだった!?・・・少女の性への嫌悪感は容赦ない悪意へと暴走するの!~「先生を流産させる会」~


そのタイトルからして・・・禍々しいヤバさを感じさせる「先生を流産させる会」という映画について耳にすることはあっても、一般の劇場で公開というのは、なかなかありませんでした。カナザワ映画祭、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭などで上映されるだけ・・・陽の目をみることはなしにDVDスルーになるのかなと思っていたところ、今年の5月にはレイトショーなど限定的ながら劇場公開されました。結局、ボクが本作を観ることになたのは、先日DVD化されてからのことではあったのですが・・・タイトルの過激さの期待には応えきれていない残念なオチの作品でした。

「先生を流産させる会」は、2009年2月に発覚した愛知県の中学校で実際に起きた事件を元にしています。部活動のことで注意されたり、席替えで一部の生徒を優遇する配慮(不登校気味の生徒の近くに仲の良い生徒が座るようにした)をしたことに不満を持った「男子生徒」(当時、中学1年生)11人が「流産させる会」を発足させて・・・当時、妊娠6ヶ月だった30代の担任女教師を流産させることを目的に、給食に異物を混入させたり、イスの背もたれの部品のネジをゆるめる細工をなどをしたのです。女子生徒からの通報で犯行が発覚して、教師は流産することはなかったということですが・・・実際に犯行に関わった男子生徒5人は刑事告訴もされず、いたずらの範疇として厳重注意だけで済まされたということに、疑問を投げかけた事件ではありました。

本作では、犯行におよぶ生徒たちを「男子生徒」から「女子生徒」へと変更されているのですが・・・これは、かなり大きな変更であります。本作は、元ネタとなった実際の事件とは、まったく別モノといっても良いでしょう。男子であれば「男の性の暴力性」や「女教師へのアコガレや嫉妬」というのが犯行の理由となるのかもしれませんが・・・女子による犯行だとすると「性への嫌悪感」「性的な存在への成長拒否」など内向きな精神的な問題となるからです。

たった62分という”中編”映画作品でありながら・・・「先生を流産させる会」は「告白」などの湊かなえ原作作品に通じる”女の悪意”の連鎖”をジワジワと感じさせます。女子中学校の教師サワコ先生(宮田亜紀)の妊娠が発覚し、多感な女子生徒たちのなかでは不穏な注目を集めます。グループのリーダーのミヅキ(小林香織)は「あいつセックスしたんだよ」と嫌悪感を明らかにし、グループの他の女子生徒たちも「気持ち悪いよ」「キモいね」と同意・・・集合場所となっている廃屋のラブホテルの部屋で「先生を流産させる会」を結成することになるのです。このサワコ先生というのが、理想的な教師として描かれているかというと、そういうわけでなく・・・女子生徒が反抗心を持つのも理解できるような、ちょっと嫌な女として感じられるのが絶妙であります。

まず、ミヅキたちはサワコ先生の給食のスープに異物を混入させます。生徒との談話しながらの給食中に、サワコ先生は嘔吐してします。悪意のいたずらを察したサワコ先生は、手紙で犯人を手紙に書いて密告するように生徒たちに迫ります。その結果、先生を流産させる会のひとりが密告して、すぐさま犯行に関わった女子生徒たちが呼び出されます。「もし、自分が妊娠してお腹の子供を殺されたら、どうするか?」と問い詰めるサワコ先生に対して、生徒たちは「訴える」「分からない」と答える中、リーダー格のミヅキは「生まれたないんだから、いなかったことにすればいい」と開き直ったような返答をします。後に、水泳の授業中に”初潮”を迎えることになるミヅキにとって、胎児という存在は”命の尊さ”よりも”妊娠の汚らわしさ”の象徴でしかないようです。性的な自分を拒絶するということは「自己否定」「自己嫌悪」でしかなく・・・リーダー格として確かな自分をもっているように見えるミヅキという少女が、グループの中で最も危ういということなのかもしれません。

女子生徒たちに向かって「私は先生である前に女なの!あなたたちも生徒である前に女なのよ!」と叱るサワコ先生・・・いくら悪質な生徒に対してであっても、こんな言葉を投げかける先生というのは”アリエナイ”ような気もしますが、何が何でもお腹の子を守ろうとする鬼気迫る強い思いを感じさせます。「お腹の子を殺した奴は殺す!」とまで脅すのですから。しかし、ミヅキたちはサワコ先生の”脅し”にも屈することもなく、流産させるための犯行をやめることはありません。サワコ先生の椅子の部品を取り除いて転ばします。ミヅキは理科室から劇薬を盗んで、毒を盛ることさえ計画を始めるのです。

ここからネタバレを含みます。



グループの中で密告していた女子生徒の母親は、絵に描いたようなステレオタイプの”モンスターペアレンツ”で、娘を登校させなくなっていたのですが・・・ミヅキは、その娘を巧みに呼び出し、廃屋のラブホテルの一室で、劇薬の調合をさせます。モンスターペアレンツの母親とサワコ先生が、娘を捜して乗り込んできたことを察したミヅキは、その娘を部屋に閉じ込めて、サワコ先生を返り討ちするのです。スタンドライトを振りかざし、お腹を殴り続けて、ミヅキは当初の目的どおり・・・サワコ先生を流産させてしまいます。

遂に、サワコ先生が逆上して、悪意の化身であるミヅキに襲いかかるのか・・・と思ったら、ミヅキを襲うとするモンスターペアレンツの母親への”盾”となって、ミヅキの身を守ろうとするのです。最後の最後には、生徒に流産させられても、モンスターペアレンツに立ち向かう戦う教育者としての”正義”に目覚めるとでも言うのでしょうか?自分のお腹の子を無惨にも殺した生徒を、自らの身が傷つけられても守るのが、教育者としての使命なのでしょうか?川原に水子を共に弔うサワコ先生とミヅキ・・・なんとも釈然としない”和解”であります。

「教育映画」的な問題提起・・・という”良い子”な逃げ道を選んだエンディングになってしまったことで、サワコ先生の”人間性”の救いが、かなり「ぬるい」作品に貶めてしまっているのは、本当にガッカリでありました。流産させられたサワコ先生が、言葉どおりミヅキを殺す、または、殺そうとするという決着をつけるしかないような話だと思うのです。そしてサワコ先生は流産した上に、世間からは罵倒される・・・という救いのない絶望を描いて欲しかったと、ボクは切に願ってしまったのでした。


「先生を流産させる会」
2011年/日本
監督、脚本、製作:内藤瑛亮
出演      :宮田亜紀、小林香織、高良弥夢、竹森菜々瀬、相場涼乃、室賀砂和希、大沼百合子
2012年5月26日より日本劇場公開


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2012/10/23

敷かれたレールの乗っているからこその”ヒエラルキー”と”同調感”・・・学生時代の呪縛からは大人になっても逃れられていない!?~「桐島、部活やめるってよ」~



最近、映画館に足を運んで映画を観ることって少なくなりました。ボクの視力が悪くなったのか、老眼のせいなのか、スクリーンに映される画像が、自宅の大型液晶テレビで観る画像より、ぼんやりと見えてしまうということが、ひとつ。死ねコンプレックスが増えて、映画館で上映されている作品自体は増えているように感じるのだけど、公開から日にちが経つと一日の一度しか上映など変則的なスケジュールだったりすることが多いことがあるかもしれません。

そして何よりも・・・ネットを通じて、作品の評判を耳にしてしまうと・・・良い評判でも、悪い評判でも、結果的には良い方に転ばないことが多いということもあります。ボク自身、公開前の作品について、ネタバレ気味に感想を書いていることもあるので、批評や感想をネットで公開することを否定出来る立場ではありませんが・・・良い評判を聞くと、期待度が高くなって、実際に観た時のハードルが高くなりがちです。何も知らずに観れば、新鮮な驚きとともに、とっても良かったと思える作品でも、評判ほどではない・・・とか、マイナスへ働きがちだったりします。逆に、悪い評判ばかりを聞いてしまうと、観ようと思っていた作品でも、観る意欲が一気に失われたりします。だったら、観たいと思っている映画については、極力評判などは観ないようにするべきというのは分かっているんだけど・・・気になってしまいます。

「桐島、部活やめるってよ」は、公開時には殆ど気にしていなかった作品でした。しかし、いろんな人の評判があまりにも良いので気になってきた時には、すでに上映しているのが都内では単館での、それも一日一回しか上映でしかなく、連日満員売り切れ状態となっていました。10月に入ってから再び拡大上映という異例な作品で、2012年の邦画ベストワンの呼び声も高まってします。ただ、これほど期待度のハードルを上げられた状態で観たことが災いしてか・・・ボクの観賞直後は「ふ~ん、スゴく上手に作られた映画だけど、話としてはコジンマリしているなぁ」という印象でした。しかし、原作本を読んでみて、本作がいかに映画的表現によって原作以上に細かな心理を表現していたことを、改めて感じたのです。

原作は2009年の小説すばる新人賞を受賞した朝井リョウの同名小説・・・受賞当時19歳の現役大学生が同世代の気持ちを表現した作品は、正直ってボクのようなアラフィフのおじさんには、文章のテンポに違和感があって、大変”読み辛い”小説でした。バレー部キャプテンの桐島が突然理由も告げずに部活をやめたことにより、学生たちに起こる波紋を描く群像劇であるのですが・・・桐島本人は登場しないというところが「ゴトーを待ちながら」風になっています。映画化にあたって、吉田大八監督は説明的なモノローグの台詞などを一切排除し、ひとつの出来事が起こった状況を各キャラクター視点によって繰り返し描くことにより、その場にいたそれぞれのキャラクターの心情を痛々しいほどリアルに観客に伝えることに成功しているように思います。それ故、ストーリーを追っていくというよりも、各シーンごとに浮き彫りにされる登場人物たちの内面を垣間みることが醍醐味という感じ・・・観客によって感情移入出来るキャラクターがあるだるし、説明し過ぎていないので観客が感情的に余白を埋めていくということにもなるようです。

本作で描かれるのは、生徒によって築かれている学校内のヒエラルキー(格差社会)・・・ルックスが良くて、運動ができる(他に勉強ができる、家がお金持ちとか)というヒエラルキーの頂点に君臨する者がいれば、見た目がイケてなくて、運動が苦手という下層に属さなければいけない者がいるというのは、青春時代に誰もが感じさせられることかもしれません。そして、同調感を保つことで仲間はずれにになることもなく所属するグループに存在できる・・・それって、学生時代に限らず、会社や仕事場でも誰もが無意識に行ってしまっていることかもしれません。ヒエラルキーを意識して同調感によって人との関係を成り立たせることは、大人にあってからも人間関係の基礎だったりするので、本作は年齢を超えて共感を呼ぶのかもしれません。学生時代に感じた理不尽な呪縛から逃れたいけれど・・・結局、大人になっても、ヒエラルキーを無視することは出来ず、同調感によって人間関係の潤滑油にしていることには変わりないのです。だからこそ、本作に強い思いを感じる人が多いのかもしれません。

ボク自身はというと・・・高校時代に登校拒否になり、その後に海外留学という「反則技」を使ったので、世間一般的にいう”敷かれたレール”から自ら外れてしまいました。それ故に、日本社会のヒエラルキー感覚や同調感によって成立させる人間関係とは、一歩も二歩も引いたところにいるような気がしています。利害が発生する関係であっても、立場的に上の人に”おべんちゃら”を使って同調感を築くことに、どうしても抵抗感を感じてしまうのです。ただ、ビジネスに於いて力関係に従うのは当然のこと・・・ヒエラルキー感覚と同調感に優れていることで、業界的に成功している人というのも多いのは当たり前なことなのです。”敷かれたレール”から外れてしまったボクの生き方は「やり方が下手くそねぇ」ってだけのことなのかもしれません。

「桐島、部活やめるってよ」
2012年/日本
監督 : 吉田大八
脚本 : 吉田大八、喜安浩平
出演 : 神木隆之介、橋本愛、東出昌大、清水くるみ、山本美月



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2012/10/12

カルト教団こわ~い・・・信じる者は最後に暴力へ導かれる!?~「レッド・ステイト/Red State」「マーサ、あるいはマーシー・メイ/Martha Mary May Marlene」~



カルト教団の恐さのひとつって・・・詐欺まがいで金を集めたり、訳のわからない奇行をさせられることもあるけど、信者になってしまった人が自己判断能力を失ってしまうことだと思います。もしかすると、当初は何かしらの”救い”を与えているのかもしれませんが・・・教団が社会的に受け入れられなければ受け入れられないほど、教団の閉鎖感と異常性が過激になっていきがち。最終的には教団に反するものを排除するための”暴力”へと発展しがちです。いつの時代にも、世界のどこかで、新たなカルト教団が出現して、不可解な事件を起こす・・・ナチス、コミュニスト(共産主義者)、テロリストに続いて、カルト教団は、映画の中では”絶対悪”の存在として扱われるのかもしれません。

「チェイシング・エイミー」や「恋するポルノグラフィティ」などの”ダメ男”のためのラブコメで知られる、オタク監督ケヴィン・スミスが、わざわざ自ら400万ドルの資金集めまでして自主制作した「レッド・ステイト/Red State」は、保守的なキリスト教団体を”キ○ガイ”扱いする過激な内容のサスペンス・アクション映画であります。

アメリカ中部の田舎町の高校生3人組が、セックスの相手を募集する女性のネット広告につられて、喜んで出向くと・・・そこには、結構いい歳の迫力のある”おばちゃん”(メリッサ・レオ)が待ち構えていたのです!そこで引き返せば良いものの、誘われるがままトレーラーハウスに入ってビールを飲むと、彼らは気を失ってしまうのです。彼女は超保守派のキリスト教信者で、性の乱れを象徴する”悪しき者”として、彼らを教会内で公開処刑しようと罠にはめたのでした。教祖(マイケル・パークス)が語る教団の教えは、アメリカ国内に今も実在するキリスト教原理主義的な教会の思想に近く、保守派の信者たちにとっては一部は賛同できてしまいそうなところが恐い・・・同性愛や堕胎手術を宗教的に許さないというアメリカ人は、統計的には3人に1人はいるのだから。

少年達が処刑されそうになるまでは、ティーン向けのホラー映画っぽいノリなのですが・・・中盤からは機動隊が派遣されて、捕虜であるはずの無実の少年達も、洗脳されている信者達も殺されていく銃撃戦となっていきます。そして最後には、機動隊のエージェント(ジョン・グッドマン)が、事件の顛末を、上司に報告するという政治的な会話劇になっていきます。また、冒頭の憲法についての授業、教祖が教団の思想を語るくだり、機動隊エージェントと上司とのやり取りなど、説明的な台詞が多くてクドい印象・・・キーパーソンとなる教祖役のマイケル・パークスとエージェント役のジョン・グッドマンの説得力のある演技力によって、ケヴィン・スミス監督の、超保守的なキリスト教団の思想に対してだけでなく、威圧的な権力構造に対しての嫌悪感も、ヒシヒシと感じられる奇妙な映画となっています。

保守的なアメリカの一部では、同性愛や堕胎手術を否定するほうが常識的だったりします。ボクが、同性愛や堕胎手術は自由意志だと考える権利が与えられているように、超保守派にも反対する権利が平等に許されているのです。宗教や思想の自由のない社会は恐ろしいけど、自由のある社会というのも、また恐ろしい・・・しかし、その”宗教”によって、歴史的に人は殺し合ってきたわけで、何が正しいのか分からなくなってきてしまいます。


「マーサ、あるいはマーシー・メイ/Martha Mary May Marlene」も、カルト教団を描いた映画ではあるのだけど・・・こちらは、マーサ(エリザベス・オルセン)という1人の女性が、あるカルト集団に洗脳されていく過程を、淡々と描写していきます。ミヒャエル・ハネケ監督のような地味な作風ではありますが、じわじわと恐くなってくる作品です。

ニューヨーク州のキャッツキル周辺の農園で、自給自足に近い集団生活をする若者たち・・・ギター演奏で唄を歌ったり、一緒に農作業したり、一見するとヒッピー的には理想に近い生活環境のようにみえます。しかし、その実態はリーダーの男(ジョン・ホークス)によって洗脳された集団だったのです。本作は、2年間音信不通だったマーサが、姉夫婦(サラ・ポールソン、ヒュー・ダンシー)の家に転がり込むところから始まり、時間軸をシャッフルして、時には”ワンショット”ごとに「カルト集団を逃げ出して姉夫婦の家に身を寄せている現在」と「カルト集団の中で生活していた過去」を行き来しながら、どうマーサが洗脳されていったかを丹念に描いていきます。そして、どうして彼女は逃げるきっかけになる集団の素顔が徐々に明らかになっていきます。

集団生活を始めてまもなくして、マーサはリーダーに犯されるのですが、それは”名誉”なことであると、先輩の女性メンバーから教え込まれます。そして、いつしかマーサ自身も、後輩女性に同じことを教え込む立場になっていったのです。集団との共同生活の中ではセックスは共有するもの・・・マーサは、姉夫婦がセックスに励んでいる最中のベットに「1人では眠れない」と、添い寝してくるという奇妙な行動をしたりします。

ここからネタバレを含みます。

この集団が、一線を超えるような犯罪行為も行っていることを知り、マーサは精神的に壊れていきます。それはある意味、マーサがギリギリのところで理性を保っていたということでもあるのですが・・・それこそカルト集団からすれば裏切りでしかなく、許されない行為でもあります。集団から離れてもマーサの頭の中は、カルト集団のトラウマからは逃れられません。姉夫婦の家を離れて、専門機関に入ることになったマーサ・・・施設に向かう車の背後には、カルト集団の影が迫ってくきていたのです。静かだけど、観る者を恐怖に落とし込むエンディングでありました。

ボク自身は、キリスト教の影響を影響を受けた家庭環境で育ったものの・・・宗教観には乏しくて、どちらかというと”無神論者”かもしれません。仏教に関しても無知で、お墓や仏壇にも強い思いはありません。そんなボクですが・・・一度だけカルト教団に関わったことがあります。

テレビドラマや舞台劇になるほど有名な三姉妹のファッションデザイナーの次女のところで働くことになったのですが・・・彼女の会社はキリスト教をベースにしたカルト的な教会の信者になることを自社で働く人に強要する会社だったのです。まぁ・・・明らかに法律違反の行為なのですが、わざわざ裁判沙汰までにするような人もいなかったようです。ボクだけが納得すれば良いんだから・・・と、真冬の池に頭まで突っ込まれながら洗礼を受けました。ただ、ボクがどうしても受け入れられなかったのは、自分のプロジェクトに関わる外部の会社の人たちまでも、ボクの責任で洗礼を受けさせなければいかないということ・・・それは、どうしてもボクには出来ない事でした。日曜日に真面目に礼拝にも通わないボクは、数ヶ月でクビになりました。

朝礼で”かけ声”をかけたりする会社というのは、ボクにとってはちょっと不気味・・・このような「一体感」の強要って、仕事の効率を上げたり、協調性を高めるとは思うのだけど、ゆるい解釈での”カルト集団”的な恐さを感じてしまうのです。


「レッド・ステイト」
原題/Red State
2011年/アメリカ
監督、脚本、編集 : ケヴィン・スミス
出演       : マイケル・アンガラノ、カイル・ガルナー、マイケル・パークス、メリッサ・リオ、ジョン・グッドマン
2012年10月27日より「シッチェス映画祭/ファンタスティックセレクション」にて公開




「マーサ、あるいはマーシー・メイ」
原題/Martha Mary May Marlene
2011年/アメリカ
監督 : ショーン・ダーキン
出演 : エリザベス・オルセン、サラ・ポールソン、ヒュー・ダンシー、ジョン・ホークス
2013年2月日本劇場公開


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2012/09/28

平等な管理社会だからこそ”努力”も”労力”も報われる!?・・・MMORPGオンラインゲームのコミュニケーション苦手でもハマれたわけ~「ドラゴンクエスト X オンライン 目覚めし五つの種族」~


おそらく、ボクはギリギリで「ドラクエ世代」にはなるのだろうけど、第1作目のファミコン版「ドラゴンクエスト」が発売された時(1986年)には、すでに結構な大人(23歳)・・・その頃、住んでいたアメリカでも、ファミコンと同じ「NES/ニンテンドー・エンターテイメント・システム」は発売されていましたが、「ドラゴンクエスト」というゲームの存在さえもリアルタイムでは知りませんでした。一時期、NESを所有していたこともあったのですが、本体付属ソフトだった「スーパーマリオブラザーズ」しか記憶がありません。夏休みに、不眠不休に近い状態で三日間「マリオ」を遊び続けて、仕舞いにはテレビを爆発させてしまったことがありました。当時、ファッション科の大学に通っていたので、ハッキリ言ってゲームなんかして遊んでいる「暇」が、あるはずもなく・・・人生の大切な時間を奪われるような気がして、買ってから数ヶ月後にNESは捨ててしまったのでした。

2001年の11月、プレイステーション2が値下げされたことをきっかけに、ゲームへのめり込んでいくのです。その後、家庭用ゲーム機の歴史を辿るように、ファミコン、マスターシステム、PCエンジン、メガドライブ、ゲームボーイ、ネオジオ、アタリリンクス、ゲームギア、PCエンジンGT、スーパーファミコン、3DO、ネオジオCD、プレイディア、セガサターン、アタリジャガー、プレイステーション、バーチャルボーイ、ピピン@マーク、ニンテンドー64、ドリームキャスト、ネオジオポケット、ゲームキューブと、”大人買い”で歴代ゲーム機を揃えました。しかし、実際にゲームをプレイするというよりも、本体やレアなゲームソフトを収集することに喜びを感じていたところがありました。結論として・・・新しいゲーム機の方が遊び勝手も良いことに納得。今、起動させるのは現行機種(プレイステーション3、Xbox360、Wii、ニンテンドー3DS、PS Vita)だけになっています。それに、最近では昔のゲームソフトも現行機種でも遊べてしまうようになってきたので、古いゲーム機本体やゲームソフトは骨董的な価値しかなくなってしまったような気がします。

さて、MMORPG(大規模多人数参加型ロールプレイング)型オンラインゲームの話です。「ディアブロ」「ウルティマ・オンライン」」「エバー・クエスト」などの時代には、オンラインゲームというのはコアユーザー向けだったような気がします。2000年の「ファンタシースターオンライン」(ドリームキャスト)と2002年の「ファイナルファンタジー11オンライン」(プレイステーション2)で、家庭用ゲーム機でもオンラインゲームがプレイ出来るようになって、敷居がグッと低くなりました。ボクは、ドリームキャストで「ファンタシースターオンライン」をプレイしたことありますが、サービス開始からだいぶ時間が経っていたこともあって、プレイヤー同士のコミュニティーができあがっており、出遅れ感を感じさせられたものです。

「ファイナルファンタジー11オンライン」は、ほぼサービス開始直後からプレイし始めたのですが・・・ネックとなったのは、オンラインゲームには欠かせないプレイヤー同士のコミュニケーションでありました。オンラインで作成したキャラクターのみ・・・いわゆる”アバター”だけの存在でしかない年齢も性別も不詳な相手と、キーボードのチャットでコミュニケーションを取ることに、居心地の悪さを感じてしまったのです。

「FF11」で「ソロプレイ」を貫くことは絶対的に不可能というわけではありませんが、レベル上げだけでなく、クエストをクリアするにも、他のプレイヤーと「パーティー」を組むことは不可欠・・・コミュニケーションをまったくしないでプレイすることは、非常に難しいのです。それでも、当初は頑張って「パーティー」に誘われたら出来るかぎり参加するようにしたり、時には思い切って他のプレイヤーをパーティーに誘ってみたりと頑張ってみましたが・・・いくらゲーム上で同じ目的を持っているからといって、何者か分からない人と関係を築くような気持ちにはなれず、会話もそれほど弾むわけもなく・・・フレンド登録などはしないで、その場限りのお付き合いばかりでした。

日本人プレイヤーは、礼儀正しいし、不愉快な思いをしたようなことは、殆どと言っていいほどありません。だからこそ、余計に気を使ってしまうのです。時間的に無理な場合には、誘われた段階でお断りもしやすいのですが・・・一度、フィールドに出てしまうと、トイレに行きたくても我慢とか、そろそろ寝たいのにパーティーから外れられないとか、まるで日本人社会の”疲れる要素”を凝縮したような印象でした。結局、「FF11」をプレイしているリアルの友人とだけパーティーを組むという形に落ち着いてしまいました。その友人は「今夜10時に”リンクシェル”(オンラインゲーム上のチームのようなもの)のメンバーと一緒に遊ぶ約束しているから、急いで帰らないと」など、現実の世界とオンラインゲームの世界が並列しているような感覚を持っていることに、正直驚きました。

「ドラクエ」か「ファイナルファンタジー」かと言えば・・・ボクはどちらかというと「ファイナルファンタジー」派。Wiiで「ドラゴンクエスト X オンライン 目覚めし五つの種族」が発売されると聞いても「オンラインゲームは、もういいかも」としか思えず、買うつもりはありませんでした。発売前になって「ドラクエ9」のように「サポートなかま」を雇って、ソロプレイでもパーティープレイが出来る仕様であることを知り、とりあえず遊んでみようか・・・と始めてみたのです。

序盤はソロプレイでも、それほど苦もなくレベル上げが進むものの・・・最初のボスあたりから、完全なソロでは厳しくなってきます。途中「パーティー」に誘ってもらうこともあってので、苦手意識から脱却したいという思いもあって、ある「パーティー」に参加してみたのですが・・・「ドラクエ10」のチャット機能の乏しさもあってか、ボク以外のプレイヤーもなんか”寡黙”。唯一、キーボードでしゃべりまくるリーダー格のプレイヤーさんに、ただ従ってついていくだけという感じでした。プレイヤーのHP/ヒットポイント(生命の力みたいなもので0になるとキャラが死んでしまう)の回復役として「パーティー」には必要な僧侶さんが「そろそろ寝ます」と、いきなり「パーティー」からはずれてしまうという事態になり、20分ほどで「パーティー」は解散となりました。「パーティー」を組んでやりたいこともビミョーに違ったりするし、プレイスタイルもひとそれぞれ・・・気楽なソロプレイが一番と再認識して、サポートなかまを雇えるようになるクエストを早々にクリアしました。その後はソロプレイだけど、サポートなかまと「パーティー」を組むとスタイルで、快適にプレイしています。

「ファイナルファンタジー11オンライン」を開発したスクウェアと「ドラゴンクエスト」のエニックスが合併したことから「ドラゴンクエスト X オンライン 目覚めし五つの種族」は、鳥山明のキャラクターデザインのビニュアルや、基本的な操作方法は「ドラクエ」シリーズをを継承しながら・・・「ファイナルファンタジー11オンライン」のゲームシステムをシンプルしたという感じです。MMORPGオンラインゲームというのは、基本的にロールプレイングゲームと同じように、ストーリーを進めていくわけですが、オフラインと大きく違うのは「経済システム」が、非常に重要な要素ということ・.・・いや、経済こそオンラインゲームの”キモ”であるのかもしれません。現実の世界以上に、経済を制する者が全てを制するということになりがちなのですから・・・。

ドラクエの世界での貨幣単位は”ゴールド”というのですが、この”ゴールド”は、フィールドのモンスターを倒すことで得ることができます。「ドラクエ10」で良いのは、ソロで倒しても、パーティープレイで楽しても、入手できる”ゴールド”の金額は同じこと・・・ただし、一度の入手出来る金額自体は、非常に微々たるものです。モンスターがたまに落とす”宝箱”から、アイテムが手に入るので、それをお店に売ることで”ゴールド”を得ることもできますが、そう簡単には何万ゴールドを貯めるのは至難の業・・・そこで”バザー”と呼ばれるプレイヤー同士が売り買いすることができる仕組みがあるのです。これこそが、まさに「MMORPGオンラインゲーム=経済シュミレーションゲーム」たる由縁で、本来のストーリーを進めるだけでなく、いかに”ゴールド”を稼ぐか・・・というゲームとなっていくわけです。

戦士、僧侶、魔法使い、武闘家、盗賊、旅芸人という職業(ジョブ)がありますが、これはフィールドでモンスターと戦う時の”役割”・・・純粋な意味で”ゴールド”を稼ぐ手段としての職業としては、職人ギルドという仕組みがあります。これは、モンスターを楽して手に入るアイテムを素材として使って、装備や武器を作ることができます。また、装備や武器に追加効果を加える錬金職人というのもいて、有効な追加効果がついた装備や武器はバザーで高く取引されるのです。ただ、装備も武器も、一度キャラクターが身につけてしまうと、そのキャラクター以外が身につけられなくなってしまうので、新たな装備や武器の需要というのは、常に見込めるわけです。しかし、サービス開始から2ヶ月近くに経った今では、高いレベルの職人が増えてしまったので、大儲けするのは厳しいのかもしれません。

「ドラクエ10」では、キャラクター同士での直接取引というのも可能ではありますが・・・バザーで売り買いすることが一般的です。モノの価格というのは(よっぽどのレアアイテムを除いて)買い手によって相場が決まっていくことが殆どというのは、オンラインゲームの世界も、現実世界も同じこと・・・また、転売することも可能なため、うまいことやればモノを安く買って、出品価格が高くなったところで売れば、バザー出品の手数料を差し引いても、儲かることもある・・・というも、まるでYahoo!オークションのようであります。

お金儲けに励み、それぞれの職業でモンスターと戦いながら、レベル上げやクエスト(おつかい)をクリアしながら、ストーリー部分も進めていく・・・なんだかんだと、やることがいっぱいあります。それにオンラインRPGなのだから、定期的に新しいクエストやストーリーの続きがあって、結局、終わりのないゲームとなっていくわけであります。毎月1000円という利用料金を払ってでも遊び続けようと思うユーザーが減らない限り、会員制クラブのように続くというわけです。実際にスクウェア・エニックス社は、今後10年ほどの稼働期間を想定しているそうで・・・還暦を迎えようとしている年頃になっても、「ドラクエ10」をプレイしている自分というのは、正直いって想像したくない気がします。

それにしても・・・いくらゲームの世界で”ゴールド”を稼いだからって、現実の世界には何も得るモノはありません(リアルマネートレードという違法行為はあるようですが)。それでも、多くの人がMMORPG型オンラインゲームにハマてつぃまうというのは、オンラーゲームの世界がゲーム運営会社によって管理されている世界だからかもしれません。現実の世界では、”努力”や”労力”だけでは成し遂げられないことばかり・・・特に経済的な低迷が続く今日では、知識や資格や学歴や経験を持っているからといって、敷かれたレールに乗っかることさえも、ままならない厳しい状況です。明らかな階級社会ではない日本ではありますが、生まれた段階で誰もが同じスタートラインに立っているわけでもなく・・・あらゆる”不平等”な要素が人生の行方を左右しています。

MMORPG型オンラインゲームの世界というのは、ゲームシステムの中で、ある種の”平等”という概念を追求することでもあるような気がします。例えば・・・サービス開始直後、ある武器のスキルが無敵すぎることが判明して、アップデートによって調整されたということがありました。こうやって、オンラインゲームの世界では、プレイヤーにとって”不平等”であると感じさせられることは排除されていくわけです。

悪用されやすい仕組みの導入にも慎重で・・・Yahoo!オークションにあるようなユーザー同士の”評価”のシステムというのは、すべてのプレイヤーが公平に評価するということが前提であるので、悪意をもつプレイヤーによって荒らしやすい環境は提供されません。”嫌がらせ”や”いじめ”を受けたら、特定のプレイヤーをブラックリストに乗せることだってできるのです。このようにプレイヤー本人にとって不都合だったり、不快だったりすることを排除するというのは、現実の世界(インターネット上を含めて)では不可能なことであります。

しかし、現実の世界のような”自由”というのは限られています。「ドラクエ10」上での”自由”とは、選択肢があるというだけのことで、生まれかわる種族を5つから選べたり、髪の毛の色、髪型、瞳の色、顔、体のサイズ(大中小)は、組み合わせ次第で何万通りというキャラクターが出来るのかもしれませんが、それはあくまでもゲームシステムから与えられた選択でしかありません。

また、ストーリーやクエストのクリア方法も、レベルの概念に支配されていて、快適に進めていくには順序というものがあるのです。キャラクターの成長に関しても、レベルが上がることで得られるスキルポイントを”武器”か”職業特有のスキル”に振るかの試行錯誤はできますが、これもまたゲームシステムによって敷かれたレールをどう進むかというだけの話なのです。

ミニゲーム風の職人ギルドは、ある程度作業を繰り返すうちに分かってくる作業方法を把握してしまえば、かなりの確立で高レベルのアイテムが作り出せてしまいます。結局はゲーム制作者の設定したバランスを、どれだけ読み解くかにかかっているわけです。現実の世界で匠の技を習得するというのとは、次元の違うこと・・・プレイヤー誰もが同じ能力だけ与えられている状態から始められるのですから。

コツコツとレベル上げやスキル上げをしてく”努力”や”労力”が、数値によって報われるように感じられる”平等”な世界だからこそ、多くの人がある種の”やり甲斐”を見出してしまうというのが、現実の世界の裏返しのようであります。

若干の運と不運、効率のいいレベル上げ手段、プレイヤーの操作技術やシステムの理解度の高さなどにも左右されるとは思いますが・・・結局のところ、プレイ時間の長さがキャラクターの成長に比例していることは確かなこと。現実の世界が充実して多忙な日常を送っているプレイヤーというのは、それほどオンラインゲームを遊ぶ時間は割けません。逆に、暇さえあれば遊び続けているプレイヤーは、オンラインゲームの世界で”優位”に立っていくことができます。現実とオンラインゲームの世界では、皮肉な「勝ち組」と「負け組」の逆転も起こるというわけであります。

最強の装備と武器を持って、すべてのクエストもストーリーも誰よりも早くクリアし、すべての職業や職人スキルも最高レベルまで上げて、とてつもない金額の”ゴールド”を貯め込んでいるキャラクターを操作している強者プレイヤーが、現実の世界でどんな人生を送っているのか・・・それを知るのは、正直怖い気がしてしまうのです。

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2012/09/15

いろんなホラー映画ぜ~んぶ入り!・・・「13日の金曜日」のパロディどころじゃない風呂敷の広げっぷりが、あっぱれ!~「キャビン/The Cabin in the Woods」~


いわゆる「13日の金曜日」系のティーン・ホラー映画のパターンは、繰り返し焼き直しされています。バカな若者たちが「行っちゃダメよ!」と警告された人里離れた辺鄙な場所に出掛けるというのが典型的な設定・・・また、その若者グループというが、いろんなキャラを集めましたというような、決して一緒に行動しそうもない組み合わせになっているのも、お馴染みかもしれません。

まず、この手の映画に不可欠なキャラと言えば・・・金髪のバカ女(Blonde Bimbo)。おっぱい出しヌードのサービス担当で、エッチをする奴から殺されていくというティーン・ホラー映画の定説通り、真っ先に殺されることが多いようです。その金髪バカ女の恋人役という場合が多いスポーツマン系のマッチョ(Jock)。映画の冒頭ではリーダー役として登場するものの・・・やっぱり途中で殺されます。金髪バカ女と対比するように存在する女性キャラが、黒髪、茶髪、赤毛など金髪以外の女性キャラのヒロイン(Heroine)。どういうわけか、グループの中でも抜群の肉体能力と抜けない頭脳で、最後まで生き残るキャラということが多いようです。オタク系(Nerd)の男というのも外せないキャラで、身体的に不自由だったり、いかにもスポーツが苦手でトロそうという役回り・・・どう考えても、スポーツ系のマッチョと友達とは思えないのメンバーなのにグループに入っているのは、女性キャラの兄とかという設定にしていることも多かったりします。マッチョとキャラ的にはかぶりながらも、敵対する存在で登場する事があるのがライバル(Rival)。どうしたら良いのかの決断場面でリーダー格のマッチョと口論になる・・・というのが、ありがちなパターンですが、最近の傾向としては”白人”ではなく、アフリカ系やラテン系という場合が多いようです。いかにもスポーツばっかりで頭悪そうなマッチョ役と対比するように、お勉強のできる真面目なキャラというのもありがちかもしれません。その他、”白人”でない女性キャラを登場させることも多く、その場合には、分かりやすい”ステレオタイプ”そのものを演じさせられます。アフリカ系なら、とにかくぎゃーぎゃー騒ぐ、ラテン系なら気が強い、アジア系ならミステリアス・・・という具合でしょうか?「13日の金曜日」的なティーン・ホラー映画に欠かせないのは、人種的にも、キャラ的にも、最低限のステレオタイプのバリエーションを揃えるというのは”お約束”ではあるようです。

「キャビン・イン・ザ・ウッズ」は「13日の金曜日」的なティーン・ホラー映画の”お約束”を、これでもかというほどなぞっていく、ベタで典型的な設定と展開になっていますが・・・「ハロウィン」に対する「スクリーム」ような、この手の映画にありがちな”お約束”を”逆手”に取った作品であることが分かります。まず、登場人物は見事なほど典型的なキャラを揃えています。金髪バカ女、リーダー格のマッチョ、赤毛のヒロイン、ヒロインの恋人でアフリカ系(ラテン系のミックス?)の男、そしてマリファナ中毒の男友達・・・という5人。途中で立ち寄ったガソリンスタンドでは、不気味な男が「そっち行くんじゃなぇ!」と注意するというベタっぷりです。到着する森の小屋も、ホラー映画で何度も観て来たような佇まいの、イカニモ危ない小屋・・・登場人物達のやり取りも、この手のホラー映画にありがりな、どうでも良いような”いざこざ”でしかありません。

しかし、本作が違うのは、若者達が入り込んだ森や森の小屋というのが、どこかしらの指令室でモニタリングされ、その環境がコントロールされているという事・・・これってケーブルテレビで放映されている「リアリティショー」の”やらせ”みたいに見えます。地下室で発見した謎の呪文を読み上げることによって、墓場から蘇るゾンビ一家・・・しかし、これは、指令室ではギャンブルでもするかのように、彼らが何を選択するかを賭けていたりします。まるで”お約束”のように金髪バカ女とマッチョが森の中でチチクリ始めるのですが・・・金髪バカ女が「涼しい」と言って服を脱がないでいると、指令室では気温と湿度を上げたりします。期待通り、服を脱ぎすてエッチを始める二人に、ゾンビ達が襲いかかります。しかし、これはテレビ向けの”やらせ”なんかではなく・・・金髪バカ女はゾンビ達に捕まって、あっさりと惨殺されてしまいます。

どうやら若者達は自分たちがモニタリングされていることなど全く知らないようで・・・マジでゾンビに襲われているようなのです。オタクは小屋からゾンビに連れ去られてしまいます。ヒロインとアフリカ系のボーイフレンド、マッチョの3人は車で逃げようとするのですが、何故か崖から橋がなくなって渡れません。勿論、指令室で地形さえもコントロールされているのです。バイクで崖を乗り越えようとしたマッチョは、見えない電磁波の壁のようなものに阻まれて、谷底へ落ちていきます。結局、ヒロインとボーイフレンドは小屋へ引き返すハメになるのですが・・・その途中でボーイフレンドは喉を切られて殺されてしまいます。こうしてヒロインは一人で森の小屋に舞い戻ってくるしかないんです。一体、森の天候から地形までコントールして、ゾンビまでを修験させる指令室というのは、何なんでしょうか?

この後、とんでもなく雄大な物語へと発展していきます。「13日の金曜日」だけでなく、サム・ライミ監督の「死霊のはらわた」、ピーター・ジャクソン監督の「ブレインデッド」、さらに今まで作られたホラー、ファンタジー、モンスター映画も全部入れて・・・・最後には「プロメテウス」的(?!)なテーマさえも彷彿とさせるトンデモナイ作品なのです。司令室のトップのディレクターの正体は・・・なんと「宇宙人ポール」のあの人。そして、この司令室が行なうとしている計画が明らかにされるのですが・・・その風呂敷の広げっぷりには、かなりの無理があります。また、脚本も演出も、まだまだ良くなる余地はありそうだし、相変わらずクリス・ヘムズワースの超大根っぷりにはシラけ、正直言って映画の出来としては”お粗末”・・・しかし、使い古された「ティーン・ホラー映画」ネタを、誰もが予想だにできない”オチ”へ、強引にでも引っ張っていくパワーは、ただ「あっぱれ!」なのであります!

「キャビン」
原題/The Cabin in the Woods
2012年/アメリカ
監督 : ドリュー・ゴダード
脚本 : ドリュー・ゴダード、ジェス・ウェドン
出演 : クリス・ヘムズワース、ジョシ・ウィリアムス、アナ・ハッチソン、フラン・クランツ、裏チャード、ジェスキンス、ブラッドリー・ホイットフォード、シガニー・ウェイバー

2012年9月16日「第5回したまちコメディ映画祭 in 台東」映画秘宝まつりにて日本プレミア公開
2013年3月9日より日本劇場公開


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2012/09/08

”ミヒャエル・ハネケ節”を継承するオーストリア映画監督マルクス・シュラインツァー(Markus Schleinzer)・・・児童性虐待男(ショタコン)と監禁された少年を淡々と描く”超不快映画”~「ミヒャエル/Michael」~


性的嗜好が、どのように構築されるのかという説はいろいろあるけれど、年齢相応の異性に対して性的な興奮を覚えるのであれば、世間一般的には「普通」ということになるのでしょう。熟女好きとか、デブ専とかならば、ひとそれぞれの嗜好は自由ということで片付けられますが、子供に対して性的な行為を行うのは「犯罪」・・・国によっては、児童への性的犯罪者として、当局より死ぬまで監視される対象になってしまうのです。

日本では、いわゆる「ロリコン」=「少女」を性的な対象とした嗜好ばかりが目立ちます。小学生(12歳以下)の少女が、明らかに性的イメージを刺激するようなポーズをしている、水着DVDが販売されているというのは、世界的にみると、かなり異常な状況だと思います。アメリカでは、児童を被写体としたポルノに対して、非常に厳しい刑罰を科していますが・・・「少女」だけでなく「ショタコン」と呼ばれる「少年」を対象にすることが、かなり多かったりします。

いすれにしても、まだ性的に成熟していない「純粋さ」が、虐待者にとっては魅力なのかもしれませんが、そのような嗜好を共感しない者としては、ただただ虫酸の走るような気持ち悪さでしかありません。相手が「少女」にしても「少年」にしても、虐待者となるのは、だいたい「男性」・・・大人の女性が、小学生の男子を襲うというのは、男性の妄想としてはありえても(自分が少年の立場で女性に誘われる)女性の性的な欲望ではないような気がします。

さて・・・「ミヒャエル/Michael」は、ミヒャエル・ハネケ監督のキャスティング・ディレクターとして「ピアニスト」「白いリボン」などに関わったマルクス・シュラインツァー/Markus Schleinzer監督による”性的児童虐待者”の日常を描いた長編第1作であります。師であるミヒャエル・ハネケ監督の作風を受け継いだような人間性への「不信感」や「悪意」を浮き彫りにするようなテーマ・・・さらに、観る者を突き放すような淡々とした描写が、血の気の引くような”トラウマ”として観賞後も残ってしまうのです。

保険会社に勤める35歳のミヒャエルは、大人しそうで几帳面な普通の独身男・・・薄らとハゲ始めて、正直見た目はパッとしません。実は彼の自宅の地下室には、誘拐してきたらしい10歳の少年を監禁しているのです。帰宅すると二人分の夕食を準備して、家中のブラインドを閉めて、地下室に少年を呼びにいきます。(予告編では、ここまでのくだり)少年には”ウルフギャング”という役名は与えられているようですが、本編でミヒャエルが少年を名前で呼ぶことはありません。


食後、少年を地下室へ連れ戻すのですが・・・しばらくしてから、部屋から出てきたミヒャエルが、洗面所でペニスを洗っているシーンによって、少年への性的な虐待を伺わせます。共に食事をしたり、後片付けをしたりしている姿は、シングルファーザーと息子のようですが・・・少年を監禁している虐待者には変わりありません。少年が監禁されている窓もない地下の部屋に意外に広く、キチンと整理整頓され清潔、トイレや水道も完備しているようです。おもちゃやテレビもあり、インスタント食品が備蓄され(旅行などで家を空ける時には、十分な買い置きしておく)お湯を沸かして食事ができるようにはなっています。しかし、その部屋への電気の供給はミヒャエルによって管理されており、少年は自由にテレビを観たり、食事をする事はできません。

犯罪者でありながら、ミヒャエルは会社では普通の会社員・・・一見すると、几帳面で大人しい真面目な社会人です。ミヒャエルの向かいに叔父が住んでいるという同僚の女性は、ミヒャエルに気があるようなのですが・・・ミヒャエルは、彼女には無関心。しかし、女性に興味が一切ないというのではなく、友達と出掛けたスキー旅行では、ウェイトレスに気に入られて、閉店後に店内でセックスしたりもするのです。ただ、挿入する際に、すぐに勃起できなくて手間取ったりというのが・・・なんともリアル。少年を性的虐待する=同性愛者というわけでもないという「ショタコン」の不可解さを感じさせます。

少年は監禁されているからとはいっても、まったく外へでないわけではありません。仕事の休みの日には、車で出掛けたりもするのです。勿論、ミヒャエルは少年と手を繋いだり、首根っこを捕まえられていて、逃げられる状態ではありません。ハイキングをして展望台まで登ったところで、ミヒャエルが双眼鏡で少年に何かを覗くように指示をするのですが、少年は何故かミヒャエルの見せようとしているモノを見ることができません。それは、まるでミヒャエル少年は決して同じモノを見れていないという・・・犯罪者と被害者の「断絶」を感じさせます

ハイキングから帰宅後、少年は高熱を出してしまい、薬を与えても回復しません。まるでミヒャエルは賢明に看病している様子ではあるのですが・・・病気が悪化すると、面倒なことになるという自己中心的な心配の仕方であることも、何気ない行動から垣間見えます。すぐに良くなりそうもない様子にパニックを起こすると、ミヒャエルは山奥へ車で出掛けて、大きな穴を掘り始めるのです。万が一、少年が死んでしまったりしたら埋めるつもりなのでしょう・・・もしかすると、病院へ連れて行かなければ治らないような病気になっているとしたら、監禁していることがバレるのを隠すために、少年を殺そうとしているのかもしれない・・・などと、不穏な気持ちにさせらるのです。ただ、少年はすぐに元気にはなるのですが。

クリスマスには、一緒にツリーを飾ったり、カード交換をするミヒャエルと少年。手作りのカードを受け取った後、ひとりですすり泣くくせに、そのカードは燃やしてしまうミヒャエルの不可解さ・・・少年との関係を求めながらも、人間的なコミュニケーションは受け入れられないのでしょうか?。少年は、たびたび彼の親宛に手紙を書いて、ミヒャエルに託しているのですが・・・勿論、その手紙が郵送されることはありません。それだけでなく、少年を追い詰めるように「おまえの親は、こんな子はいらないって言っているんだ!」と、精神的に少年を追い詰めていきます。

エロホラー映画(?)の「これはナイフだ。そして、これが俺のチンポだ!」という台詞を気に入ったミヒャエルは、食事中に少年相手に実演してみせます!ズボンからチンポだけをだして薄ら笑いしているミヒャエルに冷たい視線を送る少年・・・具体的な性的な行為をみせる本編では唯一のシーンです。地下室でミャエルから「こっちへ来い!」と命令される時にみせる少年の切ない表情は、いかに性処理道具として扱われている状態に、鬱屈した不満を抱えているかを感じさせます。

ある日、ミヒャエルはひとりでゴーカート乗り場へ出掛けていき、そこで遊んでいる少年を物色してします。ひとりっきりで閉じ込められている少年の淋しさを紛らわすためなのか・・・それとも、すでに知恵を付け始めた少年を、死んだ野良猫のようにお払い箱にするために、新しい獲物を狙っているのでしょうか?巧みに話題を合わせて、少年を遊びから連れ去るミヒャエル・・・しかし、もうちょっとのところで少年は父親に呼びとめられます。その声を無視して、淡々と歩く速度も変えずに、その場を去っていく様子は、すでに監禁している少年も、似たように誘拐されたことを示唆するようです。

ミヒャエルに気があるらしい同僚の女性が、迎えの住む叔父を訪ねた帰りだと言って、勝手にミヒャエルの家に入りこんできます。地下に監禁されている少年を見つけて欲しいと願うとともに、図々しく他人の家に入り込む、この女性の無神経さにも不愉快で・・・スゴい剣幕で同僚の女性を家から追い出すミヒャエルの逆ギレっぷりには、どこかスッキリとさせられてしまいます。そんなミヒャエルも職場では、定年退職するマネージャーのポジションに、昇進することが決まります。お祝いの職場のパーティーでのミヒャエルは、いつになく同僚達にフレンドリー・・・ちょっとお酒も入ってご機嫌で帰宅すると、思いもしなかった少年の反撃が待っていたのです!

ここからネタバレを含みます。

この夜、ミヒャエルは職場のパーティーで遅くなるため、地下の部屋の電源をつけっぱなしで出掛けていました。少年は電気やかんいっぱいのお湯を沸かして、待ち構えていたのです。ミヒャエルがいつものように部屋に入って来たと同時に、少年は沸騰しているお湯をミヒャエルにぶっかけます。しかし、やけどで苦しみながらも、ミヒャエルは少年を押さえつけて、地下の部屋へ押し倒して、再び大きなカギでドアを閉めてしまうのです。

やけどを負ったミヒャエルは、自分で車を運転して病院へ向かうのですが、その途中でミヒャエルの車はガードレールに激突して爆発・・・あっさりと即死してしまいます。自業自得ともいえる事故なのですが、一体地下の部屋に残された少年はどうなってしまうのでしょうか?

映画は、ミヒャエルの母親が地下室のドアを開けて、内部を覗いた瞬間に唐突に終わります。

希望的な結末としては、蓄えられていた食料によって、少年は無事に生き延びていると思いたいです。ミヒャエルの死後、どれほど時間が経っているのかハッキリとはしていません。葬式を済ませた週末のようななので、早くて1週間程度かもしれませんし、郵便物の溜まり方からすると、もっと時間が経っているのかもしれません。ただ、少年が衰弱死、餓死、または、自殺していたとしても不思議ではない状況・・・少年の様子を映すことなしに映画は終わります。

結末が分からないまま、観客は消化不良状態で突き放されてしまうわけですが・・・それだからこそ、実際に犯罪を目撃したかのように、いつまでも拭えない”不快さ”を観客は抱えさせられてしまうのです。

「ミヒャエル」
原題/Michael
2011年/オーストリア
監督 : マルクス・シュレンザー
出演 : ミヒャエル・フイス、デヴィット・ロウシェンバーガー
日本劇場未公開/2013年5月2日国内版DVDリリース


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2012/08/27

「ビフォア・サンライズ」よりも、もっと切なく美しい!・・・愛を信じたいゲイと愛を信じないゲイの奇跡の週末のラブストーリー~「ウィークエンド/Weekend」~



日本では殆ど制作されることがないジャンルの映画のひとつが、”ゲイの観客”をターゲットにした”ポルノではない”ゲイ映画”ではないでしょうか?アメリカやヨーロッパに限らずアジアなどの各国でも制作されていて・・・政治的なメッセージを持つシリアスな作品から、セクシャリティーを大胆に描いたもの、おバカなラブコメディまで、幅広いジャンルがあります。ただ、低予算のインディーズ作品という場合が殆どで、大々的に劇場公開されることはほ殆どなく、ゲイの人口の多い大都市での単館上映だったり、ゲイ映画祭やDVD販売でしか観ることはできないことが多いようです。いわゆるポルノ映画(AV)ではないのでハードコアのセックスシーンはありませんが、「ブロークバック・マウンテン」程度のセックスシーンは当たり前・・・一応、成人映画(18歳未満不可)なので、○ン○ン丸出しも普通にあったりします。またキャストは、いかにもゲイ好みの役者ばかり揃えて・・・という感じで、一般向けに作られた”ゲイを描いた映画”とは、明らかに違うオーラを放っています。

「ウイークエンド」はインディペンデント系の映画祭で高い評価をされたイギリスの”ゲイ映画”で・・・ゲイ版「ビフォア・サンライズ/恋人までの距離」として、ストレートとかゲイとか関係ない”普遍的な恋愛映画”と紹介されていることが多かったりします。ゲイ以外の観客が、二人のゲイ男性のセックスについての会話に共感することも・・・あるのかもしれません。しかし、それは性別やセクシャリティーを超えて「人として」というような普遍的なものではなく、本作で描かれるのは”ゲイだからこそ”の論点であります。

「ビフォア・サンライズ/恋人までの距離」は、1995年に公開されたイーサン・ホークとジュリー・デルピー主演のラブロマンス・・・興行的には、それほど成功しなかったものの、好きな一作にあげるファンも多い作品です。プタペストからパリへ向かう列車の中で、偶然出会ったウィーンへ向かうアメリカ人男性とパリへ帰るフランス人女性が、ウィーンで下車して、翌日の朝まで語り合って過ごすというお話・・・とは言っても、ウィーンという美しい街の観光映画ではありません。知り合って間もない男にヒョコヒョコ付いていくヒロインに違和感は感じるものの・・・洒落た二人の駆け引きから目が離せなくなってきます。全編に渡ってトコトン語り合う二人・・・哲学的な話、くだらない話、過去の恋愛など、お互いの価値観をぶつけ合って、次第に深く惹かれ合っていきます。しかし、翌朝にはそれぞれ帰路につかなければならない二人は、肉体的に結ばれることはないまま、連絡先を交換することもなく、半年後の再会を約束して別れたところで映画は終わります。

「ウィークエンド」は、イギリスの地方都市ノッティングハムが舞台です。ロンドンとかゲイの人口の多い大きな都市でないというのが、いい雰囲気を出していて・・・木々の囲まれた団地が美しく撮られています。一眼レフカメラのような背景のボケ感、絶妙な位置に固定されたカメラによって切り取られた画面、長回しワンショットでの長台詞の会話シーンなど・・・まるでプライベート・ビデオを観ているような感覚(良くも悪くも!)で、独特の感触を生み出しています。

プールの監視員をしているラッセル(トム・コルン)は、いつものように金曜日の夜、ストレートの友人のジェイミー宅と過ごします。彼の娘のゴットファザー(名付け親)になるほど親しい間柄・・・というのも、ラッセルとジェイミーは、共に生みの親を知らない孤児で12歳のときからの親友であることが、後に会話から判明します。

カミングアウトやゲイに対しての偏見とかを描く意図のない本作では、ジェイミーを始めストレートの友人たちは、ラッセルがゲイであることを自然に受け止めているようです。それでも、ラッセルは疎外感のようなものを感じているようで・・・明日、仕事があるからと早々と彼らの家を立ち去り、ひとりでゲイバーへ向かうのです。ひとりでゲイバーで佇んでいても、手持ち無沙汰なもの・・・漠然と孤独感からは逃れなかったりするものです。ラッセルは、気になる男を追ってトイレにまで付いていきますが、あっさりフラれてしまいます。そこで、ラッセルは別な男とイチャイチャ・・・でも、結果的には、最初にトイレまで追っていった男を自宅にお持ち帰りしたのでした。

ワンナイトスタンド(一夜限りのエッチの相手)のつもりで連れ帰ったのは、アーティスト志望で、ギャラリーで働くグレン(クリス・ニュー)・・・朝起きるやいなや、グレンは自分のアートプロジェクトという名目で、ボイスレコーダー片手に昨晩の出会いから、セックスした感想などの質問していきます。ワンナイトスタンドの翌朝というのは、なんとも微妙な時間・・・この時に初めてお互いの名前を名乗ったり、連絡先を交換したり、お互いの恋愛ステイタス(彼氏がいるとか、同居している相方があるとか)を確かめ合ったりすることもあるのですが、いきなり自分の感情を説明させられるというのは、とっても奇妙なことに違いありません。

朝に一度別れたものの、同じ日の土曜日には、ラッセルの仕事終わりに待ち合わせて、再び一緒に過ごす二人・・・ラッセルの家に戻って、お互いのアイデンティティーを形成するセクシャリティーを赤裸々に語り始めます。グレンは、ゲイであることを誇り(プライド)としていると同時に、ゲイであることに対しての皮肉に溢れています。逆に、ラッセルは普通にゲイとして生きているタイプ。理解のあるストレートの親友にも恵まれているけれど・・・彼らに自分の恋愛のことは決して語ったりしはしません。ゲイであることを恥じているから?ストレートの親友は本当の親友なのだろうか?カミングアウトして、社会的な偏見からも開放されているにも関わらず、自分自身の偏見の呪縛から、実は逃れていないのかもしれない・・・そんな現在のゲイの心情を見事にあぶり出しているのです。

ワンナイトスタンドとして始まった二人の関係は、いつしか忘れがたい関係へと発展していくのですが・・・ここでグレンが告白します。明日(日曜日)、オレゴン州ポートランドの美術大学へ留学するというのです。それも、最低で2年、もしかするともっと長い期間になるかもしれないと・・・。でも、あからさまに傷ついたり落胆するほど、二人の関係が煮詰まっているわけでもありません。ラッセルは、ただ受け入れるしかありません。

さよならパーティーに顔を出したラッセルは、グレンの元カレとの経緯や取り巻く環境を知ることになるのです。結局、土曜日の夜も、再びラッセルの部屋で過ごすことになります。自分のセックスに関して、語りたがらなかったラッセルは、実は過去の男性経験を事細かにパソコンに書き残していて、グレンに読み聞かせます。お互いの過去の男性経験や同性婚について語り合ううちに・・・ボーイフレンド/パートナーを求めているラッセルと、ボーイフレンド/パートナーなんていらないと言い張るグレンの根本的な確執が露になってきます。それでも、お互いに惹かれ合い、カラダを求め合うことには歯止めが利きません。

ここからネタバレを含みます。

ボク個人の趣味ですが・・・ラッセルを演じるトム・コルンがあまりにも素敵で(典型的なハンサムと言えばハンサム)彼が画面に映っているだけで目が離せなくなってしまいまいました。アンドリュー・ヘイ監督は、まずトム・コルンをキャスティングしてから、画的な相性のテストを繰り返してクリス・ニューをキャスティングしたそうで、本作にはトム・コルンの魅力的な存在は欠かせないのです。ただ、冷静になって考えてみれば、この俳優さんは1985年生まれの27歳(おそらく撮影時は26歳?)・・・「自分の息子の年齢じゃん!」と思うと、なんとも複雑な気持ちにさせられるのでした。ちなみに、トム・コルンは私生活ではストレート・・・ボクは完全に騙されました。

日曜日の早朝、まどろみながらベットの中で、グレンがラッセルの父親を演じて、ラッセルにカミングアウトするように言います。孤児で血のつながった父親を知らないラッセルにとって、そんな状況が現実には起こることはあり得ません。「ボクはゲイで女の子が好きじゃないんだ」とカミングアウトするラッセルに、父親役のグレンは、こう答えるのです。「そんなことはどうでもいいことだよ。今までと変わらず愛している。最初に月にいった男になるよりも誇りに思っている・・・」かなり大袈裟な言い回しではあるけど、これはグレンが彼の父親から言われたかった言葉なのでしょう。いや、ゲイの多くの人が、父親からこんな言葉を聞くことができたら・・・と妄想してしまうのかもしれません。

日曜日の昼過ぎには予定通り、ジェイミー宅へ子供の誕生日パーティーに参加しているラッセルですが、気持ちはそこにあらずといった様子です。それを見兼ねて、ジェイミーはラッセルを家の外に呼び出します。今まで、自分のゲイライフについて話すことを避けてきたラッセルですが、思い切って話してみると・・・「それなら駅へグレンを見送りに行くべきだ!」と、娘の誕生日の最中にも関わらず、ジェイミーは車を運転して駅まで送り届けてくれるのです。ジェイミーとラッセルの間にあったストレートとゲイの”壁”というのは、ラッセル自身が自分で勝手に築いていたものであったことに気付かさせます。

「さよなら」を言われるのは嫌いだというグレンは、見送られることを極端に嫌がっています。それは、何かを期待して裏切られる辛さを経験してきたからなのかもしれません。本当はグレンも「愛」や「ボーイフレンド」だって、全部信じたい・・・でも、傷つくことを恐れている自分がいて、「愛」に皮肉になってしまうです。別れのシーンでラッセルがグレンに何を語ったのかは、列車の音で聞こえません・・・その言葉は「愛」を信じて行動したことがあるなら、観客も自分の心に持っているはずなのです。その言葉を受け止めて・・・グレンはアメリカへ旅立っていきます。

もう二度と会わないかもしれない・・・それでも、二人の出会いは「本物」であったという「確信」は「永遠」なのです!

余談ですが・・・「ビフォア・サンライズ」には9年後を描いた「ビフォア・サンセット」という続編が制作されました。余韻を残した前作を見事に裏切る内容で・・・続編というのも”善し悪し”だと思いました。「ウィークエンド」の続編はいりません。




「ウィークエンド」
原題/Weekend
2011年/イギリス
監督&脚本 : アンドリュー・ヘイ
出演    : トム・コルン、クリス・ニュー
2012年9月15日/「第21回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」にて上映



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2012/08/23

インドネシア産「悪魔のいけにえ」は血糊たっぷりのスプラッター”ちゃんぽん”映画・・・シャリーフ・ダーニッシュの怪演が”ミソ”なの!~「マカブル 永遠の血族」~



インドネシアで制作されたアジア映画史上最凶のスプラッター映画があるらしいという噂では聞いていたものの・・・日本では劇場公開されずに、DVDスルーとなっていた「マカブル 永遠の血族」を、遅ればせながらDVDで鑑賞しました。

前評判どおりインドネシア版「悪魔のいけにえ」といえる物語でありましたが、いろいろなスプラッター映画にオマージュを捧げた(パクった?)ような”ちゃんぽん”で・・・随所に痛々しい描写は満載ではあるのですが、ゴア的な要素は若干控えめという感じです。それでも「インドネシアにスプラッター映画あり!」と世界に知らしめた一作であるような気がします。インドネシア人というと、ミクロネシアっぽい人種を想像してしまうのだけど、本作に出演している俳優さんたちは、東南アジア系の風貌の人も入れば、中国系っぽい人もいるし、どこかの西洋人ともミックスしていそう・・・さらに、インド系も混じっているようにも見えるところもあり、結構、人種的には多種多様なんだということを知りました。

物語は、スプラッターにはよくありがち・・・新鮮な展開や、突出したオリジナリティーというのは、正直感じられません。父と母を交通事故でなくしたアジとラディアという兄妹・・・親の遺産を手にしてオーストラリアに移住するという兄アジと妊娠中の妻アストリッドをジャカルタの空港まで見送るために、アジの男友達3人(アラム、エコ、ジミー)と、妹ラディアの6人で車で出発することとなるのです。親の事故とか、遺産とかは、その後の物語に一切関係はないってところも、スプラッター映画にありがちな深い意味のない伏線なのかもしれません。

突然降り出した雨の中、いきなり車の前に現れた若い女性マヤを、6人は森の中の屋敷まで送り届けることになります。屋敷に到着して帰ろうとする6人を、母に紹介したいと無理矢理に屋敷の中へと誘うマヤ・・・実は、この屋敷に住むのは、不老不死のために人肉を食う一族であったのです!屋敷の女主人のダラは、マヤの母親とは思えないほど若々しく、二人いる息子たちは、まったく似ていなくて、兄はデブで無口、弟は冷たいハンサム・・・母親ダラは、娘を送り届けてくれたお礼に、ぜひ夕食をごちそうしたいと6人を引き止めるのです。勿論、この段階では観客には、彼らが何者かであるとか、殺す目的は何かなど、まったく分からないのですが・・・この家族は見てからにして怪し過ぎます!

ここからネタバレを含みます。



食事に薬を盛られて眠ってしまった彼ら(ラディア、エコ、ジミー)は、気がつくと倉庫のような部屋に縛られて拘束されています。別室では男友達のアラムが手術台に縛られており、デブの兄によって首をチェーンソーであっさり切られて殺されてしまいます。ここら辺のくだりは、あきらかに「悪魔のいけにえ」や「ホステル」シリーズを思い起こさせます。ヒロインの妹ラディアは、危機一髪のところデブの兄に逆襲して、逃げることに成功するわけですが・・・ここからは、血みどろになるばかりではなく、顔じゅうボッコボッコの腫れ上がるまで、壮絶な事態が待ち構えております。

さて・・・アジと身重のアストリッドは別々に拘束されてしまっているのですが・・・何とか逃げ込んだ屋敷の一室で、アスリッドは出産するというトンデモナイ事態になってしまいます!どうやら、女主人から出産を促進する薬を盛られたようなのです。血みどろの状態でアスリッドは何とか男の子を産み落とすのですが・・・勿論、赤ん坊は女主人ダラによって持ち去られてしまいます。「屋敷女」以来、妊婦に対する暴力描写が世界的に解禁されてしまったようなところがあって・・・「ムカデ人間2」でも、「ドリームホーム」でも、「セルビアン・フィルム」でも、妊婦はいたぶれまくってます。スプラッター描写の耐性が高いボクでも、妊婦への暴力シーンというのは耐えられません。ショッキングさを追求して、行き着いた先が”妊婦”なのでしょうか?

この一族は不老不死というだけでなく、何故かスゴい怪力の持ち主でもあり、倒しても倒しても生き返ってくるという、人間を超えた存在になっているようです。刺されようとも、焼かれようとも、銃で撃たれようとも、何度も起き上がって襲ってくるのは、まるでモンスターのようでもあります。人肉を食うことで、これほどの能力が身に付くというのは、正直、理解には苦しむところです。屋敷に立ち寄った3人の警官らを含めて、ラジャと赤ん坊以外は、結局、殺されてしまいます。血で床一面が真っ赤に染まった屋敷で、女主人ダラとアジェの死闘となるのですが・・・チェーソーを持って追いかけてくるダラは、まさに女版”レザーフェイス”!物凄い形相でチェンソーを振り回している姿は、トラウマになりそうなほどです。最終的には、ヒロインと赤ん坊は生き残り・・・殺人鬼は最後の最後になっても、まだ生きている痕跡を見せるというのも、スプラッター映画のお約束を守っております。

他のインドネシア映画が、どういうものなかは全く知りませんが・・・本作に関していえば、あらゆるスプラッター映画を研究していて、血糊の分量では、世界的にも負けていないと言えるでしょう!しかし、なんと言っても本作の”ミソ”は、シャリーフ・ダーニッシュという女優さんの、台詞は”棒読み”の不思議な怪演に尽きるのであります。




「マカブル 永遠の血族」
原題/Macabre
2009年/インドネシア、シンガポール
監督/脚本 : モー・ブラザーズ
       (キモ・スタンポーエル、ティモ・ティヤハヤント)
出演    : シャリーフ・ダーニッシュ、アリオ・バーユ、ジェリー・エスティール、シギ・ウィマラ、メルダ・セリーヌ、アリフィン・プトゥラ


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2012/08/11

「ナチスが月から攻めてくる!」ってなわけないだろう!?・・・フィンランド発!アメリカを筆頭に世界を皮肉に茶化す超おバカなSF政治コメディ~「アイアン・スカイ/Iron Sky」~



ドイツの”ナチス”は、人類の起こした最悪の犯罪のひとつではあるのだけど・・・第二次世界大戦後は、散々残酷映画のネタにされたものです。それは戦争に勝った国々(西ヨーロッパやアメリカ)からすれば当然のことで・・・”ナチス”は世界の誰もが認める悪者だということ。”ナチス”以外にも、冷戦状態にあったロシアだって、テロリスト扱いのイスラム圏の国々だって似たような扱いを受けているのですが、やっぱり悪者といえば”ナチス”。歴史的には”悪”の烙印を押されるのは当然ですが・・・いつまでも”ナチス”の悪者として描かれ続けなければならないドイツ人って、ちょっと気の毒な気もしてしまいます。

中国、韓国からみたら、日本だって”ナチス”ぐらいに”悪者”ではあるわけで、日本人(日本軍)を悪者にした映画も相当数製作されています。日本人=悪者とするステレオタイプは、隣国からなくなることはないのかもしれません。ただ、日本人の国民性やカルチャーも欧米で好意的に受け取られているおかげもあってか、世界的に日本=悪者という図式が当たり前とまでなっていないのは救いではないかと思います。

日本人からすると、時間や規則をしっかりと守りそうな国民性や、工業国として親近感を感じるドイツ人ですが・・・ヨーロッパの国々からは決して好かれているわけではないようなんです。ドイツ人が集まるリゾート地はドイツ以外のヨーロッパの人が来なくなってドイツ人だけになってしまう・・・と言われるほど。ビールを飲んで騒いで野蛮、文化の繊細さに欠けると国民性が、どうやら毛嫌いいるらしいのです。確かに経済ではユーロ圏を牽引しているドイツでありますが・・・なんとなく嫌煙されているからこそ、いまだに”ナチス”という過去を持ち出されてしまうというのかもしれません。

フィンランド人のティモ・プオレンソーラ監督による「アイアン・スカイ/Iron Sky」は、世界各国の映画ファンやSFファンから出資を募って、総制作費の750万ユーロのうち、約65万ユーロを個人からのカンパを集めてしまったという・・・”全世界待望”(?)されているに違いない一作なのです。アメリカでは決して評判は良くなかったようですが、ヨーロッパ各国では大ヒット・・・すでに、続編と前日譚の製作も決定しているそうです。

2018年、月に資源調査にでかけたアメリカの「リバティ号」・・・実は月面裏側に逃げ延びていたナチスは反撃の機会を狙っていたのです!ナチス軍営の総統を演じるのは、毎度”この手の役には”お馴染みのウド・キアー。これだけでも、かなり”おバカ映画”の確信犯さを垣間見せているのですが・・・ナチス軍営が「悪役」というわけでは全然なく、地球側(アメリカ)も酷い(!)・・・どちらも馬鹿にしているところが、ドイツとアメリカ以外の国にとっては、笑いのツボかもしれません。

”サラ・ペイリンのそっくりさん”の保守系アメリカ女性大統領が、とにかく酷い・・・黒人宇宙飛行士を月に送ったのも、彼女が”大統領再選”を狙っての人気取りのためだというのですから!月でナチスに捕らえられてしまった黒人宇宙飛行士は、白人になってしまう薬を投与されてしまいます。ナチスはユダヤ人迫害で知られていますが、黒人に対しての差別も強いものでした。ただ、黒人が白人にされてしまう設定って、アメリカ人(黒人、白人、どちらも)からすると、あまり心地よいものではありません。アルバイノの呼ばれる色素異常で黒人の血を引き継ぎながら色素のなく、ブロンドでブルーの瞳という黒人も存在するのですが(マイケル・ジャクソンも色素異常を主張していた)・・・非常にデリケートな問題です。真面目なドキュメンタリー報道番組でも取り扱われることも殆どなく・・・白人が黒塗りで黒人になる、または、黒人が白塗りで白人になるというのは、ジョークにしてもギリギリなような気がします。

アメリカ側の参謀たちは、妙にセクシーな若者ばっかり・・・司令官となる女性はみてからに品がなく、黒いラバースーツに身を包んで羽根を背負って宇宙戦艦で指示を出しているのは、まるで悪役にしか見えません。「第一期で戦争を始めた大統領は第二期にも再選されるわ~」と”ナチス”のニューヨーク襲撃を大歓迎・・・「オーストラリアとか爆弾投下する必要がなくなったわ」とは、なんとも不謹慎。国際会議で勝手に”ナチス軍”と戦争を始めたことを突っ込まれると「約束破るのは、アメリカのいつものやり方よ」と開き直る始末。北朝鮮が「我々の仕業だ~!」と悪ぶってみても「おまいらに、そんな技術はないよ」と、誰にも相手にされません。日本なんて、それ以前に存在感なしですが・・・唯一、アメリカの言うことを聞かずに戦争に参加しないのが、フィンランドというところは、監督の母国へのリスペクトなのでしょうか?

ここからネタバレを含みます。

ただ、おバカなパロディ映画にしては、宇宙の戦闘シーンはしっかりと作られております。明らかにエンタープライズ号を意識したコックピットに、スターウォーズっぽい音楽・・・ただ、ナチスは宇宙船まで開発しているくせに、コンピューター技術は遅れていてスマートフォンとか信じられないというありさま。結局、アメリカ軍がナチス軍を制圧するのですが・・・月面には人類の夢のエネルギー/核融合に必要なヘリウム3の鉱山がナチス軍によって発見されていた事がが分かると、その利権をアメリカが勝手に主張し始めます。結局・・・世界各国が利権を争って戦い、地球の国々は自爆してしまうのですから、なんという皮肉。その時に流れるのがアメリカ国歌というところは、かなり意地悪い・・・アメリカで人気なかったのも納得です。ナチスの女性司令官と黒人宇宙飛行士(白人から黒人に戻って)が、月に残されたナチスの基地で結ばれるというハッピーエンドなのか分からないエンディングも、ハリウッド映画とはひと味違います。B級映画のパロディと全世界を敵にまわすような政治風刺の好き放題っぷりが、”あっぱれ”な作品なのでした。




「アイアン・スカイ」
原題/Iron Sky
2012年/フィンランド、ドイツ、オーストリア
監督 : ティモ・プオレンソーラ
出演 : ジュリア・デーツ、クリストファー・カービー、ゲッツ・オットー、ペータ・サージェント、ステファニー・ポール、ウド・キアー
2012年9月28日より日本公開


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2012/08/04

ファッションの未来性を示した”コム・デ・ギャルソン”と”ヨージ・ヤマモト”を超えるデザイナーの不在・・・・30年を振り返るにはあまりにも貧しく偏った展示~「FUTURE BEAUTY 日本ファッションの未来性」東京都現代美術館~



2010年〜2011年にロンドンとミュンヘンで開催された「FUTURE BEAUTY 30 Years of Japanese Fashion」展に、新たな作品(2000年以降に設立された15ブランド)を加えてヴァージョンアップした「FUTURE BEAUTY 日本ファッションの未来性」が、東京都現代美術館で開催されています。歴史を振り返る展覧会で、ボク自身がリアルタイムで目撃してきた内容の展覧会というのは初めて・・・それだけボクが年取った証拠ではあるわけですが、リアルタイムで体験しているからこそ、どの部分をピックアップして編集されているのか、どうしても厳しい目で見てしまうものです。

思い起こせば・・・ボクがファッションに目覚めたのは18歳の頃。1981年に渡米する直前のことでした。高校在学時代は、ファッションに全く関心がなく、母親が買ってきた服を文句も言わずに素直に着ていたのです。一ヶ月ほど先の渡米を控えて、初めて自分で服を購入しました。アルバイトで溜めた10万円を握りしめて、ボクは今はなき”パルコPart3”へ向かったのでした。どういう情報を元に、ボクがパルコへ向かったのか全く記憶がないんですが・・・当時のパルコPart3の地下はメンズフロアで、コム・デ・ギャルソン、ヨージ・ヤマモト、DOMON(トキオ・クマガイ)、そしてYMOの高橋ヒロユキのデザインするラインなど、東京の尖ったブランドが揃っていたのです。各ブランドを売り場をじっくりと物色して、最終的にボクが購入したのは、DOMONのドレープした襟が特徴の茶色のスウェット素材のトップスと、極端に幅の広いデニムジーンズ・・・その頃、流行し始めていたテクノっぽいカジュアルウェアで、渡米用に一張羅のスーツを買ってくると思っていた母には不評でした。



本展覧会は「陰翳礼賛」「平面性」「伝統と革新」「日常に潜む前衛」の4つのセクションに分かれています。「陰翳礼賛」ではコム・デ・ギャルソンとヨージ・ヤマモトの1893年以降(パリ・コレクション参加以降)の発表当時は”乞食ルック”と呼ばれた無彩色の作品からジュンヤ・ワタナベまでが並べられています。ループ状の太いニットが絡み合っているセーター、切りっぱなしで切り抜かれた大きな穴がレースのような効果をもたらしているルーズなドレス、切りっぱなしの生地テープをデコラティブに縫いつけたトップスなど・・・発表当時はアメリカ在住だったボクは、雑誌でしか見たことなかった歴史的な作品らも初めて目にすることができました。

「平面性」「伝統と革新」は・・・(展覧会のカタログを見るかぎり)日本独自の編集をしているらしく、海外では別セクションで展示されていたらしい三宅一生、コム・デ.ギャルソン(ジュンヤ・ワタナベやタオ・クリハラを含む)、ヨージ・ヤマモトの代表的な作品と、ネクスト・ジェネレーションとして海外では展示されていたアンダーカバー、ソマルタ、ミントデザインズ、ミナペルホネンなどを加えた展示でありまして・・・正直,「平面性」と「伝統と革新」という大きなテーマを伝えるのには不十分な展示数と作品の選択でありました。

海外では「COOL JAPAN」というセクションとして、”かわいい”にこだわるストリート・ファッションやアニメやマンガへ通じるコスプレの世界を紹介していたようなのですが・・・日本では「日常に潜む前衛」として2000年以降に設立された若手ブランド15組の作品を展示しているのですが・・・これが酷い。いわゆる、アーティスティック一辺倒のアプローチではなく、実際に着れる(売れる)日常の服へと落とし込んだなかに、日本らしい前衛性があるとでも言いたいのでしょうが・・・過去の日本ファッションからの遺産ともいえる斬新なディテールをディフージョンラインのように焼き直したような服や、イギリスなどの伝統的な服の持っていた”テイスト感”をマクロなディテールで再現しているだけのユーティリテーウェア(作業服)や、ヒップホップやストリートファッションからインスピレーションを受けた流行を後追いしてデザイナーウェアという無意味な付加価値を加えただけのカジュアルウェアなど、現在の日本ファンションが抱える根本的な問題を明らかにしていました。

1980年代初頭に、コム・デ・ギャルソンやヨージ・ヤマモトが起こした革命とは、単に立体裁断によって構築されていた西洋のファッションのルールを破ったことや、黒を中心とした無彩色の好んで使ったことや、切りっぱなしや非対称の(西洋的な概念では未完成とも思える)服であったこと”だけ”ではなく・・・女性の社会進出によって大きく変化し始めた女性のイメージを表現したことだったと思います。女性のセクシャリティーをアピールしたファッションではなく・・・といって当時パリで発表されていアメリカンフットボール選手のような巨大なショルダーパッドで”強さ”ばかりを強調した女性像とも違います。無愛想な表情をしたモデル達が淡々とランウェイを歩く様子は、男性(もしくは女性らしさ)に媚びた愛嬌さえ感じられません。「セクシー」も「かわいい」も目指していない・・・モノ・セクシャル的な女性の存在価値観こそが、日本ファッションが西洋の文化に於いて「未来」を感じさせる理由であるのではないかとボクは思うのです。二次元のアニメやマンガの世界を再現するコスプレは、ある意味、1980年代に起こった女性像からは逆行しているようなもの・・・ゴスロリやメイド服など、既成概念に女性を押し込めているのですから。ただ、それを女性自らが求めるようになったということは、日本人の女性が無意識に歴史を逆行しているということなのかもしれません。それもまた「時代」であるのですが。

会場を闊歩するコム・デ・ギャルソン(ヴィンテージ?)を着こなした”コムデおばさん”を数名をお見かけしました・・・そして、コム・デ・ギャルソン、または、コムデ風のファッションは、近い将来”シニア服”になるんだろうなぁ~と思えたのでした。革新的であったファッションも時が経つと”過去の衣服”になってしまうという「流行」の残酷さ・・・だからこそ、ある時代を映した”作品”として残していく意味があるのかもしれません。しかし、今の日本ファッションとして展示されていた洋服が、30年後に”作品”として、美術館で展示されるほどの存在意味を持つとは、到底思えません。何故なら・・・若手デザイナーの趣味嗜好やリスペクトする世界観を表現したに過ぎない服は、衣服文化として数十年後に昇華することもなく、メディアに消費されていくだけだから。今は、まるで第2時世界大戦後、パリの流行に世界中の女性が振り回されたように、ファッションは情報としてインターネット経由で拡散・・・ステレオタイプのイメージ(***ルックなど)の使い古された”知能指数の低い”トレンドが蔓延する時代になってしまいました。

コム・デ・ギャルソンやヨージ・ヤマモトの後にコム・デ・ギャルソンやヨージ・ヤマモトを超える存在なし。日本ファッションの”未来性”は永遠に二人に委ねられたまま・・・21世紀に女性の意識が歴史を逆行していくとは、誰が想像できたでしょう。

「FUTURE BEAUTY 日本ファッションの未来性」
東京都現代美術館
2012年10月8日まで


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