2012/02/29

祝・アカデミー脚本賞受賞!・・・ノスタルジックでロマンチックなファンタジーと人生の皮肉を紡いだ”ウディ・アレン”の職人技~「ミッドナイト・イン・パリ」~



先日(2012年2月27日)行なわれた第84回アカデミー賞授賞発表授賞式・・・作品賞など主要な部門を含む5つのオスカーを獲得したフランスのサイレント映画「アーティスト」や、毎年のようにノミネートされているメリル・ストリープがサッチャー首相のモノマネ演技で、意外にあっさりと3度目の演技賞受賞など、何かと話題があったのだけれど・・・ボクが良い意味でサプライズしたのが、ウディ・アレンの3度目のオリジナル脚本賞の受賞です。アカデミー賞ノミネートの常連でありながら、授賞式には出席しないことで有名なウディ・アレンは、「アニー・ホール」(1977年)「ハンナとその姉妹」(1986年)以来の受賞でしたが、勿論、今年も会場には来ていませんでした。

ボク個人的には、1990年代始めに騒動になった公私のパートナーだったミア・ファローの連れ子(スン=イー・プレヴィン)との交際発覚(その後に結婚)以降、道徳的にウディ・アレンを受け入れがたく感じるようになってしまいました。血のつながっていないとは言っても「娘」のような存在であったパートナーの養女(当時21歳)と肉体関係を持つというのは、正直「人として如何なものか?」・・・・それもウディ・アレンは、すでに50代後半。さらに、発覚したきっけけというのが、ミア・ファローが養女のヌード写真をウディ・アレンの部屋から見つけたというのだから、下世話なメロドラマのような陳腐さでありました。そんなわけで・・・ボクは「マンハッタン殺人ミステリー」(1993年)以降は、めっきり彼の作品をリアルタイムで観ることもなくなってしまったのです。

興行的にウディ・アレン作品として最大のヒットとなっている最新作「ミッドナイト・イン・パリ」は、「カイロの紫のバラ」(1985年)や「アリス」(1990年)などの流れを汲むファンタジー路線・・・ひと言で言うと”タイムトラベル”のお話であります。

パリの街を愛情溢れる暖かな色彩で撮影した風景のスライドショーで本作は始まります。ニューヨークを第2の故郷と思うボクには嫉妬さえ感じてしまうほどです。それほど、全編に渡って、ウディ・アレンはパリを魅力的に映しとっています。場面はモネの庭園でパリに移り住むことを夢見ているジル(オーウェン・ウィルソン)と、彼の婚約者イネス(レイチェル・マクアダム)の会話となります。ウディ・アレンの脚本の素晴らしさというのは、この二人の数分の掛け合いだけで、二人の関係性や設定を、明確に説明してしまうところでしょう。相変わらず、入れ替わり立ち替わり登場人物は多いし、その関係性も微妙ではあるのですが・・・画面に登場してひと言ふた言の台詞で、そのキャラクターの人物設定から登場人物達の関係性が手に取るように明らかになってしまうのですから、これって凄いことです。

ジルはハリウッド映画のスクリプトの仕事で成功を収めているもものの、小説家としてひと旗揚げようと考えています。イネスの両親(カート・フューラー、ミミ・ケネディ)のビジネストリップに便乗して、イネスと共にパリに滞在して、すっかりパリの魅力に取り憑かれて、結婚後は二人で移り住むことを夢み始めてします。イネスの元カレのポール(マイケル・シーン)と彼の妻キャロル(ニナ・アリアンダ)と偶然パリで合流して、イネスはすっかり彼らと意気投合・・・取り残されたジルは、骨董屋で若いアルバイトの女の子と知り合ったり、真夜中フラフラとパリの街を散歩するようになります。

そんな、ある真夜中・・・ジルは1920年代のパリの街角にタイムトリップしてしまうのです。まぁ、難しい理屈はさておいて・・・F・スコット・フィッツジェラルドと妻のゼルダ(アリソン・ピル)と知り合いになり、ジルが崇拝するさまざまな芸術家たち・・・ガートルード・スタイン(キャシー・ベイツ)、アーネスト・ヘミングウェイ、T・S・エリオット、コール・ポーター、パブロ・ピカソ、ヘンリ・マチス、マン・レイ、ルイス・ブニュエル、サルバドール・ダリ(エイドリアン・ブロンディ)らと夜な夜な交流することになるのです。モディリアーニやピカソのミューズ(愛人)であったエイドリアーナ(マリオン・コティラード)には恋心を抱き合うよになり・・・現実の婚約者であるイネスとは、ますますギクシャクした関係になっていってしまいます。

ジルが1920年代のパリに憧れを抱くように、エイドリアーナはベル・エポックの時代(19世紀末期)に強い憧れを抱いています。そして、二人がデート中、1920年代から19世紀へとさらにタイムトリップしてしまうのです。現代のジルからすると、パリの黄金期は1920年代・・・おかしなもので、その1920年代に生きるエイドリアーナにとってのパリの黄金期は19世紀末期のベル・エポック時代というのは・・・「人は自らが経験することのなかった、ちょっとだけ過去の時代に憧れるものだ」ということでしょう。これはファッションでは常に繰り返されていることで・・・1980年代初頭、若者であった僕らの世代はアールデコのインテリアや、フィフティーズのファッションに憧れ、1990年代以降は1960年代、1970年代を振り返り、数年前からは1980年代がおしゃれに見える・・・若い世代は常に自分たちが生まれるちょっと前の時代に憧れを持つもののようです。

本作は思いもよらない、あっさりとしたエンディングを迎えて終わります。そこには練りに練ったドラマツルギーや、思わず膝を叩いてしまうようなオチよりも・・・「人生なんて、どうなるか分からないさ」という軽やかな人生観も感じられて、観賞後には、何とも言えない”いい気分”になれてしまうのです。


「ミッドナイト・イン・パリ」
原題/MIdnight in Paris
2011年/スペイン、アメリカ
監督&脚本:ウディ・アレン
出演   :オーウェン・ウィルソン、レイチェル・マクアダム、エイドリアン・ブロンディ、キャシー・ベイツ、エイドリアン・ブロンディ、マリオン・コティヤール、マイケル・シーン、カーラ・ブルー二、マリオン・コティラード
2012年5月26日より日本公開



ブログランキング・にほんブログ村へ

2012/02/24

ライアン・ゴズリング主演の最高にスタイリッシュな”男の子映画”・・・デヴィット・リンチとスタンリー・キューブリックの遺伝子を引き継ぐニコラス・ウィンディング・レフン監督による”暴力のアート・フィルム”~「ドライヴ/Drive」~



今、最も旬な男優のひとり・・・ライアン・ゴズリング。特に近年の出演作はどれも話題作でもあり、演技も高い評価も受けています。「きみに読む物語」ではロマンティックなリーディンマン、「ラースとその彼女」ではダッチワイフを恋人にしてしまう繊細な青年、「ブルーバレンタイン」では結婚が破綻してくダメ男・・・と、作品を選ぶセンスだけでなく、役柄をリアルに演じ分けています。日本未公開ですが、出世作のひとつの「The Believer/ビリーバー」では、ユダヤ人でありながらネオナチに陶酔してく屈折した若者を異様な気迫で演じていました。また「Half Nelson/ハーフ・ネルソン」では麻薬に溺れる貧民街の教師を演じてアカデミー主演男優賞ノミネートされています。

そんなライアン・ゴズリングの新作のひとつが「ドライヴ」です。主人公が犯罪者を現場から車で逃走させる「プロの逃がし屋」で役名が名前ではなく”ドライバー”という設定だと聞いた時には、1978年のウォルター・ヒル監督、ライアン・オニール主演の「ザ・ドライバー」のリメイク???と思ってしまいましたが・・・本作は、ジェイムズ・サリスというクライム・ミステリー作家による2006年に出版された同名の小説が原作。設定を映画版の「ザ・ドライバー」の影響を受けていることは明らかですが(主人公の名前も経歴も不明で”ドライバー”としか呼ばれない)ストーリーは違う作品でした。

監督のニコラス・ウィンディング・レフンは、コペンハーゲン生まれのデンマーク人・・・子供時代にニューヨークへ暮らし、映画の勉強もアメリカで始めたものの、デンマークに戻り24歳の時に監督した1996年の「プッシャー/Pusher」(その後三部作になる)というバイオレンスな麻薬ディラーを描いた犯罪映画で、デンマーク国内だけでなく世界的に注目を集めます。そして、このデビュー作以来、凄まじい暴力描写の犯罪映画ばかりを撮り続けることになるのです。2作目の「ブリーダー/Bleeder」(1999年)では、映像、キャラクター、音楽がエモーショナルに連動するという、レフン監督独特のスタイルをみることができます。

3作目の「フィア・エックス/Fear X」(2003年)はジョン・タトゥーロ主演のミステリー。妻を殺された警備員が、現実と悪夢を行き来するようなアート・フィルム的な作品で、デヴィット・リンチの一連の作品を彷彿させました。出世作「プッシャー」の続編、続々編を完成後、イギリスで最も凶暴な囚人といわれる”チャールス・ブロンソン”(本名マイケル・ゴードン・ピーターソン)の半生を描いた「ブロンソン/Bronson」(2008年)を政策。スタンリー・キューブリック監督の「時計仕掛けのオレンジ」を思い起こさせる”暴力”と”権力”を対比させた作品でした。

本作「ドライヴ」では、レフン監督独特の照明によるアンビエンスのある”クールな映像”と、ベタな歌詞が場面と連動する”エレクトリック・ポップ”やエモーショナルに盛り上がる”ムード・ミュージック”との融合が、暴力のカタルシスになっていく・・・デヴィット・リンチやスタンリー・キューブリックの”遺伝子”を連想させるのです。

ライアン・ゴズリング演じる”ドライバー”は、家族も友人もいない寡黙で不器用な男(映画内でもあまり台詞がない)・・・昼間は車の修理工場で働いたり、ハリウッドの車のスタントマン稼業をしながら、凄腕のドライビングテクニックを駆使して夜は腕利きの”プロの逃がし屋”稼業もしています。ある日、引っ越したばかりの同じアパートメントビルに暮らすアイリーン(キャリー・マリガン)とエレベーターで出会い、心惹かれてしまいます。ドライブデートを重ね、お互いの気持ちが徐々に寄り合っていくのですが・・・実は、アイリーンには、もうすぐ服役を終えて戻ってくる夫スタンダード(オスカー・アイザック)がいるのです。更正を誓うスタンダードと家族を守ることをアイリーンは決め、”ドライバー”もそんな彼らを影で見守ることとなります。ところが、服役中の用心棒費用を借金していたスタンダードは、闇の組織に強盗をすることを強要されて追い詰められています。そこで、”ドライバー”は愛する女性のムショ帰りの”夫”を救うため、無料で”逃がし屋”をかって出るのです。ううう・・・切ない。

”ドライバー”は、スタンダードと組織からの女ブランチ(クリスティナ・ヘンドリックス)を伴い、町外れの質屋の強盗を決行します。大金が入ったバッグとブランチは問題なく車に戻ってきたのですが、スタンダードは店の前で銃で撃たれて殺されてしまいます。”ドライバー”はブランチと大金をのせたまま逃亡することとなるのです。ところが、テレビのニュースでは大金が盗まれたことは報道されません。コレは罠だったのです。モーテルに潜伏していると、いきなりライフルを持った男達に襲われてしまいます。ブランチは頭をぶち抜かれ即死・・・ここからは、血まみれの自衛と復讐の暴力へと突き進んでいきます!頭部/顔面を破壊する暴力描写が多いのは、レフン監督の真骨頂・・・「ドライヴ」にひとつ前の作品「ヴァルハラ・ライジング/Valhalla RIsing」(2009年)ではスイカ割のように頭部をハンマーでぶっ叩いたていましたし、「ブロンソン/Bronson」でも特に顔面への暴力がしつこく繰り返されていました。

本作で最もロマンチック、かつ、バイオレンスなシーンが、エレベーターのシーンかもしれません。”ドライバー”は大金を持ってアイリーンと一緒に逃げても良いと告白するのですが、彼女は受け入れられません。そんな”まだかまり”を残したまま、”ドラーバー”を殺しにきた殺し屋と、アイリーンと”ドライバー”がエレベーターで鉢合わせしてしまうのです。”ドライバー”はいきなり振り返り、音楽に合わせてスローモーションでアイリーンとキスした直後・・・殺し屋に襲いかかり、靴で頭部がグチャグチャになるまで踏みつけて惨殺しまうのです。”ドライバー”は、これを気に殺人者と化して、アイリーンをトラブルから逃すため、黒幕と戦うことを決意するのです。そして、彼女の前からは姿を消してしまいます。この二人が愛を確かめ合うのは、このエレベーターのキス”だけ”なのです。

不器用な男はあくまでも不器用で、愛のために戦うことしかできません。リアルな暴力描写に対して、叶わぬ男の愛はとことんピュアに描かれる・・・「ドライヴ」は、精一杯、切ない”男の子映画”なのであります。



「ドライヴ」
原題/Drive
2011年/アメリカ
監督 : ニコラス・ウィンディング・レフン
原作 : ジェイムズ・サリス
出演 : ライアン・ゴズリング、キャリー・マリガン、アルバート・ブルックス、オスカー・アイザック、ロン・パールマン、ブライアン・クランストン、クリスティナ・ヘンドリックス
2012年3月31日より日本公開



ブログランキング・にほんブログ村へ

2012/02/09

なんだかんだで、やっぱりエログロ趣味の美人日本画家から、目が離せない!・・・自傷系アーティストのしたたかな戦略と矛盾、そして未来~「松井冬子展ー世界中の子と友達になれるー」横浜美術館~



横浜美術館で開催されている「松井冬子展ー世界中の子と友達になれるー」に行ってきました。この「めのおかしブログ」で取り上げる映画の嗜好から、ボクが”松井冬子”が好きなことを推測するのは容易いことだと思います。勿論、彼女の作品そのものが好きということもありますが、梅図かずおのマンガ、もしくは、横溝正史の小説から抜けたしたような濃い(化粧だけでなく存在そのものが!)キャラの方に強く惹かれてしまうのであります。

松井冬子という画家について語る際に、その”美貌”を無視することは出来ません。モデル並みのスレンダーな長身、キリっとした美しい顔だち・・・妙な眼力の強さは、鳥居みゆきに通じる”イチャッテル”系の美人に共通のものを感じさせます。基本的にボクが見たことのある松井冬子は、何らかのメディアに出ているときだから、見られることを意識していて当たり前ではあるのですが・・・常に(それは工房で絵を描いている時さえ!)バッチリと濃い化粧をしているという”気合い”の入り様は「ナルシシズム」を強く感じさせます。ナチュラルさや自然体とは逆で、自分の美しさを最大限の効力を発揮する手管を知り尽くしているようで・・・いい意味で”素人”の匂いを感じられないのです。

女性の髪の長さというのは、その女性がどれだけ「女」を意識しているかを示すところもあると思うのですが・・・松井冬子は長い髪をも戦略的に使い分けているようです。着物のときには、様々なスタイルのアップされているのですが、どの着物姿の写真を見ても彼女の佇まいは、まるで「銀座のママ」・・・記者会見や公の場、または、お偉い先生(美大教授などの男性に限り!)との対談の「これぞ!」という機会には、必ず着物姿というのも、彼女のセルフ・プロデュース戦略なのでしょうか?批評家、画廊、アートコレクター、美大教授などの美術界を動かす”オジ様”が”イチコロ”になるのも納得なのであります。

洋装のときには、名古屋巻だったり、日本人女性らしいロングだったり・・・叶姉妹の美香さんを思わせるような”ゴージャス系”。ファッションモデルとしてイブニングドレスを着たときには、いかにも「お金がかかりそうな女」風なのにも関わらず・・・女性向けの取材や女性問題を扱う大学教授との対談のときには、ポニーテールで比較的お化粧も薄めで、(彼女としては)清楚なイメージにするという”あざとさ”を覗かせているのも素敵です!

「美貌を武器にする、したたかな美人画家」というだけでも、ボクには十分に面白い存在ではあるのですが・・・松井冬子の描く痛みを感じさせるグロテスクな日本画は、彼女の美貌と相まって作品以上の妖気を感じさせてしまうのです。日本画技法を独自で研究/再現して現代アートとして日本画の可能性を切り開いた・・・のかもしれないど、題材としている世界観はサブカル系の不思議ちゃんの好みそうな「エログロ趣味」で、お世辞にも”上品”とは言えない「イロもの」であることは否定できません。容姿に恵まれない女性(失礼!)が、こんな作品ばかりを描いていたら、ただただ恐ろしいだけ・・・女性からの共感も、美術関係の男性の注目も、これほど集めることはなかったでしょう。

松井冬子は、女子美術短期大学を卒業後、四浪までして東京芸術大学に入学しています。当初は油絵専攻だったようですが、後に日本画専攻に変更します。確かに彼女の描く人物が、日本画というより石膏デッサンのような印象も与えるのは、ベースとなっている油絵専攻での基礎があるからでしょうか・・・。ただ、彼女が油絵専攻のままであったら、耽美派の画家やイラストレーターのひとりとして埋もれてしまっていたかもしれません。彼女はインタビューなどで「エッジが効いている」という表現をよく使うのですが、そのような「感性」に依存したクリエーションというのは、自分の「趣味嗜好」の再現ということが多かったりします。「絹本」「薄描き」「裏彩色」などの日本画の伝統的な技法によって、単に「感性」に頼っているのではなく・・・絵の存在そのものにアカデミックな物語性を生み、創造過程に深みを感じさせることにもなっているのです。

美貌は世間の注目を集めますが、同時に、その美貌ゆえ、厳しい目で見られることもあります。それを打ちのめすように、松井冬子は女性としては初めて東京芸術大学の日本画専攻の博士号を取得します。アカデミックな学位を持つことは、誰でも納得する「箔付け」となり・・・「美人だから」という批判の枕言葉を封じることが出来るのですから「あっぱれ」であります。そのような「箔付け」の上塗りというのは、基本的に美人なのに、さらに常にきっちりと化粧する彼女のスタンスと似ているような気がしてしまうのです。それは、彼女の周到な「痛み」の表現にも通じるところがあります。「これでもか〜!」と、くどいほど上塗りして過剰に表現してしまうのは・・・強い性(さが)を感じてしまいます。

虫一匹から髪一本まで、細かに描き込まれた執念の「超絶技巧」は、松井冬子の人としての”几帳面さ”と”真面目さ”を表しているように思います。下絵を何度も描いて絹本に写すというのは、筆入れが一発勝負の日本画としては一般的な行程ではあるのですが・・・構図や対象物の大きさや比率を、まるでコンピューターグラフィックスの過程のように、何度も何度も試行錯誤して作り込んでいく彼女の忍耐力と几帳面さには、ただ敬服するしかありません。「感性」に頼らない真摯さは、まさに「匠の世界」の人であります。また、内蔵などのリアリティを追求するあまり、鼠や子牛を実際に解剖してスケッチをするという生真面目さもエグ過ぎてゾッとするほどです。

暴力によって鼓膜を傷つけられた経験を持つと公言している松井冬子・・・どれほど画家自身が哲学的に解説しようとも、仏教的な思わせぶりなタイトルを付けようとも、”意図的”に痛みを感じさせようとしている作品というのは、結局のところ”エログロ好き”という汚名(?)からは逃れられないのかもしれません。彼女が日本画専攻に転向したきっかけとなったという”河鍋暁斎”にしても、無惨絵の”月岡芳年””甲斐庄楠音”なども、その根底にあるのは”まがまがしい悪趣味”なのですから・・・。海外であれば、写真家のJ・W・ウィトキンの生理的限界を超える妖しさ、マーク・ライデンの”肉”への執着など、いわゆるサブカル好みの嗜好である気がします。上野千鶴子氏曰く・・・女性のジェンダー化した痛みを表現している「自傷系アート」という分類をするならば、フリーダ・カーロに通じるのかもしれません。

松井冬子の画家としてのキャリアに幸運だったのは・・・ゲイイラストレーターやエログロ写真を扱っていた金持ちのボンボン(16歳からアートコレクター)の道楽(?)のような「成山画廊」によって見出されたということかもしれません。2005年3月から4月に開催された初めての個展の前後から、あらゆる媒体へ「美人日本画家」として強烈にプッシュして、大々的に売り出してくれたのですから・・・。また、成山画廊にとっても”松井冬子”を抱える画廊として美術界のステイタスを得たわけで・・・まさに、お互いに”WIN WIN”の理想的な画家と画廊の関係とも言えるのであります。


2009年5月(25日?)に、松井冬子は東京大学の科学者(特任助教)の男性と結婚されました。結婚式の二次会のお土産が東大と芸大の大学饅頭だったそうで、一部のゲストには”ドン引き”されたという噂もあったりなかったり・・・「肩書き好き」という「素」が、露呈してしまったようです。

男性不信とも受け取れる自傷的なイメージを崇拝していた女性ファンにとっては「あなたもフツーの女だったね」と、裏切りに感じられたかもしれません。もしくは「さすが冬子さま~、東大の科学者先生と結婚なんて”らしい”わぁ~!」なのでしょうか?いずれにしても、自分の痛みを作品のテーマにしてきた松井冬子にとって、俗にいう「女性としての幸せ」が、今後どのように作品に影響していくかは、とても気になるところです。

横浜美術館での展覧会には、結婚後に描かれた作品も数点展示されていました。以前よりも、画面は全体的に明るく、ポジティブな印象を感じさせました。展覧会の出口近く、最後に展示されていたのは、トンボが孵化する瞬間を捉えた「生まれる」というタイトルの小さな絵・・・お子さまが誕生したというニュースは聞きませんが、明らかに彼女は次の人生のステージへ移行しているのかもしれません。ひとりの女性としてみた場合、あれほど痛みを訴えていたのに、随分と心が浄化されたんだと・・・涙が出そうであります。

しかし・・・”松井冬子”という「キャラ」のファンとしては、これからの彼女の人生にトンデモナイ波乱が起きることを願ってしまうヨコシマな自分もいるのです。

東大教授夫人としての幸せな結婚生活を送りながら、たわいもない花や昆虫を描くだけの松井冬子は、あまりにも面白くありません。「事実は小説より奇なり」を地で行くような、おどろおどろしい奇行を、ボクは心の隅で期待してしまうのです。例えば、何らかの理由で彼女がその美貌を失うようなことが起こったら・・・「美への執着」を感じさせる女の情念の世界へ入り込み、さらなる「痛み」と「怨念」を昇華していく「化け物」のような存在になってくれるのではないか・・・?

そんな不謹慎な妄想さえも膨らまされずにいられない”松井冬子”から・・・なんだかんだで、やっぱりボクは目が離せないのです。

横浜美術館
2012年3月18日まで



ブログランキング・にほんブログ村へ

2012/02/01

ラース・フォン・トリアー監督の鬱(うつ)地獄へようこそ・・・すべてが「無」になる世界の終わりこそが究極のハッピーエンドなのだ!~「メランコリア」~



「鬱になってしまいそうな映画」を撮らせたら右に出る監督はいないラース・フォン・トリアー・・・前作の鬱ホラー映画「アンチクライスト」に続く最新作は鬱SF映画!(といっても、ハリウッドのSF映画とは根本的に大きく違いますが)タイトルもズバリ「メランコリア」=「うつの心理状態」であります。雄大な世界観を舞台に個人的な心象をテーマ扱った映画として、テレンス・マリック監督の「ツリー・オブ・ライフ」や、マイク・ケンヒル監督の「アナザー・プラネット」(日本では劇場公開なしのDVDスルーで3月16日に発売)が思い起こされますが・・・「メランコリア」では何かしらの”救済”さえ提示されない、まさに”トリアーらしい”作品です。

巨大惑星”メランコリア”が地球に衝突する日が数日後に迫っている中、ジャスティン(キルスティン・ダンスト)とマイケル(アレクサンダー・スカルスガルド)の結婚式が、ジャスティンの姉夫婦、クレア(シャルロット・ゲンズブール)と大金持ちのジョン(キーフアー・サザーランド)の海辺の大豪邸で挙げられています。

しかし幸せの絶頂にあるべきはずのジャスティンは・・・披露宴に遅刻したり、ケーキカットをキャンセルしたり、ブランデーをラッパ飲みしたり、奇行を繰り返すのです。姉クレアとジョンは結婚式を台無しにさせまいと、ジャスティンを強く叱るのですが、ジャスティンの会社の社長を怒らせた上に、仕舞いには新郎のマイケルにまで愛想を尽かされてしまうのであります。ただ・・・不快な言動や行動をしているのはジャスティンだけではありません。姉夫婦のクレアとジョンは自分たちが計画して費用も出している豪華絢爛な披露宴がぶちこわしになることや、世間体を気にしているだけだったりします。母(シャーロット・ランプリング)は冷えきった自分の結婚生活を皮肉るようなスピーチをすますし、父(ジョン・ハート)は性悪ないたずらをウェイターに仕掛けて喜んでいたりします。

鬱であるジャスティン「だけ」は、惑星”メランコリア”が地球に激突して世界が終わることを確信していて、うわべの祝福や笑顔には何も意味を見出せていないようです。不思議なことに、彼女は生命は地球にしか存在しないことにも確信しているようで・・・つまり、惑星”メランコリア”が地球に衝突することによって、すべての生命が消滅して、宇宙は「無」になってしまうことであるというのであります。

虚無感と絶望の中、満足に食事もできず、ひとりで入浴もできないような酷い状態に落ち込んだかと思うと・・・世界の終わりが近づくにつれジャスティンは妙な落ち着きを感じさせたりします。これは、ラース・フォン・トリアー監督自身が鬱病に苦しんでいた時に、体験したセラピーからアイディアを得たとのこと・・・鬱病の患者は悪い事が起こると予測して、強いプレッシャーに冷静に行動する傾向があるということなのです。一方、姉のクレアやジョン達は、次第に空で大きくなっている惑星”メランコリア”が、地球に衝突することを確信するにつれ、悲観的になり自分を見失っていきます。

「メランコリア」ではタイトルの冒頭に、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」をバックに約8分ほどの台詞のない詩的なイメージ映像が流れます。超倍速カメラで撮影されたスローモーションなのですが、音楽と相まって、圧倒的に尊厳のある映像美を見せつけられます。鳥が空から落ちてきたり、馬がゆっくりと倒れていったり、ウエディングドレス姿のジャスティンが小川を流れていったり(ミレイの”オフィーリア”から引用)・・・そして、地球より遥かに大きい惑星”メランコリア”が地球に激突したところでタイトルが現れるのです。ある意味、「メランコリア」という映画は、この冒頭の8分で本作の要点を語ってしまっているとも言えるかもしれません。

最後には惑星”メランコリア”は目の前いっぱいに広がるほど地球に近づき、ジャスティンとクレアに向かって激突!・・・世界は終わり、すべてが「無」となって映画が終わります。自分を含め、世界のすべてが消滅するというのは、ある意味、究極のハッピーエンドと思えてしまうところがあります。鬱にとっての究極の結論は、自分の存在を消してしまうこと。その手段としての、内的な「無」という「自殺」と、外的な「無」である「世界の終わり」・・・そのふたつは鬱にとって紙一重でもあったりするのですから。


「メランコリア」
原題/Melancholia
2011年/デンマーク、スウェーデン、フランス、ドイツ、イタリア
監督&脚本 : ラース・フォン・トリアー
出演    : キルスティン・ダンスト、シャルロット・ゲンズブール、キーフアー・サザーランド、シャーロット・ランプリング、ジョン・ハート、ウド・ギア、アレクサンダー・スカルスガルド、ステラン・スカルスガルド
2012年2月17日より劇場公開



ブログランキング・にほんブログ村へ

2012/01/27

シャンタル・アケルマン(Chantal Akerman)監督による実験的劇映画の金字塔・・・主婦の退屈な日常から目が離せないの!~「ブリュッセル1080 コメルス湖畔通り 23番地 ジャンヌ・ディエルマン/Jeanne Dielman, 23 Quai de Commerce, 1080 Bruxelles」~



シャンタル・アケルマンという監督の名前を知ったのは、1981年6月に出版された「別冊シティーロード」の「もうひとつの’80年代を読む!」という特集号でありました。「シティロード」というのは、当時「ぴあ」のライバル的な存在だった月刊の情報誌で、一般化していた「ぴあ」よりもマニアックな批評が売りの雑誌で・・・この特集号は、その後の80年代に、ビッグネームになる数々のクリエーター達を紹介しており、まさに未来を予言していたような貴重な資料でした。

この別冊で、映画について執筆をしていたのが、四方田犬彦氏(現・明治大学教授)、西嶋憲生氏(現・多摩美術大学教授)、武田潔氏(現・早稲田大学教授)の3人・・・80年代に注目すべき映画作家としてライナー・ヴェルナー・ファスビンダー(「マリア・ブラウンの結婚」「ケレル」など)、エリック・ロメール(「クレールの膝」「満月の夜」など)、ニコラス・ローグ(「地球に落ちてきた男」「赤い影」など)、デビット・リンチ(「エレファント・マン」「ツイン・ピークス」など)、ダニエル・シュミット(「ラ・パロマ」「ヘカテ」など),テオ・アンゲトロプス(「旅芸人の記録」「アレクサンダー大王」など)らの名前を挙げていたのですが・・・1981年当時、これらの監督らの新作でさえ、まともに日本の映画館では観れない状況であったということだったのです。(80年代後半からのミニシアターブームで、日本の状況は一転することにはなるのですが)

座談会では、この頃の日本ではアメリカ映画以外が、満足に劇場公開されない状況について討論されています。1970年代後半にパリに滞在していた武田潔氏は、ヨーロッパで活躍していた女性監督を紹介・・・アニュエス・ヴェルダ、マグリット・デュラス、パトリシア・モラーズ、マルガレーテ・フォン・ロッタらと並んで、シャンタル・アケルマン(掲載当時の表記はシャンタル・アッカーマンだった)についても語っています。彼女の作品の中でも、映画的な時間省略がない特異な映画と説明されていたブリュッセル1080 コルメス湖畔通り 23番街 ジャンヌ・ディエルマン/Jeanne Dielman, 23 Quai de Commerce, 1080 Bruxelles」(以下「ジャンヌ・ディエルマン」)に、ボクは特に興味をひかれたのでした。ただ、当時の日本で本作を観ることは、不可能に近いことであったのですが・・・。

1981年9月にニューヨークに移住したボクが、シャンタル・アケルマンの作品を実際に観る機会を得たのは、ダウンタウンにあった映画館「フィルム・フォーラム/Film Forum」で1983年3月に開催された「シャンタル・アケルマン映画祭」でのことでした。初期の「私、あなた、彼、彼女」はモノクロで監督自身が出演しているプレイベートな詩的なフィルムで、実生活ではレズビアンと言われる彼女のプライベートが反映されていた印象でした。(ただ、アケルマン監督はゲイフィルムフェスティバルでの上映を拒否していたらしい)上映作品の中で、もっとも商業映画らしい作品だった「アンナの出会い」は、小津安二郎的なカメラワークが特徴的でした。しかし、なんと言っても衝撃的だったのが「ジャンヌ・ディエルマン」であったことは言うまでもありません。

1975年、シャンタル・アケルマン監督が若干25歳の時に制作した「ジャンヌ・ディエルマン」は、今観ても斬新な驚きを与えてくれる作品です。ミニマルなスタイルを追求した構成の実験的な劇映画として、前にも後にも似たような劇映画はないと思います。

息子が学校に通っている間に自宅で行っている売春以外、これといった特徴のない主婦/未亡人(ディルフィーヌ・セイリグ「去年マリエンバートで」)の3日間の日常生活を、バックグラウンドの音楽一切なし、映画的な時間の省略のなしに、淡々と映します。映画のなかで流れる時間というのは、一般的な映画ならば映画的な省略をされているのが当たり前のことで、上映時間と映画のなかで流れる時間が同じという事は、まずありえません。(特例としてヒッチコック監督の「ロープ」という映画はあります)

例えば、じゃがいもの皮を剝くというシーンがあるとすると・・・映画で表現される場合は、ひとつのじゃがいもを手に取って皮を剝き始めるところでカットされて、次のショットでは料理し終わっている状態を映して、時間の省略をするわけです。改めて考えてみると、目の前でいきなり料理を始めたと思ったら、数秒で作り終わっているわけですから、これほど奇妙なことはないのですが・・・暗黙の了解として、観客が映画的な時間の省略を不自然に感じることはありません。「ジャンヌ・ディエルマン」では、主婦の仕事の一連の作業の始めから終わりまでを、動くことない定点カメラで、切り取られた風景のように「じーっ」と撮っているのです。皿洗いをしているシーンでは、主婦の後ろ姿を映すだけで、作業している手元は一切映されることがないほど徹底しています。最近の3D映画は「視覚」による”現実感”のある映画体験を「売り」にしていますが、映画のなかで体験する「時間」の”現実感”は、とっくに手にしていたということなんかもしれません。

映画的な時間の省略をしないミニマルな映画のスタイルというのは、シャンタル・アケルマンが生み出した独自のスタイルというのではありません。彼女が20代の初めの数年間(1970年~1972年)を過ごしたニューヨークで、前衛的な実験映画を作ってたマイケル・スノウ、ジョナス・メカス、スタン・ブラケージ、イヴォンヌ・レイナー、アンディ・ウォホールらとの交流から、彼女が大きな影響を受けたことは明らかです。アンディ・ウォーホールによる1963年の「スリープ/sleep」(眠っている男を約5時間20分撮影)や、1964年の「エンパイア/Empire」(夕暮れから真夜中のエンパイア・ステイト・ビルを約8時間撮影)などは、定点カメラで被写体をただ映しただけという映画でしたし・・・マイケル・スノウの1967年の「波長/Wavelenth」は、ある意味「ジャンヌ・ディエルマン」との共通点が多くみられます。

「百聞は一見に如かず」・・・動画をみてください。「じゃがいもの皮剝き」「ミートローフ」と、どちらも熱狂的な”ジャンヌ・ディエルマン”マニア(?)がオマージュビデオを撮るほど有名なシーンです。




数分の動画だけをみると、「ジャンヌ・ディエルマン」は、とてつもなく退屈な映画のように思われるかもしれません。それは、まったくもって「正しい」印象だと言っていいでしょう。実は「ジャンヌ・ディエルマン」は、上映時間は193分(3時間13分)・・・劇映画としては、かなり長い部類の作品になるのです。その上、カメラは殆ど動かない固定なのですから、どれだけ”淡々とした”画面であるか想像出来ると思います。さらに主婦の仕事というのは、毎日同じような作業の繰り返しなので、観客は似たようなシーンを観せられることになるのです。しかし、その「繰り返し」というところが”ミソ”なのであります。

息子の靴を磨いて、朝食を作って、息子を起こし、朝食を食べさせ、息子を送り出し、朝食の後片付け、食料品の買い物をして、夕食の下ごしらえをして、家計簿をつけて、簡単な昼食を食べます。それから、キレイに化粧を施して、午後のお茶をカフェでするのが、ちょっとした贅沢のよう・・・その後、主婦は帰宅して、生活費を稼ぐために自宅で「売春」をするのです。寝室でお客とやっているシーンだけが、本作では唯一映画的な時間の省略をされます。その後、ベットを整えて、風呂掃除をして、浴室でカラダを洗って、夕食の準備・・・息子が帰宅して、夕食を済ませて、淡々とした会話をして、就寝するというのが、この主婦の退屈極まりない日課なのであります。買い物先の主人や、赤ん坊を預かる近所の主婦との会話は、限りなく他愛ありません。


些細な日常作業は省略なしなのに「売春」という行為のみは省略されるという対比により、「売春」以外の主婦の日常生活が、いかに退屈な繰り返しであるかを強調しているかのようです。そして、観客は、この主婦の感じている砂漠のようにカラカラに乾いた心さえも、まざまざと実感させられるということになりるのであります。ただ、同じ作業の繰り返しのようにみえる日常も、1日目と2日目では何かが違うのです。夕食をうっかり焦がしてしまったり、買い置きしていたはずの野菜が足らなかったり・・・どこかしら不安になっていく主婦の精神状態を感じさせるような些細なアクシデントが起こり始めて、観客は次第に画面から目が離せなくなっていきます。


以下、映画のエンディングに関する重要なネタバレを含みます。


3日目、主婦は明らかに前の2日間とは違う行動を取り始めます。何か考え深げなようだったり、また逆に落ち着かない様子だったりします。そして・・・カメラは初めて「売春」をする主婦の寝室へと入っていくのです。ベットの上で客にのしかかられている主婦は、明らかにオーガズムを感じている様子を映します。行為の後、ベットで寝ているお客に、彼女はいきなりハサミを胸に突きつけ殺害してしまうのです。

このような唐突で殺人の理由の説明が一切ない映画というと・・・ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督による1969年の「何故R氏は発作的に人を殺したか?」が思い出されます。平穏な家庭で淡々と暮らしていたR氏が、映画の終盤にいきなり家族を惨殺して、自分も翌朝職場で首つり自殺をするという作品でした。現代の不確実さや不条理を描いたということで、殺人と自殺の理由は一切描かれません。「ジャンヌ・ディエルマン」も、主婦が殺人に至る理由は説明されませんが・・・約3時間に渡って主婦の退屈さ加減を実感させられている観客にとって、その突発的な殺人のモチベーションを、なんとなく理解できてしまうところが、ちょっと恐ろしいのです。

殺害後、主婦は血だらけの手をしたまま、ダイニングテーブルに座って、彼女はひとり佇んでいます。徐々に陽が暮れて部屋が暗くなるまで、ず〜っとカメラも主婦も動かないワンショットが続きます。「彼女の頭の中では、何が駆け巡っているのか?」「息子が学校から帰宅したら、どうなってしまうのか?」・・・・長い沈黙の間、観客は考えてしまいます。殺人という日常を脱した”現実”が、静かに重くのしかかってきたところで、映画はクレジットが流れて終わります。(下の動画参照/クレジットが流れる前に途切れていますが実際はまだまだ続きます)

そして・・・観客は救いようのない余韻に包まれるのです。

 

「ジャンヌ・ディエルマン」のエンディング

***************************

シャンタル・アケルマン監督(Chantal Akerman)の主なフィルモグラフィー

1968「街をぶっとばせ」(Saute ma ville)短編
1972「部屋」(La Chambre)短編
1972「ホテル・モンタレー」(Hotel Monterey)
1974「私、あなた、彼、彼女」(Je tu il elle)
1975「ブリュッセル1080 コルメス湖畔通り 23番街 ジャンヌ・ディエルマン」(Jeanne Dielman, 23 Quai de Commerce, 1080 Bruxelles)
1976「家からの手紙」(News from Home)
1978「アンナとの出会い」(Les Rendez-vous d'Anna)
1982「一晩中」(Toute une nuit)
1983「エイティーズ」(Les Annees 80)ドキュメンタリー
1984「おなかすいた、寒い」(J'ai faim, j'ai froid)短編
1986「ウィンドウ・ショッピング/ゴールデン・エイティーズ」(Golden Eighties)
1989「アメリカン・ストーリーズ/食事・家族・哲学」(Histoires d'Amérique)
1991「夜と昼」(Nuit et jour)
1993「東から」(D'Est)ドキュメンタリー
1996「カウチ・イン・ニューヨーク」(Un divan a New York)
1997「シャンタル・アケルマンによるシャンタル・アケルマン」(Chantal Akerman par Chantal Akerman)ドキュメンタリー
1999「南部」(Sud)ドキュメンタリー
2000「囚われの女」(La Capitive)
2002「他の側から」(De l'autre côté)ドキュメンタリー
2004「明日は引っ越し」(Demain on demenage)
2006「向こう側」(La-bas)
2009「ソニア・ヴィーダー・アサートン」(À l'Est avec Sonia Wieder-Atherton)ドキュメンタリー
2011「オルメイヤーの阿房宮」(La folie Almayer)

「ジャンヌ・ディエルマン」の撮影現場

ブリュッセル1080 コルメス湖畔通り 23番街 ジャンヌ・ディエルマン」
原題/Jeanne Dielman, 23 Quai de Commerce, 1080 Bruxelles
1975年/フランス、ベルギー
監督&脚本: シャンタル・アケルマン
出演   : ディルフィーヌ・セイリグ



ブログランキング・にほんブログ村へ

2012/01/18

シリーズ3作目にして”DVDスルー”に納得してしまう駄作・・・残酷描写のマイルドな中途半端なパクリ映画にしか思えませんからっ!〜「ホステル3/HOSTEL PART Ⅲ」〜



製作総指揮がクエンティン・タランティーノ。「キャビン・フィーバー」のイーライ・ロス監督による「ホステル」は、極悪無道の残虐描写が”売り”の拷問/殺戮ホラー映画の人気シリーズであります。

舞台はスロベニア共和国にある金持ちのための拷問と殺戮の会員制のクラブ・・・スロベニアの人たちからしたら、自国を舞台にトンデモナイ映画を作るもんだであったことでしょう。金を払って、人を殺すことを楽しむなんて・・・道徳的にも、かなりヤバい映画ではありました。1作目よりも悪趣味さ不道徳さがアップした「ホステル2」の後、音沙汰なかった「ホステル」シリーズ第3作目は、本国アメリカでも劇場公開なし、DVDスルー映画のレーベル「STAGE 6」での製作となったのです。

「ホステル」「ホステル2」で、製作総指揮のひとりとして名を連ねていたスコット・スピーゲルが「ホステル3」の監督をつとめています。サム・ライミとは高校時代からの友達で、映画の製作、脚本、俳優と多彩に関わってきた人でもあります。レンタルビデオ屋に勤めていたクエンティン・タランティーノを映画界に紹介しり、イーライ・ロスのプロダクションを一緒に立ち上げたりと、業界内のでの交友関係が有名な人でもあります。ただ、今まで監督した作品はDVDスルーが多いというのがビミョー・・・「ホステル3」は、まさに、その不安が的中の仕上がりでありました。

以下、ネタバレを含みます。

まず・・・舞台をスロベニアからラスベガス(砂漠)にしたことで、前作までの妖しい雰囲気がなくなってしまいました。旧社会主義国であったすスロベニアは、西側の勝手なストレオタイプなのかもしれませんが、どこか人間性に欠けたような不気味なイメージを作り上げやすかったのです。本作は制作時からDVDスルー映画として低予算だったからなのか・・・それとも、スロベニアからクレームがあったのか・・・舞台をアメリカ本国、それも近場(?)にしたことで、正統なシリーズ作というよりも、パクリっぽくなてしまったのでした。

物語のはじまりは、どこかしら「ハングオーバー」を彷彿させるバチェラーパーティー(結婚式の前に、新郎と友人達が集まる)・・・羽目を外してエスコートサービスの女性と遊ぶのですが、そのうち中もの一人が消え、危険な秘密クラブへと彼らは引き込まれてしまうのです。今回も”エリートハンティングクラブ”という会員制の拷問/殺戮クラブが舞台にはなっているのですが・・・ラスベガス周辺というのもあってか、拷問もショー形式。内側からも客席の見えるガラス張りの拷問室で、被害者に与える拷問をスロットで選ぶというギャンブルという嗜好にしているのですが・・・これが、まったく映画的に盛り上がらないシステム。その上、見世物としての「拷問ショー」となったので、機械的に殺戮行為を行っているために残忍性は薄味になっています。

前2作の残虐さというのは「個室」の拷問室で”自分の趣味嗜好のためだけ”に人間の命を買って、好きなように拷問して殺すという・・・ありえない不道徳さに血が凍る恐怖を感じたものです。さらに・・・「アンレーティング」でのDVDリリースのはずなのに、肝心の一番エグい残虐部分は映像には映さないという意味のない自主規制(?)の仕様となているのも意味がわかりません。

バチェラーパーティーの仲間の一人が、実はエリートハンティングクラブのメンバーで、新郎に自分が好きな女性を取られた嫉妬で、友達をクラブの餌食にしたという陳腐な動機が明らかとなるのです。エンディングは、砂漠にあったクラブの巨大な建物の爆破で焼け死んだと思わせていた新郎は実は生きていて、新婦とともに策略にはめた友人を殺すのだけど・・・被害者の一般人ふたりが、手間のかかる復讐殺人するというリアリティのなさに、まったく恐怖は感じません。

前2作のような「ホラーサスペンス」から「アクションホラー」のような「ちから任せ」な演出で「ホステル」らしい怖さは皆無・・・DVDスルーに納得の駄作となっていたのでした。

ホステル3
原題/HOSTEL PART Ⅲ
2011年アメリカ
監督 : スコット・スピーゲル
脚本 : マイケル・D・ウェイス
出演 : ブライアン・ハリセイ、キップ・バルデュー、スカイラー・ストーン、ジョン・ヘンズリー、サラ・ハーベル
2012年2月22日日本国内版DVD発売



ブログランキング・にほんブログ村へ

2012/01/11

挑発的なタイトルのわりに”仕事術”ではなく単なる参考文献リスト本・・・憎まれ役としても痛過ぎる底なしの自己正当化~「ズルい仕事術」勝間和代著~



お正月、本屋さんをブラブラしていたら・・・ビジネス書のコーナーで大々的に平積みされていたのが、勝間和代著の「ズルい仕事術」でありました。カツマーVS.カツマー論争以来、ときどき彼女の著書を購入して読んできましたが、共感したり、何かの”ため”になったことは皆無・・・それでも、たまに手に取ってしまうというのは、ある意味、嫌い嫌いも好きのうちで結果的に本を購入している(著者に印税が入る)のですから、まんまと彼女の手中にハマっているだけなのかもしれません。

まず本書「ズルい仕事術」で、笑ってしまうのが”まえがき”の長さ・・・主にアマゾン・ジャパンでのカスタマーレビューで自分の本が酷評されたことへの恨み節がネチネチと書かれているのです。レビューする本を読まずに酷評するのは確かに失礼な話ではありますが、それにいちいち噛み付いていく著者(日垣隆とか)というのは、本人が胡散臭い場合が多いような気がします。勝間和代の場合も(宣伝活動の一環として?)酷評したレビューワーとのネットでの直接対決を望んだようですが、まったく相手にされず・・・レビューを掲載するアマゾン・ジャパンに対して、過剰梱包(しっかりとした表面のきれいなダンボール箱を使用している)を皮肉まじりに批判するというお門違いの反撃をしているのであります。

ビジネス書というのは「私は上手にやっているから、あたなも真似して”得”しましょう!」というスケベ心に訴えているモノも多いので、想定されている読者というのが「自己評価は高い」けど「実生活に不満いっぱい」の「勘違いしている人」というのが多いような気がしてしまいます。その中でも「勝間和代」をローモデルとしている読者というのが、本当に”タチが悪そう”としか思えてなりません。「自分の付加価値を上げて、効率良く生産性を高める」ことを、あらゆる著書で繰り返し訴え続ける(というか、これしか訴えていない)勝間和代ですが・・・勿論、お手本とするのが、勝間和代自身であることはいうまでもなく・・・そんな勝間和代を目指す読者(存在するとしたら)というのは、自己評価が異常に高く(自己分析力)、効率よく利益を追求して(論理的思考)、ネットワーク/他者を利用する(レバレッジ力)という、実社会では(同僚、上司、部下とか、取引先にいたら)まず”嫌われるタイプ”だったりするのです。

すべての成功の鍵が「他人に好かれること」とは言いませんが・・・多くの人から好かれると、いろんな意味で恵まれる状況になることが多いものです。逆に嫌われ者が成功するためには、いろんな手管を使う必要があります。勝間和代が正論のように訴え続けることが、嫌われ者が他者より抜きに出るための必死な努力のようにしか思えないことが、読者には痛々しく感じられるのです。利害関係で成り立っている仕事という土俵では、彼女の主張する手管も大きな意味がありそうなことですが、人として大切なことを失っているようにしか思えません。それ故に、ますます嫌われるという悪循環が生まれてしまっているのです。いろんな場面で嫌われ続けて、他人に対して妬みや嫉妬という感情を人一倍持っているからこそ、ネガティブな感情に敏感なのねって思ってしまうほどです。

勝間和代を妬んで「ズルい」と感じる人のことを「まじめ」という大雑把に決めつけているのは、「ふまじめ」なボクにとっても大変に不愉快です。どうやら勝間和代は「まじめ」=「常識や既成概念に囚われている」として、彼女の自由な発想を認めないで、妬んでいると思い込んでいるようなのですが・・・効率化の追求や自己正当化の論理に固められた彼女に、誰が「自由」を感じられるというのでしょう?自分のことを嫌う人に対して「どこが嫌いなのか直接話し合ませんか!」と噛み付く勝間和代は、ボクから見れば、厭味なほど「バカまじめ」のないものでもなく・・・ただ、ただ、失笑するしかありません。本来「まじめな人」というのは、とっても尊い人たちなのではないでしょうか?まじめな人たちが日本にはいっぱいいるから、電車はスケジュール通りに走っているし、電気だって水道だってガスだって滞りなく供給されているのですから!

勝間和代のことを「ズルい」と思うよりも「嫌い!」「痛い!」と感じる人の方が多いから、世間の彼女への関心は急激に減ってきているように思います。東日本震災後「絆」をやけに強調する発想には賛同しませんが・・・鼻息荒くして成功を求める個人主義的な成功よりも、人間的な幸福を求める傾向が強くなっていることは確かです。勝間和代的な考え方というのは、明らかに一世代前の考え方になりつつあります。一時期テレビに散々出演しておきながら、需要が減って出演依頼がなくなったら・・・テレビに出演することは「自分には向いていない」と、ポジティブに自分の弱点を認めるという自己分析に転化した上に、タレントは「見て!見て!」という”力の欲求”が強い人だと決め受けて毒気を吐くところなど、毎度ながらのトンチンカンな”自己確信”にはヘキヘキとさせられてしまいます。

本書の「ズルさ」は、本文(実質150ページ程度?)内の参考図書の多さ(後記でリストされているだけでも25冊!)・・・参考図書の紹介とその内容の解説が本編の殆どを占めるということです。まさに本書の成り立ち自体が「ズルい仕事術」の言葉をそのまま実践した「少ないインプットで、大きなアウトプットを引き出す」仕事っぷり・・・カツマー信者にとっては”大きなアウトプット”と勘違いしてしまう「読書リスト」かもしれませんが、そうでない人には限りなく薄い内容の一冊でしかありません。

勝間和代が「ズルい」と後ろ指を指されるのは、まったくもって当然のことなのです。






ブログランキング・にほんブログ村へ

2012/01/04

やっぱり今年もやっちゃいます・・・2011年に日本で劇場公開された映画作品の勝手なベスト3&ワースト3~「ブラック・スワン」から「ムカデ人間」まで~

人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へblogram投票ボタン


あけましておめでとうございます。

あちこちでは2011年のベスト映画のリストなどがあちらこちらで発表されておりますが、こっちのリストではワーストに挙げられているタイトルが、こちらではベストに挙げられていることもあって、選ぶ人によっての好き好きというのがハッキリ分かれたりするのも面白いものです。

まぁ、ボクのように基本的に自分の観たいと思う映画を自腹で観ている人にとって、対象となる映画タイトルというのは、すでに嗜好的には限られたもの。それでも「これは酷い!」と大声で酷評したくなる映画というのもあるわけですが・・・最も評価として低いのは「そんな映画知らない」ってことであったりします。「酷い!」と言わせるまでは「観てみたい!」とは思わせているわけですから。

自分勝手に選んでいるのだから、日本で公開されているか、今年公開されたかとか関係なしに「今年ボクの観た映画ベスト&ワースト」でも良いのかもと思いましたが・・・そうすると日本未公開作品だけでなく、数十年前につくられた映画まで含まれてしまうので、結局「2001年に日本国内で劇場公開された作品」としました。映画祭などだけで上映された作品は含んでいません。

リストする数が増えると、それぞれのタイトルに対する思い入れが薄くなるような気もするので、今年も「ベスト3」と「ワースト3」としました。

ベスト1「ブラック・スワン」

やっぱり・・・というか、当然の2011年のベストワンであります。おそらく2011年に限らなくても、ボクにとっては生涯ベストテンに入れたいぐらい、思い入れの強い作品であります。日本で公開される前の3月29日にアメリカでDVD/ブルーレイが発売されたので、速達で届くように購入しました。めのおかしブログの方にも観賞直後、感想文を書いています。


当時、この手のマニアックな映画がアカデミー賞の「作品賞」ノミネートという事実に結構驚いていたボクですが・・・日本公開後の大ヒットにも驚きました。ゴールデンウィーク直後(5月11日)という夏の大作公開前という狭間””ということもあったのかもしれませんが、2011年の洋画興行成績8位という奮闘ぶり。日本の少女マンガ的なドロドロ世界は、思いの外、日本(特に女性)には受けたということなのでしょう。

何らかのモノ作りの現場にいたり、自分を表現するという仕事に関わっている者にとって・・・表現者としての葛藤や、完璧を目指すあまり自分を見失っていくというのも、他人事ではなかったりします。ボク自身が創作活動をしていた時に感じていたのは、作品に魂を入れる作業というのは、自分の内面を解放する反面、自らの身を切るようでした。だからこそ「ブラック・スワン」のラストシーンには、号泣せずにいられないのです。

ベスト2「劇場版 神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴り止まないっ!」

まったくのノーマークの作品で・・・新作5作ならまとめて1000円レンタルという近所のTSUTAYAで、数合わせでレンタルして観たのが「劇場版 神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴り止まないっ!」でありました。

神聖かまってちゃんというバンドの存在は知っていたけど・・・いつの時代にも一部の人から熱狂的に支持される「ネガティブさ」や「アナーキーさ」を売りにしたヘンチクリンなバンドという印象だけで、正直ボクは「嫌い」でした。まぁ・・・アラフィフになるおじさんが神聖かまってちゃんに夢中になるという方が「怖!」とは思いますが。

多くの人がそうであるように・・・ボクが初めて観た入江悠監督作品は「SRサイタマノラッパー」でした。ラップ・ミュージックに興味のないボクにとって、ラップミュージシャンを主人公にした映画にはまったく興味を引かれなかったのですが・・・あちこちで話題になっていたのでレンタルで観たのでした。ラップに終盤の即興ラップのやりとりには、思いの外、心動かされてしまいました。

「劇場版 神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴り止まないっ!」というタイトルの映画でありながら・・・神聖かまってちゃん(または、リードボーカルの「の子」)は映画の主人公ではなく、オムニバズの物語を繋ぐカリスマの存在としたことで神聖かまってちゃんのことを嫌いな「おじさん」にとっても、受け入れられる作品となったのです。

神聖かまってちゃんの「伝説のライブ」までの1週間のあいだに、3つの物語が同時進行していきます。二階堂ふみ(園子温監督の最新作「ヒミズ」に主演でポスト満島ひかり確実?)演じる女子高生/美和子は、卒業後将棋プロを目指しています。ただ、将棋好きな父親とは大学進学を奨めておりぶつかっています。将棋を教えてた兄は自分の部屋にひきこもりっきりで本編には一度も姿を見せません。また、ボーイフレンドは将棋好きの彼女なんて格好悪いと浮気されてしまう・・・カッコ良いけど、メッチャ恰好悪いという絶妙な存在が何とも愛おしかったりします。他に、シングルマザーのポールダンサー(森下くるみ)と神聖かまってちゃんに夢中な幼稚園児の息子の物語と、神聖かまってちゃんのマネージャーのツルギ(劔樹人・本人)の葛藤が、終盤のライブで、それぞれの物語が希望へ向かうカタルシスは、音楽の力を信じる音楽映画の王道でありました。

今年は・・・東日本震災の影響もあってか、映画に限らず音楽も、ますます「応援」「感謝」「希望」「絆」などのメッセージを大盤振る舞いするような「直球の感動」表現ばかりになりつつある今・・・入江悠監督の登場人物ひとりひとりへの優しい視線が、映画的な「救い」を強く伝えてくれるのです。だって、本編の一番最後に現れる登場人物は、神聖かまってちゃんの聞くような若者からは一番遠い存在とも思える女子高生/美和子の父親だったりするのですから・・・。セル版のDVD/ブルーレイの特典として収録されている「お兄ちゃんの部屋」では、美和子のひきこもりの兄に対しても、優しい視線を送っています。

音楽映画でありながら、タイトルになっているミュージシャンの好き嫌いとは無関係に成り立ってしまうという・・・入江悠監督の稀な才能に感服したボクにとっては、「劇場版 神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴り止まないっ!」は、2011年の堂々たる邦画ベストワンなのです!

ベスト3「冷たい熱帯魚」

東電OL殺人事件マニア(?)のボクには「恋の罪」の方が好きではないかと思っていたのですが・・・水野美紀主演にした日本版よりも、ふたりの女(いずみと美津子)に焦点をあてた海外版の方が、作品としての完成度が高かったという不可解な事態に、国内公開版に関してはベストリストからは外すことにしました。「冷たい熱帯魚」については、公開時にめのおかしブログにも感想を書いています。


手加減なしの園子温ワールド炸裂・・・観賞時の疲労感は何度繰り返し観ても消えません。もうすぐ公開の「ヒミズ」への期待も膨らみます。

順不同で「スーパー!」「エンジェル・ウォーズ」「ツリー・オブ・ライフ」もベスト作品に挙げておきたいと思います。ブログでは感想を書く機会のなかった「ツリー・オブ・ライフ」は、好き嫌いのハッキリと分かれる作品だとは思います。詩的な映像を重ねることで生命と家族の繋がりを抽象的に描くという、商業主義の映画とはかけはなれた作品をハリウッドスター主演で製作されたことに驚きました。

****************************

基本的に自分が観たいと思った作品しか観ないので、ワースト映画を選ぶほど映画の本数を観てない・・・と思うのですが、それでも、あるんですよね,酷い映画って。


ワースト1「ムカデ人間」

これは「名誉のワースト1」であります。

「嫌よ、嫌よも、好きのうち」と申しますが・・・本作ほど「もうヤダぁ~勘弁してくれよ・・・」という映画は近年なかったと断言しちゃいます!故に「ベスト」ではなく、あえて「ワースト1」とさせて頂きました。日本での劇場公開は2011年でありましたが・・・実はボクは、北米版ブルーレイにて2010年に観ておりました。詳しい感想は、以前書いたブログを参照してください。


さらに「ムカデ人間」の酷いのは・・・さらに悪趣味テイストをパワーアップさせた続編「ムカデ人間2」が、すでに製作されているというところ。こちらも、ボクはイギリス版のブルーレイ(残念ながら編集でカットされている)で観ております。2月にはイギリス版よりも収録時間が数分長い北米版ブルーレイが発売されるので、イギリス版ではカットされたシーンも観れることに期待大であります。


ワースト2「パラダイス・キス」

実質的な2011年のワーストワンに「パラダイス・キス」を挙げることにさせて頂きます・・・同じくファッションデザインをテーマとした「ランウェイ☆ビート」もあったのですが、主演している役者の「旬なスター性」にも関わらず、酷い作品に仕上がっている本作が、本当にサイテーであると判断した次第であります。めのおかしブログにも感想を書いています。


マンガなら成立するような設定や物語も、実写となるとかなりキツイ!ファッションとして生ものを扱う限り、映画として完成した瞬間にダサくなってしまうのは当たり前でありますが・・・古臭いコンセプトとしての「おしゃれ感」に依存しているだけあって、時代性さえも感じさせない作りには圧倒されます。出演者の向井理、北川景子、五十嵐隼士らが、今後、大御所/ベテランと呼ばれるような俳優になったとしたら・・・バラエティ番組で、過去の恥ずかしい出演シーンとして使われる作品になることは請け合いです!

ワースト3「あしたのパスタはアルデンテ」


ダークホースというか、日本ではこっそり(?)公開はされたので殆ど話題にもなっていません。家族の絆を描く・・・大人のイタリア映画として日本では宣伝された「あしたのパスタはアルデンテ」。老舗パスタ会社の御曹司である二人の息子とも「ゲイ」であったという、ある意味、ゲイ・フレンドリーな映画ではあるのですが、その描き方が、まず中途半端。一家の長で糖尿病の祖母が、家族内のイザコザに嫌気がさして、スイーツを食いまくって自殺してしまうというトートツの展開・・・最期に、お葬式で家族全員が再び集まって「めでたし、めでたし」という、何とも不謹慎な落ちどころに、感動もへったくれもありませんでした。イタリア的なムードだけで、感動する大人の映画として宣伝していたようけど・・・結果的にゲイの客にも、ヨーロッパ映画好きにも、大人の映画好きにも見向きもされなかったようです。

順不同の次点ワースト作品としては・・・「世界侵略:ロサンジェルス決戦」「ランウェイ☆ビート」「あしたのジョー」を挙げます。中でも「あしたのジョー」はマンガの実写映像化に、さらに疑問を投げかけた作品と言えるでしょう。力石徹を演じた伊勢谷友介の減量と演技には感服したものの・・・香川照之の丹下段平はキャラクターへの思い入れと演技力が空回りのコント、矢吹丈の山Pについては・・・言うまでもありません。

****************************

世界的に、過去の映画作品が本格的にブルーレイ化され始めています。日本では、初DVD化されるマニアックな作品もたくさん発売されます。今年は、ますます古い作品を改めて観る機会が増えそうです。



ブログランキング・にほんブログ村へ