2010/05/11

エロオバサンも、エロオッサンも「己を知る」ということに尽きるのだ!~「オバサンだってセックスしたい」/岩井志麻子著~


5時に夢中!」での強烈なエロオバサンっぶりの岩井志麻子のことだから、いつか、こんな本を書くんじゃないかと思っていたけど・・・遂に出しました~!
ズパリ「オバサンだってセックスしたい」・・・まるでエロサイト勧誘のジャンクメールのようなタイトルです。
それにしても、この本を平然と本屋のレジに持って行って買ったり、公共の場所でブックカバーなしに堂々と読めるオバサンっているのでしょうか?
それが平気で出来るのであれば・・・まさにクィーン・オブ・オバサンと呼べるでしょう。
こんなタイトルの本の読者なんて、ボクみたいなキワモノ好きぐらいしかいないんじゃないかと思っていたんだけど・・・実際に読んでみたら、普遍的な人生の真理が書かれていた、ある意味、素晴らしい内容(?)の本なのでした。


岩井志麻子の生まれ育った岡山と、男漁りをした韓国と、取材をした水商売(ヘルス、AV界も含む)に於いての筆者の体験から「オバサン道」が語られている本書だけど・・・ひと言でまとめるとすれば「己を知る」ということに尽きるのでありました。
これって、当たり前のことだけど、実はなかなか難しいこと・・・年甲斐ない勘違いほど、第三者からみて「痛い」存在ってありません。
若作りをしてオバサンが若い女性と戦っても、本当の「若さ」には敵うわけはなく、オバサンオバサンを好む層に、オバサン度をアピールすることで「需要がある」という説は、ごもっとも!
ただ、デブのくせにデブ好き(デブ専)にだけは好かれたくない・・・とか、天の邪鬼も、ありがちなこと。(ボク自身もデブ専を嫌うデブでありました)
「己を知る」というのは、時には厳しい現実を直視することだから、人間的な成長を必要とするのです。

ストレートのオバサンとゲイのオッサンでは、置かれている状況はまったく違うけど、自分が求められる場所に身を置けば、必然的にモテる・・・というのは、共通していることのようです。
「需要」「供給」のバランスは経済の基本・・・セックスという市場での自分のマーケティングを把握することは、非常に大事なこと。
ゲイの世界は、捨てるところがないというほど、モテ筋というのはさまざま・・・「ちび、でぶ、はげ」のオッサン(オジイサン?)が”本理想”ということもあるから、オバサン市場と比べて、ゲイのオッサン市場は、さらに奥が深いのであります。
ボクと岩井志麻子はほぼ同年代ではあるけど、「選ばれる性」のオバサンって、いろいろと考えているみたいで大変・・・あぁ、ゲイのオッサンで良かった~!

何でもかんでも「ポジティブに!」というのが最近の傾向・・・自分をリアルに知ることって、ますます難しいことになってきているのかもしれません。
「自分で自分を褒めてやりたい!」「どんな自分もだって全部好き!」というような、自己全肯定で生きるが勝ち!
自己申告での「私」で成り立っている人が、多くなってきたような気がします。
否定的な意見を言うことは「悪」で、気持ちよく過ごせるような優しい言葉が「善」とされる・・・傷つくこと、傷つけることを恐れて、直接的に己を知る機会はますます減るばかり。
ネット上のコミュニケーションなんて、アバター同士の関係に近いから、何度だってリセット出来てしまいます。
空気を読むように「己を知る」しかない時代・・・そもそも「キャラ」ではない「真実の己」を追求することって求められているのでしょうか?
将来的には、もっともっと勘違いしている、痛いオバサンや、見苦しいオッサンが増えているかもしれません。

「オバサンだってセックスしたい」というタイトルだから、誰もが本屋で手に取ることさえも躊躇してしまいそうだけど・・・オバサンマジ「やりたい」という男性にとっては、オバサンの見分け方オバサン別の攻略法オバサンの悦ばせ方、抱き方など、後半は実戦的に使えそうなので「実用書」としてお奨めです。
また、岩井志麻子が普段のエロオバサンっぷりを発揮して、自らの欲望と体験をオブラートに包むことなく語り尽くしているので、キワモノ好きの方々の期待にも応えていると思います。
しかし、なんと言っても、この本を一番読むべき読者は・・・
フツーのオバサンそこのオバサンあなたですよ、オバサン!
ぜひとも、この本を通販とかで通販で購入して、自宅でコッソリと読んで欲しいのであります。



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2010/05/08

ゲイの手習いの必須ミュージカル映画、伝説のストリッパーの物語~「Gypsy/ジプシー」~



アメリカのドラッグ(女装)ショーを観に行くと、必ずと言って良いほど、引用されるゲイのカルト映画っていうのがあります。
メイ・ウェストジュディー・ガーランドベティ・デイビスらが出演していた古い映画は、ドラッグクィーンでなくても、アメリカで育った(?)ゲイならば(ボクぐらいの世代のおじさんのゲイということ)、必ずと言っていいほど観ているはずなのです。
ボクが渡米直後(1981年)に、初めてドラッグショーを観た時には、元ネタの映画や女優の存在自体をを知らなかったもんだから、笑いどころやパロディの面白みがまったく理解出来なくて、歯がゆい思いをしたものでした。

映画の元になった舞台版の「ジプシー」は、実在したストリップの女王・ジプシー・ローズ・リーの回想録を元に「ウエストサイド物語」のスタッフらが製作したミュージカルです。
まず、物語の設定だけでも、ゲイが好むキャンプな世界を連想させます。
ただし、物語の”主人公”ジプシーではなく、ステージママとして冷酷な母親として描かれるローズの方です。
娘のジプシーは、新人若手女優によって演じられることがお決まりの”脇役”として、オリジナルでは描かれています。
母親のローズ役というのは、舞台の初演で演じたエセル・マーマンという太々しい態度のブロードウェイの大御所ミュージカル女優が作り上げたイメージが強く、この映画のロザリン・ラッセル(ピクニック)を含め、その後、ブロードウェイの舞台でローズ役を演じたアンジェラ・ラズベリータイン・デイリーバーナット・ピーターズベット・ミドラー(テレビ映画)に、強い影響を与えているようです。
映画版の「ジプシー」では、当時人気若手女優だったナタリー・ウッドが、娘役を演じたため、ジプシーの役柄にもスポットライトを当てて、より母親と娘の葛藤が濃く描かれるという・・・ボクには大変好ましいバージョンとなっているのあります!
当時は純粋可憐な若手女優であった・・・”あの”ナタリー・ウッド(公開は「ウエストサイド物語」の翌年)が、ストリッパーを演じるということで、話題になったのはいうまでもないでしょう。



さて、物語はルイーズ(後にジプシー・ローズ・リー)が、母親ローズと妹のジューンとミュージカルナンバーを公演しながらどさ回りをしている子供時代(1920年代)から始まります。
彼らはヴォードヴィルと呼ばれる劇場を渡り歩く芸人一座なのですが、お人形さんのような金髪で歌のうまい妹のベイビー・ジューンが、この一座のスターです。
「Let Me Entertain You 」と、なんとも意味ありげなタイトルの歌が彼らの唯一(!?)の人気の出し物なのですが・・・歌詞がスゴイ!
歌っているベイビー・ジューンは、まだ子供なんだから!
ちょっと長いけど引用しておきます・・・のちの伏線となる歌詞なんで。

Let me entertain you
Let me make you smile 
Let me do a few tricks 
Some old and then some new tricks 
I'm very versatile 
And if you're real good  
I''ll make you feel good 
I want your sprits too fine 
So let me entertain you 
And we'll have a real good time, yes sir 
We'll have a real good time 

あなたを楽しまさせて
ニヤっとさせてあげるわ
いくつか”カマ”かけてあげる
古いテクも、新しいテクもあるの
私は合わせるのが、すごく上手なのよ
あなたがイ~子にしてたら
気持ち良~くしてあげるわ
気分良すぎるぐらいにしたいの
だから、楽しまさせて
私たち楽しい時間を過ごせるはずよ、旦那
私たちで、すご~く楽しみましょう

註:正確な翻訳ではなく、エロっぽく意訳アレンジしています・・・あしからず。

この歌をロリータっぽく歌うベイビー・ジューンの後ろで、姉のルイーズは少年の格好をしてバックダンサーをさせられています。
母親のローズはスターであるジューンばかり特別扱いしているのですが、母親から「おまえには才能がない!」と常日頃言われ続けていたルイーズは、何ひとつ不平も言わず従順に従っているのです。
ところが、姉妹がティーンエイジャーになった頃、妹のジューンは男とデキちゃって駆け落ちをしてしまい、一座はバラバラになってしまいます。
それでも諦めない母親のローズは、急遽今まで冷たくあしらっていたルイーズをスターに仕立て上げて劇場に売り込もうと画策するのです。
しかし、特別に歌の才能がないルイーズが雇われたのは、お色気のミュージカルレビュー(ストリップ)を売り物にするバーレスクのストリッパーとして、でした・・・。
ちょっとしたギミック(面白いアイディア)があれば、歌や芝居が出来なくてもストリッパーだったら売り出すことが出来たのです。
いざ、舞台に出る前になって、ルイーズは鏡を見てこうつぶやきます・・・「Mama! I 'm pretty. /ママ、私ってキレイだわ!
そして「ジプシー・ローズ・リー」という芸名を与えられて、ルイーズはストリッパーとして目覚めていくのです。
ルイーズは、ストリップの”いろは”も知らない素人・・・それを逆手にとって、ストリップティーズ(焦らしのテクニック)として昇華させていくことによって、ジプシー・ローズ・リーは、たちまちバーレクスショーの看板スターになっていきます。
見所は、かつて妹ジューンのお得意のナンバーだった「Let Me Entertain You!」の歌に乗せて、ジプシーは徐々にストリッパーとしての自覚と自信に目覚めて、ドンドンと大胆になっていくシークセンスです。

ゲイカルトとしてのボクの”萌えポイント”は、ストリップの大スターとなったジプシーの前に、ローズが訪ねてくるシーンでしょう。
昔のように、あれこれとステージの演出のアイディアや、上流階級にチヤホヤされているライフスタイルに、口出しを始めた母親に対して・・・ジプシーは訴えます。

Look at me, mother ! I'm a STAR!
ママ、私をみて!私はスターよ!

これこそ、誰もが(?)女優気取りで言ってみたい台詞のナンバー1ではないでしょうか?
ナタリー・ウッドの感情を抑えながらビミョーに震えながら「スター」と発音するところが絶妙・・・心を揺さぶる見事な台詞回しです。
自分の努力で獲得したストリッパーの女王というスターダムの、”一瞬”、”一瞬”を楽しんでいるんだ・・・と!
母親のローズは自分の叶えたかったスターになる夢を、娘たちに押し付けていたことに気付き「今度こそ、私の番だ!」と、高らかに歌い上げます。

ローズのように、自我が強くて自分勝手な母親・・・というのは、ゲイにはお馴染みのようで、アメリカのゲイのお気に入りの役柄のひとつであります。
また、ルイーズジプシー・ローズ・リーとしてストリッパーとして才能を開花させるという・・・まったくもって素敵に場末(!)な世界観も、ゲイの理想とする輝かしいキャンプなスターダムではないでしょうか?
映画版「ジプシー」は、”一粒で二度美味しい”母親と娘の、どちらにも「なりきって」楽しむことのできる・・・ボクにとっては、ゲイの手習いの必須ミュージカル映画として、今でも君臨しているのであります!


「ジプシー」
原題/Gypsy
1962年/アメリカ
監督 ; マーヴィン・ルロイ
原作 ; アーサー・ローレンツ
作曲 ; シュール・スタイン
作詞 ; スティーブン・サンドハイム
出演 ; ナタリー・ウッド、ロザリン・ラッセル

註:復刻シネマライブラリーより日本語字幕付きの国内版DVDが、2018年5月28日に発売されました!



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2010/05/05

「別れの美学」なんてあるのか?・・・ヤンキーなやさぐれ娘とプレゼン上手な男~高城剛と沢尻エリカ~


ゴールデンウィークの連休が終わると弁護士が動き出して、一気に決着のつきそうな「高城剛と沢尻エリカの離婚問題」・・・ボクはどちらにも特別な思い入れはないけど、つまらない結末になりそう気がしています。

沢尻エリカの魅力の神髄っていうのは、演じる役柄が純粋っぽいにも関わらず、リアルなビッチさ尽きると思うんだけど・・・その「良さ」が、今後生かされていくかは疑問であります。
例の「別に~」の舞台挨拶と、その直前に出演した日本テレビの生放送「ラジかるッ!」での見事なビッチな無愛想ぶりをしながらも、批判を浴びると涙の釈明(?)インタビューをしたのは、エリカ崇拝者でないボクでさえ拍子抜けしたものでした。

その後、以前から交際の噂があった高城剛と結婚したわけだけど・・・誰もが、このふたりの結婚には違和感を感じていたんじゃないでしょうか?
離婚報道によると、高城のことを「キモい」エリカが言っていたらしいけど、第三者からすると「やっと気付いた?」ってことだったりするわけで・・・。
彼女は世界を目指すこともなく、日本の芸能界に戻ってきてしまったわけですが・・・ハリウッドで大女優になって、高飛車な「超~ビッチ」になって凱旋帰国でもしてくれたら見直したのにと、悔やまれます。
離婚騒動の最中、自宅からプライベートのファッションで外出するエリカの時代遅れでセンスのないヤンキールックは、フツーの「やさぐれ娘」にしか見えなかったのでした。(写真展出席の時は、ランバンのドレスでしたが・・・)
テレビでの離婚報道後に、高城にはメールで離婚の意志を伝えたらしいけど・・・「女優」であれば「修羅場は金払ってでも経験しろ!」と言いたい!
エイベックスに移籍して、無事に日本での芸能活動を本格的に再開するということになりそうだけど、どういう方針で売っていくんだろう?
「いい人」沢尻エリカなんて、誰も望んでいない・・・ピュアな役柄から脱却して、素のままのビッチな役柄で、ぜひ活躍して欲しい!
演出家も「いつも通りの無愛想な感じでお願いしま~す」って。
例えば、女同士で殴り合いの喧嘩とかするようなドロドロのキャバクラ嬢のテレビドラマとかで”北川景子”と共演・・・なんて、華麗なる(?)カムバックを勝手に妄想しています。

ボクが高城剛の名前を知ったのは、まだ「bekkoame」が、インターネット接続プロバイダーとして一世を風靡していた時代(1995年頃)・・・「フューチャー・パイレーツ」というパソコン通信サービスの「フランキー・オンライン」を作ったハイパー・メディア・クリエイター(当時から)として話題になっていた頃だったと思います。

「フランキー・オンライン」のようにバーチャルな空間をリアルタイムで移動出来るといういうのは、当時としてはかなり先駆的で、実際にそのようなサービスを提供していたのは、世界的にも彼の会社が初めてだったかもしれません。
ただし、ネット接続は電話回線という時代・・・まるで「真女神転生」のダンジョンのようなカクカクとした3D仮想空間ではありました。
提供されていたサービスは、街頭テレビで動画が見られる(YouTUBE)、ニュース・スタンドでオンラインマガジンを読める(ネットマガジン)、ポスト・オフィスから電子メールが送れる(フリーメールサービス)、パソコン通信のようなファーラムでユーザーと交流する(MIXIのコミュニティ)、ラジオ・ステーションで音楽をダウンロードする(iTunes Store)、他のユーザーとリアルタイムでゲームをする(オンラインゲーム)、お店で商品を手に取ってショッピングをする(ネット通販)などなど。
15年経って振り返ってみれば・・・今では当たり前のように存在しているネットサービスばかりだったりします。


その頃の高城剛「チキチキマシーン猛レース」のキャラクターのような山高帽をかぶって、ハイテンションでしゃべりまくるオタク(ある意味、今と同じ感じ?)で、インタラクティブなマルチメディア、インタネットブームに乗って、ガンガン稼ぎまくっていたのでありました。
そう言えば、フューチャー・パイレーツ「3DO」という家庭用ゲーム機用に「チキチキマシーン猛レース」や「マカロニほうれん荘」という異様にテンポの悪いゲームを制作していたけど・・・当時は、こんなもんでもビジネスになった時代だったということです。

高城剛と実際に仕事したことのある人から聞いた話によると・・・とにかくリアルでもハイテンションで、口が上手いらしい!
彼の饒舌に圧倒されてしまうクライアントは仕事の契約してしまうらしいが、実務に関しては問題があるようで、悪く言ってしまえば「プレゼン上手な見かけ倒しということになるらしい・・・仕事での話だけど。
確かに、こういう「プレゼンだけが上手な男」ってボクも出会ったことがあって、知り合ってしばらくは盛り上がるんだけど、知れば知るほど下降線になるんですよね。
高城剛はアイディアマンとして、マルチメディアやインターネットの創始期から、現在でも、実力以上(?)に評価されているところがあるんだと思うけど・・・まさか、ヤンキーの小娘に捨てられる運命が、40過ぎてから待っていたとはねぇ。

自分のブログ(TSUYOSHI TAKSHIRO-BLOG)に「妻へのメッセージを書く」という暴挙に出たわけだけど・・・第三者から見るとかなり異様な行為に感じられるってことを、何故、彼は気付けなかったのでしょうか?
テレビ番組で離婚騒動について、インタビューに答えている苦悩の表情は痛々しい・・・でも、エリカは彼に会うことで、また口車に乗せられるのを恐れていることは分かるような気がしました。
悪いけど・・・高城の顔が詐欺師のような悪人面に見えるもん。
結局のところ、離婚はエリカのペースで押し切るだろうし、さらに惨めには高城だってなりたくないだろうから、結構スムーズに離婚手続きに入るんじゃないかなぁ。
このふたり、地味~に解決しちゃいそうです。

男女に限らず男同士(女同士)でも別れ話になると、捨てられる側は納得してから別れたいと思うのは”よくある”こと・・・ただし、その別れの理由に納得できることは「稀」
「別れる」「別れない」の修羅場を経験したことはあるけど、自分から別れたいと思ったときの記憶はそれほど覚えていないくせに、自分が捨てられた時の記憶だけはしっかりと残っていたりするもんです。
別れたい方にとっては、いかにスムーズに別れるかしか考えてないのだから・・・時が経つとケロッとしているもんかもしれません。

「別れの理由ぐらいは聞きたい」と誰もが思うことだけど、「別れの理由」なんて聞くだけ野暮。
若い時には「別れの理由」を知ることで、自分が成長出来るのでは・・・なんて、キレイ事を考えるけど、聞いたって傷が深くなるだけ
「別れの宣告」だけを受け止めて、それ以上は何も聞かない・・・それが、捨てられる側の「美学」だと思うのです。

逆に、捨てる側になたときにはいい意味での冷たさも必要・・・「別れの宣告」は、部屋の中じゃなくて、どこか人の目もあるところで。
捨てた相手の気持ちが落ち着くまで一緒にいてあげる”優しさ”なんていらないから、振り返らずに先に帰ることが、本当の意味での捨てる側の”優しさ”なのかも。
別れたいと思ったら、わざわざ会って話をするのって正直言ってウザいけど・・・それでも、実際に会って「別れの宣告」をするのが、捨てる側の「人の道」なのであります。

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2010/05/04

嫌われ者のふたり・・・どちらにも共感出来ない砂地獄のような対談!~「デキビジ」勝間和代 VS. ひろゆき ~


先日(2010年5月2日)のBSジャパンで放送された「デジビジ」という番組での、ひろゆき勝間和代の対談が「スゴイ」ことになっていた!
「スゴイ」というのは素晴らしい内容だったと意味ではなく・・・ふたりとも嫌いなボクにとっては、どちらにも共感することも出来ない、まるで「砂地獄のような対談」であったということなのです。
全く噛み合ないふたりが、論点の奪い合いをしているだけで・・・自分のフィールドに”ひろゆき”を上がらせることの出来ない”勝間和代”のイライラっぷりが、画面からしっかりと伝わってきたのでした。

”勝間和代"、いつまでも「失われた10年」の感覚で「効率!」「効率!」と神器のごとく訴えたり、古い感覚での良識に囚われた「あるべきだ」論の押し付けがましさには、もうボクを含めて世の中の人たちもがゲッソリ
ただ、"勝間和代"とは違う意味で、ボクにとって不快な話し方をするのが、「2ちゃんねる」の元管理人ひろゆきなのであります。
”ひろゆき”のイヤ~な感じって、「2ちゃんねる」のスレッドで繰り広げられる誹謗中傷の書き込みを読んだときに感じる「嫌悪感」に似ているような気がするんですよねぇ・・・。
とにかく周知「上から目線」なんだけど、”ひろゆき”の場合には、あごとでっかい鷲鼻を突き出しながら、バカにした視線を投げかけてるという・・・まさに絵に描いたような「上から目線」を実行するのであります。
そして、自分のフィールド内での論点で、結論は「ひとこと」で切り捨て、それを理解出来ないなら「あなたバカ?」というトーンで追い詰めていくというのは、”ひろゆき”の得意とする討論の仕方のひとつでしょう。
そのくせ、”ひろゆき”は自分のフィールド外の物事については「モノ知らないんでぇ〜」と腰を低くし、無知さや社会性のなさをアピールして逃げるので、反体制的なアナーキーにさえもなりきれていません。
"ひろゆき"のクールな切り捨てる対応を「大人の態度」と評する人もいるみたいだけど・・・身のほど丈に甘んじて「これが自分の幸せ」で悟ったように生きている低飛行人生を送る世代の、ひとつの定型的なキャラクターのようにしか見えません。
・・・と言って、”勝間和代”みたいに「もっと収入を!「もっと効率を!」「もっと!「もっと!」」という上昇志向丸出しの痛い生き方にも賛同出来ないし、「ダメだ、こりゃ」で片付けてしまう姿勢にも、否定的なボクあります。

  対談はこちらのサイト(さかなの目)でテキストを読むことはできます。

さて、この番組で論じられていたことについてです。
「ネットの匿名性」は、IPから個人を特定出来るから何でもありというのは問題・・・しかし、匿名性によって生まれる権利と自由があるわけだから、ネット規制(中国のように!)を行うのは言語道断な話だと思います。
ネット上で行われている匿名での誹謗中傷なんて憂さ晴らしや嫌がらせ・・・雑音として聞き流したりして、真に受けとらなければ良いこと。
”町山智浩”のように、ツイッターで堂々と実名で誹謗中傷(?)することにこそ「潔い男気」を感じます。
「若者の起業」は、「若者」に限定して若者の起業を促すような優遇をする必要はなく、年齢に関係なく起業しやすい環境を国が作っていけば良ければ良いのではないでしょうか?
若者の起業に関しても「あるべき論」で語る”勝間和代”は古いけど・・・「したければ、すれば?」と切り捨てる”ひろゆき”の態度は、起業に関してだけでなくすべて物事に関して彼の一貫したスタンス。
これは個人の尊重という観点で、オールマイティーに「正論」っぽく聞こえてしまう当たり前のことでしかありません。
「日本人の幸福度」が足りないことについては、共に自らの幸福度が高いと認めるふたり・・・”勝間和代”「9」と、”ひろゆき”「10という幸福度の意味だって、そもそも違うわけで「幸福度」って何?ってことです。
こういう統計結果をメディアで大きく扱って、自己批判したりすることが、日本人の国民性なのかもしれません。
幸福度の話から「働くことの意義」という話題になって、無気力な”ひろゆき”節炸裂という感じでしたが・・・単に「楽なほうが良い」という生き方というのは、低いハードルでの幸福度「10」にしかならないのではないでしょうか?

いぜれにしても、ルックス態度で、かなり「損」をしている・・・生理的”嫌われ者”のふたりを、あえてキャスティングした番組側の意地の悪さも見え隠れしています。
普段、ほとんどテレビに出演しない”ひろゆき”が、何故、勝間和代”の番組にゲスト出演することにしたのか理解出来ません。
ただ、アンチ・カツマーの視点からは、”ひろゆき”を対談コーナーのゲストに呼ぶことを承諾した”勝間和代”は、見事に「墓穴を掘ったな!」と、失笑してしまっただけです。
”香山リカだったら、あえて”ひろゆき”と対談するとは思えないのですが、どうでしょう?
でも・・・ちょっと見てみたい気もします。

追伸:その後、勝間和代は公式ブログにて、ひろゆきに謝罪しています。

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2010/04/30

清水ミチコの顔マネでは・・・ありません!?〜森村泰昌展・なにもかへのレクイエム〜


まだ、ニューヨークでデザイン大学に通っていた頃に、森村泰昌氏の西洋の絵画の中の人物に扮した写真を初めて見たのですが・・・ボクは「美術にまつわるジョーク」をしている芸人さだと、その時に何故か思い込んじゃったんです。
最初の印象が、そんなんだったものだから、森村氏のその後の作品群を見ても「また、ふざけている。おもしろ~い!」という反応しかできなくなってしまったようです。
そして「女優家M」としての女装シリーズでは、ニューヨークのドラッグクィーンが、やりたくてしょうがないような「なりきり系」の女優系のコスプレを凝ったセッティングと撮影でやっている”ノリ”に、かなり笑わせてもらったのでした。

・・・・・ただ、その後、日本に帰国して、森村氏の文献とかに接する機会があって、彼は特にふざけているんじゃなくて、かなり真面目に活動されている”美術家”ということを知って、逆に「ドヒャー!」って、ひっくり返ってしまったのであります。
森村さんって、知的っぽい笑いを追求している「芸人」さんじゃなかったのね・・・失礼致しました。


さて、東京都写真美術館で開催されている「森村泰昌展・なにもかへのレクイエム」は、20世紀の男たち」に扮したセルフポートレート写真の新作シリーズです。
元ネタが「報道写真」だったり、有名な写真家が撮影した「ポートレート写真」ということから、以前の作品群より直接的な引用を感じさました。
女装モノよりも、本気で似せようとしているし、かなり元ネタと似ているのですが、ますます「顔マネ度」が高くなってしまった・・・という感じです。

まるで、清水ミチコのものまね芸の「顔マネ」のような!!!


そりゃ勿論、写真としてのクオリティも、作品として訴えているテーマもまったく違うのですが・・・元ネタを小馬鹿にしているのか、リスペクトしているか、ビミョーな際を表現している感じに、同じようなスピリットを感じてしまったのです。
「20世紀の歴史」と言えば大きなテーマではありますが、清水ミチコの芸能人/著名人の洞察力というのも、ある意味、そのときの時代を語っているわけで・・・100年後、200年後には森村氏の美術写真も清水ミチコの顔マネも同じように「過去の文化」として扱われるの・か・も・しれません。


セルフポートレートという同じ写真の手法のせいか、何かとシンディー・シャーマンと比較される(らしい)森村氏であります・・・が、どうなんでしょう?
森村氏本人は「シンディー・シャーマンは我が妹」と公言しているし、オマージュとしてシンディー・シャーマンの作風を真似て、シンディーになりきった作品も発表しているほど。
確かに、年齢は森村氏が多少年上なので・・・そういう意味では「兄」ではあるのでしょうが、セルフポートレートの作品群を発表したのは、シンディー・シャーマンの方がずっと早くて1970年代後半のこと。
それに、同じセルフポートレートでありながら、作品の意図することや、作品に対する姿勢は、かなり違うものであります。
「Untittled Film Stills」シリーズ、後に森村氏の女優家Mの作品に影響は与えたとは思うんだけど・・・シンディーが扮するのは、タイトルもない映画の、名前もない「女」という存在。
自己消却」しているシンディーと「自己主張」する森村氏・・・ボクには、大きく違う表現者と思えるのです。

さて・・・「森村泰昌展・なにもかへのレクイエム」は、女装シリーズほど「笑える展覧会」ではありません。
歴史を記録した写真を「再現する」ことに、ボクはそれほど深い意味を感じることが出来なかったし、メッセージも非常に分かりやすくて(別に難解であることがアートだとは言わないけどさぁ)歴史をパロった「森村流の芸」という印象ではありました。
そして何よりも・・・ところどころが、ベタなオヤジギャグところが「やっぱり森村さん、根が芸人!」としか、言えなかったのでした!

森村泰昌展・なにものかへのレクイエム
東京都写真美術館2F、3F
2010年5月6日まで



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2010/04/27

「おっぱい星人」「ちんちん星人」・・・男のサイズも評価基準になる?


「巨乳」って今では日常会話でも使われるようになっているけど・・・初めて聞いたときは、生々しくて”イヤらしい”感じがした。昔は「ボイン」とか可愛らしく表現してたし・・・その後「デカパイ」とか言ってた頃もあったような気がするけど、さすがに日常使われてはいなかったと思う。それに比べて「巨乳」は、女性からも市民権を獲ている言葉のような気がする。



胸の「大きい」「小さい」は、生まれ持った身体的な特徴だけど、男の妄想によって評価されている。ボクらの世代の若い頃には「大きな胸」=「すぐヤラせる女」というような・・・世間の勝手なイメージが、まだまだあったから、どちらかというと隠す方が多いような気もする。それが、バブル時代のボディコンから意識って変化したのかもしれない・・・。「結局、男はデカイ胸が好き!」という定説を女性が信じることによって「巨乳」は「キレイ」や「かわいい」と同じようなモテ要素のひとつとして、アピールすることが主流になったようだ。男が「オレって、おっぱい星人!」と、”巨乳好き”を自負しても白い目で見られることもない・・・逆に、草食系男子が増えてきた今、ある意味「男性的」だとして好感度がアップかもしれない。

ボクは女性じゃないから「巨乳」「貧乳」の評価を下されることはないけど、もしも、男性も身体的な「大きい」「小さい」が評価の対象となったら、どんな気分なんだろう?そう、女性が「巨乳」なら、男性は「巨根」・・・おちんちんのサイズが日常会話で語るようなことになったら、男は平然と生きていけるのだろうか?



アタシ、ちんちん星人なの~」と、女性が”巨根好き”をアピールしたり、「オレって、巨根系じゃん?股関節、痛てぇ~よ!」とか、日常会話で交わされているとしたら・・・。

そもそも、おちんちんの「大きい」「小さい」の基準って・・・ハッキリしない。イヤ・・・逆に男性としては、あまりハッキリして欲しくないのかもしれない。女性の胸の大きさに関しては「Cカップ以下は貧乳」とか、勝手なこと言ってるくせにね。

男の平均サイズには諸説あるけど、正確な統計を集めることが難しいようだ。自己申告制だと、見栄を張って申告しがちなので・・・統計結果は「大きめ」に。性の悩み相談の返答では、コンプレックスを持たせまいとして・・・平均サイズは「小さめ」に。せめて「平均サイズで、ありたい!」と思う男性は、結局のところ、自分の都合の良いようにデータを解釈している。しかし、そこをハッキリさせようということで・・・「Condomania/コンドマニア」が、世界70カ国27000人の顧客データを集計した「勃起時の平均サイズ」を、先日発表したのだ!

TheyFit condoms/ゼイフィット・コンドーム」という、76のサイズのあるコンドームの販売データから分析されているので、おそらく信憑性は高いと思われる。ただ、アメリカのサイトでの販売実勢が中心となっているので、日本人男性の平均とは違うかもしれない。どうやってサイズの計るのかというと・・・まず、コンドマニアサイトから「Fit Kit」をダウンロードして印刷をする。ペニス用の定規をハサミで切り抜いて、それを自分のモノに巻き付けて、長さ(14段階)と、太さ(11段階)を計るというもの。サイズチャートから導かれる適正サイズのコンドームよって、長さも太さもしっかりと”モノ”にフィットするので、みんな「ハッピー!」というわけ。



さて、その「調査結果」だけど・・・50%の男性は5インチ(127mm)から6インチ(152mm)ということだった!数値に、随分と幅を持たせているところが「なまぬるい」という気もするるけど・・・ボクの正直な反応としては、アメリカ人男性を対象としたことを考えると「思っていたよりも、小さい」という印象。27000人には敵わないけど、ボクなりのアメリカ人男性のサイズの統計はあるわけで・・・6インチより若干大きめ(16センチぐらい)が、平均かな?・・・というのが、個人的な見解。さらに、アメリカ人にも5インチに満たない人が25%(4人に1人)というのだから、ちょっと驚く。日本人はアメリカ人のは「デカイ」と勝手に思い込んでいるけど、実際はそれほど違いはないのかもしれないと思ってしまう。

アメリカの50州のランキングや、都市別のランキングも発表されていたんだけど、こちらは意外な結果で面白い。「巨根」の多い州は上位から、ニューハンプシャー、オレゴン、ニューヨークで、「粗チン」の多い州は、ワイオミング、ユタ、アイオワとなっている。1位のニューハンプシャー州って白人の割合がアメリカでも多いところだけど・・・そんな「巨根」が多い州だとは驚き!都市別では、ニューオリンズ、ワシントンDC、サンディエゴ、ニューヨークシティの順で、こちらは黒人やラテン系が多そうなところばかり。ちなみに「粗チン」の都市ナンバーワンはテキサス州のダラスでありました。まぁ・・・殆どの人には「だから、どうした?」という話だろうけど。



ストレートの男性が「巨乳」を求めるように、ゲイの男性が「巨根」を求める傾向というのは”ありがち”でも、さすがにゲイ同士でも「巨根好き」を堂々とアピールするというのは、ちょっとビミョー。さらに、自ら「巨根」をアピールし過ぎるのは、もっとビミョー。普段はパンツを穿いているし、常に勃起させているわけではないから、女性の胸のように見ただけでは分かりにくい。出来れば、噂で「大きいらしい!」と広まってくれるのが、理想的なのかもしれない・・・って、何の話だ!

将来的に、ますます草食系男子の増加していくと、肉食系女子生殖活動(婚活ならぬ・・・殖活によって、強い「オス」に一夫多妻制のように集まってくる傾向は強まるくるのではないだろうか?そうなった時に「巨根」「粗チン」か、が評価基準にならないとは、誰が言い切れるのだろうか?

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