2012/03/31

そろそろ、ファイスブック疲れ?・・・「いいね!」って誰のため?・・・そもそも、そこまで繋がりたいの?


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ボクがフェイスブックを始めたのは3年ほど前・・・”ある人”に勧められたのがきっかけでした。実名登録ということもあって、当初はアメリカ在住時代の友人や知り合いとの「再会ツール」として重宝していました。ただ・・・お互いのその後を報告し合った後は、それほど語り合うことって、それほどなかったりします。それぞれの人生を歩んできたわけですから、接点も希薄になってしまうのは当たり前のこと・・・それでも、メールで伝えるほどのことでない近況を、ざっくりと知ることが出来るのは便利ではあります。


アメリカ人の友人の殆どは、ダイレクトメッセージでの短いやり取りか、誕生日の書き込みぐらいにしか、フェイスブックを利用していません。俗にいう「フェイスブック疲れ」「フェイスブック離れ」が、徐々に広まっているといって良いでしょう。今でも「ポスト」「いいね!」「シェア」を盛んにしているのは、政治的なメッセージと訴えているフレンドぐらいです。


一方、日本では映画「ソーシャルネットワーク」以降・・・友人や知り合いが、次々とフェイスブックに登録し始めてました。「フェイスブックって、楽しい!」という人の多くは、フレンドという限られたコミュニティーの中で「すぐ反応がある!」(「いいね!」や「コメント」)ということを挙げます。確かに・・・ブログのコメント欄に書き込んだり、ツイッターでコメント付きRTで返信するよりも「いいね!」の方が、敷居が低いかもしれません。何よりも、自分の投稿に対して誰か共感してくれることは、単純に嬉しいものです。ただ「いいね!」の”お返し”をした方が良いのかなぁ・・・という妙な義理も感じることもあったりします。


フレンドといってもビジネスにで関わっている人など、多少なりともリアルの世界での”ちから関係”があったりすると、「いいね!」をクリックするのが礼儀のようになんてしまうものです。お互いに等しくフェイスブックから恩恵を受けているという心理があってこそ「ソーシャル・ネットワーキング」の「ギブ・アンド・テイク」は成り立つと思うのですが・・・それを、わざわざ他者から見えるところでするのって「仲良しごっこ」のような感じがしてしまいます。また、ウォール上で、自分のビジネスの”告知”(宣伝)ばかり”という人もいて・・・「フレンド」=「クライアント(顧客)」ではないんだから、やり過ぎるとウザかったりします。。


今では、すっかり「フェイスブック疲れ」してしまったアメリカの友人が言うのは・・・当初は、親しい友人だけだったのが、フェイスブックが広まったことで、仕事の関係の人から、恋人(いずれ元恋人?)や、家族/親戚まで、フレンド登録が広がってしてしまったことで、オープンにする交友関係まで公開することになって”煩わしさ”を感じてしまうということ。確かに、ボクも、普段会う(会える)友人と、”あえて”フェイスブックって必要なのでしょうか?ただ、リアルに知っている人からフレンドリクエストが送られてきて、それを「無視」「拒否」することというのは、なかなか難しいものです。


知る必要のない友人の行動をフェイスブックで知って、不愉快になるってことも多々あったりします。アメリカの女友達には、気になる男友達がいたらしいのですが、いつしか彼女の友人でもある女性がその男性と付き合い始めたそうなのです。勿論、3人ともフェイスブックではフレンズ同士・・・そのうち、二人がデートに出掛けたときの画像などをアップし始めたのだから、彼女は相当凹んでしまったそうです。彼らのウォールを非表示に、「即」設定したことは言うまでもありません。別に恋愛関係だけでなく、友達同士だって、家族同士だって、知らなくて良いこともあるわけだし、仕事関係の人ならなおさらのこと・・・繋がることが必要なとき”だけ”繋がれば良いのかもしれません


元々、フェイスブックをボクに紹介した”ある人”には、不愉快な思いをさせられました。出会いはラブラブで盛り上がっていたのですが、すぐに冷めて(笑)フツーの友達になったのですが、実はその彼・・・当初はボクも知らなかったのですが、ネットで”男漁り”を盛んにしている人で、次から次に彼と一度はエッチをしたことあるという人が現れる次第・・・おそらく、彼はフェイスブックのフレンドリストや、ウォールのアクティビティを、ボクには見せたくなかったのでしょう。ある時、彼が、忽然としてフレンドリストから、消えていることに気付きました。フェイスブック上で検索しても存在しないことになっているので、ボクのことを「ブロック」したようです。リアルでも疎遠になりつつあった間柄ではありましたが・・・あえて「ブロック」という形で「絶縁」を一方的に下されるのは、リアルで口喧嘩などして絶交されるよりも”不愉快”に感じさせられました。


フェイスブックは、基本的にリアルな人間関係の延長上にあるわけで・・・そこにある”マイナス”は、フェイスブックの問題ではないのかもしれません。不愉快なことを目の前に突きつけられられたり、前触れや説明もなく一方的に縁を切られたり・・・「フェイスブック疲れ」とは、すなわち「人間関係疲れ」なような気もします。


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2012/03/28

ニコラス・ウィンディング・レフン監督による”暴力”と”信仰”の前衛フィルム・・・北欧神話的世界観のSFファンタジーの中でのメタファーとしての”キリスト”~「ヴァルハラ・ライジング/Valhalla Rising」~


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「ドライヴ」効果なのか、ニコラス・ウィンディング・レフン監督の過去の作品が日本で公開される気配です。

「ヴァルハラ・ライジング」は、北欧神話的なヴァイキング風の戦士を描いているのですが・・・血湧き肉躍る史劇を期待すると裏切られてしまうような映画です。どうちらかというと、北欧尾神話的世界観のSFファンタジーのような感じと言っても良いかもしれません。寓話的な物語からピエル・パオロ・パゾリーニ監督を、壮大なスケールからヴェルナー・ヘルツォーク監督を、幻想的で映像表現からラース・フォン・トリアー監督を連想されられる一作でもあります。

血や肉は飛び散りまくりで、相変わらずニコラス・ウィンディング・レフン監督らしい残酷な暴力描写には手加減はありません。スプラッター映画以上のグロテスクな描写と、ブルーグレーを基調としたスケール感のある美しい風景との対比・・・より殺伐とした雰囲気を感じさせます。時折、フラッシュバックのように映される主人公の幻覚(?)は、赤をベースにした凝った映像美です。また、音楽は限定的にしか使われず・・・風の吹き荒れる音、骨が砕ける音、肉片が切り裂かれる音、血が噴き出す音などの効果音だけが響きます。物語を追うにしても・・・登場人物それぞれの立場や背景というのは、少ない会話や服装から推測するしかないという「前衛フィルム」のようでもあるのです。

舞台は11世紀あたり・・・主人公は口のきけない戦士で、ケルト風部族のグループの奴隷という身です。彼からは”One-Eye/ワンアイ"(マッツ・ミルケセン)と呼ばれています。鎖に繋がれたまま、他の捕虜らと殺し合いをさせられるのですが、圧倒的に強い”ワンアイ”は、鎖で相手を首を絞めたり、頭をぶち割って脳みそを飛び散らせるほど、残忍でもあります。普段は檻に閉じ込められていて、世話をするのは別な部族の奴隷の少年(マールテン・スティーヴンソン)です。

ある日の移動中、”ワンアイ”は、グループ全員を皆殺しにして脱走をします。岩に縛りつけた敵の腹を槍の先で切り裂き、内蔵を引きずり出したり・・・敵のリーダーの男の生首を晒して復讐をするのです。彼の世話係だった奴隷の少年は、黙って彼について行動を共にすることになります。しばらくして二人が遭遇したのは、キリスト教を信仰するヴァイキングのグループ・・・彼らは”先住民”らしいインディアン風のグループ(キリスト教徒からすると異教徒)の男たちを皆殺しにして焼却し、女たちは裸にして放置したりしているという”ひとでなし”。彼らは、聖地(エルサレム)へ行って金と土地を手に入れることを計画していて、”ワンアイ”に同行するように誘うのです。

ヴァイキングのグループと”ワンアイ”と少年は、船に乗って旅立つのですが、濃い霧に巻き込まれて、動けなくなってしまいます。「こいつの呪いだ」と、奴隷の少年を殺そうとするヴァイキングの戦士を、”ワンアイ”は、少年を庇って殺してしまいます。しばらくして、船は再び浮かび、森の中の川を進んでいきます。霧が晴れると、インディアン風の部族が埋葬した死体が置かれている土地へと辿り着いてしまいます。彼らはここを、神の征服した土地(約束の土地?)として十字架を立てるのですが・・・一人の戦士が忽然と姿を消してしまいます。

ここからエンディングのネタバレを含みます。

再び船で上流を目指すと、いきなり弓矢で攻撃され、また一人殺されてしまいます。見知らぬ場所で、次第に狂っていくヴァイキングのグループ・・・もしかして”ワンアイ”によって地獄に連れてこられてしまったのではないかと、仲間割れが起り皆殺しとなってしまうのであります。”ワンアイ”と少年は、対岸へ逃れるのですが・・・そこにはインディアン風のグループの戦士たちが待ち構えており、”ワンアイ”は、まるでそうなることを予期していたように(?)されるがままに殴り殺されるのです。少年は殺されはしませんが、その後、どうなるかは分からないまま映画は終わります。

”ワンアイ”は・・・先住民たちへ自らの身を捧げて贖罪を背負うという、ある意味”キリスト”のような存在なのでしょうか?宗教の名に於いて、世俗にまみれたキリスト教徒を名の乗るヴァイキングたちは皆滅び、”ワンアイ”を献身的に信じる奴隷の少年だけが最終的に生き残る・・・どこかしら”信仰”の意味を問いているような気がしました。

「ヴァルハラ・ライジング」
原題/Valhalla Rising
2009年/デンマーク、イギリス
監督 : ニコラス・ウィンディング・レフン
出演 : マッツ・ミケルセン、マールテン・スティーヴンソン

2012年4月7日よりヒューマントラストシネマ渋谷にて公開


ニコラス・ウィンディング・レフン監督次回作の「Only God Forgives」は再びライアン・ゴズリング主演でタイを舞台にした復讐劇だそうです。待ちきれません!


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2012/03/20

アラフォー”負け美女”は最後まで改心しないの!・・・いつまでも”女子”気分のオバさんには他人事じゃない「痛~い映画」~「ヤング≒アダルト/Young Adult」~


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歳を取っても少年や少女の心を忘れない・・・というのを「若さの証明」かの如く”美化”しがちだけど、もしかすると最近の問題は、いくつになっても自称「女子」のオバさんや、精神的に「お子様」なオジさんが増えてきていることかもしれません。「年相応」というのは、保守的なステレオタイプに縛られて個人の自由な生き方を尊重してないように考えがちだけど・・・今の世の中だと、逆に「年相応」に生きる方が(特に経済的、社会的に)難しかったりします。また、子を持つ親になっても自分のために生きることを優先するのが当然(?)のようになっているので、年相応という考え方自体が意味をなくしているのかもしれません。

「ヤング≒アダルト」は、高校時代にモテモテだった栄光の過去の忘れられない女性のお話・・・アメリカでは”ヤングアダルト”と分類されるティーン向け小説のゴーストライターで生計を立ている離婚歴のある37歳(俗にいうアラフォー女子?)のメイビス(シャーリーズ・セロン)は、ミネアポリス(なんとも中途半端なミネソタ州の都市)で一人暮らしをしいています。プロムクィーンとして君臨した過去をもつ美人・・・でも、彼女の日常生活は笑えるほど荒んでいます。愛犬ドルチェ(ポメラニアン!)は自分勝手に都合の良いときだけ可愛がっているし、アルコールに溺れて男を連れ込んだり、リアリティTV番組をつけっぱなしのまま、毎晩ベットに倒れ込んでいるような日々。朝目覚めれば、ヌーブラ装着しっぱなし、コーラ2リットルがぶ飲み・・・と、あっぱれな”だらしない女”のであります。

そんなメイビスの元に、ミネソタ州マーキュリーという魚臭い田舎町という故郷で結婚した元カレ・バディ(パトリック・ウィルソン)から届いた「出産報告」メール・・・「一体何をしたいの!」と怒り狂うものの、元カレは故郷の田舎町で囚われの身で不幸に違いないと思い込んで、既婚者の元カレを奪うという作戦に出てしまいます。勝手に相手の状況を決めつけてしまうところが、さすがの女王キャラの勘違いっぷりではありますが・・・正直、理解しがたいメイビスの行動の悲しい理由は、後に明らかとなります。

メイビスは、高校時代にゲイの疑いをかけられて、歩行が不自由になってしまうほど暴行を受けた小太りのオタクのマット(パットン・オズワルド)と、偶然にローカルバーで再会します。高校時代にはまったく接点のなかった二人ですが、過去の記憶に囚われているという意味では「光」と「影」の二人だからこそ、意気投合・・・メイビスはマットだけには心を開いて、バディ略奪作戦を話をしたりします。また、メイビスに散々振り回されながらも、彼女のことを思って冷静に忠告してくれるのは、マットひとりだけ・・・彼の言葉は、まさに観客の声であり、メイビスの正気の声でもあるのかもしれません。

バディの奥さん・ベス(エリザベス・リーサー)は、地元の女友達とバンドを組んだりしているクールな女性・・・その普通に素敵な感じが、逆に目障りという絶妙なキャスティングと演技であります。バディの優柔不断な態度により、メイビスの妄想は暴走気味になっていきます。父親になった喜びを語るバディの言葉を「実はバディはベスとの結婚に不満を持っているに違いない!」とか、別れ際の軽いキスを「彼が遂に決心した!」と勝手に解釈して・・・メイビスの振る舞いはドンドンおかしなことになっていきます。そして、バディから子供の命名式に招待されたことを、遂にバディは一緒に町を出ることを決心したとメイビスは思い込んでしまうのです。意気揚々と出掛けるメイビスには、かなり痛い修羅場が待ち構えていることは言うまでもありません。。

メイビスの行動は、視点を変えれば”サイコホラー”のようです。ただ、高校時代に限らず、自分が輝いていた過去を引きずってしまうことというのは、時にありがちなこと・・・意識的にしろ、無意識にしろ、ノリノリだった時代に聞いていた音楽でテンションを上げたり、イケていた時に着ていたファションからいつまで経っても卒業できなかったりするものです。実家でバディが高校時代に着ていたトレーナーを見つけて、羽織ってフラフラと町に出掛ける姿は痛々しくもあり、可愛くも見えたりします。いつまでも”女子”気分のオバさんには、他人事として笑うに笑えないはずです。

ここからネタバレを含みます。

命名式に現れたエイビスはバディをベットルームに連れ込み、満を持して告白をするのですが・・・勿論、あっさりと振られてしまいます。実はメイビスを招待したのは、エイビスの精神状態を心配していたベスであったことも判明します。とうとうメイビスは、命名式に集まったゲストの前でぶちキレます。実はエイビスとバディが付き合っていた20歳の時、バディの子供を妊娠していたのですが、流産してしまっていたのでした。メイビスにとっては、バディの子供の命名式には、本来、自分がいるはずだったという思いが強くあったということなのです。この事実によって、過去から卒業できないアラフォー女子の物語は、メイビスという女性独自の物語になってしまいました。

ボロボロになったメイビスが訪ねたのはマット・・・なんと、ふたりは肉体的に結ばれてしまうのであります!マットにとってメイビスは永遠の高嶺の花・・・ある意味、本作はマットとメイビスの不釣り合いな二人のラブストーリーになっていたのでした!ただ、現実はそれほど甘いものではありません。翌朝、メイビスが目覚めると我に帰って、マットとはそれっきりなのですから。

「私にはいろいろと問題がある。他の人にとってシンプルなのに、私にとって幸せになるハードルが高い。私は変わらないといけない」と、大事なことに気付きはじめたメイビスの言葉に、水を差すのはマットの妹・サンドラ(コレット・ウルフ)です。

メイビスに憧れ続けてきたサンドラにとって、メイビスは今でも輝いている存在・・・「田舎町の人なんて、デブでバカばかり、みんなあなたに憧れている」と、メイビスの自尊心をくすぐります。売れない小説のゴーストライターでしかないメイビスも、サンドラからすれば、まだまだ”特別なひと”・・・なんたって、これほどの美人の上に、都会で本を書いているのですから!田舎者なんて、そもそも存在している意味もないから、ちょっとしたことで幸せを感じているだけだと彼女は語ります。それに対して、メイビスは「あ、そっか〜。私って、このまんまで全然良いんじゃん!」と、ケロッと立ち直ってしまうのであります!!!

田舎から都会に出てきた人の中には、都会での生活こそが「幸福」と「成功」で、田舎で生活するなんて「不幸」で「負け組」だと考えている人って少なからずいるものです。また、都会に憧れながら田舎に住んでいる人にとって、田舎で幸せに暮らしているのは「田舎者」とバカにしがちです。ただ、都会の人からすると、どちらも「田舎者」には変わりありません。それに、都会に憧れている田舎者よりも、素朴な田舎の人の方が好感が、都会人には持てたりします。ただ、最近、日本では”地元大好き”という「田舎者」が増えてきたみたいで・・・都会への憧れというのは、昔ほどではなくなってきているのかもしれませんが・・・。

東京出身のボクですが・・・1980年代初頭に東京からニューヨークへ移り住むというのは、地方から東京に出てくるという感覚に近かったような気がします。まだまだ、アメリカ崇拝が残っていた時代ということもあって、現実は厳しい生活をしているのも関わらず、ニューヨークに住んでいる”だけ”で、日本からはスゴいことのように思われがちだった気がします。

さて・・・今までの自分の人生を反省して、発想を転換させるチャンスを逃したメイビスは「田舎なんてクソ食らえ!」と、再びミネアポリスへと戻っていきます。一緒にミネアポリスに連れて帰って欲しいと頼むサンドラのことなんて、メイビス眼中にありません。サンドラには、あっさりと「あなたはここに残るべき」と冷たく突き放します。「田舎の生活」=「シンプルな幸せ」というが、誰にでも当てはまるわけではありませんが、「都会の生活」=「人生の成功者」というわけでもありません。それでも、メイビスは都会の価値観へと戻っていきます・・・というか、彼女には戻るしか選択はないのです。

ある意味、メイビスは人生の新しいチャプターへは進んだのかもしれないけど・・・結局、それほど改心もせず、成長もせず映画は終わります。普通、映画の主人公って、最後には何かしら成長するものなのですが・・・人間って、そう簡単に何かを学んだりしないものなのだということを描いた本作は、まさにジェイソン・ライトマン監督の真骨頂と言えるのであります!



「ヤング≒アダルト」
原題/Young Adult
2011年/アメリカ
監督 : ジェイソン・ライトマン
脚本 : ディアブロ・コディ
出演 : シャーリーズ・セロン、パットン・オズワルド、パトリック・ウィルソン、エリザベス・リーサー、コレット・ウルフ


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2012/03/17

ポジティブ信仰が正しい世の中だからこそネガティブ思考から幸福になれるの!~「絶望名人カフカの人生論」フランツ・カフカ著/頭木弘樹編集・翻訳~


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ボクが20代の頃(1980年代)には「ネクラ」とか「ビョーキ」とか、ネガティブな嗜好が一部では流行って(?)おりました。今、思い返せば、世界的にもバブル経済の好景気だった、あの頃・・・ネガティブになるという「遊び」を若者が余裕でできるほど「豊かな時代」であったということなのかもしれません。バブルの弾けてから慢性の不況の時代になってしまうと、思考だけでもポジティブになろうとするものなのでしょうか?


「追い続ければ夢は叶う」「思いはいつか伝わる」というようなポジティブ信仰は、さまざまなメディアから垂れ流しにされております。ここのところ増えているのが、いわゆる夢を叶えたアーティストとが熱い思いで語るというヤツ・・・「夢を持つ事」「思いを伝えようとする事」を否定するつもりはないけど、ファンに向かって語ってしまうというマスターベーション的パフォーマンス。これって、自分はただ運が良かったわけでなく、それなりの努力して夢を叶えたんだって訴えているようにも受け取れてしまいます。ポジティブ信仰の言葉は間違っているわけではないけど・・・良くも悪くも誰にでも当てはまる繰り返し語られてきた凡庸な言葉だから深みはなく、一時しのぎの自己暗示としてはパワーを得る有効な手段なのかもしれません。


「勝ち組、負け組」という格差社会が日本でもリアルになってくると、うまいことやって”ひと山”当てたいなんて”生臭い”夢になりがち。「夢を叶える」ための努力と言えば・・・第一人者的には全面的に正しい行為ではありますが、目的のためには他人を利用したり、踏み台にすることにも、鈍感になってしまうことだってあります。第三者的には自己チューになってしまった自分のことを、ポジティブ信仰によって無意識に肯定してしまうこともありがちのような気がします。


「絶望名人カフカの人生論」は、日本人のカフカの研究家の黒木弘樹氏が、カフカの残した手紙や手記からネガティブな人生観を表す文章を引用した本であります。


ボクは学生時代に「変身」を読んだくらいで、作家のカフカがどういう人で、どういう人生を歩んだのか、知りませんでした。彼は生前に作家として認められることがなかっただけでなく、プライベートライフも自分が望んだように生きられませんでした。仕事が嫌でも生きるためにサラリーマンを辞められず、何度か婚約するにも関わらず生涯独身で、家族と仲が悪くて理解されていませんでしたし、行き詰まって長編小説を書き上げることもなく、カラダが弱くて病気がちで40歳という若さで亡くなっているのです。まったくもって人生に前向きでなく、弱音を吐き続けたカフカの究極のネガティブな言葉は、絶望した者が実感した、具体的で、新鮮な発想に触れることができるのです。


将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。

将来にむかってつまずくこと、これはできます。

いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。


カフカが婚約者であった女性に送った手紙からの引用だそうです。前に進むことが、つまずくことにしか思えない時というのは、人生の中で起こることがあります。そんな時には、前にも後ろにも動けななくて、倒れてしまいそうになるものです。それならば倒れたままでいることを、素直に受け入れてしまうというのは・・・本来の意味での「ポジティブ・シンキング」であるのかもしれません。


幸福になるための、完璧な方法がひとつだけある。

それは、

自己のなかにある確固たるものを信じ、

しかもそれを磨くための努力をしないことである。


これは・・・恐ろしく深く重い言葉です。自分に才能があると信じて努力をしなければ、成功しなくても「努力しなかったから」という言い訳をして傷つかなく済むし、万が一成功した場合には「努力もしないかったのにスゴイ才能だ」と自負できるという・・・いずれでも自尊心は守られるというパラドックス。無意識にやってしまいがちの、自分に都合の良い「逃げ」の心理を、ここまで厳しく指摘できるのは、カフカ自身が「努力しない自分」とも正直に向き合ったからこそでしょう。


カフカ自身だけでなく、周りの人たちにとっても、この上なく面倒くさいほどネガティブであったカフカですが、彼には彼の才能を高く評価した親友がおりました。生前に出版された短編集も、死後になってカフカの作品のすべてが出版されたのは、親友のマックス・ブロートという作家の力添えのおかげだったのです。皮肉なことに、マックス・ブロートは当時、人気作家として大変成功していたそうですが・・・現在では彼は作家としてよりも、カフカを世に出した人として歴史に名を残したに過ぎません。


君は君の不幸の中で幸福なのだ。


マックス・ブロートがカフカに送った手紙の中で書いたという言葉です。絶望から逃れないで、ネガティブな自分を100%受け入れられることは、実は幸福なことかもしれません。そこにはポジティブ信仰ばかりしていては、見逃してしまう真理があるのですから・・・その真理がいかに辛辣であっても、自分なりに真理を知ることができるというのは、やはり幸福である瞬間であるはずなのです!



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2012/03/12

アース・ウィンド&ファイアーのコロンビア全15アルバム復刻盤をドドーンと大人買いっ!・・・踊らずにはいられなくなるのと同時に何故か涙が止まらない~EARTH, WIND & FIRE COLUMBIA YEARS~

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ボクが若かりし頃(1970年代後半)アイドルにそれほど夢中になったわけでもなく、といって海外アーティストを聞き込んでいたわけでもなく・・・音楽に関しての興味は「普通の高校生」でありました。都内の私立高校ということもあってか、同級生の一部にはディスコ通いをするような、おしゃれな”不良”(もう死語か?)もいたけれど・・・中学まで横浜市内公立中学に通っていたボクにとっては、ディスコは、とんでもなく怖い世界のように感じてしました。

しかし、高校生活も1年ほどして、六本木に住んでいた一番仲の良かった友人宅に泊まりがけで遊びに行くようになると・・・夜な夜な六本木界隈をうろつくことも経験しました。青山通り沿いにあった「吉野家」で500円(高!)の牛丼食ったり、「カーシャ・マミ」というロシア料理店の常連になって生意気にもボトルキープしたり・・・そんなタワイもないことをしているだけでも16歳の少年にとっては、十分、大人の仲間入りをした気分でした。

そのうち、六本木にも免疫ができて、瀬里奈の前にあった10階建てのディスコビル(スクエアビル)にも足を踏み入れるようになったのです。今では、どの店に行ったことのがあるのかさえ覚えていませんが、当時のボクはまだ16歳の未成年・・・それでも、平然とディスコに入場して、飲酒、喫煙できてしまったのは、ボクの見た目が老けていて、20代半ばぐらいだったからです。

入場料は、男性は3000円、女性は2000円ぐらいだったという覚えがあります。3000円というのは当時のボクにとっては大金だったので、できるだけ元を取ろうという気持ちがありました。その頃のディスコは、バイキング形式で食事ができるシステムだったので、海外から連れてこられた貧しいモデル達と奪い合うように(!?)飲んだり食ったりしていたのであります。そして・・・ナンパなんかには一切興味のないボクは、食べたり飲んだりする以外は、ひたすら踊りまくっていました。





当時、よく踊っていたのがアース・ウィンド&ファイアーの曲でした。海外の音楽には疎かったボクは、アース・ウィンド&ファイアーがどんなグループかは分かっていなかったけど、知識はなくても、アース・ウィンド&ファイアーの曲がかかると、自然に体が動いて踊っていたものでした。中でもボクのお気に入りは「セプテンバー」・・・イントロを聞くと無意識にダンスフロアに移動してしまったものです。当時はプロモーションビデオというのは滅多に製作されていなかったのですが・・・アース・ウィンド&ファイアーのレザービームと使用したサイケデリックなビデオクリップや、古代文明とスペースファンタジーを融合したようなビジュアル/ファッションも、とっても衝撃的でした。

1980年代にニューヨークに移ってからは、何度かマジソンスクウェアガーデンでのコンサートにも足を運びました。スモークやレザーを使用したステージは幻想的・・・ボクだけでなく、白人、黒人、人種に関係なく、曲に合わせて踊る様子は。この世の光景とは思えない、ある種の宗教儀式のようでした。ディスコ・ミュージックの衰退と共に、世間的にはアース・ウィンド&ファイアーは過去のグループという扱いになっていきましたが・・・ボクが人生で一番盛んに夜遊びをしていた1980年代後半には、ニューヨークの一部のナイトクラブ(特にゲイクラブ)で、すでにディスコのリバイバルがあったので、ボクにとっては「ダンス・ミュージック」=「アース・ウィンド&ファイアー」というのは、ずっと変わることはない印象なのです。

先日(2012年3月7日)にアース・ウィンド&ファイアーのデビュー40周年を記念して再発売されたのは、コロンビア時代の全15アルバムをリマスタリングのBlu-Spec CDで、紙ジャケットを再現した完全生産限定盤。メーカーの思惑に完全に乗せられているのは分かっていても、結局のところ、大人買いしてしまう”おじさん”なので・・・勿論15枚全部お買い上げ~。レコードジャケットの質感(特に折り目の部分)から、ライナーシート、レコードスリーブ(肩癖な再現過ぎて文字の解読は不可能!?)、帯までを完璧に再現しているのは、さすが日本企画による日本生産!・・・「大人買いに悔いなし」の素晴らしい仕様です。

コロンビア所属時代のオリジナルアルバムのすべてを聴くのは初めてのこと・・・正直、初めて聴く曲もあったのですが、ボクの前世は「メンバーの一人ではなかったのか?」と思えてしまうほど、サウンドに”郷愁”を感じました。1970年代後半の絶世期を含む1972年から1990年までのアルバムを一気に聴いてみると、リアルタイムの時代性を超えて「アース・ウィンド&ファイアー」という音楽のジャンルのように感じてしまいます。特に「太陽神」(1977年)から「天空の女神」(1981年)は圧巻!リードボーカルを勤めるモーリス.ホワイトとフィリップ・ベイリーの歌声には、どこかしら「憂い」も含んでいて・・・踊らずにはいなられなくなると同時に、何故かボクは涙がポロポロと出てきて止まらなくなってしまうのであります。


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2012/03/07

東映エログロ路線末期のハチャメチャな悪趣味っぷり!・・・牧野雄二監督の幻のオカルトポルノが遂にDVD化~「女獄門帖 引き裂かれた尼僧」~


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ブルーレイディスクが普及してきたと思ったら、何故かいろんなメーカーからはDVD化されていなかった作品が続々とDVDで発売されております。どうせならばブレーレイで発売すればいいのに・・・とは思いますが、DVDなら安価で生産できるためか、メーカーは最後にひと儲けというつもりなのかもしれません。

ラピュタ阿佐ヶ谷などで特集上映はされてきたものの、なかなか観れる機会のなかった牧口雄二監督のカルト作品が、遂に先日(2012年2月21日)DVD化されました。

牧口雄二監督は、石井輝男監督の異常性愛路線の流れを汲む「エロ」「グロ」「ポルノ」の”添え物映画”を任されていた職人監督。ただ、監督としてデビューした時期が、とっくに東映全盛期を過ぎてからということもあってか、低予算でのキワモノ勝負・・・東映の映画館で公開はされている(18禁の成人映画)とはいっても、群を抜いた悪趣味の作品ばかりという、特異な”作家性”が、飛び抜けています。

遊女に性技を仕込む”玉割り人”のゆきの悲恋と女の業をしっとりと描いたデビュー作の「玉割り人ゆき」(1975年)とその続編「玉割り人ゆき 西の廊夕月楼」(1976年)や、和製「俺たちに明日はない」的な青春ドラマ「毒婦お伝と首斬り浅」(1977年)などは、当時から評価が高かったようですが・・・カルト作品として今日語れることが多いのは、愚作と評されていた「戦後猟奇犯罪史」「徳川女刑罰絵巻 牛裂きの刑」「女獄門帖 引き裂かれた尼僧」であります。

その中でも公開後に30分の短縮版のVHSが発売されたっきり・・・日本カルト映画全集としてシナリオが出版されていたものの、東映チャンネルで放映されることがなく、世界のどこの国でもメディア化されていなかった「女獄門帖 引き裂かれた尼僧」は、滅多のことでは目にすることのできない”幻の作品”として「カルト中のカルト映画」として知る人ぞ知る作品となっていたのでした。

年期が明けたと思っていた女郎の”おみの”(田島はるか)は、弥多八(汐路章)と亀(佐藤蛾次郎)に土蔵に連れ込まれて犯されてしまいます。おみのが鞍替えさせられる品川の女郎屋は地獄のようらしい・・・そこで、客の沢吉(小林稔侍!)の足抜けを手伝わせて、3年経てば現世の縁切りができるという山奥の駆け込み寺「愁月院」を目指して逃げることになるのです。勿論、沢吉は追っ手に捕まり、一人になったおみのは道中、浮浪者の男たちにいたぶられて、犯されまくられます。

ここからネタバレとグロテクスな表現含みます。

なんとか愁月院に辿り着いた”おみの”は、庵主の桂秀尼(折口亜矢)に助けられるのですが・・・この尼寺こそ、足を踏み入れた男を生きては返さない、男を憎む食人レズ尼さんたちの巣窟だったのです!アヘンに陶酔する庵主、派手な化粧の”おかじ”(ひろみ麻耶)と”おつな”(芹田かおり)はレズに耽り、年増の”おとく”(藤ひろ子)は人肉鍋に舌鼓を打つ・・・そして、すべての奇行を淡々を見つめている口を利かない少女の”お小夜”(佐藤美鈴)という女達。そして、白塗りの寺男(志賀勝)は、寺の裏で生け贄となった男の死体をさばいて調理しながら、その人肉を食らう・・・志賀勝は毎度ながらの怪演を見せてくれています。


娘と駆け落ちしてきた若者も、”おみの”を追ってきた浮浪者の男も弥多八と亀も、代官所からの隠密(成瀬正)も、すべての男たちは拷問され殺されていきます。中でも隠密は、首を切り落とされた胴体だけが血だらけでピクピク・・・驚いた”おみの”が水を飲もうとして水桶を中を覗くと生首があるというグロテスクな描写となっています。ただ、こてこてのゴアシーンは、この場面ぐらい・・・全編に渡る気味の悪いナンセンスさが、本作の真骨頂かもしれません。


愁月院の正体を知った”おみの”は・・・”おつな”の猫を惨殺して、”おかじ”に罪をなすりつけ、二人殺し合うように仕向けます。さらに本堂に火を放って”おとく”を殺し、庵主と死闘を繰り広げます。しかし、”お小夜”に植木ハサミで突かれて、”おみの”も殺されてしまうのです。燃えさかる炎を見つめながら、”お小夜”は、庵主(実は”お小夜”の母親だった!)を強姦した男を殺したことを思い返しながら・・・初潮を迎えます。血が足を滴るという何とも悪趣味なロリコンしか喜ばないような演出!最後は、ひとり田舎へ帰る”お小夜”が雪の中を歩く姿で映画は終わるのですが・・・センチメンタルな音楽が、なんとも気色悪いのであります。


エロといっても、エッチなシーンのある女優さんは貧乳ばかり・・・唯一のグラマーなのが年増の”おとく”となのだから「ポルノとして成立しているのか?」という素朴な疑問も感じてしてしまいます。訳がわからないのが、”おとく”の母乳を無理矢理飲まされた亀(佐藤蛾次郎)が死んでしまうところ・・・人肉を食う女の母乳には毒が入っているとでもいうのでしょうか?このあたりは、エロとか、グロより・・・笑うに笑えないギャグという感じ。そう言えば・・・30年ほど前ニューヨークのナイトクラブで、ストリップパフォーマンスを見たことあるのですが、観客に母乳を浴びせかけるというキワモノ芸でした。ボクは母乳から逃れようとして、ギャーギャー叫びまくり、マジ気が狂いそうになったこと思い出しました。


「女獄門帖 引き裂かれた尼僧」というタイトルではありますが、尼僧は最後まで”引き裂かれる”ことはありません。(物理的にも、精神的にも)・・・ただ、当時の男性目線によって妄想された「男を憎むレズの尼さん」という差別的な世界観に貫かれた「東映エログロ路線」末期の、行き着くところまで行ってしまった感のある「超怪作」であることは間違いありません。アルゼンチンの殺人映画「スナッフ」を意識したのが「徳川女刑罰絵巻 牛裂きの刑」であるなら、本作「女獄門帖 引き裂かれた尼僧」はトビー・フパー監督の「悪魔のいけにえ」というところでしょうか?

いずれにしても、観る機会がなかったが故に「幻のカルト映画」となっていた本作は、多くの人が目にすることで、本来の「悪趣味な愚作」という”愛のある悪評”を下されるような気がするのです。

「女獄門帖 引き裂かれた尼僧」
1977年/日本
監督 : 牧口雄二
出演 : 田島はるか、折口亜矢、ひろみ麻耶、芹田かおり、藤ひろ子、佐藤美鈴、成瀬正、小林稔侍、志賀勝、汐路章、佐藤蛾次郎



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