2011/12/21

”トランスジェンダー”は、人権運動の「最後の砦」なのか?・・・「ありのまま」「自分らしさ」の追求の果ての葛藤~「Coming Out Story/カミング・アウト・ストーリー」~



Coming Out Story/カミングアウトストーリー」というドキュメンタリー映画の試写会に行ってきました。セクシャルマイノリティーとして、ひと括りにされることの多いLGBT」=「レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー」でありますが・・・ボクは常々「ゲイ」にとって「トランスジェンダー」というのは近いようで遠い存在のように感じてきました。それ故に「トランスジェンダー」について深く考えたことはなく・・・と言って、差別するほど存在を意識することもありませんでした。ただ「心の性別」が「肉体の性別」とは違うという絶対的な「確信」が、どうして持てるのだろう・・・という疑問は感じていました。本人にしか分からない「心」の理解の難しさが・・・「トランスジェンダー」が、人権運動の「最期の砦」であると言われる由縁なのかもしれません。

まずは、この映画でもメインのキャラクターとして出演している土肥いつきさんのように「男性」として生まれながら心の性別が「女性」の「トランスジェンダー」についてケースを考てみます。女性の服を着たい男性というのは「トランスジェンダー」だけではないということが「トランスジェンダー」という存在自体の誤解を生んでいるのではないでしょうか?

「女装」趣味をもつストレートの男性。社会的には「男性」として生きているけれど、女性の服を着て、女性のように振る舞いたい人たち・・・化粧が濃いめで女性としての美の完成度は低いことが多いような印象があります。これは、リアルには存在しない、男性目線からの古臭い女性像を自分で再現しているからかもしれません。若い世代の「男の娘(おとこのこ)」も、リアルには存在しないアニメ的なキャラという女性像を追求していますが・・・女の子と見違う完成度の高さは、完璧な「コスプレ」を目指した結果という印象です。それは、まるでプラモデルの塗装を几帳面に塗る「男の子的なマニアックさ」さえ感じさせます。「女装」にしろ「コスプレ」にしろ、性的に女性を求めながらも、自分自身が理想の女性像になることが目的であれば、単なる「趣味」「嗜好」ということになるのでしょう。「変態」と呼ばれたとしても。

「ゲイ」(または、バイセクシャル)が女性の格好をする「女装」にも、いくつかのパターンがあるように思います。エンターテイメントで「女装」をしている「ゲイ」にとっては、あくまでも「女装」はお祭り。デフォルメした虚構の女性像を「遊び」の一環として演じているだけです。基本的には「男性」として同性を求めているのだから、ドレスと化粧を取ったら、ただの普通の「ゲイ」で「バリタチ」なんてこともあったりします。好きなタイプが「ストレート男性」という場合には、セックス相手を得るための「女装」ということになります。「ストレートの男性」を騙して(?)落とすことが目的なので、外見的にはリアルに近い女性を目指します。近年「オネェ系」としてキワモノを期待される「ニューハーフ」は「ビジネス」としての「女装」でもありますが・・・「ストレート男性を好むゲイ」である場合もあれば、「トランスジェンダー」である場合もあります。「トランスジェンダー」という存在が認識されるまでは「ニューハーフ」が「トランスジェンダー」とすて生きる方法(生活手段)のひとつだったのかもしれません。

さて「Coming Out Story/カミングアウトストーリー」は、土肥いつきさんという公立高校の教師が、性適合手術を受ける前後の日常生活を淡々と追っていきます。学校では放送部の顧問を務め、人権問題担当でもあり「ありがままの自分として生きる」という講演で体験談を語る活動もされています。

若い頃には髭を生やして「男性」として生きていた人が、徐々に「女性」として変化していったという過程はありますが・・・現在の土肥いつきさんは「女性」として、正直ビミョーな印象でした。髪型が女性的にはなったものの、服装は男性とも女性ともつかないカジュアルなスタイル。化粧っけも殆どなく・・・正直、パッと見て「女性」として判断するのは難しく感じました。「女装」が、過剰に女性的であるのに比べて、土肥いつきさんは、あまりにも「ありのまま」の自然体過ぎるのです。勿論「女性」のすべてが、女性っぽいフリフリした服を好むわけではないとは思いますが・・・あえて「男性」から「女性」になろうとしているのに、女性らしさを追求しないのが不思議に思えました。女性から男性になった場合、ホルモン注射などによって毛深くなったり髭が生えてくるので「男性」として「パスする」可能性が高いような気がしますが・・・男性から女性になった場合、どれほど気を使って外見的にを女性っぽくしても不自然さが感じられるものです。だからこそ、服装や化粧などには、本物の「女性」以上に気を使うはずだと、ボクは思い込んでいたのでした。

ありのままの自然体を嗜好するというのは、ある意味・・・「レズビアン」や「女性人権運動家」から感じる「ナチュラルな女性賛美」に繋がる感覚のような印象を受けました。「歩くカミングアウト」を自称する土肥いつきさんは・・・あえて「男性」でもなく「女性」でもないという「曖昧な性別」を持つことによって、よりリアルに「トランスジェンダー」の存在感を増しているようにも感じられるのです。「性適合手術」をする土肥いつきさんの「決断」の絶対的な理由を、ボクは理解することはできませんでした。本作の中で、女友達に「これで堂々と女子トイレに入れる」と発言しているのですが・・・個室しかない女子トイレで違和感がないのは、見た目が女性っぽいかということ。下半身がどうなっているかなんて、脱がなければ分まりません。男性器が「ついているか」「ついてないか」は、本人の自意識でしかない場合もあるのではないしょうか?

整形外科医が手術前に、外科的には陰茎を切断して、膣のような空間を作るだけのことで「性転換手術」なんてモノはないと説明します。脳内にある自分自身の外見的なイメージを外科手術で一致させるのだから、整形手術や豊胸手術と似ているのかもしれません。「トランスジェンダー」にとって、男性器そのものが「男性」であることの象徴になってしまっているわけで・・・それを取り除かない限り「本当の自分ではない」と思ってしまうのかもしれません。ただ、それは本人次第ということろが厄介で・・・他人には「心の性別」の確信を理解することは不可能なのです。

園子温監督の「恋の罪」という映画で引用された「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」で始まる詩をボクは思い出しました。人は「言葉」の意味によって、自分の心を知るのです。”土肥いつき”さんも「トランスジェンダー」という言葉を知って、自分が本当は何かを理解したと告白します。「自分らしさ」や「ありのまま」という自己追求を、あまりにも過剰に、そして、あまりにも真面目過ぎにした結果・・・「トランスジェンダー」という「言葉」と一致してしまったような気さえするのです。言葉のないところに自己認識というのは生まれない・・・言葉というのは「性別」さえ変えてしまうパワーを持っているということです。

撮影スタッフのひとりが”土肥いつき”さんと出会ったことで「トランスジェンダー」であることに目覚めるという思わぬアクシデントにより、本作は単なるひとりのトランスジェンダーを追ったドキュメンタリーよりも興味深くなったことは確かです。ただ、ボクが驚いたのは若い世代の彼が「女装」のために用意したドレスが、今の若い女性が選ぶとは思えないダサいセンスだったということです。ただ、見せかけの「女性」らしさを目指さないことが、より「トランスジェンダー」らしいのかもしれないと思ってしまうのでした。

本作を観る限り土肥いつきさんが「トランスジェンダー」であることを理由に、職場で差別的な扱いを受けている印象は受けません。サポートと理解のある友人にも恵まれています。それは、長年の努力の結果かもしれませんが、”土肥いつき”さんを取り巻く人々にとって・・・「男性」であるか「女性」であるか「トランスジェンダー」であるかという「性別」は、それほど重要でもないのかもしれません。他者の存在は、常に「性的」である必要はないのですから。

男と女の「性差」を過剰に意識している「トランスジェンダー」という存在であるからこそ「男である」ことや「女であること」に、大きな意味が生まれているように思えてしまうのです。


Coming Out Story~カミング・アウト・ストーリー」
2010年/日本
監督 : 梅沢圭

2011年10月9日「第20回ゲイ&レズビアン映画祭」にてプレミア
2012年1月4日より「下北沢トリウッド」にて公開

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2 件のコメント:

  1. マーミナーγ2012年1月4日 17:53

    あけましておめでとうございます。
    いつも楽しく(ときにギョッとしながら(笑))拝見しています。
    おかしさんの記事はどれも色々考えさせられるんですが、どうコメントしたらいいのか悩んでしまって(^^;、いつも読み逃げですみません。
    今年も楽しみにしてます♪

    この記事を読んだ後、ジョニー・ウィアの結婚報道を見て、おかしさんの感想を聞いてみたいと思いました。
    個人的には、ニュースへのコメに「ジョニーなら(きれいだから)納得/許せる」というものが多かったので、「ブサイクだったらダメなんかい!?」とモヤモヤしました…(^^;

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  2. はじめまして。
    いつも読み逃げしている読者です。
    このドキュメンタリーはいつかきちんと観ないと…と思いつつ、対峙する勇気が中々出てきません。私はまだクローゼットの中にいるものですから(~_~;)。以前利用していたTwitterでは、一部の方に打ち明けたことがあるぐらいで…。
    セクシュアリティに自意識過剰になっているのは、実はその当事者だけなのかなあと最近思います。でもまあ、現実的には差別があったり、LGBTのコミュニティ内でも同族嫌悪的な対立があったり。
    最近ますます、セクシュアリティの境界線の意味が分からなくなっています。あるいは、境界線をこしらえる意味があるのか…ということになるのかなあ。一人で悩んでいますが、結局霧の中ですね。

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