2010/11/18

女が「一生、姫で生きる」なら、男は「一生、ボクで生きる」のだ!~私に萌える女たち/米澤泉著~


親の世代から・・・いや、ボクが子供の頃の世の中と比較しても、日本の女性の生き方っていうのは、凄く変化したっていう気がします。

ボクの物心がついた時代(今から、約40年ほど前!)には、確かに「男とは、女とは」というモラルの呪縛が存在していました。

「男らしくない」「女らしくない」という評価が当たり前のように親や先生から言われることがあったし、男は就職して結婚後は家族を養い、女も結婚して子供を産んで育てるという「人生の線路」が漠然とあって、それから外れる生き方というのは大変な覚悟を必要とするような教えがあったのです。

現在の「どう生きようが自己責任でやれば良い」というような方便は通用しなかったし、女性にとっては随分と自由な生き方を制約されていたと言えるでしょう。


「私に萌える女たち」は、日本の女性の生き方の変化を”女性ファッション雑誌”の遍歴をベースに、1970年代の「anan」「non-no」の登場から、細分化されていいく女性誌を分析しながら、日本の女性の理想が「大人かわいい」から「私が主役という生き方」へと移り変わっていく過程を分析しています。

確かにボクと同世代のアラフィフ女性は、ファッション、恋愛、仕事、結婚、出産、美貌を手に入れていく・・・何かを諦めて何かを得るのではなく、すべて手に入れるのです。

一生「主役」で生きていけるようになったのも、おそらく、その直前を生きいた「アラ60’s」女性たちへの反動もあるのかもしれません。

団塊世代も含まれる「アラ還」以上の女性は、家庭に収まる・・・という生き方を選択しなかったのであれば、基本的に「戦う女性」であり男社会へ挑戦していく生き方をするしかありませんでした。

男社会で認められるには、時には「女の武器」を使い、ある時は「他の女を蹴落とし」・・・でも「心はいつまでもピュアな少女」だったりして、自分の「軸」を状況や都合に合わせて変化させて、したたかに、でも確実に仕事をやり遂げてきた・・・という印象があります。

アラフィフ女性というのは、家庭を選択するしかなかった「母」をみて育ち、「アラ60’s」という先輩の生き方を反面教師として、もっとスマートに自己実現する生き方ができるようになった世代と言えるのかもしれません。

「わたし」という「軸」をしっかりと持って「好き」「嫌い」という判断で「わたし」が選択する・・・日本にようやく可能になった「超個人主義」的な生き方と言っても良いでしょう。

「個」をベースとした生き方には、仕事の成功も、配偶者も子供らの家庭も、あくまで「わたし」を完成させる要素であり、離婚だって「バツイチ」として「わたし」の成熟の過程のステップのひとつにすることが出来るのです。

本書は、これからの行く末・・・60代、70代と「ずっと主役で居続けるのか?」という不安な要素を投げかけつつも「萌えろ!」と、ますます「一生、姫で生きる」という「超個人主義」的生き方を女性たちに推奨しています。

・・・一体、男はどうなってしまうのでしょう?


「一生、姫で生きる」と、自分萌えしている日本女性に対して、日本の男性はどうしているのか・・・。

相変わらず、男が女性を養わなければ・・・と、古典的な「男役」(「姫」に対しての「王子」?)に甘んじて満足している男性というのも、日本にはまだまだ多い気がします。

それは、女性側の貪欲な「超個人主義」のニーズの支えに自らなっているわけですから、それで「男」という「エゴ」や「自己満足」が得られるなら、女性にとって好都合なことはありません。

ただ、「姫」的な幻想をサポート出来るほどの稼ぎがあるうちは円満でしょうが・・・「金の切れ目が縁の切れ目」となることもあるかもしれませんので、男は大変です。

オタク男性「超個人主義」のひとつの形ではありますが、その関心が自分ではなく、あまりにも外向きであります。

自分の外見的なことや生活には関心がないわけですから、女性の「姫」的な生き方とは、真逆と言えるのではないでしょうか?

ただ、オタク的な男性というのは・・・まさに「姫」というキャラクターとして生きたい女性(リアルでも、バーチャルでも!)を精神的も経済的にも支えるという意味では、古典的な「男」のエゴからは抜け出してはいないようです。


ボクは、このブログを始めるにあたり「ボク」と自分を呼ぶことにしたわけですが、リアルでは「僕」または「俺」を使っています。

ブログを開始した時に無意識に選択した「ボク」でありますが、「僕」でもなく、「ぼく」でもなく、このカタカナ表記での「ボク」にこそ、「姫」に対抗するような、男性の生き方が象徴されているような気がするのです。

「ボク」という言葉の中には、我が儘な子供のような揺るがない自分の「軸」を感じさせませんか?

「ボク」が好き、「ボク」が嫌い、ということが万能ルールかであるような「超個人主義」を暗に表現してしまうのが「ボク」という幼げな響きなのであります。

「草食系男子」と呼ばれる男性が、自分から女性にアプローチしないのも「ボク」であるからで、古典的な男性役を担わないのも「ボク」だから・・・「ボク」である限り童貞少年仲間のようなホモソーシャル的な絆で群れてしまうのも、自然な行為なのかもしれません。

近年のアラフォー世代を中心とした、自分の子供時代の流行ったものを、もう一度大人買いで楽しむというレトロブームも「ボク」が好きだから「ボク」が欲しいからで、すべて肯定することができるわけです。


「一生、姫で生きる」と言い切る日本女性・・・なんと女性は強くなってしまったと嘆くなら、男は男で、

「一生、ボクで生きる」なのであります。

ただ、みんな揃って「超個人主義」で生きていると・・・その先に待っているのは「孤独な老後」しかないのかもしれないなんて、ふと頭をよぎったりもするのです。

まだまだ若いうちは「姫」でも「ボク」でも良いけど・・・いつか「超個人主義」”主役的な生き方”から脱して、脇役にもなれる”名バイプレーヤー”となるような生き方というのも、段々と見つけていかないとなぁって思うのであります。



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