2010/06/19

ゲイの友人が亡くなった時・・・自分の存在もなくなってしまうように感じること


ゲイの友人と他の友人を区別しているという意識は特にありませんが、ストレートの友人にある「ヨコつがり」には乏しいかもしれません。
飲み屋さんとかで知り合ったわけでもないので、ゲイの友人同士のつながりというのは、殆どなく・・・。
親や家族のはなしや仕事のことを聞くことがあっても、実際に関わりを持つことはヒジョーに稀・・・。
好む、好まざるに関わらず「一対一」での付き合いということが、ゲイの友人とは比較的多かったりするのです。
そういう「点」「点」で繋がったの人間関係に問題があると思っているわけないのですが、万が一、友人(もしくはボク自身)が突然亡くなった時には、まったく連絡が取れなる・・・という怖さがあります。
ある意味では、深く繋がっているようだけど・・・本人がいなくなってしまえば、第三者的にはその関係さえ存在していなかったようになってしまうのかもしれません。
エイズで亡くなった友人や、くも膜下出血で亡くなった友人のことをボクが知るまでに、数ヶ月もかかったという経験があったりするのですから。

去年(2009年)の8月3日に、ニューヨークの親友Tが心臓発作で亡くなりました。
実は、ボクは彼が亡くなる一ヶ月前にニューヨークを訪ねて、彼の家に滞在したばかりだったこともあり、より衝撃を受けました。
彼が発作を起こした時には、インターネットで知り合った人(セクフレのような知り合い?)が一緒にいたようですが、その人の消息はそれっきり誰も知りません・・・携帯電話のメモリーから親友Tの家族には、病院に運ばれたことだけは伝えてくれたそうですが。
親友Tの遺言により、遺体はすぐに焼かれ、骨になって故郷のテキサスに帰りました。

彼の死の第一報は、亡くなってから10日後、すでに遺骨になっていた8月14日でした。
その日に、親友Tの十代の頃からの古い友人へ、彼のお母さんから連絡が入ったそうです。
この古い友人とは面識はなかったのですが、彼はボクのことを親友Tからはよく話を聞いていたらしく、すぐにメールでボクに連絡してくれたのでした。
ボクは、亡くなった親友Tのお母さんと妹さんとは何度か会っているし、電話番号も知っていたので、すぐにテキサスの実家へ国際電話をしました。
しかし、電話口のお母さんは少々おかしな雰囲気でした・・・亡くなった親友Tの部屋から何かが盗まれたと思い込んでいるようで、一ヶ月間の部屋の様子を異様なハイテンションでボクに質問し続けるのでした。
息子の急な死に、ショックを受けておられるんだと、ボクはその時は受け取っていました。
生前の写真をプリントして郵送したり、メモリアルサービスのために花を贈ったり、何かの足しになればとお金を送ったりと、ボクなりのことをさせてもらったのですが・・・お母さんや妹さんから、連絡をもらうことはなかったのです。
お墓の場所を聞いても、返事をもらうことさえありませんでした。
いろんな意味でまだ、ショックの中にいた9月中旬、ボクは突然トイレで気を失ってしまったのですが(過去のブログ参照)・・・その時、ボクの脳裏に浮かんでいたのは、親友Tの墓参りに行こうとしている自分の姿でした。
ボクは、何が何でも親友Tのお墓参りには行かなければいけないという思いをさらに強くして、彼が埋葬されている場所をお母様と妹さんに再び問い合わせたのでした。
数ヶ月後、やっと妹さんから「教会の敷地内の共同墓地です」というだけの短いメールを受け取りました。

親族が、生前のゲイの友人を、死後には断ち切るという話は、いろんなゲイの友人から聞いたことがあります。
亡くなったことを連絡しないとか、ゲイの友人を葬式には参加させないとか、一緒に住んでいたゲイのパートナーが家を追い出されてしまうとか・・・。
親友Tのお母さんや妹さんの、真意はボクには分かりません。
ボクが20年来の親友であることは、彼女たちにも周知のことでした。
しかし、息子/兄が亡くなったと同時に、ゲイの友人であったボクの存在も、彼女らの中ではなくなってしまったかのような印象です。
親友Tと家族の関係は、決して悪いという印象はありませんでした。
ボクのようなゲイの友人だけでなく、過去のボーイフレンドたちのことも、ナチュラルに受け入れているようでした・・・しかし、本当の心の奥までは知ることができません。
親友Tは、HIVポジティブでエイズの発症もしていたし、家族の経済的な負担もあったことは確かです。(ボク自身も経済的な援助をしていました)
突然に亡くなったことで、ニューヨークまで遺体を受け取りに行ったり、借りていた部屋の整理をすぐにしなければならず、精神的にも肉体的にも経済的にも大変なことだったでしょう。
お母さんと妹さんは、息子/兄のゲイについて、死後、改めて向き合うことはできないのかもしれません。
悲しみとは、ひとりで向き合わなければいけないんだと、ボク自身が感じることができるようになってから・・・ようやく乗り越えるパワーが生まれてきたような気がします。

月曜日から、アメリカに行ってきます・・・親友Tのいない、ニューヨークへ。
ニューヨークでは、親友Tを知る友人たちと数年ぶりに会う予定です。
ボクにとっては、親友Tを失った悲しみをシェアできる、数少ない人たちかもしれません。
ダラスでは、親友Tの遺骨が埋葬されている教会の共同墓地へ行ってきます。
親族に何も言わずに行くのも失礼かと思ったので、妹さんには真っ先に連絡をしましたが、勿論、返事はありません。
ただ、誰がなんと言おうとも・・・親友Tのお墓参りに行くことには、ボクにとっては、とてもとても深い意味があるのです。

もうすぐ彼のいる場所を訪れることができると思うと、涙が止まらなくなります・・・。

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