2014/02/11

ウディ・アレンにしか書けない「欲望という名の電車」・・・誰からも共感されない”自業自得”の苦しみだからこそ救いがないの!~「ブルージャスミン/Blue Jasmine」~


テネシー・ウィリアムズの「欲望という名の電車」は、ボクの嗜好に大きく影響を与えた作品のひとつ(おかしのみみ「僕はブランチの生まれ変わりだったのです」参照)・・・世界各国で繰り返し舞台化(オペラ化も!)をされているのは勿論、映像化も3回(1951年映画、1985年TVドラマ、1995年TVドラマ)されていますが、ヴィヴィアン・リーがブランチ、マーロン・ブランドがスタンレーを演じたエリア・カザン監督の映画版が完成度が高く有名です。毎年、新作を発表しているウディ・アレンの最新作「ブルージャスミン」は「欲望という名の電車」と似た設定と物語が展開するウディ・アレン版「欲望という名の電車」とも言える作品であります。ちなみに、スタンレーが嫌いな香水が”ジャスミン”というのは偶然かもしれません・・・。

1982年から約10年事実婚していたミア・ファローの養女だったスン・イー(当時21歳)との交際、結婚は、ウディ・アレンの人間性を疑われるスキャンダルなのですが・・・最近になって、再びミア・ファローの別な養女から性的虐待の訴えをされているようなのです。彼の場合、プライベートが作品にも反映する作風ということもあって、コメディ映画というジャンルに属する作品でありながら、どこかしら登場人物達が自責の念を感じさせるようなシニカルな視点があり、その切れ味はますます鋭くなっているような気がします。


「ブルージャスミンン」は、ジャスミン(ケイト・ブランシェット)が、サンフランシスコに暮らす妹のジンジャーを訪ねるところから始まります。冒頭、飛行機の中でジャスミンが隣に座っている女性に身の上話をするのですが、これがウディ・アレンの脚本の見事さ・・・ジャスミンがどういう女性であるかを端的に説明してしまうと同時に、独り言のように一方的に自分のことばかり話している様子から、彼女がちょっと精神的に”おかしい”のではないかという印象さえも与えるのですから。そして、ジャスミンが独り言のつぶやきが、過去の回想シーンと何度と行き来する物語の時間軸を、巧みに織り込んでいきます。

彼女は夫のハロルド(アレック・ボールドウィン)とのパークアベニュー(ニューヨーク随一の高級住宅地)での裕福な生活の破綻後、新しい生活を始めるために、同じ里親に育てられた血のつながっていない妹(サリー・ホーキンス)と、しばらく同居して新しい生活を築こうとしているらしいのです。しかし、宝石も毛皮も何もかも失ったと良いつつも、ルイ・ヴィトンのスーツケースに、シャネルジャケットを羽織り、飛行機もファーストクラスというジャスミンの行動は、あまりにも”奇妙”です。お馴染みのラグジュエリーブランドを、痛々しい女性の風刺として使うとは、なんとも皮肉・・・贅沢というのは、心の隙間を埋める”鎧”であることも痛感させられてしまいます。

ジンジャーはジャスミンとは真逆で庶民的なタイプ・・・元夫のオーギー(アンドリュー・ダイス・クレー)も、現恋人のチリ(ボビー・カナヴェイル)も、労働者階級の男性。ジャスミンからすれば、そんな負け組な男を選ぶから”いい生活”ができないということになるのですが、ハロルドが大金を得ている投資ビジネスは、実は詐欺行為・・・贅沢な暮らしをすることにしか興味のないジャスミンにとって、ハロルドが金を得ている手段は大した問題ではないようです。例え、ハロルドが奨めた投資によって、オーギーが宝くじで当てた大金を失ったとしても・・・。

若くしてハロルドと結婚したジャスミンは、キャリアを持つ女性ではありません。パークアベニューの豪邸を追われて、都落ちしてブルックリン(ニューヨーク郊外のミドルクラスの住宅地)に住んで、マジソンアベニュー(世界中のデザイナーショップが並ぶ通り)のブティックの店員として勤めていたこともあるようなのですが・・・以前、チャリティーやディナーパティーで顔を合わせていた友人らと遭遇することもあり、ひどく自尊心を傷つけられたようなのです。正論を言えば「文句言わずに高級ブティックの店員やってろ!」なんですが、プライドにしがみついて苦悩するというのは、他人に理解されることもないので、心の闇はさらに深まってしまうものなのかもしれません。

ジャスミンは自分のテイストの良さを生かして、インテリアデザイナーになると考えるのですが(これも、元金持ち夫人が思いつきそうな安易な発想!)・・・パソコン学校に通ってパソコンを使えるようになったら、オンラインでインテリアデザインの講座を受けるというのですから、まったくもって地に足のつかない話なのです。学校に通っている間は、アルバイトぐらいはしないといけないということで、男友達に紹介された歯医者の受付をすることになるのですが・・・歯医者がジャスミンに一目惚れしてしまって、セクハラを受けてしまう始末。そこで、ジャスミンは素敵な男性(金持ち)との出会いを求めて、パソコンのクラスで知り合った女性に誘われたパーティーに、ジンジャーを連れて参加することにするのです。

そのパーティーでジャスミンが知り合ったのが、将来政治の世界への進出も考えている政府関係の仕事をするドワイト(ピーター・サースガード)・・・屋敷を購入したばかりの彼は、インテリアデザイナーを名乗るジャスミンに一目惚れして、内装のデコレーションを依頼するのです。十分な資産を持っているだけでなく、将来的には政治家夫人となれるかもしれないドワインは、ジャスミンが求めていた男性そのもの・・・あっという間に二人は恋におち、数年間ウィーンへの移住を計画していたドワインは、唐突にジャスミンにプロポーズをするのであります!勿論、これでハッピーエンドということはありません。

ここからネタバレを含みます。



裕福で幸せな生活に見えていたハロルドとの結婚でしたが・・・実は、ハロルドは浮気しまくりの超女たらし。それは、ジャスミンの目が届かないところではなく、家族の友人として付き合いのある女性や仕事の関係者と紹介されていた女性・・・ジンジャーもニューヨーク訪問の際に、ハロルドの浮気現場を目撃していたものの、自分の密告によって結婚が破綻してしまう責任は逃れたいと黙りを決めていたのでした。しかし、ひょんなことからハロルドの浮気を疑ったジャスミンに、ハロルドは遂に浮気を告白した上に、フランス人の家庭教師の若い女性との新しい生活を考えていると離婚を申しでるのです。ショックを受けたジャスミンは「FBI」にハロルドの詐欺行為を通報してしまいます。彼女が裕福な生活を失ったのは、ハロルドが逮捕されてしまったから・・・逆ギレした彼女による”自業自得”だったことが分かるのです。

婚約指輪を買うために宝石店を訪れたジャスミンとドワインの前に現れたのは、ジンジャーの元夫のオーギー・・・そこで、ハロルドが刑務所で自殺したこと、息子がサンフランシスコの郊外に暮らしていることが判明します。ジャスミンの虚言を悟ったドワインは、あっさりとジャスミンとの婚約を白紙に戻してしまうのです。最後の望みである息子を訪ねても、通報したジャスミンのことを犯罪者の父親より憎んでいると罵倒されてしまいます。何も知らないジンジャーに対して、まだドワインとウィーンに移住すると言い張るジャスミン・・・遂に、現実を把握できないほどジャスミンの精神は崩壊しまったようです。

彼女の悲劇は、誰にも理解されない自業自得の苦しみに苛まれているということ・・・誰一人からも同情してもらえないからこそ、自分と社会の認識の隔たりに彼女は精神を病んでいくという悪循環を生んでいるのです。公園のベンチで、くたびれたシャネルジャケットの虚飾の優雅さに身を包んだジャスミンには・・・「欲望という名の電車」のブランチのように、彼女の妄想を受け止めてくれる優しい見知らぬ紳士(実は精神病院の職員)さえいません。行き場ない奈落の底に、たった一人で佇むしかないジャスミンの”うつろ”な表情に、ボクはある種の同調さえ感じてしまい・・・どうしても号泣を抑えることができないのです。


「ブルージャスミン」
原題/Blue Jasmine
2013年/アメリカ
監督、脚本 : ウディ・アレン
出演    : ケイト・ブランシェット、アレック・ボールドウィン、サリー・ホーキンス、アンドリュー・ダイス・クレイ、ボビー・カナヴェイル、ピーター・サースガード、ルイス・C・K、マイケル・スターレサロペ
2014年5月10日より日本劇場公開


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2014/01/31

オーストリア不快映画の次なる刺客(!)ウルリヒ・ザイドル監督による「パラダイス」三部作/その1・・・主人公の自己矛盾を冷ややかに見つめる残酷な視点がエグいの!~「パラダイス:愛/Paradise : Love」~



突然、幸せな家族を襲う理不尽な犯罪を描いた「ファニーゲーム」を始め「ピアニスト」「白いリボン」など代表作の”不快映画”の巨匠(?)ミヒャエル・ハネケ監督、少年を監禁し性的虐待をする男の日常を描いた「ミヒャエル」のマルクス・シュラインツァー監督、娼婦の過酷な環境と信仰を追ったドキュメンタリー映画「Whores' Glory」などで知られるミヒャエル・グラウガー監督など・・・どういうわけかオーストリアには、淡々とした描写でありながら何とも言い表せない”不快感”を醸し出す映画作家が幾人もいるのですが、ウルリヒ・ザイドル監督も”そのひとり”であります。

ウルリヒ・ザイドル監督は1980年代からドキュメンタリー映像作家として活躍、2001年「ドッグ・デイズ」で劇映画デビュー、2007年「インポート/エクスポート」に続いて発表されたのが、本作「パラダイス:三部作」です。「ドッグ・デイズ」「インポート/エクスポート」では、淡々とした脈略もなさそうな描写の積み重ねで、複数の登場人物が平行に進行していく中、次第に物語を紡いでいくという構成でしたが、「パラダイス:三部作」は、ひとりの主人公を追っていくという構成となっています。カンヌ映画祭(パラダイス:愛)、ヴェネチア映画祭(パラダイス:神)、ベルリン映画祭(パラダイス:希望)に出品された「パラダイス:三部作」は、ウルリヒ・ザイドル監督の集大成といえるような作品で、淡々とした描写、広角レンズの固定カメラによるシンメトリーな構図などの”ザイドル調”は相変わらずで、3人の女性が”パラダイス”を求めて裏切られていく姿を描く”三部作”なっているのです。


第1作目の「パラダイス:愛/Paradise : Love」は、中年女性テレサがバケーションで訪れたパラダイスのようなケニアで、現地の男性たちに”愛”を求めながらも、自尊心を失っていくさまを残酷に追った物語。第2作目の「パラダイス:神/Paradise : God」は、第1作目の主人公であるテレサの姉・アンナが信仰によって築いた虚構のパラダイスが、下半身不随の夫と再び同居し始めることで崩れていき、懺悔の鞭が”神”への反逆となる滑稽な物語。第3作目の「パラダイス:希望/Paradise : Hope」は、テレサの娘・メラニーが肥満児を集めたダイエットのためのサマーキャンプで、ロリコンのおじさん指導員に恋をするも、冷たくフラれて”希望”を失うという切ない物語。どれも、主人の女性たちの生々しい欲望が”自己矛盾”や”自己崩壊”を招いていくという”皮肉”を感じさせる”不快映画”であります。特に、第1作目の「パラダイス:愛」から痛感させられた”虚無感”は、ボクの心を深く突き刺したのです。

テレサ(マルガレーテ・ティゼル)は、ダウン症の患者たちのケアをする仕事をしているらしい50歳(ゲゲゲ、同い年!)のシングルマザー・・・ティーンエージャーの娘・メラニーを姉のアンナに預けて、ケニアのビーチリゾートに長期のバケーションに旅立ちます。リゾートに滞在している女友達(インゲ・マックス)は「肌がココナッツの香り」「アソコがでっかい」と、現地の若い男性にメロメロ・・・ただ、バイクを買い与えるなど貢ぎながらも、彼らをバカにしているところもあるのです。現地の男性たちも、彼女のように男漁りに訪れている中年女性を”シュガー・ママ”と侮蔑的に呼んでいるという”どっちもどっち”利用し合う関係。金にモノを言わせて自分の性的な欲望を満たすというのは、日本人のオジサン達がやってきた東南アジアへの買春ツアーと同じこと・・・貨幣価値の格差によって自分の国では誰にも見向きもされない50代の太ったオバサンでも若い男性にチヤホヤされてカラダを求められるのですから、ある意味「パラダイス」なのです。それに・・・アフリカ系の男性には豊満な女性(ブヨブヨのデブの白人女性でも)に性的な魅力を感じる嗜好も、利害関係を作りやすくしているという”皮肉”かもしれません。

テレサがビーチを歩けば、大勢の若い男性が近寄ってきます。彼らの目的はアクセサリーや土産物を買ってもらうだけでなく、彼女に”シュガー・ママ”になってもらうこと・・・最初は断り続けていたテレサも、アクセサリーの売り子のガブリエル(ガブリエル・ムワルーア)の褒め言葉に根気負けしてしまいます。ダンスを教えてもらったり、現地の人しか知らない場所を案内してもらっているうちに親しくなり、早々にレンタルルーム(ラブホテルのようなところ)にしけこむことになるのです。しかし、テレサはセックスの途中で逃げ出してしまいます。年上の太った自分のような白人女性とセックスをしようなんて、貢いでもらうのが目的であることは明らか・・・「愛情のないセックスはしたくない」とテレサは自分のプライドを守るのです。ただ・・・これって、性的欲望に素直になれない自分への”いいわけ”と言えるかもしれません。守るべき”プライド”が、逆に物事の本質を見失わせてしまうこともあるのですから・・・。

リゾート仲間の女友達に、外見ではなく内面を知って愛して欲しいと語るテレサ・・・確かに「恋愛の正論」ではあり、女性として望むシチュエーションであるのですが、現実的に考えてテレサのような太ったオバサンの内面を知ろうとする男性というのは・・・(悲しいことですが)ほぼ”アリエナイ”存在です。自己認識をしないで「恋愛の正論」を求めてしまう・・・これこそが”矛盾”であり、結果的に”崩壊”へと繋がっていく根本的な原因。悲劇的な結果は自業自得としか言えないのであります。そんなテレサの前に現れたのが、強引な誘いをしてこない、ちょっとシャイなムンガ(ピーター・カズンク)という若者・・・”シュガー・ママ”を求めている男たちとムンガは違って、性的なサービスで金をせびることもなく、他人の目を気にせずに街中で手繋ぎデートをして、テレサはムンガに徐々に心を許していくのです。そして、「やる」ためのレンタルルームではなく、彼はテレサを自宅へと招くのあります。

「愛は永遠」と語る純粋なムンガは、女性を扱い方もよく分かっていない様子・・・テレサは、ここぞとばかりにラブメーキングの手ほどきをかってでます。「オバサンだから」という不安は、自分がリードするという優越感で埋め合わされていようです。あっという間に、テレサはムンガの若いカラダに夢中にあってしまいます。眠っている彼のカラダの匂いを嗅いでみたり、股間の写真を撮影してみたり・・・テレサにとっては自分がイニシアティブを持てるムンガは、理想の相手なのかもしれません。誰が見ても不釣り合いな二人の関係ですが・・・愛に飢える先進国(テレサ)と、金を求める後進国(ムンガ)の利害関係の如く、微妙なバランスで成立してしまうように見えます。

ここからネタバレを含みます。


しかし、現実はそんなに甘くはありません。ムンガはテレサを、彼の妹が住んでいるという家に連れて行きます。妹の赤ん坊は病気で治療代が必要なんだと訴えるムンガに、テレサは大金を手渡すしかありません。また、彼のいとこが教えている小学校に連れて行かれ、ここでも子供たちのためという名目で、残りの現金を手渡す羽目になってしまいます。”シュガー・ママ”として金を貢いでいるのではなく、あくまでも人助けなんだと思い込もうとするテレサですが・・・次第にムンガはテレサに対して冷たい態度を取るようになるのです。そして、そのうち連絡しても、ムンガとは会えなくなってしまいます。妹の家に行ってみても、金をせびられた上に、現地の言葉で罵倒されるような始末・・・「ムンガに騙されている」とガブリエルから忠告されても、テレサはムンガを信じることをやめられません。騙されていたことを認めるのは、信じていた自分を覆さなければならないこと・・・しかし、ムンガと妹と名乗っていた女性と赤ん坊が、仲睦まじく海辺で散歩している姿を見て、テレサは気付かされます。妹というのは実は彼の妻で、赤ん坊は彼らの子供だと。ムンガを罵倒して殴るしか、怒りを発散する手段しかありません。

これで、テレサが「もう現地の男は懲り懲り」となれば、映画は終わってしまうのですが・・・ひとり傷心でビーチを歩くテレサの前に、再び現地の若い男が現れます。逆立ちしてみたりしてアピールする姿に、目を細めてしまうテレサ・・・愛を信じて裏切られた彼女は、もう”愛”という幻想は求めていません。現地の男が彼女に何を求めて近寄って来ているかなんて承知のこと・・・「愛している」とか「美しい」とか”まやかしのような言葉”よりも、肉体的に満たされたい自分の欲望を認めることで、テレサは解放されたのです。「何人の白人女とやったの?」と尋ねる自虐的な行為は、もう騙されないという防御壁・・・”心”が傷つかないように自分を守れば守るほど、本当の「愛」からは離れてしまうという矛盾。それでも、ますます肉欲を求めてしまうのは、どうしようもない”淋しさ”故になのかもしれません。テレサの行動に身につまされる人は、決して少なくないと思います。

ケニアとの経済格差により自国(オーストリア)よりも安く若い男と遊べる・・・ということもありますが、自分(ヨーッロッパ白人)とは違う人種であることで、買春行為の後ろめたさも、性的に相手を支配しようとするエゴも感じなくて済むのです。テレサの誕生日には、女友達が現地の男性ストリッパーをプレゼントに用意しています。ストリッパーが彼女達を見ても反応しないことに苛立ち、裸になって必死に誘惑を試みる女友達・・・いつしか、そのなかに加わっていくテレサは、すでに躊躇する自意識さえも失っていっているのです。遂には、ホテルのバーテンダーを自分の部屋に連れ込むテレサ・・・現地の男に金を渡せば(肉体的には)彼女の思い通りになるという”侮蔑意識”が根底にはあります。テレサの言われたままシャワーを浴びるバーテンダーですが、正直嫌々連れ込まれたという感じ・・・「白人の女性にキスしたいでしょ?」「胸触りたいでしょ?」とテレサに誘導的されても、”シュガー・ママ”をビーチで探すような男とは違って、彼はどこにでもいる普通の純粋なケニア人の男性なのです。

ベットにドーンと仰向けで横たわったまま「足先にキスして!」と命令(!)するテレサに従うバーテンダー・・・「もっと上、もっと上」と指図しながら、テレサは自分でドレスをめくって下半身を露出して股間にキスをさせようとするのですが、彼から拒否されてしまいます。テレサの求めていたのは「する」だけの性的なサービスではなかったはずなのに、いつしか、欲望と行為が、すり替わってしまっていたのです。自己矛盾に直面したテレサはひとり嗚咽して涙を流すしかありません。ただ・・・翌朝になれば、ビーチには彼女のような”シュガー・ママ”を探している若いケニア人男性が、沢山待っているのです。

肉体だけの欲望を求め裏切られても、再び、求めて引きずり込まれてしまう・・・蟻地獄のような”パラダイス”なのかもしれません。ふと、考えてみると・・・テレサの痛々しさを上から目線で見下ろしているつもりでいて、いつしか自分自身とテレサを重ね合わせているボクがいるのです。


「パラダイス:愛」
原題/Paradise : Love
2012年/オーストリア
監督、脚本、製作:ウルリヒ・ザイドル
出演      :マルガレーテ・ティゼル、インゲ・マックス、ピーター・カズンク、ガブリエル・ムワルーア、カルロス・ムクターノ、マリア・ホフシュテッター、メラニー・レンツ

2013年10月25日第26回東京国際映画祭にて上映
2014年2月22日より日本劇場公開



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2014/01/22

ハリウッドでは”黒人迫害映画”が目白押しなの!・・・過酷な歴史と理不尽な差別を受ける現実を共感できないと政治的に正しくない?~「大統領の執事の涙/The Butler」「フルートベール駅で/Fruitvale Station」~




「それでも夜は明ける/12 Years a Slave」が、第71回ゴールデングローブ賞ドラマ部門の映画作品賞を受賞しました。ブラット・ピットがプロデューサートして名を連ねるこの作品は、南北戦争後(19世紀半ば)北部で自由黒人として暮らしていた男性が、奴隷として12年間も南部の農場で生きなければならなかったという伝記を原作とした映画・・・イギリス生まれの黒人監督スティーブ・マックィーンによる本作は、ゴールデングローブの監督賞を受賞し、アカデミー賞でも作品賞を初め、監督賞、主演男優賞、助演男優賞でも有力候補です。


ハリウッド映画では、(特に白人の黒人に対する)人種差別/人権迫害を描くことは長年避けられていたところがありましたが(例外として「マンディンゴ」や「ルーツ」ぐらい)・・・ここ数年、黒人迫害を描いた映画が数多く製作されています。過酷な運命に立ち向かっていく姿は、普遍的な感動のヒューマンドラマとして、人種を超えて強く訴えるところがあるのかもしれません。黒人家政婦たちが経験した厳しい現実を描いた「ザ・ヘルプ~心がつなぐストーリー~」、黒人初メジャーリーガーとなったジャッキー・ロビンソンの強い差別との戦いを描いた「42~世界を変えた男~」、クエンティン・タランティーノ監督の(歴史的事実には基づかない!)過剰演出による黒人の白人への復讐劇「ジャンゴ 繋がるざる者」など、意識の高いリベラルな白人の映画人にとってつくられた”黒人迫害映画”というのは・・・”政治的に正しい自らの”姿勢を公に訴えているかのようです。



「大統領の執事の涙/The Butler」は、1920年代からアメリカ初の黒人大統領が誕生するまでの現代までを描くという”エピックドラマ”・・・アメリカ現代史および黒人人権運動の歴史と歴代アメリカ大統領の知識がないと、次々と描かれる歴史的な背景を理解することは難しいかもしれません。ヒューマンドラマの”ぬるま湯”な描写に留まらず、悲惨な迫害を容赦なく描いているのは、本作の監督であるリー・ダニエルズ自身が黒人であることも無関係ではないと思えるところもあります。

1920年代にアメリカ南部のコットンプランテーションで生まれたセシル・ゲインズ(フォレスト・ウィスカー)・・・すでに奴隷制度はなくなっていた20世紀でありながら、過酷な労働と白人オーナーへの絶対服従をさせられています。セシルの母(マライア・キャリー)はオーナーの息子に乱暴に手篭めにされているのですが、それに対して一瞬不満な態度した父は、あっけなく射殺されてしまうのです。人種差別者ではありながらも、セシルを不憫に感じたオーナーの妻(ヴァネッサ・レッドグレーヴ)は、セシルを「ハウス・ニガー」=「家の中で働く黒人使用人」として給仕の仕事を教え込みます。その後ホテルのボーイとして働くようになったセシルは、ホワイトハウスの執事として抜擢されることになるのです。

ここからネタバレを含みます。


アイゼンハワー(ロビン・ウィリアムス)、ケネディ、ジョンソン、ニクソン(ジョン・キューザック)、フォード、カーター、レーガンまで7人の大統領の元、時代の裏舞台を傍観しつつ”執事”として仕えます。葛藤しながらも自我を出すことなく仕えるセシルを、妻グロリア(オプラ・ウィンフリー)は理解し支え続けるのですが、長男ルイス(デヴィット・オイェロウォ)は反抗的・・・白人に仕える父を恥と感じています。白人社会に従順に従うことで中産階級の生活を手に入れた父親、黒人としての誇りを持ち黒人人権運動へ身を投じていく息子の対比が交互に描かれるのは、なんとも皮肉に満ちています。

当時は、まだ公共の場所(レストラン、公衆トイレ、水飲み場、バス席など)は「人種隔離」されていて白人用(White)、黒人用(Coloerd)に分かれていました。ルイスら、若い黒人学生たちは、白人用のバス席やレストラン席に座るという抗議をするのですが、それに対する風当たりはとんでもないもので・・・顔につばを吐かれ、汚い言葉で侮辱されるという迫害の様子を、本作では真っ向から描いていきます。ボクの母は、この時代(1950年代半ば)にアメリカ留学をしていたのですが、このような肌の色による”区別”を当然する社会に衝撃をを受けながらも・・・白人用、黒人用のどちらを自分が使うべきか迷った挙げ句、清潔な白人用を使ったそうです。

レーガン政権時代、ナンシー・レーガン(ジェーン・フォンダ)は、セシルとグロリアをホワイトハウスのディナーに”ゲスト”として招待するのですが、セシルには、自分たち夫婦が”見世物”として招待されたことなど百も承知です。ただ、これこそ差別意識の変化の賜物・・・大統領夫人にとって黒人執事の夫婦をディナーに招待することが、政治的に正しいことになったのですから、意識が進歩したことは確かです。ただ、それがほんの数十年前(1980年代)であったということは、やはり驚くべきことかもしれません。セシルがホワイトハウスの執事の職を辞した後、人権活動家となったルイスの元を訪れてプロテストに参加するところは、親子の和解というだけでなく・・・生まれてからずっと白人社会に押し付けられてきた「黒人」という立場から、セシルが解き放たれたことのような気がしました。アメリカで「黒人」という存在でいることは、精神的にも社会的にも複雑なことであるかということに気付かされたのです。

オバマ大統領が黒人初の大統領として当選後、ホワイトハウスでセシルが大統領と面会するところで本作は終わります。黒人の大統領が誕生したということは、人種隔離の時代から50年で信じ難いほどの社会の進歩なのかも違いありません。アメリカ黒人が歩まされた厳しく長い道のりを考えると重い意味を持つエンディングで思わず胸が締め付けられますが・・・全体的に感傷的なところもあり、やや”黒人観客向け”に偏り過ぎた印象を感じます。オプラ・ウィンフリー(アメリカで最も影響力のあるテレビタレント)など大物黒人セレブたちに加えて、ロビン・ウィリアムス、ジョン・キューザック、ジェーン・フォンダと、リベラルで知られる白人の大御所までも勢揃いした本作でありましたが・・・アカデミー賞の有力候補という前評判が盛り上がっていたにも関わらず、ゴールデングローブ賞もアカデミー賞もノミネート落選になってしまいました。確かにアメリカの歴史を語る上で大切な物語ではありますが、黒人の受けた迫害と人権運動の葛藤というのは、まだまだ普遍的なアメリカの物語としては受け入れられていないということかもしれません。


「フルートベール駅で/Fruitvale Station」は、。警察の人種差別的なプロファイリングにより、射殺された黒人青年のオスカー・グラントの最後の1日(2008年12月31日)を描く、実際に起こった事件を元にした作品です。

このような(特に黒人に対する)警察による暴行、殺害は、アメリカでは驚くほど頻繁に起こっています。ボクがアメリカに住んでいた1990年にも、警察による黒人男性(ロドニー・キング)への不当な暴行事件があり、その報復として”ロスアンゼルス暴動”が起こりました。遠く離れたニューヨークでも暴動を恐れて、戒厳令が出されて外出禁止となったことを覚えています。その後も、似たような事件は繰り返し起こっていることからも「黒人=犯罪者」というプロファイリングは、今でも当然のように行なわれているのです。実際の事件に居合わせた人がスマホで撮影した動画から、本作「フルートベール駅で」は始まることからも分かるように、本作は警察を告発する強い意志によって制作された映画だと言えるでしょう。

ガールフレンド(メロニー・ディアス)と4歳の娘と暮らすオスカー(マイケル・B・ジョーダン)の人生最後の日となった2008年12月31日を、黒人青年として普通の1日として追っていきます。ちょうど1年前、彼は麻薬取引で逮捕されていて、歯母親(オクタヴィア・スペンサー)の訪問を受けています。相変わらず白人男の挑発にのって喧嘩を始める息子を尻目に、母親は胸を締め付けらる思いで、あえて強い言葉で叱咤するのです。家族のためにも地に足をつけてやり直そうとスーパーで働き始めたのですが、遅刻を理由にクビになってしまっていたのです。それでも、元の職場で困っている買い物客がいると、丁寧に手助けをするオスカーでしたが・・・仕事を取り戻すことはできませんでした。再びお金のために麻薬取引の誘惑に負けそうになりますが、改めて真面目に生きることを決心します。仕事を失ったことを正直にガールフレンドに話したところ、最初は彼を責めていた彼女ですが、最後にはオスカーを優しく理解するのです。大晦日はオスカーの母親の誕生日でもあり、家族揃って祝います。ニューイヤーの花火を見に友人達と出掛けるというオスカーに、母親は飲酒運転を心配して地下鉄で行くように諭すのです。

ここからネタバレを含みます。


地下鉄が途中で止まってしまったために、カウントダウンの花火は見逃してしまったオスカー達は、再び地下鉄で帰路に向かいます。そこで、偶然がいくつも重なって悲劇が起こるのです。混雑した地下鉄の中でガールフレンドと分かれて、どこか座れる席がないか離れるオスカーに、スーパーで手助けした買い物客が声をかけます。その呼びかけに反応したのは、1年前に刑務所でオスカーに喧嘩をふっかけてきた白人男・・・喧嘩騒ぎになってしまったために、その直後に停車した「フルートベール駅」で、警察官たちがやってきてしまいます。すぐさま、オスカーと彼の友人らを捕らえる警察官・・・それは、明らかに人種差別的なプロファイリングによるものです。口答えするオスカーに警察官は両手を後ろに回して手錠まで掛けて逮捕すると脅します。それでも、無実を訴え続けて抵抗するオスカーに、警官のひとりが背中から銃を撃ってしまうのです・・・。その後、病院に運ばれますが、オスカーは亡くなってしまいます。そして、彼を撃った警官は殺人罪で逮捕されるものの、判決よりもずっと短い刑期で出てきてしまったのです。

どう考えても理不尽な事件であり、納得のいかない結末であります。ただ、オスカーは、黒人コミュニティーでは”普通”の黒人青年なのかもしれませんが、ボク自身を含め、黒人コミュニティー外で生きている人にとって、共感しやすい自分に近い人物かというわけではありません。確かにオスカーは家族思いでチャーミングに描かれています。しかし、10代で父親になるも結婚せず、麻薬取引で逮捕歴があり、遅刻で仕事をクビなるほどだらしない・・・という人物ではあるのです。もし、地下鉄でオスカーと彼の友人らのグループと同じ車両に乗り合わせたら、ニューヨーク在住時代のボクは多少身構えていたことでしょう。もしくは、別な車両に移動していたかもしれません。これは、明らかに人種や服装によるステレオタイプのプロファイリングです。見た目が”イカツイ”黒人男性だからといって、強盗ではないことぐらい頭では分かっています。ただ、海外で生活する多くの人は、自己防衛のため無意識に行なってしまっていることでもあります。

「普通の青年が遭遇した警察官の差別行為」という制作者側の訴えを、ボクは手放しで受け入れられず・・・口では「人種差別なんてしない」と言いながら、人種によるプロファイリングを無意識にしてしまっているであろう自分って「政治的には正しくないのでは?」という思いに、居心地の悪さを感じてしまうのです。

追伸:「アフリカ系アメリカ人」というのが政治的には正しいとは思いますが・・・「白人」という言い回しが差別に当たらないというダブルスタンードを踏まえて「黒人」という表現に統一しました。


「大統領の執事の涙」
原題/The Butler
2013年/アメリカ
監督 : リー・ダニエルズ
出演 : フォレスト・ウィスカー、オプラ・ウィンフリー、ジョン・キューザック、ジェーン・フォンダ、マライア・キャリー、キューバ・グッディング・Jr、レニー・クラビッツ、ヴァネッサ・レッドグレーヴ、ロビン・ウィリアムス

2014年2月15日より日本劇場公開

「フルートベール駅で」
原題/Fruitvale Station
2013年/アメリカ
監督 : ライアン・クーグラー
制作 : フォレスト・ウィスカー
出演 : マイケル・B・ジョーダン、オクタヴィア・スペンサー、メロニー・ディアス、アーナ・オレイリー、ケヴィン・デュラド、チャド・マイケル・マーレイ、ジョーンズ・ケイン

2014年3月21日より日本劇場公開



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2014/01/13

半世紀ぶりに大島渚監督の幻のドキュメンタリーがテレビ放映・・・自虐的な差別意識が悲痛すぎる”元日本軍在日韓国人”という存在~NNNドキュメント'14「反骨のドキュメンタリスト 大島渚『忘れられた皇軍』という衝撃」~



銀座線が渋谷駅から出てくる高架下あたり・・・今では副都心線の入り口になっている一角に、1970年頃まで白いキモノを着た”傷痍軍人”さんが、募金を集めていたことを覚えているのは、ボク(1963年生まれ)の世代よりも上の人でしょう。

火傷を負っていたり、片腕がなかったり、片足だけだったり、両眼を失っていたり、なんらかの身体的な障害を持っていた人が多く・・・中には両足がなく台車に乗り地べたを這うように移動している人もいて、ボクにはトラウマの光景となっています。母は「気の毒だから見ちゃダメよ」と、同情的とも排除的とも受け取れる言葉をなげかけながら、幼かったボクの目を手のひらで覆ったものです。当時の日本人のどれだけの人が、彼らが元日本軍として戦った韓国人であったことを知っていたかは分かりませんが、戦争が終わって年月が経つにつれて、経済成長を始めた都会の風景に彼らの姿は似つかわしくない”目障りな存在”になっていきました。

大島渚監督に関しての文献を読んだことのある人であるならば「忘れれた皇軍」というドキュメンタリー作品のことは知っているかもしれません。しかし1963年に放映されて以来、特別な上映会以外では一般公開されたこともないし、ビデオやDVDなどのメディア化もされていないので、大島渚監督の作品の中でも観ることが難しい作品のひとつであったのです。松竹を解雇された大島渚監督は「天草四郎時貞」の後、個人プロダクションで「悦楽」を撮るまでの数年間、映画界から干されてしまった不遇の時代がありましたが、その間も精力的にテレビドラマやテレビドキュメンタリーを撮り続けていました。”ドキュメンタリー・韓国三部作”第1作目の「忘れられた皇軍」は、その後の大島渚監督にとってのテーマのひとつとなる”在日韓国人”を扱った重要な作品なのです。

大島渚監督が亡くなられてから、まもなく1年・・・ほぼ半世紀ぶりに「忘れられた皇軍」が、日本テレビにて放映されました。韓国の反日感情はますます強くなり、日本のナショナリズムが再び強まっている印象のある今・・・「日本人たちよ、これで良いのだろうか?」という問いは、常に反政府的な立場で怒りを訴え続けてきた大島渚監督らしく「加害者としての日本」を突きつけてきます。東日本大震災からの復興と、二度目の東京オリンピック開催を控えている日本は、本作が制作された時代背景と重なることがあるかもしれません。東京オリンピック開催を翌年に控えていた1963年・・・まだまだ安保闘争の政治的な活動が盛んでした。今は「反原発」「秘密保護法」などのデモ活動が頻繁に行なわれるように、国民の声と政府の路線が離れ始めているような気がするのです。「日本人たちよ、これで良いのだろうか?」と再び問われるような時勢に、「忘れれた皇軍」を再放映する意味を感じます。

わずか25分ほどの本編に記録されている映像は、衝撃的であり不快の連続です。渋谷駅ハチ公前と思われる街頭で、日本軍として戦った在日韓国人の傷痍軍人らが集まり、日本からも韓国からも、何も補償を与えられていないことを訴えます。しかし、彼らの声に足を止める日本人は多くはありません。日本政府や韓国領事館に陳情しても、それぞれの国が彼らの責任を押し付け合って、救済の糸口さえ見出せないのです。当時、日本は第二次世界大戦から、韓国は朝鮮戦争からの復興を目指していた時代・・・二つの戦争の狭間に取り残されたような彼らの存在は、どちらの国にとっても”厄介者”だったのかもしれません。

街頭演説の後、なけなしの財布をはたいて仲間たちと宴会を始めるのですが・・・いつものように口論となってしまいます。何故、彼らが喧嘩を始めたのかは、はっきりと聞き取れないのですが、カメラは一人の男をクローズアップにしていきます。彼は片手がなく、顔は火傷でただれ、歯も殆ど抜け落ち、両目の眼球もないという凄まじい形相の人物・・・本作では主役としてとらえられています。彼の眼球のない目から涙が流れる様までを、周到に撮影し続けるのです。このシーンは「忘れられた皇軍」の”語りぐさ”のようになっていて、おそらく多くの人の記憶に残るシーンであると思うのですが・・・・ボクは、この直後のシーンに最も衝撃を受けました。

宴会の後、彼は自宅に帰ります。彼には東京空襲で失明した日本人妻がいて、その妻の妹が目の見えない二人の面倒をみているというのです。彼ら夫婦の間に「昭和27年に女の子、昭和29年に男の子が生まれた」とナレーションでは語られるのですが、本作撮影当時10歳前後であろうはずの子供たちの姿はありません。街頭募金でしか生活費を稼ぐことのできない在日韓国人夫と全盲の日本人妻・・・彼らが無事に子供を育てられたのか疑問です。単に子供たちにはカメラを向けなかっただけなのかもしれませんが・・・「生後すぐに施設に預けたのかも、、亡くなってしまったのかも、何も分かりません。自分が生まれた時代に、これほど悲惨な家族が存在していたことに、頭がクラクラするほどボクはショックを受けてしまったのです。

多くの日本人にとっては無関係のように思える元日本軍在日韓国人の問題・・・大島渚監督が訴えるように「日本政府がすべて補償すべきだった」とはボクは思いませんが、韓国政府(韓国国民)と日本政府(日本国民)が、このような問題から目をそらしてしまった”ツケ”が、戦後50年~60年以上経って回ってきたような気もするのです。本作に出てきた人とは別人ですが・・・1992年に、元日本軍の在日韓国人二人が、日本からの補償年金を求めて裁判の申し立てをしたそうです。そして1994年に、彼らの訴えは棄却されて、結局、何も受け取ることはでなかったそうです。ただ、彼らの母国である韓国政府も、傷ついた自国民を日本に押し付け続けたのではないか・・・と感じてしまうところもあります。

本作について、大島渚監督の後日談を読んだことがあるのですが・・・公で語ることができないほど、もっとドス黒いものがあったそうです。ただ、撮影中に監督が彼らから、しばしば聞いた言葉というのが、ボクには本作の映像以上に心に突き刺さり忘れることができません。

「補償がもらえたら、こんな仲間と二度と会うもんか!」

最も悲惨な差別というのは、差別されている者同士がお互いを嫌悪して、差別し合うことではないでしょうか?そういう自虐的な差別は、自分に対しての「底なしの劣等感」と、他者に対しての「とめどない敵対意識」を生み出して、虚言癖や被害妄想など精神を腐らせてしまうように思えるのです。

「忘れられた皇軍」
1963年/日本
監督/脚本 : 大島渚
語り手   : 小松方正
1963年8月16日「ドキュメント劇場」にて放映
2014年1月13日「NNNドキュメント'14」にて放映

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2014/01/07

【悲報】ダリル・ハンナのさらなる劣化!・・・・・作品の質も”堕ち”てしまった元(?)ハリウッドスター女優の「どうでもいい映画」~「マザー/Mother(Social Nightmare)」~



1980年代に活躍したハリウッド若手女優の多くは、今では”脇役”かB級作品(またはテレビ映画)でしか、その姿を見ることもなくなってしまったことも少なくありません。

青春映画に出演した”ブラット・パック/Brat Pack”と呼ばれた若手ハリウッド俳優の中でも、最も成功したデミ・ムーア(1962年生まれ)・・・最近では、アシュトン.カッチャーとの離婚トラブルの報道での、痛々しく劣化した姿しか記憶にありません。”不思議ちゃん”系のウィノナ・ライダー(1971年生まれ)は、万引き騒動以来奇行ばかり報道されていましたが、久々の話題作「ブラック・スワン」では、嫉妬深い年増の元プリマドンナ役という、落ちぶれたキャリアとシンクロしてしまう脇役でありました。ただ、痛いネタでもゴシップ誌を騒がすのは”ハリウッドスター”という証拠・・・完全に表舞台から姿を消してしまったり、脇役どころか”ちょい役”のオバチャンでしか見かけなくなったり、ハリウッドスターであったことさえも忘れられるよりは”マシ”なのかもしれません。

1980年代に登場した女優の中でも、ダリル・ハンナ(1960年生まれ)は、ボクにとって印象強いひとりです。1984年に公開された「スプラッシュ」で演じた人魚役は、モデル体型でブロンドという圧倒的な美人女優でありながら、天然系の可愛らしい彼女の当り役・・・また「シラノ・ド・ベルジュラック」をベースにした1987年公開の「愛しのロクサーヌ」での、厭味のない美しさが際立っていました。J・F・ケネディ・ジュニアと結婚を1990年代初めに噂されていたけれど、母親のジャクリーン・オナシス・ケネディに猛反対されて(ケネディ元大統領が浮き名を流したマリリン・モンローを思い起こさせるブロンドが嫌だったとか)ゴールインすることはありませんでした。その後、彼女のキャリアも下降線・・・テレビ映画やB級作品ばかりになってしまいました。ただ、2003年公開のクエンティン・タランティーノ監督作品「キル・ビル Vol.1」でのエル・ドライバー役で第一線に復活(?)・・・ただ、微妙な老け具合には、少なからずショックを受けたものでした。シーシェパードの支援などの環境活動家としても知られていて、元ハリウッドスターにありがちな変な方向に向かってしまっている気もしてしまいます。

ここからネタバレを含ます。


先日アメリカのアマゾンでDVDを物色していた際に、久々にダリル・ハンナ主演作品を発見(?)したのですが、作品の質の低さは笑い話にならないほどの酷さでありました。元々、テレビ映画として製作された作品で、オリジナルのタイトルは「Social Nightmare/ソーシャル・ナイトメア」・・・何故か、DVD/Blu-layリリース時のタイトルは「Mother/マザー」と変更されています。「自分の子供を守るためにぶち切れる母親役?」などとサイコホラーを期待したら、そこまで吹っ切れておらず・・・マニアが好きそうな”ギミック”も、驚愕の”どんでん返し”もないという中途半端な作品でした。テレビ放映の宣伝ポスターは、いかにも”ティーン向け”テレビ映画という印象ですが、DVDリリースの宣伝ポスターでは恐ろしい形相のダリル・ハンナのドアップになっています。販売側の判断で、まだまだネームバリュー”だけ”はあるダリル・ハンナをメイン(主演?)として宣伝したかったのかもしれませんが・・・「マザー」というタイトルとポスターから安易に推測できるとおりのストレートなオチなのだから、ネタバレ確実の変更なのであります。


スーザン(ダリル・ハンナ)は郊外の高級住宅地に暮らすシングルマザー(特に仕事をしていないようなのに、お金持ちそう!)。娘のキャサリン(クリスティン・プラウト)は、奨学金で大学への進学を考えている成績優秀な女子高校生・・・友人も多く楽しい学校生活を送っていたのですが、最近インターネットでキャサリンの友人らの悪口や秘密が暴露されるということが起こり始めます。「誰かにハッキングされた」と訴えるキャサリンですが、周辺の友人たちは彼女を責めるのです。キャサリンと同じ大学の奨学金を希望している親友の女友達(クロエ・ブリッジス)、黒人のボーイフレンド(ブランドン・スミス)、ゲイを隠してきた仲の良かった男友達・・・すべての友人の信用を失いつつも、キャサリンを信じて支え続けるのは母親のスーザンだけであります。しかし考えてみれば、自宅のパソコンにアクセス出来るのは一緒に暮らす母親のスーザンしかいないわけで、第三者を疑う方が不自然だと思うのですが・・・当事者のキャサリンは、プロのハッカーを雇って犯人を見つけようとしたり、疑惑を周辺に向けることで、ますます孤立していってしまうのであります。


キャサリンの行きたい大学に進学するためには家を出るしかありません。しかし、母親のスーザンはキャサリンが地元で進学することを望んでいます。娘が家から離れてしまうことを阻止するために、母親のスーザンがインターネットの書き込みや投稿をしていたことが判明するのですが・・・母親の娘に対する異常な独占欲というものをキチンと描いていないので、モチベーションのネタばらしとしては説得力がありません。母親スーザンが犯人だと分かったキャサリンの元を訪ねてきた親友の女の友達に襲いかかる母親スーザン・・・こっからが修羅場と思ったら、気が抜けるほどあっさり警察がやってきて逮捕されてしまいます。もっとぶっ飛んだサイコな展開であったならば、もっとダリル・ハンナが往年のベティ・デイヴィスのような捨て身の怪演をしていたなら・・・「母親と娘の確執もの」として、ボクのような偏った嗜好のファンには受けたかもしれません。インパクトがあったのはDVDリリースの宣伝ポスターだけで、マニアックに面白がるようなギミックも一切なく「おキャンプ映画」にさえなりきれていない・・・本当に「どうでもいい映画」でありました。


ボトックス注射のやり過ぎなのか、ヒアルロン酸注入し過ぎなのか、アンチエージング整形手術を繰り返した女性にありがちな妙に腫れぼったい顔と唇(!)のダリル・ハンナの”お顔”のインパクトだけは「大」・・・それも30年前に「スプラッシュ」でデビューした頃と変わらないヘアスタイルとイメージのままというところが、”劣化”度合いをさらに強調させてしまっているのです。女性も年齢と共に髪の毛が細く薄くなってしまうのに、何故かロングヘアの女性はヘアスタイルを変えません・・・ボリューム感の乏しいロングヘアほど、老化を感じさせてしまうのに!ある意味、体型が崩れて、ただの中年おばさんになってしまった方が、若いときの美貌とあっさり決別できたりするのかもしれません。そこそこの体型維持してしまうと、若作りが痛々しい年齢になっているのにも関わらず、いつまでも全盛期のイメージにしがみついてしまうようで(ハリウッド女優に限ったことではありませんが)・・・ハリウッド男優は「頭が禿げてもセクシー」「デブになっても主役」「若い女優さんと恋愛映画」であることを考えると、性差による差別は年齢を重ねるに連れて増していくということなのかもしれません。


「マザー」
原題/Mother
放映時タイトル/Social Nightmare
2013年/アメリカ
監督 : マーク・クォッド
出演 : ダリル・ハンナ、クリスティン・プラウト、クロエ・ブリッジス、ブランドン・スミス
日本劇場未公開


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2013/12/18

”リアルワールド=現実”の歳月は残酷なもの・・・二匹目のドジョウ狙いの残念な続編!?~「キック・アス ジャスティス・フォーエバー」~



ある映画がヒットすると続編が製作されることはよくあること・・・ただ、多くの続編は第1作目を超えることなく、二匹目のドジョウ狙いの残念な続編ということになってしまうこともあります。3年前に公開された「キック・アス」は、スーパーヒーローに憧れるオタク少年が、試練を乗り越えて成長するという”王道”のストーリー展開でありながら、パートナーとして一緒に戦う11歳の少女”ヒットガール”がメチャクチャ強くて、悪者をバタバタぶっ倒すという斬新な一作でありました。ヒットガールを演じたクロエ・グレース・モレッツは、この作品で大ブレイクし、子役からティーン女優へと成長しました。

ここからネタバレを含みます。


「キック・アス」の続編となる「キック・アス ジャスティス・フォーエバー/Kick-Ass 2」は、原作コミック(ボクは未読ですが)では、第1作の直後の物語として描かれているらしいのですが、映画では、撮影期間のギャップと同じ4年後の物語となっています。クロエ・グレース・モレッツを始め、キックアス役のアーロン・テイラー=ジョンソンや、敵役を演じたクリストファー・ミンツ=ブラッセらの若い出演者たちにとって、この4年という歳月はある意味、残酷な時の流れでありまして・・・第1作目の大きな魅力であった”お子様”感を完全に失わせてしまうものだったのです。また、前作では過剰なまでのスプラッター描写が見物でしたが、アメリカでは非難も多かったようで、続編である本作では、かなり控え気味・・・そのため、単にキャラクター設定をなぞっただけの、凡庸なコミックヒーローものになってしまったように感じます。

デイヴ=キックアスは、前作で出会った恋人と同棲していたり、鍛えてマッチョになっていて、童貞のオタクキャラを脱皮して、確実に”オトナ”になっています。再びキックアスとなってコスプレのヒーロー集団に参加することなるのです。この「ジャスティス・フォーエヴァー」という集団でリーダー的な存在が、ジム・キャリー演じるカーネルというキャラクターで、明らかに前作のビッグダディの立ち位置を引き継いでいる役柄・・・そして、前作のビッグダディ同様に彼は惨殺されます。特殊メイクでを変形させている上に、マスクをしっぱなしなので、ジム・キャリーとはすぐに気付かないほどの怪演・・・ただ、この手の役柄を演じるには、ジム・キャリーが少々年取ったと思ってしまったのはボクだけでしょうか?さらに本作ではキックアス君の父親も殺されてしまうのですが、戦わなければならないモチベーションを上げるために、そこまで悲惨に追い込む必要ってあったのかは疑問に感じたところです。

本作では、前作の悪者のマフィアのボスの息子クリス=レッド・ミストが、ザ・マザーファッカー(悪そうなネーミングとしては小学生レベルな気がします)となり”悪者集団”を作って対抗してくるのですが、ヒーロー集団VS.悪者集団の戦いという”設定”ありきな展開・・・とは言っても、ザ・マザーファッカーというキャラの悪役としてのカリスマがなさ過ぎということもあるのでしょう。本作では髭面になって”ヒール役”っぷりをアピールしてみても、単に小汚くしか見えません。

ミンディ=ヒットガールは15歳になり、普通の高校生として女子らしい悩みも抱えるお年頃・・・派手でセクシーなイケイケの女の子グループにイジメられて、リベンジで大人っぽく大変身してみたりします。このあたりのエピソードは、アメリカのティーン向けのテレビドラマや映画で腐るほど描かれている展開・・・幼いときから人間兵器として訓練されてきたヒットガールも随分と俗っぽくなったもんです。勿論、かつてのパートナーであったキックアス君と再び組んで、ザ・マザーファッカー率いる悪の集団と戦ったり、マザーロシアという巨大な怪力ロシア女というライバルが登場するとかは、お約束の展開であります。


ヒットガールの魅力は11歳の子供(ガキ)が、大人たちをバタバタと倒していったこと・・・クロエ・グレース・モレッツが”子役”から成長するのは当然のことなのですが、ヒットガールというキャラクターの根本的な要素を、演じる役者の年齢に一致しなければいけなかったことは、続編として失敗作(?)となることを運命づけられていたのかもしれません。ただ、続編を製作するために、現在の映画製作のシステムでは数年経ってしまうのは当たり前・・・仕方ないことといってしまえば、そうなのですが。

前作では”マフィア”という”リアルワールド=現実”の悪者の存在が、ある意味、悪ふざけのようなコスプレヒーローという存在を際立たせていました。ヒットガールのコスプレにしても、カツラの安っぽかったり、マスクが大き過ぎて微妙にズレていたり・・・コスプレの完成度の低さの”お子様”感が、ボクにとってはまさに”ツボ”だったのでした。誰も彼もがコスプレであることが前提になってしまった本作では、コスプレのコミックヒーローものに対する皮肉も薄らいでしまったのです。

キックアスシリーズは、3部作で完結と原作者のマーク・ミラーが明言していて、すでに「キックアス3」となる映画の続々編の企画もあるらしいのですが・・・原作者がわざわざ「完結」と言い切るのには、どうやら登場人物がみんな死ぬという衝撃的なもの。コスプレのヒーローごっこの結末は必ずしもハッピーエンドではないということを表現しようということです。ただ、出演する役者たちは年々年を取ってしまうわけで・・・キックアスシリーズそのものが、まさに”リアルワールド=現実”の厳しい年月の流れに晒されていることは、確かなのかもしれません。


「キック・アス ジャスティス・フォーエバー」
原題/Kick-Ass 2
2013年/アメリカ、イギリス
監督&脚本: ジェフ・ワドロウ
出演   : クロエ・グレース・モレッツ、アーロン・テイラー=ジョンソン、クリストファー・ミンツ=ブラッセ、ジム・キャリー
2014年2月22日日本劇場公開



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2013/11/20

禊(みそぎ)なしでは”沢尻エリカ”には普通の娘役なんて許されない?・・・「ぴったんこカン☆カン」番宣出演で垣間見せた”嫌われ者の美女ゆえ”の自虐で「笑いもの」になることが完全復活への道なのかもしれない~TBSドラマ「時計屋の娘」~



「悪女について」から約1年半ぶりとなる沢尻エリカ主演のテレビドラマ「時計屋の娘」が放映されました。放映前の数日間は番宣のために、久しぶりにTBS系のバラエティ番組に出演もしていましたが、扱いは”特別枠”というわけでもなく・・・以前と比べて「エリカ様のテレビに出演」の”ありがたみ”は、随分となくなってしまった気がします。なんだかんだで高城剛と離婚をすることもなく・・・といって仲睦まじいという報道もなく、世間はエリカ様の私生活にも、だいぶ興味を失ったようにも思えるほどです。

映画「クローズド・ノート」の舞台挨拶での無愛想っぷりで叩かれた「別に」騒動は、すでに6年前(2007年)の話・・・しかし、そのことは世間は容易く忘れてはくれません。「パッチギ」「1リットルの涙」などに代表される清楚で純粋な役柄のイメージに関わらず、時々垣間みせる女王さま的なキャラと歯に衣着せぬ気の強そうな発言の数々で、徐々に世間にも”素”の沢尻エリカと役柄のイメージの落差を、世間が徐々に気付き始めたころ・・・「別に」騒動は、沢尻エリカの人としての評価を決定的にしてしまいました。沢尻エリカ程度に性格の悪い若手女優なんて他にもいるはずだけど、上手に”素”の悪さを隠して、表向きは”気さくで良い人”っぷりを演じてみせているだけ・・・”素”がバレてしまうほど、沢尻エリカは「正直」なだけだったのかもしれません。


芸術祭参加作品として制作された「時計屋の娘」は、いかにも”丁寧な作りのテレビドラマ”風であります。石巻で美容院を営んでいた母親を東日本大震災の津波で亡くした宮原リョウ(沢尻エリカ)が、ある日突然、埼玉のシャッター商店街の外れで時計屋を営む秋山守一(國村隼)の前に、ヴィンテージの”ロンジン”の腕時計を修理して欲しいと現れます。実は、その腕時計は若き日の秋山(中村勘九郎)の恋人であった国木知花子(中村文乃)にプレゼントしたものであったのです。実は、母親が保証人となって背負わされた500万円の借金の取り立て屋に追われているというリョウ・・・もしかすると、秋山は自分の父親ではないかと言い出すのであります。秋山はスイスへ時計修理の留学に行けるかもしれない・・・という下心から、上司の娘とデートをしたことをきっかけに、知花子と別れてしまっていたのですが、もしかすると、その時に知花子が妊娠していたとしたらリョウが自分の娘かもしれないのです。そうでないとしても、リョウは秋山が愛した女性の娘であることは確かであります。回想シーンとなる25年前というのは平成元年(1988年)・・・”職人気質”というのが尊重された「昭和」というよりも、バブル経済へ突入していくイケイケな時代だったわけで、当時を知る世代にとっては、本作の”古き良き時代的演出”の違和感は拭えませんでした。

”親子”かもしれない職人気質の気難しい男性と彼の娘と名乗る若い女性との”奇妙な共同生活”というのは、どこかにありそうな設定の物語です。國村隼は、そんな典型的なキャラクターを淡々と演じていますが、沢尻エリカは、「別に」騒動以前のイメージに戻るような”清楚な娘役”といったところで、それなりの気迫を感じさせます。映画「へルタースケルター」とは違って熱量はかなり少ないとしても、役柄のキャラクターが乗り移ったように演じるのが沢尻エリカならでは・・・素顔に近い薄いメイクや、垢抜けない衣装のおかげではなく、騒動の時の憎々しげな表情を見せていた人物とは、まるで別人にしか見えません。町内に住む若者の花村司を桐谷健太が演じているのですが、テレビドラマでよくあるパターンの絡み方・・・ただ、秋山と知花子の思い出のケヤキの木を守る運動を始めたり、秋山とリョウが本当に親子がどうかをDNA検査を奨めたりと、物語は花村が介入することで展開していくことにはなります。しかし、リョウにキャバクラのバイトを紹介するための”フリ”だけのためだけに、午前中は”植木屋”として働き、昼間は”ホスト”をしているという設定は、必要だったのでしょうか?

ここからネタバレを含みます。


秋山は、キャバクラでバイトしないように説教したり、追ってきた取り立て屋に直談判したりと、リョウに対して父親のような気持ちを感じ始めるようになっていきます。また、リョウも心を許して身の上話をするようになるのですが・・・彼女の身の上話によると、随分といい加減な女だってことも分かってくるのです。確かに500万円の借金というのは、結構な金額ではありますが・・・沢尻エリカほどの美人だったらキャバクラで働けば、なんとか返せそうな金額ではあります。なんだかんだと言い訳をして、どんな仕事も長く続けられない若い女が、自分の父親かもしれない男に頼っているだけじゃないか・・・と、ボクは感じてしまいました。

ただ、秋山もリョウの借金を自ら背負うほど浅はかではないようで・・・彼女の母親の形見であるロンジンの腕時計を、ヴィンテージの腕時計のコレクター(小林稔侍)に売って、借金を返そうと提案します。案の定、コレクターはロンジンの腕時計を借金とピッタリ同じ500万円で買い取ると言い出してくれるのですが、その腕時計をプレゼントされる若い愛人が、腕時計のデザインが古臭いなどと文句タラタラ・・・ベルトを交換することで商談は成立するのですが、母親の形見の腕時計に散々ケチをつけられたリョウは「あの人には売りたくない!」と言い始めます。しかし、すぐに500万円を用意出来なければ、再び取り立て屋が秋山の店にやってきてしまう・・・リョウは夜逃げすることにするのです。

夜逃げするという状況の中、唐突にDNA検査の結果が判明します。これほどの個人情報が依頼主であるリョウ本人でなく、仲介者(?)であろう花村に伝えられるというのはありえない事のはずなのですが・・・何故か本作では、検査結果は花村から秋山にだけ伝えられます。ここで、秋山とリョウは親子ではなかったということがハッキリします。しかし、秋山はあえて、その事実をリョウにはすぐ伝えずに、リョウの故郷への戻る”夜逃げ”に付き合うのです。借金を返して、また秋山の暮らす街にリョウが戻ってきた時に、DNA検査の結果は伝えれば良い事だとして・・・。さらに辻褄が合わないのは・・・夜逃げの道中、木に興味があるからという安易な理由で、リョウは花村に植木屋の仕事を教えて欲しいと唐突に言い出すことです。これから謝金の取り立て屋たちから身を隠さなければならないというのに、どうやって仕事を覚えていくのでしょうか?

リョウ、秋山、花村の三人は、津波に流されたリョウの母親の美容室があった石巻を訪れます。震災後2年半以上経っても建物のない風景を見せられると、反射的に心が痛みますが・・・感動を生むために津波の被害を利用しているかのようでもあり、リョウの母親が津波で亡くなったという設定にする必然性はあったのだろうかと感じてしまいました。別に死別の理由が病気でも事故でも物語としては成立するのですから。石巻にも秋山の街にあったようなケヤキの大木があり、その木の下でリョウは秋山に時計屋を続けて欲しいと伝えます。「一日に一人、一週間に一人のためのお客さんのために」という台詞の一字一句は、観ていて予測のつくほど使い古されたドラマの言い回しであります。

本作は、この夜逃げから2年後、まだ時計屋を続けている秋山の目の前に、借金を返しきったらしいリョウが現れるところで終わります。その後の2年間の経緯を省いて、ただ再会する二人を姿を見せるだけという・・・観てくれた視聴者に解釈は委ねるという陳腐なエンディングです。DNA検査を依頼しておきながら、その結果も知らずに2年間リョウが過ごしてきたということなのでしょうか?父親だと思って秋山の元に戻ってきたと思われるリョウに、実は親子ではないことを伝えるのでしょうか?清々しいエンディングというよりも、なんとも不穏な気分にさせられました。秋山とリョウの人生が再び動き出すところを修理して動き出す母親の形見の時計に重ねたり、25年前の思い出と彼らを見守るようなケヤキの大木が繰り返し出てくる場面など・・・芸術祭参加作品らしいテレビドラマの作りを感じさせますが、逆に古臭さを感じさせてしまうのは否めませんでした。


1年半前のTBSドラマ「悪女について」でも、本来は富小路公子が主人公のはずだったのですが、船越英一郎が物語の主人公になっていました。今回も「時計屋の娘」は沢尻エリカ主演作として宣伝されてはいますが・・・実は、國村隼演じる秋山が本作の主人公です。物語を語る視点ではない役どころというのが、沢尻エリカ本人のイメージと役柄のイメージを分離させたいという作り手側の思惑なのかもしれません。ただ「別に」騒動以降の”素”のイメージの悪さを完全に払拭することは、沢尻エリカに好意的なボクでさえ難しく・・・女優としての評価はさておき、安定感のある”嫌われオーラ”は、そう簡単には消えないようです。

週刊誌やワイドショーに叩かれるだけでなく、本来であれば最も女優として輝ける20代という時期を、半ば”干された”ような状態で過ごさなければいけないということは「勿体ない!」のひと言に尽きます。女優として仕事をしないというのは、十分すぎる制裁であるとは思うのですが・・・「へルタースケルター」で”素”の悪いイメージを誇張したよう”りりこ”を演じても、「悪女について」で美貌の”富小路公子”を演じても、「時計屋の娘」で質素で”普通の娘”を演じても、沢尻エリカ本人のイメージは、そう簡単には変わらないようです。

キレイな女優さんというのはいるけれど、その中でもダントツの美しさの沢尻エリカは、日常生活に於いて一般人と全く同じように他人から扱われることというのはないと思います。外見によって態度を変えることは正しいとは思いませんが・・・”ブス”が一般的な女性とは違う扱いを受けるように、”美女”というのも違う扱いを受けます。一般人からすると良い事しか思いつきませんが、決して良い事ばかりではありません。例えば、美女が本人の努力で何かを成し遂げても、男性の力が関与したと思われがちですし、女性から嫉妬されたり理由なく嫌われることも多々あります。男性からは、内面性よりも外見で”しか”評価されないことも日常的です。美女にとってご機嫌を伺われることは日常茶飯事のこと・・・ブスが敬遠されて不機嫌になるのと同じように、美女は美しさ故に特別扱いされることに対して不機嫌になるのです。そういう特別扱いに不機嫌になる美女というのは、人を外見で判断する世間に苛立っているということに他なりません。そう考えると・・・沢尻エリカの仏頂面というのは、彼女が「外見で人を判断する」風潮に対抗している”まっとうな人”であるという証(あかし)なのかもしれないと思えてもくるのです。

本人的には「世の中の人にどう思われよとも関係ないので、女優として仕事を見事にこなして見返してやる!」という心境なのかもしれません。しかし、こういう”しおらしさ”のない開き直りが、逆効果で嫌われてしまうというのも、イカニモ”沢尻エリカ”らしい悪循環なのであります。ただ、世間の声を気にして、猫をかぶってみたところで、さらなる非難を受けることは明らか・・・結局、本性がバレてしまったからには、本人からの弁明の余地というのはないのかもしれません。

世の中が沢尻エリカの完全復活を許すためには、ある種の禊(みそぎ)が必要なのではないでしょうか?しかし、本業である”女優”という仕事の範疇では、どれほど蔑まされても、汚れ役をやろうとも、結果的に女優としては”おいしい”わけで・・・禊にはなりません。といって「いい子ちゃん」を見事に演じきったとことで、好感度が上がるわけでもなく、逆に「さすが女優、騙すのが上手い」とかしか思われないのですから。極論を言わせてもらえば・・・沢尻エリカが、女優としての”プライド”を捨てた姿を見るまでは、世間が完全復帰を許すことはないのかもしれません。

禊のひとつ方法は、バラエティ番組などで”素”の沢尻エリカが「笑いもの」になるということ・・・ただ「実は、天然」とか「結構、親父っぽい」とか、そんな女性タレントにありがちの笑われ方では、逆効果になるでしょう。番宣で生出演した「王様のブランチ」で、撮影中に四葉のクローバーを探して喜んでいる様子をアピールしたところで「かわいい~」と反応してくれるのは、収録スタジオでだけ・・・演出や共演者の気遣いを感じさせてしまいます。また、「A-Studio」での、鶴瓶の「意外に親父やな?」というツッコミも、想定内のイジり方で白々しくしか感じられません。「笑いもの」になるということは、本人的には”不本意”に笑われなければならないのです。


11月15日(金曜日)放映の「ぴったんこカン☆カン」は、沢尻エリカを安住紳一郎アナが、都内周辺のお店や施設を巡って”おもてなし”をするいう企画でした。数年前、ワイドショーで騒がれていた時期ならば2時間スペシャルにでもなりそうですが、今回は前半の3分の1は吉行和子と冨士真奈美の成田山の旅という2本立て・・・”番宣”の出演とはいっても”ありがたみ”のなさを感じさせる扱いでありました。扱いにくそうなゲストを上手に立てつつ、意地の悪いツッコミで転がしてしまう安住紳一郎アナは、エリカ様が他の番組の番宣では見せることのない女王様キャラの奥底にある”素直さ”や”痛々しさ”を引き出しつつ・・・絶妙に「笑いもの」にしていきます。


「機嫌悪いですか?」と下手に出るように見せかけて、表情の硬いエリカ様をイジることからスタート。最初の訪問先の中華街では、腕を組むエリカ様に対して「腕組むから機嫌悪そうに見えるんですよ~」と安住アナが指摘すると、意外にも素直に、腕組まないように努力をするエリカ様・・・しかし、手の置き場に困ってコートの襟を両手でガッシリと掴むという奇妙なポーズに、すかざす安住アナはツッコミ、「ヒーヒー」とヒステリックに笑うのです。負けず嫌いなエリカ様を弄ぶように、安住アナが意地悪くイジり、エリカ様が自虐的なカエシを繰り返す・・・最初よそよそしさを感じさせたエリカ様も、次第にタメ口調で安住アナに反論するようになります。表情からも次第に緊張感が薄れてくるのが、番組が進むうちに感じられました、「自然体でいる」と開き直りながらも・・・時折、エリカ様の瞳に見え隠れする「どうせ私は嫌われ者だから」という”あきらめ”のような痛々しさに、ボクは淡い「同情」を感じると同時に、少々サディスティックな「満足感」も味わったのでした。


番組の最後、「別に」の一言を生でぜひ聞きせてくれ・・・という安住アナの”無茶ぶり”には、さすがにエリカ様も応じませんでしたが、騒動から6年以上も経った今、エリカ様が完全復活するために必要なのは、謝罪や弁明でも、優しいフォローでもなく、自虐的に開き直ってみせるエリカ様を、安住アナのように意地悪~く「笑いもの」にする空気なのかもしれないと思うのです。

「時計屋の娘」
2013年11月18日TBSテレビ系放映
出演 : 沢尻エリカ、國村隼、桐谷健太、中村勘九郎、木村文乃、小林稔侍


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2013/11/01

ニコラス・ウィンディング・レフンとライアン・ゴスリングのタッグ再び!・・・"変態兄弟"と"鬼母"と"カラオケ警部"のバイオレント・アートフィルム~「オンリー・ゴット/Only God Forgives」~



今年のカンヌ映画祭で上映された際、大ブーイングで不評だったと聞いていたニコラス・ウィンディング・レフン監督の最新作品「オンリー・ゴッド/Only God Forgives・・・前作「ドライヴ」のような”暴力のカタルシス”を求めてしまうと期待はずれかもしれません。本作はイチゲンさんお断り”のレフン好みの映画的ディテールやスタイルを詰め込んでいるのですから。

「ドライヴ」と同じく濃い色(赤と青)の照明、現代音楽によるアンビアントな雰囲気は、引き継いでいます。また、デヴィット・リンチ監督の「ブルーベルベット」を思い起こさせる異常な性癖、デヴィット・フィンチャー監督の「ファイトクラブ」に似たアンダーグランドの世界、スタンリー・キューブリック監督の「シャイニング」よりもスローに蠢くカメラ・・・など、レフン監督作品に共通している、好きな映画監督のスタイルのサンプリングも継承されています。なお、本作はカルト映画監督として今「旬」な”アレハンドロ・ホドロフスキー監督に捧ぐ”となっています。

「ドライヴ」と本作の大きな違いは、観客が同化できるヒーロー的キャラクターが不在なこと・・・現実と妄想の入り交じった映像で語られる物語は非常にシンプルなのですが、物語を引っ張っていくサスペンス要素も、登場人物たちの内面的な蓄積によるカタルシスも希薄なのです。それ故に本作は、レフン調の映像を楽しめないと、厳しい見方になってしまうのかもしれません。


ジュリアン(ライアン・ゴスリング)と兄のビリー(トム・パーク)と共に、バンコクで表向きはムエタイのジムを経営しながら、裏では麻薬ビジネスを運営しています。ビリーは”サド”で”ペドフェリア”というド変態で・・・ある夜、タイ人少女をレイプして殺害してしまいます。バンコクを仕切るチャン警部(ウィタヤー・バーンシーガーム)は、犯行現場に殺された少女の父親を連れてきて、父親にビリーを殺させてしまうのです。その後、自分の娘に売春させた父親の罪を罰するために、父親の片手を切り落すのです。タイトルの「Only God Forgives=神のみ許し給う」の「God=神」はチャンということなのであります。

ジュリアンは、ガールフレンドのマイ(ウィーラワン・ボンガーム)に両手を椅子に縛らせて、目の前でオナニーショーをさせるという”性的不能”で”マゾ”・・・寡黙なくせにキレると暴力的になるという相当イッチャてる奴のですが”マザコン”でもあります。ジュリアンとビリーの母親(クリスティン・スコット・トーマス)が、ビリーの遺体を引き取りにバンコクへやってくるのですが、この母親は、さらにイッチャている”鬼母”です。ひと昔前なら、アンジェリカ・ヒューストンがキャスティングされそうな役柄で、柔和なイメージのあるクリスティン・スコット・トーマスはなかなか怪演であります。

本国で犯罪組織を牛耳っているらしい母親は、兄の仇を討たないジュリアンをなじります。「ビリーだったら、即座にアンタの仇を殺してるわ!」とか、「兄弟ってくだらないことで争うものよねぇ・・・でも、ビリーのおちんちんの方が、ずっとデカっかたわ~」とか、母親としておかしいのです。それでも、ジュリアンのガールフレンドが「あなたのお母さん、おかしいわよ!」と悪口を言うものなら、烈火の如く怒るジュリアンは救いようのないマザコンなのであります。どうやら(ボクの推測も入ってます)この母親はビリーともジュリアンとも、性的な関係があったのではないでしょうか・・・そして、ジュリアンが犯罪組織の乗っ取りを狙う母親にそそのかされて父親を殺して、その罪から逃れるためにバンコクに逃げているということのようなのです。


母親は自分の手下によりビリーを殺した父親を殺害させるのですが、ビリー殺害の背後にチャン警部の存在を知ることになります。チャン警部も、自分に近づく影に近づいており・・・ジュリアンの存在を聞き取り調査していくなかで知っていきます。暴力描写は過激さを増していき、拷問、殺害による情報戦となっていくのですが・・・チャン警部は、残忍な立ち回りの後、必ずカラオケバーでタイで量産されているであろうポップソングを歌うのであります。これが「神」のように振る舞う彼の浄化行動なのでしょうか?

チャン警部は自分を襲ってきた殺し屋を捕らえて、雇い主である母親の手下を見つけ出します。その彼を拷問して、遂にジュリアンと母親の存在まで辿り着いてしまいます。チャン警部と遭遇したジュリアンは素手での喧嘩の決闘を申し込んで、自分の経営するジムで戦うことになるのですが・・・チャン警部が圧倒的に強く、ジュリアンは顔が腫れ上がるほどボコボコにされてしまいます。母親はジュリアンとタイ人の手下に、チャン警部の若い妻と娘を含んだ皆殺しを命令するのですが、時を同じにしてチャン警部は母親の滞在するホテルに乗り込んできます。そして、チャン警部は母親の喉をあっさり突き刺し殺害してしまいます。

ここからネタバレを含みます。


チャン警部の自宅に侵入したタイ人の殺し屋は、帰宅したチャン警部の若い妻を射殺するのですが、ジュリアンは娘を殺すことができません。結局、娘に銃口を向けるタイ人の殺し屋を、ジュリアンは殺害して、娘を救ってしまいます。指示された復讐さえも「不能」なジュリアンは複雑な思いで母親の待つホテルに帰宅するのですが、そこには血だらけのまま放置されていた母親の死体が残されています。母親の腹に手を滑らしていくジュリアン・・・彼のマザコンの原点は、自分が生まれた母親の子宮に戻るといくことだったのでしょうか?

ジュリアンは本作の中で、何度となく自分の両手を前に掲げるというポーズをとるシーンがあるのですが、ジュリアンは犯罪者(まずは父親を殺した殺人者)としての罪の懺悔することを望んでいたようなのです。その後、ジュリアンはチャン警部により、両手を切り落とされる幻想を見るのです。そして、チャン警部は再びカラオケバーの舞台に立ち、歌って本作は終わります。

復讐の連鎖による暴力と、幻想と現実の入り交じっ心象描写によって、ジュリアンの懺悔への過程を描いているのですが・・・ストーリーはあってないようなもの。レフン監督の世界観とビジュアルを楽しむアートフィルムなのであります。


「オンリー・ゴット」
原題/Only God Forgives
2013年/アメリカ、デンマーク
監督 : ニコラス・ウィンディング・レフン
脚本 : ニコラス・ウィンディング・レフン
出演 : ライアン・ゴスリング、クリスティン・スコット・トーマス、ウィタヤー・バーンシーガーム、トム・パーク、ウィーラワン・ボンガーム、ゴードン・ブラウン、ピタヤ・バンスリンガム
2014年1月25日より日本劇場公開


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