2017/05/31

ジョーン・クロフォード主演の初のテクニカラーは”おキャンプ映画”の怪作?・・・主人公のキャラクターが痛々しく本人とシンクロするの!~「トーチ・ソング(原題)/Touch Song」~


ひと昔の”映画スター”というのは、役柄を演じるよりも、その映画スターのカリスマ的なイメージを演じているところがありました。そのため、どの作品を観ても似たような役柄(強いヒーローや純粋なヒロインなど)を演じることになったわけですが、それこそが”映画スター”らしさでもあったのです。勿論、演技派と呼ばれる役柄を演じることに長けたスター役者という存在もいなかったわけでわけでありませんが・・・。ジョーン・クロフォードは、そんな”映画スター”全盛の時代に、何度も何度もイメージの再生を繰り返すことで”映画スター”として君臨し続けたのです。

1950年代のジョーン・クロフォード作品は一般的には”駄作”ばかりといわれるのですが、ボクのとっては”腐りかけの円熟期”として、最も充実(?)した時代に思えます。その中でも一番の”怪作”(?)といわれるのが、本作「トーチ・ソング(原題)/Torch Song」です。


主人公のジェーン・スチュワートには、ジョーン・クロフォード本人が役柄のキャラクターに強く投影されています。まず、ジェーン・クロフォードはハリウッドのスターですが、ジェニー・スチュワートはブロードウェイのミュージカルスター・・・ワンマンショーがブロードウェイで公演されている人気のエンターテイナーという設定なのです。

ジェーン・クロフォード自身、フラッパー女優として最初人気となったこともあり、ミュージカルスター役というのは、ジェーン・クロフォードにとっては”原点”なのかもしれません。ただ、歌って踊っていたのは20数年前のこと・・・それに、フラッパーダンスというのは、やたらと手足をばたつかせている”だけ”だったりするので、そもそもダンサーとしての実力は「イカホド?」なのです。本作では、ダンスパートナーとバックダンサーによって、全体的なダンスの見栄えが良くなっているという印象ではあります。

1930年代のレビュー映画では、ジョーン・クロフォード自身が歌っていましたが・・・それは”映画スター”が歌うということで、集客力が見込めた時代の話。本作のためにジョーン・クロフォードのレコーディングテストは行なわれたようなのですが、結果的には満足できるレベルではないと判断されたようです。本編ではインディア・アダムスという歌手が全てのミュージカルナンバーを歌っていて、ジョーン・クロフォードは口パクをしていています。


主演のスターが歌わないミュージカル映画を「なんで、わざわざ?」とも思ってしまうのですが・・・当時、それほど珍しかったわけではありません。ただ、本作のミュージカルナンバーは、そもそもは他の作品のために、インディア・アダムスが歌っていながらも、本編ではカットされて”お蔵入り”していたなど、本作のために作られたナンバーはなく使い回しばかり・・・正直、寄せ集めの即席感は拭えません。

前年インディーズ系で製作された「突然の恐怖」でカムバックを果たしたジョーン・クロフォードは、本作でミョージカルという新境地を開拓するつもりだったとも言われていますが・・・古巣でもある”MGM”に解雇されて以来の復帰、そして自身の初のテクニカラー作品ということで、ジョーン・クロフォードの気合が入っていたことは想像できます。

”MGM”側も、かつてのスタジオを支えた往年のスターの一人ですから・・・主演女優用の楽屋3人分を改築して、最大級の”おもてなし”でジョーン・クロフォードを向かい入れています。しかし、本作は見るからにして低予算だし、脇を固める出演者達もA級スターはいません。テクニカラー作品ではあるものの、MGMのようなメジャースタジオの作品としては明らかにB級扱い・・・ある意味、本作はジョーン・クロフォードの”スター・パワー”に依存しているジョーン・クロフォードによるジョーン・クロフォードのためのジョーン・クロフォード映画なのです。

主人公のジェニー・スチュワートのキャラクターは設定だけでなく、キャラクターもジョーン・クロフォードをモデルにしているとしか思えないほど”シンクロ”しています。「ファンのためには努力を惜しまず」「すべてのことをチェックして自分流にしようとし」「ダメなモノは容赦なくき罵倒して切り捨てる」は、ジョーン・クロフォードをディフォルメしたような人間像・・・もはや”強い女性”というよりも”ドラァッグ・クィーン”そのもので、台詞の数々はドラァッグ・クィーンの決め台詞になるほどです。



「Evening with Jenny/イブニング・ウィズ・ジェニー」というブロードウェイ・レビューショーの公演を控えて・・・「You're All the World to Me」(「ロイヤル・ウエディング」で有名なナンバーの流用)のリハーサルに余念のないジェニー・スチュワード(ジョーン・クロフォード)は、ダンスパートナーのアレックス(チャールス・ウォルターズ/本作の監督でもある)が、ジェニーの足につまずいて何度も転ぶことに苛立ち、激しく叱咤します。振り付け師が「少しだけ足を引っ込めたら・・・」と提案すると、

「And, spoil that line?/で、この(美しい足の)ラインをなくせって?」

と反論します。ジェニーが舞台監督よりも振り付け師よりも誰よりも現場では力を持っていて、周辺を威圧する姿は、語り継がれているジョーン・クロフォーの姿そのものです。


ファンとして痛切に胸が痛むのは・・・ジェニーがアシスタント(メイディー・ノーマン)相手に台本読みをした後、ひとりベットに寝そべってつぶやく「I'm NOT afraid of being alone. I've NEVER been lonely.(一人なんて怖くない。決して淋しくない」という(グレタ・ガルボが言いそうな)台詞・・・次第に感極まってジェニーは泣き始めてしまいます。ジェーン・クロフォード本人が、自宅のベットで一人で泣いていたかは知る由はありませんが・・・もしかすると、こんな夜もあったのかもしれないと思えてしまうシーンです。


ジェニーには、若いツバメ(?)らしきクリフ(ギグ・ヤング)というボーイフレンドが常に側いるのですが、二人の関係は上手くいっているような感じではなくて、なんでジェニーが彼と付き合っているのか分かりません。このギグ・ヤングという男優は、1940年代から70年代まで脇役(ちょい役?)で活躍された方なのですが、どこかしら「枯葉」(1956年)で共演したクリフ・ロバートソンに似ていて・・・これって、ジョーン・クロフォードの好みのタイプなのかしら?と思ってしまうほど。当然のことながら、物語が進むにつれて、いつの間にかクリフの存在は消えてしまうのは言うまでもありません。

ジャニーの横暴っぷりに愛想を尽かして、リハーサルのピアニストが辞めてしまったために、新しく雇われたのが目が見えないタイ・グラハム(マイケル・ワイルディング)というピアニストであります。当初は、楽譜を見ることができないなんてと、タイ・グラハムを解雇しようとするジェニー・・・しかし、周りのスタッフや人間はジェニーの”いいなり”なのですが、このタイ・グラハムはジェニーの辛辣な態度に辛口で反論しながらも、優しく受け止めるくれるのです。次第にジェニーはタイ・グラハムを意識するようになります。

「目が見えないってどういうことなのかしら?」と考えたジェニーが、時計の針を手で触って時間を確かめようとしてみたり、手探りでライターで煙草に火をつけようとして火傷しそうになったり・・・というのは、なんとも天然っぽい(?)一面でもあります。また、タイ・グラハムと音楽仲間が演奏パーティーを楽しんでいる自宅へ、いきなり訪問するという空気の読めなさも、人との付き合い方が不器用な人なのね・・・と愛らしく思えたりもします。


音楽仲間でもある美人のマーサ(ドロシー・パトリック)は、タイ・グラハムを深く愛していて、ことあるごとに積極的に彼に迫っているのですが・・・タイ・グラハムは彼女のアプローチを頑に拒否します。さまざまな言葉でマーサの美貌を説明されても、見たことはないから分からないと言い張って、決してマーサを受け入れないのです。しかし、何故か、ジェニーの美しさにはついては、彼は確信を持っているようなのであります。

実は、第二次世界大戦で視力を失ってしまう前、タイ・グラハムはブロードウェイの評論家で、デビューしたばかりで無名のジェニーの美しさと才能を、いち早く認めていたのです。彼の深い愛情を確信したジェニーはタイ・グラハムの自宅に忍び込み、マーサを追い出してしまいます。ジェニーが何をマーサに伝えたのかは描かれませんが・・・マーサを絶望させるような厳しい言葉であったのでしょう。


目が不自由になったことでジェニーの愛を勝ち取ることは出来ないと諦めて、逆にジェニーに対して厳しく接することしか出来なかったタイ・グラハムの心を、ジェニーは問い詰めることで無理矢理に開きます。そうして、やっと素直にお互いを必要としていることを認められるようになったジェニーとタイ・グラハムは、しっかりと抱き合い、キスをして、映画は終わるのです。

ブロードウェイのスターであるジェニーが、彼女の姿を見ることができない目の不自由なピアニストと結ばれる・・・というのは、何とも痛々しい”オチ”に感じてしまいます。役柄のジェニー・スチュワートも、演じるジョーン・クロフォードも、40代後半となって、多少の美貌の陰りが見え始めた頃。もう二度と自分を見ることのできない男は、若くて美しかった過去の自分の姿を脳裏に焼き付けているわけで・・・その姿は、永遠に年を取ることはないのです。過去の美に執着する女にとって、これほど都合のいい男はいないわけで、この二人が結ばれることはハッピーエンドではあるのですが・・・あまりにも切な過ぎます。


本作を「おキャンプ映画」の中でも、一番の怪作と言われる由縁は、本編の終盤で演じられる「Two-Faced Woman」というミュージカルナンバーがあるからです。このナンバーは、元々は「バンド・ワゴン」というミュージカルのために作られたもの・・・ただ「トーチ・ソング」では、ジェニー(とバックダンサーたちも)が黒塗りで黒人に扮するという”トンデモナイ”アレンジがされているのです。南部では白人と黒人の隔離政策が続いていて、黒人の人権運動が始める前ではありますが、本作が製作された1953年当時であっても、白人の俳優が顔を黒く塗って黒人を演じるというのは、かなり前時代的なこと・・・それもジョーン・クロフォードという大御所が、真面目に(?)やっているのですから、違和感が半端ありません。


公開当時、すでにズレまくりだった本作は、批評家から酷評され、興行的にも失敗・・・ジョーン・クロフォードは、二度と”MGM”で映画を撮ることななく、当然のことながら、ミュージカル映画の出演も本作っきりとなったのです。しかし、年月が経つにつれて、ジョーン・クロフォードと主人公のキャラクターが痛々しくシンクロする皮肉な本作が、「おキャンプ映画」として熱烈に支持される作品となったことは、ジョーン・クロフォードの表も裏も、美も醜も、ファンが愛してやまないことの証なのかもしれません。


「トーチ・ソング(原題)」
原題/Touch Song
1953年/アメリカ
監督 : チャールス・ウォルターズ
出演 : ジョーン・クロフォード、マイケル・ワイルディング、マージョリー・ランボー、メイディー・ノーマン、チャールス・ウォルターズ、ギグ・ヤング、ハリー・モーガン、ドロシー・パトリック
日本劇場未公開

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2017/04/15

「イン・ベット・ウィズ・マドンナ/Truth or Dare」から25年目の真実(Truth)・・・ブロンド・アンビション・ツアー(Blond Anbition Tour)のバックダンサーたちの、その後を追ったドキュメンタリー映画~「ポーズ~マドンナのバックダンサーたち~/Strike the Pose」~


1990年、マドンナの世界的な人気のピークの時期に行なわれた「ブロンド・アンビション・ツアー/Blond Anbition Tour」は、セックスとカトリックをテーマとして宗教的な論争を巻き起こし、興行的な大成功を収めます。当時ファッション界で席巻していたジャン=ポール・ゴルチエによる衣装、表現主義映画「メトロポリス」にインスパイアされた近未来的な舞台セットなど、ビジュアル的に圧倒的な完成度であっただけではありません。

ブロンド・アンビション・ツアーが行なわれた時、ボクはニューヨーク在住だったのですが・・・当時、コンサートチケットを購入するためには、チケットブ売り場に徹夜で並ぶか、ひたすら電話をかけまくるしかありませんでした。どうしても行きたいならば、高額に釣り上げられたダフ屋から買うしかないのです。当然ながらブロンド・アンビション・ツアーは即完売・・・マジソンスクェアガーデンでの公演は、非常に高騰していました。

そんな中、マドンナファンだった友人から、チケットが手に入ったので一緒に行こうという誘いがあったのです。ステージから5列目の”かぶりつき”の超プレミアシートにも関わらず、その友人はボクには正規のチケット価格(40~50ドル?)しか請求しなかったので(当時、経済的には貧しかったボクには)有り難かったことを覚えています。数年後、その友人から、実際にはダフ屋から1枚500ドル(1990年頃1ドル=150円程度だったので約75000円!)で手に入れたと聞かされて、驚いたと同時に申し訳なく思ったものでした。


ブロンド・アンビション・ツアーでは、カソリック教会のような宗教イメージと「ライク・ア・ヴァージン」での自慰行為的なダンスが強い批判を浴びましたが、流行りという観点では「ヴォーグ/Vouge」で世界的に知られることになった”ヴォーギング”(Vouging)と呼ばれたダンスの人気が最も頂点に達していた時期でもあります。

”ヴォーギング”は、1980年代後半にはニューヨークのクラブシーンではみかけられましたが・・・そもそもはハーレムやイーストハーレムにいたラテン系やアフリカ系の貧しいゲイの若者たちが、殴り合いの喧嘩の変わりに”威嚇”し合ったのが始まりです。ヴォーグ誌のモデルのように、リッチでグラマラスなライフスタイルを表現するジャスチャーがダンスへと発展していったもので・・・ドキュメンタリー映画「パリ、夜は眠らない。」で詳しく描かれています。


翌1991年に公開された「イン・ベット・ウィズ・マドンナ/Truth or Dare」は「ブロンド・アンビション・ツアー/Blond Anbition Tour」に密着したドキュメンタリー映画で、当初の企画だったツアーの記録フィルムという枠を超えて、アメリカ全土(特に都市部以外の地方)に大きなインパクトを与えたのです。

当時は、エイズ蔓延による同性愛者への差別が激しくなり、政府へのエイズ対策批判運動が高まっていた時代でした。マドンナはゲイコミュニティーだけでなくセーフセックスの啓蒙運動や、性的嗜好による差別をなくそうという訴えは、エンターテイナーの域を超えて政治的オピニオンリーダーとしても影響力を発揮したのです。「イン・ベット・ウィズ・マドンナ」で露呈したマドンナの素(?)には、保守的な人種は眉をひそめてたものですが、マドンナファンにとっては期待どおりの破天荒っぷり・・・当時、人気絶頂のハリウッドスターだったケビン・コスナーや、付き合っていると報道されていたウォーレン・ベイティへの歯に衣着せぬ態度は小気味良いものだったのであります。


ただ、マドンナ以上に注目されたのは、ツアーメンバーとして参加していたバックダンサーたちだったかもしれません。男性バックダンサー7人中、6人がゲイというのは、業界的(都市部のゲイにも、ダンス業界にも)には”定説”だと思いますが、アメリカ全土にいる普通のティーンエイジャーにとっては驚愕の事実であったようで、映画公開直後から彼らは連日のようにテレビ番組で取り上げらるようになっていきます。

その結果・・・バックダンサー数名は、映画公開後にマドンナを訴えると表明します。彼らの言い分としては、バックダンサーとして雇われた自分たちはプライバシーを売りモノにするつもりはなかったということであったり、ゲイであることを全世界に公開されたドキュメンタリー映画で強制的にカミングアウトさせられたということでもあったのです。ゲイへの偏見や差別に対して一石を投じた作品だけあって、この裁判沙汰(のちに調停で解決)は水を差したような印象もありました。その後、マドンナも徐々にゲイ・コミュニティーからの距離をとっていった印象もあり、表現の切り口を、より”エロス”の追求へ舵をきっていくキッカケになったのかもしれません。

あれから25年、ブロンド・アンビション・ツアー当時20代だったマドンナのバックダンサーたちは40代・・・その後の彼らを追ったドキュメンタリー映画「ポーズ~マドンナのバックダンサーたち~/Strike the Pose」が、ベルギーとオランダ資本(本作はアメリカ映画ではありません)で製作されます。トライベッカ映画祭やイベントで上映されたものの、アメリカ国内の劇場公開も限定的で、DVDのリリースはオランダ版ののみ・・・本作についてネットニュースで読んだ際、25年前の記憶が甦ってきたと同時に、どう考えても本作は”切ない”内容であろうことは容易く想像できたのです。

ここからネタバレを含みます。


”ヴォーギング”の中心ダンサーであったルイス・カマチョとホセ・エクスタラヴァガンザの足跡から、まず本作は追っていきます。40代半ばとなったルイスは、中年太りしていて当時の面影はありません。またホセは、体系的には変わらないものの痩せているだけ老けっぷりも激しく・・・25年という年月の残酷さをまじまじと感じさせられます。

彼ら二人ともドラッグの問題があったようで、ツアー後はバックダンサーとしての活躍は殆どありません。ただ、それでも彼らは自らの可能性を求めて、小さなダンスクラスで教えたり、ドラッグクィーンのダンスパフォーマーのひとりとして、再び活動を始めているのです。その彼らを支えるのは、やはりマドンナのバックダンサーであったというプライドなのかもしれません。


「イン・ベット・ウィズ・マドンナ」公開後にマドンナを訴えた3人のバックダンサーのうちのふたり・・・ケヴィン・アレキサンダー・シア(アジア系)とオリバー・クルムス(唯一のストレート)が、本作に出演したことは驚きでありました。当然(?)ながら、その後マドンナとは連絡を取っていないそうですが、ゲヴィンはバックダンサーとしてブロンド・アンビション・ツアー以後も活躍(レディ・ガガのツアーなど)しています。

バックダンサーの中で最も年下だったオリバーは、25年前とは別人のように中年太りをしてしまっています。ツアー後はラスベガスで公演されていたマドンナのそっくりさんショーの振り付けをするなど、明らかにマドンナのンバックダンサーであったという”利子”で食っていた印象・・・プロフェッショナルなトレーニングを受けていない自己流ヒップホップダンサーであったこともあり、現在もラスベガス在住であるものの、カジノホテルでウエイターのような仕事をしているようです。

尚・・・もう一人、マドンナを訴えたバックダンサーのガブリエル・トルーピンは1995年にエイズで亡くなっており、本作では彼の母親がインタビューに答えています。


サリム・ガウロースとカールトン・ウィルボーンは、元々ダンサーとしての基礎的な教育を受けていたこともあり、現在でもダンサー/講師として第一線で活躍しているようです。この二人は本作で、既にブロンド・アンビション・ツアーに参加していた時には、HIVポジティブであったことをカミングアウトしています。

サリムは、初めての男性経験で感染してしまったそうで・・・ハッキリと本作では明言していませんが、おそらくHIVポジティブであることが判明したことが、ベルギーからアメリカへの移住に繋がったようです。カールトンに於いては・・・ブロンド・アンビション・ツアーが始まった日本で体調の変化に気付き、HIVポジティブであったことが分かったというですから。当然のことながら、二人ともHIVポジティブであることはスタッフやツアーメンバーには隠してツアーに参加していたわけですが、セーフセックスを呼びかけることがツアーの大きなメッセージであったことを考えると、なんとも皮肉なものであります。

「ポーズ~マドンナのバックダンサーたち~」のクライマックスは、インタビューに答えた生存しているバックダンサー全員6人が、ツアー終了後初めて(?)顔を合わせる場面でしょう。(本作のプロモーションで、その後は何度も会っている様子ですが)

「イン・ベッド・ウィズ・マドンナ」の原題である「Truth or Dare」というのは・・・「真実を言うか?挑戦するか?」の選択をするアメリカのパーティーゲーム(?)で、「Truth」を選んだら意地悪な質問にも正直に答えなければならず、「Dare」を選んだらやりたくないことを実行しなければならないのです。「イン・ベッド・ウィズ・マドンナ」の中でも、マドンナとバックダンサーたちが「Truth or Dare」を遊ぶシーンは印象的でした。本作の終盤で6人が「Truth or Dare」を始めるのですが・・・この時に選ぶのは「Truth/真実を言う」だけ。25年の年月を隔てたからこそ、お互いに”真実”で向き合うことができたということでしょうか?

マドンナの「ブロンド・アンビション・ツアー」や「イン・ベッド・ウィズ・マドンナ」に思い入れのない世代にとっては、お涙頂戴のノスタルジーを煽るだけのドキュメンタリー映画かもしれません。ただ、短い時間であっても若き日に苦楽を共にした仲間は(例え、確執があったり、ソリが合わなかったとしても)年月が隔てれば困難を乗り越えた同志として絆を感じるようになるということ。「あのとき」が、いかに貴重な時間であったことを気付けるのは、若さを失ったということなのです・・・。


「ポーズ~マドンナのバックダンサーたち~」
原題/Strike the Pose
2016年/ベルギー、オランダ
監督 : エスター・グルド、ライエル・ズワーン
出演 : ルイス・カマチョ、ホセ・エクスタラヴァガンザ、サリム・ガウロース、オリバー・クルムス、ケヴィン・アレキサンダー・シア、カールトン・ウィルボーン、マドンナ(アーカイブ映像)
2017年4月7日より「Netflix」にて配信

「イン・ベッド・ウィズ・マドンナ」
原題/Truth or Dare
1991年/アメリカ
監督 : アレック・ケシシアン
出演 : マドンナ、ケヴィン・コスナー、ウォーレン・ビューティ、ジャン=ポール・ゴルティエ、マット・ディロン、サンドラ・バーンハード、ライオネル.リッチー、アントニオ・バンダラス、ペドロ・アルモドバル
1991年8月31日、日本公開



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2017/04/01

映画監督として作家性を確立したトム・フォードの第二作・・・オースティン・ライト原作「ミステリ原稿」を、よりグラマラス、より深く心えぐる「後悔」と「喪失」の”謎”めいた一作に~「ノクターナル・アニマルズ/Nocturnal Animals」~


映画界とファッション界といのうのは、映画作品への衣装提供や、ブランドイメージと映画スターの関係など、業界としての親和性も非常に高いと思うのですが・・・ファッションセンス=映画作家性というわけでもないようで、商業的な映画監督として作家性を発揮したファッションデザイナーというのは、トム・フォード以外には思いつきません。

ファッションの第一線で活躍したファッションデザイナーが、映画監督としても高い評価を得て、商業的にも成功するということは結構”稀”なことのようです。1970年代のパリのファッション界を席巻した高田賢三は、1981年に日本資本の劇映画「夢・夢のあと」で、ファッションデザイナー”ケンゾー”の世界観と映像美を表現する意気込みで映画監督としてデビューしましたが・・・評価も興行のどちらも大コケしてしまいます。この作品は、どの国でもビデオ化さえされていない幻の作品となっており、高田賢三による映画作品は結局のところ、この一作のみ・・・その上、ケンゾーのファッションブランド自体も、この頃から急速に失速していくのです。

数年前に山本耀司が監督した映画が作られる・・・というニュースを読んだことがあるのですが、その後、映画が完成したという話を聞きません。近年、芸術(ファイン・アート)へ表現のフィールドを移行しようとしているところもありますので・・・もともと商業的な映画の監督というのではなく、あくまでも表現手段のひとつとして企画されていたのかもしれません。カール・ラガーフェルドは何本か短編作品を監督していますが・・・あくまでもシャネルがらみのファッション的な世界観の延長上にある”プロモーションの映像”です。日本では、アート集団の明和電機が立ち上げたファッションブランド「Meewee Dinkee/ミーウィーディンキー」のトータルディレクターとデザイナーを務めるTRICOが「少女椿」を監督してますが、そもそも映像作家としてでてきた人で初めから”アート寄り”のクリエーター(!?)だったりします。

トム・フォードはテキサス州出身のアメリカ人でありますが、ヨーロッパの老舗ブランド「グッチ」「イヴ・サンローラン」のクリエティブ・ディレクターを務めて・・・その後、自社である「トム・フォード」を立ち上げた近年最も成功したファッションデザイナーのひとりです。デザインの勉強をする以前のニューヨーク大学時代には、俳優を目指した時期もあったらしいので、映画界には少なからず興味があったのかもしれません。

2009年公開の「シングルマン」でトム・フォードは映画監督としてデビューします。1930年代~60年代に活動したゲイ作家のクリストファー・イシャーウッドの原作からして渋くて知的な印象なのですが・・・ファッション的美学に貫かれたスタイル、隅々まで考え抜かれた構図、過去と現在や現実と心象を行き来する巧みな映像美で、”ファッションデザイナーによる”という枕詞が不要なほど「完璧」な映画作品であったのです。ただ、コリン・ファース演じる大学教授の潔癖なスタイリッシュさやゲイの中年男性であることから、トム・フォードを彷彿させるところもあり・・・自らを投影した奇跡の一作とも思えてしまうところはあります。


「シングルマン」から7年、二作目となる「「ノクターナル・アニマルズ/Nocturnal Animals」は、トム・フォードの映画監督としての作家性を確立させたと言っても、過言ではないかもしれません。原作は(これまた渋くて知的な?)オースティン・ライトによる「トニー・アンド・スーザン(原題)/Tony and Susan」(”スーザン”は語り手の主人公の主婦の名前で、”トニー”は作中小説の主人公の名前)で、日本翻訳版タイトルは「ミステリ原稿」・・・前夫から送られてきた原稿(この小説のタイトルが「ノクターナル・アニマルズ/Nocturnal Animals」=「夜の獣たち」)を、別な男性と結婚した主婦のスーザンが読んでいくうちに、前夫エドワードとの過去や今の結婚生活に思いを巡らすという心理小説です。


タイトルオープニングでは、極端に太った女性たちが妖しく踊るシーンから始まります。これらは主人公のギャラリーオープニングで展示されているアート作品(映像と彫刻)ということなのですが、かなりのインパクトです。トム・フォード曰く・・・太った女性は社会的な(美しさの?)枠組みに囚われていない存在として、主人公と対比しているということらしいのですが、赤いベルベットのカーテンを背景にしているところは、デヴィット・リンチ監督的な禍々しさを漂わせています。

若い頃アーティストを目指してたスーザン(エイミー・アダムス)は、裕福なハットン(アーミー・ハマー)と再婚・・・アートディーラーとして成功しています。小説版では、スーザンとハットンの結婚は破綻していないのですが(前夫のエドワードも別な女性と再婚している)・・・映画版では、ハットンは他の女性と浮気をしていて、二人の関係は冷えきっているセレブとして描かれているのです。そんなスーザン宛に、若い頃には小説家を目指していて、今は大学で映画を教えている前夫のエドワード(ジェイク・ジレンホール)から、「ノクターナル・アニマルズ」というタイトルの原稿が送られてきます。

「ノクターナル・アニマルズ」は、トニー(ジェイク・ジレンホール)が遭遇する悲惨な事件の物語・・・妻のローラ(アイラ・フィッシャー)と娘のインディア(エリー・バンバー)は、ハイウェイで遭遇した暴漢たち(アーロン・テイラー=ジョンソン)に誘拐されて、強姦されたあげくに惨殺されてしまいます。前夫エドワードと主人公トニーを、どちらもジェイク・ジレンホールによって演じられていることからも分かるように・・・「ノクターナル・アニマルズ」はエドワードとスーザンの物語でもあるようです。トニーは、癌で死を宣告されているボビー刑事(マイケル・シャノン)の手助けにより、事件から一年後に暴漢たちへ復讐を果たしますが、拳銃の暴発事故により、誤って自らも死んでしまうのです。

主人公が作中で小悦を読む「入れ子構造」となっている本作・・・スーザンは次第に残酷な小説の内容に引き込まれていき、前夫のエドワードが何故暴力的な小説を自分に送りつけて感想を求めてきたのか考え始めます。そして、幼馴染みのエドワードとのニューヨークでの再会、保守的で現実主義の厳しい母親に反対された結婚、エドワードの小説を厳しく評価して傷つけて、最後には妊娠していた子供を堕して離婚した経緯などを回想していくのです。現実のクールな配色、過去の暖かな色合い、小説のどぎつい色彩と、特徴的な映像で描き分けながら、時にはショットごとに入れ替わる「現在」「過去」「小説」を巧みな編集によって、小説家(クリエーター)のフィクションとノンフィクションの関係を紐解いていきます。

ここからネタバレを含みます。


現在や過去がスーザンによってビジュアライズされる作中小説の世界とリンクされていて、小説が著者である前夫エドワードの過去の体験によって構築されていることが明らかになっていきます。例えば・・・以前、スーザンがエドワードを傷つけた時にあった”赤いソファ”は、小説のトニーの妻と娘の死体が放置された”赤いソファ”と同じですし、エドワードがスーザンが二人の子供を堕胎手術をして、二人の関係が決定的に終わった時にあった”緑の車”は、トニーの襲う暴漢たちが乗っている”緑の車”と同じなのです。小説の中のトニーの妻はスーザンに似ていますし、娘はスーザンが堕した二人の子供かもしれません。小説の内容がトニーの復讐劇となっていくと、スーザンの画廊には、「REVENGE」=「復讐」と書かれた絵画があったりします。暴漢たちの正体を暴き、必要に復讐に誘うボビー刑事は、エドワードの強い別人格・・・かつてスーザンがエドワードを傷つけた「弱虫」という言葉が、追い詰めた暴漢から発せられた時、トニーは初めて拳銃を撃つことができるのです。

原稿を読み終わったスーザンは小説の感想を伝えるため、久しぶりにエドワードと会う約束をして、高級レストランで待ち合わせをします。しかし、いくら待ってもエドワードは姿を現しません。閉店間近のレストランで一人佇み、なにかを悟ったような表情のスーザンの姿で映画は終わるのです。正直いって”尻切れトンボ”で”謎めいた”エンディングであります。作中小説のトニーと同じようにエドワードも死んだのではないか?そもそもエドワードは、スーザンと二度と会うつもりさえなかったのではないのか?スーザンに待ちぼうけを食らわすことが、エドワードの復讐だったのか?


考えてみれば・・・現在のエドワードの姿というのは一度も画面に登場することはありません。スーザンの思い出す過去のエドワードの姿と、作中小説のトニーの姿しか映画では描かれていなのですから、エドワードの存在自体が観客にとっては漠然とした存在だったりします。強い衝撃を与えられた小説を書き上げたエドワードに対して、スーザンが改めて関心を持ったことは確かなようです。しかし、小説を書き上げて、スーザンとの過去からの呪縛から解き放たれたエドワードにとって・・・スーザンと再会する意味はないのかもしれません。

小説版では、スーザンが感想をエドワードに伝える約束をしようと、短い手紙を投函するところで終わります。映画版では、破綻した結婚生活という厳しい現実にいるスーザンが、さらに過去からも報復を受けるという・・・”より”深く心をえぐるような結末となっています。「シングルマン」にしても「ノクターナル・アニマルズ」にしても、トム・フォード監督の映画は、一般的に言って”ハッピーエンディング”ではなく・・・「過去への深い後悔」と「失った者への強い喪失感」を感じさるのです。


パートナーのリチャード・バックリー(元「VOGUE HOMME intternatinal」編集長)と約30年間を共にして、1990年代から2000年代初頭にはヨーロッパの老舗ブランドを再生させて一世を風靡、2005年には自社を設立、2012年には代理母出産で息子を授かり、2014年にはアメリカ国内で同性婚、ファッションデザイナー/映画監督としての成功だけでなく、私生活でも”超リア充”のトム・フォードが、何故「後悔」や「喪失」の映画を撮るのか?・・・これこそが、ボクにとって一番の”謎”であります。


「ノクターナル・アニマルズ」
原題/Nocturnal Animals」
2016年/アメリカ
監督、脚本、制作:トム・フォード
出演      :エイミー・アダムス、ジェイク・ジレンホール、マイケル・シャノン、アーロン・テイラー=ジョンソン、マイケル・シャノン、アーミー・ハマー、アイラ・フィッシャー、エリー・バンバー
2017年11月3日より日本劇場公開



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2017/03/01

”進駐軍慰安婦”と”パンパン”がいた時代・・・武智鉄二と五島勉による”反米思想”と”民族主義”に貫かれた実話(?)の映画化~「戦後残酷物語」と水野浩著「日本の貞操 外国兵に犯された女性たちの手記」~


”武智鉄二監督”というと・・・まず「白日夢」(1981年公開)が、頭に浮かんでしまいます。公開当時、大島渚監督の「愛のコリーダ」(1976年)に続く”本番映画”(ハードコアポルノ)として大々的に宣伝されたものの作品としての評判は散々で、エロス映画の大御所(?)映画監督による”駄作”という記憶しかありません。

10年ほど前に武智鉄二監督作品の多くがDVD化された際、初めて一連の作品を観る機会があったのですが・・・映画監督としての稚拙さ、民族主義に偏った思想、伝統芸能とエロスの陳腐な融合と、エログロ映画を観尽くしたからこそ堪能できる腐ったチーズのような珍映画監督っぷりに、すっかりボクは魅せられて(?)しまったのです。


「戦後残酷物語」は、1964年版「白日夢」で一世風靡した(?)路加奈子を再び主演に迎えて、武智プロダクションの第一作品として製作された武智鉄二の”映画監督”として(ある意味)脂ののっていた時代の作品であります。

1960年代は、それまでの保守的な既成概念を覆すことが”良し”とされて、革新的な芸術表現ととらえられた”節”があり、エロス映画を「芸術映画=アートフィルム」とする傾向が少なからずあったようです。関西の恵まれた家庭の出身で1940年代~1950年代に「武智歌舞伎」と呼ばれた演出家として知られていた武智鉄二監督ですから、大胆にエロチシズムを描いた作品は(映画としての出来の良し悪しは別に)当時は注目されたとしても不思議ではありません。


小野年子(路加奈子)は、東京の空襲で両親を失い京都の親戚の家に、戦後身を寄せている元(?)お嬢さま・・・闇でストッキングを購入したことで、警察に連行されてしまいます。実は、この警察官は日本人女性を物色していた米兵たちの手先・・・年子は人里離れた山の中へ連れて行かれてしまい、何人もの米兵たちに追い回されたあげくに、年子は全裸にされて米兵たちに輪姦されてしまうのです。


年子は京都に居づらくなり、一人東京へ戻ります。仕事を探しの帰り道、年子はMP(ミリタリーポリス)の”狩り込み”に運悪く遭遇・・・パンパンの疑いをかけられて検挙されてしまいます。この当時、性病感染予防の名目で、検査のために病院へパンパンと疑われた女性たちを連行することが行なわれていたそうです。年子は、疑いは晴れて解放されると思っていたのですが、輪姦された時に性病に感染していたらしく、梅毒の陽性であることが判明してしまいます。


主治医の望月先生(剣持伴紀)に、自分はパンパンではないことを訴えるものの、性病治療のために年子はパンパンらと一緒に入院させられてしまうのです。退院後、身寄りもない年子は行き場はありません。そこで、一緒に捕まったパンパンのカズコ(李麗仙)に誘われて、共に青森の三沢基地へ行くことになります。年子らが立ち去った後、病院は大勢の米軍兵たちに襲われて、看護婦だけでなく入院中の患者まで強姦・・・生まれたばかりの新生児は踏みつけられて殺されてしまうのです。


三沢へ行った年子はパンパンたちの身の回りの世話をしているのですが、ある時、年子は煙草一箱と引換に、米兵たちに体を奪われてしまいます。「どうせ”ヤラレル”なら金を獲れ!」という先輩パンパンのアドバイス(?)により、年子は”パンパン”として街に立つようになります。ある晩、醜男のエミソン軍曹(トム・ハーバー)と出会い、彼に懇願されて”オンリー”してもらうのです。”オンリー”というのは”愛人契約”で、月々の”お手当”をもらうことを条件に専属となることであります。相手を決めずに、その時々の客を取るのは”バタフライ”と呼ばれていたそうです。


オンリーになったことで、進駐軍の慰安施設(専用のナイトクラブ)に出入りするようになった年子は、そこで若くてハンサムなロジャース大尉(ボブ・ベイン)と知り合います。ロジャース大尉には英語をまったく理解することができないオンリーの日本人女性が既にいるのですが、そんなことはおかまいなしに年子はロジャース大尉に接近していくのです。男から男に乗り換えようとする年子の体には、バタフライの影が浮き出たり消えたりと・・・なかなか”ベタな”武智演出の技が冴えます。当然のことながら、年子の出現により、英語を話せないオンリーの存在は、次第にロジャース大尉にとっても邪魔になってくるのです。


屈辱的な扱いを受けながらも、必死に尽す英語の話せないオンリーを、ロジャース大尉は身ぐるみ奪って家から追い出しにかかります。ロジャース大尉が年子と家に戻ると、そこには首を吊った彼女の姿が。それを見て「なんてバカな女だ~」だと、大笑いするロジャース大尉・・・まるで戦前の「鬼畜米英」そのままの米兵の描き方であります。


年子はロジャース大尉のオンリーに成り上がり、自分の家を手にするのです。かつては被害者側だった年子が、あっさりと加害者側の人間になるのには時間はかからなかったということです。さらに、ロジャース大尉の上司であるミラー少佐(マイク・ダニン)のために「女狩り」=「日本人女性を拉致して強姦すること」の手引きを、年子自らすすんで行なうようになるのですから・・・。


米の買い出し途中の娘を無理矢理に連れ去り、アメリカ兵カップルや年子を含む3組でスワッピングに興じます。ロジャース大尉に犯されて泣き叫ぶ日本人娘・・・その姿は、かつて憲兵に騙されて米兵たちに強姦された年子の姿に重なります。ここで流れる音楽がワーグナーの「ワルキューレの騎行」(コッポラ監督の「地獄の黙示録」)なのですから、まるで日本という国がアメリカに強姦されいるかの如くです。娘はロジャース大尉の舌を噛んで反撃・・・ロジャース大尉は絶命して、娘も自らの舌を噛み切って自害してしまいます。そして、日本地図のように散らばったお米に、徐々に血が広がっていくという”ベタすぎる”演出をしてみせる武智鉄二監督は、逆に”あっぱれ”です。

ロジャース大尉を失った年子には、かつてのロジャース大尉のオンリーと同じ運命が待ち受けています。ロジャース大尉がミラー少佐からしていた借金の”カタ”に、年子が暮らしていた家はミラー少佐のものとなり、年子は身ぐるみ剥がされて家から追い出されてしまうのです。ロジャース大尉からもらったダイアモンドの指輪まで、ミラー少佐と彼のオンリーに奪われてしまい・・・年子は再び、生きるために街娼として夜の街に立つことになります。


さらに、性病が再び悪化・・・痩せ細った年子の体は20代前半とは思えないほどボロボロです。治療のために行った病院で、かつて年子を診察した望月先生と再会することとなります。彼は病院が米兵に襲われた後、責任を取って東京の病院を去り、三沢の病院へと都落ちしたとのこと・・・やつれきった二人は、米兵によって人生を狂わされた同志なのかもしれません。望月先生の身の回りの世話をしてあげたい、一緒なりたいという願い・・・それには、まず性病の治療のために何とか金の工面をしなければならないことを、年子は確信するのです。


そこで、年子はミラー少佐とオンリーの暮らす家を訪れて、せめてダイヤモンドの指輪だけでも返して欲しいと懇願します。しかし、そんな年子をあざけ笑いながらムチでいたぶる二人に、吹っ切れたように年子は銃を放ってしまいます。米軍の少佐殺しから逃げきれるわけもなく・・・追い詰められた年子は、河川敷から入水して自ら命を絶つことを選ぶのです。そこで流れるのが、当時流行っていた反戦フォーク調(?)の「小野年子の唄」という武智鉄二監督自身作詞による”トンデモナイ”歌であります。

「小野年子の唄」作詞:武智鉄二

年子はこうして死んでいった
さぎしろの海の果てに
赤々とのぼる太陽のまたないで
年子はこうして死んでいった
てがらとのたすぐ岸辺
米軍のレーダーは黒く影落とし
年子はこうして死んでいった
今日もまた一番機が
朝空を旅立つであろうベトナムへ
年子はこうして死んでいった
やごうだやま吹雪しきり
風花は堕ちて消えてゆく水面に
年子の一生はこうして終わった
こうして終わった
こうして終わった
(語り)戦争はまだ終わらない



空襲で家族を失わなければ・・・闇でストッキングさえ買わなければ・・・騙されて米兵たちに輪姦されなければ・・・MPの狩り込みに遭遇しなければ・・・性病に罹っていなければ・・・パンパンにならなければ・・・エミソン軍曹からロジャース大尉に乗り換えなければ・・・女狩りの手引きをしなければ・・・ロジャース大尉が死ななければ・・・時には運の悪さ、時には自らの選択によって、人生の階段を堕ちてしまった年子に、観客が同情してしまうかというと、ちょっとビミョーなところがあるのです。

同じく占領軍慰安婦を描いた「肉体の門」や「女の防波堤」には、敗戦後の日本を逞しく生き抜いていく”女性の強さ”を感じさせられるのですが・・・”カストリ雑誌”的なメロドラマの「戦後残酷物語」は、堕ちていくヒロインをアメリカに日和った”裏切り者”かのように突き放していて、敗戦後に日本人男性が感じていたであろう”反米思想”を色濃く感じさせるのであります。


本作の物語は、元々ルポルタージュとして出版された「戦後残酷物語 あなたの知らない時に」の第一部「小野年子の遺書」をベースに、本書に収録されている他のエピソードを加えて脚色したモノです。原作はヒロインの一人称ということもあってか、読者の同情心を煽るようなところもあり、映画版ほど反米思想を強く感じさせるわけでもありません。実はこの「戦後残酷物語」・・・1973年のベストセラー「ノストラダムスの大予言」で知られる五島勉氏によって編集されているのです。それ故か(?)原作に書かれている内容の信憑性は疑われ気味・・・さらに、映画は民族主義者で反米思想の持ち主であると知られている武智鉄二が監督したこともあり、本作は事実を歪めた”反米映画”というレッテルを貼られることになってしまいます。


1963年に出版された五島勉氏編集の「戦後残酷物語」ですが・・・実はこの本には”元”になった別の書籍が存在するのです。GHQの占領下が終わって間もない1953年に出版された「日本の貞操 外国兵に犯された女性たちの手記」という本で、出版当時は「日本の貞操」という言葉が流行語のようになるほどベストセラーとなったそうです。帯には「新映プロ映画化」と謳われていたり、平塚らいてう、神近市子、久布白落実、などの女性運動家に加えて、野間宏や安部公房などの著名作家からも推薦されていることから、出版当時は”まともな”書籍として世間で受け止められていたことが伺えます。

「日本の貞操」の第一部に「死に臨んで訴える」というタイトルで、小野年子(仮名)の遺書という形で収録されているのですが、この”小野年子”という女性が実在したのか定かではありません。「日本の貞操」は、米兵とパンパンの通訳として働いていた”水野浩”氏によって取材されて、まとめられたとされているのですが・・・この”水野浩”という人物自体、実在したか疑問視するところもあるのです。

「日本の貞操」は、1982年に「死んで臨んでうったえる<空洞の戦後叢書1>」として復刻されるのですが・・・その際に出版社が著作権の確認のために”水野浩”なる人物を捜索したものの見つけることが出来ず、結局無断で再出版となったといわれています。また、”水野浩”という名前で出版されている書籍は、この「日本の貞操」たったの一冊のみ・・・本書で書かれているエピソートの真偽は別として、この”水野浩”という人物はそもそも存在せず、まるっきりの偽名、もしくは、ペンネームとして複数の人物が本書には関わっていたことも推測できてしまうのです。


「小野年子の遺書」以外の「戦後残酷物語」に収録されているエピソードは、1953年に五島勉氏がルポライターとして関わった初めて編集者として関わった書籍である「続・日本の貞操」に収められていたものです。この「続」も、空洞の戦後叢書として「黒い春ー米軍・パンパン・女たちの戦後」と改題されて1985年に復刻されています。「続」は「日本の貞操」がベストセラーになったことを受けて、急いで出版されたようで・・・五島氏自身が取材したのではなく、基地の女性たちをはじめ、一般市民、新聞記者、公務員、学生、基地労働者、金融業者、売春業者、米国兵、国連兵などから集めた”資料”の提供を受けて、まとめられたものだと序文にあります。

「日本の貞操」や「続・日本の貞操」のエピソードを、フィクションと決めつける意見もあるようですが・・・このような事実が一切なかったという証拠もありません。ただ、両書籍に共通しているのは、米兵が行なった日本人への侮辱的な行為を語り継ごうとする強い意志という明らかな”反米思想”なのであります。このような歴史の”振り返り”または”語直し”は、韓国の慰安婦問題と似通ったところがあるのかもしれません。


降伏宣言から僅か3日後から計画が始まり、1945年8月26日には日本政府は特殊慰安施設協会「RAA」を、売春業者側と政府側から5千万円づつ出資して設立するのですが・・・「RAA =Recreation and Amusement Association/余暇娯楽協会」とは名ばかりで、実態は進駐軍専用の「国営売春所」だったのであります。日本各地(大森海岸、向島、若林、銀座、赤羽、福生、調布、立川、三鷹、熱海、箱根、大阪、名古屋、広島、静岡、兵庫、山形、秋田、岩手など)に設置されたRAAには、日本人女性の貞操を守るための”肉体の防波堤”として数万人の女性が雇われたそうで、戦争未亡人や空襲で両親を失った婦女子が多くいたといわれています。

「慰安婦」または「接待婦」とも呼ばれることが多かったようですが・・・戦前教育で「お国のために犠牲になること」を美徳して生きてきた世代ということもあり「特別挺身隊員」という肩書きを信じて疑わなかった者もいたそうです。一日に大勢(多い日は70人も?)の客の相手をしなければならなかったという記録も残されており、今の風俗嬢と比べても相当ハードだったと思われます。当時の金額で月に5万円(現在の貨幣価値で2000万円ぐらい?)稼ぐ女性もいたとも言われていますが・・・精神を病む者や自殺する者が後を絶たなかったらしく、多くの女性が人生を狂わされてしまったことは事実のようです。


RAAの存在は、多くの国民に知られていたわけではなかったらしく・・・敗戦の時に20歳だったボクの母に尋ねても、RAAのことはまったく知らなかったとのこと。1946年秋頃、母は九州の疎開地から東京近郊へ戻ってきたのですが、翌年には生活のために新橋にあった楽譜出版社で校正の仕事をしながら、藤原歌劇団に入団してオペラ歌手として日比谷公会堂などの公演の舞台に立っていたそうです。当時の新橋や日比谷界隈には”パンパン”が多くいたと言われていますが、”パンパン”の姿さえ実際に見たことはなかったと母は言います。また、斎藤秀雄氏(後に桐朋学園学長)が指導していた女性コーラスグループに参加して、立川米軍基地内にあった教会で毎週日曜日に賛美歌を歌っていたそうなのですが、礼拝に参加していた米兵は紳士的な人ばかりで、母によると「米兵が女性を襲う」なんてことは考えもしなかったそうです。敗戦後の日本の記憶というのは、その人の生活圏によって大きく違うということかもしれません。

RAAの「日本女性の純潔を守る」という役割は、結果的には失敗します。開設から僅か7ヶ月後の1946年3月26日には、特殊慰安施設は”表向き”閉鎖となるのですから・・・(ただし、実際に協会がなくなったのは3年後)。公式な閉鎖理由は、アメリカの婦人団体の反対運動があったからと言われていますが、RAA設置後も米兵による性犯罪が減らなかったことや、GHQ軍医から性病感染の懸念などもあったようです。

RAA閉鎖後、慰安婦として働いていた女性は、風俗嬢として赤線(日本人相手の売春)で働き続けた者もいたそうですが、職場を失って街頭に立つ”パンパン”となった者も多くいたと言われています。性病対策のため、MP(ミリタリーポリス)主導で”狩り込み”と呼ばれた検挙を抜き打ちで行なわれることもたびたびあり、通行人だった一般女性が無差別に病院へ連行されて、膣検査を強制されたということさえもあったそうです。


当初は生活苦からパンパンになる女性が多かったようですが、次第に日本国内が復興されていくと、ある程度の英会話ができて、自分の生活水準を上げたいという向上心の強い女性が、パンパンになることもあったそうです。また、自由恋愛の対象として米兵との出会いを求める女性も現れるようになり、パンパンたちとの縄張り争いも起こったといわれています。過去を振り返る時・・・生きるために仕方なくパンパンになるしかない”可哀想な女性”というステレオタイプで考えがちですが、実際には、生活苦からよりも贅沢欲からパンパンになった女性も、結構存在していたということなのかもしれません。

しかし敗戦からさらに年月が経つと、次第にパンパンという存在は世間的には蔑まれ恥ずべき存在となっていきます。それでも、パンパン以外に生きる術のなかった女性たちの中には、朝鮮戦争勃発後に朝鮮半島へ連れて行かれて、在韓米軍の慰安婦となった者もいたそうです。当然ながら・・・韓国人女性も慰安婦に志願したと思われますが、朝鮮戦争中の慰安婦の存在について韓国で論じられることがないというのは、やはり慰安婦問題の原点には「反日感情」があるとしか思えません。


日本人女性が米兵と結婚できるようになるのは、1947年に日本人戦争花嫁法が制定後のことですが、多くの戦争花嫁が渡米するようになったのは、朝鮮戦争勃発後(1950年)のようです。ただ、戦争花嫁=元パンパンという偏見は長い間拭われることなく・・・「戦争花嫁」という響きには、どこかしら侮蔑的なニュアンスが1970年代頃までは残っていたような気がします。

進駐軍慰安婦は、語る人の立場によって「反米」になったり、「反日」になったり、「女性」問題になったりするのです。誰が加害者で誰が被害者なのかさえ、見方によっては変わってしまうし・・・何が正しいかったのかという絶対的な答えもありません。”今”の倫理的な尺度で、過去の責任問題を検証したところで、時間を巻き戻して”やりなおし”ができない以上・・・それぞれの立場で自らの歴史を戒めるしかないのです。

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武智鉄二監督フィルモグラフィー
(*印はDVDリリース、○印はVHSビデオのみリリース)

1963「日本の夜 女・女・女物語」(ドキュメンタリー)*
1964「白日夢」*
1964「紅閨夢」*
1964「黒い雪」*
1966「源氏物語」*
1966「幻日」
1968「戦後残酷物語」*
1968「浮世絵残酷物語」*
1973「スキャンダル夫人」
1981「白日夢」*
1982「白夜夢 第2話」(ビデオ作品)○
1983「花魁」*
1984「高野聖」○
1984「日劇ミュージックホール(復刻集)能艶SAMBA奏」(ビデオ作品)○
1987「白日夢2」*
1987「人喰い 安達原奇談」(ビデオ作品)○

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「戦後残酷物語」
1968年/日本
監督&脚本: 武智鉄二
出演   : 路加奈子、紅千登世、有沢正子、小畑通子、剣持伴紀、月まち子、李麗仙、八木千枝、ポップ・ペイン、マイク・ダニン、トム・ハーバー
1968年2月10日劇場公開



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2017/02/16

”コレジャナイ”感しかない「キング・オブ・カルトムービー」のリメイク・・・シャドウキャスト公演の”お約束”だけを拝借~「ロッキー・ホラー・ショー:タイムワープ・アゲイン/The Rocky Horror Picture Show : Let's Do the Time Wrap Again 」〜


映画作品の”リメイク”というのは、昔から行なわれていたこと。”リメイク”されるということは、元となる作品に人気があるからですが、オリジナルを超えることは稀です。ドラマをミュージカル化するとか、時代設定を現代にするとか、オリジナルとは”別物”としてリメイクされれば、新たな作品として成功することもあるのですが「何故リメイクするの?」という作品もよくあったりします。


「ロッキー・ホラー・ショー」は、カルト映画の中でも有名な作品のひとつ。ロンドン舞台版のキャストをそのまま起用して、1975年に映画化されましたが、公開時はそれほどヒットしなかったそうです。その後、ニューヨークやロサンジェルスのミッドナイト上映で人気を博して「カルトムービー」を代表する作品となります。映画上映中にお約束のツッコミを入れたり、画面の中に登場するモノ(お米、新聞紙、ライター、紙吹雪など)を使用したりするのは、今でいう”応援上映”(?)のルーツと言えるのかもしれません。また、キャラクターと同じ”コスプレ”をして、スクリーンの前で映像と同時進行で演じる”シャドウキャスト”は、初公開から40年以上経った今でも世界各国で行なわれています。


「ロッキー・ホラー・ショー:タイムワープ・アゲイン/ The Rocky Horror Picture Show : Let's Do the Time Wrap Again 」は、アメリカのFOXテレビにて放映されたテレビ映画で、監督を務めたのは元々振り付け師のケニー・オルテガ・・・ドキュメンタリー映画「マイケル・ジャクソン THIS IS IT」の監督を務めたことで知られていますが、ライブコンサートの演出家としてはさておき、映画監督としては「どうなの?」という人”では”あります。

オリジナル版の「ロッキー・ホラー・ショー」は、フランクン・フルター博士を演じたティム・カリーの出世作です。スパンコールのコルセットとガーターベルトに厚底のハイヒール、毒々しい化粧の女装姿は、一度観たら忘れられない強烈なインパクトです。リメイク版では、このフランクン・フルター博士役を「オレンジ・イズ・ニュー・ブラック」に出演しているアフリカ系トランスジェンダー(性転換手術済み)のラヴァーン・コックスが演じています。



フランクン・フルター博士は、女装趣味のある(マッチョ好きでかなりゲイ寄りの)バイセクシャルの男性という設定で、良くも悪くも悪趣味で、外見的にも男性と分かる程度のクオリティの低い(?)女装ということろが、愛すべきポイントだと(ボク個人的には)思っているのですが、本作でフランクン・フルター博士を演じるラヴァーン・コックスは、豊満な胸の谷間をもつ「女性」・・・声の低さや体格の大きさから「元男性」であることを推測する人も多いとは思いますが、アフリカ系の男性と女性の外見的性差が、他の人種と比較すると少なめ(?)ということもあり、女装趣味の男性ではなく、単に大柄な女性に見えてしまうかもしれません。

フランクン・フルター博士を演じる俳優が「”白人=アングロサクソン系”でならなければならない」とは全く思いませんが・・・博士が理想の男性とする人造人間のロッキーは(歌詞にもあるように)”ブロンドで日焼けしたマッチョマン”なのですから、違和感が全くないかというとビミョーなところであります。さらに、リフ・ラフ(リーブ・カーニー/アングロサクソン系)の”妹”であるマジェンタを演じるのは、ヒスパニック系のクリスティーナ・ミリアン・・・エディ(アダム・ランバート/アングロサクソン系&ユダヤ系)の叔父であるスコット博士は、アフリカ系ベン・ヴァリーンによって演じられているのです。”ポリティカリー・コレクトネス”の観点では、演じる俳優の人種と役柄の設定は”無関係”とするべきなのかもしれませんが、シャドウキャスト公演、または、舞台ならまだしも、テレビ映画としては少々無茶な印象は否めません。


「ロッキー・ホラー・ショー」は、1930年代から1950年代のサイエンス・フィクション、モンスター、ミュージカルに数々のオマージュを捧げています。しかし、残念ながら多くの視聴者には、それらの”元ネタ”を知らないかもしれません。リメイク版のオープニング曲(Rocky Horror Picture Show Science Fiction Double Feture)では、シャドウキャスト公演や舞台版と同様に”案内嬢”(アイビー・レバン)が、歌詞にでてくる映画のポスター(「キングコング」「地球が静止した日」「透明人間」「禁断の惑星」など)の前で歌うことで、親切な(?)説明となっています。


「タイムワープ」で登場する”トランスベニアン”たちは、オリジナル版では”奇人変人”としかいいようのない摩訶不思議なキャスティング(デブ、ノッポ、チビ、老人など)と、お揃いの黒い燕尾服姿により(良い意味で)時代性を意識させませんでした。しかし、リメイク版では衣装と振り付けが今風(?)に変更されています。また「タイムワープ」の直後、フルター博士の登場シーンに於いては、オリジナル版はエレベーターを巧みに使うことにより、登場の”サプライズ”を演出されていたのですが・・・リメイク版ではフルター博士は撮影用(?)クレーンに乗ってゆっくりと現れる上に、そもそも後ろの壁にはフルター博士の肖像画が飾られているために”サプライズ”がありません。


エキスパート(犯罪学者)が物語を解説するという”メタ構造”をもっている「ロッキー・ホラー・ショー」・・・リメイク版では本編を映画館の観客が観ているという、さらなる”メタ構造”となっているのです。2012年に脳梗塞により車椅子生活で言語障害を抱えている御年70歳のティム・カリーが、本作ではエキスパート役で起用されていることには胸がいっぱいになります。ティム・カリーがエキパート役でスクリーンに登場するやいなや、大騒ぎになる画面の中にいる映画館の観客たちは、本作をテレビで観ている視聴者と同じ立場(オリジナル版を知っていてリメイク版を観ている)ということになるわけであります。カルト映画であることが”前提”でのリメイク版で、オリジナル版”ありき”の”メタ構造”というわけです。


アメリカ絵画の「アメリカンゴシック」、B級のSF映画で知られていた「RKOピクチャー映画会社シンボルタワー」、トランスベニア星人としてマジェンタが登場するときの髪型の「フランケンシュタインの花嫁」、など、オリジナル版で随所に散りばめられていたオマージュの数々は、リメイク版では何故かスルー・・・逆(?)に、フルター博士がゴム手袋を引っ張るとか、スコット博士がいきなりカメラに向かって話しかけるとか、些細なギャグはしっかりと踏襲されていたりして、オリジナルへのリスペクト度合いが少々不可解。なんだかんだで、カルト映画の”お約束”だけを拝借している印象になのです。


古くは1980年の映画「フェーム」から近年では「Glee」のセカンドシーズンでフィーチャーされて、新たな世代にも浸透している「ロッキー・ホラー・ショー」をリメイクするというのは、無謀なチャレンジではあります。劇場用映画ではなくテレビ映画ではありますが、オリジナル版よりもプロダクションの規模も大きくなっていますし、出演しているキャストたちも、そこそこ良い仕事をしていると思うのですが・・・ケニー・オルテガ監督によるリメイク版は、まったくの”別物”として突き抜けているわけでもなく、といって・・・オリジナル版への愛に満ち溢れているようにも特に感じられません。

「キング・オブ・カルトムービー」を甦えらせるのであれば、オリジナル版に忠実なシャドウキャストのライブの方が、(そのようなスペシャル番組は過去にありますが)素直に”リスペクト”が感じられたのではなかったでしょうか?


「ロッキー・ホラー・ショー:タイムワープ・アゲイン」
原題/ The Rocky Horror Picture Show : Let's Do the Time Wrap Again 
2016年/アメリカ
監督 : ケニー・オルテガ
出演 : ラヴァーン・コックス、ヴィクトリア・ジャスティス、ライアン・マッカータン、アナリー・アッシュフォード、アダム・ランバート、リーブ・カーニー、クリスティーナ・ミリアン、アイビー・レバン、スタッズ・ナール、ベン・ヴァリーン、ジェーン・イーストウッド、ティム・カリー
2016年10月20日、アメリカFOXテレビにて放映
2017年10月18日、国内版DVDリリース



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