”武智鉄二監督”というと・・・まず「白日夢」(1981年公開)が、頭に浮かんでしまいます。公開当時、大島渚監督の「愛のコリーダ」(1976年)に続く”本番映画”(ハードコアポルノ)として大々的に宣伝されたものの作品としての評判は散々で、エロス映画の大御所(?)映画監督による”駄作”という記憶しかありません。
10年ほど前に武智鉄二監督作品の多くがDVD化された際、初めて一連の作品を観る機会があったのですが・・・映画監督としての稚拙さ、民族主義に偏った思想、伝統芸能とエロスの陳腐な融合と、エログロ映画を観尽くしたからこそ堪能できる腐ったチーズのような珍映画監督っぷりに、すっかりボクは魅せられて(?)しまったのです。
「戦後残酷物語」は、1964年版「白日夢」で一世風靡した(?)路加奈子を再び主演に迎えて、武智プロダクションの第一作品として製作された武智鉄二の”映画監督”として(ある意味)脂ののっていた時代の作品であります。
1960年代は、それまでの保守的な既成概念を覆すことが”良し”とされて、革新的な芸術表現ととらえられた”節”があり、エロス映画を「芸術映画=アートフィルム」とする傾向が少なからずあったようです。関西の恵まれた家庭の出身で1940年代~1950年代に「武智歌舞伎」と呼ばれた演出家として知られていた武智鉄二監督ですから、大胆にエロチシズムを描いた作品は(映画としての出来の良し悪しは別に)当時は注目されたとしても不思議ではありません。
小野年子(路加奈子)は、東京の空襲で両親を失い京都の親戚の家に、戦後身を寄せている元(?)お嬢さま・・・闇でストッキングを購入したことで、警察に連行されてしまいます。実は、この警察官は日本人女性を物色していた米兵たちの手先・・・年子は人里離れた山の中へ連れて行かれてしまい、何人もの米兵たちに追い回されたあげくに、年子は全裸にされて米兵たちに輪姦されてしまうのです。
年子は京都に居づらくなり、一人東京へ戻ります。仕事を探しの帰り道、年子はMP(ミリタリーポリス)の”狩り込み”に運悪く遭遇・・・パンパンの疑いをかけられて検挙されてしまいます。この当時、性病感染予防の名目で、検査のために病院へパンパンと疑われた女性たちを連行することが行なわれていたそうです。年子は、疑いは晴れて解放されると思っていたのですが、輪姦された時に性病に感染していたらしく、梅毒の陽性であることが判明してしまいます。
主治医の望月先生(剣持伴紀)に、自分はパンパンではないことを訴えるものの、性病治療のために年子はパンパンらと一緒に入院させられてしまうのです。退院後、身寄りもない年子は行き場はありません。そこで、一緒に捕まったパンパンのカズコ(李麗仙)に誘われて、共に青森の三沢基地へ行くことになります。年子らが立ち去った後、病院は大勢の米軍兵たちに襲われて、看護婦だけでなく入院中の患者まで強姦・・・生まれたばかりの新生児は踏みつけられて殺されてしまうのです。
三沢へ行った年子はパンパンたちの身の回りの世話をしているのですが、ある時、年子は煙草一箱と引換に、米兵たちに体を奪われてしまいます。「どうせ”ヤラレル”なら金を獲れ!」という先輩パンパンのアドバイス(?)により、年子は”パンパン”として街に立つようになります。ある晩、醜男のエミソン軍曹(トム・ハーバー)と出会い、彼に懇願されて”オンリー”してもらうのです。”オンリー”というのは”愛人契約”で、月々の”お手当”をもらうことを条件に専属となることであります。相手を決めずに、その時々の客を取るのは”バタフライ”と呼ばれていたそうです。
オンリーになったことで、進駐軍の慰安施設(専用のナイトクラブ)に出入りするようになった年子は、そこで若くてハンサムなロジャース大尉(ボブ・ベイン)と知り合います。ロジャース大尉には英語をまったく理解することができないオンリーの日本人女性が既にいるのですが、そんなことはおかまいなしに年子はロジャース大尉に接近していくのです。男から男に乗り換えようとする年子の体には、バタフライの影が浮き出たり消えたりと・・・なかなか”ベタな”武智演出の技が冴えます。当然のことながら、年子の出現により、英語を話せないオンリーの存在は、次第にロジャース大尉にとっても邪魔になってくるのです。
屈辱的な扱いを受けながらも、必死に尽す英語の話せないオンリーを、ロジャース大尉は身ぐるみ奪って家から追い出しにかかります。ロジャース大尉が年子と家に戻ると、そこには首を吊った彼女の姿が。それを見て「なんてバカな女だ~」だと、大笑いするロジャース大尉・・・まるで戦前の「鬼畜米英」そのままの米兵の描き方であります。
年子はロジャース大尉のオンリーに成り上がり、自分の家を手にするのです。かつては被害者側だった年子が、あっさりと加害者側の人間になるのには時間はかからなかったということです。さらに、ロジャース大尉の上司であるミラー少佐(マイク・ダニン)のために「女狩り」=「日本人女性を拉致して強姦すること」の手引きを、年子自らすすんで行なうようになるのですから・・・。
米の買い出し途中の娘を無理矢理に連れ去り、アメリカ兵カップルや年子を含む3組でスワッピングに興じます。ロジャース大尉に犯されて泣き叫ぶ日本人娘・・・その姿は、かつて憲兵に騙されて米兵たちに強姦された年子の姿に重なります。ここで流れる音楽がワーグナーの「ワルキューレの騎行」(コッポラ監督の「地獄の黙示録」)なのですから、まるで日本という国がアメリカに強姦されいるかの如くです。娘はロジャース大尉の舌を噛んで反撃・・・ロジャース大尉は絶命して、娘も自らの舌を噛み切って自害してしまいます。そして、日本地図のように散らばったお米に、徐々に血が広がっていくという”ベタすぎる”演出をしてみせる武智鉄二監督は、逆に”あっぱれ”です。
ロジャース大尉を失った年子には、かつてのロジャース大尉のオンリーと同じ運命が待ち受けています。ロジャース大尉がミラー少佐からしていた借金の”カタ”に、年子が暮らしていた家はミラー少佐のものとなり、年子は身ぐるみ剥がされて家から追い出されてしまうのです。ロジャース大尉からもらったダイアモンドの指輪まで、ミラー少佐と彼のオンリーに奪われてしまい・・・年子は再び、生きるために街娼として夜の街に立つことになります。
さらに、性病が再び悪化・・・痩せ細った年子の体は20代前半とは思えないほどボロボロです。治療のために行った病院で、かつて年子を診察した望月先生と再会することとなります。彼は病院が米兵に襲われた後、責任を取って東京の病院を去り、三沢の病院へと都落ちしたとのこと・・・やつれきった二人は、米兵によって人生を狂わされた同志なのかもしれません。望月先生の身の回りの世話をしてあげたい、一緒なりたいという願い・・・それには、まず性病の治療のために何とか金の工面をしなければならないことを、年子は確信するのです。
そこで、年子はミラー少佐とオンリーの暮らす家を訪れて、せめてダイヤモンドの指輪だけでも返して欲しいと懇願します。しかし、そんな年子をあざけ笑いながらムチでいたぶる二人に、吹っ切れたように年子は銃を放ってしまいます。米軍の少佐殺しから逃げきれるわけもなく・・・追い詰められた年子は、河川敷から入水して自ら命を絶つことを選ぶのです。そこで流れるのが、当時流行っていた反戦フォーク調(?)の「小野年子の唄」という武智鉄二監督自身作詞による”トンデモナイ”歌であります。
「小野年子の唄」作詞:武智鉄二
年子はこうして死んでいった
さぎしろの海の果てに
赤々とのぼる太陽のまたないで
年子はこうして死んでいった
てがらとのたすぐ岸辺
米軍のレーダーは黒く影落とし
年子はこうして死んでいった
今日もまた一番機が
朝空を旅立つであろうベトナムへ
年子はこうして死んでいった
やごうだやま吹雪しきり
風花は堕ちて消えてゆく水面に
年子の一生はこうして終わった
こうして終わった
こうして終わった
(語り)戦争はまだ終わらない
空襲で家族を失わなければ・・・闇でストッキングさえ買わなければ・・・騙されて米兵たちに輪姦されなければ・・・MPの狩り込みに遭遇しなければ・・・性病に罹っていなければ・・・パンパンにならなければ・・・エミソン軍曹からロジャース大尉に乗り換えなければ・・・女狩りの手引きをしなければ・・・ロジャース大尉が死ななければ・・・時には運の悪さ、時には自らの選択によって、人生の階段を堕ちてしまった年子に、観客が同情してしまうかというと、ちょっとビミョーなところがあるのです。
同じく占領軍慰安婦を描いた「肉体の門」や「女の防波堤」には、敗戦後の日本を逞しく生き抜いていく”女性の強さ”を感じさせられるのですが・・・”カストリ雑誌”的なメロドラマの「戦後残酷物語」は、堕ちていくヒロインをアメリカに日和った”裏切り者”かのように突き放していて、敗戦後に日本人男性が感じていたであろう”反米思想”を色濃く感じさせるのであります。
同じく占領軍慰安婦を描いた「肉体の門」や「女の防波堤」には、敗戦後の日本を逞しく生き抜いていく”女性の強さ”を感じさせられるのですが・・・”カストリ雑誌”的なメロドラマの「戦後残酷物語」は、堕ちていくヒロインをアメリカに日和った”裏切り者”かのように突き放していて、敗戦後に日本人男性が感じていたであろう”反米思想”を色濃く感じさせるのであります。
本作の物語は、元々ルポルタージュとして出版された「戦後残酷物語 あなたの知らない時に」の第一部「小野年子の遺書」をベースに、本書に収録されている他のエピソードを加えて脚色したモノです。原作はヒロインの一人称ということもあってか、読者の同情心を煽るようなところもあり、映画版ほど反米思想を強く感じさせるわけでもありません。実はこの「戦後残酷物語」・・・1973年のベストセラー「ノストラダムスの大予言」で知られる五島勉氏によって編集されているのです。それ故か(?)原作に書かれている内容の信憑性は疑われ気味・・・さらに、映画は民族主義者で反米思想の持ち主であると知られている武智鉄二が監督したこともあり、本作は事実を歪めた”反米映画”というレッテルを貼られることになってしまいます。
1963年に出版された五島勉氏編集の「戦後残酷物語」ですが・・・実はこの本には”元”になった別の書籍が存在するのです。GHQの占領下が終わって間もない1953年に出版された「日本の貞操 外国兵に犯された女性たちの手記」という本で、出版当時は「日本の貞操」という言葉が流行語のようになるほどベストセラーとなったそうです。帯には「新映プロ映画化」と謳われていたり、平塚らいてう、神近市子、久布白落実、などの女性運動家に加えて、野間宏や安部公房などの著名作家からも推薦されていることから、出版当時は”まともな”書籍として世間で受け止められていたことが伺えます。
「日本の貞操」の第一部に「死に臨んで訴える」というタイトルで、小野年子(仮名)の遺書という形で収録されているのですが、この”小野年子”という女性が実在したのか定かではありません。「日本の貞操」は、米兵とパンパンの通訳として働いていた”水野浩”氏によって取材されて、まとめられたとされているのですが・・・この”水野浩”という人物自体、実在したか疑問視するところもあるのです。
「日本の貞操」は、1982年に「死んで臨んでうったえる<空洞の戦後叢書1>」として復刻されるのですが・・・その際に出版社が著作権の確認のために”水野浩”なる人物を捜索したものの見つけることが出来ず、結局無断で再出版となったといわれています。また、”水野浩”という名前で出版されている書籍は、この「日本の貞操」たったの一冊のみ・・・本書で書かれているエピソートの真偽は別として、この”水野浩”という人物はそもそも存在せず、まるっきりの偽名、もしくは、ペンネームとして複数の人物が本書には関わっていたことも推測できてしまうのです。
「小野年子の遺書」以外の「戦後残酷物語」に収録されているエピソードは、1953年に五島勉氏がルポライターとして関わった初めて編集者として関わった書籍である「続・日本の貞操」に収められていたものです。この「続」も、空洞の戦後叢書として「黒い春ー米軍・パンパン・女たちの戦後」と改題されて1985年に復刻されています。「続」は「日本の貞操」がベストセラーになったことを受けて、急いで出版されたようで・・・五島氏自身が取材したのではなく、基地の女性たちをはじめ、一般市民、新聞記者、公務員、学生、基地労働者、金融業者、売春業者、米国兵、国連兵などから集めた”資料”の提供を受けて、まとめられたものだと序文にあります。
「日本の貞操」や「続・日本の貞操」のエピソードを、フィクションと決めつける意見もあるようですが・・・このような事実が一切なかったという証拠もありません。ただ、両書籍に共通しているのは、米兵が行なった日本人への侮辱的な行為を語り継ごうとする強い意志という明らかな”反米思想”なのであります。このような歴史の”振り返り”または”語直し”は、韓国の慰安婦問題と似通ったところがあるのかもしれません。
降伏宣言から僅か3日後から計画が始まり、1945年8月26日には日本政府は特殊慰安施設協会「RAA」を、売春業者側と政府側から5千万円づつ出資して設立するのですが・・・「RAA =Recreation and Amusement Association/余暇娯楽協会」とは名ばかりで、実態は進駐軍専用の「国営売春所」だったのであります。日本各地(大森海岸、向島、若林、銀座、赤羽、福生、調布、立川、三鷹、熱海、箱根、大阪、名古屋、広島、静岡、兵庫、山形、秋田、岩手など)に設置されたRAAには、日本人女性の貞操を守るための”肉体の防波堤”として数万人の女性が雇われたそうで、戦争未亡人や空襲で両親を失った婦女子が多くいたといわれています。
「慰安婦」または「接待婦」とも呼ばれることが多かったようですが・・・戦前教育で「お国のために犠牲になること」を美徳して生きてきた世代ということもあり「特別挺身隊員」という肩書きを信じて疑わなかった者もいたそうです。一日に大勢(多い日は70人も?)の客の相手をしなければならなかったという記録も残されており、今の風俗嬢と比べても相当ハードだったと思われます。当時の金額で月に5万円(現在の貨幣価値で2000万円ぐらい?)稼ぐ女性もいたとも言われていますが・・・精神を病む者や自殺する者が後を絶たなかったらしく、多くの女性が人生を狂わされてしまったことは事実のようです。
RAAの存在は、多くの国民に知られていたわけではなかったらしく・・・敗戦の時に20歳だったボクの母に尋ねても、RAAのことはまったく知らなかったとのこと。1946年秋頃、母は九州の疎開地から東京近郊へ戻ってきたのですが、翌年には生活のために新橋にあった楽譜出版社で校正の仕事をしながら、藤原歌劇団に入団してオペラ歌手として日比谷公会堂などの公演の舞台に立っていたそうです。当時の新橋や日比谷界隈には”パンパン”が多くいたと言われていますが、”パンパン”の姿さえ実際に見たことはなかったと母は言います。また、斎藤秀雄氏(後に桐朋学園学長)が指導していた女性コーラスグループに参加して、立川米軍基地内にあった教会で毎週日曜日に賛美歌を歌っていたそうなのですが、礼拝に参加していた米兵は紳士的な人ばかりで、母によると「米兵が女性を襲う」なんてことは考えもしなかったそうです。敗戦後の日本の記憶というのは、その人の生活圏によって大きく違うということかもしれません。
RAAの「日本女性の純潔を守る」という役割は、結果的には失敗します。開設から僅か7ヶ月後の1946年3月26日には、特殊慰安施設は”表向き”閉鎖となるのですから・・・(ただし、実際に協会がなくなったのは3年後)。公式な閉鎖理由は、アメリカの婦人団体の反対運動があったからと言われていますが、RAA設置後も米兵による性犯罪が減らなかったことや、GHQ軍医から性病感染の懸念などもあったようです。
RAA閉鎖後、慰安婦として働いていた女性は、風俗嬢として赤線(日本人相手の売春)で働き続けた者もいたそうですが、職場を失って街頭に立つ”パンパン”となった者も多くいたと言われています。性病対策のため、MP(ミリタリーポリス)主導で”狩り込み”と呼ばれた検挙を抜き打ちで行なわれることもたびたびあり、通行人だった一般女性が無差別に病院へ連行されて、膣検査を強制されたということさえもあったそうです。
当初は生活苦からパンパンになる女性が多かったようですが、次第に日本国内が復興されていくと、ある程度の英会話ができて、自分の生活水準を上げたいという向上心の強い女性が、パンパンになることもあったそうです。また、自由恋愛の対象として米兵との出会いを求める女性も現れるようになり、パンパンたちとの縄張り争いも起こったといわれています。過去を振り返る時・・・生きるために仕方なくパンパンになるしかない”可哀想な女性”というステレオタイプで考えがちですが、実際には、生活苦からよりも贅沢欲からパンパンになった女性も、結構存在していたということなのかもしれません。
しかし敗戦からさらに年月が経つと、次第にパンパンという存在は世間的には蔑まれ恥ずべき存在となっていきます。それでも、パンパン以外に生きる術のなかった女性たちの中には、朝鮮戦争勃発後に朝鮮半島へ連れて行かれて、在韓米軍の慰安婦となった者もいたそうです。当然ながら・・・韓国人女性も慰安婦に志願したと思われますが、朝鮮戦争中の慰安婦の存在について韓国で論じられることがないというのは、やはり慰安婦問題の原点には「反日感情」があるとしか思えません。
日本人女性が米兵と結婚できるようになるのは、1947年に日本人戦争花嫁法が制定後のことですが、多くの戦争花嫁が渡米するようになったのは、朝鮮戦争勃発後(1950年)のようです。ただ、戦争花嫁=元パンパンという偏見は長い間拭われることなく・・・「戦争花嫁」という響きには、どこかしら侮蔑的なニュアンスが1970年代頃までは残っていたような気がします。
進駐軍慰安婦は、語る人の立場によって「反米」になったり、「反日」になったり、「女性」問題になったりするのです。誰が加害者で誰が被害者なのかさえ、見方によっては変わってしまうし・・・何が正しいかったのかという絶対的な答えもありません。”今”の倫理的な尺度で、過去の責任問題を検証したところで、時間を巻き戻して”やりなおし”ができない以上・・・それぞれの立場で自らの歴史を戒めるしかないのです。
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武智鉄二監督フィルモグラフィー
(*印はDVDリリース、○印はVHSビデオのみリリース)
1963「日本の夜 女・女・女物語」(ドキュメンタリー)*
1964「白日夢」*
1964「紅閨夢」*
1964「黒い雪」*
1966「源氏物語」*
1966「幻日」
1968「戦後残酷物語」*
1968「浮世絵残酷物語」*
1973「スキャンダル夫人」
1981「白日夢」*
1982「白夜夢 第2話」(ビデオ作品)○
1983「花魁」*
1984「高野聖」○
1984「日劇ミュージックホール(復刻集)能艶SAMBA奏」(ビデオ作品)○
1987「白日夢2」*
1987「人喰い 安達原奇談」(ビデオ作品)○
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「戦後残酷物語」
1968年/日本
監督&脚本: 武智鉄二
出演 : 路加奈子、紅千登世、有沢正子、小畑通子、剣持伴紀、月まち子、李麗仙、八木千枝、ポップ・ペイン、マイク・ダニン、トム・ハーバー
1968年2月10日劇場公開
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