2012/08/27

「ビフォア・サンライズ」よりも、もっと切なく美しい!・・・愛を信じたいゲイと愛を信じないゲイの奇跡の週末のラブストーリー~「ウィークエンド/Weekend」~



日本では殆ど制作されることがないジャンルの映画のひとつが、”ゲイの観客”をターゲットにした”ポルノではない”ゲイ映画”ではないでしょうか?アメリカやヨーロッパに限らずアジアなどの各国でも制作されていて・・・政治的なメッセージを持つシリアスな作品から、セクシャリティーを大胆に描いたもの、おバカなラブコメディまで、幅広いジャンルがあります。ただ、低予算のインディーズ作品という場合が殆どで、大々的に劇場公開されることはほ殆どなく、ゲイの人口の多い大都市での単館上映だったり、ゲイ映画祭やDVD販売でしか観ることはできないことが多いようです。いわゆるポルノ映画(AV)ではないのでハードコアのセックスシーンはありませんが、「ブロークバック・マウンテン」程度のセックスシーンは当たり前・・・一応、成人映画(18歳未満不可)なので、○ン○ン丸出しも普通にあったりします。またキャストは、いかにもゲイ好みの役者ばかり揃えて・・・という感じで、一般向けに作られた”ゲイを描いた映画”とは、明らかに違うオーラを放っています。

「ウイークエンド」はインディペンデント系の映画祭で高い評価をされたイギリスの”ゲイ映画”で・・・ゲイ版「ビフォア・サンライズ/恋人までの距離」として、ストレートとかゲイとか関係ない”普遍的な恋愛映画”と紹介されていることが多かったりします。ゲイ以外の観客が、二人のゲイ男性のセックスについての会話に共感することも・・・あるのかもしれません。しかし、それは性別やセクシャリティーを超えて「人として」というような普遍的なものではなく、本作で描かれるのは”ゲイだからこそ”の論点であります。

「ビフォア・サンライズ/恋人までの距離」は、1995年に公開されたイーサン・ホークとジュリー・デルピー主演のラブロマンス・・・興行的には、それほど成功しなかったものの、好きな一作にあげるファンも多い作品です。プタペストからパリへ向かう列車の中で、偶然出会ったウィーンへ向かうアメリカ人男性とパリへ帰るフランス人女性が、ウィーンで下車して、翌日の朝まで語り合って過ごすというお話・・・とは言っても、ウィーンという美しい街の観光映画ではありません。知り合って間もない男にヒョコヒョコ付いていくヒロインに違和感は感じるものの・・・洒落た二人の駆け引きから目が離せなくなってきます。全編に渡ってトコトン語り合う二人・・・哲学的な話、くだらない話、過去の恋愛など、お互いの価値観をぶつけ合って、次第に深く惹かれ合っていきます。しかし、翌朝にはそれぞれ帰路につかなければならない二人は、肉体的に結ばれることはないまま、連絡先を交換することもなく、半年後の再会を約束して別れたところで映画は終わります。

「ウィークエンド」は、イギリスの地方都市ノッティングハムが舞台です。ロンドンとかゲイの人口の多い大きな都市でないというのが、いい雰囲気を出していて・・・木々の囲まれた団地が美しく撮られています。一眼レフカメラのような背景のボケ感、絶妙な位置に固定されたカメラによって切り取られた画面、長回しワンショットでの長台詞の会話シーンなど・・・まるでプライベート・ビデオを観ているような感覚(良くも悪くも!)で、独特の感触を生み出しています。

プールの監視員をしているラッセル(トム・コルン)は、いつものように金曜日の夜、ストレートの友人のジェイミー宅と過ごします。彼の娘のゴットファザー(名付け親)になるほど親しい間柄・・・というのも、ラッセルとジェイミーは、共に生みの親を知らない孤児で12歳のときからの親友であることが、後に会話から判明します。

カミングアウトやゲイに対しての偏見とかを描く意図のない本作では、ジェイミーを始めストレートの友人たちは、ラッセルがゲイであることを自然に受け止めているようです。それでも、ラッセルは疎外感のようなものを感じているようで・・・明日、仕事があるからと早々と彼らの家を立ち去り、ひとりでゲイバーへ向かうのです。ひとりでゲイバーで佇んでいても、手持ち無沙汰なもの・・・漠然と孤独感からは逃れなかったりするものです。ラッセルは、気になる男を追ってトイレにまで付いていきますが、あっさりフラれてしまいます。そこで、ラッセルは別な男とイチャイチャ・・・でも、結果的には、最初にトイレまで追っていった男を自宅にお持ち帰りしたのでした。

ワンナイトスタンド(一夜限りのエッチの相手)のつもりで連れ帰ったのは、アーティスト志望で、ギャラリーで働くグレン(クリス・ニュー)・・・朝起きるやいなや、グレンは自分のアートプロジェクトという名目で、ボイスレコーダー片手に昨晩の出会いから、セックスした感想などの質問していきます。ワンナイトスタンドの翌朝というのは、なんとも微妙な時間・・・この時に初めてお互いの名前を名乗ったり、連絡先を交換したり、お互いの恋愛ステイタス(彼氏がいるとか、同居している相方があるとか)を確かめ合ったりすることもあるのですが、いきなり自分の感情を説明させられるというのは、とっても奇妙なことに違いありません。

朝に一度別れたものの、同じ日の土曜日には、ラッセルの仕事終わりに待ち合わせて、再び一緒に過ごす二人・・・ラッセルの家に戻って、お互いのアイデンティティーを形成するセクシャリティーを赤裸々に語り始めます。グレンは、ゲイであることを誇り(プライド)としていると同時に、ゲイであることに対しての皮肉に溢れています。逆に、ラッセルは普通にゲイとして生きているタイプ。理解のあるストレートの親友にも恵まれているけれど・・・彼らに自分の恋愛のことは決して語ったりしはしません。ゲイであることを恥じているから?ストレートの親友は本当の親友なのだろうか?カミングアウトして、社会的な偏見からも開放されているにも関わらず、自分自身の偏見の呪縛から、実は逃れていないのかもしれない・・・そんな現在のゲイの心情を見事にあぶり出しているのです。

ワンナイトスタンドとして始まった二人の関係は、いつしか忘れがたい関係へと発展していくのですが・・・ここでグレンが告白します。明日(日曜日)、オレゴン州ポートランドの美術大学へ留学するというのです。それも、最低で2年、もしかするともっと長い期間になるかもしれないと・・・。でも、あからさまに傷ついたり落胆するほど、二人の関係が煮詰まっているわけでもありません。ラッセルは、ただ受け入れるしかありません。

さよならパーティーに顔を出したラッセルは、グレンの元カレとの経緯や取り巻く環境を知ることになるのです。結局、土曜日の夜も、再びラッセルの部屋で過ごすことになります。自分のセックスに関して、語りたがらなかったラッセルは、実は過去の男性経験を事細かにパソコンに書き残していて、グレンに読み聞かせます。お互いの過去の男性経験や同性婚について語り合ううちに・・・ボーイフレンド/パートナーを求めているラッセルと、ボーイフレンド/パートナーなんていらないと言い張るグレンの根本的な確執が露になってきます。それでも、お互いに惹かれ合い、カラダを求め合うことには歯止めが利きません。

ここからネタバレを含みます。

ボク個人の趣味ですが・・・ラッセルを演じるトム・コルンがあまりにも素敵で(典型的なハンサムと言えばハンサム)彼が画面に映っているだけで目が離せなくなってしまいまいました。アンドリュー・ヘイ監督は、まずトム・コルンをキャスティングしてから、画的な相性のテストを繰り返してクリス・ニューをキャスティングしたそうで、本作にはトム・コルンの魅力的な存在は欠かせないのです。ただ、冷静になって考えてみれば、この俳優さんは1985年生まれの27歳(おそらく撮影時は26歳?)・・・「自分の息子の年齢じゃん!」と思うと、なんとも複雑な気持ちにさせられるのでした。ちなみに、トム・コルンは私生活ではストレート・・・ボクは完全に騙されました。

日曜日の早朝、まどろみながらベットの中で、グレンがラッセルの父親を演じて、ラッセルにカミングアウトするように言います。孤児で血のつながった父親を知らないラッセルにとって、そんな状況が現実には起こることはあり得ません。「ボクはゲイで女の子が好きじゃないんだ」とカミングアウトするラッセルに、父親役のグレンは、こう答えるのです。「そんなことはどうでもいいことだよ。今までと変わらず愛している。最初に月にいった男になるよりも誇りに思っている・・・」かなり大袈裟な言い回しではあるけど、これはグレンが彼の父親から言われたかった言葉なのでしょう。いや、ゲイの多くの人が、父親からこんな言葉を聞くことができたら・・・と妄想してしまうのかもしれません。

日曜日の昼過ぎには予定通り、ジェイミー宅へ子供の誕生日パーティーに参加しているラッセルですが、気持ちはそこにあらずといった様子です。それを見兼ねて、ジェイミーはラッセルを家の外に呼び出します。今まで、自分のゲイライフについて話すことを避けてきたラッセルですが、思い切って話してみると・・・「それなら駅へグレンを見送りに行くべきだ!」と、娘の誕生日の最中にも関わらず、ジェイミーは車を運転して駅まで送り届けてくれるのです。ジェイミーとラッセルの間にあったストレートとゲイの”壁”というのは、ラッセル自身が自分で勝手に築いていたものであったことに気付かさせます。

「さよなら」を言われるのは嫌いだというグレンは、見送られることを極端に嫌がっています。それは、何かを期待して裏切られる辛さを経験してきたからなのかもしれません。本当はグレンも「愛」や「ボーイフレンド」だって、全部信じたい・・・でも、傷つくことを恐れている自分がいて、「愛」に皮肉になってしまうです。別れのシーンでラッセルがグレンに何を語ったのかは、列車の音で聞こえません・・・その言葉は「愛」を信じて行動したことがあるなら、観客も自分の心に持っているはずなのです。その言葉を受け止めて・・・グレンはアメリカへ旅立っていきます。

もう二度と会わないかもしれない・・・それでも、二人の出会いは「本物」であったという「確信」は「永遠」なのです!

余談ですが・・・「ビフォア・サンライズ」には9年後を描いた「ビフォア・サンセット」という続編が制作されました。余韻を残した前作を見事に裏切る内容で・・・続編というのも”善し悪し”だと思いました。「ウィークエンド」の続編はいりません。




「ウィークエンド」
原題/Weekend
2011年/イギリス
監督&脚本 : アンドリュー・ヘイ
出演    : トム・コルン、クリス・ニュー
2012年9月15日/「第21回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」にて上映



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2012/08/23

インドネシア産「悪魔のいけにえ」は血糊たっぷりのスプラッター”ちゃんぽん”映画・・・シャリーフ・ダーニッシュの怪演が”ミソ”なの!~「マカブル 永遠の血族」~



インドネシアで制作されたアジア映画史上最凶のスプラッター映画があるらしいという噂では聞いていたものの・・・日本では劇場公開されずに、DVDスルーとなっていた「マカブル 永遠の血族」を、遅ればせながらDVDで鑑賞しました。

前評判どおりインドネシア版「悪魔のいけにえ」といえる物語でありましたが、いろいろなスプラッター映画にオマージュを捧げた(パクった?)ような”ちゃんぽん”で・・・随所に痛々しい描写は満載ではあるのですが、ゴア的な要素は若干控えめという感じです。それでも「インドネシアにスプラッター映画あり!」と世界に知らしめた一作であるような気がします。インドネシア人というと、ミクロネシアっぽい人種を想像してしまうのだけど、本作に出演している俳優さんたちは、東南アジア系の風貌の人も入れば、中国系っぽい人もいるし、どこかの西洋人ともミックスしていそう・・・さらに、インド系も混じっているようにも見えるところもあり、結構、人種的には多種多様なんだということを知りました。

物語は、スプラッターにはよくありがち・・・新鮮な展開や、突出したオリジナリティーというのは、正直感じられません。父と母を交通事故でなくしたアジとラディアという兄妹・・・親の遺産を手にしてオーストラリアに移住するという兄アジと妊娠中の妻アストリッドをジャカルタの空港まで見送るために、アジの男友達3人(アラム、エコ、ジミー)と、妹ラディアの6人で車で出発することとなるのです。親の事故とか、遺産とかは、その後の物語に一切関係はないってところも、スプラッター映画にありがちな深い意味のない伏線なのかもしれません。

突然降り出した雨の中、いきなり車の前に現れた若い女性マヤを、6人は森の中の屋敷まで送り届けることになります。屋敷に到着して帰ろうとする6人を、母に紹介したいと無理矢理に屋敷の中へと誘うマヤ・・・実は、この屋敷に住むのは、不老不死のために人肉を食う一族であったのです!屋敷の女主人のダラは、マヤの母親とは思えないほど若々しく、二人いる息子たちは、まったく似ていなくて、兄はデブで無口、弟は冷たいハンサム・・・母親ダラは、娘を送り届けてくれたお礼に、ぜひ夕食をごちそうしたいと6人を引き止めるのです。勿論、この段階では観客には、彼らが何者かであるとか、殺す目的は何かなど、まったく分からないのですが・・・この家族は見てからにして怪し過ぎます!

ここからネタバレを含みます。



食事に薬を盛られて眠ってしまった彼ら(ラディア、エコ、ジミー)は、気がつくと倉庫のような部屋に縛られて拘束されています。別室では男友達のアラムが手術台に縛られており、デブの兄によって首をチェーンソーであっさり切られて殺されてしまいます。ここら辺のくだりは、あきらかに「悪魔のいけにえ」や「ホステル」シリーズを思い起こさせます。ヒロインの妹ラディアは、危機一髪のところデブの兄に逆襲して、逃げることに成功するわけですが・・・ここからは、血みどろになるばかりではなく、顔じゅうボッコボッコの腫れ上がるまで、壮絶な事態が待ち構えております。

さて・・・アジと身重のアストリッドは別々に拘束されてしまっているのですが・・・何とか逃げ込んだ屋敷の一室で、アスリッドは出産するというトンデモナイ事態になってしまいます!どうやら、女主人から出産を促進する薬を盛られたようなのです。血みどろの状態でアスリッドは何とか男の子を産み落とすのですが・・・勿論、赤ん坊は女主人ダラによって持ち去られてしまいます。「屋敷女」以来、妊婦に対する暴力描写が世界的に解禁されてしまったようなところがあって・・・「ムカデ人間2」でも、「ドリームホーム」でも、「セルビアン・フィルム」でも、妊婦はいたぶれまくってます。スプラッター描写の耐性が高いボクでも、妊婦への暴力シーンというのは耐えられません。ショッキングさを追求して、行き着いた先が”妊婦”なのでしょうか?

この一族は不老不死というだけでなく、何故かスゴい怪力の持ち主でもあり、倒しても倒しても生き返ってくるという、人間を超えた存在になっているようです。刺されようとも、焼かれようとも、銃で撃たれようとも、何度も起き上がって襲ってくるのは、まるでモンスターのようでもあります。人肉を食うことで、これほどの能力が身に付くというのは、正直、理解には苦しむところです。屋敷に立ち寄った3人の警官らを含めて、ラジャと赤ん坊以外は、結局、殺されてしまいます。血で床一面が真っ赤に染まった屋敷で、女主人ダラとアジェの死闘となるのですが・・・チェーソーを持って追いかけてくるダラは、まさに女版”レザーフェイス”!物凄い形相でチェンソーを振り回している姿は、トラウマになりそうなほどです。最終的には、ヒロインと赤ん坊は生き残り・・・殺人鬼は最後の最後になっても、まだ生きている痕跡を見せるというのも、スプラッター映画のお約束を守っております。

他のインドネシア映画が、どういうものなかは全く知りませんが・・・本作に関していえば、あらゆるスプラッター映画を研究していて、血糊の分量では、世界的にも負けていないと言えるでしょう!しかし、なんと言っても本作の”ミソ”は、シャリーフ・ダーニッシュという女優さんの、台詞は”棒読み”の不思議な怪演に尽きるのであります。




「マカブル 永遠の血族」
原題/Macabre
2009年/インドネシア、シンガポール
監督/脚本 : モー・ブラザーズ
       (キモ・スタンポーエル、ティモ・ティヤハヤント)
出演    : シャリーフ・ダーニッシュ、アリオ・バーユ、ジェリー・エスティール、シギ・ウィマラ、メルダ・セリーヌ、アリフィン・プトゥラ


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2012/08/11

「ナチスが月から攻めてくる!」ってなわけないだろう!?・・・フィンランド発!アメリカを筆頭に世界を皮肉に茶化す超おバカなSF政治コメディ~「アイアン・スカイ/Iron Sky」~



ドイツの”ナチス”は、人類の起こした最悪の犯罪のひとつではあるのだけど・・・第二次世界大戦後は、散々残酷映画のネタにされたものです。それは戦争に勝った国々(西ヨーロッパやアメリカ)からすれば当然のことで・・・”ナチス”は世界の誰もが認める悪者だということ。”ナチス”以外にも、冷戦状態にあったロシアだって、テロリスト扱いのイスラム圏の国々だって似たような扱いを受けているのですが、やっぱり悪者といえば”ナチス”。歴史的には”悪”の烙印を押されるのは当然ですが・・・いつまでも”ナチス”の悪者として描かれ続けなければならないドイツ人って、ちょっと気の毒な気もしてしまいます。

中国、韓国からみたら、日本だって”ナチス”ぐらいに”悪者”ではあるわけで、日本人(日本軍)を悪者にした映画も相当数製作されています。日本人=悪者とするステレオタイプは、隣国からなくなることはないのかもしれません。ただ、日本人の国民性やカルチャーも欧米で好意的に受け取られているおかげもあってか、世界的に日本=悪者という図式が当たり前とまでなっていないのは救いではないかと思います。

日本人からすると、時間や規則をしっかりと守りそうな国民性や、工業国として親近感を感じるドイツ人ですが・・・ヨーロッパの国々からは決して好かれているわけではないようなんです。ドイツ人が集まるリゾート地はドイツ以外のヨーロッパの人が来なくなってドイツ人だけになってしまう・・・と言われるほど。ビールを飲んで騒いで野蛮、文化の繊細さに欠けると国民性が、どうやら毛嫌いいるらしいのです。確かに経済ではユーロ圏を牽引しているドイツでありますが・・・なんとなく嫌煙されているからこそ、いまだに”ナチス”という過去を持ち出されてしまうというのかもしれません。

フィンランド人のティモ・プオレンソーラ監督による「アイアン・スカイ/Iron Sky」は、世界各国の映画ファンやSFファンから出資を募って、総制作費の750万ユーロのうち、約65万ユーロを個人からのカンパを集めてしまったという・・・”全世界待望”(?)されているに違いない一作なのです。アメリカでは決して評判は良くなかったようですが、ヨーロッパ各国では大ヒット・・・すでに、続編と前日譚の製作も決定しているそうです。

2018年、月に資源調査にでかけたアメリカの「リバティ号」・・・実は月面裏側に逃げ延びていたナチスは反撃の機会を狙っていたのです!ナチス軍営の総統を演じるのは、毎度”この手の役には”お馴染みのウド・キアー。これだけでも、かなり”おバカ映画”の確信犯さを垣間見せているのですが・・・ナチス軍営が「悪役」というわけでは全然なく、地球側(アメリカ)も酷い(!)・・・どちらも馬鹿にしているところが、ドイツとアメリカ以外の国にとっては、笑いのツボかもしれません。

”サラ・ペイリンのそっくりさん”の保守系アメリカ女性大統領が、とにかく酷い・・・黒人宇宙飛行士を月に送ったのも、彼女が”大統領再選”を狙っての人気取りのためだというのですから!月でナチスに捕らえられてしまった黒人宇宙飛行士は、白人になってしまう薬を投与されてしまいます。ナチスはユダヤ人迫害で知られていますが、黒人に対しての差別も強いものでした。ただ、黒人が白人にされてしまう設定って、アメリカ人(黒人、白人、どちらも)からすると、あまり心地よいものではありません。アルバイノの呼ばれる色素異常で黒人の血を引き継ぎながら色素のなく、ブロンドでブルーの瞳という黒人も存在するのですが(マイケル・ジャクソンも色素異常を主張していた)・・・非常にデリケートな問題です。真面目なドキュメンタリー報道番組でも取り扱われることも殆どなく・・・白人が黒塗りで黒人になる、または、黒人が白塗りで白人になるというのは、ジョークにしてもギリギリなような気がします。

アメリカ側の参謀たちは、妙にセクシーな若者ばっかり・・・司令官となる女性はみてからに品がなく、黒いラバースーツに身を包んで羽根を背負って宇宙戦艦で指示を出しているのは、まるで悪役にしか見えません。「第一期で戦争を始めた大統領は第二期にも再選されるわ~」と”ナチス”のニューヨーク襲撃を大歓迎・・・「オーストラリアとか爆弾投下する必要がなくなったわ」とは、なんとも不謹慎。国際会議で勝手に”ナチス軍”と戦争を始めたことを突っ込まれると「約束破るのは、アメリカのいつものやり方よ」と開き直る始末。北朝鮮が「我々の仕業だ~!」と悪ぶってみても「おまいらに、そんな技術はないよ」と、誰にも相手にされません。日本なんて、それ以前に存在感なしですが・・・唯一、アメリカの言うことを聞かずに戦争に参加しないのが、フィンランドというところは、監督の母国へのリスペクトなのでしょうか?

ここからネタバレを含みます。

ただ、おバカなパロディ映画にしては、宇宙の戦闘シーンはしっかりと作られております。明らかにエンタープライズ号を意識したコックピットに、スターウォーズっぽい音楽・・・ただ、ナチスは宇宙船まで開発しているくせに、コンピューター技術は遅れていてスマートフォンとか信じられないというありさま。結局、アメリカ軍がナチス軍を制圧するのですが・・・月面には人類の夢のエネルギー/核融合に必要なヘリウム3の鉱山がナチス軍によって発見されていた事がが分かると、その利権をアメリカが勝手に主張し始めます。結局・・・世界各国が利権を争って戦い、地球の国々は自爆してしまうのですから、なんという皮肉。その時に流れるのがアメリカ国歌というところは、かなり意地悪い・・・アメリカで人気なかったのも納得です。ナチスの女性司令官と黒人宇宙飛行士(白人から黒人に戻って)が、月に残されたナチスの基地で結ばれるというハッピーエンドなのか分からないエンディングも、ハリウッド映画とはひと味違います。B級映画のパロディと全世界を敵にまわすような政治風刺の好き放題っぷりが、”あっぱれ”な作品なのでした。




「アイアン・スカイ」
原題/Iron Sky
2012年/フィンランド、ドイツ、オーストリア
監督 : ティモ・プオレンソーラ
出演 : ジュリア・デーツ、クリストファー・カービー、ゲッツ・オットー、ペータ・サージェント、ステファニー・ポール、ウド・キアー
2012年9月28日より日本公開


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2012/08/04

ファッションの未来性を示した”コム・デ・ギャルソン”と”ヨージ・ヤマモト”を超えるデザイナーの不在・・・・30年を振り返るにはあまりにも貧しく偏った展示~「FUTURE BEAUTY 日本ファッションの未来性」東京都現代美術館~



2010年〜2011年にロンドンとミュンヘンで開催された「FUTURE BEAUTY 30 Years of Japanese Fashion」展に、新たな作品(2000年以降に設立された15ブランド)を加えてヴァージョンアップした「FUTURE BEAUTY 日本ファッションの未来性」が、東京都現代美術館で開催されています。歴史を振り返る展覧会で、ボク自身がリアルタイムで目撃してきた内容の展覧会というのは初めて・・・それだけボクが年取った証拠ではあるわけですが、リアルタイムで体験しているからこそ、どの部分をピックアップして編集されているのか、どうしても厳しい目で見てしまうものです。

思い起こせば・・・ボクがファッションに目覚めたのは18歳の頃。1981年に渡米する直前のことでした。高校在学時代は、ファッションに全く関心がなく、母親が買ってきた服を文句も言わずに素直に着ていたのです。一ヶ月ほど先の渡米を控えて、初めて自分で服を購入しました。アルバイトで溜めた10万円を握りしめて、ボクは今はなき”パルコPart3”へ向かったのでした。どういう情報を元に、ボクがパルコへ向かったのか全く記憶がないんですが・・・当時のパルコPart3の地下はメンズフロアで、コム・デ・ギャルソン、ヨージ・ヤマモト、DOMON(トキオ・クマガイ)、そしてYMOの高橋ヒロユキのデザインするラインなど、東京の尖ったブランドが揃っていたのです。各ブランドを売り場をじっくりと物色して、最終的にボクが購入したのは、DOMONのドレープした襟が特徴の茶色のスウェット素材のトップスと、極端に幅の広いデニムジーンズ・・・その頃、流行し始めていたテクノっぽいカジュアルウェアで、渡米用に一張羅のスーツを買ってくると思っていた母には不評でした。



本展覧会は「陰翳礼賛」「平面性」「伝統と革新」「日常に潜む前衛」の4つのセクションに分かれています。「陰翳礼賛」ではコム・デ・ギャルソンとヨージ・ヤマモトの1893年以降(パリ・コレクション参加以降)の発表当時は”乞食ルック”と呼ばれた無彩色の作品からジュンヤ・ワタナベまでが並べられています。ループ状の太いニットが絡み合っているセーター、切りっぱなしで切り抜かれた大きな穴がレースのような効果をもたらしているルーズなドレス、切りっぱなしの生地テープをデコラティブに縫いつけたトップスなど・・・発表当時はアメリカ在住だったボクは、雑誌でしか見たことなかった歴史的な作品らも初めて目にすることができました。

「平面性」「伝統と革新」は・・・(展覧会のカタログを見るかぎり)日本独自の編集をしているらしく、海外では別セクションで展示されていたらしい三宅一生、コム・デ.ギャルソン(ジュンヤ・ワタナベやタオ・クリハラを含む)、ヨージ・ヤマモトの代表的な作品と、ネクスト・ジェネレーションとして海外では展示されていたアンダーカバー、ソマルタ、ミントデザインズ、ミナペルホネンなどを加えた展示でありまして・・・正直,「平面性」と「伝統と革新」という大きなテーマを伝えるのには不十分な展示数と作品の選択でありました。

海外では「COOL JAPAN」というセクションとして、”かわいい”にこだわるストリート・ファッションやアニメやマンガへ通じるコスプレの世界を紹介していたようなのですが・・・日本では「日常に潜む前衛」として2000年以降に設立された若手ブランド15組の作品を展示しているのですが・・・これが酷い。いわゆる、アーティスティック一辺倒のアプローチではなく、実際に着れる(売れる)日常の服へと落とし込んだなかに、日本らしい前衛性があるとでも言いたいのでしょうが・・・過去の日本ファッションからの遺産ともいえる斬新なディテールをディフージョンラインのように焼き直したような服や、イギリスなどの伝統的な服の持っていた”テイスト感”をマクロなディテールで再現しているだけのユーティリテーウェア(作業服)や、ヒップホップやストリートファッションからインスピレーションを受けた流行を後追いしてデザイナーウェアという無意味な付加価値を加えただけのカジュアルウェアなど、現在の日本ファンションが抱える根本的な問題を明らかにしていました。

1980年代初頭に、コム・デ・ギャルソンやヨージ・ヤマモトが起こした革命とは、単に立体裁断によって構築されていた西洋のファッションのルールを破ったことや、黒を中心とした無彩色の好んで使ったことや、切りっぱなしや非対称の(西洋的な概念では未完成とも思える)服であったこと”だけ”ではなく・・・女性の社会進出によって大きく変化し始めた女性のイメージを表現したことだったと思います。女性のセクシャリティーをアピールしたファッションではなく・・・といって当時パリで発表されていアメリカンフットボール選手のような巨大なショルダーパッドで”強さ”ばかりを強調した女性像とも違います。無愛想な表情をしたモデル達が淡々とランウェイを歩く様子は、男性(もしくは女性らしさ)に媚びた愛嬌さえ感じられません。「セクシー」も「かわいい」も目指していない・・・モノ・セクシャル的な女性の存在価値観こそが、日本ファッションが西洋の文化に於いて「未来」を感じさせる理由であるのではないかとボクは思うのです。二次元のアニメやマンガの世界を再現するコスプレは、ある意味、1980年代に起こった女性像からは逆行しているようなもの・・・ゴスロリやメイド服など、既成概念に女性を押し込めているのですから。ただ、それを女性自らが求めるようになったということは、日本人の女性が無意識に歴史を逆行しているということなのかもしれません。それもまた「時代」であるのですが。

会場を闊歩するコム・デ・ギャルソン(ヴィンテージ?)を着こなした”コムデおばさん”を数名をお見かけしました・・・そして、コム・デ・ギャルソン、または、コムデ風のファッションは、近い将来”シニア服”になるんだろうなぁ~と思えたのでした。革新的であったファッションも時が経つと”過去の衣服”になってしまうという「流行」の残酷さ・・・だからこそ、ある時代を映した”作品”として残していく意味があるのかもしれません。しかし、今の日本ファッションとして展示されていた洋服が、30年後に”作品”として、美術館で展示されるほどの存在意味を持つとは、到底思えません。何故なら・・・若手デザイナーの趣味嗜好やリスペクトする世界観を表現したに過ぎない服は、衣服文化として数十年後に昇華することもなく、メディアに消費されていくだけだから。今は、まるで第2時世界大戦後、パリの流行に世界中の女性が振り回されたように、ファッションは情報としてインターネット経由で拡散・・・ステレオタイプのイメージ(***ルックなど)の使い古された”知能指数の低い”トレンドが蔓延する時代になってしまいました。

コム・デ・ギャルソンやヨージ・ヤマモトの後にコム・デ・ギャルソンやヨージ・ヤマモトを超える存在なし。日本ファッションの”未来性”は永遠に二人に委ねられたまま・・・21世紀に女性の意識が歴史を逆行していくとは、誰が想像できたでしょう。

「FUTURE BEAUTY 日本ファッションの未来性」
東京都現代美術館
2012年10月8日まで


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2012/07/30

クリストファー・ノーラン監督の”ダークナイト”最終章は辻褄の合わない展開でツッコミどころ満載・・・正義と悪の境界線の揺らぎを描くシリーズはお粗末に終わる!?~「ダークナイト ライジング/The Dark Knight Rises」~



クリストファー・ノーラン監督による”ダークナイト”シリーズ完結編「ダークナイト ライジング」は、前2作と同様に繰り返し観る作品になることは確実ではあるのだけど・・・頭をかしげてしまうところもある作品でもありました。観ようと思っている人は、ネタバレを聞かされる前に映画館へ観にいくことをお奨めします・・・ただ「バットマン ビギンズ」と「ダークナイト」を復習しておいた方が、完結編である本作で回収される伏線を楽しむことができるでしょう。また、前作では冒頭の銀行強盗シーンだけだったIMAXカメラでの撮影が、本作では随所に使用されているので、IMAXシアターで観るべきだと思います。

1960年代に制作された実写版テレビシリーズのアメコミ調のコミカルな「バットマン」よりも、ティム・バートン監督の「バットマン」シリーズは「ダークなファンタジー」として公開当時は受けとられていました。クリストファー・ノーラン監督の”ダークナイト”シリーズは、現実的な世界観でブルース・ウェイン/バットマンの内面を描くという、よりシリアスなシリーズとなりました。「正義とか何か?」という根源的な疑問を投げかけてくる・・・一般的なアメコミヒーロー映画を超えた風格を感じさせる作品となったのです。クリストファー・ノーラン監督を始め、主演のクリスチャン・ベールの他、マイケル・ケイン、ゲイリー・オールドマン、リーアム.ニーソン、キリアン・マフィー、そして本作の悪役のトム・ハーディまでのがイギリス出身というのもシリーズ全体の雰囲気に影響を与えているのではないかと思います。

前作「ダークナイト」で、今は亡きヒース・レジャーが演じた悪役ジョーカーは圧倒的な存在感で、バットマンを食ってしまったとといっても過言ではないでしょう。ジョーカーの目的は、何かを盗むとか、人を殺すとかが目的ではなく、ただ世の中に混乱に陥れること・・・人間の卑しさや弱さを試すような究極の選択を突きつけ、神の秩序から人々を解き放とうとするのです。エデンの園は神の秩序によって管理されている楽園・・・禁断の果実を食べてしまったアダムとイブは追放されるわけですが、それは同時に、秩序から開放され自由を手にしたとも言えます。ジョーカーの存在は、正義という概念があることが前提・・・しかし、”正義”という考え方こそ、この世の中の争いを生んでいるのではないか?・・・とも、考えさせられてしまいます。ハービー・デントをヒーローに仕立て上げて施行された”デント法”によって”悪い奴ら”を検挙しまくったおかげで、ゴッサムは平和になりました・・・というのは、立場を変えれば、”正義”をふりかざす”恐怖政治”みたいなものでもあります。

光と影の境界線を揺るがせてしまうジョーカーの危険な思想に感化されてしまう人が実際に出てきてしまうのではないか・・・「ダークナイト」を観た時に不安をボクは感じていました。先日、コロラド州の映画館で「ダークナイト ライジング」初日上映中に、24歳の男性がジョーカーの扮装をして劇場内で銃乱射・・・多くの観客を殺害しました。先に逃げ出そうとした者をターゲットにしていたという報道もあります。逃げようとするのは人間としての本能だとは思いますが、自分”だけ”でも助かろうとする人間の弱さを見せた者から殺すというのは、まさにジョーカー的な発想ではあります。映画が表現することを規制することには絶対的に反対ですが・・・時に、映画作品は犯罪者のマインドに大きく影響してしまうこともあるということです。それにしても、これほどの事件が起こっても銃規制運動が活発にならないのが、さすが銃を保持する権利を優先するアメリカのお国柄・・・自分の身は自分で守り必要があれば自ら武器を手にして戦うべきということには、揺るぎはないようです。

「ブロンソン」で、バルク系マッチョに肉体改造してから話題作に出演しまくりのトム・ハーディが演じる、本作の悪役ベインは、怪物のように喧嘩が強いだけでなく・・・株式市場を操作して金持ちの資産を奪い、一方的に市民裁判で極刑に処するという”革命”を起こします。ジョーカーが、ただ混乱を巻き起こそうとするのとは違い・・・”正義”を訴えて、行なおうとしている”革命”が、「善」か「悪」かは、立場によって変わってきてしまうかもしれません。監督によると本作の脚本は、昨年に起こったニューヨークのウォール街占拠事件以前に書き終わっていたということですが・・・アメリカの個人資産のうちの半分を1%の超富裕層が所有していることや、金融関連企業への優遇など、格差社会を助長するような社会の仕組みへの批判と怒りは、ベインと似た主張ではあるのです。といって、ベインのテロ行為とウォール街占拠のデモ行動とは、まったく人道的には異なりますが・・・。

ブルース・ウェインは、明らかに1%側にいる超富裕層・・・彼の膨大な資産なしではバットマンになることさえ経済的に不可能です。勿論・・・新自由主義が訴えるように、持つ者が正しい投資や援助をすることで、世の中の役にたつということはあるかもしれません。しかし、成功へのモチベーションとなっていたアメリカンドーリームは、一部のプロアスリートか音楽アーティストにしか叶えられない、”貧困層摂取”のおいしいエサであることが、バレてしまった今・・・富裕層の唱える”正義”に、どれほど説得力があるのでしょうか?ただ、ウォール街での「99%側の主張」というのが、イマイチ何を求めているのか分かりにかったように・・・ベインの金持ちを殺して街ごと核兵器で爆破というのも、一体何を求めて、何に向かっていこうとしているのかが、よく分かりません。ジョーカーであれば行動が無意味であること自体も目的となり得るのですが・・・ベインの暴走の本当の理由が判明したとき、”肩すかし”をくらってしまうことになります。

ここからネタバレを含みます。


ウェイン財団の顧問のひとりとしてブルース・ウェインからも信頼され、レイチェル亡き後の恋人となるミランダ・・・彼女が、実はラーズ・アル・グールの娘で、父親のゴッサムを灰にするという意志を引き継ぎ・・・”奈落”と呼ばれる監獄生まれたミランダと出会い、彼女を愛するようになったベインがミランダに協力したという”理由づけ”は、悪役としてのモチベーションとしては”ゆるい”ような気がします。「バットマン ビギン」で、ブルース・ウェインに訓練をしたラーズ・アル・グールは、自らの”影の軍団”と名乗り人間社会を崩壊させて理想郷を築くことは目的なのですが・・・ラーズ・アル・グールの意志を継ぐ娘(ミランダ)と、彼女を愛してしまった故に破壊に手を染めることになってしまった男(ベイン)としてしまったのでは・・・正義と悪の境界線の揺らぎを描いてきた”ダークナイト”シリーズなのに、単なる「親の敵討ち」の物語に逆戻りさせてしまったのはお粗末としか言いようがありません。

本作の話題のひとつが、アン・ハサウェイ演じるセリーナことキャット・ウーマンの登場です。母親の形見の真珠の首飾りを盗んだ泥棒でありながら、ツンデレな態度でバットマン/ブルース・ウィエンと、不思議な関係を築いています。バットマンと協力してベインのテロ計画を阻止するのですが・・・ハッキリ言って、彼女のモチベーションがイマイチ不明。人物の全ての記録を消却できるソフトのため(犯罪者という過去を消して生きたい)という理屈になっているけど、キャットウーマンならUSBメモリぐらい盗めるでしょう?ブルース・ウェインとは、それほど一緒に過ごす時間なんてないにも関わらず・・・最後には恋愛関係も匂わすせるというのも、なんとも唐突・・・なんだかんだで、セリーナはブルース・ウェインに一目惚れしてしまっていたということなのでしょうか?

おそらく、本作で一番辻褄が合わないのが・・・ベインと戦って倒れたバットマンが、かつてベインが閉じ込められていたという脱出不可能と言われる”奈落”に閉じ込められながらも、何とか自力で脱出した後、いきなりゴッサムに現れることでしょう。ゴッサムはベインの仕掛けた核爆弾テロによって、軍隊により出入りを完全に封鎖されていているはずなのですが、まさに”ひょっこり”と、キャットウーマンの目の前に例のソフトの入ったUSBメモリを持参して登場するのです。”奈落”のロケーションは、どこなのかハッキリとはさせていませんが・・・ゴッサム内であるわけないし、周辺の地形的にも街の近くとは思えません。また・・・殆ど警官が閉じ込められるという状況も、マンホールなどから逃げ出すこともしないなんて、危機管理からしてあり得ないことです。それでも、食料と水は十分にあるというのだから、緊迫感があるのか、ないのかも、分かりません。さらに・・・ベインの仕掛けた核爆弾は、バットマンによってゴッサムの街から運ばれて、海の上で爆発させることになるのですが、核汚染のこと考えたら、海の上だからって、核融合発電できるほどの核を爆破させて「めでたし、めでたし」では終わらないはずです。

ツッコミどころを探したらキリがないというのは、”ダークナイト”シリーズ共通の問題ではあるのですが、本作は細かいことを言い始めたら、物語が破綻しているとしか思えないほど・・・酷い!それでも、また何度も観たくなってしまうのは、クリストファー・ノーラン監督の表現する終末的な画(え)としての世界観の完成度の高さと訴えてくるテーマに、強く心を揺さぶられるから他なりません。


「ダークナイト ライジング」
原題/The Dark Knight RIsing
2012年/アメリカ、イギリス
監督 : クリストファー・ノーラン
出演 : クリスチャン・ベール、マイケル・ケイン、トム・ハーディ、ゲイリー・オールドマン、アン・ハサウェイ、モーガン・フリーマン、ジョゼフ・ゴードン=レビット、マリオン・コティヤール、マシュー・モディーン、リーアム・ニーソン、キリアン・マーフィ



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2012/07/26

ニコラス・ウィンディング・レフン監督による”暴力劇場”・・・トム・ハーディの”粗チン”っぷりもハマってるの!~「ブロンソン/Bronson」~



今年、日本でも公開されたライアン・ゴスリング主演の「ドライヴ」で、カルト的人気と知名度を上げたデンマーク出身のニコラス・ウィンディング・レフン(Nicolas Winding Refn)・・・今、暴力の美学を描かせたら右に出る映画監督はおりません!テーマ的にも登場人物の殆どが「おとこ」ばっかり・・・そんレフン監督のなかでも、まさに”暴力”そのものを描いたのが「ブロンソン/Bronson」であります。

主演は、現在、最も注目される”カメレオン俳優”のトム・ハーディ・・・舞台俳優としても活動している”実力派”で、最近は「インセプション」「裏切りのサーカス」「ブラック&ホワイト」と続けて話題作に出演しています。作品によってがらりと雰囲気が違うのですが・・・「ブロンソン」以降は、鍛えたマッチョな体型とイギリス訛りが、ハリウッドを魅了しているみたいです。「ダークナイト・ライジング」では、バットマン最悪の敵ベインを演じているし、来年公開予定の「マッドマックス」最新作でも主演と、日本でのブレイクは必然。本作「ブロンソン」も近い日に、劇場公開かDVDリリースされるかもしれません。

「ブロンソン」は、今なお服役中でイギリスで最も危険な囚人と言われている実在の人物・・・”ブロンソン”こと”マイケル・ピーターソン”の半生を描いている作品。子供の時から乱暴者で喧嘩つ早く、教師や警官相手に暴れまくり・・・つまらない郵便局強盗で懲役7年を食らってしまうのが、22歳のとき。刑務所では、何かと看守にたちに喧嘩を売り続けて、精神病棟にも入れられたりしながら・・・69日間”だけ”出所してアンダーグラウンドのボクサーとして小銭を稼いだりもします。その時に名乗っていたリングネームの”チャールズ・ブロンソン”(1970年代に活躍したアクション男優)から、彼は”ブロンソン”と呼ばれるようになるのです。しかし、惚れた女のために宝石強盗して再び逮捕・・・そのからは刑務所で暴れまくり続けて、120回以上も移転を繰り返しており、34年間の刑務所生活のうち30年を独房で過ごすという凶暴さ・・・しかし、殺人は一度も犯してはいないのであります。

本作は、ブロンソンが劇場の舞台で上流階級の観客に向かって、自らの半生をモノローグで語る”ひとり芝居”によって進行していきます。ロンドン芸術大学(セント・マーティン)で演劇を学んで、舞台俳優としても活躍しているトム.ハーディだからこそ演じられるシーンで・・・白塗りのピエロのような化粧した顔の表情を自在に動かして、いろんな役柄を演じ分けてながらブロンソンの半生を振り返っていきます。

刑務所内では何かにつけて暴れて、そのたび独房送りを繰り返すブロンソンの暴力の源が、何かというのはよく分かりません。精神病棟でペットシップボーイズの「It's a Sin」の爆音に合わせて患者たちが踊るというシュールな空間で注射で朦朧としていたブロンソンを小馬鹿にした患者に仕返しをしたり、刑務所の施設で彼にアートの楽しさを教えた先生までも拉致してしまう・・・そんなことすれば、直ちに看守に押さえつけられて懲罰を受けるのは分かりきったこと。それでも、ブロンソンは看守を挑発して暴れることを決して止めないのです。

独房で看守のひとりを人質にして何を要求するのかと思えば、特に何かを考えていたわけでもなく・・・人質に手伝わせて、全身にバターを塗って、何人もの看守との戦いに挑むというアナーキーで無意味な行動にでます。高脂肪摂取とトレーニングで、実在のブロンソン本人のガチムチ体型に肉体改造したというトム・ハーディ・・・いかにも労働者階級の乱暴者らしさが滲み出る見事な役作りと、「ダークナイト」でジョーカーを演じたヒース・レジャーと並ぶほどの狂気に満ちた渾身の演技をみせています。全裸シーンで注目してしまったのは・・・トム・ハーディの「粗チン」っぷり!(「シェイム」のマイケル・ファスビンダーとは大違い!)これは肉体改造の結果でもないし、演技力うんぬんではない部分でありますが・・・ブロンソンという人物が「どうして、これほどまでに暴力的なのか?」の、ひとつの答えになっているようにボクには思えたのです。

男って・・・いろんな理由でコンプレックスを感じて、それをバネにツッパっているところというのは、多かれ少なかれあったりします。貧しい出身だったり、人一倍金持ちに対して妬みを持って育った人が、大金を持つと成金になるのもコンプレックスの裏返し。ただ、社会的なコンプレックスは、ある程度経済的な成功を手にすることで解消されるかもしれないけれど、肉体的なコンプレックスは、(整形手術とかで何とか解決することもありますが)厄介なもんです。例えば、背の小さい男が負けず嫌いで、何故か胸を張って偉そうに歩いているというのは、よくあること・・・背が低いことよりも、第三者には分かりにくく、理由もなく根深いのが、アソコのサイズのコンプレックスだと思うのです。

そこそこハンサムなのに何故か自信なさげの男と、ちんちくりんのネズミ男なのに妙に自信に満ちあふれている男・・・もしかすると、アソコのサイズが関係しているかもしれません。殆どの男は、大雑把に「普通サイズ」だったりするものですが・・・明らかに「大きい」という人はいます。誰も聞いてもいないのに自ら「俺のはデカい!」と自負する人は、確かに「大きい」ことが多くボク自身の経験上)・・・根拠のない自信にあふれていたりします。対照的に「小さい」人は、根拠ない自信のなさを支配されてしまうのです。

ブロンソンご本人が、実際に”粗チン”であったのかは分かりませんが・・・本作のトム・ハーディの「包茎短小」っぷりは、ある意味、ハマっております。勿論、すべての”粗チン”の男が、暴力的というわけではありませんが・・・男らしさが自我のすべてだったブロンソンが、他の男から”粗チン”っぷりをバカにされることを、絶対に許すわけがありません。見下される前に、彼は暴力ですべての男を抑圧したかったのかも・・・なんて、ボクは思ったのでした。

21世紀の「時計じかけのオレンジ」と称される本作は・・・80年代ポップとクラシック音楽を暴力にかぶせたり、広角レンズのシンメトリーな構図が多用されていたり、演劇的なモノローグで物語が進行していったり、暴力をユーモアを交えてスタイリッシュに扱ってしまうところなどは・・・明らかにスタンリー・キューブリックの遺伝子を感じさせます。

ただ、アレックス(時計じかけのオレンジ)が、一度は更生されて非暴力的になるものの、最後には再び暴力性を蘇らせるという”ループ”が、ある種のカタルシスを感じさせるのとは違い・・・ブロンソンは、最初から最後まで内面的な成長もなく、暴力を振るい続けるという単細胞さ(実在する人物に忠実なのかもしれませんが)・・・ただ、ブロンソンという人物が「暴力的だけど、どこかチャーミングな男」と思わせてくれるのは、トム・ハーディの魅力そのものであることは確かなのです。どんなに粗チンだって、やっぱり「トム・ハーディ、萌え~!」

「ブロンソン(原題)」
原題/Bronson
2008年/イギリス
監督&脚本 : ニコラス・ウィンディング・レフン
出演    : トム・ハーディ、マット・キング、ジェームス・ランス、アマンダ・バートン、ケリー・アダムス、ジョナサン・フリップス
日本劇場未公開、DVD発売



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2012/07/21

蜷川実花ワールドでお馴染みの”沢尻エリカ劇場”・・・寺島しのぶ演じる”ドMマネージャー”のエグさが堪らない!~「へルタースケルター」~



「へルタースケルター」の撮影終了後の記者会見から沢尻エリカの情緒不安定気味の暴言、役が抜けきれないから休業宣言、麻薬使用の疑惑と、芸能ゴシップ欄を騒がす姑息な”宣伝活動”に、すっかり観る気が萎えてしまっていたのですが・・・あの原作を蜷川実花と沢尻エリカが、どう”表現”しているのか気になって、やっぱり映画館に足を運んでしまったのでした。

原作「へルタースケルター」は、1990年代半ばに連載されていた岡崎京子さんのマンガ・・・ガーリーな絵柄と梅図かずお的(「洗礼」?)なドロドロの物語を融合していているところから、ボクの好きなマンガのひとつです。「女性の美への執着と崇拝」「芸能界での転落」「整形美容手術の恐ろしさ」など、決して目新しいテーマを扱っているわけではないのですが、主人公のモノローグと、詩的な感情表現、時間軸を超えた登場人物たちの言葉、作者の語りが混じり合うというマンガ的表現が巧みでありました。今では、美容のための”プラセンタ治療”が普通になり、高校生がでさえ”プチ整形”を簡単にやってしまい、目の大きさばかりを強調した”ギャルメイク”が流行するなど・・・17年前に現在を予言していたような気がします。

”りりこ”は本名も経歴も謎のトップファッションモデル・・・しかし、デブでブスでデブ専の風俗嬢だった彼女は、眼球、耳、性器以外、すべての全身美容整形手術によって究極の美しさを手に入れたのです。美容整形手術が行なわれるようになった頃から、手術によって容姿を劇的に美しくなった女性が悲劇的な結末を迎えるという物語は、手を替え品を替え描かれてきました。そのなかでも”りりこ”の傲慢っぷりはピカイチ!憎むべき女性像でありながら、美貌には誰もが認めるしかないという存在なのです。そんな”りりこ”役を演じられるのは、絶対的に誰もが認める美女でなければなりません。

沢尻エリカは「別に・・・騒動」以降、叩かれまくられてきましたが、アンチ沢尻エリカの人でも彼女の美貌は認めるところでしょう。マスコミによって作り上げられた(または暴露された?)沢尻エリカ本人を、彷彿とさせる”りりこ”役を演じるということが、毒抜きのような効果があったのか、逆に悪化させてしまったのかは分かりませんが・・・”りりこ”が、情緒不安定になり、暴言を吐き、気が狂ったようになればなるほど、「渾身の演技」なのか、お馴染みの「沢尻エリカ劇場」を見せられているのか、分からなくなってきてしまいます。大胆な脱ぎっぷりで胸を露にしても、体当たりでバックから犯さても・・・”つくりもの”としての美しさだけでエロさを感じさせません。また、ディフォルメしたした演技は、まるで「ドラッグクィーン」のようです。今更、純真な役柄を演じれば「嘘くさい」と叩かれるだろうし、本作のように世間のイメージにピッタリの役柄を演じれば「素でしょ?」と思えてしまう・・・今後、沢尻エリカがどんな役柄を演じれば、色眼鏡のバイアスなしで見ることができるのでしょうか?

ところで、美女が性格が悪くなる理由のひとつって・・・世の中が外見の美醜でしか判断しないという現実を、常に意識しなければいけないからではないかと思います。”ちやほや”されることに苛立ちを感じて、性格の悪さに拍車がかかるのです。そんな苛々している美女に限って、美女を美女として扱わない自信家の男とくっつくってことが、よくあるみたいです。

蜷川実花は、良くも悪くも”写真家”であることを意識している映画監督・・・本作でも、原作マンガからインスピレーションされた”写真家・蜷川実花の世界”を繰り広げています。それは、原作のもっている世界観とも確かにリンクしているのだけど・・・劇映画というよりも「へルタースケルター」にインスピレーションを得たイメージビデオのような印象。思いの外、原作に忠実で原作にある印象的な言葉は、殆ど台詞で再現されているのに、・・・ファッション誌や写真集では効果的な蜷川実花ワールドが、さらに”つくりもの”感を高めてしまって、”りりこ”への感情移入をさせてくれないような気がしました。


沢尻エリカの演技の対極にありながら、特異な存在感を放っているのが寺島しのぶ!!!”りりこ”のマネージャー・羽田ちゃんを演じてるのですが・・・主役である沢尻エリカを食わないように抑えた演技に徹しながらも、蜷川実花ワールドの”つくりもの”には融合しない”生々しさ”がスゴい!”りりこ”の美しさに憧れて、どんな理不尽なことでも従う羽田ちゃんは、”りりこ”に熱狂する世間の女性を象徴しているのかもしれません。ただ、羽田ちゃんが、ただの”りりこ”ファンと違ったのは、主従関係に快感を感じる「ドM」だったこと・・・。年下の彼氏を”りりこ”に寝取られても、犯罪にまで手を染めさせられても、レズビアンセックスの相手でアソコを舐めさせられても、どこまでも”りりこ”に心酔し続けるMっぷりは、なんとも不気味・・・厳しく叱られて罵倒されたり、手足を縛られてお仕置きを受けても、画面の隅っこでニンマリと微笑む”エグさ”が堪りません!

ここからネタバレを含みます。

そんな羽田ちゃんが、崇拝する”りりこ”の過去の秘密をマスコミにバラして芸能界から抹殺させるのは、究極のシモベとして女王さまである”りりこ”を独占するため・・・ある意味、映画では原作以上に羽田ちゃんの望む閉じられた侍従関係が成就する結末となっているような気がします。原作では、マスコミから過去について答える会見前に、片目だけを残して失踪するのですが、映画では違う展開となっています。

整形手術の真偽を答えるという記者会見の舞台で、”りりこ”は自らの手で片目にナイフを突き刺すのです!それまで、蜷川実花ワールドを埋め尽くしていた極彩色を排除した、背広の灰色と止まらないフラッシュの光。それまで賞賛の証であったフラッシュが暴力のように降り注ぐのです・・・まったくの無音で!このシーンは(白い衣装だし)沢尻エリカがテレビコマーシャルで復帰したときの記者会見を思い起こさせます。ただ、赤い羽根に埋め尽くされて、後ろ向きに倒れ込むのは、あまりにも「ブラック・スワン』を意識し過ぎた、お粗末な演出でした。

映画は、”フリークショー”を興じている怪しげなクラブの奥の部屋にいるオーナーになった片目の”りりこ”の姿で終わります。原作では、まだ”りりこ”の物語は続くような余韻を残して終わるので・・・本来であれば、その後の”りりこ”の物語があるはずなのです。ご存知の方が多いとは思いますが・・・原作者の岡崎京子は「へルタースケルター」を執筆終了直後、飲酒運転の車にはねられて、意識不明の重体となり、いまだに療養生活中。事実上の最後の作品となってしまったのが・・・本作「へルタースケルター」。

その後の”りりこ”の冒険は、岡崎京子さんの頭の中で今も構想されているのかもしれません・・・いつか岡崎京子さん自身で描かれることをボクは祈らずにいられないのです。


「へルタースケルター」
2012年/日本
監督 : 蜷川実花
出演 : 沢尻エリカ、大森南明、寺島しのぶ、水原希子、新井浩文、桃井かおり、原田美枝子、綾野剛、哀川翔、寺島進、鈴木杏、窪塚洋介


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2012/07/17

”心のほっこりする癒し”を受け入れられない自分を変えたいの!・・・使い古された「Ku:nel」的”おしゃれ感”と辻褄の合わない”いい人たちのいいお話”に怒り心頭!~「しあわせのパン」~



予告編を観た時から絶対にボクが苦手とするタイプ映画だとは分かっていました・・・でも、いつもいつも”エログロ”だの、”トラウマ”だの、心を乱すような映画ばかりに陶酔している自分に「心が病んでるの?」と、不安になったりすることもあったりするのです。

映画好きの友人と映画談義に盛り上がったとしても・・・ボクの好きな映画を始めると”ドン引き”され、仕舞いには「どうして、そんな映画ばかり好きになってしまったの?」と、マジで心配されてしまうほど。自分でも気付いていないけれど、深い心の闇を抱えているのだろか?もしかすると・・・ボクだって「心がほっこりした」なんて、感想をもつ映画にだって出会うことがあるのかもしれない。そんなことを考えて、たま~に癒し系にも、チャレンジしてみることがあるのです。しかし・・・毎度のことながら、頭を掻きむしりながら、のたうち回ってしまうほど拒否反応をしてしまう自分と向き合うことになってしまいます。

「しあわせのパン」は劇場公開当時、なかなか評判が良かったという印象(ぴあ初日満足度ランキング第1位だってさっ!)がありました。内容はさておき、作品の舞台になっている雄大な北海道の自然の美しさに、ボクの心でさえ洗われるかもしれない・・・と、かすかな希望を抱いてレンタルDVDで鑑賞してみることにしたのです。でも、よ~く考えてみれば、ボクは元々自然に対して無関心だし、炭水化物が好きじゃないのでパンへの思い入れは特になし・・・心に訴える要素や共感ポイントが少なく、ツッコミどころ満載の作品であることは明らかなのでした。

ここからネタバレ、および「しあわせのパン」を好きな方には不快な内容を含んでいます。

水縞(ミズジマ)くん(大泉洋)とえりさん(原田知世)の夫婦が営む「カフェ・マーニ」という北海道の洞爺湖のほとりの”月浦”にあるパンカフェが本作の舞台となっているのですが、そのカフェのロケーションが、かなり辺鄙・・・バスが頻繁に来るとは思えないバス停留所から100メートルほど離れた草原にポツンと建っています。パンを買いにくるお客さんが、大勢いるような様子はなく、2階にあるという宿泊施設にも、泊まりにくるお客さんが殺到している感じもありません。小学校へ給食用のパンを卸しているようだし、もしかするとネット販売で何ヶ月も予約待ちという人気のベーカリーなのかもしれませんが・・・。驚くべきことは、モデルとなったお店が実際にこの場所に存在してるということです。昔、とある田舎町で都内にありそうな、おしゃれな「カフェ」に行ったことがあるのですが・・・妄想の”田舎風スタイル”に少々違和感を感じたことを思い出します。本作にでてくる「カフェ・マーニ」も、スタイリストがつくりあげた”田舎のパンカフェ”という”癒し”のファンタジーとしか思えないのです。

映画の冒頭で登場するのは、理絵さんの初恋相手の”少年マーニ”が登場する「月とマーニ」という(監督自身が本作のために書き下ろした)絵本・・・月を自転車のかごに乗せて東から西に毎晩走っていく”少年マー二”が、眩しい太陽をとってくれと月から頼まれ「大切なのは、君が、照らされていて、君が、照らしているということ」と説き、その後も変わらず月を運び続けているというお話なのですが、りえさんが恋してしまうのは、太陽でも月でもなく、月を運んでいる”少年マーニ”という意味が分かりません。りえさんは、どのような立ち位置で”少年マーニ”をみているのでしょうか?小説版「しあわせのパン」の巻末付録に絵本「月とマーニ」が収録されているのですが、映画では登場しなかった(「太陽=男性、月=女性」のありがちな位置づけとは逆の)太陽を運ぶ”少女ソル”が登場しています・・・ってことは、太陽の”少女ソル”が、りえさんで、その輝きに照らされる月の傍にいる”少年マーニ”を求め続けるってこと?それとも「月=りえさん」で、月に寄り添っている”少年マーニ”を求めているとしたら、いくらなんでも単純すぎます。この絵本は本作の本筋の根幹に関わるところなので、なんとな~くロマンチックという話というのではダメなんです!

唯一の家族だった父親を亡くした後、東京での生活で、たくさんの「大変」が溜まっていたりえさんは、殆ど会話さえ交わしたこともない(会ったのは三度で、会話したのは仕事中のあいさつだけ)ミズジマくんに「月浦で暮らそう?」と誘われて、北海道に移住したのです。まず・・・東京だから「大変」が溜まるというのは、紋切り型の発想のように思います。それに、田舎でパンカフェ始める方が「大変」っちゃ「大変」かもしれません。さらに、田舎で一緒に暮らすといろいろと面倒なことが起こりそうという理由で、夫婦でいる方が良いと「結婚」までしてしまうとは、完全に理解不可能。ただ、これらの状況は、映画の中では説明はなく、小説版の前日談でしか明らかにされていないというのは、なんとも不親切です。映画しか観ていないと、お互いに「りえさん」「ミズジマくん」と呼び合い、二人だけの会話でも敬語という不自然な夫婦にしか見えません。小説版によると、籍は入れずに夫婦を名乗っているだけ・・・・初恋相手のマーニを求め続けているりえさんとは、肉体的には結ばれていないようなのです。本作ではカフェをオープンして2年目を描いているので、この二人は少なくとも、この生活を1年以上過ごしているってことになります!


17歳で主演した「時をかける少女」の時と同じ髪型で変わらぬ透明感を持ち続けている奇跡の44歳といえる原田知世が演じる、りえさんは「Ku : nel」的なゆるいシルエットとナチュラル素材のガーリーなファッションに身を包んでいます。大泉洋演じるミズジマくんも、同じような”田舎の男”スタイルだし、いつものお客として登場する近所に住む人たちのファッションも田舎の人風の「コスプレ」だということ。いつも山高帽の阿部さん(あがた森魚)、郵便配達員(本多力)、農家の八百屋さんの広川夫婦(中村靖日、池谷のぶえ)も、ナチュラル系(「Ku : nel」「リンネル」「天然生活」とか)にありそうな田舎っぽさなのです。さらに気持ち悪いのが・・・いかにも「癒し系でしょう?」という感じでニタニタと笑うところ。田舎に住んでいれば、いつも優しく微笑んでいるとでもいうのでしょうか?特に郵便配達員は、薄ら笑いしながら「りえさん、キレイですね~」と顔を合わせるたびに繰り返すのだから、ちょっと見方を変えたらキモい”ストーカー”です。さらに、近所のガラス作家の”変わり者”のヨーコさん(余貴美子)は、芸術家らしい(?)ヒッピースタイル・・・遠く会話の聞こえる地獄耳(?)で勝手におせっかいするという”変わり者”というキャラ設定を、アピールしているかのようです。




「しあわせのパン」は、夏、秋、冬、春の季節の4つのエピソードで構成されています。これも”癒し”系の邦画に多いパターンで、ひとつ起承転結のあるドラマチックな物語を語るよりも、舞台となる場所にやってくる主人公たちと関わるユニークな人々が紡ぎだすエピソードを並べただけ・・・という、ストーリーテリングよりも雰囲気を優先したつくりということのようです。それぞれのエピソードが実は深い関連性があるとか、各エピソードのテーマが最後に主人公たちに大きく影響を与えるとかであれば、エピソードを並べるだけでも意味があると思えるのですが・・・本作は、パンカフェを舞台にした一話完結のエピソードなのであります。

まず、最初の「夏」エピソードは、りえさんとミズジマくんが、カフェをオープンして1年ちょっと経った時期から始まります。彼氏と行くはずだった沖縄旅行をドタキャンされたので、その腹いせに最初に目に入った札幌行きの飛行機に飛び乗って、北海道に来てしまった伊勢丹の販売員(メンズ館らしい)のカオリ(森カンナ)と、東京に憧れながらも地元北海道から出て行く勇気のない若者トキオ(平岡祐太)のお話。カオリも、りえさんと同じく「東京は大変なんだ」という紋切り型の”都会のイメージ”を体現しているキャラクター・・・どうやら、とにかく監督は「都会は大変で、平和な田舎での癒しを求めている」と思っているらしいのです。逆に田舎に暮らすトキオにとって、東京は輝いている都会・・・「東京は大変だ」と愚痴るカオリに「東京にいられることだけで恵まれている」と噛み付きます。そういう東京志向の強い地方の人というのは、いつの時代にも存在するわけで・・・(最近は地元ラブな若者も増えてきたらしいですが)新鮮なキャラクターというわけでありません。

何故かボートから湖に落ちたカオリ(これもこれで唐突でアリエナイ奇妙な事故ではあるのですが)が、宿泊施設のシャワーを浴びていることを知りつつも、りえさんは薪配達が来たという理由で、トキオにカオリのところへタオルを持っていくように頼むのですが・・・これって、かなり非常識。「薪を運ぶのを手伝って!」なら理解できるのでですが、このような恋愛シュミレーションゲーム的な、物語の進行ありきの展開というのは、観客をバカにしているようにしか思えません。その後のカオリの行動も支離滅裂・・・夜中にわざわざトオルが宿泊している部屋の窓の外で大声で叫び回ったり、急に「明日は誕生日!」と言い出して半ば強引にお誕生日パーティーを開かせるのですから、やりたい放題です。同僚には彼氏と沖縄に行っているこ嘘をついているので、日焼けをしようとしたり、沖縄土産を探そうとするのですが・・・そんな工作をする必要があるならば、北海道なんかに思いつきで来ないで、彼氏なしでも「一人で沖縄行けば良かったんじゃないの?」とツッコミたくなります。

それまで伏線がなかったにも関わらず、突然トキオは線路の切り替えの仕事をしていることを話し始め・・・「電車の線路は簡単に切り替えられるけど、人生はそう簡単には切り替えられない」と、しみじみ語るシーンがあります。そういう”当たり前”のことを大事な”気づき”のように台詞として言われても、心には何も響きません。これは映画の台詞に限らず、最近の歌詞にもみられる現象で、とにかく「耳障りの良いフレーズ」を並べておけば、感動を生むと勘違いしているようなのです。カオリの「一生懸命もがかないと幸せにはなれないよ」という台詞も、上っ面のフレーズにしか聞こえません。だって・・・カオリは一生懸命もがいているんじゃなくて、単に会ったばっかりの見知らぬ他人に、当たっているだけなんだから。それを「一生懸命もがいている私」と解釈してしまう自己陶酔的な発想から脱却出来ない限り、カオリの成長ってないと思うんですけど・・・。

「わけあうたびに わかりあえる 気がする」という本作のキッチコピー・・・これにケチをつけるつもりはないけど、このテーマを伝えようとして繰り返し出てくるのが、パンをふたつに分けて食べるというシーンです。カオリの誕生日パーティーで「クグロフ」というでっかいパンをわざわざトオルに手渡して、カオリと分けて食べさせるのですが、取って付けたようなわざとらしさがあります。何故、りえさんは「一人分ずつを切り分けてあげないの?」って思ってしまいます。いちいち台詞や状況が「伝えたいテーマありき」だと、感動は萎えます。カオリに向かって「素朴なパンも良いでしょ?」と、りえさん自ら「素朴」アピールを台詞でさせてしまうのも押し付けがましい話です。カオリが自分自身の感性で「素朴なパンも良いかも」と気付くことに”意味”があるのですから・・・。

どれくらいの日数がかかるのか分かりませんが、トオルはカオリをバイクで東京まで送ることになります。トオルからすれば「駆け落ち」みたいなものなのですが・・・出会ってまもない男と一緒にバイク旅行というのも、かなり大胆な行動です。りえさんがミズジマくんと北海道まで来てしまったような突飛な行動が前提の本作では、これくらいのことは当たり前なのでしょうか?ただ、カオリが出発前に買い込んだお土産用の大量のパンは、東京に着く頃にはカチカチになっているに違いありません。翌年の春には、トキオとカオリは、どうやら一緒に暮らしているらしいことが、本編の後半で分かります。やっぱり、ふたりは同棲しちゃったんだったんですね・・・おそらく伊勢丹で働くカオリにトキオは食わせてもらっているような気はしますが。

「秋」のエピソードは、近所に住む父親(光石研)と娘ミクちゃん(八木優希)のお話。カフェの前にあるバス停を使っている親子なのだから、近所に住んでいるはずなのですが・・・あまり面識があるわけでもなさそうです。学校に行くバスを乗り過ごしてバス停に立っているミクちゃんは、どこか淋しげ・・・実は、ミクちゃんの母親は家を出ていてしまい、今は父親との二人暮らしで鍵っ子です。ミクちゃんの母親の得意料理がカボチャのポタージュで、本当はお母さんがつくったポタージュを食べたくてしかたないくせに、りえさんが作ってくれると食べずに立ち去ってしまいます。母親の家出するまでの回想シーンでは、カボチャのポタージュを囲む幸せな家族3人での団らんの様子を窓の外から見せ、画面手前に寝たふりで横になっているミクちゃんをドア越しに見つめてから去っていく母親の姿・・・と、かなりベタな表現で説明してくれるのですが、その後の展開は予想通りになります。

りえさんは、わざわざ招待状を書いて、父親とミクちゃんをお店に招待して、改めてカボチャのポタージュをごちそうするのであります。「もうママは帰ってこないのね」としんみりした後、父親にミクちゃんが言う台詞がなんとも気持ち悪いのです。「パパと一緒に泣きたかった」・・・子供がこういう発想するんでしょうか?母親がもう帰ってこないから淋しいという気持ちをぶちまけるので精一杯のはず・・・一緒に泣いて分かち合うというのは、傍観者の大人が好ましいと思う子供の姿です。また「わけあうたびに わかりあえる 気がする」というキャッチコピーのために、またしてもパンは切り分けずに出されます。そんなケチケチしないで「ちゃんと二人分のパンだしてあげれば?」と思ってしまいます。

常連客である阿部さんが何をする人かというのは、この時まで、りえさん達は知らなかったということになっているらしいのも不自然です。父親とミクちゃんがしんみりとするシーンで、いきなりアコーディオンを弾き始めて分かるのですから・・・。常連客であっても職業を尋ねたり、持ち歩いている大きなケースが何であるかを訪ねたりしないということらしいのですが・・・田舎なのに、まるで都会的な距離感の人たちなんですね。それに、実は阿部さんがアコーディオン奏者であったというサプライズって、本作にどれだけの意味があるのでしょうか?親子が帰宅した後、阿部さんに演奏代という名目で、差し出すリンゴのパンが「焼きたて」というのもスゴいことだと思いました。炭のかまどで焼いている天然酵母のパンなのに、夜でも「焼きたて」があるなんて・・・この夫婦は、四六時中パンを焼いているとでもいうのでしょうか?

「冬」のエピソードは、病気を煩っている妻アヤ(渡辺美佐子)と、心中するつもりで冬の北海道にやって来た夫のサカモトさん(中村嘉葎雄)のお話。若い時、プロポーズを断られて北海道を旅していたサカモトさんを追ってきたのは、断ったアヤ本人・・・改めてプロポーズをして結ばれた二人だったのです。繰り返すようですが・・・ホント、本作の監督って、駆け落ちして結ばれるのがお好きみたいです。その後、娘を授かり、関西で風呂屋さんをやっていたのですが、阪神大震災で娘も風呂屋もなくしてしまい・・・やっとのことで風呂屋は再建したとのこと。ただ、妻のアヤは病気になり、夫も日々でできることの限界を感じ始め、ふたりの思い出の地で一緒に死んでしまおうということだったのです。

渡辺美佐子と中村嘉葎雄のベテラン役者の圧倒的な演技力は、本作には不釣り合いなほど存在感があります。パン嫌いの妻が、焼きたてのパンの香りにつられて、思わずむしゃむしゃパンを食べてしまう渡辺美佐子の演技は、単にパンが美味しいとかいう次元(レベル)ではなく・・・人間が生きることの歓びが溢れていて、鬼気迫るところがありました。そして「明日もこのパン食べたい!」という妻の言葉で、思わず我に返る中村嘉葎雄の表情も、彼の心情の変化を雄弁に見せつけてくれます。しばらく滞在することにしたサカモト夫妻と、お馴染みの(?)常連客たち(アコーディオン奏者の阿部さん、郵便配達員、農家の広川夫妻、ガラス作家のヨーコさん)との、おちゃらけたパーティーは、嘘くさい田舎風を絵に描いたような光景で・・・ふたりの静かな熱演を、無駄にしてしまうほどです。長い滞在後、サカモト夫婦は関西に戻り、春にサカモトさんから妻のアヤさんが亡くなったことの報告と、滞在していた時の心情が書かれた手紙が届くのですが・・・繰り返し説明する必要ってあったのでしょうか?観客は十分サカモトさんの心の変化は感じているのですから、すでに観客が感じ取れていることを、繰り返し言葉で説明するなんて・・・お涙頂戴のテレビドラマのすること。エピソードが安っぽくなってしまいました。

サカモト夫妻を電車の駅で見送った後、りえさんはミズジマくんに「ずっと見てて私のこと、ミズジマくんのことも見てるから」と告げます。老夫婦と過ごしたことで、りえさんの気持ちにも変化が現れたということなのでしょうか?最後の「春」のエピソードはミズジマくんとりえさんのお話。ある春の夜、りえさんはミズジマくんに「私のマーニみつけた」と伝えるのです。結局、りえさんいとってのマーニって、月に寄り添って「大切なのは、君が、照らされていて、君が、照らしているということ」と言ってくれるような寄り添ってくれる人ってことだったみたいです。でも・・・月=りえさんだとしたら、月を照らしている輝きの元となる太陽って何なんでしょう?

ミズジマくんがマーニとなったことで、ミズジマくんにとっての「ひとつだけ欲しかったもの」も手に入ったということになるのですが・・これは、主題歌/エンディング曲となっている「ひとつだけ」の歌詞に結びつけようとしているのは見え見えです。一緒に夫婦として暮らしながら、受け入れてもらえなかったミズジマくんがりえさんに受け入れられる・・・すなわち肉体関係を許されるとしか考えようはありません。本作のメインストーリーって、結婚に逃げるように男について来ておきながら、2年近くカラダを許さなかった女が、やっとセックスに応じたって話だったんですね。「私のマーニ」とか訳の分からない”言い訳”を受け入れてあげていたなんて、ミズジマくん、忍耐強いとしかいいようありません。ただ、カラダの関係のゴーサインが出たと思ったら、すぐさまりえさんは妊娠発覚してしまうのですから、おしゃれなオブラートに包んではいるけど・・・実は、かなり「下世話な話」にも思えます。

さて、本作は大橋のぞみちゃんがナレーション担当していて、子供の声の可愛さに便乗したような姑息さも感じられるのですが・・・最後の最後で、この声の正体が判明します。実は、この声は、これから生まれてくるミズシマ夫婦の子供の声で、天からふたりの様子を見ていたということのようなのです。これって、いろんな映画やドラマとかでも使われたことのある手法だけど・・・「あぁ、そうだったのか~!」と心ふるわせる人というのもいるのかもしれません。

本作は、北海道”らしさ”にこだわり・・・原作にあった”里芋”は北海道ではあまり収穫されないので、”百合根”に変更したそうです。ただ、そこまで”本物”にこだわるのであれば・・・羊をペットみたいに一頭だけを、犬小屋ならぬ羊小屋で飼っているという設定はおかしいのではないでしょうか?本来、羊というのは「群れ」で飼われている家畜・・・一頭だけ、それも子羊一頭だけで飼育することはありません。それとも”食用”なのでしょうか?「子羊を一匹飼っていたら可愛くない?」という発想でやっているだけ・・・”北海道らしさのこだわり”じゃなくて、スタイリングのおしゃれ感で「あり」「なし」を判断しているということが、バレてしまうんです。


「ひとつだけ」作詞/矢野顕子

欲しいものはたくさんあるの
 きらめく星屑の指輪
 よせる波でくみ立てた椅子
 世界じゅうの花あつめ作るオーデコロン
けれどもいま気がついたコト
とってもたいせつなコト
欲しいものはただ一つだけ
アナタ(キミ)の心の白い扉、ひらく鍵
 離れている時でもワタシ(ボク)のコト
 忘れないでいて欲しいよ ねぇ、お願い
 悲しい気分の時も
ワタシ(ボク)のコト
 すぐに呼び出しておくれよ ねぇ、お願い
楽しいことは他にもある
満月の下のパーティ
テニスコートを駆けまわる
選び抜いたもの集め作る中華料理
 けれどもいま気がついたコト
 とってもたいせつなコト
 一番楽しいことは、アナタ(キミ)の口から
 君の夢、聞くこと
 離れている時でも
ワタシ(ボク)のコト
 忘れないでいて欲しいよ ねぇお願い
 悲しい気分の時も
ワタシ(ボク)のコト
 すぐに呼び出して欲しいよ ねぇお願い

「ひとつだけ」は「しあわせのパン」の主題歌(エンディング曲)であり、三島有紀子監督が本作の脚本のインスピレーションを得たそうです。「ひとつだけ」は、ボクが大好きなのひとつ。本作で使用されている忌野清志郎とのデュエットも良いけれど・・・やっぱり「ごはんができたよ」に収録されていた矢野顕子のオリジナルが一番好きです!ポップで明るい矢野顕子の歌声だからこそ、すーっと歌詞が心に入ってくるように思います。だからこそ・・・この「ひとつだけ」という曲から、こんな薄っぺらい映画を作ってしまう人と、その映画に心から感動してしまう人に、ボクは行き場のないイライラを感じてしまうのです。

「しあわせのパン」は、さまざまな「田舎ステキ!」なステレオタイプの要素をスタイリングしただけの”テレビコマーシャル”みたいな映画・・・原田知世が出演している「Brendy/ブレンディ」のコマーシャルと同じなのです。


「しあわせのパン」
2012年/日本
監督、脚本 : 三島有紀子
出演    : 原田知世、大泉洋、森カンナ、平岡祐太、光石研、八木優希、中村嘉葎雄 渡辺美佐子、中村靖日、池谷のぶえ、本多力、霧島れいか、あがた森魚、余貴美子、大橋のぞみ(声の出演) 


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