2015/04/28

「反日映画」でも「宗教映画」でもなく・・・歴史の教訓は”語り継ぐ者”次第なの!~宗教抜きの”許しの精神論”を押しつけるアンジョリーナ・ジョリー監督の「不屈の男 アンブロークン/Unbroken」と、説明過多の台詞で”感動”を上塗りしまくる「永遠の0」~



「歴史は勝者によって書かれる」とは陳舜臣の言葉ですが・・・書物しか残っていない数百年前の出来事だけでなく、どんな時代になっても歴史を振り返る時、それを語る者の思想や解釈によって、過去の歴史というのは意図的に書き換えられてしまうものなのかもしれません。

太平洋戦争の終戦から70年・・・リアルタイムで戦争を経験した人たちの証言を聞くことができる機会は、これからドンドン少なくなっていくことでしょう。ただ、語り継ごうとする世代の人たち次第で、歴史から学ぶ教訓は操作されることもあるのです。

女優アンジョリーナ・ジョリーの監督第2作目の「不屈の男 アンブロークン/Unbroken」は、2015年4月末現在日本での劇場公開は見送られています。スターが出演しているハリウッド映画ではないし、賞レースを狙った公開時期(アメリカでの劇場公開は12月24日)にも関わらず無冠となってしまった作品ですが・・・誰もが知っているスター女優が監督しているし、初日の興行成績は全米1位という話題性はあるので、興行的にコケそうだからというわけではありません。

第二次世界大戦時、日本軍の捕虜となったアメリカ兵の経験談が元になっている「不屈の男 アンブロークン」の内容が、日本人の国民感情を傷つける・・・という「反日映画」の烙印を押されているようなのです。映画で戦争を描くとき、どちらかの国の視点に偏ってしまうことはありがちなこと・・・他国を侮辱する意図がなくても、立場の違いから生まれる歴史認識や解釈の違いにより、他国の国民感情を傷つけてしまうことはあります。


2014年の邦画興行成績1位にもなった日本映画「永遠の0」は、多くの日本人にとっては涙なしでは観られない感動作だと思う人って多いかもしれませんが、世界的に共感を得られたかは疑問です。唯一海外での評価としては、イタリアのウディネ極東映画祭(アダルト映画なども出品される商業ベースの映画祭?)でのグランプリを受賞したことは伝えられましたが・・・。第38回日本アカデミー賞では「最優秀作品賞」「最優秀監督賞」「主演男優賞」他、全8冠受賞の圧勝・・・これは、日本映画界のパラゴラス化の深刻さを感じてしまいます。

広告代理店勤務や放送作家から転向した作家さんは、薄っぺらい感動いまさらの教訓”を謳ったエンタメ作品が多いような気がするのですが・・・市場マーケティングや広告の巧みさで、そこそこのベストセラーになったりするのだからビックリさせられることがあります。ボクは一般的に戦争ものは好きでもないので、百田尚樹著の原作本は手に取ったことがありませんが・・・「探偵ナイトスクープ」の放送作家でもある百田氏のパクり疑惑(「壬生義士伝」「大空のサムライ」)の問題もあったりして、原作本の方も賛否はあるようです。

映画「永遠の0」から、特攻隊の美化、戦意高揚などの軍国主義的なメッセージを感じたサヨク的な人もいたのかもしれません。それに加えて、感動を生む目的ため”だけ”の設定、登場人物たちの言動の違和感、人物設定をくつがえす展開の強引さ・・・そして、これでもかというほど感動を上塗りするために台詞で全部説明に、ボクはうんざりさせられたのです。


映画版「永遠の0」では、健太郎(三浦春馬)が、祖母の葬式の直後に、実は今の祖父(夏八木勲)とは血が繋がっていなかったことを母(風吹ジュン)から伝えられます。まず、この状況が不自然と思ったのはボクだけでしょうか?健太郎の姉・慶子(吹石一恵)は、この事実を知っていたようで・・・家族全員で健太郎”だけ”には明かさなかったということらしいのです。亡くなった祖母は、実の祖父である宮部久蔵(岡田准一)については、殆ど生前語ることはなかったということなのですが・・・「昔の人は口が固かった」という都合のいい昭和のステレオタイプにしか思えません。

ボクが子供の頃(1960年代~70年代)・・・法事で親戚が集まると、決まって戦争時代の昔話をしていたものです。2度も徴兵されたという親戚のおじさんは、南方の激戦地で死にかけた話を、会うたびにしてくれたのですが・・・何故か聞くたびに話が微妙に違っていたり、大袈裟になっていたことを幼心に覚えています。

ここから「永遠の0」のネタバレを含みます。


映画の最後になって分かるのですが・・・実の祖父である宮部久蔵は、義理の祖父にとっては命の恩人。特攻隊として出撃直前、お互いの戦闘機の交換をしたことで、義理の祖父は故障で不時着しなくてはならなくなり、一命を取りとめたのです。

確かに戦中戦後に辛い経験をした人の中には、当時の話をしたくないという人もいるとは思いますが・・・本作では”英雄”として描こうとしている宮部久蔵(実の祖父)のことを、義理の祖父が語ることがなかったというのは、かなり不自然なことです。そして、孫が真実を知った途端に「待ってました!」とばかり、すべてを話し始めるのですから、”感動”させようとする魂胆が白々過ぎます。

映画では、健太郎と姉が、当時の特攻隊の仲間たちに会って宮部久蔵について話を聞いていくことで、徐々に事実が明らかになっていくという展開になっているのですが・・・当初、優秀な操縦技術を持っていて特攻隊の教官だったにも関わらず「必ず生きて帰る」ことを優先していたため、臆病者というレッテルを貼られていたという宮部久蔵の人間性を非難する話ばかりを聞かされます。

しかし、真実が明らかになるに連れ・・・彼らも宮部久蔵によって、救われた命であったことが次第に判明していくのです。彼らは生きて帰ってきたことを恥じる気持ちがあって、宮部久蔵のことを悪く語ってしまったと、本作では暗に描いているのですが・・・戦後60年(映画の時代設定は2004年)経ち、亡くなった戦友(教官)のことを”臆病者”と罵るような人っているのでしょうか?

宮部久蔵訓練兵たちを守ろうとしていたことを問われると・・・今度は手のひらを返したように、健太郎に対して自分が秘めていた心の内面までを饒舌に語り始めるのですから、一体、彼らにとって60年間という時間は「なんだったのだろう?」思えてしまいます。表面的な台詞で感動を説明するのは、最近の日本の映画やテレビドラマだけでなく、歌詞でも、小説でもあり”がち”ですが・・・映像の描写や台詞の行間によって表現することを、最初から放棄しているかのような台詞での”説明”です。

戦時中の感覚では「生き残りたい」というのは臆病者というよりも、単に非国民と責められたでしょう。また「妻と幼い娘のため」と言葉で言うことも「今的」な感覚のように思えます。内面的な葛藤や本当の気持ちを主人公に「台詞」で全部言わせる必要はありません。最後の出兵の際に妻と娘と別れる姿や、義理の祖父が乗ることになった零戦の中に残されていた写真一枚で、十分に伝えることもできたはずです。


”感動の”押し売りのごとく饒舌だと思えば・・・生き残ることを優先し続けていた宮部久蔵が、どのような過程で特攻隊に志願して、健太郎の祖父の身代わりになってまで死を選んだかに至ったかに関しては「台詞」でさえ説明がないのですから、奇妙としかいいようがありません。そこが宮部久蔵といういう人物が英雄であったのかを問うドラマの神髄であるはずにも関わらず、本作はその点については「何故だか分からないが・・・」と濁しているのです。

自暴自棄になって自分自身の信念を見失ったのに、それが”さも”尊い「自己犠牲」という行為をしたかの如く”感動”をしてしまうことは、戦時下の日本人のマインドから、それほど変わっていないことに他なりません。意外なことに、日本人の若い世代が、本作に号泣レベルで感動しているらしいことに、ちょっと怖いと思ってしまいます。

戦争に勝っても負けても、戦死した自国の兵士を弔なったり、帰還兵を尊重するのは当然のこと・・・歴史的な認識の違いというのは、それぞれの立場の違いから生まれて当然かもしれません。ただ、現在の社会問題を、戦争を語り継ぐという建前で感動のオブラートに包んで、まるで「自己犠牲の美学」にすり替えたかのように、ボクは感じてしまったのです。


アンジョリーナ・ジョリー監督の「不屈の男 アンブロークン/Unbrokenは、1936年ベルリンオリンピックに出場したイタリア系アメリカ人ルイス・ザンペリーニの半生(少年時代からオリンピック選手になるまで、太平洋戦争中の空中戦、太平洋での漂流サバイバル、南島の収容施設、大森収容所での捕虜生活)を”あくまでも”彼の視点描いた作品・・・、元ネタのローラ・ヒレンブランド著の「Unbroken」には「日本兵に捕虜が生きたまま食べられた」という描写があるのですが、そのようなシーンは映画にはありません。ただ、ルイス・ザンペリーニという人物の話の信憑性は、ちょっと怪しいところもあるのです。

1930年代のアメリカでは、まだイタリア系移民が差別されていた時代・・・彼は貧しさの故、盗み常習の非行少年だったそうです。しかし、逃げ足の速さから兄からトラック競技の選手になることを奨められて、天性の運動能力から当時最年少でオリンピックのトラック選手となります。それだけで十分に”アメリカン・ヒーロー”の物語として成立するのですが・・・それに加えて、太平洋戦争の”奇跡の帰還兵”となるのです。しかし、戦後、彼が語った話は少々”まゆつば”の印象は拭えません。


例えば・・・太平洋戦争中、ルイスが乗っていた飛行機が南太平洋に不時着して、旧日本軍に捕らえられるまでの47日(!)も食糧や水もないゴムボートで漂流したというのです。映画でも漂流日数をカウントしていくのですが、飲み水さえない状況で、泳いでいる魚や鮫を手づかみで捕まえて生で噛み食ったりと、正直信じ難いサバイバル生活が描かれます。真珠湾奇襲をした”卑怯な敵国”という憎しみに満ちた”色眼鏡”でしか語れないのは、アメリカ兵であった立場であれば当然のことかもしれません。しかし、ルイスが語っている「生きた捕虜の人肉を日本兵が食べた」というエピソードは、明らかな作り話としか思えません。

”奇跡の帰還兵”としてアメリカに帰国後、元オリンピック選手ということもあり、ルイスは一躍有名人となり講演にひっぱりだこだったそうです。もしかすると、繰り返し繰り返し戦争中の体験談を講演しているうちに、ルイスは”奇跡の帰還兵”として漂流や捕虜の話を盛ってしまったのではないのでしょうか?それとも、人肉食いの風習があった南島の少数民族と日本人を混同しているのでしょうか?いずれにしても、日本に対して失礼な話ではあります。


実生活では”PTSD障害”から”アルコール中毒”や”DV”(ドメスティック・バイオレンス)の問題を抱えていたルイス・・・1949年、妻に強制的に参加させられたビリー・グラハムの伝道教会で”信仰”に目覚めます。ルイスは伝道教会の重要な説教者となるわけですが・・・何故か90歳を過ぎてから(2009年)回顧録「Devil at My Heels」を出版するのです。しかし、この本は伝道教会の思惑の裏切って、それほど部数が伸びなかったそうです。そこで、ローラ・ヒレンブランド氏に依頼して”伝記的小説”として書き直されたのが、本作の原作となる「アンブロークン」なのです。この時は、伝道教会の威信をかけての宣伝活動が功を博したおかげもあってベストセラーとなり、アンジョリーナ・ジョリーの目に留まったというわけです。


約2時間ほどの上映時間のうち前半の1時間で少年時代から漂流までを描き(特に漂流部分には結構時間を割いています)、捕虜生活を描くのは後半の1時間・・・全編に渡って収容所での過酷な生活や日本人から受けた虐待を描いているわけではありません。

映画では、捕虜から”ザ・バード”と呼ばれていた陸軍軍曹”渡邊睦裕”が行なったとされる虐待行為が、これでもかと描かれます。問答無用に理不尽な暴力を捕虜たちに振ることから、大森収容所にいた日本兵たちからも嫌われていた人物だったようです。この”渡邊睦裕”を演じるのが、”雅-MIYAVI-”こと本名・石原貴雅というギタリスト/歌手・・・エレクトリックギターをピックなしで指で弾くという独自の奏法で注目されていて、去年(2013年)の紅白歌合戦ではSMAPの伴奏もしていたらしい。全身刺青だらけというワイルドなスタイルでありながら、楽曲の歌詞は「みんなひとつ」とか「白も黒も関係ない」とか、人々の調和を求める”優等生的”(?)なメッセージ・・・ロックだけど反社会性は全然ないという”イマドキ”なアーティストという印象です。


妖艶さを漂わせるヴィジュアル系な風貌は、本作と同じく太平洋戦争時の捕虜収容所を舞台とした大島渚監督「戦場のメリークリスマス」での坂本龍一の起用を思い出させます。残念ながら坂本龍一は役者としての演技はイマイチだったし、当時は発音が酷くて英語の台詞が通じなくて、話題性重視のキャスティングという印象でした。しかし、”雅”MIYAVIは、ハリウッドでは完全に無名なのにも関わらず、異例の大抜擢・・・アクセントはあるものの英語の台詞も流暢だったし、演技も悪くはなかったので、アジア系の俳優として今後注目されるかもしれません。

ここから「アンブロークン」のネタバレを含みます。


ただ・・・本作を「反日映画」と決めつける”ウヨク”の人たちにとって、”雅-MIYAVI-”のキャストティングは恰好のネタを与えてしまっています。というのも・・・”雅-MIYAVI-”は、日本人の母親と「帰化」した元在日韓国人の間に生まれたハーフだということ。

日本生まれで日本国籍なのだから”ハーフの日本人”でいいと思うのですが・・・最近の嫌韓ムードでは、片方の親が「元」在日韓国人となると、子供も「在日」というレッテルを貼られてしまい”がち”です。そして、”反日感情”を持っているから”悪役としての日本人役”を演じたに違いないと推測されてしまい”がち”なのです。まぁ、確かに、そのようなハーフの日本人(ハーフ韓国人に限らず)はいるのかもしれませんが・・・。”雅-MIYAVI-”のキャスティングについては、彼のパフォーマンスを見て即決したと言われているアンジョリーナ・ジョリーの独断だったらしく・・・”雅-MIYAVI-”の出自の詳細は知らなかったのだと思います。ただ、題材が題材だけに、日本市場での公開に対しての配慮が欠けていた印象は拭いきれません。(いまのところ、日本国内での劇場公開およびDVDリリースの予定はないようです)

本作で描写される”渡邊睦裕”のルイスに対する虐待は、酷いとしか言いようがないのですが・・・あくまでも、ルイス側の証言”だけ”に基づいていることを考慮しなくてはいけないでしょう。元オリンピック選手というある種目立った存在だったルイスをターゲットにして、理不尽な暴力を振るっていたことは事実に近いようですが・・・。映画では”渡邊睦裕”が何故、暴力的だったのかを説明しようとはしていません。また、他の日本人兵たちの心境も描かれることもありません。”渡邊睦裕”が虐待をするに至った原因として、軍人であった父親と一緒に写っている写真が、映画の最後に暗示的にクローズアップされるのですが・・・軍人の子として厳しく育てられていたからということで、”渡邊睦裕”の残虐性の説明がつくとは思えません。


”渡邊睦裕”のことを”サイコパス”とか”精神異常者”と決めつけるのは、(特にアメリカの)メディアの定説となっているようですが・・・捕虜への虐待によって性的快感を得ていた「サディスト」ではなかったのかとボクは推測します。戦争という環境下では、普通の人間でも精神的に異常な状態になって、普段ではアリエナイ残虐性を発揮してしまうこともあります。元々サド的な傾向を持った人物が、戦時下で捕虜を管理する立場になってしまったことで、自分の欲望を満足させるために、捕虜への虐待がエスカレートしてしまったというこもは、あり得るのではないでしょうか?平和な世の中であれば”渡邊睦裕”の性的欲求は”妄想”だけで終わっていたのかもしれません。

多くの日本兵が戦犯として巣鴨プリズンに捕らえられていったにも関わらず・・・終戦後”渡邊睦裕”は逃亡し続けて、アメリカ軍による処罰を受けずに生き延びます。1952年にアメリカ軍が日本から引き上げた後、保険のセールスマンとして大成功して、裕福な生活(オーストラリアに高級別荘まで所有していたらしい)をしていたと言われています。

1998年、ルイスが長野オリンピックの聖火ランナーのために来日した際、”渡邊睦裕”との再会を求めたそうですが・・・”渡邊睦裕”は面会には応じなかったそうです。当時、CBSテレビのインタビューに応じているのですが、捕虜への虐待に関しては軍からの指示ではなく敵国兵士に対する個人的な感情であったことを認めながらも、捕虜たちへの謝罪は一切なし。高圧的な風貌と物言いというブレない姿勢は、”渡邊睦裕”の特異性を覗かせています。


”渡邊睦裕”という人物を、一般的な日本人/日本兵と考える元アメリカ兵は多くはないと思いますが・・・映画では、彼以外の日本人にキャラクターらしいキャラクターを与えていないため、日本人を代表するかのような印象を与えているところはあるのです。”渡邊睦裕”のサディストっぷりを彼特異の性癖としてきっちりと描けば、”雅-MIYAVI-”の妖艶な雰囲気と相まって、ヘンタイ的(?)なボーイズラブ的な”萌え”要素(?)にもなったかもしれない・・・と思ってしまうところもあります。

映画ではルイスが帰還してからのことは、映像的には描かれていません。ビリー・グラハム伝道教会への信仰についてはエンディングで、神の導きにより日本兵を許すことができたルイスが、戦後来日して捕虜収容所にいた元日本兵たちとも再会をしたことが、実際の写真とともに字幕で表されるだけであります。そして、長野オリンピックの聖火ランナーとして、再び日本を訪れて、オリンピックで走った実際の映像を流して”感動的”に映画を結ぶのです。ルイスの人生に於いて、最も重要な信仰については、駆け足で説明しているという印象はあります。

戦後、ルイスが来日した理由は、ビリー・グラハム伝道教会の布教のためであったと推測します。信仰によって”許し”の境地に達したというのは、キリスト教伝道には、効果的な宣伝文句であったに違いありません。日本での布教活動が、どれほど成果を残したのかは分かりませんが・・・アメリカのキリスト教コミュニティー内での説教者としての知名度は、高めることには成功したでしょう。その後、少年向けのサマーキャンプを主宰したりもしており、ルイスはビリー・グラハム伝道教会の広告塔として、長年第一線で活躍します。

本来・・・”奇跡の帰還兵”ルイス・ザンペリーニの物語は「宗教映画」にしかならないような題材ではあったのですが、アンジョリーナ・ジョリー監督は、普遍的なヒューマ二ズムのメッセージを伝えるために、あえてキリスト教色を薄いものにしたらしいのです。しかし、先日アメリカで発売されたブルーレイ版には、ルイスの信仰について語っている家族の証言の特典映像が含まれていますし、信仰に焦点をあてたドキュメンタリー映画を含んだキリスト教徒向けの特別版も発売されています。これは、映画本編が信仰について触れていないというビリー・グラハム伝道教会からの批判に応えてのことのようで、商業的にはクリスチャン購買部の売り上げ頼りなのかもしれません。

信仰による”許し”の過程を描かずに”許した”という着地点が映画のエンディングとなっているために、どこかしら”許しの精神論”を押しつけられた感があります。「自分を虐待した人たちを許す」というのは、ヒトとして尊いことなのかもしれません。ただ、許すことは過去のトラウマから自分を解放することでもあるわけで・・・許すことで救われるのは”許す者”だったりもするのです。また、誤解を恐れずに言ってしまうならば・・・許すという行為は「私はあなたの罪を許す」という上から目線でもあります。

太平洋戦争では日本は敗戦国です。「歴史は勝者によって書かれる」わけですから、罪を問われるのは”日本”だけなのは仕方ないことなのかもしれません。空襲とか、原爆投下とか、戦犯裁判とかあっても、日本は敗戦国らしく(?)アメリカによって許されることを選んだおかげで、今ではアメリカの一番の親交国となったのです。ただ本作は、アメリカ人にとっても古傷を再び開くようなところあったのか、映画として「アンブロークン」は高い評価を得ることはなかったようです。

これほど日本兵に虐待されたにも関わらず、日本兵を許したアメリカ兵の存在を描くことは、いまだに日本を”許さない隣国”(韓国、中国)に対しての”あてつけ”のようでもあります。見方を変えれば本作は「反日映画」なんかではなく、戦後70年経っても日本の戦争責任を問い続ける国々を、暗に批判しているとも受け取れます。歴史から学ぶ教訓というのは、”語り継ぐ者”次第、また”学ぼうとする者”次第で、如何様(いかよう)にもなってしまうものなのかもしれません・・・。


「永遠の0」
2013年/日本
監督 : 山崎貴
原作 : 百田尚樹
出演 : 岡田准一、三浦春馬、井上真央、吹石一恵、風吹ジュン、夏八木勲、橋爪功、山本學、田中泯、濱田岳、三浦貴大、新井浩二、染谷将太、平幹二朗
2013年12月21日より日本劇場公開


「不屈の男 アンブロークン」
原題/Unbroken
2014年/アメリカ
監督 : アンジョリーナ・ジョリー
原作 : ローラ・ヒレンブランド
出演 : ジャック・オコンネル、ドーナル・グリーソン、ギャレット・ヘドランド、雅-MIYAVI-
2016年2月6日より日本劇場公開



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