2011/03/31

極めて1980年代的?・・・「コンテンポラリーアート」としての「ファッションデザイン」~マウリツィオ・ガランテ~



3月は入院や震災で何かとバタバタしてしまって、イギリスのアマゾンに注文していた本が届いていたことを、すっかり忘れてしまっていました・・・。
部屋の隅に置かれた大きな箱に、退院後に帰宅して一週間ほど経って気付いたという次第であります。
日本の洋書屋でも買えるけど、送料を考えても個人輸入してしまった方が安いし早い・・・購入したのは、昨年、フランスのHC Edition社より出版されたイタリア人ファッションデザイナー「マウリツィオ・ガランテ/Maurizio Galante」のオートクチュールデザインと建築、インテリアを含むインスタレーションアートまでを網羅した作品を収録した本です。
このデザイナーは商業的なファッションとは無縁、またオートクチュールという一般的にそれほど注目されることもない世界で活動をしているので、こうやって本が出版されることさえボクには驚きでありました。

これほどマイナーなデザイナーに興味を惹かれたきっかけは、僅かながらニューヨークの高級百貨店で扱われていたから。
当時(1990年頃)パーソンズデザイン大学のファッション科を卒業したばかりのボクは、暇があれば百貨店の高級クチュールエリアをブラブラしていた青年であったのです。
日本のお店であれば、ガラスケースの中に入れてあるような数十万円、数百万円する服が、ニューヨークの高級店ではハンガーにつるされて売られていました。
クチュール系イブニングドレスの売り場に、マウリツィオ・ガランテの服は異彩を放っていたのです。
一時期、高島屋でライセンスを持っていたような記憶があるのですが、マイナーなデザイナーのファッションショーを取り上げる日本の雑誌にさえも、マリッツィオ・ガランテはそれほど掲載されることはありませんでした。

日本に住んでいると・・・「海外でも日本のファッションは人気で大変注目されている!」というニュースを鵜呑みにしがちではありますが、日本のファッション、または日本人デザイナーの知名度、人気、共にかなり局地的というか、ファッションのプロ/マニアック向けであることには違いありません。
インターネットを通じて、たしかに「カワイイ」「ギャル」文化は浸透している感はありますが・・・それも、現地ではかなりの変わり者のタイプに受けていると思っていた方が無難。
いわゆる「ジャパニーズファッション」として、日本以外で日本人デザイナーが注目されたのは(ボクの記憶が正しければ)「山本寛斎」が最初でした。
ただ、この時はエキゾチックな派手な歌舞伎っぽいジャパンテイストを打ち出したに過ぎず、ゲリラ的な注目の集め方であったという印象です。
「高田賢三」は、西欧的なスタイルの中に日本的なキモノカットを取り入れましたが、あくまでもフランス的なデザイナーでした。
表面的なジャパンテイストではなく、服に日本の思想そのものを表現したのは「一枚の布」をテーマにした「三宅一生」でした。
「立体裁断」という服作りの基本から離脱した造形をファッションデザインに持ち込んだのです。

「身体」と「まとう布」との新しい関係性は、服という枠組みを超えて「コンテンポラリーアート」の領域までファッションデザインを高めたのではないかと思います。
大雑把に言ってしまえば・・・立体裁断の考え方から自由になったことで、日本を代表する二大ファッションデザイナーとなった「コム・デ・ギャルソン」や「ヨージ・ヤマモト」が、世界のファッションデザイン界に衝撃を与えることができたと言っても過言ではないでしょう。
ただし、ファッションデザインの「コンテンポラリーアート」としての追求は、「三宅一生スタジオ」の出身者や「菱沼良樹」などの限られた日本人デザイナーに引き継がれたものの・・・1990年代以降は、ファッションという存在自体が、より商業的、よりリアルクローズを目指すようになり、そんなアプローチ自体が「1980年代」的で古臭い発想のように感じられるようになってしまいました。
そんな逆風(?)にも関わらず、1980年代後半から20年以上に渡って「コンテンポラリーアート」としての「ファッションデザイン」を続けているのが「マウリツィオ・ガランテ」なのです。

マウリツィオ・ガランテのデザインの特徴はというのは、重ねられた生地の圧倒的な存在感であります。
1960年代にパコ・ラバンヌ(Paco Rabannne)はメタルのピースを繋いでドレスを作りましたが、マウリツィオ・ガランテはシルク生地で長方形、正方形、三角、円形などをパネル状に裁断し、オーガニックに何重にも重ねて陰影の深い独特の効果を生んでいます。
それらをフリルのような装飾であると同時に、全体的には生地で作られた現代彫刻のようなな存在感もあるのです。
2000年代には、ヴィクター&ロルフ(Victor & Rolf)がフリルなどの装飾をディフォルメしたような作品を発表しましたが、あくまでも「モード」としての造形の遊びでした。
マウリツィオ・ガランテのコレクションも近年は、以前よりもモード的な要素も加えてファッションらしさも打ち出しているようですが、神髄は生地の幾何学的な造形であり、肉体をアブストラクトな彫刻へと変貌させるているアート性・・・・いわゆる「モード」とはかけ離れた存在感であります。
「一枚の布」の三宅一生とは、真逆のようなマウリツィオ・ガランテの「重ねられた生地」による造形は「ファッションデザイン」が模索した両極端なアプローチだと思えるのです。

我々が日常的に着ている「プロダクトデザイン」としての「ファッション」
お金持ちの記号として存在するブランド/モードとしての「ファッション」
メディアのなかで消費されるためだけにあるトレンド/流行としての「ファッション」
そして・・・今や消えてなくなってしまいそうな、コンテンポラリーアートの造形としての「ファッション」という存在も21世紀に残して欲しいと思ってしまうのは・・・ボク自身がファッションデザインと出会ったのが、1980年代という極めて豊かで実験的な時代であったことがあるのかもしれません。
数十年後、数百年後に「流行」という尺度でない目で、ファッションの歴史を振り返ったときに、評価されるべきモノはやはり創造性だと、ボクは思いたいのです。





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