2014/12/30

私小説を装った生臭~い自慢話は痛い・・・達観したかのような”自己肯定”と説明過多の”ウザさ”は相変わらずなの!~田中康夫著「33年後のなんとなく、クリスタル」~



先日、近所の本屋の新刊コーナーで田中康夫著の「33年後のなんとなく、クリスタル」が平置きされていたのですが、積まれた高さは他の本よりもずっと低くなっていて結構売れている様子・・・店頭には3冊ほどしか残っていなくて、ボクは思わず購入してしまいました。しかし、お金を払って購入したことを後悔するだけでなく・・・読むことに費した時間、読後の本の置き場所まで後悔させるような(ボクにとっては)一冊でありました。

前作「なんとなく、クリスタル」が出版されたのは1981年のこと(発表されたのは1980年)・・・当時、18歳のボクは小説に書かれていたような”クリスタル”な生活をしていたわけではありませんでしたが、都内にある私立の付属高校に通っていたこともあり、小説にでてくるお店などの固有名詞には多少馴染みもあって、妙に身近に感じたものでした。


当時の若者文化というのは、すでに古き良き”昭和”という感じではなく、学生運動の反動からなのか”真面目”や”努力”が格好悪い「しらけ世代」の時代になっていたし、国内海外のブランドが浸透し始めて、バブル時代を先取りしたような”ブルジョワ”な若者も結構いたのです。

ベストセラーとなった「なんとなく、クリスタル」は、単行本の発売直後に読みましたが、物語が頭に入ってこないほど退屈な小説だと思ったし・・・文壇からは「今どきの若者はなんっとらん!」的な酷評されていたような記憶があります。しかし、おびただしい数の注釈が小説本文を凌駕するほどの分量という確信犯的なギミックは、まるで当時流行り始めたカタログ雑誌みたいで、小説として新鮮なアプローチというのが、当時の一般的な受け取られ方だったかもしれません。

それまで「しらけ世代」という”くすんだ”印象しかなかった世代を、「なんとなく、クリスタル」というキラキラ感と曖昧さの混在した言葉で表現したことで、バブル景気のムードを予見したと言われるでこともありますが・・・ブランド志向を冷ややかに批判しているようなシニカルさを、ボクは深読みしていました。

また、小説の最後に、物語との関連がないような出生率のデータをポツンと記載して、やがて訪れる日本社会に超高齢化社会の警告しているところは、物資的な上昇志向の無意味さを訴えているようにも読み取れました。社会的な問題提議するような統計データを持ち出してくる発想が、後に田中康夫氏が政治家に転向する布石であったとは、誰も想像だにしませんでしたし・・・今振り返ってみれば、田中康夫を(ボクを含めて)随分と好意的に解釈していたような気がします。


「なんとなく、クリスタル」発売の数ヶ月後に、ボクは留学のために渡米することになります。まだ、メディアでの扱いも新聞記事の”話題のひと”程度のことで、田中康夫氏の”ひととなり”が世間バレる前のことです。その後の1980年代の田中康夫氏のメディアでの活躍ぶりというのは、ボクは一切知らないまま20年近く過ごすことになるのです。

ボクが留学した1980年代にはインターネットはなかったし、日本のテレビ放送もNHKニュースぐらいだったので、若者文化の情報源は雑誌や書籍しかありませんでした。当時、ボクがよく読んでいたのは、雑誌の「宝島」「流行通信」と、橋本治、林真理子、田中康夫のエッセイ本・・・考えてみると、かなり偏っていた情報だばかり吸収していたような気がします。

田中康夫氏のエッセイは、流行っているお店やデートでのマナーを指南する内容が多かったので、今改めて読んでみると「おしゃれな文化人気取りが痛々しい」としか思えませんが・・・1980年代というのは、「ポパイ」「ホットドックプレス」など全盛の時代で、この手の記事が若者向け雑誌の主流でもあったのです。

その後、ボクの中で田中康夫氏は”過去のひと”になっていったのですが・・・長野県知事になったことには大変驚きました。2001年に日本に帰国して、メディアを通じて観たリアルの田中康夫氏の印象は、ボクが「なんとなく、クリスタル」やエッセイ本から感じていたイメージとはかけ離れていて・・・小太りの奇妙なオッサンという感じでした。


相手を見下して論破しようとする語り口は嫌いだし、妙に可愛いモノ好きをアピールするところも気持ち悪く、フェミニストな発言のわりにねちっこい執着を感じさせる・・・ウザいキャラクターにドン引きしてしまったのです。それ故、政治家として興味を持つ気にもなれず、田中康夫氏の政治的な主張は、ボクはよく知りません。ただ、県知事を2期務めて、その後衆議院議員を5年も務めたのだから、彼の支持者というのは当時は多かったのでしょう。ボク自身は、田中康夫氏をメディアで見かけるたびに、生理的に耐えきれなくなっていったのです。

それにも関わらず「33年後のなんとなく、クリスタル」を購入してしまったのは・・・「なんとなく。クリスタル」の続編って、どのように成り立つのだろうという興味があったからにすぎません。帯に書かれた著名人たち(浅田彰、菊池成孔、齋藤美奈子、壇蜜、なかにし礼、浜矩子、福岡伸一、山田詠美、ロバート・キャンベル)の絶賛の宣伝文句が妙に多いところが・・・なんとも胡散臭い。それも(例外はありますが)アカデミックな著名人たちを並べてしまったところが、純粋に小説としてよりも、文化的、経済的、社会的にエポックメイキングな作品だと、自負しているようでゲンナリさせられてします。

「33年後のなんとなく、クリスタル」の本文は、前作の倍以上の分量・・・肝である”注釈”も(前作ほどではないにしても)本文の半分ほどの分量あるのですが、本作はその内容が酷いのです。前作は、良くも悪くも独断による風俗的な注釈が、興味深いところもあったのですが・・・本作では、統計データを持ち出しての政治的な発言が、妙に目立ちます。また、分かる読者だけが分かるようなキーワードだけ投げかけている注釈は、上から目線の厭味しか感じさせません。読者をバカにしているのかと思ったのは、色の注釈がCMKYの数値”だけ”を記述しているところ・・・色を正確に伝えようという意図なのかもしれませんが、読者は印刷工場ではありません。言葉でとう色を伝えるのかが、小説家としての腕の見せどころではないでしょうか?

さて、本作がある意味、衝撃的(?)なのは・・・「なんとなく、クリスタル」には実在のモデルがいたということを前提としているところであります。本作の主人公ヤスオは、リアルに田中康夫本人ということもあって、生理的に田中康夫氏という個人を受け入れられないボクのような読者にとっては、心底気色悪いことになっているのです。ヤスオと「なんクリ」に登場した女性の33年ぶりの再会のドキドキ感(?)が、お得意のスノッブな世界観を背景に繰り広げられるわけですが・・・何度も何度も過去を振り返る会話やモノローグで語られるのが、達観したかのような自己肯定を貫いた田中康夫氏による”自分史”なのだから「どんだけ自分好きなんだよ!」とツッコミたくなってしまいます。

ボク自身を含め、年齢を重ねていくと過去を振り返ってしまうのはアリガチなことではありますが・・・懐かしい郷愁を覚えるというのではなく、現在のアイデンティティーが”過去”に依存しなければ成り立たないのは、どこかしら哀れに感じられてしまうもの。「こんな有名人を知っていた」「こんなスゴイ仕事した」「こんな通な音楽を聞いていた」「こんな伝説の場所に出入りして遊んでた」などという昔話は、おそらく(誇張はあったとしても)事実なのでしょうが・・・過去の自分に固執しているようで、なんとも痛々しく感じられます。

人生の経験を重ねていくと、こだわりも増えてくるのは当然のこと。人生を豊かにするために、自分自身に対して物質的にも、精神的も投資し続けることは素敵なことではあるのですが・・・いくつになっても強い「我」を主張し続けて、欲望や関心のベクトルが自分に”だけ”向いているのは、逆に何か欠落しているようにも感じさせるのです。どれほど、その人が輝かしい過去の経歴があろうとも、素晴らしい仕事を成し得た人であっても、まだ何かを埋め合わせなければならないことを垣間見せてしまって・・・過去の栄光の”ほころび”さえ露呈させてしまいます。

本作の会話部分は不自然なほど説明過多・・・統計的な数値や固有名詞を持ち出して、政治家田中康夫としての弁明(?)を主人公ヤスオに語らせているのですから、支援者ではない限り”ウザい”こと、この上ないのです。また、聞き手’(?)として登場する女性たちも、まるで深夜のテレビ番組「有田のヤラシイハナシ」でインタビュー形式で自慢を披露するようなコーナーのみたいに田中康夫氏の主張したいことを引き出すためだけの台詞で、もはや滑稽にしか思えません。読み終わることが苦痛なほどの面白みのない物語で・・・(ボクだけかもしれませんが)話の筋が全然頭に入ってこなさは、田中康夫の小説”ならでは”と再確認してしまった次第です。

本作の最後には、前作「なんとなく、クリスタル」と同じように、日本の「出生率低下」と「高齢化」を危惧する統計数値が記述されているのですが・・・その深刻さに反して、本文の登場人物たちのライフスタイルは、まったくもって羨ましくもない薄っぺらい「なんとなく、クリスタル」からの成長のなさに、違和感を感じてしまいます。ある意味、本作は、読者それぞれの人生観を浮き彫りにするような”踏み絵”のような小説とも言えるわけで・・・本作を高く評価する人とボクは、きっと相容れないところがあると確信できてしまうのです。

私小説を装った政治活動(?)は”政治家”として発言すべきことであるし、過去の女性関係や知識の自慢話は「ペログリ日記」のようなエッセイ(ブログ?)で書けば十分なこと・・・わざわざ「小説家」として復帰して出版するべきほどの内容だったのでしょうか?

「33年後のなんとなく、クリスタル」は、田中康夫氏の自己認識が、如何に世間とズレているかを明らかにしてしまっていて、政治家としての資質にさえ疑問を感じさせます。「墓穴を掘った」としか言いようのなさに・・・ただ、失笑するしかありません。



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