2013/06/19

バズ・ラーマン監督流の盛りまくったアメリカンドリームの映像化と純愛ラブロマンスとしての「2013年版」・・・絶妙なアンサンブルキャストでアメリカンドリームの幻滅と階級格差を皮肉に描いた「1974年版」~「華麗なるギャツビー」~




F・スコット・フィッツジェラルド著の「華麗なるギャツビー」は、出版された当時には高い評価を受けながらも、初版はそれほど売れなかったそうです、現在ではアメリカの高校生まら必ず読まさせられる必須読書であり、アメリカ文学の最高峰のひとつというのも過言ではありません。1922年を舞台にしたこの小説が発表されたのは1925年・・・その4年後には株価が急落して世界恐慌の引き金となります。まるで書かれていたことが現実になっていったのです。また、フィッツジェラルド自身の人生も下り坂・・・心臓マヒで44歳という若さで亡くなります。

「華麗なるギャツビー」の最初の映画化は出版された翌年の1926年、二度目の映画化は第二次世界大戦終了直後の1946年なのですが・・・どちらのフィルムも現在は紛失してしまって観ることはできないようです。どちらも日本で公開されたようで・・・邦題から、どういう映画だったのかを推測出来るような気がします。「或る男の一生」という邦題がつけられた1926年版は、まだ世界恐慌が起こる前・・・おそらく喪失感よりもギャツビーという人物の人生に焦点を合わせたような印象です。1946年版の邦題は「暗黒街の巨頭」・・・裏社会で巨万の富を築いた男の物語をフィルムノアール調とかで描いていたのでしょうか?

三度目の映画化は、ベトナム戦争終結直前の1974年版で、時勢を反映してアメリカンドリームの喪失感を際立たせた作品になっています。2000年には、アメリカのケーブルテレビ局「A&E」で制作されたバージョンは、上流階級のお嬢さま(ワスプ/WASP)であるべきデイジー役がミラ・ソルヴィノ(イタリア系)というとんでもないキャスティングで、ただ文芸作品を映像化しただけという印象の凡作でした。「ロミオ+ジュリエット」「ムーラン・リュージュ」のバズ・ラーマン監督が、ギャツビー役にレオナルド・ディカプリオで5度目の映画化が2013年版・・・オーストラリア時代のデビュー作「ダンシング・ヒーロー」から、過剰なまでの装飾的世界観だけでなく、感情的にも極端にドラマチィックな演出をする”らしさ”が発揮されています。時代考証なんて無視して、今までのどの「華麗なるギャツビー」よりも豪華絢爛な映像となっています。

現存しない1926年版と1946年版、そして殆ど語るに値しない2000年版はさておき・・・1974年版と2013年版の「華麗なるギャツビー」を比較をしてみようと思います。初めて1974年版を観たのは、リアルタイムの劇場公開ではなくて、おそらくテレビの洋画劇場で・・・その後、名画座のスクリーンでも観ているはずです。10代のボクは映画の描こうとしていた喪失感は、理解はできていませんでした。また、ロバート・レッドフォードが、ミア・ファローのような美人とは言えない女性にメロメロになってしまうことに、強い違和感を感じてしまったものです。しかし、自分自身が成長してから改めて1974年版を観てみると、絶妙なキャスティングと独特の演技アンサンブルによって、アメリカンドリームの喪失感や階級格差の皮肉さを、見事に描いていることを再発見したのであります。

1974年版も2013年版も、ギャツビーの”隣人”で、デイジーの”また従兄弟”で、トムの”学友”であるニックの視点から語られるのですが・・・何故か2013年版では、アルコール依存症のリハビリの中で、ギャツビーを回想するという原作にない設定になっています。おそらく、ニック自身の喪失感も強調したいという思いだったかもしれませんし、2013年版でニック役を演じるトビー・マグワイアの草食系っぽい弱いキャタクターには合っているのかもしれません。ただ、ニックは、証券会社に働いていて裕福ではありませんが、デイジーの”また従兄弟”であることから分かるように・・・彼自身も”上級階級”のメンバーのひとりでもあるのです。

英語のオリジナルタイトルの「The Great Gatsby」の「THE GREAT」には・・・「上流階級の女に恋をして、アメリカンドリームを叶えて金持ちになった男が、結局、その女に振り回された挙げ句に、罪を着せられて殺されてしまう」という”愚か”を皮肉くるニュアンスが含まれているのですが・・・そのような表現をする語り手のニックが、物語の結末にアルコール依存症や不眠症になるほどナイーブだとはボクは思いません。良くも悪くも、一歩離れたところから成り上がりの悲劇を傍観した・・・というのが、上流階級のあり方であるのです。1974年版でニック役を演じたサム・ウォーターストンは、トムやデイジーの人道的に自己中心的な生き方に憤りを感じる”誠実さ”はあるものの・・・所詮は、上流階級のことなかれ主義も同時に持ち合わせている、微妙なキャラクターを演じています。

主人公のギャツビーが、どうやって膨大な富を手にしたかは、ちょっとした謎なのですが・・・ユダヤ人の賭博師と組んで怪しい裏ビジネスをしていて、禁酒法の時代にヤミで酒を売ったり、ドラッグストアで麻薬を売ったりして儲けているらしいことは分かります。また、実際には貧しい中西部の出身であったことも、ニックはギャツビーの死後に知ることになるのです。2013年版では、ユダヤ人賭博師を謎のインド人風にして裏の顔の怪しさを際立たせていたり、彼の貧しかった子供時代や、どのようにして彼が上流階級のマナーを学んだかまでの経緯を映像で描いていきます。1974年版では、ギャツビーの裏の顔については噂として描く程度で、死後に現れるギャツビーの父親の台詞によって、ギャツビーの出生を察することができるぐらいです。ギャツビーが”成り上がり”であることを描いた2013年版よりも1974年版の方が、アメリカンドリームの体現者としての、輝かしいギャツビー像が映画を観終わった後にも印象づけられていると思うのです。

2013年版でギャツビーを演じるレオナルド・ディカプリオは、今のハリウッド映画男優の中で適役と言えるのかもしれません。しかし、ディカプリオらしい熱い演技力を発揮したことが、裏目に出てしまったような気がするのです。ディカプリオの感情を露にする「熱演」は、違和感を感じることがしばしばありました。デイジーとの久しぶりの再会で慌てる様子はコミカルだし、トムと喧嘩では機関車のように怒りまくります。ラブロマンスのヒーローとしては”素敵”なのかもしれませんが・・・ギャツビーがデイジーを追い求める姿はストーカー的でもあります。別れてからの新聞記事をスクラップしていたり、再びデイジーの気を引くために対岸に引っ越したり、毎週末パーティーを開いてデイジーがやってくるのを待ち構えていたり・・・感情的に演じるほどにデイジーへの思いの強さだけでなく執着さえも感じさせられます。過去に戻ってやり直せると信じて近づくというのは、まさにストーカーが陥る妄想的な願望そのもの・・・しかし、あの”ディカプリオ”が演じているからこそ、純愛ラブロマンスとして成立するのです。

1974年版でギャツビーを演じたロバート・レッドフォードは、当時、ブロンドの髪とブルーアイズのアメリカ人の理想とするルックスで、圧倒的な二枚目として君臨していました。しかし、演技力を評価される役者ではありませんでした。目や顔の表情に乏しく、役者としての個性や面白みには欠けている印象があります。ただ、真の二枚目には”個性”も”面白み”も不要で、完璧な二枚目であることだけで圧倒的な存在感であることを、レッドフォードは体現していたようなスターだったのです。ギャツビー役として表情の乏しさは、逆にプラスに働いていたように思います。表情の変化の少ないレッドフォードの演技(?)は、ギャツビーという人物像のミステリアスさを印象づけるだけでなく・・・デイジーへの思いも、淡々と純粋さを感じさせられるような気がするのです。

2013年版でデイジーを演じるキャリー・マリガンは、旬のハリウッド女優のひとり・・・可愛らしくてコケティッシュなルックスは非情に魅力的で、シカゴの社交界で将校達を虜にしたというのも説得力があるのですが、彼女の魅力は上流階級のお嬢さまではなく、素朴な田舎娘としてのような気がするのです。「金持ちの家の娘は貧しい男とは結婚はしないの」と平然と言ってのける”お嬢さま”には、かなりの無理を感じます。また、夫の浮気や精神的なハラスメントに苦しんでいるという同情を誘うような描き方をしているので、デイジーというキャラクターに必要不可欠な上流階級ならでは”ズルさ”も、表現してきれていないように思いました。

ミア.ファローのデイジー役というのは1974版の公開当時から賛否両論で、完全なミスキャストだという意見もあります。しかし、ボクはミア・ファローのエキセントリックなルックスと演技が、精神的に不安定、優柔不断で自己中心的なデイジーのキャラクターを見事に表現しているように思うのです。突然に泣き出したり、急に子供のようにはしゃいだり、ちょっとしたことでご機嫌が一変してしまうデイジーに、夫のトムもギャツビーも振り回されてしまうのは、彼女の言うことに従わないと脆く崩れてしまいそうだから・・・決して、わがまま放題の強さではありません。一見すると受け身でありながら、男たちを思い通りにコントロールする”悪女”なのです。

2013年版では原作通り・・・デイジーはギャツビーの死後、夫のトムと長旅に出掛けるところで映画本編から姿を消します。自分にとって都合が悪くなれば、さっさと夫の庇護の元で逃げてしまうのです。1974年版では、原作にもないデイジーの登場シーンが最後に追加されています。ギャツビーの死後しばらく経って、ニューヨークを離れようと決心したニックの前に、新しい屋敷を建築している期間はヨーロッパに長旅にでかけるデイジーとトムが、偶然現れるのです。自分の罪をかぶって殺されたギャツビーの葬式にも花ひとつも送らず、見知らぬフリをしてきたデイジーは、悪ぶれることもなく振る舞います。「新しい屋敷には一番最初に遊びに来てね」と、微かな良心の呵責とも受け取れるような”社交辞令”をニックに残すことにより、デイジーの強かをさらに際立たせて、映画は終わるのです。

2013年版も1974年版もギャツビーの”喪失感”は、ニックのナレーションで語られているのですが・・・2013年版の方が、原作からの引用も多く、若干説明過の印象です。また、ラブロマンスの要素に焦点を当てているために、ギャツビーとデイジー周辺以外のキャラクターの描写が、ステレオタイプに陥り気味でもあります。1974年版では、デイジーの夫トムの愛人であり、デイジーの運転していた車で轢き殺されてしまうマートルと、妻のマートル殺された恨みを晴らすべくギャツビーを射殺してしまう夫ジョージの物語も、アメリカンドリームに取り残された移民(カソリックなのでアイルランド系?)の物語として、しっかりと描かれています。


2013年版では、それほど強い個性を与えられていないマートルですが・・・1974年版では、カレン・ブラック演じるマートルの存在感が、登場シーンが少ないにも関わらず、場末感と狂気が際立っております。トムとの出会いを語るマートルの卑しい野心に溢れた恍惚感、トムに殴られて鼻血を出しながら呆然とする瞬間、そしてトムに合図を送るのにガラス窓を叩きすぎて手が血だらけになったことにようやく気付く時など・・・カレン・ブラックの「顔」と「表情」が目に焼き付いて忘れられません。2013年版ではマートルが車に轢かれて殺される様子を映像で見せますが、1974年版ではマートルが事故に遭う場面の映像はありません。しかしギャツビーの死後、ニックが店の前を通りかかると、すでにマートルの後釜であろう女性が店先ににいる・・・なんとも残酷なオチが用意されています。マートルも彼女なりに必死にアメリカンドリームを掴もうとしていたけれど・・・かつて彼女が「人生には限りがある」とつぶやいて涙したように、ギャツビーと同様、すでに、それは果たせぬ夢となっていたのです。

まだ世の中が”世界恐慌”を経験していなかった狂乱の時代に、フィッツジェラルドはやがて来る未来を予見するかのような「華麗なるギャツビー」を書いています。世界恐慌後も、何度も発展と衰退を繰り返しながら、所有することで富を増やしていく豊かな者と、労働で日々の糧を得るしかない貧しいる者という”格差社会”の基本的な構造は、100年近くたっても何も変わりません。金融というマネーゲームよって築かれる富は、まるで儚い夢のように一瞬にして虚構になりえるのです。ベトナム戦争終結末期に制作された1974年版は、アメリカンドリームの喪失感を際立たせた皮肉に満ちた一作になっていますが・・・豪華絢爛に盛りに盛ったアメリカンドリームを映像化している2013年版は、アメリカが再びバブル経済に向っていることを象徴しているような気がしてなりません。

「華麗なるギャツビー」
原題/The Great Gatsby
2013年/アメリカ
監督 : バズ・ラーマン
出演 : レオナルド・ディカプリオ、キャリー・マリガン、トビー・マグワイア、ジョエル・エドガートン、アイラ・フィッシャー、アデレイド・クレメンス、ジェイソン・クラーク

「華麗なるギャツビー」
原題/The Great Gatsby
1974年/アメリカ
監督 : ジャック・クレイトン
脚本 : フランシス・フォード・コッポラ
出演 : ロバート・レッドフォード、ミア・ファロー、サム・ウォーターストン、ブルース・ダーン、カレン・ブラック、ロイス・チャイルド、スコット・ウィルソン

 

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