2011/02/17

アメリカ版(クロエ・グレース・モリッツ/ヒット・ガール)とスウェーデン版の大きな違い・・・吸血鬼の「小さな恋のメロディ」ではなく、エドガーとアランの物語?~「ぼくのエリ 200歳の少女」「モールス/LET ME IN」~



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スウェーデンのホラー作家ヨン・アイヴィデ・リンドクヴェストによる小説「モールス」を原作にしたスウェーデン映画「ぼくのエリ 200歳の少女」とアメリカ映画「モールス(原題/LET ME IN)は、どちらも同じ小説を原作としているので物語としては殆ど同じなのですが・・・この2作には大きな違いがあります。
スウェーデン版は2008年公開、アメリカ版は2010年公開で、アメリカ版は「リメイク」と報道されているようなのですが、アメリカ版の監督マーク・リーヴスによるとスウェーデン版の公開前にすでに製作に入っていたので、あくまでも別企画で製作された映画ということです。
ただ、同じシーンが同じような構図であったりするので、どちらも原作を忠実に映像化した・・・ということなのかもしれません。
スウェーデン版は去年(2010年)に日本で劇場公開され、現在すでにDVD発売/レンタル開始済みです。
アメリカ版は日本では未公開・・・アメリカ公開時に大コケしたので日本での劇場公開は難しいと思われます。
ただ「キック・アス」でロリコン達を萌えさせた「ヒット・ガール/クロエ・グレース・モリッツ」人気にあやかって公開!という可能性もあるかもしれません。

ここから「ぼくエリ」のネタバレに注意です。


まず、スウェーデン版については「200歳の少女」という間違った日本語のタイトルと、物語の根幹に関わる部分を修正している問題に、触れないわけにはいきません。
エリが吸血鬼という設定をバラしている200歳という年齢をタイトルに入れているのが問題ではなくて・・・エリは「少女ではない」ということなのです。
映画の中で「私は女の子じゃない」という台詞を、エリは繰り返し言っているのですが、日本で公開された修正版を観る限り「吸血鬼のエリは、人間より長く生きているから、見た目は12歳の少女っぽくても、もう女の子ではないんだよね」という風にしか解釈できません。
ボク自身も日本で公開された修正版を観たとき、そう思いました。
しかし無修正版では、エリがシャワーを浴びた後に着替えるシーンで、エリの股間が映され・・・そこには少女にあるはずの「性器」ではなく「去勢された痕」があるのです。


エリは、少女ではなくて「去勢された少年」の吸血鬼・・・だからこそ「女の子じゃない」と訴えていた真意が、観客にここで理解できるのであります。
しかし・・・股間がボカシ修正されてしまったことで、日本の観客には「エリが少年であったこと」は、まったく伝わらなくなってしまったのです。
(それは、それで映画としては辻褄があったように見えるのもスゴイ)
さらに問題なのは・・・サブタイトルを、わざわざ「少女」とすることで、修正によって本来の設定が伝わらなくなってしまったという事実さえも「隠蔽」されてしまっていることであります。

さて、アメリカ版「モールスの方は、どうなっているのでしょう?
映画製作のプロダクションが大規模になったことで、残酷描写のビジュアルもパワーアップ・・・エクソシストのリンダ・ブレア並にクロエちゃんが恐ろしい形相に変貌してしまいます。
また、連続殺人を追う刑事が映画の冒頭から出現して、ダークなミステリーサスペンス色も強くなっている感じです。
「静寂さ」に切なさとサスペンスを感じさせたスウェーデン版とは違い、アメリカ版は80年代のヒット曲で時代背景を強調し、怖いシーンでは怖い音楽が流れるというハリウッドらしい演出にはなっています。
詳しく説明をしないスウェーデン版と比べて、全体的に時代設定や人間関係を分かりやすく描いているアメリカ版ではありますが・・・それは、観る人のお好み次第という感じです。
しかし「私は女の子じゃない」という台詞はあるのですが・・・去勢された吸血鬼という設定ではなく、クロエ・グレース・モリッツ演じるアビー(エリ)は、あくまでも「少女」という設定なのです。
この「違い」は同じ物語を語りながら、まったく違う映画になっていると言えるほどでありますが・・・アメリカ版の「LET ME IN」は、少年/オーエンと少女/アビーの恋の物語(吸血鬼版「小さな恋のメロディ」?)を目指しているところがあって、これはこれで「あり」ではあります。
ただ、スプラッター的な描写により観客であるティーンエイジャーが観ることのできない映画になってしまったということが「モールス」の、アメリカでの興行的な失敗の原因となった”不幸”でありました。

さて・・・スウェーデン版の「ぼくのエリ」には「同性愛」ということで、もうひとつ伏線があると勝手に思っています。
オスカーが父親の家を訪ねてきた時に、急に訪ねてきた髭面の男性というのは、一体何者だったのでしょう?
原作によると、オスカーの父親はアル中で酒を飲むと人格が変わってしまうということなので、単なる「飲み仲間」ということらしいのですが・・・どこかしら不自然な態度で見つめ合って無言の男二人というのは妙です。
オスカーの父親役を演じる役者さんは、メンズモデルっぽいルックスのハンサム・・・世間一般的なイメージとしてゲイといって違和感のないタイプであります。


ボクとしては、髭面の友人は「父親のボーイフレンド」と思いたい!
だからこそ、オスカーは彼の登場で急に居心地が悪くなり、ヒッチハイクをしてでも母親のいる自宅へ帰ったのではないでしょうか?
離婚の原因が父親の同性愛であったならば、母親の嫌悪感が、より納得できるような気がするのですが・・・。
いずれにしても、オスカーは真実(吸血鬼というだけでなく、男の子であったということ)を知っり、その運命を覚悟の上に、エリを受け入れます。
故に「ぼくのエリ」は堂々たる「ボーイズラブ」ということになるのであります!
(何故、日本であえて”ボーイズラブを前面に打ち出さなかったのか不思議です)

さて「吸血鬼」「ボーイズラブ」とくれば、思い出してしまうのが、萩尾望都先生の「ポーの一族」ではないでしょうか?

エリがエドガーで・・・オスカーがアラン。

ただ、オスカーはアランのように吸血鬼になって、エリと共に永遠のときを生きていくわけではありません。
エリにとってオスカーはどういう存在となるのでしょう?
それは、1980年代初頭という時代背景が、切ない未来を示しているような気がします。
エリと行動を共にしていた父親のような男性というのは、エリを愛している男であることは明らかなのですが・・・いつからエリと生活を共にしているかなどの経緯はよく分かりません。
アメリカ版では、アビー(エリ)とこの男が同じ年齢ぐらいで一緒に写っている写真をオーエン(オスカー)が見つけるシーンがあり、アビー(エリ)とオーエン(オスカー)のこれれからの未来を暗示しているようなのですが・・・。
原作では、この男は「ペドフェリア」という設定で、その性癖のためにエリに献身的に仕えているということらしいのですが、去勢した少年を崇拝する中年男なんて・・・あまりにもエグ過ぎます!
スウェーデン版、アメリカ版、共に映画では、エリのために”無償の愛”を捧げる中年男として描かれているのです。
彼はオスカーと同じぐらいの年齢でエリと出会ったと、アメリカ版の設定の方が物語としては、より切なく美しいような気がします。
連続殺人まで犯してエリに生き血を捧げ続け・・・いつしか、彼はエリの父親のような年齢になってしまったという運命。
犯罪で捕まりそうになると、身元がバレないように自らの顔に硫酸をかけるという壮絶さ!
そして、最期はエリに自分の生き血を吸わせて・・・自殺。
この映画の時代設定から約30年後の現在(2010年)・・・オスカーは彼と同じような中年男となっているはずなのですから。
永遠のときを生きる「虚しさ」よりも、いつまでも出会った頃のままの姿でいる「少女/少年」と共に過ごしながら自分だけ年老いていくことの方が「残酷」なことかもしれません。

あぁ,なんとも皮肉な愛の物語・・・(原作にはないボクの勝手な妄想で、なおさら!)胸が痛みます。


「ぼくのエリ 200歳の少女」
原題/Låt den rätte komma in
2008年/スウェーデン
監督 : トーマス・アルフレッドソン
脚本 : ヨン・アイヴィディ・リンドクヴェスト
出演 : コーレ・ヘーデブラント、リーナ・レアンデション、ベール・ラグナー


「モールス」
原題/Let Me In
2010年/アメリカ
監督/脚本 : マット・リーヴス
出演    : コディ・スミット・マクフィー、クロエ・グレース・モリッツ、リチャード・ジェキンス

2011年8月5日全国公開

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