2012/11/22

実在モデルを妄想した「女芸人ブーム」の考察・・・重箱の隅を突つくような”分析”と畳み掛けるような”皮肉”~「幸いは降る星のごとく」橋本治著~



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「橋本治」という作家/評論家は、ボクにとって特別の存在であります。十代後半から二十代前半という”大人”としての成長期に多大なる影響を与えられました。大袈裟ではなく・・・ボクという人間の人格形成は、橋本治の著書によって構築されたといっても過言ではないほどなのです。

ボクが初めて購入した「橋本治」の本は、1977年に発表された「桃尻娘」ではなく、マンガ評論の「花咲く乙女たちのキンピラゴボウ」でありました。当時(1970年代末期)、唯一のまんが評論誌であった「だっくす」という雑誌(同人誌?)をボクは愛読していたのですが、橋本氏は最も人気の執筆者として同誌で活躍されていました。もしかしたら・・・橋本氏に会えるかと思って、西新宿にあった「だっくす」の編集室を何度か訪ねたこともあります。雑居ビルの一室にあった狭い編集室で、橋本氏と会うことは敵いませんでしたが・・・編集室のお兄さんとお姉さんから「花咲く」を読むことを奨められたのです。まだ、少女マンガを「評論」することさえなかった時代に、少女マンガを切り口に、少女という存在だけでなく人間についてのさまざまな考察をしていた”やさしい哲学書”といった本書は、すぐボクのバイブルとなりました。

女子高校生の一人称で語られる「桃尻娘」は日活ロマンポルノで映画化をされていたこともあって、十代の少年であったボクは手が出しにくかったのですが・・・1981年9月、ニューヨークの英語学校へ留学する時に、文庫になったばかりの「桃尻娘」を携えて渡米したのです。「桃尻娘」の中の台詞を覚えてしまうほど何度も何度も繰り返し読み、ボクは「桃尻娘」の主人公の玲奈になりきっていました。その頃、1ドル=250円という円安の時代・・・ニューヨークの日本の書店では1000円の本が10ドル(2500円)で売られていて、留学生にとって和書は大変高価なものでした。そんな環境であっても購入していたのが、橋本治氏の本でした。「花咲く」の少年マンガ版の「熱血シュークリーム(上)」(何故か下巻はいまだ発売されていない)、人生の指南書だった「シンデレラボーイ シンデレラガール」、映画批評というか形式を取りながら時代と”性”を分析していた「秘本世界生玉子」、さまざまなジャンルの雑文を集めた「よくない文章ドク本」・・・そして圧巻だったのが「すべての男はホモになれ!」というトンデモナイ人生教本であった「蓮と刀~どうして男は”男”をこわがるのか?~」です。この本を読む前にボクはとっくに”ホモ”でありましたが・・・自分の中でモヤモヤとしていた”何か”が、ハッキリと確信することができた気がします。

「桃尻娘」は1980年代に入ってからシリーズ化され「その後の仁義なき桃尻娘」「「帰って来た桃尻娘」「無花果少年と瓜売小僧」「無花果少年と桃尻娘」「雨の温州蜜柑姫」と1990年まで続き・・・推理小説を分析してパロディにしたような「ふしぎとぼくらはなにをしたらいよいのか殺人事件」、サイモンとガーファンクルのヒット曲をタイトルにした短編集「S&Gグレイテストヒッツ+1」など、新刊で出るたびにボクは購入して愛読していました。しかし、橋本氏の真面目で前衛的な小説は全部スルー・・・あくまでもボクにとって、橋本氏は純粋な小説家というよりも、人生の哲学者のような存在だったのです。

1990年代中頃ぐらいから橋本氏の本は購入するものの、それほど夢中になって読むほどでもなくなってきました。それは、すでにボク自身が30代になり、自分なりの人格が出来上がってきたことと、橋本氏の評論が以前にも増して”しつこく”説明過多がちになってきて、読むのがしんどくなってきたこともあるかもしれません。また、橋本氏が古典文学の現代訳に大きく力を注ぎ出したり、評論家としてますます権威的な存在になっていってしまって・・・徐々にボクは橋本氏の本を手に取らなくなってしまったのでした。

一時期、橋本氏はテレビ番組にも出演してお茶目な一面も見せていたようですし、「男の編み物 橋本治の手トリ足トリ」なぞという編み物の教本を出版して”手編み作家”として注目を浴びたりしていたようですが・・・ボクはそれらの活躍を実際に目にする機会もなく、橋本氏のことはいまだに書籍からしか知りません。それでも「橋本治」は、ボクという人間構築に最も影響を与えた人なのです。

さて、スゴ~く長い前置きになってしまっていましたが・・・「橋本治」の小説をボクが読むのは大変久しぶりだということです。「幸いは降る星のごとく」は小説という形式ですが、作者、読者、編集者という存在を意識した「女芸人ブーム」を分析、考察した研究発表と言えるような内容ではあります。これほど実在するモデルの精神的な内面について、勝手に(!)妄想して、キツイ皮肉に満ちた描写をするのは、あまりにもモデルに対して失礼な”禁じ手”のような気がしてしまうほどです。登場人物たちの設定は、若干事実とは異なるところがありますが・・・今活躍している女芸人の家庭環境や芸風を知っているのであれば、明らかに誰をモデルにしているかがハッキリと分かります。

「オアシズ」をモデルとした「モンスーンパレス」は、金坪真名子=光浦靖子と安井貴子=大久保佳代子そのもの。第4話で登場する阿蘭陀おかね(本名・斎藤美帆子)=椿鬼奴(本名・宮崎雅代)と、ともざわとみこ=いとうあさこも、家庭環境から現在の状況もほぼ本人とそっくりです。何も起こらない人生なのに勝手に自己完結してしまっている”金坪真名子”、自分がブスであることさえも認識していない勘違い女の”安井貴子”、芸もないのにキャラだけが面白がられて売れてしまった”阿蘭陀おかね”、ひがみキャラで世間に希望を与えて売れてしまった”ともざわとみこ”・・・小説というフィクションだと解釈しようとしても、実在モデルがあまりにも明らかなので、どうしても本人と重ね合わしてしまいます。

辛辣な分析をしているように、おそらく橋本氏は今の「女芸人ブーム」に対して不満を持っていらっしゃるようで・・・重箱の隅を突つくような”分析”と畳み掛けるような”皮肉”に満ちた本書は、「女芸人」および「普通の女」には読ませたくない「禁書」・・・橋本治は「パンドラの箱」を開けてしまったようです。


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2012/11/10

既婚のおじさんゲイが若い男に夢中になると”悲劇”なの!・・・イスラエルと南アフリカの同性愛映画~「Eyes Wide Open/アイズ・ワイド・オープン」「Beauty/ビューティー」~



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円満な家庭生活を送りながら、実は男ともセックスしているという「既婚者ゲイ」というのは、世間で想像する以上にに存在していると思います。日本は、不倫に対しては比較的寛容だし、同性愛に対しての理解も年々広がりつつあります。しかし、既婚男性が「ゲイ」として自覚しつつ、他の男性(性転換した元男性とか、女性と見間違うほどの女装ではなく)とセックスするということは、まだまだ世間的に受け入れ難いことの”ひとつ”ではないかと思います。

2009年のイスラエル映画「Eyes Wide Open/アイズ・ワイド・オープン」は、戒律を守る超正統派のユダヤ教徒の「既婚者ゲイ」を描いた作品であります。超正統派ユダヤ教徒のコミュニティ内の「禁断の愛」を描いた物語なのですが、スキャンダラスな視点で描くというのではなく、説明過多の台詞や演出を抑えて、淡々と描いていきます。黒い背広と黒いズボンの上下、無地の白いシャツ、黒い山高帽、長く伸ばした髭にカールしたもみあげという独特な風貌・・・ユダヤ教の規律に厳しく従って生きているオーソドックス・ユダヤ人のコミュニティーに「ゲイ」という存在はありえないんじゃないか・・・と思ってしまいがちですが、どんな人種であっても、どんな宗教の信者であったとしても、同性愛者というのは存在するのです。

アーロン(ザマー・ストラウス)は、エルサレムで妻と4人の子供に恵まれた信心深い超正統派ユダヤ教徒・・・父の死後、ショックでしばらく閉めていた肉屋を、再び開店するところから映画は始まります。ユダヤ教に於いて、肉屋というのは宗教的な儀式である肉の処理をするという仕事を担っているので、コミュニティの中でも大事な役目を負った教徒と言えるのかもしれません。肉屋の求人の張り紙を張ったところ、イェシバ(ユダヤ教の神学校)の学生のエズリ(ラン・ダンカー)という若者が電話を借りたいと店に入ってきます。友人を訪ねてエルサレムに来たけれど、その友人と連絡が取れず、職なし宿なしになっているエズリに、アーロンは仕事を与えて、店の二階に住まわせることにします。ユダヤ教徒の年長者として、イェシバの学生にするべきことであります。こうして、エズリはアーロンの家庭やエルサレムのユダヤ教徒のコミュニティにも溶け込んでいくのですが・・・次第にアーロンとエズリはお互いを意識するようになっていくのです。

ここからネタバレを含みます。


ある日、町外れの水浴び場にやってきた二人は、裸でじゃれ合っているうちに、ある一線を越えてしまいます。今まで自分がゲイであることを押し殺して生きてきたアーロンは、たちまちエズリに夢中になってしまい・・・肉屋の閉店後、ふたりはセックスを繰り返すようになっていくのです。実は、エズリは前の彼氏を追ってエルサレムに来たのですが・・・宗教上の理由で捨てられて、彷徨っていたのです。そのうち、アーロンの妻は毎晩帰りの遅い夫に不信感を持ち始め・・・少しずつ広がっていくエズリの”悪い噂”。やがて告発文が街に貼られて、二人の関係がコミュニティ内に広がっていくと、ラビ(ユダヤ教の僧侶)からも責められ始めます。「私は死んでいた!でも、今、私は生きている!」と・・・エズリの存在によって生きている証を得られるのだと激白したアーロンには、宗教人として、家庭人として、すべてを失う道しか残されていません。エズリと初めて愛を確認した水浴び場で、彼はひとりで深く水の中に沈んでいき、そのまま二度と浮かび上がることがなく映画は終わります。

超正統派ユダヤ教のコミュニティのような生活と宗教が直結している環境では、ゲイとして生きることは不可能なことです。宗教的にも、社会的にも、家庭的にも、ゲイであることを許されないアーロンが、自死を選ぶという”悲劇”は、ある意味”古典的”ともいえる結末です。「既婚者ゲイ」の”悲劇”として昇華するアーロンの物語なのですが・・・妻や子供の視点からすれば、堪え難き仕打ちでしかありません。”悲劇”に強く心痛めながらも・・・ボクは複雑な気持ちになることも抑えられないのです。


2012年の南アフリカ映画「Beauty/ビューティー」は、より生々しい「既婚者ゲイ」の”悲劇”というか・・・不快さを描いた作品です。南アフリカという国の”今”というのはよく知りませんが、アパルトヘイト後も白人優位の社会が覆ったわけでもなく、欧州やアメリカなどの白人社会とも違う印象があります。とはいっても・・・宗教的、および、社会的に同性愛が迫害されているというわけではないようで、それなりのゲイカルチャーというのは存在しているようではあります。それでも、個人的に同性愛を抑圧するような背景はあるわけで・・・「既婚者ゲイ」という立場であれば、自己否定による”屈折”や”矛盾”を感じながら生きなければならないという”悲劇”はありえるのです。

南アフリカのブルームフォンテーンで暮らすフランソワーズ(ディオン・ロッツ)は、木材会社を経営する白人の40代半ばの中年男・・・妻と二人の娘に恵まれ、ひとりの娘を嫁にやったところです。ただ、夫婦間の会話は親戚や友人らの噂話や愚痴ばかり、明らかに欲求不満気味の妻に冷たく背を向けます。これは、日本の夫婦でもありがちな状況かもしれません。さらにフランソワーズは、人種差別主義者であることや、ホモフォビアを隠そうともしない嫌な奴でもあります。

実はフランソワーズは「既婚者ゲイ」・・・ホモフォビアな発言をするのも、ある種の自己防衛、自己否定なのかもしれません。結婚生活を送りながら、彼は時々人里離れた農家での秘密の集まりに参加しています。お互いに秘密を守れる「既婚者ゲイ」だけが参加出来る”乱交パーティー”に興じているのです。普通のおっさんたちが、ブヨブヨの体でエッチをしまくっているシーンは、正直おぞましく見えます。秘密で結ばれている仲間ですが、ハッキリ言って、ただ”ヤルだけ”の仲間・・・秘密厳守のルールや礼儀は守っても、真の人間関係なんて存在していないように思えます。

「既婚者ゲイ」のおじさん同士でのセックスで発散しているフフランソワーズですが・・・長年の友人の息子で、娘の幼馴染みでもある青年クリスチャン(チャーリー・キーガン)に、密かに惹かれています。パートタイムでモデルをするほどのハンサムで、弁護士になるために法学部へ通う学生のクリスチャンに、フランソワーズは将来的には自分の会社の弁護士になれば良いなどと、何かとかかわりを仕掛けていきます。次第にフランソワーズはクリスチャンに執着するようになり、ストーカーのように追いかけるようになっていくのです。

ケープコードの別荘に行ったクリスチャンの家族を追いかけ、フランソワーズは仕事の出張と口実で数日ケープコードへ旅行へ出かけます。どうにかしてクリスチャンに近づくチャンスをうかがっていたのですが・・・幼馴染みでもある彼の娘が現れて、二人で早々にビーチへ遊びに出かけてしまいます。抑えきれない嫉妬を感じたフランソワーズは、車が盗難されたという狂言を演じて、娘とクリスチャンを引き離そうとします。結果的に作戦は失敗し、フフランソワーズはゲイバーで飲んだくれます。ただ、これが功を博して、心配したクリスチャンが迎えにきて、滞在しているホテルまで送るということになります。

ここからネタバレを含みます。


この絶好のチャンスを逃すものかと・・・フランソワーズはホテルの部屋までクリスチャンを連れ込みます。急接近するフランソワーズをかわすクリスチャンに、遂にフランソワーズは火がついたように襲いかかります。いきなりの事態に恐怖でおびえるクリスチャンの顔を殴りまくり、フランソワーズはクリスチャンを犯します。しかし、あれほど執着していたクリスチャンだったのに、無理矢理やってしまえば、それまで・・・やり終わって呆然とするフランソワーズに、満足感も達成感も感じられません。

友人の息子、それも子供の時から知っている青年を襲う・・・というのは、あまりにも危険で衝動的な行動としか思えません。まず現実では、ありえません!本作では犯された後のクリスチャンがどうしたかをまったく描きません。もしも、クリスチャンによってレイプをバラされたら、フランソワーズがゲイであることが暴露されるだけでなく、犯罪者にもなってしまうはず・・・ただ、多くの性犯罪の被害者が、公表することで、さらに深く傷つくことを恐れて泣き寝入りするように、クリスチャンも口をつぐんだということなのでしょうか?映画は、もとの生活に戻ったフランソワーズが、螺旋状の駐車場の通路を延々と下っていくところで終わります。まるで彼の人生が、どこへにも辿り着かないかのように・・・。

クリスチャンにとっては、トラウマになるような恐ろしい経験をしたわけですが・・・フランソワーズは、相変わらず「既婚者ゲイ」として二重生活を送り続けます。妻も要求不満を抱えたまま、何も知らずに冷えた夫婦生活を、これからも送っていくのでしょう。フランソワーズはホモフォビアのまま・・・「既婚者ゲイ」や「非ゲイ」の男と、セックスを繰り返すに違いありません。ゲイであることを認めている「真性ゲイ」という存在は、フランソワーズにとって脅威であり、恐怖なのかもしれません。これほどの自己矛盾を抱えながら生きることは・・・”悲劇”以外のなにものではありません。

日本では、急激に”オネェ”や”性同一障害”の理解が広がっています。オネェタレントに代表されるような、ステレオタイプの”オネェキャラ”というのは、異端のバケモノ、もしくは、道化師として、おもしろおかしく受け入れられているだけのこと・・・ご意見番という”立ち位置”を与えられるのは、あくまでも本筋から外れている”部外者”であるからです。また、性同一障害についてテレビ番組などで、肯定的、かつ感動物語として取り上げているのは、医学的な判断に基づいて”障害”だからこそ・・・男性として生まれてきたけれど心は”女性”という「障害」を持った可哀想な人というわけです。ボク個人的には”障害”としていることに違和感を感じますが、戸籍変更など法律的な対応を考慮すると・・・個人の選択というのでは、難しかったのかもしれません。

もしも、自分の夫が「ゲイ」という場合、それは”オネェキャラ”でもなく、医学的な”障害”でもなく、単なる性的な”嗜好”ということになります。それの”嗜好”を理解して乗り越えるというのは、お涙頂戴の感動にはなりにくいでしょう。”BL”に萌える主婦って結構いるらしいけど・・・自分の夫が男とやっていたとしても「OK」なのでしょうか?女性との浮気は勘ぐったとしても、まさか自分の旦那が男とエッチしているなんて、想像すらしない奥さんというのが殆どだと思います。実は夫は「既婚者ゲイ」というのは、まだまだアンタッチャブルな領域のような気がするのです。

50代以上の世代だと、ゲイであることを十分に自覚しつつ・・・世間体や会社での立場などを考えて、仕方なく結婚したという”ゲイ”が、かなり存在します。若い世代になるほど。自分がゲイであると知りながら「無理してまで結婚したくない!」という生き方を選択する人が増えています。これって、近年の男性未婚者数の上昇の要因のひとつかもしれません。

既婚者でゲイに、ボク自身も何人も遭遇したことがありますが・・・物心ついた時から自分がゲイであるという自覚はあったけれど結婚したという人もいれば、若い時にはストレートと思い込んでいた(思い込もうとしていた?)けれど40歳過ぎてからゲイ体験をして目覚めしまったという人もいたりします。結婚しているぐらいだから、男とのセックスでも”タチ”なんでしょう・・・というわけではなく、どうしようもないほどの”ウケ”の「既婚者ゲイ」もいたりします。今では夫婦間でのエッチはないという「既婚者ゲイ」が殆どではあるようですが、中にはエッチを強要する奥さまもいるようで・・・夫がゲイであることを否定するための最後の砦としての性行為なのかもしれません。

「既婚者ゲイ」には、ゲイであることに多少は”後ろめたさ”を感じているタイプもいれば、完全に開き直ったとしか思えないタイプもいます。”後ろめたさ”を感じるタイプは、秘密厳守のために相手も「既婚者ゲイ」であることを求める傾向があります。ただ、最近は出会い系サイトやアプリが非常に豊富なので「既婚者ゲイ」にとっても出会いは楽になったようです。失った時間を取り返すかのように、普通のゲイ以上にセックスしまくる強者の「既婚者ゲイ」というのも結構います。所詮は不倫相手なので、男とはパートナーになる意志はまったくなく・・・「セフレ」としては、普通のゲイよりも割り切れっているかもしれません。開き直ったタイプには「子供なんて全然愛してないし、家族なんてどうなっても良いんだ」という、人としての資質を疑ってしまうトンデモナイ輩もいたりします。

「既婚者ゲイ」は、そうでない人からは、到底、理解できない矛盾を抱えながら生きていかなければならないわけで・・・自分自身だけでなく、妻や子供などの家族、またセックスの相手となる男に対しても、ある意味”悲劇”を連鎖させている存在ではあると思うのであります。


「アイズ・ワイド・オープン」
原題/Eyes Wide Open
2009年/イスラエル
監督 : ハイム・タバクマン
出演 : ザマー・ストラウス、ラン・ダンカー

日本未公開


「ビューティー」
原題/Beauty(Skoonheid)
2012年/南アフリカ
監督 : オリバー・ハーマナス
脚本 : ディディラー・コステス、オリバー・ハーマナス
出演 : ディオン・ロッツ、チャーリー・キーガン

日本未公開

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