2016/08/01

ドン引き確実(?)な”悪趣味映画”の金字塔!・・・浣腸強姦魔を描いた1970年代ポルノ黄金期につくられた伝説のハードコアポルノ~「ウォーターパワー アブノーマル・スペシャル/Waterpower」~


1970年代の映画雑誌はエロ雑誌の役割も担っていて・・・ポルノ映画の紹介や広告も掲載されていたものです。特に、ボクの記憶に残っているのが、洋物ポルノ映画として公開された「ウォーターパワー アブノーマル・スペシャル」であります。当然のことながら「ウォーターパワー」が「浣腸」のことだとは、当時のボクは理解していなかったのですが・・・尋常ではない何かを嗅ぎとっていたのかもしれません。


「ウォーターパワー アブノーマル・スペシャル/Waterpower」は、1970年代のポルノ黄金期の一作であります。主演は1970~80年代にポルノ男優として第一線で活躍したジェイミー・ギリスで、監督には「ディープ・スロート」のジェラルド・ダミアーノも名前も連ねられています。

日本のアダルトビデオでは、浣腸プレイやスカトロは珍しくもないのかもしれませんが・・・アメリカでは、アレを噴出するシーンはタブーとされていて長年”封印”されていたのです。今回、ボクが視聴したのは「ディレクターズ・カット版」と銘打ったもので、現存するフィルムから修復した81分のバージョンであります。

まず「本作が実話を元にした作品であり、場所や人の名前は被害者を守るために変更していて、このような事件はどこでも起こりえる・・・あなたにも」というテロップが映されます。イリノイ州に実在したマイケル・H・ケニアンという人物による強姦浣腸事件をもとに、舞台をマンハッタンに置き換えているです。

前年に制作された「タクシードライバー」に影響を受けているようで・・・大都会の中で社会不適合者が狂気を暴走させることより、現代社会のゆがみを描こうとする制作者の意図を垣間見せるのですが、本編のドン引き必須の浣腸プレイのインパクトに、そんなことは頭からすっかり抜けてしまいます。


主人公のバート(ジェイミー・ギリス)は、マンハッタンに暮らす性的に鬱屈した男・・・隣人の女性(クレア・カーソン)を望遠鏡で覗いている”ストーカー”で、自分勝手に彼女を美化しているのです。ある夜、立ち寄った風俗店で、ニセ医者(エリック・エドワーズ)と風俗嬢のニセ看護婦(ルレーネ・ウィロピー)が、ニセ患者パメラ(ジョアンヌ・シルバー)に行なっていた浣腸プレイを見学させてもらって、バートは異様な興奮を覚えてしまいます。


さっそく浣腸セットを購入して帰宅したバートが、隣人の女性宅を覗いていると、ボーイフレンドとエッチに興じる彼女の姿が・・・。積極的にエッチを楽しむ淫乱な彼女の姿を見て「こんな女じゃないはずだ!」と怒りを覚えるバート。その夜、彼女の部屋に忍び込み、汚い言葉で彼女を罵倒しながら、強姦・・・さらに、汚れた彼女を”浄化”するために、浣腸をするのです。彼女がアレを噴出すると同時にバートは射精・・・すっかり浣腸プレイのヤミツキになってしまい”浣腸強姦魔”として、世の中の汚れた女性を”浄化”することに使命感を燃やすのであります。


道で見かけた若い女性二人の後をつけてバートが部屋に忍び込めば・・・暇を持て余した二人はレズビアンセックスを開始(!)。すかさずバートは割り込んで、二人を罵りながら、強姦・・・当然のことながら、二人とも浣腸で”浄化”されてしまうのです。

日本のアダルトビデオのように、女性を侮辱したり、嫌がるのを押さえつけて強姦するポルノというのは、アメリカでは殆どつくられません。女性の意志に反した行為は、例え性的ファンタジーであっても好ましくないという暗黙の規制があるようなのです。まぁ、蔑まされたいマゾ女性以外の女性にとって、本作は”不快極まりない”映像であることは、今も昔も変わらないと思いますが。


新聞でも浣腸強姦魔が報道されるようになり、警察も動き始めます。婦警のイレーネ(C・J・ラング)は、殺人課の刑事ジャック(ジョン・ブーコ)と、この事件の調査パートナーとなるのですが、まずは彼を部屋に連れ込んでエッチ。もちろん(?)ジャックもアナル好きで・・・浣腸強姦魔の調査に打ってつけの刑事だったのかもしれません。イレーネの囮調査によって、早々にバートとの接触に成功するのですが・・・すぐに正体がばれてしまったイレーネは強姦されて、他の被害者と同様に浣腸で”浄化”されてしまうのです。そして、バートは警察に捕まることもなく逃げ切ってしまいます。

「去年13万1468件の強姦事件がアメリカ国内で報告されたが、その中で僅か2656件しか解決していない」というテロップが映されて、本作はあっさりエンディングを迎えます。まるで社会派ドラマのような”オチ”に「いまさら、何を真面目に~」とツッコミを入れたくなります。

浣腸を含めて「SMプレイ」は、ジェイミー・ギリス本人の性的嗜好でもあるようです。ニューヨークで真夜中に放映されていたケーブルテレビのアダルトチャンネルで、サディスティックな性癖があることを、彼が飄々と語っていたことを覚えています。ジェイミー・ギリスにとっては自分のフェチを実行していただけ・・・1990年には「ウォーキング・トイレット・ボウル=歩く便器/Waking Toilet Bowl」という、さらにハードなスカトロ・ポルノにも出演しています。

ジェイミー・ギリスの言葉責めや”浣腸プレイ”を語たる数々の台詞は、フェチを持っていない者からすると、悪趣味な”ギャグ”にしか聞こえません。浣腸=浄化という”理屈”は、SMプレイとしては”理”にかなっていて(?)、哲学的な思想に繋がるのも理解できないないわけではありませんが・・・やはり、本作は恐いもの(汚いもの?)見たさの「コメディ映画」として観るの”王道”ではないでしょうか?

今年のカナザワ映画祭(2016年9月20日午後9時15分より)で、噴出場面がカットされていない”66分”のフランス公開版「ウォーターパワー アブノーマル・スペシャル」が上映することが決定したそうです。カナザワ映画祭10周年を記念して行なわれた「オールタイム・ベスト投票」で、堂々の第1位に選ばれたそうで、待望(?)のリバイバル特別上映となったのこと・・・ホント「みなさん、お好きなのね~」としか言えません!


「ウォーターパワー アブノーマル・スペシャル」
原題/Waterpower
1977年/アメリカ
監督 : ショーン・コステロ、ジェラルド・ダミアーノ
出演 : ジェイミー・ギリス、エリック・エドワーズ、マルレーネ・ウィロピー、C・J・ラング、シャロン・ミッチェル、クレア・カーソン、ジョアンヌ・シルバー
1980年4月26日より日本劇場公開
2016年9月20日「カナザワ映画祭」にて上映

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2016/07/21

丹波哲郎が”環境問題”を説教し、由美かおるが太陽をバックに踊り、核戦争のあと奇形児が蠢くの!・・・ツッコミどころ満載だけど今こそ観るべき”封印映画”~「ノストラダムスの大予言」~


ボクが物心がつきはじめた頃(1970年くらい?)は、未来は希望に満ちていたような気がします。こども向けの絵本には「鉄腕アトム」で描かれていた流線型の乗り物やレトロフィーチャーな建物の風景が広がり、腕時計型の電話で人々は通話し、あらゆる病気は治療できるようになりヒトはほぼ不老不死、国境がなくなり世界はひとつの国として仲良く暮らしている・・・という”未来予想図”を持っていたのです。


しかし、1970年代に入り・・・小松左京著「日本沈没」と五島勉著「ノストラダムスの大予言」が大ベストセラーになり、有吉佐和子の「複合汚染」で書かれたような公害問題(スモッグや公害病)や人口爆発問題(当時は増え過ぎを心配していた)など、未来への不安が語られるようになり”終末論”が広がっていくのです。特に「1999年7月、空から降ってくる”恐怖の大王”によって世界は滅亡する!」と訴えた「ノストラダムスの大予言」は、その後”しらけ世代”と呼ばれるボクらの世代の”冷めた人生観”に影響を与えた気さえするのです。


映画版「ノストラダムスの大予言」は、「日本沈没」の大ヒットを受けて、原作本が出版(1973年11月25日)されてから、僅か一年足らずで(1974年8月3日)劇場公開されています。ノストラダムスの予言書と言われる「諸世紀」を、ノストラダムスの逸話と共に解説した原作の”タイトル”のみ借用した本作は「オリジナル映画作品」なのです。

本作で描かれる事象は、各界の専門家たちによる科学的考証を元にしており、特に当時農林省に務めていた西丸震哉氏による食生態学のアドバイスが、本作の悲観的な結論に大きく影響しているといわれています。ストーリーの掴みどころもなく、スペクタクルにも欠けており、ツッコミどころ満載の”珍作”ではありますが・・・公開時には文部省の「推薦映画」でもあったのです。

本作が”語り継がれる”理由のひとつは、未だに国内では一度もソフト化されていないからかもしれません。近年、過去、封印されていた映像作品が、ソフト化されていく傾向があるようですが・・・大幅カットされた海外版のVHSビデオとレーザーディスクが販売されたことはあるものの、公開時のノーカット版は不法な海賊版でしか手に入らないのです。日本国内でも 一度はビデオとレーザーディスク(カット版だと思われますが)の発売予告がされたにも関わらず、結局のところ未発売のまま・・・現在では視聴困難な「封印映画」となったのです。

映画の主人公は、幕末の時代、第二次世界大戦中に、ノストラダムスの予言を唱えた一族の血を引く科学者・・・丹波哲郎扮する西山博士であります。1999年7の月に空から恐怖の大魔王が降ってくるという人類滅亡を暗示する予言とは何かを、環境破壊や核戦争の危機を煽って、この西山博士が説教しまくるのです。

食品に使われる防腐剤や農作物の成長促進剤に意義を唱えたり、自然破壊や森林伐採の人類への危険性や工場から排出される物質による汚染を訴えたり、動物や魚の大量死や奇形生物(奇形児)が増えていることに危機感を感じていたり・・・というのは、現在進行形の環境問題であります。ハワイ沖に氷河ができるのは大袈裟だとしても、偏西風の蛇行が世界的に異常気象を生じさせると指摘しているのは、まさに「エルニーニョ」や「ラニーニャ」の現象のことであり・・・問題意識の先見の目は否定できません。

しかし、地下鉄路線内に巨大雑草が一晩で生い茂ったり、超音速機の爆発でオゾン層が破壊されて人間が焼かれるとか、突然変異で”ある能力”が発達した子供たち(拘束移動をし始める男の子、ジャンプ力が増大する女の子、たくさんの桁数の計算ができるようになる男の子)が出現するというのは、あまりにも馬鹿馬鹿しすぎます。

封印される原因となったのは・・・ニューギニアの奥地で放射能を浴びてしまった原住民が被爆して人肉を食らうバケモノとして描かいたところや、核戦争で滅亡した後に現れた新人類がケロイドだらけの奇形児として表現したこと。まだ、広島と長崎の原爆投下から30年ほどしか経っていなかったこともあり、被爆者団体から非倫理的な差別だと訴えられます。当時も劇場公開されてから数ヶ月後に、問題のシーンをカットした編集版に上映を差し替えたそうですが・・・1974年の興行収入は邦画部門では2位(1位は「日本沈没」)になっているのですから、大ヒットではあったのです。


本作を”珍作”としているのは、描かれている「いまどきの若者」の風俗の違和感であります。未来を悲観した若者たちがコイントスをしてグループの半分が崖からバイクで飛び降り自殺したり、アングラ風の歌舞伎メイクと衣装で船で旅立つというのは、おそらく当時の本作を観た若者にとっても奇妙だったのではなかったでしょうか?


また、西山博士の娘(由美かおる)と娘のボーイフレンドであるフリーカメラマンの中川(黒沢年男)の、行動もちょっと変です。どうやら、この二人には肉体関係がないらしいのですが(ホント?)・・・その二人に「愛する者同士なら自然」と、エッチを奨める父親も父親であります。さらに、そう父親に言われて、さっそく海辺のボート中でエッチに励んでしまう娘も娘です。


「子供だけは作るな」と科学者である父親から釘を刺されていたのに関わらず、すぐ妊娠してしまう娘は、汚染されて何重にも見える太陽をバックに、命の誕生の歓びをダンスで表現する(さすが西野バレエ団出身!)というシュールな展開であります。


日本国内の各所は、爆発、火事、津波など災害に襲われて、食糧を求めた国民が暴れしているにも関わらず、何故か西山のいるビルの屋上(風景からして都心?)は妙に静か・・・スモッグが反射鏡となり、地表をグリーンの空に映し出しているのです。このような壊滅的な状況下・・・映画の終盤、総理大臣や政府高官を相手に語られる西山博士の熱弁と共に、これから起こるであろう核戦争と、その後の世界の終わりが描かれていきます。あくまでも、西山博士が警告する未来でしかないのですが・・・。


「ノストラダムスの大予言」どおりの未来が訪れることを前提にした危機感を煽る本作でありますが・・・西山博士と総理の演説は、強引に結論を言い切っているところがありながらも、現在の世界的な社会、環境、政治問題を言い当てているところもあり、不思議な説得力によって、うっかり(?)感動さえさせられてしまいます。

(以下、引用)

このような現象は日本各地に起こる。
一般民衆にとっては、不吉な天変地異の前触れとしか思えないのでありまして、
すでに各都市に頻発している食糧パニック状態と合わせて、
人心は不安、動揺、紊乱(びんらん)の極に達しております。
さらに、この上に自然界の異常事態が発生したら、どうなる?

遠州灘を中心とする東海地方、冨士火山のフォッサマグマ帯をはじめとして
我が国土は、その危険を十二分にはらんでいるのであり、
もし、そのひとつが引き金作用となって、
環境汚染の進む都市に及べば、どうなるか?

(マグマ噴火と大地震に襲われる都市)

(爆発する原子力発電所による核汚染)

原子力発電所には許容安全度というモノはありえないし、
地震に対しても、絶対に安全とは言えないのであります。
だとすれば・・・これは言語に絶する公害であり、
さらにまた、国連の勧告、人類の悲願にも関わらず、
核兵器の全面禁止は、国家間のエゴイズムのために
一向に実があがっていない。

今後ますます、その複雑さと深刻さを増すであろう民族問題、
食糧不足からくる決定的な飢饉、エネルギー資源の争奪戦などは、
常に一触即発の危険をはらみ、例え局地戦であっても・・・いいですか?
例え局地戦であっても、ひとたび、もし、ひとたび
核兵器が用いられたなら・・・

(戦闘機、潜水艦、空母、戦車、ミサイル発射)

さらに、これが拡大して、世界戦争になったら・・・

(世界の各地で続々と発射される核ミサイル)

(1999年7の月、空から恐怖の大魔王が降ってくる・・・というナレーション)

(ニューヨーク、ロンドン、パリ、東京が爆発全滅)

(基地は壊滅して人間が死んでも、ミサイルは発射され続ける)

こうして人類は滅亡しても、地球は残るでしょう。

(荒れ地となった関東地方)

壊滅し荒廃しきった我国でも、このまま何年、何十年かの歳月が過ぎて、
房総半島、九十九里浜、千葉、関東平野、東京湾、東京があったところ・・・

(美しい乙女の輝き、それはもう輝くことはない。すべてのモノは毛と皮が剥け、狂って争う。怪物が地球を覆うことになる。・・・というナレーション)

(荒れ地に現れる新人類二人が、ミミズを奪い合って食べる)


これは、あくまでも想像です。
誰も見た者はない。
見ることもできない。
しかし、現在の人間は、このようになる危険と一緒に生きているんです。

総理!政治とはなんでしょう?
人間を人間として生存させる責任であります。
その人間の生存自体が壊滅の急坂を今、加速度をつけながら転がり落ちているんです。
神仏の心による大決断の政治を、私は総理に祈りを込めて、お願い致します。

この熱弁を受けて・・・総理(山村聡)は、あっさり(?)西山博士の主張に共感して、危機を訴えるのであります。こうなると「ノストラダムスの大予言」なんて、関係ありません。なんたって人間生存を決めるのは、欲望を断つ「勇気」なのですから・・・。

(以下、引用)

今、わたくしは日本のみなさん、日本を見守っている世界の人々に向かって、
冷厳な事実を告げなければなりません。
日本は今・・・まっしぐらに破局への路を辿っております。
それは同時に全人類の終末にも繋がるのでありましょう。

この・・・文明の燃えさかる業火のなかで、
日本は、そして世界は本当に滅び去っていかなければならないのか?
かつて地球上に覇を唱えながら、見過ごしていった動物たちと、
同じ運命を辿らなければならないのか?
断じて、そうあってはなりません!
この人間自らの手によって作り上げたモノのために、
人間自らの命を絶つなどという愚かなことは、あってはならないのです!

我々政治家は長い間みなさんに、こう言い続けてきました。
「我々を信頼し支持してくれ、必ずより良いより豊かな生活をお約束します」と。
そして、一億以上の人間がひしめく、この狭隘(きょうあい)な日本列島に、
驚くべき高度成長社会を築き上げて参りましたが、
その上で得たモノは一体何であったか?
恐るべき生活社会の破綻と、救いようもない精神の荒廃であります。
しかも・・・我々は今日の欲望のために、
膨大な地球資源を乱費し、自然を破壊し続けて参りました。

しかし、自然を破壊する前に、まず人間が破壊されるという
この、あまりにも明白な事実を、今日ようやくにして我々は学び取ることができました。
その恐れを忘れていた我々政治家の傲慢さと愚かさを、ここに深くお詫び致します。

しかし、今からでも決して遅くないと思います。
わたくしは、例え世界の終末が明日訪れようとも、
なおかつ一本の苗木を、この大地に植え付けたい。
我々に必要なのは「勇気」であります。

今こそ全人類は、物質文明の欲望に終止符を打たなければならない。
さもなければ、欲望が人間生存に終止符を打つであろう。
この事実を正しく認識し、全世界の人々と一緒になって、
同じ窮乏(きゅうぼう)の生活に耐えてみせる・・・その「勇気」であります。

見通しは、あまりにも暗く・・・殆ど絶望的でさえあります。
しかし、この現実の中でこそ、本当に人間を愛し、人間を信じ、
本当の意味の人間讃歌の歌声をあげることができるのではないでしょうか?

未知の世代の人々をして「彼らは真に勇気ある人間であった」と語り継がせるため、
我々は真の「勇気」をもって、今までの価値観を根底から覆し、
人間生存の新しき戦いに出発しようではありませんか?

政治だけではない・・・ひとりひとりの人間の心の問題として、
この最も件(くだん)な戦いを全世界の人々とひとつになって、
戦い抜こうではありませんか!



総理の演説を聞いた西山(丹波哲郎)の、いかにも感無量といった表情が素晴らしいのですが・・・考えてみると、総理からは何一つ具体的な政策は語られてはいません。それでも、まるで「大団円」とでも言うように、人ひとりいない国家議事堂前の大通りを「Gメン75」ばりに歩く西山と娘とボーイフレンドの三人の姿を映し出します。「これは虚構の物語りである。だがたんなる想像の世界ではない。こうあってはならない。それが我々の願いである」・・・というエンディングテロップが画面にでて、映画「ノストラダムスの大予言」は終わります。


「我々」といいうのは、この映画を製作した「我々」であるわけで・・・「ノストラダムスの大予言」を方便に、物質文明=資本主義を否定する”究極のエコロジー”を訴えるカルトな”説法”のようでもあります。しかし、その啓蒙的過ぎるスタンスを差し引いても、今こそ耳を傾けるべき警告であると思えるのです・・・1999年は、とっくに過ぎてはいますが。


「ノストラダムスの大予言」
1974年/日本
監督 : 舛田利雄
原作 : 五島勉
音楽 : 冨田勲
出演 : 丹波哲郎、黒沢年男、由美かおる、司葉子、山村聡、平田昭彦、志村喬、岸田今日子(ナレーション)
1974年8月3日より日本劇場公開

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2016/06/28

ウディ・アレンの「殺人映画」・・・”罪悪感”と”笑い”から導かれる非倫理的な教訓~「ウディ・アレンの重罪と軽罪」「マンハッタン殺人ミステリー」「マッチポイント」「タロットカード殺人事件」「教授のおかしな妄想殺人」~


45作目(?)となる最新作「教授のおかしな妄想殺人」が無事に(?)日本でも劇場公開されているウディ・アレンは、ほぼ毎年映画一本を発表し続けるという世界的にみても多作な映画監督であると言えます。御年80歳でありながら、映画のアイディアが尽きることなく、制作スピードが衰えないというのは驚くべきことです。

ボクは「アニー・ホール」(1977年)からウディ・アレン監督作品をリアルタイム観た世代で、特に「サマー・ナイト」から始まるミア・ファローをヒロインとする一連の作品(「夫たち、妻たち」まで)には思い入れがあります。

初期(「アニー・ホール」以前)から「ウディ・アレンの愛と死」で哲学的なテーマを扱ったり、「インテリア」(1978年)では一切笑いを封印した自死を扱ったシリアスドラマを製作したりしていますが、1989年の「ウディ・アレンの重罪と軽罪」では、売れないドキュメタリー作家の悲喜劇とセレブ医者のシリアスドラマであります。ありがちな不倫関係に末の愛人殺しという・・・火曜サスペンスでさえ使い古された平凡な物語(?)が、二つの物語を並行して描くことによって劇的に面白くなっているのです。


「ウディ・アレンの重罪と軽罪」は、公開当時は賛否両論だったと思うのですが・・・その理由のひとつに、シリアスドラマのセレブ医者が罪に問われることがないという結末にあるのかもしれません。セレブな医者である既婚者のジュダ(マーティン・ランドー)は、CAの独身女性ドロレス(アンジェリカ・ヒューストン)と不倫関係を持ってしまうのです。ジュダにとっては火遊びだったのですが、元々精神的に不安定だったドロレスは、次第にジュダに離婚することを求めて脅迫するようになっていきます。

そこで、裏社会と関係のある弟(ジェリー・オーバック)が手配した殺し屋に、ドロレスの殺害を依頼します。ジュダは罪悪感に苛まれながらも、罪に問われることもなくセレブ生活を続けていくというエンディング・・・人生のシリアスさとコメディは紙一重というシニカルな視点は、ボク個人的には、かなりお気に入りではあったのです。

しかし、その数年後(1992年)、ウディ・アレンは事実上のパートナーであったミア・ファーローの養女スン・イー(当時21歳)との交際発覚・・・ミア・ファローとの決別後、スン・ニーとは正式に結婚します。このスキャンダルは、「私生活とクリエーションは別物」と普段は考えているボクでさえ生理的に受け入れ難く・・・不倫と、不倫にまつわる殺人を描いた「ウディ・アレンの重罪と軽罪」は、どことなく不快な気持ちにさせられる作品なってしまったのです。

ミア・ファーローを念頭において書かれた最後の脚本だといわれる1993年の「マンハッタン殺人ミステリー」(実際に演じたのはダイアン・キートン)も、妻の妹と共謀して妻を殺す夫を捜査する物語で、最終的には殺人者の夫は捕まるものの、殺人という罪だけでなく、妻の妹(血縁者)との不倫という二重の裏切りは、ウディ・アレン自身のミア・ファーローとの一連の経緯を連想させ・・・その後しばらく、ボク自身はウディ・アレンの映画を観る気にはなれない時期が続きます。

スキャンダル後、世間の風当たりは厳しく、評価の高い作品(「ブロードウェイと銃弾」など)を発表し続けるものの、興行的にはウディ・アレン作品は低迷・・・アメリカ国内での映画製作に行き詰まりがあったのか、活躍の場をヨーロッパへと移して「マッチポイント」「タロットカード殺人事件」「カサンドラ・ドリーム」を製作します。このロンドン三部作は、三作品とも殺人をテーマにした「殺人映画」・・・ミステリーの本場(?)を意識してなのでしょうか?


2005年の「マッチポイント」は、イギリス上流階級の逆玉にのった男が愛人を殺す物語・・・その上、殺人を犯す主人公は罪を問われることもなく結末を迎えます。元テニスプレイヤーでテニスインストラクターのクリス(ジョナサン・リース=マイヤー)は、高級テニスクラブで上流階級出身のトム(マシュー・グッド)と知り合います。そして、トムの異能とのクロエ(エミリー・マーティマー)と付き合うようになります。しかし、同時にトムのフィアンセでもある女優志願のアメリカ人ノーラ(スカーレット・ヨハンソン)に惹かれてしまい、肉体関係を持ってしまうのです。

ノーラとトムの婚約は破綻してしまうのですが、クリスはクロエと結婚・・・しかし、ノーラとの関係を清算することはできず、強盗を装おってノーラを殺害してしまいます。唯一、物的証拠となりえる指輪は、運良くホームレスによって拾われて、クリスは容疑者に名前が浮かびながらも、連続強盗殺人事件だったと判断されて、罪に問われることはないのです。


続く2006年の「タロットカード殺人事件」は、売春婦殺しの富豪(ヒュー・ジャックマン)の物語で・・・ジャーナリスト志望のアメリカ人学生のサンドラ(スカーレット・ヨハンソン)と冴えないマジシャン(ウディ・アレン)が、ジャーナリストの亡霊(イアン・マクシェーン)の情報(原題の「Scoop」はここから)を元に捜査するというドタバタ劇であります。

「タロットカード殺人事件」は「マンハッタン殺人ミステリー」と似ているところがあり、興味本位で殺人事件に顔を突っ込んだおかげで、サンドラは殺されそうな目に遭ってしまうのです。最後には、富豪はあっさりと捕まってしまうものの・・・「邪魔な女は殺す」という動機を生々しく感じてしまうのは、ボク個人のウディ・アレンに対する生理的な感情からかもしれません。


最新作の「教授のおかしな妄想殺人」は、ウディ・アレンが繰り返し取り上げる”殺人”をテーマとして、シニカルな笑いを含み、悲喜劇ともシリアスドラマとも受け取れるウディ・アレン独特な作品で・・・評判はそれほど良くなく、どちらかといえば「はずれ」の作品かもしれません。しかし、哲学科教授のエイブ(ホアキン・フェニックス)が悪徳判事を殺害することに生き甲斐を見つけるという寓話的な設定や、登場人物を端的な台詞で巧みに描き分けているのは、毎度のことながら”お見事”です。

大学に赴任してきた哲学科教授のエイブは、人生の意味を見出せない無気力な日々を過ごしています。それでも、同僚の中年女性リタ(パーカー・ポージー)とセフレの関係になったり、生徒のジル(エマ・ストーン)から恋されるという・・・実は結構なモテモテな”おじさん”です。ウディ・アレンの作品では、何故か主人公の”おじさん”が女性にモテるというところはあり、ウディ・アレン自身が演じている場合には、かなり違和感を感じさせるのですが・・・中年太りでお腹が出まくりながらも、妙に色気を発散するホアキン・フェニックスのキャスティングが本作では絶妙で、アメリカの地方の大学には「あるある」かもしれません。


ある日、エイブは悪徳判事の噂を耳にして、一切関連性のない自分が判事を殺す完全犯罪を妄想し始めるのです。入れ替え殺人とは違いますが・・・無関係な人が殺人を犯すことで完全犯罪が成立するという発想は、ヒッチコックの「見知らぬ乗客」を思い起こさせます。人生の目的を見つけたエイブは見違えるように生き生きさを取り戻し、毒入りの飲み物で判事の殺害に成功してしまうのです。

ここからネタバレを含みます。


勿論、これで「めでたし、めでたし」というわけではありません。ジルは、エイブの犯行であることを確信するに至り、それを察知したエイブはジルも殺害しようと企てるのです。ジルのピアノレッスンの帰り、エレベーター前で偶然を装おって待ち伏せするエイブ・・・ジルをエレベーターに突き落とそうとして、逆にエイブ自身が誤って落下して、あっさり死んでしまいます。

自業自得で天罰を食らうという・・・今までのウディ・アレンの「殺人映画」とは違う全うエンディングにボクは少々面食らいました。邦題の軽妙なタイトル(ドタバタ喜劇?)と内容は違い、笑いも極ブラックで、意味なく哲学的な会話・・・ウディ・アレンの今までの作品で繰り返し使われてきたモチーフや、焼き直しされた台詞を散りばめている印象です。

最後はジルが自問自答する教訓(?)で終わるわけですが・・・そうとしか”オチ”のつけようのない小咄であり、そういう意味でも「はずれ」と評価されてしまうのは仕方のないのかもしれません。

ウディ・アレンのファンとしては、2016年7月15日にアメリカ国内で劇場公開される1930年代のハリウッドを舞台にした「カフェ・ソサエティ(原題)/Cafe Society」、そして、タイトル未定のアマゾン配信のテレビシリーズ(6エピソード)に、すでに関心がうつってしまっているのです。


「教授のおかしな妄想殺人」
原題/irrational Man
2015年/アメリカ
監督&脚本:ウディ・アレン
出演   :ホアキン・フェニックス、エマ・ストーン、パーカー・ポージー
2016年6月11日より日本劇場公開

「ウディ・アレンの重罪と軽罪」
原題/Crimes and Misdemeanors
1989年/アメリカ
監督&脚本:ウディ・アレン
出演   :マーティン・ランドー、アンジェリカ・ヒューストン、ジェリー・オーバック、ウディ.アレン、ミア・ファーロー、アラン・アルダ
1990年4月6日より日本劇場公開

「マンハッタン殺人ミステリー」
原題/Manhattan Murder Mystry
1993年/アメリカ
監督&脚本:ウディ・アレン
出演   :ウディ.アレン、ダイアン・キートン、アラン・アルダ、アンジェリカ・ヒューストン
1994年8月13日より日本劇場公開

「マッチポイント」
原題/Match Point
2005年/イギリス、アメリカ
監督&脚本:ウディ・アレン
出演   :ジョナサン・リース=マイヤー、スカーレット・ヨハンソン、エミリー・マーティマー、マシュー・グッド
2006年8月19日より日本劇場公開

「タロットカード殺人事件」
原題/Scoop
2006年/イギリス、アメリカ
出演   :スカーレット・ヨハンソン、ウディ.アレン、ヒュー・ジャックマン、イアン・マクシェーン
2007年10月27日より日本劇場公開

「カフェ・ソサエティ(原題)」
原題/Cafe Society
2016年/アメリカ
監督&脚本:ウディ・アレン
出演   :スティーブ・カレル、シェリル・リー、ジェッシー・エステンバーグ
日本公開未定

タイトル未定(テレビシーズ)
2016年?/アメリカ
監督&脚本:ウディ・アレン
出演   :ウディ・アレン、レイチェル・ブロスナン、ミリー・サイレス、ジョン・マガロ、エレイン・メイ
日本公開未定(アマゾンビデオ配信)


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2016/05/13

矢頭保が”カリスマ男色写真家”になるまで/その2・・・パートナー兼パトロンだったアメリカ人メレディス・ウィザビー(Meredith Weatherby)と写真集三部作「体道」「裸祭り」「OTOKO」


1年ほど前に、このブログに矢頭保がカメラマンとして活躍する以前の日活役者時代のことを書いたことがあるのですが(めのおかし参照)・・・今回は、矢頭保のパートナー兼パトロンとして知られるメレディス・ウィザビー(Meredith Weatherby)というい人物と、矢頭保の写真集三部作「体道」「裸祭り」「OTOKO」について書いてみようと思います。

「テックス・ウィザビー/"Tex" Weatherby」と、呼ばれることもあったメレディス・ウィザビーは、1915年2月25日にテキサス州で生まれたとされています。矢頭保は1925年生まれという説が有力ですから、10歳ほど年上であったということになります。彼が日本に移住した正確な時期は不明ですが・・・太平洋戦争終結後、領事館部員(占領軍の情報局員)として働き始めたようなので、連合軍最高司令官総司令部が設置された1945年10月2日以降の1945年末期から1946年あたりではなかったかと推測されます。ある程度の日本語は習得していたそうで・・・来日当時の年齢は30~31歳ということは、アメリカ本国で日本語を勉強していたと思われますが、学歴や経歴については不明です。

唯一、メレディス・ウィザビーの足跡を辿るヒントとなる記述の残しているのが、ドナルド・リチー(Donald Richie)・・・1947年に進駐軍のタイピストとして来日して、アメリカ軍準機関誌星条旗新聞で映画欄の担当となった人物です。日本の映画関係者や文化人らとの高級を深めて、戦後の日本映画を世界へ紹介し、後に映画批評家として知られるようになります。ちなみに、彼と同じく同性愛者(ドナルド・リチーは結婚歴はあり)で日本文化研究者の第一人者として知られる学者の『ドナルド・キーン(Donald Keene)」とは、まったくの別人です。


ドナルド・リチーとメレディス・ウィザビーが、知り合った経緯は分かりませんが、1948年10月に上野公園で行なわれた文楽の公演を、二人で観劇したという記述がドナルド・リチーのジャーナルにあることから、この頃には既に交友関係があったようです。1949年には、コロンビア大学へ入学のためドナルド・リチーはアメリカに一時帰国することになるのですが、卒業後に再び来日・・・その後も、メレディス・ウィザビーとの交友関係は続きます。

メレディス・ウィザビーは翻訳家として、1947年には世阿弥元清の「善知鳥(Birds if Sorrow: A No Play)」を、後にタトル商会の総支配人となるブルース・ロジャース(Bruce Rogers)と共に出版していることから、日本の伝統芸能への造詣も深く、当時の日本の文壇/文化人と接触があったようです。メレディス・ウィザビーは、三島由紀夫の「潮騒」と「仮面の告白」の翻訳を手掛けて、三島文学を世界に紹介した人物ですが・・・三島由紀夫との出会いは、銀座5丁目にあった「ブランスウィック」であったと言われています。

「ブランスウィック」は、三島由紀夫著の「禁色」にでてくる「ルドン」のモデルとなったとい喫茶店兼バー(は喫茶店で夜はバー)・・・美輪明宏(丸山明宏)がボーイとして働いていたことで知られる店(実は皿洗いだったという話もあり)であります。ストレートの客も訪れる高級路線の店だったのですが、美形のボーイを集めていたこともあり・・・いつしか、当時「そどみあ」とか「一見(いっけん)さん」と呼ばれた同性愛者の集まる場所へとなっていきます。二階には高い仕切りで区切られたボックス席があって、出会いの場にもなっていたようです。

戦後の日本のゲイバーというのは、とてつもなく値段の高い店が多っかったようで(殆どぼったくり?)・・・「ブランスウィック」の他には、”青江のママ”(青江忠一)や”吉野のママ”(吉野寿雄)を輩出した、お島さん(島田正雄)が経営していた新橋の女装バー「やなぎ」や、神田の「シルバードラゴン」、上野の「市蝶」、日本橋の「シレー」、新宿の「夜曲」、渋谷の「新大和」など、戦後から数年後には都内に数店舗しか存在しなかったと言われています。これらの店は、一般的な日本人が気軽に入れるような店ではなく・・・顧客の多くは、進駐軍などの外国人と羽振りの良い数少ない日本人であったようです。

三島由紀夫とメレディス・ウィザビーは、あくまでも(同性愛)同好の仲間というだけで、それ以上の関係ではなかったと思われます。ただ、デビュー当時から三島由紀夫は海外で認められたいと熱望していたようですから、二人の接点は当初、三島由紀夫にとってアドバンテージがあったのかもしれません。

1952年、日米平和条約が発効されてGHQによる占領が終わり、メレディス・ウィザビーはアメリカに一時期帰国します。その年に三島由紀夫は初渡米するのですが(ボクの母親は同じ時期にアメリカへ留学しており三島由紀夫本人に会っている)・・・当時、ハーバード大学院に在籍していたメレディス・ウィザビーは、コロンビア大学に在籍中だったドナルド・リチーに、三島由紀夫の案内役を頼んでいます。メトロポリタン美術館にある聖セバスチャンの絵画を、三島由紀夫は見たがっていたそうです。

翌年の1953年にメレディス・ウィザビーは再び来日し、版権仲介ビジネスを始めたタトル商会に出版部長として入社・・・三島由紀夫の「潮騒」(1954年にアメリカで出版)と「仮面の告白」(1958年にアメリカで出版)の翻訳を手掛けるのです。現在でも、この2作品のメレディス・ウィザビー訳版は、アメリカで販売されています。「潮騒」と「仮面の告白」が英訳されたことで、三島文学は海外でも高く評価されることになり、三島由紀夫の作品は次々と翻訳されることにあるのですが、その後の翻訳者は著名な文学者になっていることを考えると・・・三島由紀夫の”したたかさ”が垣間みれる気がします。

コロンビア大学を卒業したドナルド・リチーは1954年に再来日して、早稲田大学で教鞭をとるかたわら「ジャパンタイムス」紙などで映画評や書評を執筆・・・日本に再来日した理由については、当時(1950年代)は日本の方がアメリカよりも同性愛者への偏見が少なかったことを挙げています。マイノリティーの人権に関しては進んでいるという印象のアメリカですが、それは1960年代末期以降のこと・・・州によっては同性愛者というだけで逮捕されたり、職を失うこともあり、同性愛者に対しての風当たりは、非常に厳しかったのです。

さて・・・前置きが長くなりましたが、矢頭保とメレディス・ウィザビーが出会ったのは1956~57年頃と言われています。この頃、風俗営業の規定が厳しくなり、女給が相手をする店は午後11時までの営業と規制されたため、女給のいないボーイだけの”ウイスキーバー”というのが誕生するのです。美少年/美青年に薄化粧や隈取りをさせたりする店も現れて、次第に”ゲイバー”らしい形になっていきます。普通の飲食店としての営業許可をとることで税金も安いということあったようですが・・・1956年には40軒ほどだった”ゲイバー”は、翌年には150軒以上に激増したそうです。矢頭保とメレディス・ウィザビーが出会った新宿のゲイバーは、どちらかというと現在の”ホモバー”(ゲイ同士が出会うことが目的のバー)に近いタイプの店であった思われます。


ふたりが出会った時、メレディス・ウィザビーは41~42歳、矢頭保は31~32歳と、10歳ほどの年齢差しかなかったのですが、二人は父と息子のような関係であったといわれています。矢頭保は友人に母親の話はすることあっても、父親の話をすることはなかったそうで・・・もしかすると、母子家庭のような環境で育ったのかもしれません。写真作品からも明らかなように、矢頭保が好むタイプというのは「イモっぽいの日本男児」・・・温厚で細面な紳士風のメレディス・ウィザビーは全く違うタイプのように思えます。おそらく、潜在的には父親を求めていた矢頭保は、経済的にも精神的にも自分を寵愛してくれるメレディス・ウィザビーに、父親のイメージを重ねていたのかもしれません。

1956年に、矢頭保は大阪から上京しているのですが・・・交通事故で両足を骨折してしまいダンサーとして生計を立てていくことを断念することになります。一時期、生活に困窮して日雇いの人夫のような仕事することもあったようで・・・そんな厳しい時期に出会ったのが、メレディス・ウィザビーだったのです。出会って間もなく矢頭保とメレディス・ウィザビーは、現在の六本木7丁目あたりにあったウィザビー邸での同棲生活を始めることになります。ウィザビー邸は、奥多摩(秩父という説もあり)から移築した大きな古民家で、2階にはドナルド・リチーが”居候”として住んでいたそうです。


1958年から、矢頭保は日活映画の端役として出演し始めます。(この時代の矢頭保については、以前書いた”めのおかしブログ”の記事を参照)二人の出会いは日活入社以前ではあったようですが、日活の仲間が矢頭保とメレディス・ウィザビーとの関係や同棲生活を知っていたかは定かではありません。ウィザビー邸では、同性愛者が集まって”怪しげなパーティー”をしていたという噂もあり・・・その集まりを通じて矢頭保は、三島由紀夫を始め文化人や芸術家らとの面識を広めていったのでしょう。

矢頭保が、写真を撮り始めた時期は分かりませんが・・・メレディス・ウィザビーを通じて、写真の世界に導かれたことは確かです。当時、カメラやフィルムは贅沢品でしたが、それらを矢頭保に買い与えたのはメレディス・ウィザビーであります。さらに、学校で写真を学んだわけでもなく、写真家の弟子にもならなかった矢頭保は、メレディス・ウィザビーの友人からカメラの使い方を学んだといわれており・・・現像や焼き付けをするための設備や費用まで考慮すると、メレディス・ウィザビーの経済的な援助や交友関係なしでは、矢頭保の写真家としてのキャリアは存在しえなかったといえるのかもしれません。

写真が発明された19世紀末の黎明期から、男性ヌード写真は存在します。1950年代になると海外では「ジ・アスレティック・モデルズ・ギルド(The Athletic Models Guild)」のボブ・マイザー(Bob Mizer)、「ウエスタン・フォトグラフィー・ギルド(Western Photography Guild)」のドン・ワイトマン(Don Whitman)、「クリス・スタジオ(Kris Studio)」のチャック・レネスロー(Chuck Reneslow)ラス・ワーナー(Russ Warner)など・・・男性の健康美を讃えるという名目(!?)で、ボディビルダーをモデルにした男性ヌード雑誌が発売されていたのです。当然のことながら、購入者の殆どがゲイであったことはいうまでもありません。


また、1955年にはアメリカ人写真家のジョージ・ロジャース(George Rogers)によるアフリカのヌバ族(ドイツ人の女性カメラマンのレニ・リーフェンシュタールによるヌバ族の写真集が有名ですが、ジョージ・ロジャースの方がずっと先)の写真集「ヴィレッジ・オブ・ヌーバ/Villege of Nuba」が出版され、民族学的な記録であると同時にアート写真としても評価されてます。


当時の一般的な日本人が、海外の男性ヌード雑誌やジョージ・ロジャースの書籍を入手することは難しかったとは思われますが・・・メレディス・ウィザビーが個人的に所蔵していた可能性は十分あり、矢頭保が目にする機会があったとしても不思議ではありません。それらは、矢頭保の”写真家”としての方向性に、大きな影響を与えたのではないでしょうか?

日本では1950年代半ば頃、日本ボディビルセンター(渋谷)、後楽園ホール、神田ジムなどがオープンして”第一次ボディビルブーム”が起こっています。肉体改造を目指した三島由紀夫がジム通いを始めたのも、この頃のこと。1958年頃に撮影されたといわれる三島由紀夫のポートレイトを、ジムで矢頭保が撮影していることから、日活時代には既にカメラを手にしていたようです。1960年頃に、三島由紀夫はボディビルダーの友人たちを自宅に招待して、ポージングの撮影会を行なっていたよう話もあり、その時のカメラマンは矢頭保だったと推測されます。


1960年頃、メレディス・ウィザビーはタトル商会を辞めて、後に矢頭保の写真集を出版する”ジョン・ウェザーヒル社”(John Weatherhill Inc.)を設立します。表舞台に出てくることはあまりないメレディス・ウィザビーでありますが・・・江戸時代を版本の収集家でもり、それらを素材にコラージュ作品を制作していたようです。展覧会(販売会)を行なうと、ほとんど売り切れたということですから、クリエティブな才能にも恵まれいた人物であったのかもしれません。

外見的には男っぽく、ボソボソとした雰囲気で、寡黙な印象を与えた矢頭保ですが・・・写真のモデルたち(ボディビルダーの青年たち)の勧誘は巧みだったそうです。「イモっぽいの日本男児」を理想のタイプとしていたこともあり、モデルになった若者の殆どは「ストレート」・・・しかし、矢頭保は上手に下着を脱がしてしまうことで有名だったといわれています。1962年の夏頃、矢頭保は日活を退社して、本格的に写真家として活動を始めることになります。ただ、矢頭保の写真集三部作は、出版された順番に撮影されたのではなく、すべてが同時進行であったようです。

最初の写真集「体道~日本のボディビルダーたち」を出版するのは、1966年矢頭保が41歳のとき(日活退社後4年目)・・・日本語版は”美術出版社”と”ジョン・ウェザーヒル社から出版され、初版の価格は980円だったそうです。三島由紀夫が序文、彫刻家の流政之が表題文字を書いており、矢頭保という無名の写真家のデビューを、友人達でバックアップしようとしていた様子が伺えます。”ジョン・ウェザーヒル社”から出版された英語版は、メレディス・ウィザビーのアドバイスで「Young Samurai」となったといわれています。


現在も日本ボディビル連盟の会長を務めている玉利齋(たまりひとし)氏の解説や、各モデルの詳細なプロフィール(氏名、在住地、職業、身長、体重、胸囲、ビルダー歴、趣味など)も掲載しており、日本人ボディビルダーを撮影した初めての写真集という”真面目”な体裁にはなっています。矢頭保の男の”好み”は反映されてはいますが、1950年代の海外の男性ヌード写真雑誌との類似もあり、オーソドックスなボディビルダーのポーズばかりで、芸術性には乏しい印象です。

「体道」が出版された4年前の1962年、三島由紀夫がモデル(撮影は1961年秋から62年春)をつとめた「薔薇刑」(細江英公のによる日本初の男性ヌード写真集)が出版されています。バロック的雰囲気で芸術性に溢れた作風は、三島由紀夫の西洋的な嗜好を表していますが・・・「体道」には、日本刀をもった褌姿の「サムライ」的な三島由紀夫が収められています。ただ、ボディビルダーたちの中で、三島由紀夫は少々浮いている気がします。三島由紀夫いわく・・・自分の立ち位置は「逆柱」的な意味だと序文で説明はしていますが・・・本書の企画/制作に於いて三島由紀夫の関与が見え隠れするのです。


三島由紀夫には、お気に入りの”お抱え”カメラマンがいたようで・・・雑誌などに掲載する”パブリック”用は篠山紀信(「聖セバスチャンの殉教」など)、自分の嗜好をより反映させた”プライベート”用(切腹シーンなど)は矢頭保、と使い分けていたようなフシがあります。矢頭保に撮影させた写真はプリントさせて、自慢げに友人たちに見せていたそうです。三島由紀夫の有名な切腹写真は矢頭保の撮影によるもので、血糊に使用したチョコレートのリアルさに、三島由紀夫は大変満足そうだったといわれています。


矢頭保は、画廊や他の写真家とも親交もなく、写真展を生涯一度も開催することもなかったので、もともと存在するオリジナルプリントが非常に少ないのです。僅かながら発見されているオリジナルプリントは、個人的に焼いて手渡されたモノらしく、サインさえされていません。もしかすると、・・・出版/印刷を前提としていたので、矢頭保はネガの現像はしても自らがプリントを焼くことは、それほどしなかったのではないのでしょうか?もしくは・・・矢頭保が理想とした作品の発表の”形”は、額縁に入れられたプリント写真ではなく写真集という出版物だったのかもしれません。

1969年(「体道」から3年)に、二冊目の写真集「裸祭り」(再び、出版社はが美術出版社とジョン・ウェザーヒル社、序文は三島由紀夫、日本語表題文字は流政之)を出版・・・日本国内の26の裸祭りを取材して、モデルは祭りに参加している”素人”さん・・・当然のことながら、矢頭保好みの男が大きく扱われていますが、明治大学の長谷川辰夫教授や民俗学者の山路興造氏や萩原竜夫氏の解説を掲載して、ジョージ・ロジャースの「ヴィレッジ・オブ・ヌーバ」を彷彿させる”真面目”な写真集という体裁にはなっており、民俗学の資料としても価値があると思われます。


しかし(ボディビルダーとは違う)ナチュラルに逞しい肉体の日本男児が醸し出す”エロス”を、矢頭保のカメラが追っていたことは明らか・・・”真面目”な体裁は、いかがわしい性風俗的な男性ヌード写真集ではないという「いいわけ」のような気もするのです。

ボディビル雑誌などに掲載される写真、グラビア写真(朝日グラフに掲載された友人の彫刻家・流政之)など・・・矢頭保の商業的な写真家としての活動は、それほど多くはありません。出版元であるジョン・ウェザーヒル社はメレディス・ウィザビーの出版社で、ほぼ自費出版のようなものです。1968年頃、メレディス・ウィザビーは共同経営でニューヨークにウォーカー・ウェザーヒル(Walker weatherhill)社という主に日本文化を紹介する本(安野光雅の「旅の絵本」をなど)を出版する会社設立していますが、ジョン・ウェザーヒル社はウォーカー・ウェザーヒル社の日本の窓口のような立場であったのかもしれません。


1970年、日米合作の「トラ・トラ・トラ」が公開されます。矢頭保は日本側のスチールカメラマンとして参加しており・・・メレディス・ウィザビーは(ワンシーンではありますが台詞もある)ジョゼフ・グルー駐日米国大使役で出演しています。殆ど写真の残っていないメレディス・ウィザビーの、貴重な姿を「トラ・トラ・トラ」では見ることができるのです。どういう経緯で「トラ・トラ・トラ」に、二人が参加することになったのかは明らかではありませんが・・・日本側の監督して参加していた黒澤明が降板後、矢頭保の日活時代の出演作品のいくつかの監督をしていた舛田利雄が引き継いでいることから、日活時代の縁で矢頭保はスチールカメラマンとして雇われたのかもしれません。


1970年11月25日・・・三島由紀夫は盾の会のメンバーであった森田必勝と共に割腹自殺します。メレディス・ウィザビーやドナルド.リチーは、この頃も三島由紀夫と頻繁に会っていたようなので・・・おそらく、矢頭保も三島由紀夫と亡くなる直前まで顔を合わしていたと思われます。三島由紀夫は自分のいないところで友人同士が繋がるのを嫌って、友人を紹介しない主義だったそうですが、ウィザビー邸は同好者(同性愛者)の社交の場であったこともあり、矢頭保は数少ない三島由紀夫のゲイネットワークをを知る友人であったはずです。三島由紀夫と森田必勝の二人きりのポートレートは、矢頭保によって撮影されており、緊張感を感じさせる篠山紀信撮影の集合写真よりも、二人の表情もリラックスしていた様子の写真であるといわれています。


三島由紀夫の自決事件は矢頭保にとっても、メレディス・ウィザビーにとっても、衝撃的なことだったことでしょう。もしかすると・・・間接的に二人の関係に影響を及ぼしたのかもしれません。1970年~71年頃に、メレディス・ウィザビーが新しい恋人を見つけたために、矢頭保とメレディス・ウィザビーは別れたといわれています。

しかし、矢頭保はハッテン場によく出入りしていたそうですし(有名人だから自ら行くことのできない三島由紀夫は体験談を聞きたがった)・・・モデルの青年に食事をご馳走したり、ブレザーを買ってやったりして、時には肉体関係を結ぶこともあったそうですから、どちらが先に不貞したという話ではありません。ゲイのカップルにはアリガチのことですが・・・矢頭保とメレディス・ウィザビーは肉体関係に於いては「オープン・リレーションシップ」だったのではないでしょうか?

詩人の高橋睦郎によると、矢頭保がウィザビー邸を出たのは、三冊目の写真集「OTOKO」が出版後しばらくしてからだった、と語っているので・・・新しい恋人の発覚後も、矢頭保はウィザビー邸に住み続けていたのかもしれません。このブログでは、二人の同棲解消は1972年以降(「OTOKO」出版後)という説を前提にしたいと思います。

1972年、三冊目の写真集「OTOKO: Photo Studies of the Young Japanese Male」が出版されます。序文は矢頭保自身によって書かれていますが・・・本書は出版された2年前に自決した三島由紀夫に捧げられており、「体道」と同じ時に撮影したと思われる三島由紀夫の写真が入っていたり、聖セバスチャンを連想させる写真があったりと、三島由紀夫の亡霊が見え隠れしているようです。


「OTOKO」は、ホモ・エロティックな男性ヌード写真集であり、日本国内で猥褻と判断されることを危惧したようで、メレディス・ウィザビーがロサンジェルスにPho-Delta Press社という出版社を設立して、自費出版のような形で陽の目を見ることになります。そのため、日本国内では一般的な書籍流通ルートにのることはなく、新宿のゲイショップの店頭などで販売されていたようです。矢頭保自身で新宿のゲイバー(パル)で手売りしていたとい話もあり、定価1500円のところ、お金のない学生には300円で売ることもあったとか・・・。ボクが新宿二丁目に足を踏み入れ始めた1980年頃でも、新宿ルミエールでは「OTOKO」が店頭に普通に並べられていましたが、当時でも既に貴重本扱いだったのか価格は7500円(今の感覚だと2万円ぐらい?)だったと記憶しています。

いくつかの骨董品や美術品が「OTOKO」ではプロップとして使用されていますが、これらは矢頭保個人の所蔵品であったそうです。おそらく、メレディス・ウィザビーの経済的援助を受けながら収集したとは思われますが・・・矢頭保の遺品としては何も残されていなかったということですから、メレディス・ウィザビーとの別離後、少しずつ処分してお金にしていたのかもしれませんし、友人や親族が持っていってしまったのかもしれません。どこかしら退廃的で憂いを感じさせる本書は、カリスマ男色写真家の最後の写真集らしいとボクは思ってしまうのです。

男性ヌード写真は、1950年代初頭から大阪の枚方市内で写真店を経営していた円谷順一(通称/大阪のおっちゃん)によって撮影されており、1952年に戦後間もなく発足した会員制の同性愛サークル「アドニス会」の会員誌として創刊された「アドニス」に時々掲載することもあったようです。しかし「アドニス」は1960年の警察の取り締まりで廃刊・・・同年の1960年に「風俗奇譚」が創刊されて、その後、ゲイ・イラストレーターとして活躍することになる三島剛、大川辰次、船山三四、平野剛らが起用されます。SMやフェチを専門とした性風俗雑誌でしたが、同性愛特集が組まれることがあり、男性ヌード写真やホモ・エロティックなイラストが掲載されることもあったようです。「OTOKO」が出版された1年前の1971年には、ゲイ専門風俗誌「薔薇族」が創刊されています。


この頃から、ホモ・エロティックな男性ヌード写真集が、ゲイショップなどの販売ルートで日本国内でも出版されるようになります。1972年4月30日には「薔薇族」の出版社でもある第二書房より「Stripped Guys : 脱いだ男たち」・・・「K氏」なる人物(おそらく、編集者の仁科勝と円谷順一?)の男性ヌードコレクションで、デッサン用という名目で当初は出版したそうです。1973年4月30日には、波賀九郎写真集「梵(ぼん)」(その後、シリーズ化して十数冊出版された)、同年9月30日には栗浜陽三(藤井千秋)写真集「渾遊(こんゆう)<禅の詩>」が出版されており、その後のゲイ向け写真集の市場を拡大のきっかけにとなっています。・・・男性ヌードの先駆者的な写真家として、矢頭保が広く注目される土壌はあったのです。


「OTOKO」出版後しばらくして・・・矢頭保は六本木のウィザビー邸から出て、高田馬場で一人暮らしを始めます。当時、高田馬場は独身の労働者が多く暮らす街だったこともあり、家賃も比較的安かったそうです。新しい恋人の存在によって「ウィザビー邸を追い出された」もしくは「耐えきれなくなって自らウィザビー邸を出た」のかは分かりませんが・・・一人暮らしを始めた後も、矢頭保はメレディス・ウィザビーからは多少の経済的な援助を受け取っていたといわれています。

矢頭保は「ウィザビーによって自分は受け身にさせられた」と恨み言(?)のように生前語ってたそうで・・・矢頭保が「どんでん」=「男っぽく振る舞っているけどベットの中では女っぽくなってしまう」であったことは、仲間内では知られていたことだといわれています。「自分がこんな風(受け身/どんでん)になったのは彼(メレディス・ウィザビー)のせいなんだから、自分を援助するのは当然なんだ」と、矢頭保は思っていたらしいのです。

矢頭保は、カラー写真を含む4冊目の写真集の企画をしていましたが・・・1973年5月30日、矢頭保は就寝中に48歳で亡くなります。亡くなった前夜には新宿二丁目で飲んでいたそうですし、翌日には友人と三社祭に行く約束をしていたそうなので、本人も予期していなかった突然の死であったようです。発見者は「OTOKO」のモデルのひとりだった青年といわれています。矢頭保本人は、常々肝臓肥大を心配していたそうですが、おそらく心臓肥大も併発していて、直接の死因は”心臓麻痺”であったそうです。7年前に亡くなったボクのニューヨークの親友も似たような亡くなり方であったことを思い出すと・・・なんともやりきれない気持ちになってしまいます。

亡くなくなる少し前、矢頭保は20代後半の青年(発見者の背年と同一人物かは不明)と付き合っていたらしいのですが・・・「自分はセックス中に死ぬ」と語っていたそうです。無理な体勢でのオーラルセックスにハマっていらしく・・・相手の男性を自分の腹の上にまたがらせて、上半身を起こすようにしてペニスを口に含もうとするのが、特に興奮したとのこと。矢頭保は、その体勢が心臓に負担を与えると思い込んでいたらしいのですが、実際には心臓麻痺の発作は寝ている間に起こったらしいので、死とは無関係であったと思われます。

矢頭保の葬儀は、ウィザビー邸の隣の法庵寺で友人たちの手で行なわれたそうです。突然のことだったのにも関わらず、多くの友人が参列したそうですが、その時、偶然にもアメリカに帰国中であったメレディス・ウィザビーは不参加・・・その後、矢頭保の遺骨がどこに埋葬されたかも知られていません。


また、矢頭保の死後、友人の誰かが高田馬場のアパートに残されていたネガやプリントを処分したらしいのですが・・・これは、矢頭保自身の希望(遺言)であったといわれています。自分がゲイであった証拠を死後に残しておきたくない・・・という希望は、実は現在のゲイの人でも考えていること。矢頭保は「”ゲイ”写真家」として歴史に名を残したくなったのかもしれません。矢頭保の親族は写真集の再販を一切認めていませんし、僅かに現存するといわれるネガやプリントは行方不明となっていて(一部がサンディエゴと東京にあるらしい)・・・矢頭保の写真集が新たに出版されることは、今将来的にも絶対ないと思われます。

1970年代以後、矢頭保が活動していたとしたら・・・風俗誌出身のゲイ写真家やイラストレーターとは格の違う”大御所”としての扱いになっていたことでしょう。もしかすると、ロバート・メイプルソープのような”アーティスト”になっていかもしれません。ゲイポルノ産業の黎明期(1970年代半ば~末期)には、男の裸であれば何でもかんでも売れて笑いが止まらなかったそうですから・・・万が一、ゲイポルノへ進出していたら、メレディス・ウィザビーの経済的な援助も必要ないほど、ひと財産築いていたかもしれません。

ゲイ市場が確立する以前に、出版部数も限られていた写真集3冊”だけ”を残したことによって「希少価値」や「伝説的逸話」が膨らみ・・・奇しくも(本人が望まなかったであろう)”カリスマ男色写真家”として語り継がれることになったのは、少々皮肉ではあります。勿論、日本のゲイ・カルチャーの貴重な足跡としてだけでなく・・・純粋に写真作品としても、民族学的な資料としても、また時代を切り取った記録としても、後世に残すべきではある写真ではあるのですが。

メレディス・ウィザビーは1970年代半ばにアメリカへ帰国します。60歳になった頃なので、リタイヤということで母国へ戻ったのかもしれませんが・・・矢頭保との同棲解消の原因となった新しい恋人が、その後どうなったのか知る由もありません。帰国後もメレディス・ウィザビーは出版業界には関わっていたようですが、表舞台で活躍することもなく、公に矢頭保のことを語ることもなく、1997年7月1日(6月27日の説もあり)カリフォルニア州のラホヤで82年の生涯を終えます。人生の最期を迎えた瞬間・・・メレディス・ウィザビーの脳裏に、かつて日本で愛した矢頭保(本名・高田実男)という男のことが浮かんだことを、ボクは願わずにはいられません。


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