2016/09/22

ミステリー仕立てのB級メロドラマで”ドラマ・クィーン”の本領発揮!・・・ジョーン・クロフォードの迷走と貫禄の円熟期の”おキャンプ映画”~「フィーメール・オン・ザ・ビーチ(原題)/Female on the Beach」


ハリウッド映画界で主演し続けるというのは、容易いことではありません。殆どの俳優は全盛期を過ぎると脇役にまわったり、テレビに活躍の場に移っていくことが多かったりします。

現在でも、男優は50代、60代にもなっても、20代、30代の女優が相手役になって主役(リーディング・マン)を演じることがありますが、女優の場合、年齢を重ねると主演作品というのは激減していくいくものです。

1930年代から1980年代まで活動していたキャサリーン・ヘップバーンやベティ・デイヴィスは、各年代に渡って主演作品はありますが、全盛期を過ぎてからの出演作は激減します。近年で、いくつもの年代に渡って、継続的に主演作品がある女優って、メリル・ストリープぐらいでしょうか・・・。

ジョーン・クロフォードは、サイレント映画時代全盛期の1920年代半ばからアメリカンニューシネマの生まれる1960年代末期まで、5つの年代に渡ってハリウッドで作品が途切れるこのない”主演女優=スター女優”であります。それも、各年代ごと、自分自身の人生を反映させるて、生まれかわるかのようにイメージの再生を繰り返しているのです。

映画会社の専属スター女優として活動してきたジョーン・クロフォードも、スタジオシステムが崩壊した1950年代になると、企画ごとに制作会社を移り渡るようになっています。スター女優としての集客力が失われていく中、あくまでも主演にこだわり、監督や共演者までにも口を出すジョーン・クロフォードの活動できる場は、一流の監督、スタッフ、共演者の作品ではなく、必然的にB級作品になっていくのです。

ジョーン・クロフォードという女優にとって、1950年代は低迷期とも迷走期ともいえる年代ではありますが・・・””貫禄”の円熟期であったとも思えるのです。演技派女優としても目覚めた(?)1940年代は、社会の逆行に立ち向かっていく女性を演じることが多かったジョーン・クロフォードですが、1950年代になると、社会的に地位のある強い女性を演じるようになります。


1955年に公開された「フィーメール・オン・ザ・ビーチ/Female on the Beach(原題)」は、フィルム・ノアール的な陰影を強い画面や構図が、いかにもミステリー風のB級メロドラマ映画です。直訳すれば「浜辺の女」とでもいう邦題になのですが、女を一般的な「Woman」ではなく生物学的な「Female」としたところが本作の”ミソ”であります。


相手役を演じるジェフ・チャンドラー(当時はセクシー男優として人気)はジョーン・クロフォードの指定によるものだったそうですが(クラーク・ゲーブルの二番煎じのそっくりさん?)・・・ワンランク下の男優であることは否めません。


映画の冒頭、あるオールドミスの女性(ジュディス・エヴィリン)が、ビーチハウスのバルコニーから転落して亡くなります。その翌日、このビーチハウスを所有していた男性の未亡人のリン(ジョーン・クロフォード)が、この家を売却するために訪れるのです。


転落事故なのか、自殺なのか、殺人事件なのかは分からないまま物語は進行していくのですが、ビーチハウスを管理してきた不動産屋の女性・エイミー(ジャン・スターリング)は、転落死のことはリンには話をしません。しかし、バルコニーの手すりは壊れたままだし、刑事(チャールス・ドゥレイク)が捜査をしていているので、すぐにリンの知るところとなります。


このビーチハウスの隣には、オズグッド(セシル・キャラウェイ)とクィニー(ナタリー・シェイファー)というソレンソン夫妻と、彼らの甥っ子と名乗るドラモンド(ジェフ・チャンドラー)が住んでいます。


ドラモンドは、勝手に自分のボートをリンのビーチハウスのドックに置いていたり、家に勝手に出入りしたりしていたようなのです。自信過剰なジゴロ体質のドラモンドを、当初は嫌悪するリンだったのですが、彼の性的魅力に徐々に心を開いていってしまいます。


熟女が年下男との恋に落ちるという話は、この頃(1950年代~60年代)に流行っていた(?)ようで、結構ありがちではあります。全編に繰り返し流れる音楽は、1951年の映画版「欲望という名の電車」の音楽とそっくり・・・ただし、ブランチのような繊細な精神を持ち合わせた女性とは違って、リンは酸いも甘いも知っているタフな女なのですが・・・。それでも、独り身の淋しさをシミジミと感じるリンの心の弱みにつけこむように、誘惑してくるドラモンド・・・次第にリンもドラモンドを受け入れていきます。


実は、不動産屋のエイミーとドラモンドは、過去に肉体関係をもったことがあったようで・・・エイミーはドラモンドのことを愛しているようなのです。しかし、ドラモンドは女性という存在を根っから信用しておらず、エイミーを冷たく突き放します。


ドラモンドにすっかり心を奪われ始めたリンは、ソレンソン夫妻からの夕食とポーカーの誘いにもひとつ返事で応じます。ただ、その直後、偶然に暖炉のレンガの壁に隠されていたオールド・ミスの日記を発見してしまいます。


そこには、彼女がドラモンドに恋に堕ちていくと同時に、ソレンソン夫妻との賭けポーカーで大金を巻き上げられたり、繰り返し借金に応じていたこと・・・そして、ビーチハウスの賃貸契約が終わりが近づくと、ドラモンドから冷たくあしらわれるようになり、自暴自棄になっていく経緯が書かれていたのです。


ドラモンドとソレンソン夫妻の正体を知りつつも、まったく動じる様子がないのは、いかにもジョーン・クロフォードらしい強気な女性像であります。実は、リンはラスベガスの元ダンサーで、元夫はカジノを経営をしていたプロのギャンブラー・・・ソレンソン夫妻のいかさまポーカーの手口ぐらいは、とっくにお見通しだったのです。


自分に近づいたのは金だけが目的だと問い詰めるリンを、ドラモンドは強引に抱きしめ・・・二人は肉体関係をもってしまいます。1950年代の映画なので、性行為の直接的な表現はありませんが、いかにも当時らしい「女は無理矢理にでも抱いてしまえば、その気になるもの」という典型的な展開と言えるでしょう。


肉体的に結ばれたことで、リンとドラモンドの立場は逆転します。何故か、その夜からドラモンドは、リンの家に訪れることも電話もしてこなくなるのですが、これはソレンソン夫妻の入れ知恵・・・ドラモンドへの恋心を募らせるための作戦なのです。隣から聞こえてくるドラモンドの楽しげな笑い声にリンは、ますます独り身の淋しさを痛感して、酒に溺れていってしまいます。


飲んだくれ状態になったリンの元に不動産屋のエイミーが訪れて、ビーチハウスの購入したいという客から送られてきた手付金の手渡そうとした時・・・見計らったように、ドラモンドから「今すぐ会いたい」と電話がかかってくるのです。一瞬にして元気を取り戻すリン・・・「もう、この家は売る気はない」とエイミーに言い渡します。


ここから本作のネタバレを含みます。


改めて、お互いの今までの境遇を話し合い、ドラモンドとリンはお互いの愛を確かめ合います。貧しい子供時代を過ごしたリンは、金目的で亡くなった夫と結婚したことを語り、ドラモンドは自分の首の傷は、母親が無理心中しようとした時にできたものだと告白・・・似た者同士であるドラモンドとリンは、早々に結婚することを決めてしまうのです。


二人の結婚に憤りを感じるのは、ドラモンドを介して熟女からお金を巻き上げるのを生業としてきたソレンソン夫妻であります。結婚後も、資金援助をねだるソレンソン夫妻を、さっぱりきと切り捨てるドラモンド・・・夫妻も、すぐさま後釜となる若い男を調達しますが、ドラモンドに夢中のリンが見向きをするはずはありません。


また、ドラモンドを愛している不動産屋のエイミーは、リンの結婚式を妨害すると脅しますが、ドラモンドの愛を勝ち取った勝者であるリンにとって、負け犬のエイミーを鼻であしらいます。


結婚式を終えたドラモンドとリンは、新婚旅行を兼ねた航海に出発しようとしています。荷物を積むためにボートに乗り込んだリンは、壊れた燃料ポンプが取り付けられていることに気付くのです。壊れたポンプが破裂して、もしかすると航海中に遭難してしまう恐れもあるというのに・・・。


リンは、ドラモンドが自分を事故に見せかけて殺そうとしていると確信します。慌てて家に戻り、警察に電話をしますが、担当の刑事は不在・・・リンはドラモンドを殴り倒し(受話器で一発!)浜辺へ向かって逃げるのです。しかし、すぐにドラモンドに見つかりそうになり、決死の思いでリンは海の中へ入って、身を隠します。

その様子を眺めていたのは、誰あろうエイミーです。リンを追ってきたドラモンドに、リンは自ら海に入って溺れて死んだと伝えます。そして、オールド・ミスが転落死するように、バルコニーに細工したのも自分であると告白するのです。その場に、隠れていた刑事たちに会話は聞かれていて、あっさりエイミーは逮捕されます。


なんとか海から出て家に逃げ戻ったリンを、再び追いかけきたドラモンドは、真実の愛を証明するかのように、リンを強く抱きしめます。全てがエイミーの策略だったことを知り、歓喜の笑顔に涙するリンのアップで映画は終わります。

本作の物語が、リンのビーチハウス周辺だけで進行するのは、原作が舞台劇の「The Besieged Heart」だからのようです。原作戯曲を書いたロバート・ヒルも映画版の脚本に関わっていて、あからさまな”決め台詞”の多さにも納得です。


二人が出会った朝、勝手にリンの家に入り込んで、コーヒを作っていたドラモンドが「How would you like your coffee?/コーヒーはどう飲む?(ミルク入りとか、砂糖入りとか)」と尋ねると、リンが一言「Alone./ひとりで」と冷たくあしらったり・・・。


ジゴロっぷりを暴露したドラモンドに対してリンが「I wish I could afford you./あなたを囲えれば良いのにね」とささやくと、すかさずにドラモンドが「Why don't you save your pennies./じゃあ1円玉でも貯めれば?」と返したり・・・。


陳腐な言葉で熟女をその気にさせてきたドラモンドに詰め寄るリンは「I wouldn't have you if you were hung with diamonds- upside down!/ダイアモンドで逆さ吊りにされていても、あなたなんかいらない!」と罵倒したり・・・。

陳腐過ぎて逆に素晴らしい台詞センスが堪りません!「最低の演技」「最悪の脚本」などと酷評する評論家もいる本作でありますが・・・ナルシスト演技に開眼したジョーン・クロフォードの”ドラマ・クィーン”っぷりが炸裂・・・トレードマークの太い眉と独特の唇のメイクアップと相まって、ヒロイン役なのに悪者(バットマンのジョーカーみたい!?)にさえ見てしまうほどの強烈な目力を発揮しています。

本作は、何故か日本では劇場未公開で、メディア化をおろか、テレビ放映さえもされていないという・・・なんとも残念な”おキャンプ映画”の傑作なのです。ぜひ、TSUTAYAの発掘良品あたりで、国内初のDVD化して欲しいものであります。


「フィーメール・オン・ザ・ビーチ(原題)」
原題/Female on the Beach
1955年/アメリカ
監督 : ジョゼフ・ペヴニー
原作 : ロバート・ヒル
出演 : ジョーン・クロフォード、ジェフ・チャンドラー、ジャン・スターリング、セシル・キャラウェイ、ナタリー・シェイファー、ジュディス・エヴィリン、チャールス・ドゥレイク
日本未公開




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2016/08/01

ドン引き確実(?)な”悪趣味映画”の金字塔!・・・浣腸強姦魔を描いた1970年代ポルノ黄金期につくられた伝説のハードコアポルノ~「ウォーターパワー アブノーマル・スペシャル/Waterpower」~


1970年代の映画雑誌はエロ雑誌の役割も担っていて・・・ポルノ映画の紹介や広告も掲載されていたものです。特に、ボクの記憶に残っているのが、洋物ポルノ映画として公開された「ウォーターパワー アブノーマル・スペシャル」であります。当然のことながら「ウォーターパワー」が「浣腸」のことだとは、当時のボクは理解していなかったのですが・・・尋常ではない何かを嗅ぎとっていたのかもしれません。


「ウォーターパワー アブノーマル・スペシャル/Waterpower」は、1970年代のポルノ黄金期の一作であります。主演は1970~80年代にポルノ男優として第一線で活躍したジェイミー・ギリスで、監督には「ディープ・スロート」のジェラルド・ダミアーノも名前も連ねられています。

日本のアダルトビデオでは、浣腸プレイやスカトロは珍しくもないのかもしれませんが・・・アメリカでは、アレを噴出するシーンはタブーとされていて長年”封印”されていたのです。今回、ボクが視聴したのは「ディレクターズ・カット版」と銘打ったもので、現存するフィルムから修復した81分のバージョンであります。

まず「本作が実話を元にした作品であり、場所や人の名前は被害者を守るために変更していて、このような事件はどこでも起こりえる・・・あなたにも」というテロップが映されます。イリノイ州に実在したマイケル・H・ケニアンという人物による強姦浣腸事件をもとに、舞台をマンハッタンに置き換えているです。

前年に制作された「タクシードライバー」に影響を受けているようで・・・大都会の中で社会不適合者が狂気を暴走させることより、現代社会のゆがみを描こうとする制作者の意図を垣間見せるのですが、本編のドン引き必須の浣腸プレイのインパクトに、そんなことは頭からすっかり抜けてしまいます。


主人公のバート(ジェイミー・ギリス)は、マンハッタンに暮らす性的に鬱屈した男・・・隣人の女性(クレア・カーソン)を望遠鏡で覗いている”ストーカー”で、自分勝手に彼女を美化しているのです。ある夜、立ち寄った風俗店で、ニセ医者(エリック・エドワーズ)と風俗嬢のニセ看護婦(ルレーネ・ウィロピー)が、ニセ患者パメラ(ジョアンヌ・シルバー)に行なっていた浣腸プレイを見学させてもらって、バートは異様な興奮を覚えてしまいます。


さっそく浣腸セットを購入して帰宅したバートが、隣人の女性宅を覗いていると、ボーイフレンドとエッチに興じる彼女の姿が・・・。積極的にエッチを楽しむ淫乱な彼女の姿を見て「こんな女じゃないはずだ!」と怒りを覚えるバート。その夜、彼女の部屋に忍び込み、汚い言葉で彼女を罵倒しながら、強姦・・・さらに、汚れた彼女を”浄化”するために、浣腸をするのです。彼女がアレを噴出すると同時にバートは射精・・・すっかり浣腸プレイのヤミツキになってしまい”浣腸強姦魔”として、世の中の汚れた女性を”浄化”することに使命感を燃やすのであります。


道で見かけた若い女性二人の後をつけてバートが部屋に忍び込めば・・・暇を持て余した二人はレズビアンセックスを開始(!)。すかさずバートは割り込んで、二人を罵りながら、強姦・・・当然のことながら、二人とも浣腸で”浄化”されてしまうのです。

日本のアダルトビデオのように、女性を侮辱したり、嫌がるのを押さえつけて強姦するポルノというのは、アメリカでは殆どつくられません。女性の意志に反した行為は、例え性的ファンタジーであっても好ましくないという暗黙の規制があるようなのです。まぁ、蔑まされたいマゾ女性以外の女性にとって、本作は”不快極まりない”映像であることは、今も昔も変わらないと思いますが。


新聞でも浣腸強姦魔が報道されるようになり、警察も動き始めます。婦警のイレーネ(C・J・ラング)は、殺人課の刑事ジャック(ジョン・ブーコ)と、この事件の調査パートナーとなるのですが、まずは彼を部屋に連れ込んでエッチ。もちろん(?)ジャックもアナル好きで・・・浣腸強姦魔の調査に打ってつけの刑事だったのかもしれません。イレーネの囮調査によって、早々にバートとの接触に成功するのですが・・・すぐに正体がばれてしまったイレーネは強姦されて、他の被害者と同様に浣腸で”浄化”されてしまうのです。そして、バートは警察に捕まることもなく逃げ切ってしまいます。

「去年13万1468件の強姦事件がアメリカ国内で報告されたが、その中で僅か2656件しか解決していない」というテロップが映されて、本作はあっさりエンディングを迎えます。まるで社会派ドラマのような”オチ”に「いまさら、何を真面目に~」とツッコミを入れたくなります。

浣腸を含めて「SMプレイ」は、ジェイミー・ギリス本人の性的嗜好でもあるようです。ニューヨークで真夜中に放映されていたケーブルテレビのアダルトチャンネルで、サディスティックな性癖があることを、彼が飄々と語っていたことを覚えています。ジェイミー・ギリスにとっては自分のフェチを実行していただけ・・・1990年には「ウォーキング・トイレット・ボウル=歩く便器/Waking Toilet Bowl」という、さらにハードなスカトロ・ポルノにも出演しています。

ジェイミー・ギリスの言葉責めや”浣腸プレイ”を語たる数々の台詞は、フェチを持っていない者からすると、悪趣味な”ギャグ”にしか聞こえません。浣腸=浄化という”理屈”は、SMプレイとしては”理”にかなっていて(?)、哲学的な思想に繋がるのも理解できないないわけではありませんが・・・やはり、本作は恐いもの(汚いもの?)見たさの「コメディ映画」として観るの”王道”ではないでしょうか?

今年のカナザワ映画祭(2016年9月20日午後9時15分より)で、噴出場面がカットされていない”66分”のフランス公開版「ウォーターパワー アブノーマル・スペシャル」が上映することが決定したそうです。カナザワ映画祭10周年を記念して行なわれた「オールタイム・ベスト投票」で、堂々の第1位に選ばれたそうで、待望(?)のリバイバル特別上映となったのこと・・・ホント「みなさん、お好きなのね~」としか言えません!


「ウォーターパワー アブノーマル・スペシャル」
原題/Waterpower
1977年/アメリカ
監督 : ショーン・コステロ、ジェラルド・ダミアーノ
出演 : ジェイミー・ギリス、エリック・エドワーズ、マルレーネ・ウィロピー、C・J・ラング、シャロン・ミッチェル、クレア・カーソン、ジョアンヌ・シルバー
1980年4月26日より日本劇場公開
2016年9月20日「カナザワ映画祭」にて上映

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2016/07/21

丹波哲郎が”環境問題”を説教し、由美かおるが太陽をバックに踊り、核戦争のあと奇形児が蠢くの!・・・ツッコミどころ満載だけど今こそ観るべき”封印映画”~「ノストラダムスの大予言」~


ボクが物心がつきはじめた頃(1970年くらい?)は、未来は希望に満ちていたような気がします。こども向けの絵本には「鉄腕アトム」で描かれていた流線型の乗り物やレトロフィーチャーな建物の風景が広がり、腕時計型の電話で人々は通話し、あらゆる病気は治療できるようになりヒトはほぼ不老不死、国境がなくなり世界はひとつの国として仲良く暮らしている・・・という”未来予想図”を持っていたのです。


しかし、1970年代に入り・・・小松左京著「日本沈没」と五島勉著「ノストラダムスの大予言」が大ベストセラーになり、有吉佐和子の「複合汚染」で書かれたような公害問題(スモッグや公害病)や人口爆発問題(当時は増え過ぎを心配していた)など、未来への不安が語られるようになり”終末論”が広がっていくのです。特に「1999年7月、空から降ってくる”恐怖の大王”によって世界は滅亡する!」と訴えた「ノストラダムスの大予言」は、その後”しらけ世代”と呼ばれるボクらの世代の”冷めた人生観”に影響を与えた気さえするのです。


映画版「ノストラダムスの大予言」は、「日本沈没」の大ヒットを受けて、原作本が出版(1973年11月25日)されてから、僅か一年足らずで(1974年8月3日)劇場公開されています。ノストラダムスの予言書と言われる「諸世紀」を、ノストラダムスの逸話と共に解説した原作の”タイトル”のみ借用した本作は「オリジナル映画作品」なのです。

本作で描かれる事象は、各界の専門家たちによる科学的考証を元にしており、特に当時農林省に務めていた西丸震哉氏による食生態学のアドバイスが、本作の悲観的な結論に大きく影響しているといわれています。ストーリーの掴みどころもなく、スペクタクルにも欠けており、ツッコミどころ満載の”珍作”ではありますが・・・公開時には文部省の「推薦映画」でもあったのです。

本作が”語り継がれる”理由のひとつは、未だに国内では一度もソフト化されていないからかもしれません。近年、過去、封印されていた映像作品が、ソフト化されていく傾向があるようですが・・・大幅カットされた海外版のVHSビデオとレーザーディスクが販売されたことはあるものの、公開時のノーカット版は不法な海賊版でしか手に入らないのです。日本国内でも 一度はビデオとレーザーディスク(カット版だと思われますが)の発売予告がされたにも関わらず、結局のところ未発売のまま・・・現在では視聴困難な「封印映画」となったのです。

映画の主人公は、幕末の時代、第二次世界大戦中に、ノストラダムスの予言を唱えた一族の血を引く科学者・・・丹波哲郎扮する西山博士であります。1999年7の月に空から恐怖の大魔王が降ってくるという人類滅亡を暗示する予言とは何かを、環境破壊や核戦争の危機を煽って、この西山博士が説教しまくるのです。

食品に使われる防腐剤や農作物の成長促進剤に意義を唱えたり、自然破壊や森林伐採の人類への危険性や工場から排出される物質による汚染を訴えたり、動物や魚の大量死や奇形生物(奇形児)が増えていることに危機感を感じていたり・・・というのは、現在進行形の環境問題であります。ハワイ沖に氷河ができるのは大袈裟だとしても、偏西風の蛇行が世界的に異常気象を生じさせると指摘しているのは、まさに「エルニーニョ」や「ラニーニャ」の現象のことであり・・・問題意識の先見の目は否定できません。

しかし、地下鉄路線内に巨大雑草が一晩で生い茂ったり、超音速機の爆発でオゾン層が破壊されて人間が焼かれるとか、突然変異で”ある能力”が発達した子供たち(拘束移動をし始める男の子、ジャンプ力が増大する女の子、たくさんの桁数の計算ができるようになる男の子)が出現するというのは、あまりにも馬鹿馬鹿しすぎます。

封印される原因となったのは・・・ニューギニアの奥地で放射能を浴びてしまった原住民が被爆して人肉を食らうバケモノとして描かいたところや、核戦争で滅亡した後に現れた新人類がケロイドだらけの奇形児として表現したこと。まだ、広島と長崎の原爆投下から30年ほどしか経っていなかったこともあり、被爆者団体から非倫理的な差別だと訴えられます。当時も劇場公開されてから数ヶ月後に、問題のシーンをカットした編集版に上映を差し替えたそうですが・・・1974年の興行収入は邦画部門では2位(1位は「日本沈没」)になっているのですから、大ヒットではあったのです。


本作を”珍作”としているのは、描かれている「いまどきの若者」の風俗の違和感であります。未来を悲観した若者たちがコイントスをしてグループの半分が崖からバイクで飛び降り自殺したり、アングラ風の歌舞伎メイクと衣装で船で旅立つというのは、おそらく当時の本作を観た若者にとっても奇妙だったのではなかったでしょうか?


また、西山博士の娘(由美かおる)と娘のボーイフレンドであるフリーカメラマンの中川(黒沢年男)の、行動もちょっと変です。どうやら、この二人には肉体関係がないらしいのですが(ホント?)・・・その二人に「愛する者同士なら自然」と、エッチを奨める父親も父親であります。さらに、そう父親に言われて、さっそく海辺のボート中でエッチに励んでしまう娘も娘です。


「子供だけは作るな」と科学者である父親から釘を刺されていたのに関わらず、すぐ妊娠してしまう娘は、汚染されて何重にも見える太陽をバックに、命の誕生の歓びをダンスで表現する(さすが西野バレエ団出身!)というシュールな展開であります。


日本国内の各所は、爆発、火事、津波など災害に襲われて、食糧を求めた国民が暴れしているにも関わらず、何故か西山のいるビルの屋上(風景からして都心?)は妙に静か・・・スモッグが反射鏡となり、地表をグリーンの空に映し出しているのです。このような壊滅的な状況下・・・映画の終盤、総理大臣や政府高官を相手に語られる西山博士の熱弁と共に、これから起こるであろう核戦争と、その後の世界の終わりが描かれていきます。あくまでも、西山博士が警告する未来でしかないのですが・・・。


「ノストラダムスの大予言」どおりの未来が訪れることを前提にした危機感を煽る本作でありますが・・・西山博士と総理の演説は、強引に結論を言い切っているところがありながらも、現在の世界的な社会、環境、政治問題を言い当てているところもあり、不思議な説得力によって、うっかり(?)感動さえさせられてしまいます。

(以下、引用)

このような現象は日本各地に起こる。
一般民衆にとっては、不吉な天変地異の前触れとしか思えないのでありまして、
すでに各都市に頻発している食糧パニック状態と合わせて、
人心は不安、動揺、紊乱(びんらん)の極に達しております。
さらに、この上に自然界の異常事態が発生したら、どうなる?

遠州灘を中心とする東海地方、冨士火山のフォッサマグマ帯をはじめとして
我が国土は、その危険を十二分にはらんでいるのであり、
もし、そのひとつが引き金作用となって、
環境汚染の進む都市に及べば、どうなるか?

(マグマ噴火と大地震に襲われる都市)

(爆発する原子力発電所による核汚染)

原子力発電所には許容安全度というモノはありえないし、
地震に対しても、絶対に安全とは言えないのであります。
だとすれば・・・これは言語に絶する公害であり、
さらにまた、国連の勧告、人類の悲願にも関わらず、
核兵器の全面禁止は、国家間のエゴイズムのために
一向に実があがっていない。

今後ますます、その複雑さと深刻さを増すであろう民族問題、
食糧不足からくる決定的な飢饉、エネルギー資源の争奪戦などは、
常に一触即発の危険をはらみ、例え局地戦であっても・・・いいですか?
例え局地戦であっても、ひとたび、もし、ひとたび
核兵器が用いられたなら・・・

(戦闘機、潜水艦、空母、戦車、ミサイル発射)

さらに、これが拡大して、世界戦争になったら・・・

(世界の各地で続々と発射される核ミサイル)

(1999年7の月、空から恐怖の大魔王が降ってくる・・・というナレーション)

(ニューヨーク、ロンドン、パリ、東京が爆発全滅)

(基地は壊滅して人間が死んでも、ミサイルは発射され続ける)

こうして人類は滅亡しても、地球は残るでしょう。

(荒れ地となった関東地方)

壊滅し荒廃しきった我国でも、このまま何年、何十年かの歳月が過ぎて、
房総半島、九十九里浜、千葉、関東平野、東京湾、東京があったところ・・・

(美しい乙女の輝き、それはもう輝くことはない。すべてのモノは毛と皮が剥け、狂って争う。怪物が地球を覆うことになる。・・・というナレーション)

(荒れ地に現れる新人類二人が、ミミズを奪い合って食べる)


これは、あくまでも想像です。
誰も見た者はない。
見ることもできない。
しかし、現在の人間は、このようになる危険と一緒に生きているんです。

総理!政治とはなんでしょう?
人間を人間として生存させる責任であります。
その人間の生存自体が壊滅の急坂を今、加速度をつけながら転がり落ちているんです。
神仏の心による大決断の政治を、私は総理に祈りを込めて、お願い致します。

この熱弁を受けて・・・総理(山村聡)は、あっさり(?)西山博士の主張に共感して、危機を訴えるのであります。こうなると「ノストラダムスの大予言」なんて、関係ありません。なんたって人間生存を決めるのは、欲望を断つ「勇気」なのですから・・・。

(以下、引用)

今、わたくしは日本のみなさん、日本を見守っている世界の人々に向かって、
冷厳な事実を告げなければなりません。
日本は今・・・まっしぐらに破局への路を辿っております。
それは同時に全人類の終末にも繋がるのでありましょう。

この・・・文明の燃えさかる業火のなかで、
日本は、そして世界は本当に滅び去っていかなければならないのか?
かつて地球上に覇を唱えながら、見過ごしていった動物たちと、
同じ運命を辿らなければならないのか?
断じて、そうあってはなりません!
この人間自らの手によって作り上げたモノのために、
人間自らの命を絶つなどという愚かなことは、あってはならないのです!

我々政治家は長い間みなさんに、こう言い続けてきました。
「我々を信頼し支持してくれ、必ずより良いより豊かな生活をお約束します」と。
そして、一億以上の人間がひしめく、この狭隘(きょうあい)な日本列島に、
驚くべき高度成長社会を築き上げて参りましたが、
その上で得たモノは一体何であったか?
恐るべき生活社会の破綻と、救いようもない精神の荒廃であります。
しかも・・・我々は今日の欲望のために、
膨大な地球資源を乱費し、自然を破壊し続けて参りました。

しかし、自然を破壊する前に、まず人間が破壊されるという
この、あまりにも明白な事実を、今日ようやくにして我々は学び取ることができました。
その恐れを忘れていた我々政治家の傲慢さと愚かさを、ここに深くお詫び致します。

しかし、今からでも決して遅くないと思います。
わたくしは、例え世界の終末が明日訪れようとも、
なおかつ一本の苗木を、この大地に植え付けたい。
我々に必要なのは「勇気」であります。

今こそ全人類は、物質文明の欲望に終止符を打たなければならない。
さもなければ、欲望が人間生存に終止符を打つであろう。
この事実を正しく認識し、全世界の人々と一緒になって、
同じ窮乏(きゅうぼう)の生活に耐えてみせる・・・その「勇気」であります。

見通しは、あまりにも暗く・・・殆ど絶望的でさえあります。
しかし、この現実の中でこそ、本当に人間を愛し、人間を信じ、
本当の意味の人間讃歌の歌声をあげることができるのではないでしょうか?

未知の世代の人々をして「彼らは真に勇気ある人間であった」と語り継がせるため、
我々は真の「勇気」をもって、今までの価値観を根底から覆し、
人間生存の新しき戦いに出発しようではありませんか?

政治だけではない・・・ひとりひとりの人間の心の問題として、
この最も件(くだん)な戦いを全世界の人々とひとつになって、
戦い抜こうではありませんか!



総理の演説を聞いた西山(丹波哲郎)の、いかにも感無量といった表情が素晴らしいのですが・・・考えてみると、総理からは何一つ具体的な政策は語られてはいません。それでも、まるで「大団円」とでも言うように、人ひとりいない国家議事堂前の大通りを「Gメン75」ばりに歩く西山と娘とボーイフレンドの三人の姿を映し出します。「これは虚構の物語りである。だがたんなる想像の世界ではない。こうあってはならない。それが我々の願いである」・・・というエンディングテロップが画面にでて、映画「ノストラダムスの大予言」は終わります。


「我々」といいうのは、この映画を製作した「我々」であるわけで・・・「ノストラダムスの大予言」を方便に、物質文明=資本主義を否定する”究極のエコロジー”を訴えるカルトな”説法”のようでもあります。しかし、その啓蒙的過ぎるスタンスを差し引いても、今こそ耳を傾けるべき警告であると思えるのです・・・1999年は、とっくに過ぎてはいますが。


「ノストラダムスの大予言」
1974年/日本
監督 : 舛田利雄
原作 : 五島勉
音楽 : 冨田勲
出演 : 丹波哲郎、黒沢年男、由美かおる、司葉子、山村聡、平田昭彦、志村喬、岸田今日子(ナレーション)
1974年8月3日より日本劇場公開

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