「はやり」「すたり」というモノは、どっぷりと”その世界”に浸っているよりも、多少は距離をおいた方が、冷静に判断出来るのではないかと思っていました。
しかし、ことファッションに関しては、その世界に日々身を置いていないと、「はやり」を見失ってしまったり、「はやり」自体に興味がなくなってしまったりするようです。
「はやり」の情報を集めるとか、「はやり」を買い物をするだけではなく・・・「はやり」「すたり」に身を委ねて、善し悪しに関わらず変化に一喜一憂することでしか「感性のリトマス紙」の手札を更新し続けることが出来ないような気がします。
むかしむかしは、海外から来る情報を、いち早く「知る」ことが「感性のリトマス試験紙」を持っていることででした。
それは、服のシルエットだったり、あるブランドだったり、人気デザイナーだったり、情報そのものが「感性のリトマス試験紙」という時代でした。
その手札の数も多くはなく、「はやり」自体も広く世の中を巻き込むような流れで、猫も杓子も”ミニスカート””パンタロン”という分かり易かったのです。
ただ”肩パッド”の「はやり」以降、世の中を制覇するほどの「はやり」は、出現していないのかもしれません。
ファッションの市場が成熟してくると”人それぞれ”の好みを尊重する傾向が高まってきました。
マーケット自体が分類分けされ、各パイの大きさも随分と小さくなってしまったように思います。そうして「感性のリトマス試験紙」の種類もジャンルも増えてきました。
日本の場合には「雑誌」でジャンル分けできるところもあるので、見ない雑誌の「感性のリトマス試験紙」には、ピーンと来なかったりします。海外ではデザイナーやセレクトショップでのジャンル分けが、主流かもしれません。
いずれにしても、それぞれのジャンルに「感性のリトマス試験紙」の手札が必要になるわけで、すべての手札を揃えていることなんて無理な話です。
嗜好がさらに細分化されえていくことや、価格帯が両極化するということは、僕がファッション大学に通っていた1980年代頃から予測されていました。
ただ、実際にそういう時代になった時に、自分の「感性のリトマス試験紙」の手札が、すっかり減ってしまっていたとは思ってもみませんでした。
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