2010/07/31

「溜まっているなら、ひとりでやって!」・・・心も体も大きな彼に”差別”していた自分を教えられたの!~アメリカ黒人「S」~


ボクは「ナンパ」というものに、殆ど縁がありません。
自分から声をかけるほど積極性はないし、声をかけられた経験も一度しかありません。
「道で声をかけられて困ったよ」なんて聞くと、ちょっと羨ましく思ったります。
「ストーカー」にも遭遇したことはないし、「別れたいのに、なかなか別れてくれない」なんて経験もありません。
どうやら、ボクは隙がなくて、ひとりでいる時には、結構怖い顔をしているらしいのです。
「拒絶」に関しての意思表示は非常にハッキリしているみたいで、期待感を持続させたり、思わせぶりな曖昧さを微塵も感じさせないところがあるのでしょう。

ボクが人生でたった一度だけ「ナンパ」されたのは、22歳(1985年)の時でした。
当時、ボクはゲイストリートとして有名なクリストファーストリートから、すぐ近く(徒歩30秒程度!)にルームメイトと住んでいました。
ニューヨークのゲイの観光地のど真ん中が、日常生活の場だったのです。
その後、ゲイエリアは、1990年代にチェルシー地区へ、2000年代にはヘルズキッチンへと移行していきます。
クリストファーストリートと7番街の交差するシシェリダン・スクウェアの一角に、ゲイエリアの入り口の象徴として存在していた「ビレッジ・シガース」というタバコ屋がありました(今でも存在しています)。
当時は喫煙者だったボクは、この「ビレッジ・シガース」によくタバコを買いに行っていたのですが、ある日「ナンパ」されたのです・・・それも、とっても大柄の黒人男性に。



具体的にどう声をかけられたかは忘れてしまったのですが・・・まったく予測していなかったことでで、不意をつかれた感じでした。
ひと言、ふた言と会話を交わすうちに、どういうわけかティファニーというダイナー(今はなくなってしまいました)で、お茶をことになったのです。
「S」と名乗った黒人の男は、勿論ゲイで当時30代後半、頭は丸坊主に剃って、目が大きくて、鼻は大きく横に広がっていて、唇が分厚く、口が大きくて、真っ白い歯が笑うと目立つというステレオタイプの黒人そのもの・・・2メートル近い身長で体格はフットボール選手みたいでした。
アメリカ黒人というのは、白人と多少血が混じっていることもあり、肌の色が薄い人が多いのですが・・・彼はアフリカ黒人のように肌の色が濃いタイプの黒人だったのです。
「山のように大きな黒人」「S」でしたが、物腰はヒジョー優しい人でした。
留学してから数年のあいだにボクが接触してきたアメリカ人は、ほぼ99%白人・・・無意識のうちに日本人以外のマイノリティーとは関わる機会の少なかったため、黒人らしい黒人とあまり話したことさえなかったです。
ボクは彼とどういう風に接したらいいのか分からず、少々頭が混乱していたようなところもありました。

その後「S」とは、お茶したり、食事したり、ゲイバーなどに出掛けたりするようになりました。
彼の知り合いの黒人のゲイグループに紹介されることもありましたが、黒人同士の英語の発音がボクは理解出来ず、会話は気まずい感じになることが多かったです。
そんな時は、彼は「ハニー」「ベイビー」などと甘い言葉を投げかけながら、肩を抱いてきたり、ハグしてきたりしてきて、場を和ませてくれました。
時に、ボクは「S」の太い両腕に自分から身を委ねたりすることもあったのです。
彼の腕は毛もなくツルツルしているのですが、触ると妙なザラっとしていて冷たい・・・海の生き物のような触感でした。
時に、求められるがまま「S」とキスすることもありました。
巨人ような彼に抱きすくめられてしまうと、ボクは逃げようもなかったです。
彼のキスは、とても軽い「チュ!」というキスだったのですが、分厚い唇は不思議な質感でした。
彼の住んでいた郊外のクィーンズに行くことをボクは拒み続け、ルームメイトがいることを理由に彼がボクの部屋に来ることも断り続けていたので、彼をエッチする機会はありませんでした。
ラブホテル(モーテル)が存在しないマンハッタンでは、エッチするなら基本的に”どちらかの自宅”ということになりがちなのですが、どちらもダメとなると、必然的にエッチをすることは難しくなるわけです。
紳士的であった「S」は無理に一線を越えようとはしようとはしませんでしたが、時々「ボーイフレンドにならない?」と尋ねてきました。
そのたびにボクは「ノー!」とハッキリ返事をしていたのですが、彼はは「決して諦めないから!」と言い続けていました。
どうしてもボクには「S」とエッチをしたり、ボーイフレンドとして付き合っている自分の姿をイメージ出来なかったのです。
そのうち、ふたりの関係は進展することもなく、ともだち関係となっていったのでした・・・ただ、それはあくまでもボクにとって、だったのですが。



知り合って3年ほど経ったある夜、バーで飲んだ帰りにトイレに行きたいから、ボクの家のトイレを使わせてくれと「S」が言い出しました。
ボクは親しくなってからも一度も彼を部屋には入れたことがなかったのですが、その夜、初めて「S」を自分の家に招いたのでした。
運がいいのか悪いのか、ルームメイトは不在でした・・・ルームメイトはすぐに帰宅するような雰囲気はありません。
トイレを済ませると「S」は、暗いリビングルームのカウチに腰を下ろして、まったく帰宅する様子がないのです。
そして「隣に座れ」というように、大きな手でカウチのシートを、ポンポンと叩いたのでした。
ボクが「S」の隣に座ったら抱きすくめられてキスされて、その流れでエッチになってしまうことは明らです。
ボクの中ではずっと「友達」として接してきたのに、こんな風にアプローチをしてくるとは思いもしなかったので戸惑いました。
この時の「S」には本気を感じました・・・というのは、性欲が溜まっていて、どうしても「エッチをやらなければならない!」という切羽詰まった雰囲気を醸し出していたのです。
大柄の「S」に力ずくで襲われたら、絶対に抵抗することは出来ない・・・という恐怖をボクは感じていました。
・・・・レイプされるかもしれない!

追いつめられてボクは「S」「溜まっているなら、ひとりでやって!」と、言っていました。
一瞬、彼は怯みましたが、そういうプレイもあり・・・と判断したのか、彼は股間を触りだしました。
「もっと近くにきて、服を脱いでくれ」と頼まれましたが、ボクは2メートルほど離れたところで着衣のまま床に寝転ぶだけにしておきました。
「S」はスルスルとパンツだけ脱いで、下半身だけスッポンポンの裸になりました。
窓からの明かりしかない暗い部屋で「S」の大きな体から、子供の腕ほどの巨大なモノがそそり立っているのが見えました。
ボクには獣が発情しているようにしか感じられず、ただ固まってしまったのです。
しばらくして「S」はボクを見つめながら、果てました。
まさか彼が本当に自分で最後まで「ヤル」とは思わなかったので、ボクは呆然としてしまいましたが・・・「ティッシュもらえる?」と彼に言われて、黙ってティッシュを渡しました。
気まずい空気の中、彼はゴソゴソとパンツを穿き直し、ひと息ついてから「帰ったほうが良いよね」と言いました。
・・・ボクはうなずきながら「ごめんね」と謝っていました。



ボクは、自分が「差別」する人間なんて思ったことなんてありませんでした。
しかし、ボクが「S」の気持ちに応えられなかった理由は、彼が「黒人」というのが理由だったことは否定できません。
黒人の身体的な特徴を、生理的に拒絶してしまったのです。
それは、あまりに今まで接してきた人と身体的に違う彼のことを、自分と同じ人間のように見ることが出来ない・・・というトンデモナイ差別的なことでした。
人種の違いから差別する「人種差別」よりも、ひどいかもしれません・・・人間扱いさえしていないんだから。
差別って良くないというのは理解していても、
差別していると意識していなくても、
ボクは「S」を差別をしていた・・・
彼のことを思い出すたび、あまりにも”小さな自分”と向き合うことになるのです。

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2010/07/24

1970年代の郊外新興住宅地の原風景、男子と女子の入れ替わりファンタジーの元祖、塩沢ときの元ネタは「奥様は魔女」のミセス・クラビッツ~「へんしん!ポンポコ玉」~



「へんしん!ポンポコ玉」は、ボクの心に深く刻まれていたテレビドラマなのですが、放送当時から番組を観ていたクラスメイトもいないほどマイナーで、中学生を主人公にしながらも内容的には完全に児童向けだったこともあって、その後大人になってから思い出したり、誰かと語る機会さえなかったのでした。
このドラマが放映されたのは1973年・・・「仮面ライダー」「キカイダー」などの変身ヒーローものが男子にはブームで、女子だけでなく男子も夢中になったのが「サインはVという時代でした。
「へんしん!ポンポコ玉」は、裏番組が「マジンガーZと「ドラえもん」という不運もあり、視聴率が期待通りに伸びなかったようで、たったの「15話」で番組は終了してしまいました。
毎回、当時の有名ゲスト(毒蝮三太夫、小松政夫、児島美ゆき、など)が出演したり、小学生向け雑誌では特集なども組まれたりはしていたのですが・・・。
おそらく70年代中頃には午後4時台とかに再放送されたことはあるかと思いますが、その後にリバイバルブームという形で再放送されることはなく、ビデオ化さえもされず、ずっと幻の番組という存在だったのです。
数年前にDVD化された時は喜びと同時に「このドラマを好きだった人が、ボク以外にもいたんだ!」と驚いたものでした。


当時流行っていた変身モノでありながら、ヒーローとして敵と戦うようなことは勿論なく、赤と青のポコポコ玉を持って「ポンポコピ~!」と呪文を唱える(葉月パルのヘッポコヘッポコピーの元ネタ?)と、男の子(陽一くん/中学三年生)と女の子(百合ちゃん/中学二年生)が10分だけ入れ替わることができる・・・というファンタジードタバタコメディであります。
入れ替わるのは、陽一くんと百合ちゃんには限らず、エピソードによっては他のキャラクターと入れ替わったりするのでありますが、常に「性別」が逆になるというのがお約束のようです。
宇宙人のペケペケという「たぬきのぬいぐるみ」が、赤い玉と青い玉の本来の持ち主として重要なキャラクターとして登場するのですが、当時の子供の感覚でもパペットとしての作りが「ちゃっちい」と感じた印象があります。
ペケペケは「諸君!」などと、視聴者の子供たちにカメラ目線で説教じみた台詞をいうなど・・・テレビの中と現実を混同するような演出もされたのですが、親近感が湧くような人気のキャラクターにはなりませんでした。
このドラマは全編ベタなギャグご都合主義の物語の進行、マンガのような出演者たちのリアクションと、今の感覚では観るに耐えないようなデキではありますが・・・考えてみると、大林宣彦監督の「転校生」の原点のような作品だったのかもしれません。


このドラマが撮影されていたのが、田園都市線沿線の自宅の近所だったということもあって(よく登場するモダンな商店街は今でも存在している)、放映当時は知っている場所が写るたびに、たいへん興奮していました。
1970年代の東急が開発していた郊外の住宅地というのは、まずは道路だけ敷いて舗装をしておき、住宅地としての区分けは済んでいるものの、家がまだ建っていない空き地には雑草(主にすすき)が生い茂っているという風景でした。
都内で生まれて、郊外で育ったボクには「田舎」というものはありませんが、新興住宅地の空き地が広がる風景というのは、郷愁を感じさせるボクの「故郷」なのです。


主人公の陽一くんを演じた小林文彦、百合ちゃんを演じた安東結子、共に印象が薄い役者さんで、人気が出なかった理由のひとつかもしれません。
百合ちゃんに憧れるガキ大将的キャラ(あんちゃんと仲間から呼ばれる)は、当時の子供向け番組では常連だった「福崎和宏」という劣等生役を得意としていた(?)役者さんで、子供ながら「気になるお兄さん」でありました・・・勿論、まだ同愛的な感情が芽生える以前の話でありますが。
「へんしん!ポンポコ玉」では、隣の奥さん(塩沢とき)と入れ替わってしまって、女装とオネェ演技も披露!
撮影当時、まだ16歳(1957年生まれ)だったことを考えると、若くして芸達者な(または、自分を捨てた見事な)役者さんだったんだと改めて思います。


おそらく、このドラマが後に放映当時に知る由もなかった世代に知られる存在になった理由は、1980年代後期に人気者になった「塩沢とき」の出演作品としてでしょう。
ケンちゃんシリーズの教育ママ役で「んま~!なんてことでしょ!」を連発するオバサンとして、当時の子供にはすでにある程度の認知度が高かった塩沢ときですが、この「へんしん!ポコポコ玉」では覗き見が趣味の奥さんをのびのびと演じて、主人公たちを完全に食ってしまっていました。
「見たわよ見たわよ~!」と、ポンポコ玉で変身する主人公たちの秘密を問い詰めるのですが、徹底的な証拠を掴むことが出来ない・・・というのが、毎回のお決まりだったのです。
塩沢ときの演じたこの役柄の原型というのは「奥さまは魔女」で、サマンサが魔法を使うところを見ては、旦那に訴えるものの、まったく信じてもらえない隣の奥さん”(Mrs. Gladys Kravit/ミセス・クラビッツ)だったのではないでしょうか?
日本語吹き替え版でミセス・クラビッツは「あ~た!」と旦那を呼んでいましたが、塩沢ときの演じている隣の奥さんも、まったく同じトーンで旦那のことを「あ~た!」と呼んでいます。
このドラマでの役柄と演技が、後の「塩沢とき」という独特のキャラクターのベースになっているようにも思います・・・メガネや髪型とかは別として。
子供というのはある時期、品の良いキャラというのにハマって、奥さま風のおしゃべりで遊ぶことがあるものですが・・・塩沢ときの確立したキャラというのは、まさに子供同士の「ざ~ます」ごっこの原点となっているのかもしれません。


ゲイの全ての男子が「女装趣味」があるわけでもなく・・・「女の子になりたい!」と思いながら成長するわけでもありません。
しかし、世間一般的な「男子」的なことに、違和感を感じながら小学校、中学校を過ごすということはあります。
「へんしん!ポコポコ玉」がボクの記憶に深く刻まれた理由のひとつは、男の子が女の子に呪文で「変身できる」という奇抜なアイディアにあったのかもしれません。
陽一くんは男子でありながら運動は苦手でナヨナヨして女の子っぽくて、百合ちゃんは女子でありながら暴れん坊で気性が強くて男の子っぽく描かれています。
周りのクラスメートや学校の先生たち、そして両親まで「男の子とは男らしく!「女の子は女らしく!」と、陽一くんと百合ちゃんに既成概念を毎回押し付けるのですが、ふたりはそんな世間の価値観にはおかまいなしに、ポンポコ玉を使って、男と女の変身(入れ替わり)を繰り返します。
ボク自身は、体格が大きかったので女子っぽく見られることもなく、女っぽいからといじめられるような経験も皆無でしたが、女っぽいところもちょっとあるかもしれない・・・と、自分では密かに思っていました。
男と女の性が入れ替われるという設定だったからこそ、その後もずっとボクの記憶にとどまったのでしょう。



同性愛のコンセプトも知らない子供時代に「へんしん!ポンポコ玉」と出会えたことは、そののち、ボクが自分自身のセクシャリティーと自然に向かい合える心構えを潜在的にしてくれていたような気がします。
男でも、女でも、どっちでも良いんだよ・・・と。

「へんしん!ポンポコ玉」
1973年4月15日~7月29日
日曜日午後19時より、TBS系列
スタッフ
脚本/長野洋、ジェームス三木、大野武雄、田波靖男
キャスト
安東結子(立花百合)、小林文彦(河合陽一)、堺左千夫(立花一平)、姫ゆり子(立花かおる)、砂塚秀夫(河合陽太郎)、小林千登勢(河合明子)、塩沢とき(鵜之目タカ子)、鮎川浩(鵜之目トビ夫)、阪脩(ペケペケの声)、福崎和宏(大久保大介)、太田淑子(次回予告ナレーションの声)



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2010/07/21

食育の問題?「ばっか食い」のどこが悪い・・・これからは「コース食い」が主流となるべきなのだ!


数年前、あるテレビ番組で食育の先生が「最近の子供は、”ばっか食い”というのが多く、問題になっています」と訴えているのを、小耳に挟みました。
”最近の子供”という人種に接することのないボクは・・・「へぇ~、最近の子供って、同じモノ”ばっか”食うんだ」と解釈したのでありました。
確かにアメリカには「ホットドッグばっか」とか「マカロニ&チーズばっか」とか、「スナック菓子ばっか」とか、親から同じモノ”ばっか”食べさせられている子供が結構いたりするので、悪しきアメリカの食習慣が日本の子供に浸透してしまったんだ・・・「それは大問題!」なんて、憤りを感じたものでした。

ところが、よく先生の話を聞いていると「ばっか食い」というのは、同じモノ”ばっか”食べるということではなくて・・・主食(ごはん、パン、麺類など)、主菜(肉、野菜など)、副菜(サラダ、おひたしなど)、汁物(お味噌汁、スープなど)などを、順番に一品ずつ食べていくということだと言うのです。
思い返せば・・・ボク自身、幼い子供の頃(約40数年前)から「ばっか食い」を実践しています。
学校の給食の時とか、家では母親からは、ごはん(白米)とお味噌汁とおかずを順々にちょっとずつ食べる「三角食べ」をするように何度も叱られましたが、ボクは「おかず」は「おかず自体の味」を楽しみたいし、猫舌なのでお味噌汁はぬるくなってから最後に飲みたいのです。
我が家では、ごはん(白米)を残すことは親から許されていなかったので、仕方なく生卵をかけて食べていました・・・味のあまりない白米だけを食べることが、ボクはできなかったので。
おかずの味付けで、ごはん(白米)を食べるというのが、ボクにはどこか「下品」なように思えて、どうしても習慣として受け入れられなかったのです。
どんぶりもの、カレーライス、うな重のように、ごはん(白米)がその料理の一部となっている場合は、別なのですが・・・。
18歳からアメリカで一人暮らしするようになったら、日本的な主食、主菜、副菜、汁物などのジャンル分けをして考えることもなくなり、思う存分「ばっか食い」を貫くことが出来るようになりました。
・・・というのも、アメリカでの一般的な食事の手順というのは、スープ飲んで、前菜食べて、メインディッシュを食べるという、いわゆる「ばっか食い」なのですから。

日本の食育の先生に言わせると・・・「ばっか食い」というのは、たいへんな問題らしいのです。
まず、順番に一品一品食べていると、すべての料理を食べ終わる前にお腹がいっぱいになってしまい、結果的に摂取出来る栄養が偏ってしまう。
ワンプレートの料理(スパゲッティとか、カレーライスなど)ばかり食べさせられている子供は、複数の皿が出てくると食べ方が分からない。
家庭内のコミュニケーションが欠如しているので、基本的な食事のマナーを教えなる機会が失われている・・・ということのようなのです。
でも本当の問題というのは、日本の食卓も贅沢になって、好き嫌いのある子供が増えただけのことに思えるのですが・・・どうなんでしょう?
ボクは、親に「三角食い」をするように繰り返し躾をされつつも、それに逆らって順番に一品ずつ食べてきました。
今でも、食べモノの好き嫌いは一切なく、栄養の偏りで病気になるようなこともありません。
元はと言えば・・・日本の食育の先生たちが「ばっか食い」という、何か否定的なニュアンスで呼んで問題意識を高めていることが間違っていると思うのです。
「ばっか食い」とは言わずに「コース食い」と、呼べば良いのではないでしょうか?
フランス料理や中華料理のコースだって、和食の懐石料理だって、一品一品順番に出てくるのですから「ばっか食い」と呼ぶ食べ方こそが、本来、世界的にはスタンダードなはずなのです。
おかずの味で白米を食べ、汁物で流し込む・・・そんな「三角食べ」こそ、食生活がまだ豊かでなかった時代の名残りのではないでしょうか?
ダイエットのひとつに、繊維質を含む野菜をまず食べてから、栄養価の高い肉などを食べて、最後に原持ちの良い炭水化物を食べるという方法があります。
順番に一品ずつ食べるのは、科学的にも消化するためには、正しい食べ方ということなのです。

これからは「ばっか食い」改め「コース食い」こそが、主流となるべきなのであります!

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2010/07/19

ありがたい「言葉」のブランド・・・お手軽な自己正当化のための近道(ショートカット)~「超訳 ニーチェの言葉」~



大変売れているらしいのです・・・今年の一月に出版されて以来、まだまだランキングによってはベストセラーとして登場しているのですから。
「巻くだけダイエット」もしも高校野球の女子マネージャーがドラッガーの『マネジメント』を読んだら」に次いで、今年出版された話題の一冊と言っても過言ではないでしょう。
ボクはニーチェの著作を愛読してきたようなインテリでもないので、お手軽に哲学を学べる本というのは、ありがたく思うのだけど・・・この「超訳 ニーチェの言葉」は、まさに「超訳」
これほど、短い文節を都合よく取り出してまとめてしまうというのは、すでに「ニーチェの言葉」というよりも白取春彦という訳者/編集者による「自己啓発本」というべきなのかもしれません。

取り上げられている「ニーチェの言葉」は、常識的なことから、ちょっとためになりそうなひと言。
しかし、それらから人生を学べるような深い哲学というよりも、ボクが人生を生きて、すでに感じたようなことが書かれているだけ・・・というのが正直な感想でありました。
個々の考え方を尊重するという前提では「事象の見方」「物事の真理」「答えの正解」というのは「ひとつだけ」というわけではなく・・・考え方の軸を動かしたり、立場が違ってくれば、人それぞれによって答えはいろいろとあるものだったりします。
「ニーチェの言葉」にしても、読者が自分自分の都合の良いように読み取って良いんだよ・・・というのが、今の時代であるということなのかもしれません。
ただ、こうなってくると、この本だって山のように出版されている自己啓発本や世渡りを指南するビジネス新書と何ら違いがないようにも思えたりします・・・単に「ニーチェの言葉」という「ブランド」のお染み付きということで、何か深い意味があるように読者をだましているに過ぎません。
これって、どこの馬の骨だか分からない霊媒師より江原さんの言葉に、過剰なほど「ありがた〜く」反応してしまった数年前と似たような気がします。
その人にとって心に響く「言葉」の力で人生が切り開けることもあるかもしれませんが・・・有名な占い師の結果や、偉人の残したと言われる言葉を「座右の銘」などを、いかにも「今の自分は正しいのだ!」という自己正当化のための近道(ショートカット)として、拝借してしまうことって多いような気がしてしまうのです。
本来は、実際に自分の生きている人生の経験から学んで、生きてきた糧から自分の人格や自分なりの真理を築いていくべきではないかと、ボクは思います。
ただ「人生の真理」だって「選択の正解」だって「情報のひとつ」として都合よく準備されているのが、今の時代なのです。

「超訳 ニーチェの言葉」という本の一番面白いところは、この本の内容がこの本の存在意味自体を批判しているということ・・・と思ってしまうボクって、やっぱりニヒリストなのかもしれません。
「本を読んでも」という182節を長いけど引用してみます。

本を読んだとしても最悪の読者にだけはならないように。最悪の読者とは略奪を繰り返す兵士のような連中のことだ。
つまり彼らは、何かめぼしいものはないかと探す泥棒の眼で本のあちらこちらを適当に読み散し、やがて本の中から自分につごうのいいもの、今の自分に使えるようなもの、役に立つ道具になりそうなものだけを取り出して盗むのだ。
そして、彼らが盗んだもののみ(彼らがなんとか理解できるものだけ)を、あたかもその本の内容のすべてであるというよに大声で言ってはばからない。そのせいで、その本は結局はまったく別物のようにしてしまうばかりか、さらにはその本の全体と著者を汚してしまうのだ。

100年以上も前にニーチェは、日本で「超訳 ニーチェの言葉」なんて、トンデモナイ本が出版されることを予言していたのでしょうか?



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2010/07/14

この映画を観てはいけません・・・・障害者が連続殺人鬼を演じる見世物的ホラー映画~「おそいひと」~



悪趣味な映画大好き不道徳な映画も好き!残酷な映画は大好物!
キワモノ映画、トラウマ映画について、今までブログにも散々書いてきたことからも分かるように、普通の人が目をそらしたくなるような不快な映画に対しても、ボクは免疫があると思っていました。
しかし「おそいひと」は、キツい映画でした・・・ハッキリ言って二度と観たくありません。
障害者が主演している映画というのは、何かで読んで存在だけは知っていたのですが、積極的に観ようという気持ちになれないところがありました。
それは、障害者がリアルな存在になることよって、自分の興味本位な浅はかさとか、意識していなかった差別的な感情とか、向き合いたくない自分の内面と向き合うことになるからかもしれません。

「おそいひと」は2000年ごろに撮影されたものの、映画として完成して上映されたのは2004年の映画祭でした。
衝撃的な内容から国内ですぐに一般上映をされることもなく、海外の映画祭の凱旋後の2007年になって劇場公開されたのです
そして・・・それから数年、2010年になってDVD化となったのでした。
まるで不運の封印映画のように扱われてきた映画でわけですが、その理由は・・・重度の脳性麻痺患者が連続殺人鬼を演じているという内容だからでしょう。
また、実際に脳性麻痺の障害者で主演された「住田雅清」さんが(彼自身を演じているわけではありませんが)本名をそのまま役名にして演じているというのも、どこか不謹慎さを感じさせるのかもしれません。
しかし、一般的な劇映画のように健常者が障害者へ演じていれば問題ないかというと・・・それは、もっともっと差別的な表現になってしまうかもしれません。

(ここからは先は映画のネタバレを含みます)
映画の主人公である「住田」は重度の脳性麻痺の障害者ですが、バンドをやっている青年「タケ」(坊主でヒゲの硬派なイケメン!)や、他の介護者達のサポートを受けながら暮らしています。
ところが大学の卒論のために介護を体験したいという女子大生「敦子」の出現によって「住田」は、健常者へ嫉妬心を覚え始めるのです。
「普通に生まれたかった?」
と無神経に尋ねる「敦子」に対して「住田」「コロスゾ」とトーキングエイド(キーボードを打つことで機会音で音声を発する)で冗談まじりに答えます。
同じ障害者仲間の「福永」の忠告にも耳を傾けずに「住田」は徐々に混沌とした感情に取り憑かれて健常者への復讐を始めるのです。
まずは、最も献身的に、そして友人のように介護サポートしてくれる「タケ」に薬を飲ませ風呂に沈めて殺します・・・その後「住田」は健常者たちをナイフで刺して殺していきます。
「車椅子で移動する障害者が殺人という行為が出来るのか?」とか・・・「殺害後に血の跡から足がつかないのか?」など、設定としては不可解なところはあります。
インダストリアルノイズ系の音楽、フラッシュのコマ送りのような編集、そして脳性麻痺でゆがんだ障害者の肉体の不気味さをさらに強調するようなカットは、いたずらに不快感を高めていきます。
デビット・リンチ監督の「イレーザーヘッド」のような・・・観てはいけないヤバい映像感覚です。
連続殺人の狂気に身を委ねてからの「住田」は、単なる不気味なフリークスにしか見えません・・・「住田」が何故、健常者を殺し続けるのかという心理描写は、ほとんどないのですから。
殺人をして帰宅する「住田」を迎えたのは、彼の誕生日をサプライズで祝おうとする介護者たちでした。
驚愕の表情で血だらけの「住田」を見つめる介護者たち・・・警官たちに手錠をかけられて「住田」は連行されて映画は終わります。

もしも、介護者の心の裏にある偽善を暴いて、「住田」が妄想のなかで介護者たちを殺していくという映画であったなら、ボクの印象はまったく違ったでしょう。

どんなに介護者へ殺意を感じたとしても、実際には彼らのサポートに頼ってしか生きていけないという障害者の呪縛のフラストレーションを描くのであれば、もっと恐ろしい映画になったかもしれません。

この「おそいひと」という映画は、障害者が健常者を襲って殺す・・・というショッキングな設定を映像化したという見世物にしかなっていないので、単に不快感を生み出しているだけに過ぎなのです。
主演した「住田雅清」さんのインタビューによると、柴田監督の将来の大成ためにノーギャラで(時に肉体的にも精神的にも厳しい)撮影に参加されたということでした。
撮影中、監督からはシーンごとに台詞や演出指示を受けていたので、全体のストーリーというのは撮影時には、まったく知らなかったそうで・・・映画完成後に障害者が殺人鬼となって健常者を殺していく「だけ」の映画と分かって、彼自身も大変ショックを受けたそうです。
「住田雅清」さんのチャレンジ精神と善意を利用して悪趣味な見世物にした・・・という疑惑がボクには拭いきれません。
人道的に間違った手法で作られた映画に思えるのです。

だから・・・この映画を観てはいけません。


「おそいひと」
2004年/日本
監督/編集 : 柴田剛
出演 : 住田雅清、とりいまり、堀田直蔵、白井順子、福永年久、有田アリコ
音楽 : world's end girlfriend



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2010/07/13

「時代遅れ」と言われようとも、オートクチュールファッションをリアルに妄想してしまうのです・・・



「ファストファッション」が、堂々と「ファッション」と呼ばれる時代に「オートクチュール」というのは時代錯誤で非現実的だと思われていても不思議ではありません。
なんたって、デイウェア(ブラウス、ジャケット、スーツのセットアップ)でも、数百万円・・・イブニング(刺繍やレースなどを施した豪華なドレス)となると、数千万円してしまうこともあるのですから。
仮縫いのために二度もフランスにのアトリエに行く必要があるとなれば、顧客も極々限られた人々になってしまいます。
地球上の顧客が、数百人ほどしか存在しない・・・と言われるのも無理もないことでしょう。
ボクは「オートクチュール」のドレスを実際に目にするような世界に生きてきたわけでもなく、パリの「オートクチュール」の現場で働いたこともありません。
しかし「ファッション」を考えるときに、ボクの脳裏に浮かぶのは「オートクチュール」に他ならないのです。



ボクが「ファッション」に興味を持ち出した1980年初頭には「オートクチュール」は、ベールに包まれた世界でした。
当時は、プレタポルテ全盛時代で、モンタナミュグレーゴルティエ、そして日本人デザイナーらに注目が集まっていて「オートクチュール」は、古臭いイメージしかなかったのです。
60年代のデザイナー達が、まだまだ現役でもあり、若い世代からは完全に無視されていました。
ライセンス商品を売るためにデザイナーネームをアピールする必要のあった日本のファッション雑誌(Mode et Modeなど)ぐらいでしか、パリの「オートクチュール」コレクションの内容を知ることは出来なかったのです。
そんな状況を一変させたのが、シャネルのデザイナーに就任したカール・ラガーフェルドであり、ジャン・パトゥのデザイナーを勤めた後、自分のメゾンを立ち上げたクリスチャン・ラクロアでしょう。
1990年頃から、カナダで制作されたァッション情報番組で、アメリカのテレビでも「ファッション」が報道されるようになり、「服」そのものよりも「情報」としての「ファッション」が発信される時代になりました。
今では、ファッションショーで発表される殆どルックを、インターネットのサイトで見れるようになりましたが、コレクションの制作過程は、まだ部外者には知り得ない世界だったりします。



WOWOWで今年5月から放映され、最近DVD化された「コレクション前夜」シリーズの、Jean=Paul GAULTIER(ジャン=ポール・ゴルチエ)は、オートクチュールコレクション発表の24時間前から追うドキュメンタリー番組です。
ショー開演予定の数時間前になってもドレスの殆どを縫い終わっていないという、まさにカオスの舞台裏を暴露するような内容になっていますが、それもゴルティエというデザイナーの”らしさ”なのかもしれません。
失われつつある伝統的なアイリッシュレースのようなテクニックを復活させて、ワニ皮の小さなピースとパッチワークしていくという意外性のある融合は、まさにゴルティエならではです。
テーマがハリウッド女優ということもあって、まるで映画衣装のようなコレクションではありましたが、ボクは顧客のつもりになってリアルな妄想してしまいました。


「コレクション前夜」と同じ監督によって制作された「サイン・シャネル」は、カール・ラガーフェルドとアトリエのスタッフが、シャネルのオートクチュールコレクションが制作されていく様子をとらえた5話からのドキュメンタリー番組です。
そこには、デザイナーのカール・ラガーフェルドを頂点に築かれた古き良きオートクチュールのピラミッド社会が成り立っています。
デザイナーが「白」と言えば「黒」も「白」になるような理不尽で封建的な世界・・・まさに、アトリエのスタッフから縫子さん達は、カール・ラガーフェルドという女王蜂(まさに!?)を崇拝し、絶対的に服従しているのであります。
緻密に技術が凝縮されたドレスが、カールのスケッチ一枚からというのも、昔ながらのクチュリエらしさかもしれません。



イヴ・サンローランのドキュメンタリー映画「5 Avenue Marceau 76116 Paris」(DVDは北米版のみは、自分の世界で愛する者たちに囲まれながら、好きな服を淡々と一点一点を完成させていくイヴ・サンローランのデザイナーとしての神髄をじっくりと見せてくれます。
ラガーフェルドやゴルティエのアトリエのようなドラマチックな気の狂うようなカオスはありません。
そこには、オートクチュールファッションの、現実的な問題の解決・・・全体のシルエットのバランスであったり、スカート丈であったり、生地の色合いであったり・・・完璧なドレスを完成するためだけの探求なのであります。

「ユニクロ」のTシャツや「H&M」の下着を愛用するのがボク自身の現実ではありますが、これらのドキュメンタリーを観ていると、下世話な生活ですっかり忘れていた「オートクチュール」の世界観とリアリティーが甦ってきます。
「ファストファッション」のように、「流行り」をマスマーケットへ提供するというビジネスモデルは、すでに完成型に近いのかもしれません。
また、ワークウェアやユティリティークローズの「味わい」や、始末や生地の風合いに「感性」の価値を見出すことも、今の時代の「ファッッション」であります。
しかし、そんな貧乏ったらしい(?)価値観に、ボクは「ファッション」のを託せないのです。
「時代遅れ」と言われようとも・・・リアル(!)に「オートクチュール」の日常を妄想し続けることが、ボクにとっては、やはり「ファッション」であるのです。



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