2014/04/21

「CR Fashion Book」創刊までのカリーヌ・ロワトフェルドを追ったドキュメンタリー映画・・・独創的な”カリスマ性”ではなく等身大の”アコガレ”がファッションエディターに求められる時代なのね~「マドモアゼルC ファッションに愛されたミューズ/Mademoiselle C」~



ドキュメンタリー映画とファッション業界というのは、よっぽど相性が良いようで、近年次々とファッション界を舞台にしたドキュメンタリーが制作されています。パリのデザイナーがトレンドを作っていたのは昔の話・・・今は消費者(ユーザー)が市場を牽引していますし、一部のファッション業界人だけがサキドリ独占していた”情報”もインターネットの普及により無意味になりつつあります。「ブランド」や「カリスマ」の神話を市場にアピールする手段として、ドキュメンタリーで舞台裏を見せることは、セレブの私生活をゴシップ誌やエンタメ番組で公開するのと同じこと・・・結局のところ”宣伝”なのです。

18歳でモデルとしてデビュー、20代で「ELLE」の編集者・スタイリストに転身、「グッチ」や「イヴ・サンローラン」などのブランドでスタイリストを務め、47歳から10年間フランス版「VOGUE/ヴォーグ」誌の編集長に就任。現在は「VOGUE/ヴォーグ」誌を去り、「ハーパーズ・バザー/Harper'S BAZAAR」誌のグローバル・ファッション・ディレクター(彼女のために作られた役職)を務めるカリーヌ・ロワトフェルド。彼女を知っているのは、ファッション好き(または業界人)に限られるのではないかと思います。業界的にはとてつもない権力を持っていることには違いありませんが、アメリカ版「VOGUE」誌の編集長=アナ・ウィンターのような”カリスマ”編集長として広く認知されているわけではありません。

カリーヌ・ロワトフェルドが業界内で有名になったのは、1990年代にトム・フォードがディレクターを務めていたブランドで展開された「ポルノ・チック」と呼ばれた広告のスタイリストとしてであります。ファッション広告に於いて「セックス」そのものをアピールしたということで、当時、物議となりました。「ポルノ・チック」というコンセプトは、1970年代にヘルムート・ニュートン(写真家)へのオマージュ(パクリ)であることは明白で、革新的なビジョンというよりは、広告戦略的にリメイクされた編集者的なセンスでしかありません。ただ、同じ頃ヨーロッパでは映画監督ラース・フォン・トリアーが女性向けポルノ映画の制作を始めて興行的にも成功していたこともあり、ポルノ表現が”おしゃれ”というムードは存在していました。ファッション広告に時代の空気を大胆に取り入れた・・・と、好意的に解釈することはできます。
本作「マドモアゼルC~ファッションに愛されたミューズ~」は、カリーヌ・ロワトフェルドの過去の経歴を振り返るということはなく、彼女自身の名前のイニシャルを掲げた「CR Fashion Book」創刊する彼女を追う”だけ”です。それ故に、結果的に本編は彼女の新雑誌のプロモーションにしか思えない内容となってしまいました。元雇い主(VOGUE/ヴォーグ誌)が、ファッション関係者に彼女の新雑誌創刊に協力しないしようにプレッシャーを与えたという憶測もあるらしいので、過去の映像は使用出来なかったという経緯もあるのかもしれません。「CR Fashion Book」自体は、普通の商業誌では不可能な贅沢なスタッフを揃えた夢のような雑誌であることは確かです。ただ、それ故に時代を反映しているというよりは、意地悪な見方をすれば・・・業界人の”内輪ウケ狙い”の自己満足とも言える「キレイな”だけ”な写真=まるで広告写真」をまとめた雑誌”だけ”の雑誌とも言えます。


本作は、ファッションエディターとしての”カリスマ性”を際立たせるよりも・・・娘や孫に囲まれる安定した家庭生活(勿論、理解のあるリッチなパートナー!)を持ちながら、世界を駆け巡る華麗なキャリアウーマンの頂点を極めた女性として”アコガレ”の存在として描くというコンセプトは、時代を反映しているのかもしれません。ダイアナ・ヴリーランドのような個性的な”カリスマ”や、アナ・ウィンターのような独裁者のような”カリスマ”は、もう世の中に求められていないのです。本編から垣間みれるのは、さまざまなクリエーターを上手に取り込み、彼らの手腕を生かすカリーヌ・ロワトフェルドの「いいひと」っぷりだったり、59歳になってもピンヒールを履き続けるという”美魔女”まがいの「若さ」アピール・・・背伸びしたら夢見れるぐらいの等身大の”アコガレ”感が、今の時代のファッションエディターにも求められている”資質”かもしれないと、ボクは再認識した次第です。

そう言えば、先日スタートした沢尻エリカ主演の深夜ドラマは「ファースト・クラス」という架空の女性ファッション誌の編集部を舞台にした女同士のマウンティング地獄(!)を描いているのですが・・・ドラマで描かれるであろう個々の事例が、実際の編集室で行なわれているかは別として、確かにファッション業界というのは(日本に限らず)マウンティング活動は盛んな世界です。ボク自身もデザイナーのアシスタントをしていた時には、同僚から裏で意地悪されたり、何気ない日常会話で厭味を言われたり、マウンティング行為をたびたび経験しました。多かれ少なかれ、ファッション業界(デザイナー、プレス、セールス、エディターなどファッションに関わる全ての職業)というのは、個人的な好き嫌いで職場が”天国”か”地獄”か決まったり、たったひとつの言動で「おまえセンスなし!」と判断されたり、見た目の”美醜”によって”優遇”されたり”冷遇”されたりすることが「当たり前」という、一般的な常識を逸した理不尽な世界なのであります。そういう業界で頂点まで上り詰めたカリーヌ・ロワトフェルドという女性の本質は、プロモーションのようなドキュメンタリー映画で明らかにされるなんてことは・・・絶対に「ない」のです!


「マドモアゼルC ファッションに愛されたミューズ」
原題/Mademoiselle C
2013年/フランス
監督 : ファビアン・コンスタン
出演 : カリーヌ・ロワトフェルド、ステファン・ガン、カール・ラガーフェルド、トム・フォード、ドナテラ・ベルサーチ、ダイアン・フォン・ファステンバーグ、アレクサンダー・ワン、ジャン=ポール・ゴルティエ、ジョルジオ・アルマーニ、アルベール・エルバス、ブルース・ウェーバー、リンダ・エバンンジェリスタ
2014年5月9日より日本劇場公開



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2014/04/02

加害者が大虐殺を演じてみせるドキュメンタリー映画・・・たとえ作為的であっても人間としての”良心”を引き出すのだ!~「アクト・オブ・キリング/The Act of Killing」~



世界的に殆ど知られていなかった1965年から数年間に行なわれた100万人とも200万人ともいわれるインドネシアの大虐殺の真実に迫った「アクト・オブ・キリング/The Act of Killing」は、被害者からの証言ではなく、加害者が大虐殺の様子をカメラの前で演じてみせるという前代未聞の手法のドキュメンタリー映画であります。

当時、インドネシア共産党を支持基盤の一部として容認していたスカルノ大統領(デヴィ夫人は第三夫人)は軍事クーテダーで失脚してしまうのですが、アメリカや日本は共産党員へ行なわれたと言われていた大虐殺を黙認・・・意図的に証拠を残さないように民間人によって実行させた大虐殺の実体を、世界が知ることはなかったのです。現在でも大虐殺を行なった側が政権を握っているので、加害者は”英雄”扱いされています。ジョシュア・オッペンハイマー監督は、もともとは被害者を取材しようと試みたそうなのですが、当局から禁止されて断念・・・そこで発想を転換して、加害者を取材したのです。


本作が追うのは、当時、映画のダフ屋をしていた”チンピラ”だったアルワル・コンゴという人物・・・大虐殺の実行部隊のリーダーで「パンチェシラ青年団」(現政権の政治団体)の”英雄”として、二人の孫のいる”おじいさん”であります。殺害した当時の様子を、鼻歌まじりに踊りながら意気揚々と語る姿は、言葉にならない違和感を感じさせます。人間って、自らが行なった殺人行為に罪悪感を感じることなしにいられるものなのでしょうか?殴り殺すよりも、針金で首を絞めて殺す方法の方が効率的だった・・・と自慢げに演じてみせる様子は、気持ち悪さを超えて”滑稽”にさえに見えてくるのです。


ジョシュア・オッペンハイマー監督は、アルワル・コンゴと彼の仲間たちにカメラの前で、大虐殺を演じてみないかと持ちかけます。アメリカ映画が好きなアルワル・コンゴは、これは自分たちの行なった英雄的な行為を、世界の人々に見せる良い機会になると、喜んでオファーを受け入れるのです。そこで「パンチェシラ青年団」の劇団で演劇経験もあるヘルマン・コトを中心に、加害者と被害者のどちらも再現することになります。このヘルマン・コトという人物のキャラクターが、とても強烈・・・暴力的で倫理観に欠けていながら、女装好きのデブで醜男という支離滅裂さなのです。彼にとっては、必死に命乞いをする母親の姿さえも笑い話・・・無秩序の中で殺されていった被害者の心を全く理解できていません。ただ、政府の中枢となっていった加害者の一部の人々(アディ・ズルカドリ、イブラヒム・シニク)は、どこかで罪の意識を分かっているようでもあり・・・その発言も保身的というところが、実は恐ろしいことなのです。

ここからネタバレを含みます。


インドネシアの大虐殺の事実は、どのように解釈しても”正義”として正当化されるべきことではなく・・・また、おもしろおかしく冗談として笑うようなことでもありません。しかし、本作で演じられる稚拙な再現は、その最悪さとは反比例して、滑稽でしかないのです。滝を前にして歌い踊るミュージカルシーンで、殺された人たちが「私たちを殺して頂きありがとうございました」と、手を合わせて虐殺者へ感謝をするという発想は、常人の倫理を超えたジョークにしか見えません。それでも、再現しているうちにアルワル・コンゴの心境にも、少しづつ変化が見え始めます。被害者を演じている時、自分が殺した人々の恐怖を感じられたと、アルワル・コンゴは言い始めるのです。すかさず、ジョシュア・オッペンハイマー監督は「本当に殺された人は、もっと恐怖を感じていたはず」と、彼を諭します。ただ、孫たちに自分の怯えるシーンを見せたりして、彼がどこまで罪悪感を意識的に認識しているかはハッキリとはしないのです。


映画の終盤、針金で首を絞めて殺害していた現場に再び戻ってきたアルワル・コンゴ・・・以前は、鼻歌まじりで殺人方法を語っていましたが、再現で被害者を演じて何かを気付き始めた彼は、平常ではいられません。まるでカラダの中から何かを押し出すように嘔吐し始めるのです。しかし嘔吐物などはなく、ただこの世のモノとは思えない「オエェ~」と繰り返す嘔吐の音だけ・・・人間の肉体が、行なった罪の深さに耐えきれずに、何かを吐き出そうとしているようです。その嘔吐の音は、トラウマとしてボクの耳に残っています。


本作は最後の最後で、人間としての”良心”を取り戻したアルワル・コンゴに救われるようなところはあります。このような告発映画の出演後、英雄から殺人者へとなってしまった彼が、どのように暮らしているのかは想像するしかありません。彼にとって過去の行為に罪悪感を感じるということは、大虐殺を肯定している現政府の根本を揺るがすということなのですから・・・。殺人者としての罪を彼に問うということは、それを実行させたインドネシア政府だけでなく、国際的に黙認したアメリカや日本などの責任を追求していくことに他なりません。

本作は、インドネシアの闇歴史の「パンドラの箱」を開けたというだけでなく、ドキュメンタリー映画の手法そのものにも問題を投げかけます。加害者に事件を再現させることにより、意図的に加害者の罪悪感を導いたのではないかという演出を否定することができません。編集により、加害者の感情を演出しているような箇所もいくつかあります。ドキュメンタリー映画というのは、制作者の意向に添って事実が再構築されていることは避けられないことですが、本作は何としてでもアルワル・コンゴという人間から”良心”を引き出そうとして、ドキュメンタリーという枠を超えて作為的になってしまっていることも、正気否めないのです。

本作とは全く関係ない話ですが、ジョシュア・オッペンハイマー監督は、日本人のボーイフレンドがいる「ゲイ」・・・だからといって”同性愛”にこだわらず人権問題に取り組む姿勢は、性的な嗜好によって作家性というのは制限されないことを、証明しています。


「アクト・オブ・キリング」
原題/The Act of Killing
2012年/デンマーク、ノルウェー、イギリス
監督 : ジョシュア・オッペンハイマー
出演 : アルワル・コンゴ、ヘルマン・コト、アディ・ズルカドリ、イブラヒム・シニク
2013年10月12日、13日山形国際ドキュメンタリー映画祭にて上映
2014年4月12日より日本劇場公開

 

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