2013/12/18

”リアルワールド=現実”の歳月は残酷なもの・・・二匹目のドジョウ狙いの残念な続編!?~「キック・アス ジャスティス・フォーエバー」~



ある映画がヒットすると続編が製作されることはよくあること・・・ただ、多くの続編は第1作目を超えることなく、二匹目のドジョウ狙いの残念な続編ということになってしまうこともあります。3年前に公開された「キック・アス」は、スーパーヒーローに憧れるオタク少年が、試練を乗り越えて成長するという”王道”のストーリー展開でありながら、パートナーとして一緒に戦う11歳の少女”ヒットガール”がメチャクチャ強くて、悪者をバタバタぶっ倒すという斬新な一作でありました。ヒットガールを演じたクロエ・グレース・モレッツは、この作品で大ブレイクし、子役からティーン女優へと成長しました。

ここからネタバレを含みます。


「キック・アス」の続編となる「キック・アス ジャスティス・フォーエバー/Kick-Ass 2」は、原作コミック(ボクは未読ですが)では、第1作の直後の物語として描かれているらしいのですが、映画では、撮影期間のギャップと同じ4年後の物語となっています。クロエ・グレース・モレッツを始め、キックアス役のアーロン・テイラー=ジョンソンや、敵役を演じたクリストファー・ミンツ=ブラッセらの若い出演者たちにとって、この4年という歳月はある意味、残酷な時の流れでありまして・・・第1作目の大きな魅力であった”お子様”感を完全に失わせてしまうものだったのです。また、前作では過剰なまでのスプラッター描写が見物でしたが、アメリカでは非難も多かったようで、続編である本作では、かなり控え気味・・・そのため、単にキャラクター設定をなぞっただけの、凡庸なコミックヒーローものになってしまったように感じます。

デイヴ=キックアスは、前作で出会った恋人と同棲していたり、鍛えてマッチョになっていて、童貞のオタクキャラを脱皮して、確実に”オトナ”になっています。再びキックアスとなってコスプレのヒーロー集団に参加することなるのです。この「ジャスティス・フォーエヴァー」という集団でリーダー的な存在が、ジム・キャリー演じるカーネルというキャラクターで、明らかに前作のビッグダディの立ち位置を引き継いでいる役柄・・・そして、前作のビッグダディ同様に彼は惨殺されます。特殊メイクでを変形させている上に、マスクをしっぱなしなので、ジム・キャリーとはすぐに気付かないほどの怪演・・・ただ、この手の役柄を演じるには、ジム・キャリーが少々年取ったと思ってしまったのはボクだけでしょうか?さらに本作ではキックアス君の父親も殺されてしまうのですが、戦わなければならないモチベーションを上げるために、そこまで悲惨に追い込む必要ってあったのかは疑問に感じたところです。

本作では、前作の悪者のマフィアのボスの息子クリス=レッド・ミストが、ザ・マザーファッカー(悪そうなネーミングとしては小学生レベルな気がします)となり”悪者集団”を作って対抗してくるのですが、ヒーロー集団VS.悪者集団の戦いという”設定”ありきな展開・・・とは言っても、ザ・マザーファッカーというキャラの悪役としてのカリスマがなさ過ぎということもあるのでしょう。本作では髭面になって”ヒール役”っぷりをアピールしてみても、単に小汚くしか見えません。

ミンディ=ヒットガールは15歳になり、普通の高校生として女子らしい悩みも抱えるお年頃・・・派手でセクシーなイケイケの女の子グループにイジメられて、リベンジで大人っぽく大変身してみたりします。このあたりのエピソードは、アメリカのティーン向けのテレビドラマや映画で腐るほど描かれている展開・・・幼いときから人間兵器として訓練されてきたヒットガールも随分と俗っぽくなったもんです。勿論、かつてのパートナーであったキックアス君と再び組んで、ザ・マザーファッカー率いる悪の集団と戦ったり、マザーロシアという巨大な怪力ロシア女というライバルが登場するとかは、お約束の展開であります。


ヒットガールの魅力は11歳の子供(ガキ)が、大人たちをバタバタと倒していったこと・・・クロエ・グレース・モレッツが”子役”から成長するのは当然のことなのですが、ヒットガールというキャラクターの根本的な要素を、演じる役者の年齢に一致しなければいけなかったことは、続編として失敗作(?)となることを運命づけられていたのかもしれません。ただ、続編を製作するために、現在の映画製作のシステムでは数年経ってしまうのは当たり前・・・仕方ないことといってしまえば、そうなのですが。

前作では”マフィア”という”リアルワールド=現実”の悪者の存在が、ある意味、悪ふざけのようなコスプレヒーローという存在を際立たせていました。ヒットガールのコスプレにしても、カツラの安っぽかったり、マスクが大き過ぎて微妙にズレていたり・・・コスプレの完成度の低さの”お子様”感が、ボクにとってはまさに”ツボ”だったのでした。誰も彼もがコスプレであることが前提になってしまった本作では、コスプレのコミックヒーローものに対する皮肉も薄らいでしまったのです。

キックアスシリーズは、3部作で完結と原作者のマーク・ミラーが明言していて、すでに「キックアス3」となる映画の続々編の企画もあるらしいのですが・・・原作者がわざわざ「完結」と言い切るのには、どうやら登場人物がみんな死ぬという衝撃的なもの。コスプレのヒーローごっこの結末は必ずしもハッピーエンドではないということを表現しようということです。ただ、出演する役者たちは年々年を取ってしまうわけで・・・キックアスシリーズそのものが、まさに”リアルワールド=現実”の厳しい年月の流れに晒されていることは、確かなのかもしれません。


「キック・アス ジャスティス・フォーエバー」
原題/Kick-Ass 2
2013年/アメリカ、イギリス
監督&脚本: ジェフ・ワドロウ
出演   : クロエ・グレース・モレッツ、アーロン・テイラー=ジョンソン、クリストファー・ミンツ=ブラッセ、ジム・キャリー
2014年2月22日日本劇場公開



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2013/11/20

禊(みそぎ)なしでは”沢尻エリカ”には普通の娘役なんて許されない?・・・「ぴったんこカン☆カン」番宣出演で垣間見せた”嫌われ者の美女ゆえ”の自虐で「笑いもの」になることが完全復活への道なのかもしれない~TBSドラマ「時計屋の娘」~



「悪女について」から約1年半ぶりとなる沢尻エリカ主演のテレビドラマ「時計屋の娘」が放映されました。放映前の数日間は番宣のために、久しぶりにTBS系のバラエティ番組に出演もしていましたが、扱いは”特別枠”というわけでもなく・・・以前と比べて「エリカ様のテレビに出演」の”ありがたみ”は、随分となくなってしまった気がします。なんだかんだで高城剛と離婚をすることもなく・・・といって仲睦まじいという報道もなく、世間はエリカ様の私生活にも、だいぶ興味を失ったようにも思えるほどです。

映画「クローズド・ノート」の舞台挨拶での無愛想っぷりで叩かれた「別に」騒動は、すでに6年前(2007年)の話・・・しかし、そのことは世間は容易く忘れてはくれません。「パッチギ」「1リットルの涙」などに代表される清楚で純粋な役柄のイメージに関わらず、時々垣間みせる女王さま的なキャラと歯に衣着せぬ気の強そうな発言の数々で、徐々に世間にも”素”の沢尻エリカと役柄のイメージの落差を、世間が徐々に気付き始めたころ・・・「別に」騒動は、沢尻エリカの人としての評価を決定的にしてしまいました。沢尻エリカ程度に性格の悪い若手女優なんて他にもいるはずだけど、上手に”素”の悪さを隠して、表向きは”気さくで良い人”っぷりを演じてみせているだけ・・・”素”がバレてしまうほど、沢尻エリカは「正直」なだけだったのかもしれません。


芸術祭参加作品として制作された「時計屋の娘」は、いかにも”丁寧な作りのテレビドラマ”風であります。石巻で美容院を営んでいた母親を東日本大震災の津波で亡くした宮原リョウ(沢尻エリカ)が、ある日突然、埼玉のシャッター商店街の外れで時計屋を営む秋山守一(國村隼)の前に、ヴィンテージの”ロンジン”の腕時計を修理して欲しいと現れます。実は、その腕時計は若き日の秋山(中村勘九郎)の恋人であった国木知花子(中村文乃)にプレゼントしたものであったのです。実は、母親が保証人となって背負わされた500万円の借金の取り立て屋に追われているというリョウ・・・もしかすると、秋山は自分の父親ではないかと言い出すのであります。秋山はスイスへ時計修理の留学に行けるかもしれない・・・という下心から、上司の娘とデートをしたことをきっかけに、知花子と別れてしまっていたのですが、もしかすると、その時に知花子が妊娠していたとしたらリョウが自分の娘かもしれないのです。そうでないとしても、リョウは秋山が愛した女性の娘であることは確かであります。回想シーンとなる25年前というのは平成元年(1988年)・・・”職人気質”というのが尊重された「昭和」というよりも、バブル経済へ突入していくイケイケな時代だったわけで、当時を知る世代にとっては、本作の”古き良き時代的演出”の違和感は拭えませんでした。

”親子”かもしれない職人気質の気難しい男性と彼の娘と名乗る若い女性との”奇妙な共同生活”というのは、どこかにありそうな設定の物語です。國村隼は、そんな典型的なキャラクターを淡々と演じていますが、沢尻エリカは、「別に」騒動以前のイメージに戻るような”清楚な娘役”といったところで、それなりの気迫を感じさせます。映画「へルタースケルター」とは違って熱量はかなり少ないとしても、役柄のキャラクターが乗り移ったように演じるのが沢尻エリカならでは・・・素顔に近い薄いメイクや、垢抜けない衣装のおかげではなく、騒動の時の憎々しげな表情を見せていた人物とは、まるで別人にしか見えません。町内に住む若者の花村司を桐谷健太が演じているのですが、テレビドラマでよくあるパターンの絡み方・・・ただ、秋山と知花子の思い出のケヤキの木を守る運動を始めたり、秋山とリョウが本当に親子がどうかをDNA検査を奨めたりと、物語は花村が介入することで展開していくことにはなります。しかし、リョウにキャバクラのバイトを紹介するための”フリ”だけのためだけに、午前中は”植木屋”として働き、昼間は”ホスト”をしているという設定は、必要だったのでしょうか?

ここからネタバレを含みます。


秋山は、キャバクラでバイトしないように説教したり、追ってきた取り立て屋に直談判したりと、リョウに対して父親のような気持ちを感じ始めるようになっていきます。また、リョウも心を許して身の上話をするようになるのですが・・・彼女の身の上話によると、随分といい加減な女だってことも分かってくるのです。確かに500万円の借金というのは、結構な金額ではありますが・・・沢尻エリカほどの美人だったらキャバクラで働けば、なんとか返せそうな金額ではあります。なんだかんだと言い訳をして、どんな仕事も長く続けられない若い女が、自分の父親かもしれない男に頼っているだけじゃないか・・・と、ボクは感じてしまいました。

ただ、秋山もリョウの借金を自ら背負うほど浅はかではないようで・・・彼女の母親の形見であるロンジンの腕時計を、ヴィンテージの腕時計のコレクター(小林稔侍)に売って、借金を返そうと提案します。案の定、コレクターはロンジンの腕時計を借金とピッタリ同じ500万円で買い取ると言い出してくれるのですが、その腕時計をプレゼントされる若い愛人が、腕時計のデザインが古臭いなどと文句タラタラ・・・ベルトを交換することで商談は成立するのですが、母親の形見の腕時計に散々ケチをつけられたリョウは「あの人には売りたくない!」と言い始めます。しかし、すぐに500万円を用意出来なければ、再び取り立て屋が秋山の店にやってきてしまう・・・リョウは夜逃げすることにするのです。

夜逃げするという状況の中、唐突にDNA検査の結果が判明します。これほどの個人情報が依頼主であるリョウ本人でなく、仲介者(?)であろう花村に伝えられるというのはありえない事のはずなのですが・・・何故か本作では、検査結果は花村から秋山にだけ伝えられます。ここで、秋山とリョウは親子ではなかったということがハッキリします。しかし、秋山はあえて、その事実をリョウにはすぐ伝えずに、リョウの故郷への戻る”夜逃げ”に付き合うのです。借金を返して、また秋山の暮らす街にリョウが戻ってきた時に、DNA検査の結果は伝えれば良い事だとして・・・。さらに辻褄が合わないのは・・・夜逃げの道中、木に興味があるからという安易な理由で、リョウは花村に植木屋の仕事を教えて欲しいと唐突に言い出すことです。これから謝金の取り立て屋たちから身を隠さなければならないというのに、どうやって仕事を覚えていくのでしょうか?

リョウ、秋山、花村の三人は、津波に流されたリョウの母親の美容室があった石巻を訪れます。震災後2年半以上経っても建物のない風景を見せられると、反射的に心が痛みますが・・・感動を生むために津波の被害を利用しているかのようでもあり、リョウの母親が津波で亡くなったという設定にする必然性はあったのだろうかと感じてしまいました。別に死別の理由が病気でも事故でも物語としては成立するのですから。石巻にも秋山の街にあったようなケヤキの大木があり、その木の下でリョウは秋山に時計屋を続けて欲しいと伝えます。「一日に一人、一週間に一人のためのお客さんのために」という台詞の一字一句は、観ていて予測のつくほど使い古されたドラマの言い回しであります。

本作は、この夜逃げから2年後、まだ時計屋を続けている秋山の目の前に、借金を返しきったらしいリョウが現れるところで終わります。その後の2年間の経緯を省いて、ただ再会する二人を姿を見せるだけという・・・観てくれた視聴者に解釈は委ねるという陳腐なエンディングです。DNA検査を依頼しておきながら、その結果も知らずに2年間リョウが過ごしてきたということなのでしょうか?父親だと思って秋山の元に戻ってきたと思われるリョウに、実は親子ではないことを伝えるのでしょうか?清々しいエンディングというよりも、なんとも不穏な気分にさせられました。秋山とリョウの人生が再び動き出すところを修理して動き出す母親の形見の時計に重ねたり、25年前の思い出と彼らを見守るようなケヤキの大木が繰り返し出てくる場面など・・・芸術祭参加作品らしいテレビドラマの作りを感じさせますが、逆に古臭さを感じさせてしまうのは否めませんでした。


1年半前のTBSドラマ「悪女について」でも、本来は富小路公子が主人公のはずだったのですが、船越英一郎が物語の主人公になっていました。今回も「時計屋の娘」は沢尻エリカ主演作として宣伝されてはいますが・・・実は、國村隼演じる秋山が本作の主人公です。物語を語る視点ではない役どころというのが、沢尻エリカ本人のイメージと役柄のイメージを分離させたいという作り手側の思惑なのかもしれません。ただ「別に」騒動以降の”素”のイメージの悪さを完全に払拭することは、沢尻エリカに好意的なボクでさえ難しく・・・女優としての評価はさておき、安定感のある”嫌われオーラ”は、そう簡単には消えないようです。

週刊誌やワイドショーに叩かれるだけでなく、本来であれば最も女優として輝ける20代という時期を、半ば”干された”ような状態で過ごさなければいけないということは「勿体ない!」のひと言に尽きます。女優として仕事をしないというのは、十分すぎる制裁であるとは思うのですが・・・「へルタースケルター」で”素”の悪いイメージを誇張したよう”りりこ”を演じても、「悪女について」で美貌の”富小路公子”を演じても、「時計屋の娘」で質素で”普通の娘”を演じても、沢尻エリカ本人のイメージは、そう簡単には変わらないようです。

キレイな女優さんというのはいるけれど、その中でもダントツの美しさの沢尻エリカは、日常生活に於いて一般人と全く同じように他人から扱われることというのはないと思います。外見によって態度を変えることは正しいとは思いませんが・・・”ブス”が一般的な女性とは違う扱いを受けるように、”美女”というのも違う扱いを受けます。一般人からすると良い事しか思いつきませんが、決して良い事ばかりではありません。例えば、美女が本人の努力で何かを成し遂げても、男性の力が関与したと思われがちですし、女性から嫉妬されたり理由なく嫌われることも多々あります。男性からは、内面性よりも外見で”しか”評価されないことも日常的です。美女にとってご機嫌を伺われることは日常茶飯事のこと・・・ブスが敬遠されて不機嫌になるのと同じように、美女は美しさ故に特別扱いされることに対して不機嫌になるのです。そういう特別扱いに不機嫌になる美女というのは、人を外見で判断する世間に苛立っているということに他なりません。そう考えると・・・沢尻エリカの仏頂面というのは、彼女が「外見で人を判断する」風潮に対抗している”まっとうな人”であるという証(あかし)なのかもしれないと思えてもくるのです。

本人的には「世の中の人にどう思われよとも関係ないので、女優として仕事を見事にこなして見返してやる!」という心境なのかもしれません。しかし、こういう”しおらしさ”のない開き直りが、逆効果で嫌われてしまうというのも、イカニモ”沢尻エリカ”らしい悪循環なのであります。ただ、世間の声を気にして、猫をかぶってみたところで、さらなる非難を受けることは明らか・・・結局、本性がバレてしまったからには、本人からの弁明の余地というのはないのかもしれません。

世の中が沢尻エリカの完全復活を許すためには、ある種の禊(みそぎ)が必要なのではないでしょうか?しかし、本業である”女優”という仕事の範疇では、どれほど蔑まされても、汚れ役をやろうとも、結果的に女優としては”おいしい”わけで・・・禊にはなりません。といって「いい子ちゃん」を見事に演じきったとことで、好感度が上がるわけでもなく、逆に「さすが女優、騙すのが上手い」とかしか思われないのですから。極論を言わせてもらえば・・・沢尻エリカが、女優としての”プライド”を捨てた姿を見るまでは、世間が完全復帰を許すことはないのかもしれません。

禊のひとつ方法は、バラエティ番組などで”素”の沢尻エリカが「笑いもの」になるということ・・・ただ「実は、天然」とか「結構、親父っぽい」とか、そんな女性タレントにありがちの笑われ方では、逆効果になるでしょう。番宣で生出演した「王様のブランチ」で、撮影中に四葉のクローバーを探して喜んでいる様子をアピールしたところで「かわいい~」と反応してくれるのは、収録スタジオでだけ・・・演出や共演者の気遣いを感じさせてしまいます。また、「A-Studio」での、鶴瓶の「意外に親父やな?」というツッコミも、想定内のイジり方で白々しくしか感じられません。「笑いもの」になるということは、本人的には”不本意”に笑われなければならないのです。


11月15日(金曜日)放映の「ぴったんこカン☆カン」は、沢尻エリカを安住紳一郎アナが、都内周辺のお店や施設を巡って”おもてなし”をするいう企画でした。数年前、ワイドショーで騒がれていた時期ならば2時間スペシャルにでもなりそうですが、今回は前半の3分の1は吉行和子と冨士真奈美の成田山の旅という2本立て・・・”番宣”の出演とはいっても”ありがたみ”のなさを感じさせる扱いでありました。扱いにくそうなゲストを上手に立てつつ、意地の悪いツッコミで転がしてしまう安住紳一郎アナは、エリカ様が他の番組の番宣では見せることのない女王様キャラの奥底にある”素直さ”や”痛々しさ”を引き出しつつ・・・絶妙に「笑いもの」にしていきます。


「機嫌悪いですか?」と下手に出るように見せかけて、表情の硬いエリカ様をイジることからスタート。最初の訪問先の中華街では、腕を組むエリカ様に対して「腕組むから機嫌悪そうに見えるんですよ~」と安住アナが指摘すると、意外にも素直に、腕組まないように努力をするエリカ様・・・しかし、手の置き場に困ってコートの襟を両手でガッシリと掴むという奇妙なポーズに、すかざす安住アナはツッコミ、「ヒーヒー」とヒステリックに笑うのです。負けず嫌いなエリカ様を弄ぶように、安住アナが意地悪くイジり、エリカ様が自虐的なカエシを繰り返す・・・最初よそよそしさを感じさせたエリカ様も、次第にタメ口調で安住アナに反論するようになります。表情からも次第に緊張感が薄れてくるのが、番組が進むうちに感じられました、「自然体でいる」と開き直りながらも・・・時折、エリカ様の瞳に見え隠れする「どうせ私は嫌われ者だから」という”あきらめ”のような痛々しさに、ボクは淡い「同情」を感じると同時に、少々サディスティックな「満足感」も味わったのでした。


番組の最後、「別に」の一言を生でぜひ聞きせてくれ・・・という安住アナの”無茶ぶり”には、さすがにエリカ様も応じませんでしたが、騒動から6年以上も経った今、エリカ様が完全復活するために必要なのは、謝罪や弁明でも、優しいフォローでもなく、自虐的に開き直ってみせるエリカ様を、安住アナのように意地悪~く「笑いもの」にする空気なのかもしれないと思うのです。

「時計屋の娘」
2013年11月18日TBSテレビ系放映
出演 : 沢尻エリカ、國村隼、桐谷健太、中村勘九郎、木村文乃、小林稔侍


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2013/11/01

ニコラス・ウィンディング・レフンとライアン・ゴスリングのタッグ再び!・・・"変態兄弟"と"鬼母"と"カラオケ警部"のバイオレント・アートフィルム~「オンリー・ゴット/Only God Forgives」~



今年のカンヌ映画祭で上映された際、大ブーイングで不評だったと聞いていたニコラス・ウィンディング・レフン監督の最新作品「オンリー・ゴッド/Only God Forgives・・・前作「ドライヴ」のような”暴力のカタルシス”を求めてしまうと期待はずれかもしれません。本作はイチゲンさんお断り”のレフン好みの映画的ディテールやスタイルを詰め込んでいるのですから。

「ドライヴ」と同じく濃い色(赤と青)の照明、現代音楽によるアンビアントな雰囲気は、引き継いでいます。また、デヴィット・リンチ監督の「ブルーベルベット」を思い起こさせる異常な性癖、デヴィット・フィンチャー監督の「ファイトクラブ」に似たアンダーグランドの世界、スタンリー・キューブリック監督の「シャイニング」よりもスローに蠢くカメラ・・・など、レフン監督作品に共通している、好きな映画監督のスタイルのサンプリングも継承されています。なお、本作はカルト映画監督として今「旬」な”アレハンドロ・ホドロフスキー監督に捧ぐ”となっています。

「ドライヴ」と本作の大きな違いは、観客が同化できるヒーロー的キャラクターが不在なこと・・・現実と妄想の入り交じった映像で語られる物語は非常にシンプルなのですが、物語を引っ張っていくサスペンス要素も、登場人物たちの内面的な蓄積によるカタルシスも希薄なのです。それ故に本作は、レフン調の映像を楽しめないと、厳しい見方になってしまうのかもしれません。


ジュリアン(ライアン・ゴスリング)と兄のビリー(トム・パーク)と共に、バンコクで表向きはムエタイのジムを経営しながら、裏では麻薬ビジネスを運営しています。ビリーは”サド”で”ペドフェリア”というド変態で・・・ある夜、タイ人少女をレイプして殺害してしまいます。バンコクを仕切るチャン警部(ウィタヤー・バーンシーガーム)は、犯行現場に殺された少女の父親を連れてきて、父親にビリーを殺させてしまうのです。その後、自分の娘に売春させた父親の罪を罰するために、父親の片手を切り落すのです。タイトルの「Only God Forgives=神のみ許し給う」の「God=神」はチャンということなのであります。

ジュリアンは、ガールフレンドのマイ(ウィーラワン・ボンガーム)に両手を椅子に縛らせて、目の前でオナニーショーをさせるという”性的不能”で”マゾ”・・・寡黙なくせにキレると暴力的になるという相当イッチャてる奴のですが”マザコン”でもあります。ジュリアンとビリーの母親(クリスティン・スコット・トーマス)が、ビリーの遺体を引き取りにバンコクへやってくるのですが、この母親は、さらにイッチャている”鬼母”です。ひと昔前なら、アンジェリカ・ヒューストンがキャスティングされそうな役柄で、柔和なイメージのあるクリスティン・スコット・トーマスはなかなか怪演であります。

本国で犯罪組織を牛耳っているらしい母親は、兄の仇を討たないジュリアンをなじります。「ビリーだったら、即座にアンタの仇を殺してるわ!」とか、「兄弟ってくだらないことで争うものよねぇ・・・でも、ビリーのおちんちんの方が、ずっとデカっかたわ~」とか、母親としておかしいのです。それでも、ジュリアンのガールフレンドが「あなたのお母さん、おかしいわよ!」と悪口を言うものなら、烈火の如く怒るジュリアンは救いようのないマザコンなのであります。どうやら(ボクの推測も入ってます)この母親はビリーともジュリアンとも、性的な関係があったのではないでしょうか・・・そして、ジュリアンが犯罪組織の乗っ取りを狙う母親にそそのかされて父親を殺して、その罪から逃れるためにバンコクに逃げているということのようなのです。


母親は自分の手下によりビリーを殺した父親を殺害させるのですが、ビリー殺害の背後にチャン警部の存在を知ることになります。チャン警部も、自分に近づく影に近づいており・・・ジュリアンの存在を聞き取り調査していくなかで知っていきます。暴力描写は過激さを増していき、拷問、殺害による情報戦となっていくのですが・・・チャン警部は、残忍な立ち回りの後、必ずカラオケバーでタイで量産されているであろうポップソングを歌うのであります。これが「神」のように振る舞う彼の浄化行動なのでしょうか?

チャン警部は自分を襲ってきた殺し屋を捕らえて、雇い主である母親の手下を見つけ出します。その彼を拷問して、遂にジュリアンと母親の存在まで辿り着いてしまいます。チャン警部と遭遇したジュリアンは素手での喧嘩の決闘を申し込んで、自分の経営するジムで戦うことになるのですが・・・チャン警部が圧倒的に強く、ジュリアンは顔が腫れ上がるほどボコボコにされてしまいます。母親はジュリアンとタイ人の手下に、チャン警部の若い妻と娘を含んだ皆殺しを命令するのですが、時を同じにしてチャン警部は母親の滞在するホテルに乗り込んできます。そして、チャン警部は母親の喉をあっさり突き刺し殺害してしまいます。

ここからネタバレを含みます。


チャン警部の自宅に侵入したタイ人の殺し屋は、帰宅したチャン警部の若い妻を射殺するのですが、ジュリアンは娘を殺すことができません。結局、娘に銃口を向けるタイ人の殺し屋を、ジュリアンは殺害して、娘を救ってしまいます。指示された復讐さえも「不能」なジュリアンは複雑な思いで母親の待つホテルに帰宅するのですが、そこには血だらけのまま放置されていた母親の死体が残されています。母親の腹に手を滑らしていくジュリアン・・・彼のマザコンの原点は、自分が生まれた母親の子宮に戻るといくことだったのでしょうか?

ジュリアンは本作の中で、何度となく自分の両手を前に掲げるというポーズをとるシーンがあるのですが、ジュリアンは犯罪者(まずは父親を殺した殺人者)としての罪の懺悔することを望んでいたようなのです。その後、ジュリアンはチャン警部により、両手を切り落とされる幻想を見るのです。そして、チャン警部は再びカラオケバーの舞台に立ち、歌って本作は終わります。

復讐の連鎖による暴力と、幻想と現実の入り交じっ心象描写によって、ジュリアンの懺悔への過程を描いているのですが・・・ストーリーはあってないようなもの。レフン監督の世界観とビジュアルを楽しむアートフィルムなのであります。


「オンリー・ゴット」
原題/Only God Forgives
2013年/アメリカ、デンマーク
監督 : ニコラス・ウィンディング・レフン
脚本 : ニコラス・ウィンディング・レフン
出演 : ライアン・ゴスリング、クリスティン・スコット・トーマス、ウィタヤー・バーンシーガーム、トム・パーク、ウィーラワン・ボンガーム、ゴードン・ブラウン、ピタヤ・バンスリンガム
2014年1月25日より日本劇場公開


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2013/10/10

ジョーン・クロフォードの”マゾの女王様”っぷりが炸裂するナルシストな顔演技!・・・クラシックの名曲が過剰なまでに心揺さぶるメロドラマ~「ユーモレスク/Humoresque」~



「MGM」を離れて1943年「ワーナーブラザース」に移籍した直後は良い役をオファーされることのなかったジョーン・クロフォード・・・しかし、1945年「ミルドレッド・ピアーズ」(アカデミー主演女優受賞)、1946年「ユーモレスク」、1947年「失われた心」(アカデミー主演女優賞ノミネート)と立て続けに話題作に主演して、見事に演技派女優として”カムバック”を果たします。これら3作品はどれも、1930年代からワーナーブラザースの看板女優として活躍していたベティ・デイヴィスに最初オファーされた役だったそうなのですが、ベティ・デイヴィスが断ったため、ジョーン・クロフォードに廻ってきたというのですから、これらの作品の高評価は・・・もしかすると二人の女優のライバル心に油を注いだのかもしれません。

「ユーモレスク」は、有閑マダムとヴァイオリニストの若い男性との恋愛を描いたラブストーリー。小説や映画だけでなく、この組み合わせって現実にもよくある話・・・若い男性を経済的だけでなく、自らの社会的地位までも利用して成功へ導く年上の女性というのは、不幸な結末に陥る”鉄板”のシチュエーションと言っても良いかもしれません。最後は若い男に裏切られて孤独になる中年女性の悲哀なんてチープな不幸ではなく・・・本作は、ジョーン・クロフォードのナルシストな”顔演技”より、女王様キャラが”マゾ的快楽”に満ちていくという崇高なメロドラマとして成立させているのです!

ポール・ボレー(ジョン・ガーフィールド)といヴァイオリニストの演奏会が中止となり、ある苦悩を抱える彼が、子供時代からを振り返るというところから本作は始まります。マンハッタンでデリを営むユダヤ系の両親の元に次男として生まれたポールは、10歳の誕生日に雑貨屋でヴァイオリンをねだるのですが、父親(J・キャロル・ナイシュ)は高価すぎると買ってくれません。しかし、ポールに強い愛情を持つ母親(ルース・ネルソン)は、息子がやりたいならばと、即座にヴァイオリンを買い与えます。他の少年が野球で遊んでいる時にもポールは熱心にヴァイオリンの練習をするようになり、やがてコンサート・ヴァイオリニストを目指して音楽学校で学ぶようになるのです。同級生のチェリストのジーナ(ジョアン・チャンドラー)はポールを愛していて、両親公認の仲でもあります。その頃、世界恐慌が始まっていて家計は苦しくなるばかり・・・ポールの兄や父親は、ヴァイオリンの練習ばかりしているポールをなじるようになるのですが、ここでもポールの才能を信じて守ろうとするのは母親です。悩んだポールはピアニストの友人・シド(オスカー・レバント)に相談して、ラジオ番組で演奏する管弦楽団の仕事を得るのですが、自我の強いポールは指揮者と口論になり、即クビになってしまいます。独奏会をしたいポールは、シドの勧めで、有閑マダムのパーティーでヴァイオリンを弾くというアルバイトをすることになるのです。

映画が始まって約30分ほど・・・ここでやっと、ジョーン・クロフォードが演じる有閑マダム・ヘレンが画面に登場します。パーティーでポールが演奏するのは「ツィゴイネルワイゼン」・・・そのヴァイオリンの音に、数人の若い男達に囲まれていたヘレンは、すぐ反応します。ヘレンは離婚2回の後、ヴィクター(ポール・キャパナー)との3度目の結婚により玉の輿にのった美女・・・デカ過ぎるショルダーパッドのドレスが威嚇するかのようです。今でいう典型的な「肉食系のクーガー女」のヘレンは、ヴァイオリンを弾くポールを舐めるように観察し始めます。ポールを侮辱して挑発するヘレンに、皮肉で返すポール・・・そんなポールの強気の態度こそが”才能の証”とばかりに満足そうな表情を浮かべるヘレンは、翌日にはポールの音楽活動に援助することを申し出るのです。

ヘレンの負担で、業界で力のある音楽エージェントのバウワー(リチャード・ゲインズ)に依頼して、ポールの独奏会を開催させます。開場にはそれほど客が入らなかったもの、「ユーモレスク」を演奏したポールは、各紙の評論家に”天才ヴァイオリニスト”として評されます。やっと”コンサート・ヴァイオリニスト”への夢が叶ったと大喜びのポールの家族なのですが・・・母親だけは、ヘレンに対して不信感を隠せません。2度もの離婚をしているヘレンよりは、ジーナのような普通の女性と家庭を築いて欲しいと願うのは、当時の母親としては当たり前の感情かもしれません。また、音楽的な援助以外に、ヘレンがポールに対して特別な関心を持っていることを母親だけは気付いていているのです。

スーツの新調するためにテーラーへポールを連れて行ったヘレンは、彼女の趣味で生地を選ぶのですが、それに反抗するポール・・・彼の選ぶ生地はグレーのストライプという品のない生地だったりします。パトロンとしてヘレンを利用しながらも、決してヘレンの”いいなり”にはならないのは、”若いツバメ”のように見られることに対してのポールなりの微かな抵抗なのかもしれません。ヘレンがポールを著名な指揮者であるフガーストロン(フリッツ・ライバー)に紹介したことにより、ポールは演奏旅行に忙しい日々を過ごすようになります。そこで休養のために、ヘレンは海辺の別荘にポールを誘うのですが・・・遂にポールは、ヘレンの誘惑に負けてカラダの関係を結んでしまうのです。久しぶりにジーナと会うと、自分のヴァイオリニストとしての野心のためにヘレンからの援助を受け続けて関係を結んだ自分に嫌気がさすと同時に、ジーナに対する気持ちも失っていないこともポールは感じるのです。勿論、そんなポールの心の動きを無視するヘレンではありません。嫉妬心を燃やして、すぐさまジーナを牽制してしまいます。


本作では、ポールを軸にヘレンとの三角関係が3つ描かれます。ひとつはポールの母親とヘレン、もうひとつはジーナとヘレン、そして・・・音楽とヘレンであります。中盤の山場・・・「スペイン交響曲」が演奏されるのですが、三人三様の思惑が曲と共に台詞なしで描かれます。ヴァイオリンを演奏するポール、客席にいるポールの母親、その隣に座るジーナ、そして舞台袖のボックス席にひとりで座るヘレン・・・旋律の盛り上がりと共に、カメラはヘレンの顔にアップしていくのですが、その表情は、まるでセックスをしているかのようなエクスタシーの”顔演技”です。ポールとヘレンが交わす視線と表情に、二人の関係を確信してしまったジーナは堪らず会場を後にして、嵐のなか外へ飛び出してしまいます。ポール、ヘレン、ジーナの三角関係は、こうしてジーナが退くことで終わるのです。ヘレンの計らいで、イーストリバー沿いの新しいアパートメントに引っ越すことになったポール・・・部屋に置かれた写真立てには、家族写真と共にヘレンの写真が飾られています。ヘレンとの関係を非難する母親に、ついに楯突くポール・・・ポール、母親、ヘレンの三角関係も、ポールが母親を断ち切ることで終わってしまいます。

それまで見て見ぬ振りをしてきたヘレンの夫・ヴィクターは、ヘレンの気持ちが自分に向くことはないと遂に悟り・・・離婚しても良いと告げます。これでポールと結婚することもできると・・・ヘレンはリハーサル中のポールを訪ねて「大事なニュースがある」とメモを託します。練習中であっても自分を優先してくれると思い込んでいたヘレンだったのですが・・・ポールはメモを一瞬見ただけで練習を中断することはありません。自分の援助のおかげでヴァイオリニストとして成功させてやったという思いと、女性としての美貌と魅力があるという絶大な自信が打ち砕かれてしまいます。ポールが何よりも音楽を愛していることを確認したヘレンは、酒場に逃げ込んで飲んだくれるのです。酒場の歌手ペグ・ラ・セントラが歌う曲がヘレンの心を表しているかのようで・・・ここでも、音楽が物語を語る役割をしています。

ここからネタバレを含みます。


ポールは泥酔しているヘレンを酒場から自分のアパートに連れて帰り、ヘレンがヴィクターと離婚することを知ります。そして、改めてヘレンに愛を誓ってプロポーズをします。不純に思われたヘレンとポールの関係も、”結婚”でハッピーエンドになるのかと思いきや・・・ポールの実家を訪ねてきたヘレンに対して、母親は「酒に溺れるようにポールに溺れているだけ・・・ポールの愛は音楽だけです」と言い切って最後の反撃をするのです。コンサートホールに行くはずだったのですが、ポールの心は音楽が独占していると再度確信したヘレンは、海辺の別荘に留まり、ラジオの生放送でポールの演奏を聞くことにします。「トリスタンとイゾルデ」の演奏を聞きながら、ヘレンは取り憑かれたように浜辺へ向かうのですが・・・黒のシークエンスが輝くイブニングドレス姿で早足気味に波打ち際を歩くヘレンの姿は、なんともシュールです。別荘から離れても、ヘレンの頭の中で音楽は流れているかのようで・・・盛り上がる旋律に、恍惚の表情を浮かべながらヘレンは海の中へ入っていきます。

「トリスタンとイゾルデ」のように、ポールは後追い自殺をするわけではありません。彼はヘレンの援助によって築いたコンサート・ヴァイオリニストという地位にしがみつき、これからの人生をつまらなく過ごしていくことを暗示するかのように、誰の姿も見えないニューヨークの街を一人トボトボと歩くポールの後ろ姿で本作は終わります。利己的な愛し方しかできない”女王様キャラ”のヘレンによる”自死”という選択は、”マゾ的快楽”に満ちたナルシストな選択のように思えますが、本作は、その”快楽”を全面的に肯定しています。そんなヘレンの役柄は、当時40代となって”女優”としての盛りを過ぎたと思われていたジョーン・クロフォードと重なり、味わい深く感じられるのです。

「ユーモレスク」
原題/Humoresque
1946年/アメリカ
監督 : ジーン・ネグレスコ
音楽 : フランツ・ワックスマン
出演 : ジョーン・クロフォード、ジョン・ガーフィールド、オスカー・レバント、J・キャロル・ナイシュ、ジョアン・チャンドラー、ルース・ネルソン、ポール・キャパナー、リチャード・ゲインズ、フリッツ・ライバー、ペグ・ラ・セントラ
1949年日本劇場公開


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2013/10/04

”お蔵入り”していたのにはワケがある・・・天才ファッションデザイナーの内面を暴けなかった密着ドキュメンンタリー~「ファッションを創る男~カール・ラガーフェルド~/Lagerfeld Confidential」~



ファッションに興味がある人なら・・・「カール・ラガーフェルドの名前は知っていて当たり前!」と思うのは、今では古い考え方かもしれません。ボクがファッションに興味を持ち始めた1980年代前半には「フェンディ」と「クロエ」のデザイナーとして、すでに大御所だったカール・ラガーフェルドは、1983年に「シャネル」のデザイナーになり、翌年には自身のブランド「カール・ラガーフェルド」を開始しました。ある時期には4つのメゾンのデザイナー(シャネルのオートクチュールを含め1年に春夏、秋冬10のコレックションを発表)を務めたこともあり、1960年代から半世紀以上、御年80歳となった今でも現役・・・「シャネル」のプレタ・ポルテとオートクチュール、そして「フェンディ」のデザイナーとして活動し続けていることは”超人的”なことであります。

”ファッション・デザイナー”という括りの敷居が低くなった現在・・・流行を取り入れるのが得意なスタイリストだったり、ディテール修正や組み合わせの上手なエディターだったり、生産工場との調整に長けたコントラクターだったり、デザインをまとめるのがうまいディレクターだったり、定番のスタイルに特化したマニアだったり、古き良きを再生するのが好きなクラフターだったりと、ひと言で”ファッション・デザイナー”と言っても、”ファッション”に取り組む方向性は様々です。基本的にスケッチをベースに、実際の服をカタチにするスタッフとコミュニケーションを取っていきながら、デザインをしていくカール・ラガーフェルドは、オーソドックスな意味での”ファッション・デザイナー”と言えるかもしれません。だからこそ、いくつものメゾンを掛け持ちすることもできるわけですが・・・彼ほど器用に各メゾンごとにデザインの引き出しを使い分け、膨大な美術史や過去のファッションを組み入れ、さらに彼自身の個性さえも各メゾンに反映させているところが、まさにカール・ラガーフェルドが”天才”と呼ばれる由縁なのかもしれません。

さて、そんな天才カール・ラガーフェルドに密着したドキュメンタリー映画「ファッションを創る男~カール・ラガーフェルド~」が海外で公開されたのは、今から6年前の2007年のこと。カメラは約3年間ほどカール・ラガーフェルドを追ったということなので、おそらく撮影されているのは2003年から20006年だと思われます。何故、今になって日本で劇場公開という運びになったのでしょうか?

2000年代に入ってから、やたらファッション・デザイナーに関するドキュメンタリー映画が制作されるようになったような気がするのですが、これは1990年代以降、アメリカのケーブルテレビ局で数多くのファッション情報番組が放送されるようになり、所謂”ファッション・デザイナー”の存在が”セレブ”として認知されるようになったからかもしれません。”ファッション・デザイナー”のハイ・ファッションまでもが”情報”として流通するようになれば、ファッション的な商品を求める裾野が広がっていくので、ファスト・ファッションの需要が高まっていったことは無関係とは言えないのかもしれません。ハイ・ファッションとファスト・ファッションとの価格の格差が大きくなっていけばいくほど・・・ハイ・ファッションは服という”実体”よりも”情報”として消費されるようになり、ドキュメンタリーという形でマスマーケットに供給されるようになっていったとも言えるのかもしれません。

アメリカでDVD発売された時(2008年?)に、ボクは本作を観ていたのですが・・・先日、日本公開になることを知るまで、この映画のことをすっかり忘れていました。本作の撮影が行われていたのと、ほぼ同じ時期(もしくは、直後?)、他に2作のドキュメンタリーの撮影も行われていて・・・ひとつは「シャネル」のオートクチュールメゾンの制作模様を追った「サイン・シャネル」で、もうひとつはコレクション発表の直前の様子を追うドキュメンタリーシリーズ「コレクション前夜」の中の「フェンディ」であります。どちらも、カール・ラガーフェルドのデザイン過程を映し出すという意味で、興味深いドキュメンタリーとなっていました。本作は、それら2作とは違い”カール・ラガーフェルド”のプライベートな人間像に迫ろうという試みをしているのですが・・・手持ちカメラでの撮影者であり、本編のインタビュアーでもあるロドルフ・マルコー二監督のドキュメンタリー作家としての才能のなさを露呈してしまった”トホホ”な作品となってしまいました。日本で5年近く”お蔵入り”していたのにはワケがあるのです。

まず、ハンドカメラでの撮影が酷い・・・”盗撮”しているようなカメラアングルが多く、何を映そうとしているのかが分からない事も、しばしばあります。また、画素が荒いイメージ画像がたびたび挿入されるのですが・・・映画の尺を長くするためのような時間稼ぎ(?)をしているかのようにさえ感じられます。しかし本作で最も問題なのは・・・一を質問すれば十を答えるほど饒舌で頭の回転の早いカール・ラガーフェルドを前にして、表面的な質問の数々を投げかけるロドルフ・マルコー二の人間的な未熟さです。薄っぺらい質問に対して、本編の中でも幾度となくカール・ラガーフェルドは苛立ちを隠せずにはいられません。特に、ホモセクシャリティーについての質問のたびに、言葉を濁すロドルフ・マルコー二には、不快感さえ覚えます。カール・ラガーフェルドの度胸の座った率直さ、彼なりに筋道の通った理屈・・・インタビュー部分は100%彼ののペースで、本作の”カール・ラガーフェルド”は、あくまでも”カール・ラガーフェルド”自身が公にオープンすることを認めている”カール・ラガーフェルド”でしかありません。

「ファッションを創る男~カール・ラガーフェルド~」は、ファッションデザイナーとしての”カール・ラガーフェルド”を考察しようという意図のドキュメンタリー映画ではありません。ファッションデザイナーとしての彼の仕事ぶりを知りたい人は「サイン・シャネル」または「コレクション前夜~フェンディ~」を観た方が、彼のデザインプロセスの舞台裏を知ることができます。我々のような一般人が容易く理解できる程度の表層的なインタビューでは、天才”カール・ラガーフェルド”の内面には近づくことは出来ないということなのです。


「ファッションを創る男~カール・ラガーフェルド~」
原題/Lagerfeld Confidential
2007年/フランス
監督 : ロドルフ・マルコー二
出演 : カール・ラガーフェルド
2013年11月16日より日本劇場公開


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2013/09/26

スティーヴン・ソーダーバーグ監督が信じた”愛”の物語・・・マイケル・ダグラスとマット・デーモンの怪演で蘇る”悪趣味エンターテイナー”の晩年~「恋するリベラーチェ/Behind the Candelabra」~




先日発表された第65回エミー賞の身ミニシリーズ・TV映画部門で「恋するリベラーチェ」は、作品賞、主演男優賞(マイケル・ダグラス)、監督賞(スティーヴン・ソーダーバーグ)を始め、キャスティング賞、編集賞、衣装賞、ヘアスタイル賞、特殊メイク賞、アートディレクション賞、サウンドミックス賞の計11部門で受賞しました。スティーヴン・ソダーバーグ監督の休業前の最後の作品(劇場作品としては「サイド・エフェクト」)となった本作は、アメリカではHBOのテレビ映画作品として放映されましたが、日本では劇場映画として公開されます。

リベラーチェの芸能活動はラスベガスでのショーが中心・・・ピアニストなのでヒット曲があるわけでもありません。アメリカ以外では知られていないものの、アメリカで絶大な知名度を誇ったのは、過剰装飾のキッチュな衣装で出演し、ウィットに富んだトークで、トークショーの常連であったからでしょう。悪趣味であることを自覚し、それを”売り”にする彼のスタイルは、1980年代前半には、決して”おしゃれ”としては受け取られていませんでした。(逆に今なら、半端ないぶっ飛びっぷりに楽しめてしまうかも?)また、頑に同性愛者であることを否定する姿勢も、ゲイコミュニティーからは好意的には受け取られていませんでした。その言動から、彼がゲイであることは多くの人に明らか・・・ゴシップ誌の同性愛報道や元ボーイフレンドとのトラブルでの裁判沙汰になっても、彼の熱狂的なファン(主に田舎のおばちゃん)は、「リベラーチェは絶対ゲイじゃない!」と信じていたのだから、ファンというのは常に信じたいことしか信じないもののようです。


「恋するリベラーチェ」は、1977年から1981年までリベラーチェの恋人だったスコット・ソーソンによる同名の回顧録(暴露本)「Behind the Candelabra」を原作にしており、ふたりの出会いから亡くなるまでのリベラーチェの晩年のはなしです。二人の性的関係がハッキリと描いており、リベラーチェがベットでは”受け”あったこと(誰もが、そうだろうとは思っていたけど!)や、性的不能気味だったリベラーチェがペニスにシリコンを注入していたことも、しっかりと描いています。二人が出会いが、スコット16歳、リベラーチェ58歳の時だったことを考えると・・・倫理観的に問題のある関係であったのですが、本作では未成年への性的行為であったという点には触れてはいません。

マイケル・ダグラスの声質が、元々リベラーチェに似ていることもあって、モノマネ演技としての完成度は高いです。マット・デーモンとの激しいセックスシーンをブヨブヨの老体を晒して演じる捨て身っぷり・・・また、ステージでのパフォーマンスシーンでは、(おそらく音は別に録音されているでしょうが)実際にピアノを弾いていたようでした。そして、ヘアメイク/特殊メイクの素晴らしさは、驚愕のひと言・・・豊作の冒頭シーンでは、シワシワの老け顔(特殊メイクなし)でマイケル・ダグラスは登場するのですが、フェイスリフトの整形手術とケミカルピール後の若返った顔は、パンパンでツルツルなのです。


御年42歳となるマット・デーモンは、16歳から25歳を演じているのですが・・・冒頭では、肌がピチピチ。1970年代後半にゲイの間で人気のあったブロンドボーイを見事に再現していました。リベラーチェに囲われ始めて徐々に太っていく体型、若いときのリベラーチェの顔に似せて整形手術で変化していく顔、麻薬で身を滅ぼしてボロボロになっていく様子など、見事な特殊メイクによって、鬼気迫る変貌をしていくのです。

本作には、マイケル・ダグラスとマット・デーモンの他に、有名俳優が出演しているのですが、特殊メイクが上手過ぎて誰なのか分からないほど・・・リベラーチェの母親を演じるのはデビー・レイノルズ、リベラーチェのマネージャーを演じるダン・アクロイドは、クレジットを見るまで気付きませんでした。リベラーチェとスコットの整形手術をする医者役にロブ・ロウが扮しているのですが・・・本人もフェイスリフトで顔が歪んでしまったという設定で、相変わらずの繊細な美形と相まって、なんとも異様な存在感がありました。


父親と息子のような関係でもありながら、性的関係もあるというのは・・・多くの人には理解し難いかもしれませんが、ゲイの世界では”ありがち”のこと。実際、ボク自身も19歳の頃に、20歳以上も年上でお金持ちの男性と付き合ったことがあります。自覚していたわけではありませんが、年上の男性に”父親”的なイメージは重ねていたところがあったかもしれません。当時(1980年代前半)、アジア系を好む白人ゲイというのは、裕福なおじさんが多かったのですのが・・・お金を出してもらって美容室や日本食レストランを始めるという日本人ゲイというのは、少なからずいたものだったのでした。リベラーチェとスコットほどの年齢差というのは極端なケースかもしれませんが・・・ゲイの関係に於いては、金銭のやり取りを含めた父親のような存在で恋人というのは、ひとつの恋愛関係のカタチではあるのです。

現在、AIDSは死に必ず直結するわけではありませんし、ゲイ”だけ”が発症する病気という認識でもありません・・・しかし、本作の舞台となった1980年代は違いました。リベラーチェが亡くなる直前のシーンは、特殊メイクかCGなのか分かりませんが・・・ガリガリに痩せ細り、灰色っぽい肌をしているマイケル・ダグラスの姿が、AIDSで亡くなった友人たちの最期に似ていて、ボクは非常に衝撃を受けました。「エイズで死んだ年老いたオネェなんて思われたくない」というのは、リベラーチェらしい言葉です。1985年にAIDSで亡くなる直前、ゲイをカミングアウトしたロック・ハドソンとは対照的・・・リベラーチェは自らゲイであることを死後でさえ公にすることはなかったのですから。


売名行為以外の何物でもない”キワモノ”の原作を、リベラーチェとスコット・ソーソンの”ラブストーリー”として描ききったことには、ボクは少々驚きました。リベラーチェから寵愛を受けた若者というのは、スコット以外にも大勢いたはず・・・本作でも、リベラーチェが次から次へと男を乗り換えていたことや、見知らぬ男との不特定多数の性行為を行なっていたことは描かれています。また、スコットもマイケル・ジャクソンとも肉体関係があったと語るなど、相変わらずの売名行為を続けています。「恋するリベラーチェ」は、リベラーチェも、スコット・ソーソンも、決して「本当はいい人だった」と描いているわけではありません。それでも、本作を見た観客が二人の間には”愛”があったと感じることができるのは、スティーヴン・ソーダーバーグ監督が「そうであった!」と信じているからに他ならないのです。




「恋するリベラーチェ」
原題/Behind the Candelabra
2013年/アメリカ
監督 : スティーヴン・ソーダーバーグ
出演 : マイケル・ダグラス、マット・デーモン、ダン・アクロイド、ロブ・ロウ、デビー・レイノルズ、スコット・バクラ

2013年11月1日より日本劇場公開


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2013/09/19

”ハイファッション”を信じる”業界オネェさん”が支える世界・・・1%の富裕層のための百貨店はアメリカンドリームのアイコン~「ニューヨーク・バーグドルフ 魔法のデパート/Scatter My Ashes to Bergdorf's」~




「昔は良かった」的な発言って、いかにも年配者の言い草で、あまり言いたくないんだけど・・・1980年代から90年代にリアルタイムで”ファッション”に関わったボクの世代の人たちの多くが、多かれ少なかれ感じていることだと思います。ただ・・・それは、ボクの前の世代(1960年代~70年代を経験した人たち)も感じていたことなのです。

近年、ハイエンドのファッションデザイナーや雑誌編集者に関するドキュメンタリー映画というのが続々と制作されています。その一方、ますます”ファストファッション”の売り上げはうなぎ上り・・・エンタメ情報として求められる(そして、あっという間に消化されてしまう)のは”ハイファッション”でありながら、その観客が実際に購入されているのは”ファストファッション”ということなのかもしれません。

「ニューヨーク・バーグドルフ 魔法のデパート」は、ニューヨークの唯一無二の存在である超高級デパート「バールドルフ・グッドマン」の魔法の扉を開く(?)ドキュメンタリー映画です。原題の「Scatter My Ashes to Bergdorf's」=「私の遺灰はバールドルフに蒔いて!」というのは「ニューヨーカー誌」に掲載されたカートゥーンから引用されたフレーズ・・・「葬られたいほどの素晴らしい場所」であるということなのです。


数々のセレブやデザイナー達によって「バールドルフ・グッドマン」の素晴らしさが語られ、裏を支えるパーソナルショッパーやディスプレイスタッフへのインタビューや取材によって構成されている本作は、ドキュメンタリー映画としては、正直”まとまり”に欠けている印象・・・残念ながら「バールドルフ・グッドマン」について全く知らない観客には、その”魔法”さえ伝わりにくいかもしれません。

ボクは、1985年にパーソンズデザイン大学のファッションデザイン科に入学したこともあって「バールドルフ・グッドマン」には、学生時代からよく足を運んでいました。当時は現在のウーメンズ館だけしかなく、確か・・・メンズは地下(現在はコスメ売り場)にあったような(?)記憶があります。

女性のハイファッションに興味のあったボクは、部屋を通路で繋げたような構造のクチュールサロンのあった2階の売り場を、週に何度も通っていたのです。セール時期にには、1着が数十万円もするイブニングドレスやカクテルスーツが、通路に無造作にローリングラックに掛けられるのですが、その風景は消費社会の皮肉さを見せつけているかのようで、圧巻ありました。ファションデザインを学ぶ学生にとって、実際にトップデザイナーの服を間近で見ることのできる絶好のチャンス・・・内側の始末まで服を裏返してボクは見ていたものですが、販売スタッフの”おばさま”方は、そんなデザイン学生にも大変寛容で、暖かい眼差しで、時には応援の声までもかけてくれたりもしました。「バールドルフ・グッドマン」は、ただ高級品を売る敷居の高い”だけ”の店ではなく、富裕層のためのハイファッション業界を支えていたのかもしれません。当時ニューヨークにあったヨージヤマモトの店では、服を触るだけで「コピーするのか?」と厭味を言われたりしたのとは”対照的”でした。

「チャリバリ/Charivari」「マーサ/Martha」「リンダ・ドレズナー/Linda Dressner」などのハイエンドのセレクトショップの撤退、「サクス・フィフスアベニュー/Saks Fifth Avenue」「ブルーミングデール/Bloomingdale's」が、”ハイファッション”の販売店としての存在感を失っていく中・・・たった1%の富裕層をターゲットとした「バーグドルフ・グッドマン」は、ラインのエクスクルーシブ(独占)によってデザイナーや顧客を囲い込むことによって、さらなる伝統と歴史を築き上げて、アメリカンドリームの”アイコン”にまでなったのです。


本作は、クリスマス商戦のウィンドウディスプレイの完成に向けて進んでいくことになります。ニューヨークのクリスマス商戦のディスプレイというのは、実はどこのデパートでもかなり力を入れており「バールドルフ・グッドマン」だけに限ったことではありません。インテリア/陶芸デザイナーのジョナサン・アドラーの彼氏としても知られるサイモン・ドーナン氏が手掛ける「バーニーズ」のショーウィンドウは、毎年斬新なディスプレイが話題になりますし・・・伝統的なクリスマスシーンを緻密かつ豪華に表現する「サクス・フィフス・アベニュー」のショーウィンドウは、多くの人が行列するほど、ニューヨークのクリスマスの風物詩となっています。本作のエンディングで披露される「バールドルフ・グッドマン」のショーウィンドウも、大変美しいものなのですが、クリエーションのプロセスをじっくり見せるというほどではなく・・・単にディスプレイ主任のデヴィット・ホーイ氏を追うだけに終わってしまっているのが残念でした。

「ニューヨーク・バーグドルフ 魔法のデパート」を観て気付かされたのは、スタッフが思いの外”高齢化”していること・・・そもそも顧客の年齢層が高いこともありますが、販売スタッフ、ディスプレイスタッフ、警備員まで専門職なので、優秀なスタッフは長く働き続けるということがあるのかもしれません。主要スタッフはボクよりひと回りほど上の世代(60代?)のようで、1980年代から”現役”としてファッション業界に関わっていた人たち・・・彼らの信じる”ハイファッション”の世界が、ボク自身が馴染み深い”ハイファッション”と一致するのは当然と言えば当然のことなのです。インタビューに答えているデザイナーやスタッフの男性(経営陣を除いて)は、俗にいう”業界オネェさん”の方々・・・裕福な女性のためのファッション/美容に関わるのは、ゲイ男性という図式はニューヨークでは永遠のようであります。


「ニューヨーク・バーグドルフ 魔法のデパート」
原題/Scatter My Ashes to Bergdorf's
監督 : マシュー・ミーレー
出演 : カール・ラガーフェルド、クリスチャン・ルブタン、マーク・ジェコブス、トム・フォード、トリ・バーチ、ジョルジオ・アルマーニ、マノロ・ブラニク、パトリシア・フィールド、ラウドミア・プッチ、シルビア・フェンディ、ドメニコ・ドルチェ、ステファノ・ガッバーナ、メアリー=ケイト&アシュレー・オルセン、ニコール・ニッチー、ヴェラ・ウォン、ダイアン・フォン・フォステンバーグ、ジョーン・リヴァース、キャンディス・バーゲン、マイケル・コース
2013年10月26日より日本劇場公開



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2013/08/27

ジョーン・クロフォードの過剰演技とウィリアム・キャッスルの悪趣味演出のコラボレーション・・・母と娘の確執がエグい”サイコ・ビッディ”(Psycho-biddy)の金字塔!?~「血だらけの惨劇/Strait-Jackest」~


ジョーン・クロフォードという女優にボクが興味を持ったのは、1981年にアメリカで公開された「愛と憎しみの伝説/Mommie Dearest」というフェイ・ダナウェイがジョーン・クロフォードを演じた映画でした。養女によって暴露された継母の私生活は、彼女の50年近い女優としての栄光を打ち砕いてしまうほど致命的でありました。エイドリアンによる肩パッドの入った衣装と太い眉と真っ赤な口紅のメイクが印象的なハリウッドスター女優のひとりでだという程度の知識しかなかったボクのようなリアルタイムで彼女を知らないファンにとっては、ある種のカルト的なイメージを永遠に植えつけることとなったのです。

1962年に公開された「何がジェーンに起ったか?」の大ヒット以降、往年のベテラン女優が醜悪な老女役を演じる「サイコ・ビディ/Psycho-biddy」と呼ばれる一連のサイコホラー作品が作られるようになるのですが・・・「血だらけの惨劇」は、上映館の座席に電気ショックの装置を取り付けたり、ガイコツの人形を浮かばせたり、エンディングが怖くて観れなかったら入場料払い戻しなどなど、子供騙しのような”仕掛け”を売り物にしてヒット作を生んできたギミック映画の帝王と呼ばれていたウィリアム・キャッスル監督が、満を持してA級スターであるジョーン・クロフォードを主演に迎えて製作した意欲作であります。ジョーン・クロフォードは「何がジェーンに起ったか?」のロバート・アルドリッチ監督による「ふるえて眠れ」への出演をベティ・デイヴィスと共にオファーされていたそうなのですが「もうベティとの共演は懲り懲り」と断り・・・「不意打ち」の出演オファーも「もう閉じ込められる役はもうやりたくない」と蹴ったそうです。結局「ふるえて眠れ」と「不意打ち」のどちらも、ジョーン.クロフォードの代わりにオリヴィア・デ・ハヴィランドがキャスティングされました。

ジョーン・クロフォードが、これらの「サイコ・ビッディ」への出演オファーを蹴ってまで、この「血だらけの惨劇」の出演を決めた理由として・・・B級映画監督のウィリアム・キャッスルが、ジョーン・クロフォードを「スター女優」として特別待遇してまで出演を懇願したということがあるのかもしれません。彼女専用の楽屋には、バーボンとキャビアを常に用意させ、専属のコスチューム、専属のアクセサリー、専属のヘアメイクは勿論のこと、カメラマン、脚本、演出、配役まで口を挟むことを許されていたそうです。実際、娘役は元々セクシーな若手女優が演じるはずだったのですが、ジョーン・クロフォードの意向で、過去に共演したことのある地味なダイアン・ベイカーに変更されています。また、医者を演じたミッチェル・コックスは、彼女が副社長をしていた”ペプシ・コーラ”の重役のひとりの素人さん・・・彼の要望に応えるために、彼女の口添えでキャスティングされました。さらに、彼女が撮影現場に到着する時には、すべての出演者と撮影スタッフがお迎えしなければならなかったり、すでに彼女の肌の張りを保つために、撮影セットは常に凍えるほど低い温度に設定されていたそうです。

常にヒッチコックを意識していたウィリアム・キャッスル監督は「サイコ」の原作者であったロバート・ブロックを脚本に起用します。それでも”ウィリアム・キャッスル”は”ウィリアム・キャッスル”・・・子供騙しの悪趣味な演出には変わりなく、ジョーン・クロフォードの熱の入った過剰な演技と相まって、本作は一連の「サイコ・ビッディ」作品の中でも、低俗さが際立つ”素晴らしい”怪作となっているのであります!ちなみに原題の「Strait-Jackest」というのは、手の自由がない「拘束服」のこと・・・今では、テロリストが人質の移送ぐらい(!?)でしか使われない非人道的な代物です。


今から20年前、ルーシー(ジョーン・クロフォード)は、浮気して寝入っていた年下の夫フランク(リー・メジャース)と浮気相手の元カノを「斧」で首を切り落として殺害してしまいます。その一部始終を、幼い娘のキャロルは目撃してしまっていたのです。状況的には明らかな”意図”をもった”殺人にか思えないんだけど・・・浮気現場を目撃して気が狂って殺人を犯したということになり、ルーシーは精神病院に収監されることになるのです。この事件を起こしたとき、映画の中での設定ではルーシーは「29歳」・・・それを60歳のジョーン・クロフォードが演じているんですから、かなり無理があります。ジョーン・クロフォードのトレードマークの髪型、太い眉、大きな唇に、派手なプリントのドレスとジャラジャラと付けたイカニモ安っぽいバングル・・・どう見ても”場末の女”にしか見えません。これって・・・ジョーン・クロフォード自身が女優としての全盛期(1930年代)に演じていた男を手玉に取って成り上がっていくという女性像の”パロディ”のようでさえあります。

キャロル(ダイアン・ベイカー)はルーシーの兄夫婦(リーフ・エリクソン、ロチェル・ハドソン)引き取られて、田舎の農場で育てられました。地元の名士で金持ちであるフィールド家の息子マイケル(アンソニー・ヘイズ)と、結婚を前提に付き合う若い女性に成長しています。そして、20年間の精神病院での治療を終え、ルーシーは兄夫婦の農園に戻ってくることになっているのです。20年ぶりに再会する母と娘・・・ルーシーは白髪まじりで地味なダークグレーのアンサンブルに身を包む年相応(設定では49歳ぐらい)となっています。上品な初老の女性になったルーシーは、事件前と同じ女性とは思えないほど・・・ルーシーからは事件のトラウマからは完全に抜け出していない様子もうかがえます。彫刻家となったキャロルの工房で彫刻ナイフや、事件の際に身につけていたジャラジャラ音のなるバングルに、異様な反応をしたり、殺した旦那と元カノの生首が枕元に現れる(!)悪夢にもうなされいてしまっているのですから・・・。

キャロルが、精神病院から帰宅した日のうちに、婚約者であるマイケルを紹介しようとするというのも、いくらなんでも配慮に欠けていると思うのですが・・・案の定、ルーシーはマイケルとは会わずに姿を消してしまいます。洒落っ気もないからマイケルに会いたくないんだろうと勝手に察したキャロルは、翌日、ルーシーを街に連れ出して、ワードローブ一式と、美容室でカツラを奨めるのですが・・・コーディネートしたスタイルが、殺人事件を起こした夜と殆ど同じというのが、まるで忘れたい過去を蒸し返してしまいそうで・・・かなりヤバいです。20年前と殆ど変わらない姿となったルーシーは、精神病院で過ごした20年間の時間を埋め合わせてしまったかのように、いきなり場末のズベ公に豹変・・・娘の婚約者のマイケルに色仕掛けで迫るという、痛々しさを見せつけます。

ルーシーを20年間診ていた精神科の医者(ミッチェル・コックス)が、いきなり農場を訪ねてきます。平常心を装うとするルーシーですが、明らかに不可解な行動や発言を繰り返し・・・「毎日、何をして過ごしているの?」と尋ねられて「あみもの」とポツリと返答するジョーン・クロフォードの演技は、上手い下手を超越した「怪演」であります。医者はルーシーが再び狂い始めているのではないかと疑問を持ち始めます。そこでキャロルと話をしようと、農園の納屋に入るのですが・・・いきなり斧を持った”何者”かに首を切られて殺されてしまうのです!その後、医者が乗ってきた車に気付いた農園の手伝いのレオ(ジョージ・ケネディ)も、首を切られてあっさりと殺されてしまいます。

そんな惨劇が起こっているにも関わらず、キャロル、ルーシー、兄夫婦の4人は、婚約者マイケルの実家に訪問する予定となっています。ルーシーは、まだ精神的に不安定だからと躊躇するのですが・・・キャロルが強引な求めに応じてルーシーは渋々同行させられてしまうのです。地味な年相応なダークグレーのアンサンブルの方が、娘の婚約者の両親に会うのには適していると思うのですが・・・ルーシーは派手なプリントのドレス、昔の髪型のカツラにジャラジャラとしたバングルという”場末の女”風のファッションに再び身を包んでいきます。実は婚約というのは本人同士の話だけで・・・マイケルの両親(特に母親)はキャロルとの結婚を許してはいません。勿論、理由は母親であるルーシーの過去・・・持病のために静養所に20年間いたという話を胡散臭く感じていたのです。

過去を問いただされてルーシーは真実を自ら暴露してしまいます・・・本当は20年間精神病院にたことを。そして、母親として娘キャロルの幸せを阻むものは許さないと震える声で訴えるのです!この場面でのジョーン・クロフォードの演技は大袈裟ではありますが、精神的に崩壊する瀬戸際であっても、娘の幸せを望む母親の愛情を強く心に訴えてくる名(迷?)演技なのであります。取り乱して婚約者の実家を飛び出すルーシー。その夜はお開きとなり、キャロルや兄夫婦は帰路につくのですが、ルーシーは行方知らずのまま・・・マイケルの実家の寝室では彼の父親が、寝室のクローゼットの中で首を斧で切られて殺害されてしまいます。

ここから本作のネタバレを含みます。


マイケルの母親までをも殺そうとする殺人者は、キャロルだったのでした。謝罪のために再びマイケルの実家を訪れたルーシーによって、ルーシーと同じドレスとカツラを付けた上に、顔にはルーシーの顔をかたどったゴム製のお面を付けていたのです。彫刻家であるキャロルは、母親の頭像からお面の型を取っていました。自分とマイケルの結婚を阻む者を消すために、夫殺しという過去を持った母親が再び狂ったことにして、殺人罪の罪をかぶせようとしていたのです。母親を憎みながらも、愛情に飢えていたキャロルは、遂に発狂してしまいます。歴史は繰り返す・・・とでも言うのでしょうか?

実はこの場面・・・「愛してる!」「憎んでる!」と繰り返しながら、母親のお面を握る潰すという熱演で終わるはずだったのですが、ジョーン・クロフォードが自分以外の人物のクライマックスを許すわけはありません。彼女は撮影現場で勝手に、玄関の外で柱にしがみつきながら泣き崩れる・・・という劇的なシーンを付け加えさせたのです。最後は、兄に事件の経緯を説明し、キャロルが使ったトリックを解説するほど、正気を取り戻したルーシーの姿があります。夫殺しの母親ルーシーとと同じように精神病院に収監されることになったキャロル・・・ただ、ルーシーにしてもキャロルにしても、自分の感情や利益のために犯した殺人なんだから、本来は罪に問われるべきなのですが、「狂気の沙汰」で片付けてしまうところは、精神の病気が認識され始めた1960年代という時代だったのかもしれません。

「娘は今、私を必要としている」とルーシーが語って、キャロルを見守ることを仄めかして終わる本作・・・母親の愛情の深さを印象づけるという”お仕着せがましさ”というのは、その後、私生活での鬼のような母親っぷりを暴露されたことを考えると、正直、複雑な気持ちにさせられます。「何がジェーンに起ったか?」の成功によって、気の狂った大袈裟な演技で”あれば、あるほど”観客にウケるという流行が生んでしまった「サイコ・ビッディ」の金字塔とも言える「血だらけの惨劇」。ジョーン・クロフォードの”スター女優”としての強かさを見せつけられ・・・ボクが心から愛して止まない作品のひとつなのです。


「血だらけの惨劇」
原題/Strait-Jackest
1964年/アメリカ
監督 : ウィリアム・キャッスル
脚本 : ロバート・ブロック
出演 : ジョーン・クロフォード、ダイアン・ベイカー、リーフ・エリクソン、ロチェル・ハドソン、アンソニー・ヘイズ、ハワード・セント・ジョン、イーディス・アットウォーター、ミッチェル・コックス、ジョージ・ケネディ、リー・メジャース
1964年日本劇場公開


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2013/07/27

過激なフェミニスト、カトリーヌ・ブレイヤ(Catherine Breillat)監督の”トラウマ”三昧・・・エッチに興味あり過ぎの”ロリータ”に萎えるの!~「ヴァージン・スピリト/36 Filette」「本当に若い娘/Une Vraie Jeune Fille」「処女/À ma sœur!」~

ボクが、初めて観たカトリーヌ・ブレイヤ監督の作品は「ヴァージン・スピリト」でした。ニューヨークのリンカーンセンターの小さな映画館だったと記憶しています。すでに上映が始まってからかなり数ヶ月が経っていたのですが・・・『フレンチ版「ロリータ」』という宣伝により、外国語映画としては異例のロングヒットをしていました。特に予備知識もなく観たのですが・・・「処女喪失のどうでもいい話」という印象で、正直、期待外れだったという記憶があります。しかし、その後「処女」を観たときに「うん???このイヤ~な感じ・・・記憶があるぞ」と「ヴァージン・スピリト」のことを思い出したのです。これぞ、映画監督の作家性なのでしょう。カトリーヌ・ブレイヤ監督の作品は、ボクにとって本気でイヤ~なトラウマを呼び起こすのであります。

各作品のエンディングを含むネタバレあります。


「ヴァージン・スピリト」は、家族と避暑地で過ごしている処女喪失願望のある14歳の少女リリ(デルフィーヌ・ザントゥ)が、中年男モリース(エチエンヌ・シコ)と出会い、彼を追いかけ回すという話なのですが・・・「少女らしさとか」いうロリコンが喜ぶような作品ではなく、苦虫をかみつぶすようなイヤ~な作品なのです。「ロリータ」とは逆に少女が中年男を追いかけるわけですが、中年男が少女を子供扱いするのは当然と言えば当然のこと・・・これも、この年代の少女と女の狭間の思春期の”好奇心”と”不可解な行動”ということなのかもしれませんが、よりにもよって”感は否めません。さらに、リリを演じている女優さんが14歳のわりには(実際に役柄と同じ14歳だったらしい)妙にムチムチのおばさん体型で、ずっと仏頂面(まぁ、これは役柄なんだけど)で14歳らしい「可愛らしさ」とはほど遠い「不潔さ」を感じさせて・・・いろんな意味で、萎えさせられてしまうのです。

追い回されているうちに中年男もスケベ心を誘われて(?)少女と女友達の寝室で「ベットイン」となるのですが・・・実際に行為に及ぶと勃つべきモノが勃たちません。少女は必死に中年男のモノをフェラチオするのですが、結局モノは勃たないという、なんとも男にとって気まずい展開・・・「私のせいじゃないよね?」と懇願する少女から、中年男は逃げるように寝室を出てしまいます。残された少女はひとりで号泣してしまうのです。その上、中年男のエロい女友達からさえも罵倒されて、部屋を追い出されるという始末なのだから、少女にとっては悲痛な限りであります。しかし、こうなったのも自業自得としか言えない少女に対して、観る者の同情心さえ感じさせないドライな描き方に、カトリーヌ・ブレイヤ監督の突き抜けた信念を感じさせることも確かなのです。

中年男と処女喪失することができなかった少女は、以前から彼女に気のある近所のイケてない少年を誘って、あっさりと処女喪失を達成します。初めての男性になったと知った少年が「ボクを愛しているの?」と尋ねると、鼻で笑ってバカにする少女・・・ただ、処女を失ったことには満足なようで、少女の満面の笑みで映画は終わります。

どれほど、したたかに強がってみても、結局は自分の中での空回りという思春期の”惨め”極まりない状況を冷たく描いているだけでなく、中年男の性的不能、中年男の女友達のおばさんっぷり、奇しくも初体験の相手となる少女と同世代の少年の浅はかさなど・・・描かれている登場人物の誰も良く描いていないという”悪意”に満ちた作品として、トラウマになりそうな魅力に惹かれている自分がいたりします。


「ヴァージン・スピリト」を遡ること12年前の1976年(撮影は1975年?)・・・カトリーヌ・ブレイヤ監督のデビュー作「本当に若い娘」は製作されていたのですが、本国フランスでも初公開されたのは製作から23年後でありました。「本当に若い娘」の製作前後、美少女写真家で知られるデヴィット・ハミルトン監督の「ビリティス」の脚本に、カトリーヌ・ブレイヤ監督は関わっています。もしかすると、当時のプロデューサーは「ヴィリティス」のような世界観を期待していたのかもしれません。しかし本作の本質は「性器モロ出しのエグい表現」・・・それを受け入れられるようになるのに、23年という年月が必要だったと言えるのかもしれません。

「本当に若い娘」も、また処女喪失にまつわる話です。というか・・・本作だけでなく、「ヴィリティス」も「ヴァージン・スピリト」も「処女」も、すべて少女の処女喪失の物語(それも夏休みの避暑地や実家!)なのであります。同じテーマを同じような少女で描き続ける・・・これは、ある意味、主人公の少女たちは実は同じひとりの少女=カトリーヌ・ブレイヤ監督自身ではないかと思えてしまうほどです。

舞台となるのは1963年(これはカトリーヌ・ブレイヤ監督が、ちょうど14~5歳のとき!)・・・14歳の少女アリス(シャーロッテ・アレクサンドラ)は、夏休みなると寄宿学校からランド地方に暮らす両親の元に里帰りします。帰宅した夜には、何故かベットで寝ている時に嘔吐してしまったり(まるでエクソシストみたいに!)と、精神的には不安定のようなのですが・・・実は、このアリスは、とんでもない少女なのであります。食卓でわざとスプーンを落としたと思ったら、テーブルの下でスプーンを自分の性器に入れたリ出したりして遊び始めるのです!また、幼い頃と変わらずにアリスを可愛がる父親に寄り添いながら、父親のズボンからポロリと出たペニスを想像したりしています。とにかく、なんだかんだで自分の性器をいじくってばかりいる少女で、何故か下着を足首まで脱いで歩いてみたりと「本当に若い娘」というよりも「本当にバカな娘」としか思えません。

ランド地方は森林地帯で、父親は小さな製材会社を経営しているのですが、その製材工場でアリスはジム(ハイラム・ケラー)という青年に一目惚れするのです。しかし、まだ幼い過ぎるから(もちろん処女だから!)とか、付き合っている恋人がいるからなどの理由で、ジムに無視され続けてしまいます。そこで・・・アリスの「妄想」とも「現実」ともハッキリしない性的なイメージが交錯していきます。ノーパンで自転車のサドルで性器をこすって誘ってみたり、ジムの通る道の真ん中で下着を脱いで両足を広げて性器を晒してみたり、お尻にニワトリの羽を突っ込んでニワトリの真似をして誘惑してみたり・・・仕舞いには、真っ裸で有刺鉄線で大の字に縛られているアリスの性器に、ジムがミミズを入れて責めるという、トンチンカンな妄想まで描かれるのです。少女っぽい感受性でありながら、意識は女性的な生理と自身の肉体へ向かっている・・・カトリーヌ・ブレイヤ監督の作品に共通するナルシシズムを感じさせる独特の女性像です。

自分に振り向かなかったジムが、いざ体を求めてくると「ピルがないと妊娠する」と言い訳して、エッチを拒むアリス・・・妄想するほど彼の肉体を求めているにもかかわらず、実際に行動となると躊躇してしまうのは「まだまだ少女だから弱気」なのでしょうか?それとも「すでにセックスによって男をコントロールする術を知っている女」なのでしょうか?ただ、エッチを”おあずけ”状態にしておいて、ジムに自分の寝室に来るように誘ったことが仇なります。父親が畑に仕掛けていた罠のライフルによって、ジムはあっさりと命を落とすことになるのです。勿論、恋人がいながら、アリスの誘いにのってしまったジムに過失がないわけではありませんが・・・アリスがジムを破滅に導いたと言えるのかもしれません。ジムが死んだことを知ったアリスの睨めつけるような表情のクロースアップで映画は終わります。

「本当に若い娘」は、極端に過激な性描写であることは確かです。日本では完全無修正版を観ることができないので、本作のトラウマ的なエグさを伝えることは難しいのですが・・・少女の性器の生々しい過ぎる”ドアップ”は、エロティズム的な興味を削ぐような即物的な扱いになっています。自らを性的存在として陶酔しながらも、男性の性的興味を拒絶するような・・・ロリコンさえも萎えさせる”悪意”を感じさせます。デビュー作である本作は、その後のカトリーヌ・ブレイヤ監督のすべての作品を予感させる一作なのです。


カトリーヌ・ブレイヤ監督の処女喪失モノ(?)として「処女」は、集大成的な作品であるかもしれません。本作で描かれるのは、避暑地に家族と来ている15歳の美人の姉エレナ(ロキサーヌ・メスキダ)と、13歳の太っている妹アナスイ(アナイス・ルブー)という姉妹の処女喪失にまつわる話なのです。エレナは本当に愛し合う相手でなければエッチは最後まで(挿入)はできないという・・・ありがちな”男と女の幻想”を抱いている少女。しかし、妹のアナスイは、一般的な幻想には惑わされていません。処女を失う相手なんて誰でも良いと、なんともドライ・・・姉の行動を観察することで、男女についての洞察力だけが妙に研ぎすまされてしまっているのです。エレナが男に関心持たれることを何よりも優先するように、アナスイは食欲を満足させることを優先しているという似ても似つかない姉妹なのですが・・・これは、世の中のある女性の2つの代表的で対照的なパターンかもしれません。

カフェで声をかけてきたお金持ちのイタリア青年フェルナンド(リベロ・デ・リエンゾ)に即座に心を奪われてしまうエレナ・・・アナスイの存在を無視するかのように、姉妹でシェアする寝室に、フェルナンドを連れ込んだりします。ただ、ベットでいちゃいちゃしても、挿入までは許さないというのがエレナの信念・・・そんな処女信仰ほど無意味な価値観なのに。とにかく挿入までしたいフェルナンドは、あらゆる甘い言葉で誘い、結局、エレナのアヌスを犯すのです。そんな傷ついたエレナをしっかりとフォローするのですから、アナスイは結構姉思いではあるのです。もしかする・・・アナスイは「デブ」で「ブス」という殻をかぶって、食欲だけを満足させながら現実逃避しながら、姉を身代わりにして現実を体験をしているかのようにも思えてしまいます。しかし、アナスイもやっぱり”少女”・・・プールの手すりにキスしながら妄想をつぶいやく姿は、ドライで冷静だけでないところに、ホッとさせられました。

イタリア青年は、母親の高価な指輪をエレナに渡して、婚約の真似事をするのですが・・・勿論、あっさり彼の母親に指輪がなくなっていることがバレてしまいます。彼の母親がエレナの母親のところへ怒鳴り込み・・・二人の関係はあっさり解消されてしまうのです。もしかすると、エッチをやるだけやったフェルナンドにとって、体よくエレナと別れるために仕込んだのではないかとも思えてしまいます。しっかり姉を見張っていなかったからと平手打ちを母親から食らうのは、何故か何も悪くないアナスイの方・・・エレナとアナスイは母親の運転で急遽、避暑地を去ることになるのです。

大型トラックのあいだをぬうように、急いで運転する母親は、いつ事故を起こしても不思議ではありません。しかし、予想だにしなかった悲劇は、「もう運転するのは無理」という母親が停車した休憩所で起こります。いきなり暴漢に襲われて、あっさりと母親とエレナは殺されてしまいます。そして、暴漢はアナスイを車から引きずり出して、駐車場脇の木立で犯すのです。アナスイが望んでいたとおり(?)・・・通りすがりの男(それも母親と姉を殺したばかりの殺人者に!)に処女を奪われてしまうとは・・・。犯されながらも、ゆっくりと手を男の肩に手をまわすアナスイ・・・とんでもなく悲惨な現実をリアルに受け入れていく姿に、ボクは”健気さ”を感じてしまい感動さえ覚えたのです。

日本での公開時には、美人の姉を演じたロキサーヌ・メスキダが主人公のように宣伝されていたようですが(映画の宣伝ポスターも彼女がメイン)・・・英語タイトルに「Fat Girl」とあるように、本作の主人公は太った妹のアナイス・ルブーであります。事件の翌朝、救出されたアナスイは、警官たちに「私、犯されてなんかないわよ。信じないなら信じなくて良いけど・・・」と投げ台詞を放って、映画は終わります。状況からして、どの警官にも彼女が犯されたことは明らか・・・しかし、アナスイは自分が悲惨な行為を受けた”被害者”に成り下がることよりも、起こった現実を自分自身で受け入れることを選んでいるのです。

アナスイは、カトリーヌ・ブレイヤ監督の、最も近い分身であることは確かでしょう・・・「本当に若い娘」「ヴァージン・スピリト」で、繰り返し描かれてきた少女たちというのは、実は崇高な精神性をもった存在であったことを「処女」によって、ボクは改めて気付かされたのです。

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カトリーヌ・ブレイヤ監督(Catherine Breillat)の主なフィルモグラフィー


1976「本当に若い娘」(Une Vraie Jeune Fille
1979「NIght After Night」(Tapage nocturne
1988「ヴァージン・スピリト」(36 Fillette
1991「Dirty Like an Angel」(Sale comme un angel
1996「堕ちてゆく女」(Perfait amour!
1999「ロマンス X」(Romance X
2001「処女」(À ma sœur!
2001「Brief Crossing」(Brève traversée
2002「セックス・イズ・コメディ」(Sex Is Comedy
2004「Four NIghts ~4夜~」(Anatomie de l'enfer
2007「最後の愛人」(Une vieille maîtresse
2009「青髭」(Barbe bleue
2010「禁断メルヘン 眠れる森の美女」(La belle endormie
2013「Abuse of Weakness」(Abus de taiblesse)

「ヴァージン・スピリト」
原題/36 Filette
1988年/フランス
監督・脚本 : カトリーヌ・ブレイヤ
出演    : デルフィーヌ・ザントゥ、エチエンヌ・シコ、ジャン=ピエール・レオ、オリビエ・パニエール
1989年日本劇場公開

「本当に若い娘」
原題/Une Vraie Jeune Fille
1976年/フランス
監督・脚本 : カトリーヌ・ブレイヤ
出演    : シャーロッテ・アレクサンドラ、ハイラム・ケラー、ブルーノ・バルプリタ、リタ・メイデン
2001年日本劇場公開

「処女」
原題/À ma sœur!
2001年/フランス
監督・脚本 : カトリーヌ・ブレイヤ
出演    : アナイス・ルブー、ロキサーヌ・メスキダ、リベロ・デ・リエンゾ、アルシネ・カーンジャン
2003年日本劇場公開



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