1970年代に少年期を過ごしたというと・・・”ガキ大将”や”わんぱく小僧”、または”不良”や”ツッパリ”など「昭和」の懐かしいカルチャーを経験して育ったと思われてしまうかもしれませんが、郊外の新興住宅地で育ったボクにとって、それらはドラマや本だけでみた世界でありました。
良くも悪くも、都内から庭付き一軒家を求めて引っ越してきた似たような経済状況の家庭が集まっているせいか、隣近所の子供同士よりも、同じクラスの同級生だけで遊んでいたのです。中学になっても地域性に欠けているから、イカニモ不良というようなガラの悪い生徒は極少数・・・殆どが高校受験を目指して淡々と中学生活を送っていました。そんなことあり、ボクにとって”ガキ大将”的存在や”不良”というのは、50近くになっても永遠のアコガレだったりするのです。
サウスロンドンの低所得者用公共団地を舞台に、悪ガキたちが正体不明のエイリアンと壮絶な戦いを繰り広げる「アタック・ザ・ブロック」・・・悪ガキグループの「モーゼス君」の凛々しさっぷり”不良”アコガレのあるボクはすっかり魅せられてしまいました。
モーゼス(ジョン・ボヤーガ)をリーダーとする5人の悪ガキグループが、看護師見習いのサム(ジョディ・ウィッテカー)を強盗しようとした時、突然、ひとつの隕石が落下してきます。その中には生き物(猿みたいな)がいて、いきなり襲ってきます。モーゼスは勇敢に反撃して、その生き物を殺ししまいます。そして地域のギャング(ニック・フロスト)らへ手土産として、その死体を持っていくことにするのです。ところが、その後、次から次に隕石が落ちてきて、もっと凶暴なエイリアンが団地を襲ってくることになってしまいます!
ハリウッド映画とかでこういう子供のグループを描く場合・・・主人公の白人の男の子の他に、スネ夫みたいなズルそうな出っ歯の子、人の良さそうな太った子、ちょっと男前で影のある子など、仲の良い友達同士とは思えないほど、いろんなバリエーションを集めました・・・というステレオタイプのことが多っかたりします。本作では、いわゆる”子役”を集めたのではなく、オーディションで選んだ素人の男の子たちによって演じられているために、”今どきの悪ガキ”としてのスタイルのリアリティだけでなく、彼らの友情というのも信じられるのです。
強盗をするような悪ガキだけだけど、エイリアンと戦う武器は、水鉄砲、花火、バット、マウンテンバイクなど身近なモノばかり・・・警察官や敵のギャングが、あっさりとエイリアン達に惨殺されていくなか、モーゼスはひとりエイリアンに立ち向かうことを決意するのです!
ここからネタバレ含みます。
何故なら、彼が最初に殺してしまった小さなエイリアンは”メス”・・・それを殺してしまったモーゼスを含め、その体液と接触してしまった少年たちに、交尾(?)の”マーキング”が施されてしまったようなのです。そして、その後にやってきた凶暴な”オス”エイリアンたちは、そのメスの”マーキング”に引き寄せられて、彼らを襲ってきたようなのであります。
”マーキング”をされたことによってエイリアンに襲われるとは・・・大人の男へのイニシエーション的なメタファーを感じてしまいます。実際、映画冒頭で強盗されそうになった”大人の女”であるサムとは、お互いを認め合う同等の立場になるほど、モーゼスはこの映画のなかで「男」として「ヒーロー」として成長を遂げるのですから。
ボク自身の人生を振り返ると・・・モーゼスのように大人へのイニシエーションを受けることなしに、生きてきてしまったような気がします。ストレートの男性だったら・・・結婚したり、子供が生まれたり、家を買ってローンを支払ったりと、自分”以外”のために生きることを強いられるわけです。でも、恋愛関係に縛られることを嫌い、好き勝手自由に生きてきてしまった自分自身を思うと・・・人として何かしら欠けているような不安にも襲われます。「いつまでも少年のような・・・」と言えば耳障りは良いけれど、単に大人になりきれていないということ。もう一度、少年時代に戻って”不良”の自分というのをやり直してみたい・・・なんて思ってしまうのであります。
「アタック・ザ・ブロック」
原題/Attack the Block
2011年/イギリス
監督&脚本 : ジョー・コーニッシュ
出演 : ジョン・ボヤーガ、ジョディ・ウィッテカー、アレックス・イスマイル、フランツ・ドラメー、リーオン・ジョーンズ、サイモン・ハワード、ルーク・トレッダウェイ、ジャメイン・ハンター、ニック・フロスト
2012年6月23日日本公開